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作成:森岡正博
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論文
『現代生命哲学研究』第2号 (2013年3月):102-113
道徳性の生物学的エンハンスメントはなぜ受け容れがたいのか?
サヴァレスキュを批判する
森岡正博
第1章 道徳性の生物学的エンハンスメントとは何か?
ジュリアン・サヴァレスキュと彼の同僚たちは、最近、道徳性の生物学的エンハンスメントmoral bioenhancementのテクノロジーを開発する必要性を強く主張している。またピーター・シンガーとアガタ・せーガンも『ニューヨークタイムズ』で「道徳薬morality pill」について議論をしている[1]。ピアソンとサヴァレスキュによれば、道徳性の生物学的エンハンスメントとは、「教育のような伝統的な手法だけによるのではなく、むしろ遺伝子的あるいは他の生物学的な手法によってなされる道徳的エンハンスメント」のことである[2]。将来的には、薬理学的な手法に加えて、その他の非薬理学的な手法、たとえば、経頭蓋磁気刺激法、脳深部刺激療法、遺伝子操作、標的光刺激などによって人間の道徳的モチベーションや行動に影響を与えることができるようになるかもしれない、とサヴァレスキュは主張する[3]。
道徳性の生物学的エンハンスメントについてのピアソンとサヴァレスキュの議論は、2008年に出版された論文「認知能力のエンハンスメントcognitive enhancementの危機と人類の道徳的性質を増強すべき危急の責務」のなかで雄弁になされている。彼らによれば、我々はいまや認知能力のエンハンスメントの時代を生きており、「科学知識の拡大と認知能力の拡大によって、ますます多くの人々の手に「大量破壊兵器weapons of mass destruction」あるいはそれらを配備する能力が行き渡るようになるだろう」[4]とされる。これらの兵器を手にすれば、たとえ小さなテロリストグループであっても全世界を破滅させることができるようになるだろうから、「このリスクを除去するためにも、認知能力のエンハンスメントは道徳性のエンハンスメントを伴わなくてはならず、しかもそれは我々すべてに適用されなければならない。というのも、そのような道徳的エンハンスメントによってこそ悪意は除去できるだろうからである」[5]。彼らはさらに主張する。「もし安全な道徳性のエンハンスメントがいったん開発されれば、それは教育や水道水中のフッ素のように義務化されねばならないという強い理由がある。というのも、道徳性のエンハンスメントを受けるべき人間たちというのは、もっともそれを受けたくない人々であるだろうからである。すなわち、安全で効果的な道徳的エンハンスメントは義務なのである。」[6]
第2章 道徳性の生物学的エンハンスメントと社会改善
ピアソンとサヴァレスキュは、二種類の異なった道徳性の生物学的エンハンスメントについて語っている。すなわち、犯罪者などの個人に適用される道徳性の生物学的エンハンスメントと、ある集団あるいはある地域の全住民に適用される道徳性の生物学的エンハンスメントである。前者の例としては小児性愛犯罪者に対するホルモン治療があり、後者の例としては、テロリストたちが大量破壊兵器を実際に使うことを阻止するのを目的として、ある地域一帯の水道水に利他心増強薬を混ぜ込むことが考えられる。
前者の小児性愛犯罪者や他の犯罪者たちへの薬物治療はすでにいくつかの国で開始されており、将来の犯罪を予防するには効果的かもしれない。しかしながら、このようなひとりの犯罪者個人をターゲットとする薬物治療は、ピアソンとサヴァレスキュが道徳性の生物学的エンハンスメントの名の下に追求しようとしている主要目標ではない。彼らが真に狙っているのは、ある一群の人々に道徳性の生物学的エンハンスメント薬を強制的に飲ませることによって、それらの人々の心を強制的に操作することなのである。彼らの目的は、全人類の道徳的生物学的強制エンハンスメントなのである。
