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『生命・環境・科学技術倫理研究V』千葉大学 1998年3月 110−139頁
ウーマン・リブと生命倫理(完全版・第1部)
森岡正博
*大幅に修正して、『生命学に何ができるか』に採録しました(2001年11月)。最新版はこちらをお読みください。
キーワード:フェミニズム、医療倫理、優生保護法、母体保護法、優生学
第1章 ウーマン・リブとの出会い
まず、個人的なことから書きはじめよう。
学生時代、現代の生命にかかわることがらをトータルにとらえることのできるような学問が欲しいと思った。当時、いわゆる生命倫理というものが紹介されはじめていたので、それを調べてみたのだが、いろんな点で不満があった。だから、生命倫理学を超えるような「生命学」とでも呼ぶべき学問が必要ではないかと考えた。それは、単なる机上の学問なのではなくて、いまここで生きている私の生そのものへと直接にかかわっていくような学でなければならないと思った。そして『生命学への招待』という本を一九八八年に出版した。
その当時、男女産み分けや、脳死・臓器移植、遺伝子操作などが新たな倫理問題を生み出すというので話題になっていた。このような難問を学際的に考える学問運動として、バイオエシックス(生命倫理学)というものがアメリカにあることが、学者たちによって紹介されはじめた。英語で書かれた論文や書物を翻訳する作業が開始され、一九八九年には日本生命倫理学会が設立された。
そういう雰囲気のなかで、「日本の生命倫理学はアメリカからの影響のもと、一九八〇年代半ばに開始された」という考え方が、関係者たちのあいだに浸透していった。
実は、私も最初はそのように思っていたのである。『生命学への招待』を書いたときには、生命倫理学というものを、アメリカで一九七〇年代にできて、その後日本に輸入されたものだというふうに考えていたのだ。というのも、生命倫理学は、一九七〇年代初頭にアメリカを中心に成立し、七〇年代後半から八〇年代にかけてヨーロッパや東アジアに伝播したと言われていたからだ。
ところが、それは、私が足元の日本の歴史をまったく知らなかったことによる無知がもたらしたものだということに、やがて気が付くことになる。女性史研究者の山下悦子に依頼されて、日本のフェミニズムと生命倫理について調査をはじめたとき、私ははじめて七〇年代ウーマン・リブによる「優生保護法改悪反対運動」というものを知った。そして、それが、まさに草の根でくりひろげられた「生命倫理とジェンダー」にかんする思索と実践の巨大運動であったことに気付くのである。目から鱗が落ちる思いがした。そのときの衝撃と感動が、本論文を書きはじめたいちばんの理由である。
ウーマン・リブは、優生保護法や人工妊娠中絶や経口避妊薬などをめぐって、独自の主張を繰り広げた。彼女たちの運動は、散逸しやすいパンフレット・ビラ・ミニコミなどの形をとっていたため、その議論が有機的に蓄積されて、社会の各層に広がってゆくことにはつながりにくかった。
しかし、一九九二〜九五年に松香堂から発行された『資料・日本ウーマン・リブ史T・U・V』によって、当事者ではない我々が、はじめて七〇年代のウーマン・リブの主張を系統的に知ることができるようになった。これらの文献を読むと、はっきり分かることがある。それは、日本の生命倫理の議論は、少なくとも一九七〇年代初頭には、ウーマン・リブによって明確に開始されていたということである。日本の生命倫理の歴史は、一気に一五年もさかのぼるのだ。もちろん、「学問」としての制度化がなされるのは、九〇年代に入ってからである。しかし、生命倫理の視野をそなえたうえで、その枠組みをはるかに超える議論・言説群が、一九七〇年代初頭の女性たちによって量産されていたという事実は、特筆に値する。
すなわち、日本の生命倫理の議論は、女性たちによって開始された可能性が高いのだ。もちろん、それ以前の薬害・医療過誤解明運動が、現在の生命倫理の源泉のひとつではある。しかし、中絶をめぐって「生命・人間・ジェンダー・社会」の関連性をラディカルに問題提起した七〇年代ウーマン・リブの議論をもって、今日的な生命倫理のあけぼのと考えるのも、それほど間違ってはいないであろう。たとえば、女ひとりひとりが自ら胎児を<殺害>する可能性を秘めているという個の実存の地点から、みずからの生の意味と、社会を変革してゆく道筋とを考え抜こうとした点において、体制対抗型社会運動の色彩が強かった以前の医療過誤追及運動とは一線を画しているように見える。そればかりではなく、「生きる意味」の思索と行動へと執拗にこだわっていくその深さにおいて、リブは、今日的な意味での生命倫理学をはるかにしのぐ達成を行なっていたと考えざるを得ない。私は、そこに、私が希求する「生命学」のひとつの原型を見出す思いがするのである。
さて、目をアメリカに転じてみよう。アメリカの生命倫理学は、六〇年代の公民権運動や女性の権利運動などの強い影響を受けて成立した。それはたとえば、「中絶」を「女性の権利」として擁護しようとするアメリカの生命倫理学のメインストリームの主張のひとつにも反映されている。しかしながら、アメリカの生命倫理学は、七〇年代後半から八〇年代にかけての制度化の時期において、七〇年代フェミニズム、とくにマルクス主義フェミニズムやラディカルフェミニズムからの問題提起を、いわば切り捨ててしまった。たとえば、家父長制の問題、資本主義の問題、ジェンダー間の権力関係、性支配のポリティクス、性別役割規範の内面化(とくに医師−看護婦のあいだの)などの根本問題が、アメリカの生命倫理学においては排除されたのである。そのことに異議を唱えるフェミニストたちは、九〇年代にはいってから本格的に従来の生命倫理学批判を始めた。彼女たちの、いわゆる「フェミニズム生命倫理」は、今後大きなトレンドになって生命倫理学の世界を席巻するきざしを見せている(1)。
振り返って日本のことを考えてみれば、そもそも日本の生命倫理の議論は、七〇年代初頭に、女性たちによって「フェミニズム生命倫理」という枠組みで語り出されたのである。このことは、強調してもしすぎることはない。しかしその流れは、八〇年代の日本の生命倫理学のメインストリームとはなり得ず、また、女性運動の領域から外に出ることは少なかった。
しかしながら、後にくわしく述べたいのだが、八〇年代後半から九〇年代にかけて、主に生殖技術をどう考えればいいかという話題をめぐって、フェミニズム運動や女性学からの、生命倫理学へのアプローチが本格的に始まってきた。そして、それに対応するように、生命倫理学の内部からもフェミニズムへの関心が芽生えつつある。たとえば、女性が直接のターゲットとなる体外受精や不妊治療について考えてきた女性運動は、必然的に生殖技術の倫理問題に突き当たらざるを得ない。たとえば不妊治療の女性たちのグループである「フィンレージの会」は、はやくからフェミニズムの視点から生命倫理の問題をとらえてきた。九五年頃からの第三次優生保護法改正劇をめぐっては、女性運動グループも生殖技術の生命倫理という視点を組み込みはじめた。生命倫理学の側からは、日本生命倫理学会の一九九四年の総会で、はじめて「女性と生命」というセッションが開かれていた。このように、日本においても、フェミニズム・女性学と生命倫理学が急速に接触をはじめたのだ。
このように、「生命とジェンダー」という問題領域が、いま急浮上しはじめている。本論文は、私の提唱する「生命学」という視点から、これらの問題に切り込んでいく試みなのだ。そして、そのときには、やはり七〇年代のウーマン・リブの試みを再検討することから始めなければならないと思う。なぜなら、そこにこそ、これらの問題群に「生命学」の視点から切り込んでいくときの原点が存在しているからである。私にとってリブとは、あとから発見した生命学の産みの親である。
では、ウーマン・リブとは何だったのか。ひとことでいえば、ウーマン・リブとは、女性たちが、国家や男性からの束縛を解き放ち、自分自身の人生のために、女であることを自己肯定して生きはじめる、その生き方のことである。そしてそれをささえあうために、女から女たちへとつながってゆき、社会を変えてゆくことである。リブの核心は、「生き方」にある。いまの自分をまずありのままに肯定し、そこから自分自身のことばを発して、世界へとかかわり、他者と出会ってゆくその生き方にある。「女にとって革命とは、日々自己肯定できる場をつかみとってゆくことじゃないかと思う。日常の中で、日々、生きている実感をもちつつ斗うこと(2)」。
ウーマン・リブの成立には、 一九六〇年代の新左翼運動の解体と、アメリカのウィメンズ・リブの影響があったと言われている。井上輝子は、ウーマン・リブを、「アメリカの運動に触発されて一九七〇年以来日本にも広がった新しい型の女性解放運動」と表現する。そしてその運動の特色を、(1)女自身の意識変革を目的とする、(2)性の解放をめざす、(3)女の論理を肯定する、の三点にまとめている。これらを強調する点において、ウーマン・リブは戦後の婦人解放運動と一線を画するわけである(3)。ただ、注意しておきたいのは、日本のウーマン・リブは、かならずしもアメリカのウィメンズ・リブを輸入してできあがったものではないということだ。たしかに、「ウルフの会」などによるアメリカ女性運動の紹介は大きな影響を与えたのだが、しかしながら、リブの中心軸は、『青踏』以来の日本女性運動の流れと、当時の新左翼運動のなかから、自生的に立ち上がってきたと見るべきである(4)。ウーマン・リブの活動形態は、自主的な集会開催、ビラ・パンフレット・ミニコミの配布・販売や、性差別への抗議行動、官庁へのデモなどの直接行動、子どもの共同保育の実践などを中心とする、多発分散的な「草の根」運動であった。それらの動きはリブ合宿やリブ集会などを経て、全国各地に広がったが、その結節点としての役割を担ったのは東京の「リブ新宿センター」である。なかでも、リブセンターの中心的存在であった田中美津の思想は、七〇年代ウーマン・リブの思想的基盤を形作ったと言ってよい。リブセンターは七七年まで活動を続けた。田中は七五年にメキシコに旅立ってしまうが、リブセンター解散後も、元リブセンターの米津和子らを中心にして八二年に「阻止連」(女のからだから'82優生保護法改悪阻止連絡会)が結成され、現在に至るまで重要な活動を続けている(5)。
