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作成:森岡正博
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エッセイ
『朝日新聞』大阪・近畿・四国・中国版 2004年6月5日夕刊
命めぐる本能の戦い−生き延びたい、殺したい、死にたい・・・
ー映画『21グラム』を観る
森岡正博
「人は死ぬときに21グラムだけ軽くなる」と広告のコピーにあるが、それは枝葉末節にすぎない。心臓移植や人工授精などが描かれているが、それも単なる素材にすぎない。映画「21グラム」で描かれるのは、人を殺しても、自殺しようとしても、常に生き延びてしまう男と、生き延びるために手に入れた心臓を、みずからの手で無残に破壊してしまう男の、壮絶な戦いのドラマだ。
神の不条理な命令にあやつられ、もう死にたいと思うのだが、そのたびに、誰かが自分のかわりに死んでしまう。このような体験は人間をどのようなものへと変えていってしまうのか。あるいは、他人の心臓をもらって生き延びることに成功した人間が、最後にはその心臓をみずからの手で撃ち抜こうとするのはいったいなぜなのか。なんとしてでもサバイバルしたいという欲望は、いつどの地点で、自死の衝動へと変換されるのか。
心臓病で余命一カ月と告げられたポールに、ある日、交通事故で脳死になった男の心臓が移植される。死んだ男の妻クリスティーナの所在を探り出したポールは、彼女に接近し、自分が心臓のレシピエントであることを告げる。
夫の心臓を持つポールと寝たクリスティーナは、夫を殺して逃げた男への復讐心をかき立てられ、ポールを復讐のうねりへと飲み込んでいく。ポールは、クリスティーナに自分を同化させ、交通事故を起こした憎き殺人者を殺しに行くのである。
かくしてポールとクリスティーナは、手に手を取って殺人者を追跡するが、ポールはやがて自分たちを突き動かしているものの実体にありありと気づくことになる。それは、人間のもっとも本能的な次元にあるもの、すなわち、なんとしてでも生き延びたいという「欲望」と、愛する人を殺した人間を、この手で殺してしまいたいという「復讐心」なのだ。しかしポールは、自分の内側から湧き出てくるその感情を全肯定することができず、「欲望」と「復讐心」とを最終的に解体するために、みずからに銃口を向けることとなる。
一方、交通事故の加害者であるジャックは、別の意味での悲劇の主人公だ。彼は全身タトゥーの不良クリスチャンだが、自分の引き起こした交通事故も、神の残酷な指令ではないかと疑っている。親子三人を殺しておきながら、自分は無傷でサバイバルしてしまったからだ。そのことが、彼をどん底に突き落とす。
彼らは死んだのに、なぜ自分だけが生き延びるのか。なぜ神は自分を殺さないのか――。ジャックは刑務所で自殺を試みるが、失敗する。さらに、彼を殺そうと追ってきたポールまでもが、ジャックを殺すかわりに、自死を試みる。こうして、もっとも自死を望むジャックが、つねに他人の死の目撃者となり、証言者となり、殺害者となってしまうのである。
生き延びたいという欲望は、いつのまにか自死へと反転し、他方、自死への願望はいつまでたっても成就しない。病室でひとり死にゆくときの孤独と、つねに他人の死の目撃者となり続ける孤独と、どちらの孤独がより深いのか。
映画では、子どもを妊娠することによってサバイバルを達成しようとする女の姿も描かれる。しかし、女たちへの監督のまなざしはやさしいと同時にどこか薄っぺらい。それは彼女たちの孤独に、監督が迫りきれなかったからではないのか。その部分を割り引いたとしても、ずっしりと心に響く秀作だ。