ジョン・ハリスは論文「道徳性のエンハンスメントと自由」[7]のなかで、ピアソンとサヴァレスキュを徹底的に批判している。ハリスは言う。人種差別のような人類の不道徳は「教育や、社会的批判や、知識の獲得や、法制度などの形をとった道徳性のエンハンスメントによって、この百年のあいだに劇的に減少した」。したがって「人種差別は、望まない結果をもたらすかもしれない生物学的・遺伝子的手法に訴えることなく、単に上記の手法によって克服され得たのである」[8]。
私はハリスの議論に賛同する。ここで道徳性のエンハンスメントと社会改善の関係を示しているかもしれないひとつの興味深い実例をあげてみよう。図1は、1955年および2000年の日本社会で男性によってなされた人口当たりの殺人検挙数(百万人当たり)を示したものである[9]。ここには、この45年のあいだに劇的な殺人検挙数の減少があったこと、そしてそれは20代男性において顕著であることが示されている。これは日本社会の経済的繁栄と45年間の平和のおかげである。(日本は第二次世界大戦以降、55年間以上、どの国とも直接に戦争を行なっていない)。日本は殺人件数の減少を、社会的条件と環境の改善によって成し遂げたのである。このことは、道徳性の生物学的エンハンスメントよりも、社会改善のほうが簡単であるし、より効果的であることを示している。
もちろん、将来、認知能力を強力に増強する薬を取ることによって、人々はいまよりも10倍速く走る能力を手に入れるかもしれないし、暗闇でも目が見えて瞬時に10人以上の人間を手で殺す能力を手に入れるかもしれない。彼らは簡単に核汚染爆弾を盗んで市中で爆破するかもしれない。これこそ、ピアソンとサヴァレスキュが怖れていることのひとつであると考えられる。しかしながら、強制的な道徳性の生物学的エンハンスメントによっては、これらの出来事をけっして予防できないであろう。それを予防する唯一の道は、それらのやっかいな薬理学的物質へのアクセスをきびしく規制して、それらの薬を所持している人間を罰するような法律を作ることであろう。日本は、一般市民による銃携帯の禁止に成功している。(私はこれまで日本において短銃の実物をいまだ目にしたことがない)。したがって、認知能力をエンハンスメントする薬や人間にとって有害な先端テクノロジーを禁止することは可能なはずである。(しかしながら、人々が自衛のための銃携帯の権利を保有しているような国では、それは不可能かもしれない。このことは、一般市民の銃規制こそが、道徳性の生物学的エンハンスメントに賛成する倫理学者の第一課題であるべきだということを示している)。
第3章 すべての人々を対象とした強制的な道徳性の生物学的エンハンスメントは不可能である
ピアソンとサヴァレスキュは、道徳性の生物学的エンハンスメントは我々すべてに強制されなくてはならないと主張するが、これは不可能である。なぜなら、権力と金を持ったどん欲な人々は、考えられるあらゆる方法でそれらの道徳性の生物学的エンハンスメント薬を飲むことから逃げようとするからである。たとえ薬がある地域の水道水に混ぜられたとしても、純粋な水を他の地域から持ってくることは可能である。さらには、道徳性の生物学的エンハンスメントを一般市民に強制する立場にいる人々に対して、それを強制するのは難しい。したがって、道徳性の生物学的エンハンスメント政策は、二種類のグループの人々を生み出すことになるだろう。すなわち、道徳性の生物学的エンハンスメント薬を強制的に飲まされる人々と、その薬を飲むことから逃れることのできる人々である。そのとき、彼らのあいだには何が起きるであろうか?
救命ボートの倫理を想像してみよう。5人乗りの救命ボートに6人の人間が乗っている。そしてそのうちの一人は生物学的に道徳性を増強された人間である。サヴァレスキュは、自己犠牲と利他心が道徳性の二つの中心的な性質であると言い、これらの性質は生物学的な因子によって増強可能であると主張する。もしサヴァレスキュが正しいとすれば、この生物学的に道徳性を増強された人間は、救命ボートの中で、同乗者たちを救うために自己犠牲をするべきであると考え、海に飛び込むかもしれない。その結果として、他の5人のどん欲な人間たちが助かるのである。このエピソードが教えるところは、生物学的に道徳性を増強された人々と、そうでない人々がいたとすると、後者が前者を犠牲にして生き延びるかもしれない、ということである。はたしてこれが、道徳性の生物学的エンハンスメントに賛成する倫理学者の望んだものであろうか?