そのウーマン・リブの活動家たちが、一つの目標を共有して一致団結して行なったもっとも大規模な政治運動が、「優生保護法改悪反対運動」であった。一九七〇年から七四年にかけてのこの運動によって、ウーマン・リブは生命・人間・ジェンダー・社会についての深い思索に到達した。そしてそこで形成された「優生保護法改悪反対パラダイム」は、ほとんどそのままの形で、八〇年代初頭の第二次優生保護法改悪反対運動へと受け継がれてゆく。さらには、九〇年代の「生命とジェンダー」の議論にも影響を及ぼしていくのである。
したがって、まず七〇年代ウーマン・リブが、優生保護法改悪反対運動の中で、何を考え、何を主張してきたのかを把握したい。『資料・日本ウーマン・リブ史T・U・V』(以下、『資料』と略す)やウーマン・リブグループのミニコミ・パンフレットなどをテキストにして、彼女たちの思想をあきらかにしてゆきたい。
第2章 優生保護法改正とは何だったのか
そのまえに、彼女たちが反対したところの「優生保護法改悪(改正)」の動きとは何だったのかを見ておきたい。この法律をしっかり押さえておかないと、その後の女性と障害者の対立の意味が分からなくなる。少しばかり長くなるが、じっくり検討してみよう。
優生保護法とは、「不良な子孫」が生まれることを防止し、母親の生命の健康を守るために第二次大戦直後の一九四八年に成立、施行された法律である。簡単にいえば、(1)生命の質が低い子どもが生まれるのを防ぐために「優生手術」ができるようにして、(2)生命の質が低い子どもが生まれそうなときや、妊娠した母親に危険が及ぶようなときには人工妊娠中絶をしてもよいとする、この二点を定めた法律である。だから、ポイントは、「不良な子孫」=「生命の質が低い子ども」、「優生手術」、そして「人工妊娠中絶」である。翌四九年には、人工妊娠中絶が、いわゆる「経済的理由」によってもできるように法律が改正された。さらに、一九五二年、中絶が指定医の認定だけで行なえるように改正された。手続きが簡素化されたおかげで、その後、中絶件数は増加した。
このように、日本の優生保護法というのは、生命の質が低い子どもは生まれないほうがいいという「優生思想」と、母親のためにならない妊娠は人工的に終わらせてもよいという「人工妊娠中絶肯定の思想」が、ひとつの法律のなかに合体したものなのだ。そして、まさにこのふたつが合体していたからこそ、七〇年代の法改正をめぐって、中絶の自由を求める女性たちと、優生思想撤廃を求める障害者たちが互いに対立し(されられ)、途方もない生命学の問題を抱え込むことになったのだ。
優生保護法は、その後一九九六年に「母体保護法」へと改正されるまで、基本的には五二年の枠組みのままで生き続けた。優生思想と人工妊娠中絶肯定思想は、戦後四〇年以上も法律のなかに共存し続けたのである。
では、優生保護法の中身を簡単に見ておきたい。
まず、第一条の「この法律の目的」という項には、次のように書かれている。
この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする。
まず、ここに書かれている、優生上の見地から見た「不良な子孫」というのはどういう人間なのか。それは、本人や配偶者や血縁者が、精神病や遺伝する身体疾患・奇形をもっているような人間のことである。要するに、子どもを生んだときに、どんどん子孫へと遺伝していく危険性のある病気をもった人間ということだ。そういう人間に対しては、優生手術や人工妊娠中絶を合法的に行なえるということなのだ(6)。
優生手術は、次のように規定されている。
この法律で優生手術とは、生殖腺を除去することなしに、生殖を不能にする手術で命令をもって定めるものをいう。
つまり、生殖器は切除しないのだけれども、手術によって子どもを産めなくさせることを言うのである。遺伝によって病気がどんどん遺伝していくような人間に適用されるのだが、手術の際には、本人の同意によって行なう場合と、本人の同意がなくてもできてしまう場合とがある。本人の同意がなくても、そういう手術が合法的にできるというあたりに、この法律の優生思想が見事に現われている。実際に、本人の同意をかならずしも必要としないたくさんの優生手術が行なわれてきた(7)。
次に、人工妊娠中絶については、次のように規定している。
この法律で人工妊娠中絶とは、胎児が、母体外において、生命を保続することのできない時期に、人工的に、胎児及びその附属物を母体外に排出することをいう。
ここで重要なのは、「母体外において生命を保続することのできない時期」というところである。胎児は、母親の子宮のなかで成長する。胎児は胎盤を通して、栄養分を取り入れ、羊水に守られて生きている。だから、胎児がまだ小さいうちは、子宮の外に取り出されると、すぐに死んでしまう。しかしながら、ある程度大きく育ってくると、子宮の外に取り出されたとしても、自分の力で生き延びることができるようになる。現在の医療技術だと、だいたい妊娠二二週を過ぎる頃から、先端医療技術の助けを借りれば、NICU(新生児集中治療室)のなかで自力で生き延びることが可能になっている。
だから、この法律は、胎児が自力で生き続ける可能性がゼロの段階、つまり胎児が母親の身体に完全に依存して生きている時期に、その胎児を人工的に子宮の外に取り出してしまうことを、「人工妊娠中絶」と呼んでいるのである。そして、それを、ある条件のもとで合法化するのである。
この点を、もっとくわしく見てみたい。
日本の現行法体系では、胎児を母体外に取り出すことは刑法の罪に問われる。刑法第二九章第二一二条には「堕胎罪」が規定されており、堕胎した者は懲役刑に処せられる(8)。だから、まず大前提として、胎児を取り出すことは刑事罰の対象なのである。
しかしながら、優生保護法の成立によって、優生保護法が定めた諸条件をクリアーすれば、堕胎の違法性がキャンセルされて(違法性が阻却されて)、罪に問われなくなったのだ。つまり、堕胎は本来は違法なのだけれども、条件さえクリアーすれば、優生保護法がその違法性を帳消しにしてくれるのである。刑法と優生保護法の関係は、こういうふうになっている(9)。
では、優生保護法が人工妊娠中絶のために定めている諸条件とは、どのようなものなのだろうか。
第一四条第一項で、以下のどれかひとつに該当する者は、「本人及び配偶者の同意を得て」人工妊娠中絶を行なうことができるとしている。
一 本人または配偶者が、精神病、精神薄弱、精神病質、遺伝性身体疾患、遺伝性奇型をもっている場合
二 本人または配偶者の四親等以内の血族が、遺伝性精神病、遺伝性精神薄弱、遺伝性精神病質、遺伝性身体疾患、遺伝性奇形をもっている場合
三 本人または配偶者がらい疾患(ハンセン病)にかかっている場合
四 「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」(原文のまま)
五 暴行や脅迫によって妊娠した場合
(第四以外は筆者の要約)
一と二は、遺伝的に「不良な子孫」を産む可能性がある場合および精神病・精神薄弱・精神病質の人間の場合は、それを理由にして中絶できるということである。典型的な優生思想のあらわれと言える(10)。三は、遺伝性疾患ではないハンセン病の場合も中絶できるという規定で、法律の趣旨との整合性が疑問視されていたが、一九九六年四月の「らい予防法」の廃止にともなって、自動的に削除された。四が、いわゆる「経済条項」である。これは、一九四九年の改正によって新たに付け加えられたもので、この「経済的理由」を拡大解釈していくことで、ほとんど親の意向のみで中絶が可能になる道が開かれた。五はレイプの場合の規定である。
「経済的理由」の導入と、指定医制度によって、日本では中絶がとても簡単に受けられるようになった。中絶の受けやすさという点では、世界でもトップクラスだった。「経済的理由」を拡大解釈してしまえば、ほとんどどんなケースにでも適用できる。厚生省資料によると、一九九四年に届けられた人工妊娠中絶件数は364,350件であるが、そのうち「身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害する」という理由で届け出られたのは363,966件。全体の九九・九%までが、この理由によっていることになる。これらのなかで、母親の生命が危険になったというケース(身体的理由)がどのくらい多いのかは不明である。しかし、母親の身体的生命が著しい危険にさらされていないのに、広い意味での経済的理由という名のもとに中絶を選んだケースが、相当数あるということは容易に推測できる。七〇年代初頭の改正案のなかに、「経済的理由」削除が盛り込まれた理由はこのあたりにある。
以上が、優生保護法の主な内容である。
ここで、戦後の優生保護法誕生と、七〇年代の改正の動きを見てみたい。そこに、この法律の思想的核心があらわになっているからだ。
優生保護法は、第二次大戦直後の一九四八年に成立、施行された。
実はこれに先立って、戦争直前の一九四〇年に国民優生法というものが成立している。国民優生法は、悪質な遺伝疾患の素質をもつ者の増加を防止し、健全な素質をもつ者を増加させることによって、国民の資質を向上させることを目的として制定された。そしてそのために、遺伝性精神病や強度の身体疾患がある人間に優生手術を行なって子どもを産めなくすることを合法化した(11)。ただし、国民優生法は、人工妊娠中絶を推し進めることはしていない。母体保護のための中絶は届け出によって可能だが、優生上の理由にもとづく中絶は許可していなかった(12)。むしろ、戦争を控えて、兵隊を産めよ増やせよという思想に足並みをそろえていた。国民優生法の主眼は、あくまで民族の劣化を防ぐための優生手術であった。