サヴァレスキュは、オキシトシンが道徳性を増強するのに役立つと示唆している。というのも、いくつかの研究によれば、オキシトシンは我々の社会性を広げる態度、たとえば信頼や共感や寛容を増大するからである[10]。これは本当に道徳性の生物学的エンハンスメントにとって良いニュースなのだろうか? 答えは否である。なぜなら、ある一群の人々にオキシトシンを与えた後に、我々は効果的に彼らを支配し、利用し、その果てには奴隷として搾取することができるかもしれないからである。これは、道徳性の生物学的エンハンスメント薬の強制をかいくぐることができる社会的資源や社会的地位を所持していない人々の精神をコントロールするために、その薬を使うことができるということを意味している。道徳性の生物学的エンハンスメントは、我々の社会を二つの層に分割するためのツールとして機能するのである。
サヴァレスキュらは、道徳性の生物学的エンハンスメントは例外なくすべての人々に強制されなければならないと主張するかもしれないが、上記の理由でそれは事実上不可能である。たとえ我々に道徳性の生物学的エンハンスメント薬を飲ませることが可能であったとしても、それでもやはり難しい問題が残る。ここで、ある社会の全員が水道水に混ぜられた薬によって道徳性を生物学的に増強されていたとしよう。道徳性を生物学的に増強されたこれらの人々は、他人からの攻撃や暴力や搾取に対して非常にひ弱な人間であると考えられる。もしこれらの薬に耐性のある人々が現われたとして、彼らは薬によってけっして道徳性を生物学的に増強されないとしたならば、彼らはいとも簡単に、道徳性を増強された人々を支配し搾取していくことだろう。ちょうど、過去において、野蛮な植民地主義者たちが共感的で寛大な先住民たちを奴隷にしていったように。
そもそも第一、道徳性を生物学的に増強された警察とか、道徳性を生物学的に増強された軍隊というものを、我々は想像することができるだろうか? もし彼らが道徳性の生物学的エンハンスメント薬の影響下にあったとしたら、彼らは彼らの任務を的確に遂行することはできないだろう。私は基本的に平和主義者であり、軍隊はできるかぎり縮小されるべきであると信じているが、しかしながら社会には合法的に任務を遂行する統制の取れた警察が必要であると私は考えているし、彼らは緊急事態においては、一般市民の生命と財産を守るために暴力と攻撃を行使してもかまわないと私は考えている。その精神が共感と寛大によって満たされている警察は、緊急事態において、その任務を完遂することはけっしてできないであろう。だとしたら、警察は増強の例外とされるべきなのか? しかしもし警察を例外としたならば、それは彼らが社会の支配者となって警察独裁国家を打ち立てる道を開くことになるだろう。
要約すれば、強制的な道徳性の生物学的エンハンスメントは、あるグループによる他のグループの搾取へと至るのである。ピアソンとサヴァレスキュは大量破壊兵器を所持した小さなテロリスト集団によるテロ攻撃の危険性を強調する[11]。しかしながら、現代世界においてもっとも危険なプレイヤーは、依然として、多種多様な兵器を装備して毎年莫大な人命を抹殺している軍隊なのではないかと私は考える。
第4章 道徳的感受性の増大は必ずしも良いとは言えない
サヴァレスキュは書いている。「我々が言いたいのは、単に次のことなのだ。たいがいの人々の場合、そして多くの状況において、これまで述べてきたひとつかせいぜいいくつかの要因を増強することによって、人間はそれらを増強しないときよりも、よりいっそう道徳的に行為するようになる、ということなのだ」[12]。だがこれは非常にナイーブな考え方である。ピアソンとサヴァレスキュは、利他心と正義・公正感覚への傾向性を増強することによって、道徳性の生物学的なエンハンスメントは達成可能であると主張する[13]。言い換えれば、道徳性の生物学的エンハンスメントのためには、人間の道徳的感受性を高めることが要求されるわけだが、しかし経験的に言って、道徳的感受性を高めることは必ずしも人々に幸福をもたらさない。我々が日々行なっている数多くの不道徳的で不公正な行為について考えてみよう。昨日パートナーと口論をしたときにきみがパートナーに何と言ったか思い出してみよう。豪華なパーティーできみが食べた豪勢な食事を思い出してみて、そのあとで、もしその食事にかかった金額を途上国で飢えに苦しんでいる人々に送ったなら何人のいのちが救われることになるかを考えてみよう。きみのアパートメントの外で寒さに震えていた見知らぬ人をきみがなぜ自分の部屋へと招いてやらなかったのかを考えてみよう。その人間は寒さに凍えて、その夜に凍死したかもしれないのに。もし、道徳性の生物学的エンハンスメント薬を飲まなかったなら、そのような考えは一瞬我々の心をよぎるだけで、すぐに何の痕跡も残さず去っていくことだろう。しかしながら、道徳性を生物学的に増強された人々は、そう簡単にはこれらの心をかき乱す考えから逃れられないだろう。彼らはこれらの道徳的ディレンマに毎日とらわれ、昼も夜も苦しめられるかもしれない。