戦争が終わって、日本はGHQの監視のもと、自由主義国家として再スタートを切ろうとしていた。一九四七年に、加藤シヅエ、福田昌子、太田典礼が衆議院に優生保護法案(社会党案)を提出した。しかし、議論もほとんどないまま審議未了廃案となる。翌四八年、谷口弥三郎ら超党派の議員によって前年とは別の法案が提出され、それが全会一致で原案通り可決された。これが優生保護法なのであるが、なんと、戦前の国民優生法よりもさらに「優生思想」が色濃くなっているのである。まず、国民優生法にはなかった「不良な子孫」ということばが導入された。また、国民優生法にはなかった「らい疾患」と、遺伝性ではない精神病・精神薄弱が、優生手術の適用として追加されることになる。そして、対象者も「四親等以内の血族関係」へと拡大される(13)。
そういうふうに優生思想が強化され、それに加えて、人工妊娠中絶の項目が追加されて、優生保護法はでき上がった。優生思想にもとづく優生手術と、人工妊娠中絶とが、ひとつの法律のなかに共存しているというのは、一見すれば木に竹をついだかのように映るかもしれない。しかし、このふたつは、実は密接な関連性をもって考えられていたのである。たとえば、産児調節運動の世界的リーダーであったマーガレット・サンガーは、女性のための避妊を進めながら、同時に、「低能者」「精神的不具者」などに子どもを産ませないようにしなければならないと言っていた(14)。サンガーは一九二二年に来日し、大きな衝撃を日本に与えた。そして、その影響下で産児調節運動を進めていた加藤シヅエは、一九四七年の衆議院での優生保護法案(社会党案)の提案理由のなかで次のように述べている。
御承知のように、戦争中に国民優生法という法律が出ました。これは名は優生法と申しておりますけれども、その法案の立案の精神は、軍国主義的な生めよ殖やせよの精神によってできた法律であることは、御承知の通りであります。そうしてその手続が非常に煩雑で、実際には悪質の遺伝防止の目的を達することが、ほとんどできないでいるということは、この国民優生法ができてから今日まで、実際どのくらいの人がこの法律を利用したかという報告を見ますと、よくわかることでございます。(中略)
そこで私どもはこの法案を提出いたしまして、その目的は第一条の総則に書いてある簡単な条項がすべてを説明しております。すなわち第一条に、「この法律は、母体の生命健康を保護し、且つ、不良なる孫(ママ)の出産を防ぎ、以て文化国家建設に寄与することを目的とする」と申しておりますが、これはこの法案すべてを説明しておると私は思つております。(中略)
私どもは、あくまでもこの予防医学を全面的に採用して、母体を保護し、優良な子孫を生みたいということを主張いたすものでございます。(中略)
むしろ如実に迫つております母体の生命保護、母体の健康増進と、生れてくる幼児の優良なるべきものを求めるというその点に重点を置いて御審議あらんことを希望いたすものでございます(15)。
「母体を保護する」という人工妊娠中絶の思想と、「優良な子孫を生みたい」という優生思想が、優生保護法原案提出の訴えのなかで、見事に結びついている。避妊を進め、人工妊娠中絶を許可し、優生手術を進めることによって、不良ではない子どもたちが計画的に生まれてくる、そういう「文化国家」を作りたいという思いがあふれている。七〇年代のウーマン・リブは、そういう考え方は、女を子産み機械と考える体制=資本=男性の仕掛けた罠だというふうに訴えたが、ことはそんなに簡単ではない。日本家族計画連盟の重鎮として戦後ずっと女性の立場から母体保護を訴え活動を続けてきた加藤シヅエの思想の中核に、このような優生思想がしっかりと根付いていたことを、きちんと受け止めないといけないと思う(母性保護は、母親を周産期の危険から守ることである。戦後は無届けの闇中絶が激増し、素人に中絶を頼んだ女性が死亡するケースも目立った。そういう事件を防ぐためにも、中絶合法化が緊急の課題となっていた)。これは、日本女性運動の草分けであった平塚らいてうのなかにもまた強力な優生思想があったことと、無関係ではないだろう。
日本の優生保護法は、優生手術と人工妊娠中絶を同時に規定した、世界でもめずらしい法律だと言われることがある。だが、逆に考えれば、優生思想と人工妊娠中絶の思想とのあいだの密接な関係性を、あらわに見せてくれている世界でも稀なケースだと言うこともできる。だからこそ、七〇年代に改正反対運動がおきたとき、この法律に潜んでいる深刻な問題点に、我々は否応なく正面から向き合わさせられたのだ。そういうふうに考えてみることで、私が本論文でとらえようとしている問題の核心部分が、別の角度から見えてくるはずだ。
加藤とともに法案成立に動いた太田典礼や谷口弥三郎には、はっきりとした優生思想があり、それを根拠にして法案成立に奔走した。太田典礼は、当時を振り返って次のように書いている。
たびたび折衝しても、GHQは首をかしげて容易にOKをくれない。世界に例のない急進的な法律をつくろうというのだから無理もない。「この法案は二ツのもののだき合せではないか、いっそ別々の法案にして出してはどうか」ともいわれた。たしかにそのとおりである。
しかし、「避妊、中絶の適応症は、医学的、社会的、優生学的に深い関連をもっており、優秀な国氏(ママ)をつくるためには、すぐれた遺伝とよい環境、健康な母体を必要とする」、この反対の条件の出産はさけなければならない。結局二ツの理由から一ツの目的に向っているので、切り離せないことを縷々説明して、やっと理解を得、OKをもらった(16)。
人工妊娠中絶と、優秀な国民を作る優生学とは、ひとつの目的に向かっている以上、切り離せないという考えを太田はもっていた。車の両輪の考え方である。
太田が加わった原案の提案理由のなかには、次のような文章がある。
今や人権尊重の民主主義日本建設の時代に、しかも人口過剰に悩む現状にあって、こういう悪法は一日も早く廃止し新しい優生法を制定して、母性を保護し、子孫に対する悪質遺伝の防止を容易くし、且つ悪質者の子供が不良な環境によりて劣悪化することも防がねばならない(17)。
また、谷口弥三郎は優生保護法成立後に、それを解説した著書のなかで次のように述べている。
従来唱えられた産児制限は、優秀者の家庭に於ては容易に理解実行せらるるも、子孫の教養等については凡そ無関心な劣悪者即ち低脳者低格者のそれに於てはこれを用いることをしないから、その結果は、前者の子孫が逓減するに反して、後者のそれは益々増加の一途を辿り、恰も放置された田畑に於ける作物と雑草との関係の如くなり、国民全体として観るときは、素質の低下即ち民族の逆淘汰を来すこと火を睹るより明らかである。(中略)
即ち新憲法の精神に則り、母性の健康を保護する目的で、或る程度人工妊娠中絶の合法的適用範囲を拡大し、以て政策的に人口の急激な増加を抑えると同時に、民族の逆淘汰を防ぐことは、我が国の直面する重大な問題である(18)。
母体保護と、優生思想が、太田や谷口のなかでもまた密接に結びついている。彼らの発言を読むと、優生思想の徹底こそがこの法律の第一目的であったとすら思われてくる。そして優生思想が「人権尊重の民主主義」と結びつけられたり、「新憲法の精神」と結びつけられている。民族の劣悪化と逆淘汰を防ぐ優生思想と、新憲法の関係は、これでよかったのだろうか。それともこのような考え方こそが、戦後民主主義の基盤を形作っていったのだろうか。少なくとも彼らには、「障害のある人もない人もともに同じ人間として尊重されるのが民主主義の理想であり、人権尊重なのだ」という意識は見られない。それは、太田や谷口だけではなかった。国会での審議には優生手術に関する質疑はまったく出されなかった(19)。それが、その当時の国会議員たちの一般感覚だったのだろう。
さて、優生保護法が提案された理由としては、次の五つがあげられる。「優生思想」「母体保護」「人口政策」「経済的理由」「混血児対策」。優生思想と母体保護についてはすでに述べた。ここで見逃してはならないのが人口政策である。
一九四七年から四九年にかけて、復員兵や疎開者が帰ってきてベビーブームがおきた。四八年には、人口問題審議会が産児調節の必要性を訴える。GHQも、日本の過剰人口を産児制限によって解決するよう進言する。急増する人口を安定させるための道具として、避妊がとらえられ、人工妊娠中絶もその延長線上で考えられていた。四八年の法律成立時に厚生省公衆衛生局の安倍雄吉が出版した解説書の冒頭には、「ここにおいて、人口問題打開の一方策として、現在の国情に即した優生保護法案が衆参両議院議員によって立案せられ」成立施行されたと書かれている(20)。厚生省から見た優生保護法の意味のひとつが、「人口問題打開」だったことがよく分かる(21)。また、このような人口政策は、往々にして、人間の生命の質についての優生学的な配慮と一緒になって議論された。人口問題懇話会でも、「人口の量的増加」と「人口資質向上」とが同時に議論されている。
と同時に、法律成立に奔走した加藤シヅエは、戦後の窮乏状態で子どもを育てる余裕がない女性たちを救うための方策としてもまた、優生保護法を考えていた。後のインタビューで、加藤は中絶に触れて、「当時は大部分の方が経済的理由だった」と語っている(22)。優生保護法成立の翌年の改正で、経済条項が付け加わったのも、生活の大変さから闇中絶が増加していた当時の社会状況がある。戦後すぐの社会では、「経済的理由」には大きなリアリティがあった。
もうひとつは、混血児の問題である。藤目ゆきは、「そこには引き揚げの過程でソ連軍や中国人・朝鮮人に強姦されたり、占領軍の暴行や買春によって妊娠した女性たちから「混血児」が産まれつつあることへの嫌悪と忌避が少なからず作用した」と述べている(23)。混血児ということばは、当時を知る人たちがよく口にする。しかし、混血児が生まれてきてどうして悪いのかと考えてみれば、そこにはやはり「純血主義」のようなナショナリズム・排外思想があったはずだ。それは、優生思想と結びついて、戦後もしっかりと日本人の意識の底に存在し続けてきたと思わざるを得ない。
ところで、先に引用した安倍の解説書は、優生保護法が厚生省にとってどのようなものだったのかがよく分かる文献である。安倍は、まず人口問題打開策だと言ったあとで、「優生思想」と「母性保護」について触れている。優生思想については、「悪質な遺伝性疾患の素質を有している者の増加を防いで、国民全部が健全者であるように、即ち国民全部の素質の向上を図って行くということである」とし、「悪質な遺伝性疾患にかかつている者は本人ばかりではなく、家族や親戚の者にもまことに気の毒な存在であり、犯罪姓や社会不適応性があるから、社会にとっても大いに困った問題である」と書いている(24)。「国民全部が健全者」という思想もすごいが、悪質な遺伝性疾患をもった者が「気の毒」で「困った問題」だという言い方にも注目しておきたい。母性保護については、遺伝性疾患にかかっていて子孫に遺伝する恐れがある場合、妊娠や分娩が母体の生命に危険を及ぼす恐れのある場合は、「人工妊娠中絶が公然と認められた」としている(25)。