道徳的に敏感な人々は、彼らが関与するすべての不道徳的・不公正な行為に悩まされる。彼らはけっして聖人君子ではない。彼らは自分たちが出会うすべての苦しむ人たちを救うことはできないし、彼らの近所に住んでいる苦しむ人たちすべてを訪問することもできない。彼らはそのことを己自身の罪だと考えるかもしれない。道徳性を生物学的に増強された人々は、このような心理的ストレスから逃げ出したいと思い、彼らのつらい記憶や考えを忘れ去るための薬を飲みたいと思うかもしれない。一般の人々が日々を生き延びていけるのは、彼らがそのような「小さな」ことをこれほど思い悩むような道徳的な感受性を持ち合わせていないからである。したがって、道徳的な感受性の高い人々によって構成された社会は一見すると良い社会のように思われるかもしれないが、実のところは、我々の予期に反して、そのような社会に住んでいる人々は必ずしも幸福ではないかもしれないのである。
第5章 道徳性の生物学的エンハンスメントが効果的であるケースとは
前章まで、私は道徳性の生物学的エンハンスメントの否定的な側面について考察してきた。しかし、よく考えてみると、道徳性の生物学的エンハンスメントが効果的である可能性のある例外的ないくつかのケースが存在する。
そのうちのひとつは、治療なしでは小さな子どもへの性衝動を抑えることができないと考えられる小児性愛者に対する、医学的治療であろう。すでに述べたように、これは道徳性の生物学的エンハンスメントの中心的テーマではない。しかしこれは道徳性の生物学的エンハンスメントが効果的で合理的でありそうな例外的ケースの一つであるように私は感じている。小さな子どもをターゲットとする性犯罪者への強制的な薬物治療については、多くの国々で議論が積み重ねられている。私はこのテーマに関してはまだ結論は持っていない。もし万一我々の社会が犯罪者にそのような治療を強制するのであれば、犯罪者たちには少なくとも治療を強制されるのかあるいは監視テクノロジーによって監視され続けるのかを選択する権利が与えられるべきである。
第2のケースは、ある人間が道徳性を生物学的に増強する薬を自発的に飲む選択をすることによって、みずからの中にあるところの、自己中心主義や、小児への性的関心や、レイプや、暴力や、他人を身体的・精神的に傷つけたい欲求などへ強く惹かれる性向を鎮めようとするケースである。みずからの不道徳的な行為によってひどく悩まされている人々はたくさんいるであろうし、彼らのなかには、内なる悪を薬理学的な手法によって治したいと強く思っている人々もたくさんいるだろう。そのような人々が病院を自発的に訪れたとき、医師が増強薬を処方するのは理にかなっているだろう。このケースでは、道徳性を生物学的に増強する薬は、患者の自発性にもとづいたニーズによって与えられることになる。SSRIsを用いて鬱の患者を治療することの倫理性については、これまで大量の議論がなされてきた。というのも、それらの薬は、飲んだ患者の人間性を劇的に変化させてしまうことがあるからである。自発的な道徳性の生物学的エンハンスメントについても、似たような議論が必要であろう。
第3のケースは、権力や強大な富を持った人々に対する強制的な道徳性の生物学的エンハンスメントであろう。すなわち、政治的・軍事的権力者たち、巨大企業の経営者たち、億万長者たちに、道徳性を生物学的に増強する薬を強制的に飲ませて、彼らの権力欲から生まれるリスクを緩和するのである。ピアソンとサヴァレスキュは道徳性の生物学的エンハンスメントは強制的であらねばならないと主張するが、すでに議論したように、すべての人々を対象とした強制的な道徳性の生物学的エンハンスメントは不可能であるし無意味である。だがもし彼らが、社会レベルでの強制的な道徳性の生物学的エンハンスメントというアイデアに固執するのならば、それの権力者たちへの適用というのは、彼らのアイデアを実現していくためのよい出発点となるかもしれない。一国の政治的経済的政策に影響を与えることのできるくらいの権力を持っている人々は、普通の人々よりもはるかに高い道徳的基準に従わなくてはならないということに、反対する人はいないであろう。もしそうだとすれば、一般市民の監視の下でそれらの権力者たちに強制的な道徳性の生物学的エンハンスメントを行なうのは、有望な解決法となるであろう。ピアソンとサヴァレスキュはおそらくこのアイデアには反対するにちがいない。しかし私はこのタイプのエンハンスメントのほうが、「テロリスト」や、「テロリスト」になるかもしれない人々や、広い地域に住むすべての人々に強制されるエンハンスメントよりも、少なくとも効果的であり有意義であると考える。もちろん、このような強制は、権力者たちの基本的人権を危機にさらすものであると言える。したがって、我々は、それが実際に行なわれることになる前に、このタイプのエンハンスメントの倫理性について慎重な議論をしておく必要がある。
第6章 道徳性の生物学的エンハンスメントはなぜ受け容れがたいのか?
一般市民が、強制的な道徳性の生物学的エンハンスメントについて聞いたときの、もっともふつうの反応は、即座の拒否である。彼らの感情的な当惑を私は理解できる。しかし彼らがそれを拒否する理由はいったい何なのだろうか?
道徳性のエンハンスメントは、人間が文明を立ち上げて以来もっとも大きな目標のひとつであった。たとえば、古代ギリシアや中国の哲学者たちは、どうすれば人々が道徳的になるのを促進できるかを発見しようとした。これは道徳性のエンハンスメントの古代バージョンであったと言える。彼らはこの目標は適切な教育と習慣づけによって達成可能であると考えた。ほとんどの人々はこれらの考え方に賛同するであろう。しかし薬理学的な手法によって達成される道徳性の生物学的エンハンスメントになると、彼らは、程度の差こそあれ、賛同を躊躇しがちになるのである。
一見すると、道徳性の生物学的エンハンスメントは、義務教育で行なわれている道徳教育に似ているように見える。というのも、いずれも外部からの道徳性の強制的な操作という面を共有しているからである。しかしながら、興味深いことに、道徳性の生物学的エンハンスメントに躊躇する人々の多くは、学校における小さな子どもへの道徳教育それ自体にはけっして反対しないであろう。ここで、義務教育における小さな子どもへの道徳教育の性質を簡単に見ておきたい。
まず子どもたちは道徳的な価値や徳目を教師たちから教えられる。もちろん教師たちは子どもたちに教室での対話やフリーディスカッションに取り組む機会を与えるのだが、しかし学校における道徳教育の基本的なトーンは、教師から生徒への一方向的な考えの伝達に他ならない。しかしながらこのプロセスを経ることによって、「我々の道徳的統合性の核心部分kernel of our moral integration」が子どもたちの精神の内部に形成されることが期待されるのである。そして子どもたちは徐々に自分で道徳的判断をすることができるようになり、彼らの内部に形成された彼ら自身の道徳的統合性の核心部分を参照しながら道徳的行為を行なうことができるようになる、と期待されるのである。言い換えれば、道徳教育は外部の道徳的価値を子どもたちの精神に強制的に注入するところから始まるのであるが、しかしそのプロセスが完了したあかつきには、道徳的統合性の核心部分が子どもたちの内部に形成され、彼らは彼ら自身の内部にある道徳規準に基づいて考えたり行動したりすることができるようになるのである。そして、このプロセスが教師と生徒のあいだの人間的・人格的な関係性を通して達成されるという点が重要である。これが、我々が道徳教育に対して持っている基本的なイメージのひとつである。
ここで、上で述べた「道徳的統合性」の概念が示唆するものについてさらに検討してみたい。理想的な道徳的統合性の概念は少なくとも3つの意味を持っている。第1は、道徳的な人間の精神の内部には道徳的統合性の核心部分が存在しており、それは他の人間の欲望や意図によって決定的な形で支配されることがないということである。さらに言えば、この核心部分が、その人間の発達プロセスにおいてその人間を取り巻く人々と、その人間とのあいだの相互的やりとりによって形成されるということが重要である。
第2は、道徳的判断と道徳的行為は外部からの影響によってではなく、行為者自身の支配下において行使されるということである。すなわち、道徳的判断と道徳的行為の初発点は、行為者の精神の内部に存在する道徳的統合性の核心部分以外のなにものでもないのであり、道徳性の起源は行為者の内部に存在するということを意味している。
第3は、人間の内部の道徳的統合性の核心部分には、歴史的な統合性historical integrityがなくてはならないということである。すなわち、人間の道徳的判断と道徳的行為の根本的な傾向性は、事前の兆候なく瞬時に変化することなどあり得ないのである。この傾向性の変容があるとすれば、それは主にその人間の人間性のゆっくりとした発達あるいは成熟によってなされるのであり、それはその人間が関与した人々との相互のやりとりの蓄積によってもたらされるはずなのである。そしてこの変容のプロセスは、一般市民の日々の経験を通して内側から理解可能な性質のものでなくてはならない。