四八年の成立当初は、いわゆる経済条項はなかった。安倍も「この法律の規定による人工妊娠中絶は、すべて医学上、優生上の見地からこれを認めているのであって、経済的、社会的理由から認めているのではない」と明記している(26)。経済条項は、翌四九年の改正で追加されたのだ(27)。
経済的理由の中絶はだめなのだ、というのが法律制定時の建前だった。安倍は同書で次のような想定問答を行なっている。
問−−子供が四人いる主婦ですが、又妊娠したので経済的に困るので、人工妊娠中絶をやりたいと思いますが、この場合できますか。
答−−この法律の規定による人工妊娠中絶は、医学上、優生上、母性の保護という意味でのみ認められているのですから、経済的或は単なる社会的理由からは認められておりません。従つて、御質問のような場合はできないことになります。あなたの場合は今の赤ちゃんは立派に産んで、その後優生結婚相談所等で、正しい確実な避妊法を指導して貰って、今後は妊娠を避けるようにされたら如何ですか(28)。
まさにこの感覚が、その後の優生保護法改正劇の、経済条項削除の論調へと受け継がれていくのである。そして、中絶を女性の権利・自由として考えるウーマン・リブの女性たちと衝突していくのだ。
さて、一九六〇年代に入ると、出生率の低下にともなう将来の日本の労働人口の減少が予想されるようになる。それに歯止めをかけるために、今度は、野放しの中絶を制限し、将来の労働人口を確保しようという考え方がでてくる。同時に、障害を持って生まれてくる人間の数を減らすことで、労働力の質も向上させようという考え方もでてくる。そうしないと、国際競争に勝てなくなる。政府や産業界が、こうした意見をもらすようになる。そのためには、現行の優生保護法を改正して、中絶をできにくくし、同時に、生まれてくる生命の質の管理も行なえばよい。日経連は七〇年の報告書のなかで「中絶の濫用がなければ今日の労働力不足もなかった」という趣旨の記述をしているし、同年の国会では労働相が「優生保護法なり、人口問題につきましては、真剣に考えてゆく必要があろう」と答弁している(29)。優生保護法成立のときには、増えすぎる人口をなんとかするために中絶を認めようということだったのが、いまやそれがまったく逆転して、人口の減少を食い止めるためには中絶をしにくくすればよいという話が出てきたのである。まさに、人口の「調節弁」として中絶がとらえられているのだ。
それと並行して、新宗教団体である「生長の家」が、独特の「生命の尊重」論の宣伝を始め、中絶禁止の旗振り役をつとめるようになる。生長の家は、一九六〇年に、国会・厚生大臣に優生保護法改正要求の請願書を提出する。その請願書には、中絶は「子殺し、人殺し」であり、「国民のひとりひとりに、堕胎のいけないこと、怖ろしいこと、恥ずべきことを、しっかりと知らしめなければなりません」と書かれている(30)。その後、利害が一致した時の政府自民党と歩調を共にし、七〇〜八〇年代の優生保護法改正運動の陰の立役者として活躍するのである(31)。
また、優生保護法の経済的理由によって、日本では比較的容易に中絶が受けられた。海外からも日本に中絶に来る人々が増えて、「中絶天国」「堕胎天国」という評判が立つようになった。これに対しては、生命尊重を説く生長の家だけではなく、国会議員たちもまたいらだちをみせたのである(32)。
これらの動きを受けて、一九六七年に優生保護法改廃期成同盟が発足し、六八年には優生保護法改正試案を発表した。七〇年には、国会で優生保護法改正をめぐる答弁が行なわれる。すなわち、優生保護法を改正して、中絶を受けにくくし、労働力の減少を食い止め、中絶天国の汚名をはらしたいというのである。また、マスコミは、中絶は胎児の生命を抹殺する残酷な行為であるという報道をさかんに行なうようになった(33)。
改正の動きに驚いた日本家族計画連盟などの諸団体は、優生保護法改正反対の要望書を提出する。この年、一九七〇年が、第一次優生保護法改悪反対運動の幕開けである。一九七〇年と言えば、すでに述べたように、日本のウーマン・リブが産声をあげた年でもある。日本の新しい女性運動は、中絶の自由を制限しようとする政府の動きが国会に持ち込まれた年に、本格的に開始されたのである。
一九七二年には優生保護法改正案が国会に提出される。しかしこれは、年末国会解散などのあおりをうけて審議未了廃案となった。翌七三年に同法案は国会に再上程される。これに反対して、女性団体や障害者団体がはげしい反対運動を繰り広げた。翌七四年には一部改正案が衆議院本会議を通過する。しかし、参議院では会期切れで審議未了廃案となった。
同じ動きは、八〇年代初頭にもふたたび繰り広げられる。一九八二年、生長の家の村上正邦議員が「生命の尊重論」にもとづいて、国会で優生保護法改正を主張し、厚生大臣が前向検討を答弁した。これらの動きに反発して、女性団体や障害者団体などが、激しく抗議行動をおこした。八三年には、自民党に生命尊重国会議員連盟ができて法改正実現を決議する。ところが、超党派の衆参婦人議員懇談会が反対決議をするなど足並みが乱れた。自民党社会部会は、幅広い検討が必要だとする中間報告を出す。結局、改正案は国会に提案されなかった。
この二回の改正劇を見てみると、次のことが分かる。まず、七〇年代の改正の動きの方が、八〇年代よりもより包括的で強力だったということがある。七二年に提出された改正案は、のちに詳しく述べる三点の改正点から成っていたが、八二年の主張は、そのうちの一点である経済的理由の削除に絞られている。それに加えて、七〇年代には実際に国会に提出されて衆議院は通過しているが、八〇年代には結局国会には提出されなかった。この意味で、七二年に提出された改正案をじっくり吟味したほうが、改正案の意図がよく分かる。
女性運動の側から言えば、七〇年代初頭の反対運動によって、優生保護法改悪反対運動の基本的なパラダイムが成立する。八〇年代の反対運動は、そのパラダイムを継承している。この点においても、七〇年代のウーマン・リブの言説をくわしく吟味しておくことがもっとも大事である。ただし、七〇年代の反対運動の資料は一般にはきわめて入手しにくい。それとは対照的に、八〇年代の反対運動の資料は、雑誌や書籍の形で図書館などに収められているものが多い。これは、ウーマン・リブ以来一〇年のあいだに、女性運動が蓄積してきた戦術的・社会的力を示している。
その後、優生保護法改正の動きは鳴りをひそめていたが、一九九四年九月、カイロで国連国際人口開発会議が開催され、そこで日本の女性障害者の安積遊歩が、日本の女性障害者の子宮摘出問題と優生保護法の存在をアピールした。それをきっかけにして、海外から批判の声が高まった。
一九九五年、「優生保護法の見直しを求める要望書」が全国精神障害者家族会連合会から提出された。その内容は、優生保護法から「優生」に言及した部分を削除してほしいというものであった。そして、自民党社会部会が、この要望書をもとに優生保護法改正に乗り出した。それを受けて、女性団体などが、そこに女性の意見を反映させるべく動き始めた。しかし、一九九六年六月一四日には衆議院本会議において「優生保護法の一部を改正する法律案」が審議のないままスピード可決され、一八日の参議院本会議において可決成立した。最後のぎりぎりの段階で、女性議員たちからの意見を入れて、法律の新名称が、当初の「母性保護法」から「母体保護法」へと変更された。この母体保護法には、「附帯決議」がついている。それは、「リプロダクティブヘルス・ライツ(性と生殖に関する健康・権利)の観点から、女性の健康等に関わる施策に総合的な検討を加え、適切な措置を講ずること」というものである。
このように、一九九六年に至って、優生保護法は、文言から「優生部分」を削るという形でついに改正された。この改正は、七〇年代、八〇年代とは異なって、まず障害者団体からの声を聞き入れ、優生思想を表現した部分をなくそうというものであった。経済的理由などは、そのまま手つかずで残されている。
では、九六年にどこが改正されたのだろうか。
まず、法律の名称が「優生保護法」から「母体保護法」に変わった。
そして、第一条の「この法律の目的」の項から、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに」という文章が削除され、そのかわりに、「不妊手術及び人工妊娠中絶に関する事項を定めること等により」という文章が補われた。第一条全文を書いておこう。
第一条 この法律は、不妊手術及び人工妊娠中絶に関する事項を定めること等により、母性の生命健康を保護することを目的とする。
このように、法律の目的が「不妊手術」と「人工妊娠中絶」のためのものであることが明記され、以前にあった「優生」の文字が無くなっている。
第二章の「優生手術」の箇所は、名前が「不妊手術」に変わり、優生上の理由による手術に関する記述がすべて削除されている。
第三章の「母性保護」の箇所に、以前に述べた人工妊娠中絶についての規定があるのだが、五つあったうちの一〜三が削除され、「身体的又は経済的理由」の項と、「暴行や脅迫による妊娠」の項のみが残された(正確に言えば、三は、らい予防法の廃止にともなって、すでに同年四月に削除されていた)。
そのほか、優生保護審査会についての記述も削除され、別表にあった遺伝性疾患その他の一覧表も削除された。
このように、優生保護法から、「優生上の理由」に関する記述がすべて削除されたわけである。