これら3つの性質は、多くの一般市民が、人間の理想的な道徳的統合性について考えるときに頭に浮かんでくる、ひとまとまりの信念である。彼らは、これらの信念をもとにして、道徳性のエンハンスメントの妥当性について判断するのである。たとえば、道徳性の生物学的エンハンスメントは、上記の3つの要請をすべて裏切るがゆえに、真の道徳性のエンハンスメントとは考えられないことになる。すなわち、(1)人間の道徳的判断と道徳的行為は外部から導入された薬の影響下においてなされる、(2)道徳性の生物学的エンハンスメントの初発点は人間の内部にある道徳的統合性の核心部分ではない、(3)人間の変容は人間的発達あるいは成熟を通して起きるのではない、のであるから。
義務教育における道徳教育は基本的にこれら3つの要請を満たしているが、道徳性の生物学的エンハンスメントはそうではない。人々が、薬理学的な手法による道徳性の生物学的エンハンスメントを妥当な道徳性のエンハンスメントとして考えることを躊躇する主要な理由はここにある、と私は考えている。多くの人々はそのアプローチをある種の強制とみなすだろうし、受容可能な道徳性のエンハンスメントだとはみなさないと思われる。薬理学的に増強された人間は、薬理学的に「奴隷化された」人間であるとみなされ、「道徳性が増強された」人間だとはみなされないであろう。
しかしながら、我々の考察は、かならずしも人間の道徳的発達のために使用される薬理学的な手法のすべてを拒否するものではない。もし薬が制限的に使用されたとするならば、言い換えれば、もし薬が人間の自律的な発達や変容をサポートする形でのみ使用されたとするならば、これらの薬の使用はおそらく道徳的統合性と妥当な道徳性のエンハンスメントに関する人々の信念と衝突することはなくなるだろう。なぜなら、適切で補助的な使用appropriate supportive usesならば上記の3つの要請と衝突しないだろうからである。
それでは、人間の遺伝子の改変や、外部のシステムや人間たちによる人の脳の直接的なコントロールによってもたらされる道徳性の生物学的エンハンスメントについてはどうであろうか? これらのケースにおいても、上記の3つの要請は同じように適用されることになる。そしてもしすべてが満たされれば、多くの人々は、それらを受容可能な道徳性のエンハンスメントだとみなすことになるかもしれない。だがその可能性は、薬理学的なケースよりも低いと私は考えている[14]。
第7章 結論
私の暫定的な結論は以下である。道徳性の生物学的エンハンスメントは小児性愛犯罪者や他の犯罪者を治療するためには効果的であるかもしれないが、その他のケースにおいては効果的ではない。そしてもし我々が社会を改善したいのならば、社会的条件を改善するほうがより簡単であるし効果的である。多くの人々は、現在、道徳性の生物学的エンハンスメントの大部分に対して賛同することを躊躇している。そのわけは、それらのエンハンスメントが道徳的統合性の3つの要請を満たさないからである。
我々の人間性は、外部からの侵害や支配によって書き換えられてはならないような内なる基盤の上に構築されていなければならない、ということが広く信じられているような社会に、我々はいまだ生きているのである。そして私はこの信念は健康なものであって転覆される必要はないとあえて言いたい[15]。もし我々の社会が新しい形の社会へと変貌して、人間性に関する我々の信念が革命的に変化したとしたら、――たとえば、人間の内部の道徳的統合性の核心部分などというものはどこにも存在せず、人々の人間性なるものはそもそも外部の社会的テクノロジー的ネットワークへと統合されているのであると人々が本気で信じるようになったとしたら、そのときは私のここでの分析はもはやその正しさを失うであろう[16]。私が生きているあいだ、近い将来に、そのような社会が来ないことを、私は祈るばかりである。
*本論文は、2012年1月7日に東京大学にて開催されたFourth GABEX International Conference において、“Criticism of Moral Bioenhancement: Commentary on Julian Savulescu” のタイトルで発表された原稿を大幅に拡張したものである。本論文の英語版は、The Oxford Uehiro Centre for Practical Ethicsより出版される同センターの論文集に掲載される予定である。また本論文の一部はOxford University Pressより刊行される東京大学医学部GABEXの出版物に掲載される予定である。本論文英語版発表・執筆に際して東京大学医学部および上廣倫理財団より助成を受けた。利益相反は存在しない。