しかしながら、法律の文言から「優生」部分が無くなったからといって、法律を取り巻く政治や行政や社会のなかから優生思想とその行動が消滅したわけではないのだ。いや、むしろ、背面に隠される形で、それはより巧妙に我々の社会へと食い込んでしまったと言えるのかもしれない。先端テクノロジーが進展するなかで、この社会に住む我々ひとりひとりが、生命の質の選択に直接にかかわり、操作主体になっていくような時代が到来しつつあるのだ。我々ひとりひとりに、胎児を殺す権利があるのか、胎児の生命の質を選別する権利があるのか。そういうことを、みずからの問題として取り込まなくてはならないような時代に我々は生きているのである。いまや、妊娠した女性の血液を検査するだけで、胎児の染色体や遺伝子の異常を確定診断する技術が応用されようとしている。そのような時代に、我々はどのようにして生命に向き合っていけばいいのだろうか。
そのことを考えていくためにも、問題が典型的な形で立ち現われた一九七〇年初頭の、第一次優生保護法改正劇をさらにくわしく見ていかなければならない。
第3章 一九七二年の改正案とウーマン・リブの対応
優生保護法改正案は、一九七二年五月二五日の第六八回衆議院社会労働委員会に提出されたのだが、実はそれ以前にも国会でこれにかかわる答弁がいくつかなされている。
たとえば、同年四月四日の参議院予算委員会では、生長の家選出の玉置和郎が「優生保護」について、厚生大臣に質問をしている。当時の厚生大臣、斎藤昇の答弁は、改正を進める側の意識のありかを見事に示しているので、長くなるが引用しておきたい。
斎藤厚生大臣は以下のように答弁する。
(中略)いわゆる人工中絶というものに対する考え方は、まあ一般的に言って、人命の尊重、胎児を人工的に中絶することは悪であるという意識が非常に薄いと、国民全体的に薄いという感じでございます。これは、優生保護法の中に、人工中絶の道を認めたわけでありますが、その実際は、範囲を逸脱して行なわれている事実もあるし、そしてさらに一つは、やはり自分たちの生活を豊かにしたい、子供を育てるよりも、精神的あるいは物的な面をあれしたいという、ちょうど日本の経済成長が始まったころからの一般の風潮がしからしめたという点もあるであろうと思いますが、いずれにいたしましても、この人命尊重という面を、これをもっと徹底させなければならないと。
ことに優生保護法の中で、経済的な理由で母体の健康が維持できないときには中絶してもよろしいという規定がございますが、今日社会福祉が叫ばれ、そして児童福祉、その他も、まああるいは生活の保護の面も相当整ってまいりました。これで完全とは言えませんけれども、しかし経済的理由で人工中絶してもよろしいという、そういう考え方自身は、やはり生命尊重に反する考え方に通ずるものと、かように考えます。したがいまして、こういう点をぜひ是正しなければならない。
同時に、人工中絶をどうしてもやったほうがいいという面もございます。たとえば、妊娠中にいろいろな医学的な問題から、奇形児が生まれるであろう、重症の心身障害児が生まれるおそれがあるというような場合には、これは、生命の尊重とは言いながら、そういう方々は一生不幸になられるわけでありますから、こういう場合には、新しく人工中絶を認める必要があるのではないか。
さらに、優生保護法の中で、家族計画、いわゆる妊娠調節の規定が−−規定というか、これをもっと普及するようにという規定がございます。そういった家族計画を健全にやっていく。ことに、第一子の子供は、これは非常に大事な子供であるというようなことを強調し、妊娠中絶、人工中絶をやらないで、家族計画によって、そして理想的な家庭を持つという方向に進めていくというような方向に、ぜひ改正する必要がある。(後略)(34)
斎藤厚生大臣は、まず、一般的に人命の尊重の意識が薄くなっていると指摘する。胎児を人工的に中絶することが悪であるという意識も薄くなっている。これは経済成長(がもたらしたエゴイズム)の影響だろうとする。そして、生活保護の面も整ってきた以上、「経済的理由で人工中絶してもよろしい」というのは、生命尊重に反するので、是正しないといけないと言う。
同時に、中絶をどうしてもやったほうがいい場合があって、それは奇形児・重症の心身障害児の場合だとする。斎藤はここで障害者不幸論を出している。すなわち「生命の尊重とは言いながら、そういう方々は一生不幸になられるわけでありますから」中絶を認める必要があると言っているのだ。障害を持つことは不幸なことなのだという考え方は、この時期に、国会の答弁にまで姿を現わしている。このことは注目しておきたい。
そして、第一子は中絶せず、家族計画を健全に行なって、理想的な家庭を持つべきだとする。
生命尊重論、優生思想、障害者不幸論、家族計画などが、一連のつながりをもって繰り出されている。この答弁を読んでいて感じるのは、一九四八年の優生保護法成立当時の「母体保護・産児調節」と「優生思想」を車の両輪とした優生保護パラダイムが、無傷のまま、ここまで受け継がれてきているということである。もちろん、人工妊娠中絶を推進するのか後退させるのかというベクトルの向きはまったく逆であるが、しかしながら、問題をとらえるときの枠組みそれ自体はほとんど同じままである。
さて、衆議院社会労働委員会に提出された、優生保護法改正案は、(1)経済的理由の削除、(2)胎児に重度の障害のおそれがある場合の中絶の許可、(3)適正な年齢での初回分娩指導、の三点からなっていた。
斎藤厚生大臣は、この三点について、国会で次のように説明している。
まず第一点については、第一四条第三項の「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」という文章から、経済的理由を削除し、「妊娠の継続又は分娩が母体の精神又は身体の健康を著しく害するおそれのあるもの」という文章に変更するというものである。経済的理由では中絶できなくするわけである。
その理由として斎藤厚生大臣は、「このうち、経済的理由という要件につきましては、国民の生活水準の向上を見た今日におきましては、そのままにしておくことには問題があり、この際、これを取り除きキキキキ」というふうに説明している。つまり、国民の生活水準が向上したのだから、経済的理由によって中絶を合法化するのはおかしいというわけである。
第二点については、以下の条文を追加する。すなわち、「その胎児が重度の精神又は身体の障害の原因となる疾病又は欠陥を有しているおそれが著しいと認められるもの」という文章である。障害を理由に中絶してもかまわないことになる(これを胎児条項・胎児適応という)。
これについても厚生大臣は次のように説明する。「現行法では、不良な子孫の出生を防止するという見地から、妊娠またはその配偶者が精神病または遺伝性奇型をもつ場合等には人工妊娠中絶を認めているところでありますが、近年における診断技術の向上等によりまして、胎児が心身に重度の障害をもって出生してくることをあらかじめ出生前に診断することが可能となってまいりました。」だから、重度の障害が診断された場合の中絶を認めるというものである。
第三点については、第二〇条の、後半を次のように改める。すなわち、「適正な年齢において初回分べんが行なわれるようにするための助言及び指導その他妊娠及び分べんに関する助言及び指導並びに受胎調節に関する適正な方法の普及指導をするため、優生保護相談所を設置する」とする。要するに、高齢初出産を避けるように指導するべしという文章を追加するわけだ。厚生大臣はこれについて、「最近、高年齢初産が問題となってきておりますので、特に、初回分娩が適正な年齢において行なわれるように助言及び指導する等その業務の充実をはかってまいりたいという改正でございます」と明言している。
この改正案の意図を一言でいうと、経済的理由の削除によって安易な中絶をなくし、障害を理由とする中絶を認めることで生まれてくる子どもの「生命の質」を上昇させ、結婚した女性は若いうちに子どもを産んでしっかりと育てるようにさせるということである。
このなかの、胎児条項については、当時急速に進みつつあった生殖技術の影響がある。答弁のなかの「近年における診断技術の向上」というのは、具体的には、羊水診断のことを指している。羊水診断の技術それ自体は一九五〇年代からあったのだが、ダウン症などの診断のためにそれを使うことは六〇年代後半にいたって可能になり、六八年には羊水診断にもとづくはじめての人工妊娠中絶が行なわれた(35)。すなわち、羊水診断という技術は、六八年ころを境にして、ダウン症などの胎児を早期に発見してそれを中絶するための技術として関係者のあいだで認知されはじめたということだ。優生保護法成立当時にあった、優生手術によって民族の劣悪化と逆淘汰を防ぐという優生思想が、胎児診断テクノロジーによる障害胎児の選択的中絶という新たな形をとって見事に表舞台に復活してきたのある。優生思想は、先端テクノロジーに乗り移って再生するのである。
そのような背景のもとで、女性の中絶に縛りをかけて健常な子どもはなるべく産ませ、障害胎児については選択的に殺し、女性が若いうちに子どもを産んでしっかり育てさせるという法案が提出されたのである。
これに対して、当時のウーマン・リブの女性たちはたいへんな反発をした。
ウーマン・リブの根本的な考え方というのは、「女の身体は女のもの」であり、「女の生き方は女が決める」ということだ。それまでの社会では、女の身体や人生が、夫や、両親や、家や、親戚や、国家などの意向によって、道具のようにもてあそばれてきた。女が自分自身の考え方を持って、自分の人生を切り開いていくなんてとんでもないことだと教え込まれ、女性もその価値観を内面化して、自分自身を説得してきた。家庭のために生きること、子どものために生きること、男に好きになってもらうこと、それが女の生きる道だと思わされてきた。男や社会に認めてもらうことで、はじめて自分の存在意義があると思い込んできたのだ。
そういう考え方に、ウーマン・リブは真正面から立ち向かった。
女の生き方は女が決める。私の生き方は私が決める。女である私の人生の意味が何であるかを決めるのは、男でもなく、社会でもなく、女であるこの私自身だ。そういう心意気で、いまここから、自分の人生を生きはじめようというのが、ウーマン・リブだったのだ。