文献一覧
Harris, John. (2010). “Moral Enhancement and Freedom.” Bioethics 25(2): 102-111.
Hiraiwa-Hasegawa, Mariko. (2005). “Homicide by Men in Japan, and Its Relationship to Age, Resources and Risk Taking.” Evolution and Human Behavior 26: 332-343.
Morioka, Masahiro. (2012). “Human Dignity and the Manipulation of the Sense of Happiness: From the Viewpoint of Bioethics and Philosophy of Life.” Journal of Philosophy of Life 2(1): 1-14.
Persson, Ingmar and Julian Savulescu. (2008). “The Perils of Cognitive Enhancement and the Urgent Imperative to Enhance the Moral Character of Humanity.” Journal of Applied Philosophy 25(3): 162-177.
Persson, Ingmar and Julian Savulescu. (2011). “Getting Moral Enhancement: The Desirability of Moral Bioenhancement.” Bioethics, online version (accessed 30 January 2012).Printed in Bioethics, 27(3), March, 2013:124-31.
Savulescu, Julian. (2012). “Autonomy and the Ethics of Behavioural Modification.” Paper Presented at Fourth GABEX International Conference, Tokyo, January 7-9.
Singer, Peter and Agata Sagan. (2012). “Are We Ready for a ‘Morality Pill’?”. The New York Times, January 28.
註
[1] Singer and Sagan (2012).
[2] Persson and Savulescu (2011), p.2.
[3] Savulescu (2012).
[4] Persson and Savulescu (2008), p.166.
[5] Ibid., p.166.
[6] Ibid., p.174.
[7] Harris (2010).
[8] Ibid., 105.
[9] このグラフはHiraiwa-Hasegawa (2005)をもとに筆者が作成したものである。
[10] Savulescu (2012).
[11] Persson and Savulescu (2008), p.166.
[12] Savulescu (2012).
[13] Persson and Savalescu (2008), pp.168-169.
[14] これらのエンハンスメントが、受容可能な道徳性のエンハンスメントだとみなされないとしても、それらがちょうど法的刑罰のような、受容可能な強制としてみなされることはあり得る、ということに注意しておきたい。
[15] もちろん、なぜこの信念が健康なものだと言えるのかについて私は説明しなければならない。それについては今後の論文で書くことにしたい。Morioka (2012)で関連するトピックを考察したので、それまでのあいだはこれを参照してほしい。
[16] ポストモダンの思想家たちはこれらの説を議論してきた。私が彼らの議論を面白いと思う。しかしながら、日常生活で周りの人たちと良い関係を保ちつつ、それにもかかわらず本気でこれらの哲学に則って生きている人がどのくらいいるかというと、実はほとんどいないのではないかと私は考えている。