そういう出発をした彼女たちにとって、七二年の優生保護法改正案というのは、まさにウーマン・リブの思想と行動の全否定に思えた。なぜかといえば、その法案では、女の身体というものが、女自身のものとしてではなく、子どもを生産する工場のようなもの(子産み機械)としてとらえられていたからである。そればかりか、子どもを産みたいとか、産みたくないとか、そういう女ひとりひとりの思いと決断というものへのまなざしがなく、そのかわりに、斎藤厚生大臣の答弁に見られるように、中絶は悪だとか、第一子はきちんと産んで育てろというような、女個人の生き方への押しつけと強制ばかりが目立ったのであった。だから、女が自分の生き方を自分で決めようとしているときに、どうしてそれを男や国家から命令されなければならないのか、という大きな疑問が湧き上がってきたのである。「私の生き方と、身体の使い方は、私自身が決めるのであって、男や国家はそれを押しつけないでほしい」というのが、ウーマン・リブの女性たちの基本的な感覚だったと思う。それに加えて、当時の新左翼運動から受け継いだ体制=権力批判があった。
彼女たちがこの改正案に対して具体的にどのような反論を行なったのかを、闘う女性連盟(岬真知子・諸星由美・浦池みち子)の文章「優生保護法改正案はなぜ改悪案か」(36)から紹介してみよう。
まず第一点の経済的理由の削除に関しては、次のように反論する(著者:岬真知子)。
厚生省は国民の生活水準が向上したと言う。たしかにGNPは世界第二位になったが、それを支えた庶民の暮らしには、まだまだ悲惨なものがある。アパートは狭く、給料も低く、五六%の世帯は生活を切り詰めなければならないと感じている。主婦のパートも増えているが、彼女たちが子どもを持とうとすれば退職しかない。するとまた収入が減る。子どもができても、保育所は少なく、狭い部屋の中で親子が重なり合って寝ている家庭もある。こんな状況が残っている以上、「国民の生活水準の向上」という説明は欺瞞であり、経済的理由による中絶は意味がある。
次に、経済的理由の削除は事実上の中絶禁止であり、これは女性を家庭に縛りつけようとする政策だという趣旨の反論がある。これは、国家と家の束縛からの解放をめざすウーマン・リブらしい主張なので、そのまま引用しておきたい。
優生保護法に関する国会答弁の中で再三「青少年の非行化、性風俗の紊乱は中絶の野放しにある」と憂慮している様に、処女が激減し、同棲が、妻の浮気や蒸発が、離婚が、増加の一途をたどっていること等、結婚外交渉が激増し、一夫一婦制度としての家庭が揺らぎ、社会秩序が保てなくなることに権力は危機意識をもっている。「経済的理由」の削除は、中絶を事実上非合法化することで、結婚する迄は処女、できたら結婚せよと、娘―妻―母という女の生き方の定式を浸透させ、秩序ある家庭づくりを図ろうとするもので、女に<己れは己れ>の生き方を選ばせまいとするものだ(37)。
経済的理由の削除が、女性を家庭に縛りつけ、女性の自立と解放をはばもうとする意図によってなされているという指摘である。
さらに、「精神又は身体の健康」ということばが追加されている点を重く見て、医療の名のもとに「精神異常」とみなされた女性から産む自由を奪う目的があると指摘する。
次に、第二点の胎児条項の追加については、以下のように反論する(著者:諸星由美)。
重度の精神・身体障害をもつ胎児の中絶を認めると言うが、たとえばサリドマイド、スモン病、ヒ素ミルク、胎児性水俣病などによる胎児の障害の原因は、政府や企業のずさんな薬事行政や、公害の放置にある。環境にばらまかれた毒物の影響で、母親の身体は汚染され、その身体の中で生まれてくる胎児たちが犠牲になってゆく。ところが、こうした「一連の公害を生み出す社会は放置」したまま、そのつけを障害胎児の中絶によって切り抜けようとしている。
ここには、弱者や価値のない者を切り捨てることで、経済成長を達成しようとする生産性の論理がある。
胎児チェックを普及させようという彼等の真の狙いは、今あらゆるところで膿臭を放っている社会の矛盾が、社会問題として取り上げられ、その事実が明るみに出される前に、片がつくものは個々の女の子宮と胎児の生命で片をつけ、それでも産んでしまった女は女自身の罪と、産まれてしまった子供の不幸として、女と子供に全てを背負わせることで、今を乗り切り、より高い経済成長率を確保しようとするものだ(38)。
本来ならば環境悪化をくい止めて、我々が毒物の犠牲にならないような予防努力をするべきなのに、それをせず、そのかわりにその犠牲になった障害胎児を抹殺することでつじつまを合わせようとしているというわけだ。言い過ぎの面はあるが、しかし重要なポイントである。
ここで著者は、大事な問題提起をしている。胎児チェック(具体的には「羊水診断」)とは、「平たく云えば羊水を検査し、障害児か普通児かを判別し、障害児であるなら生まないように指導しようということ」(圏点原著者)である。それは、役に立つ人間のみが欲しい国家のたくらみなのであるが、彼らはそれをたくみに女性の自己決定の問題にすりかえて、障害胎児抹殺の責任を女性に押しつけようとしている。
そして彼らは、それでも産むなら、産む、産まないは貴女しだいだから、と迫る。一方で障害児だったら堕ろすのは認める、と障害児→堕ろすのが当然という意識を浸透させながら、しかしそこで産むも産まぬも貴女の自由だ、と女に迫り、堕ろすにしても、産むにしても女自身が選んだのだから、女自身が責任をとるのも当然だということになるのだ(39)。
これは、今日まで解決されていない根本問題である。女性に自己決定権と選択の自由が形式的に保障されたとしても、その権利を行使する主体である女性の価値意識が男性権力によって洗脳されていたとしたら、それははたして女性が真の自由を獲得したことになるのかという問題である。つまり、形式的に保障すべき平等な「権利」の次元と、その権利を行使する女性の「内面の意識」の次元の交錯という難問が、ここで姿を現わしているのである。これはまた、当事者が実際に選択できる選択肢の種類が限定されているときに、いくら形式的な選択の自由が保障されていたとしても、それはほんとうの選択の自由と言えるのかという問題でもある。産んだら生活が苦しい、産まなければ罪人だと言われるという選択肢しか社会に用意されていないときに、そのふたつのどちらかを女性が自由に選べたとしても、それがほんとうに「自由な選択」と言えるのかということだ。また、この著者は、「障害児だったら堕ろすのが当然という意識」は権力側によって浸透させられたのだと言っているが、しかしほんとうにそうなのか、我々一般庶民のこころのなかにはいわゆる「内なる優生思想」が潜んでいるのではないかという問題もその後提起されて、八〇年代以降関係者たちを悩まし続けてゆくのである。
著者は最後に、この障害者抹殺の思想を、「キキキキ役に立たない者、社会に害を及ぼす者、危険人物とされる者全てを抹殺し、ただひたすらに生産へ、生産へと邁進していく国家意志の具体的な表われ」としての一種の保安処分(社会防衛のための隔離予防政策)とみなしている。
第三点の初回分娩の年齢低下については、次のように述べる(著者・浦池みち子)。
厚生省や医師会などの資料を見ると、その意図は、(1)高齢出産を避けること、(2)第一子を産む年齢を下げることを二本柱にしていることが分かる。
まず高齢出産については、働いている若い女性が子供を産むことのできない、現在の社会構造そのものがおかしいのだ。子供を産むと退職せざるをえないし、保育所も整備されていない。高齢出産をしなくてもすむためには、まず「産みたい時にすぐ産める体制」が必要なのだ。
さらに、第一子を産む年齢を下げることについては、女性を若いうちから家庭に閉じこめることで管理しようとする国家の意図があると主張する。それは、「たまたま性的欲望を感じたら、ちまたで男と衝動的に寝るのではなく、早く、かつ又、順序正しく整然と結婚し、子供を産み、育てながら家庭建設をしなさいという押しつけの強化を、この条文改悪は意図しているのだ」ということになる(斎藤厚生大臣の答弁を想起せよ)。すなわち、「結婚は幸せのはじまり、という意識を強化」して、女性を家庭に押し込め、「マイホームとして安定させ、不満のエネルギーを不発に終らせ、より管理、操作しやすくしようということ」である。そして若くして子育てが終わった主婦たちを、低賃金のパートとして働かせようというわけだ。
初回分娩年令低下は母体保護とは名ばかりで、それどころか、女を二重にも三重にも国家管理しようと図るものだ。
つまり、女を早く結婚させて旧家制度を現代のマイホームで甦えらせ、すみずみまで浸透させること、女の労働力を安く、長間(ママ)にわたってなんの支障なくつかいこなしたいという日本総資本の要求なのだ(40)。
つまり、女性を安価な労働力として管理し、日本株式会社の生産性を高めようとする国家の意図が、ここに集約的にあらわれていると考えるのである。
以上が、優生保護法改正法案が国会に提出された一九七二年に発行された、ウーマン・リブ資料集『ノアの箱船』(41)におさめられた、優生保護法改正に対する反論である。
これは、一九七〇年以来積み重ねられてきたウーマン・リブの議論を凝縮したものとなっている。彼女たちが優生保護法改正に関連して、何を問題としてとらえ、何を糾弾しようとしていたのかが、明確に伝わってくる。
それをひとことで言えば、以下のようになるだろう。
<生産性の論理によって動く日本国家は、人間の数の管理と、生まれてくる人間の品質の管理を強化しようとしている。生産性の上がらない人間はなるべく排除し、生産性の上がる労働力を増加させようと考えている。そのためのもっとも安易な管理の手段として、国家は女性の出産に介入しようともくろんでいる。つまり国家は、女性の身体を、生産性の上がる子どもを適正な数だけ産み出す「子産み機械」としてとらえ、資本拡張のための道具として管理しようとしている。そして女性の自立をはばみ、家庭の中に押し込めることで、その口をふさごうとしている。このように組み上げられた社会と国家の構造それ自体を、変革しなければならない。そして、女性に子どもを産む・産まないの自由と、産みたいときに産める環境を与えるべきである。>
彼女たちの問題意識は、女性の自立・解放に向かうとともに、女性を道具として管理しようとする国家・社会・家庭の構造それ自体の変革にまで、はっきりと向けられていたのである。
この点は、優生保護法改正案が国会に提案される前年の七一年に出された、女性解放運動準備会のビラ「優生保護法改悪阻止へ向けてのアピール」にも、明確に打ち出されている(42)。
著者は述べる。日本は戦後、朝鮮特需によって高度成長を達成したが、いまや出生率の低下にともなって、若年労働力の不足が予測されている。優生保護法改悪とは、このような若年労働力の不足を解消するための人口政策である。改悪を進める人たちは、中絶の氾濫による性道徳の乱れを憂慮するが、彼らが言う「性道徳の確立」とは、「純潔を一方的に女に押しつけ、女の側だけの一夫一婦制を通して家族主義を帝国主義の都合の良いように、再編強化するためのイデオロギー攻撃」である。そもそも一夫一婦制とは、妻の純潔を担保にして、夫の子を間違いなく産み育ててゆく装置である。だから、「一夫一婦制を厳格に要求されたのは妻の側だけであり、夫にとっては家族を破壊しない形での一夫多妻制が常に存在してきた」。
そのような家庭の中で、女性は、家政の担当者、家事従事者、子供を産む工場、育児従業者として働いていた。彼女たちは、「女」であるよりも、誰かの「妻」であり「母」であることが要求されてきた。彼女たちの家庭での役割は、競争に疲れて帰ってきた夫に休息を与えて再び生産の場へ送り出すことであり、次の世代の労働力である子供を産み育てることである。こうやって、女性は、家庭まるごと、国家の生産装置に組み込まれているのである。
このような構造こそが、ウーマン・リブが問題にしているものなのだ。彼女たちは、あの手この手を使って女性の自立をはばみ、女性を道具として利用しようと虎視眈眈と狙っている国家や男性たちが社会のなかに作り上げた搾取構造それ自体を問題にしているのである。そして、優生保護法改正に反対することを通して、その構造それ自体を転換しようと考えているのである。このような、社会構造や制度へのまなざしが、ウーマン・リブの思想に厚みを与えている。
しかしそれだけではない。中絶ということがはらんでいるプライベートな意味についても語ることを忘れてはいない。たとえばこの著者は、最後に、中絶それ自体について意見を述べている。
確かに中絶という行為そのものは、「自由」なる男女の結合の結果の処理を、女体を傷つける形で行なわれるという意味で、又新たなる生命のいぶきを人為的に処理してしまうという意味でも、容認できない行為であることは絶対に確認しておく必要はある。
しかし、女が子供を産むという、言ってみれば最も自然な遠々たる人類史を築いてきた行為が、各歴史段階において管理され、そして支配され続けてきたのであり、そして今、資本主義生産関係の、特に帝国主義の中に包みこまれた時、それは人口政策、イデオロギー統制という形を通して国家に管理されてしまうのだ。
まさに、国家権力は、”子供を産むこと”を管理下におくことにより、”性”そのものをも管理強化しようという願望への序曲をかなでようとしているのだ(43)。
つまり、中絶そのものは、女性の身体を傷つけ、新たな生命のいぶきを処理してしまう「容認できない」行為である。しかしながら、子どもを産むというプライベートな場に国家が介入し、それを管理することは絶対に許されないという主張なのである。
中絶という行為を、「女性の権利」という一見分かりやすい言語で一刀両断しようとしない言説が、優生保護法改悪反対運動の当初から見られることに、注意を払っておくべきである。
第4章 性と生殖に関する三つの主張
ウーマン・リブは、七〇年代初頭に各地に同時発生的に出現した、草の根的な運動体であった。彼女たちは、優生保護法改正に各地で反対の声をあげた。それらの様子は、『資料』やミニコミなどに収められている。続々と開かれた反対集会や、厚生省前での抗議行動などを通じて、リブの女性たちの意見を載せたビラは、手から手へと渡っていった。
彼女たちはけっして統一のとれた行動をしていたわけではない。むしろ、それぞれ独立に動きはじめた流れが、運動を通して、いくつかの結節点をもったというのが実状に近いだろう。そして、お互いのビラやパンフレットなどに影響を受け合いながら、ある輪郭をもった主張が立ち現われてきた。
それを、以下の三点にまとめて整理してみたい。
(1)「国家は個人の生殖・出産に介入するな」、(2)「産む産まないは女の権利(自由)」、(3)「産める社会を! 産みたい社会を!」の三つである。
この三種類の言説は、互いに緊張関係をはらみながら、ウーマン・リブの様々な主張の中に繰り返し現われてくる基調低音である。
では、これらの主張を順番に見てゆこう。
まず第一の主張「国家は個人の生殖・出産に介入するな」であるが、これについては前節でくわしく触れたので、ここでは簡単に述べる。生殖や出産に関する決定は、個人、特に女性がプライベートに決めるべきことであるので、それに国家が介入してはならないという主張である。
実例をいくつか紹介しよう。「堕胎を望む、堕胎をせざるをえない女性に対して、国家が規制を加えたり罰したりすることに対して、われわれは反対するのだ」(『婦人通信』一九七三年)(44)。優生保護法改悪を阻止する会のスローガン(一九七三年)の中には「性・生殖の国家管理を許さない!」というものがある(45)。その他にも、「国家に私(女)の子宮を管理されてたまるか!」(関西優生保護法改悪阻止実行委員会、一九七三年)(46)「女の子宮は女のものであって、国家のものではない。中絶を希望する女に国家のいかなる干渉も不要である。」(『女から女たちへ』No.9 一九七三)(47)などがある。
要するにこの主張は、「個々の女性が決めるべきことがら」と、「国家の次元で決めるべきことがら」の二種類のカテゴリーを設定し、中絶などの判断は「個々の女性が決めるべきことがら」に属するのだから、国家がそこに介入するなということだ。個人(女性)・対・国家という枠組みで、問題をとらえようとするのだ。
中絶は、その女自身の問題であり、他者がどうのこうの言うなという言い方も見られる。「どのような状況であれ「産む・産まぬは女が決める」ことであり、それにたいして国家や他人からとやかくいわれることはないのである」(『女から女たちへ』No.9
一九七三年)(48)。「女が経済的にも精神的にも、生きるギリギリの選択として、中絶を選んでいるかどうか−−それは女自身が己れに問うことであって、法が、その行為を裁くことはもとより、他者が推測し断罪すべき事柄ではない」(優生保護法改悪阻止実行委員会「産める社会を! 産みたい社会を!」一九七三年)(49)。
いわゆる「子産み機械」「子産み道具」という表現もまた、国家による個人の生殖への介入を最大限に厳しいことばで告発したものである。「優生保護法の条文が変わっても変わらなくても、中絶禁止などとヤツラに言わせること自体、女たちが今も子産み道具へとおとされていることの証明なんだ」(斗! おんなメトロパリチェン「子産みキカイ=強制母的情況を突破せよ!」一九七二年)(50)。そしてさらには、その国家の裏に「厚顔な男ども」を透かし見る発想も出てくる。「このようなことを女たちにいわしめるのは、堕胎罪や優生保護法においても、誰がどのような痛みをもって女の子宮を語り得ようとしているかという噴怒からである。女の子宮について、その機能としてでも、ほとんど一度も痛みの対象にしたことがなく、女は子供を産み育てるもの、本来的な性的分担であるとして、子宮をもつすべての女を、ヌラヌラとした厚顔な男どもが、こうだからああ、ああだからこうと、いじくりまわしているにすぎないのだ!」(吉清一江「胎児考」一九七三年)(51)。
第二は、「産む産まないは女の権利(自由)」という主張である。
これは、出産や中絶を、当の女性の「権利」(あるいは「自由」)として認めるべきだという考え方である。これは、第一の主張の延長線上に立ちながら、その考え方をさらに一歩進め、法的あるいは倫理的な「権利」概念によって、出産や中絶などの行為の正当性を基礎付けようとする試みである。「権利」とは、ごく大づかみに言えば、あるものごとについて、他からの干渉を排し、自分の思うまま随意に決定したり、行為したり、処分したりすることの正当性が付与されていることである。投票する権利や、財産を処分する権利などがその代表的なものである。近代社会が個人に保障するそのような権利のひとつとして、「産む産まないの権利」を設定し、その権利を女性に与えようという主張なのである。
アメリカに代表される欧米のフェミニズムの中絶論は、中絶を基本的に「女性の権利」としてとらえ、それと「胎児の生存権」とのあいだの権利の衝突をどのように調停すればよいかについて、様々な議論を積み重ねてきた。それらの議論は、「生命の尊厳」を重視するキリスト教の立場や、「胎児の人格性」の発生を重視するパーソン論(自己意識や理性のある人間のみが生きるに値するとする)の考え方などとディベートを繰り広げながら、生命倫理学の基本パラダイムを形成してきた。
日本で、「女性の権利」を前面に打ち出した代表的なグループは、中ピ連(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)である。
中ピ連は、榎美沙子を代表として一九七二年に誕生したリブ・グループである。中ピ連は、「ピル解禁」を訴えて積極的にマスコミに出ていった。一般市民は中ピ連のピンクのヘルメットによって、はじめてウーマン・リブというものの存在を知ったと言ってよいだろう。私の周辺の男性たちにウーマン・リブについて聞くと、たいがいの場合、「ピンクのヘルメット」という答えが返ってくる。日本の男性社会は、いまもって「ウーマン・リブ=ピンクのヘルメット=中ピ連」というイメージしかもっていないように見える。しかし、中ピ連は、七〇年代ウーマン・リブの一エピソードでしかない。
さて、彼女たちは言う。女たちが自らの生き方を自由に選ぶこと、生むか生まないかを決めること、これがめざす方向である。いままで女は、無理やり生まされたり、堕させられたり、子殺しをさせられたりしてきた。しかし、そういうことをさせる社会こそがほんとうの悪なのであり、女個人を責めることはできない。だから、そういうひどい世の中から身を守るためにも、生みたいときには生み、生みたくないときには中絶できる権利が必要なのである。その権利を行使できるためのあらゆる手段が、女の側に与えられねばならない。「我々は胎児が障害者だろうと健丈者だろうと生む生まないは女が決めることであり、「中絶は女の権利」であることをこれからもはっきりと主張してゆく。」(52)
『資料』には未収録であるが、『ネオリブ』一一号(一九七二)には、次のような明確な宣言がある。「生む生まないを決めるのは女の基本的権利であり、あらゆる避妊手段は女の手に握らねばならない。」「又、生む生まないを決めるのは女の基本的権利であり何らの条件付けも必要としない。」(53)
中絶を女性の基本的権利としてとらえる考え方は、その後の、中絶をも含む生命の再生産プロセス全体を、女性の基本的人権としてとらえる考え方(リプロダクティヴ・ライツ/ヘルス)の祖形であるとも言える。このようなはっきりとした権利主張は、のちに述べるリブ新宿センターの「権利」概念に対する躊躇の態度への対抗意識によって、より先鋭化されたと見ることもできる。
しかし、中ピ連の言説は、障害者たちからの突き上げに対応しているうちに、次のような主張へとシフトしてゆくのである。『ネオリブ』三二・三三合併号(54)で、彼女たちは言う。
優生者であろうと、劣生者であろうと、我々は、生みたい時に生み、生みたくない時には生まない。腹の子供に関しては、誰にも口を差しはさませない。
そしてその直後で、次のように言うのである。
子供というのは、女が、自らの血と肉を分け与え、育くんだものである。いわば自分の身体の一部であり、中絶は自損行為である。実際に、我が身を傷つけ苦しむのは我々自身なのである。痛みをこらえて、自分で自分の腕を切り落したところで、誰に文句をいわれる筋合いもない。トカゲが、身の安全のために、シッポを切り落すようなものである。権力や男から、とやかくいわれる筋合いのものではないのだ。(55)
ここには、胎児とは「自分の腕」あるいは「トカゲにとってのシッポ」にような存在者であるという思想がある。そしてそれを処分する権利が、主体である女性に与えられているとみなされている。これは、生命倫理学で言えば、「胎児の道徳的地位」に関する言明である。日本のフェミニズムは、この論点について、英米のようなつっこんだ議論を避けてきた感がある。中ピ連のこの言明は、その中での例外的言説であろう。ただし、次項に見るように、これは必ずしもフェミニズムの標準的見解とは言えない。
なお、中絶を女の権利としてとらえたのは、中ピ連だけではない。その強力な例は、もう少し先で紹介する。当時の雑誌などを見ていると、やはり中絶の権利・自由という表現が出てくる。「女が自ら生きるとすれば、妊娠、出産についての決定権と、中絶の自由を女自身のものにすることが必要不可欠である」(小沢遼子、一九七三年)(56)。「女は産む自由と産まない自由を持つことが当然の権利だと思う」(瀬戸内晴美、一九七三年)(57)。権利ということばと、自由ということばが交錯するが、これらの考え方が女性たちのあいだに当時から存在していたことは確かである。
さて、第三の主張は、「産める社会を! 産みたい社会を!」である。
これは、中絶が女性の権利であるかどうかを前面に出すのではなく、むしろ女性たちが産みたいときに自由に産めるような社会を作り出すことが必要だという、社会改革の側面を強調したスローガンである。これは、七〇年代ウーマン・リブ運動の中心的基地であったリブ新宿センターが、前面に押し出した考え方である。
この「産める社会を! 産みたい社会を!」という主張は、中ピ連などの「中絶は女の権利である」という考え方に違和感をもち、それを思想的に克服しようとする過程で成立したものである。そこには「権利を主張するよりも、選択できる社会を要求すべき」という考え方があったという(58)。
そもそも「中絶は女の権利」という言い方が登場した当初から、それに対する違和感が、当の女性たち自身から表明されていた。たとえば、広島大学おんな解放戦線のビラには「(中絶が)追いつめられた女性の最後の手段(だからこそ禁止すればヤミ堕胎など一層悲惨な状況を生む)ではあっても、『産む・産まないは女の自由』『中絶は女の権利』という言い方には違和感を感じていました」と記されている(一九七三年)(59)。
この違和感の基底には、中絶とは、将来は我々と同じような人間へと成長してゆく可能性をもった生命を破壊してしまうことだ、という思いがあるからだ。生命の破壊を、「権利」として主張できるのかという根本的な疑問に、それはつながるはずである。好きこのんで中絶をする女性はいない。それは、できることなら避けたい選択であり、自分の子どもとして育ったかもしれない生命をみずからの意志で断ってしまったという思いから逃れられる女性は少ないのではないか。多くの女性たちが「自由」「権利」という突き放した言い方をするとき、それは、ぎりぎりの状況のなかでみずからを奮い立たせるためにあえてそう発話しているのではないだろうか。
ここに存在する違和感に徹底してこだわり、「中絶は女の権利」という思想に異議を申し立てたのが、リブ新宿センターの田中美津が一九七二年に書いた「敢えて提起する=中絶は既得の権利か?」と題された文章である。これは、七〇年代の優生保護法改悪反対運動が生んだ、思想的にもっとも深い文章であると私は思う。私はこの文章(および田中美津『いのちの女たちへ』田畑書店)が出された一九七二年をもって、日本のフェミニズム生命倫理誕生の年と考えたい。
田中は、「産む産まないは女の権利」という考え方に疑問を呈する。
「産む産まないは女の権利」ということばがある。つまり女が堕す「権利」を行使する時、腹の子には生きる権利がないということか?! しかし、もし腹の子が人間ならば、生きる権利を持たぬハズがない。女はその腹に一体ナニを胎むのか?
(60)
産む産まないは女の権利と言うけれど、その権利行使によって中絶されてゆく腹の中の胎児には生きる権利はないのか。女の腹の中にいるのは、どういう存在者なのか。こう田中は問いかける。
田中は話を、脳性マヒ者協会「青い芝の会」による優生保護法改悪反対の訴えに移す。青い芝の会は、優生保護法改正案の中に、障害者は社会の中にいないほうがいいと考えている健全者のエゴイズムを見いだし、それを批判してきた。田中はこの訴えを取り上げ、「こんな世の中だから堕して当然」と考える女の意識に便乗する形で、障害者を出生前にチェックして、生むか生まぬかを女に選択させようとする悪企みが仕かけられようとしていると指摘する。
こういうふうに論をすすめながら、田中の論点は、中絶という行為を理屈によって正当化し、合理化して安心しようとする女性のこころの問題へと深く入ってゆくのである。田中はふたたび冒頭の問い、すなわち「中絶は女の権利」と言えるのかという問いに戻ってゆく。
誤解のないようにくり返そう。社会の悪はどこまでも社会の悪として追求せねばならない。しかし、「こういう社会だから」「胎児は人間ではないから」という理屈をもって堕胎を肯定しようとしても、しきれないものが己れの中にあり、それを問いつめることを回避しては、子供の生命を神聖化する考え方にあたしたちは勝てない。それは倫理やエセヒューマニズムとは関係ない地平における、生命(いのち)の持つ意味に対する問いかけである。(61)
胎児は人間ではないから、女性には中絶する権利があるのだ。そういうふうな理屈で自分を納得させようとしても、しきれないものが、自分の内面にはある。それがいったい何であるのかを突き詰めることが必要だ。田中はそう訴える。この問いのレベルは、「倫理」「ヒューマニズム」の次元ではく、「生命」「いのち」の次元であると述べている。日本のフェミニズム生命倫理は、その当初から、単なる「倫理」「ヒューマニズム」を超えた地点から思索を開始しているのだ。それは生命倫理学ではなく、まさに「生命学」をめざしていたのである。田中が「それは倫理やエセヒューマニズムとは関係ない地平における、生命(いのち)の持つ意味に対する問いかけである」と書いたとき、彼女ははっきりと生命存在としての己れの真実を見据えようとする生命学の地平に立っていたと私は考えたいのだ。
田中は言う。カトリックや生長の家のような胎児の生命尊重論はナンセンスだが、だからといって、「子の生命と己れを真向わせようとする思考のすべてをエセヒューマニズム呼ばわりすることは暴論であり、それは危険な方向を孕むものだ」。では、その点を突き詰めていったとき、どういう地点に到達するのか。田中は言う。それは自分が「殺人者」だという自覚である。
中絶させられる客観的状況の中で、己れの主体をもって中絶を選択する時、あたしは殺人者としての己れを、己れ自身に意識させたい。現実に子は死ぬのだし、それをもって女を殺人者呼ばわりするのなら、敢えて己れを罪人者(ママ)だと開き直らせる方向で、あたしは中絶を選択したい。
あぁそうだよ、殺人者だよと、切りきざまれる胎児を凝視する中で、それを女にさせる社会に今こそ退路を断って迫りたい(62)。
女は、好んで中絶しているのではなく、中絶させられているのだ。それを確認したうえで、田中は、中絶する自分を殺人者としてとらえる。胎児の生命を絶つという事実から目をそらすことなく、その行為を殺人としてとらえる。そのうえで、自分が殺人者とならざるを得ないようになっているこの社会の構造と、そしておそらくはこの生命世界の構造の真相を、殺人者の目からとらえ直そうとしているのである。そしてこの問いのさらに背後には、殺人や生命の殺戮なしには生きていけない人間存在とはいったい何なのかという根本的な問いが存在していると私は思う。その証拠に、田中美津は八〇年代に入って鍼灸師となり、生命へと思いをめぐらせるようになる(63)。
田中のこの文章は、ウーマン・リブの初期の思索が、いかに深いところまで届いていたかを示すものである。この地点にしっかりと立脚し、田中が切り開いた可能性をさらにつき進んでいくことから、生命学の可能性は開けてくるのだ。アメリカを中心にして開花した生命倫理学には、この方向への深まりが見られない。この可能性をはっきりと提示して、後の議論へと受け継いでいった日本のウーマン・リブの思索を再評価しなければならない。
この文章の背後には、田中が『いのちの女たちへ』で展開した「とり乱しウーマン・リブ論」がある。矛盾にみちた「いのち」として生きている自分自身の「とり乱し」を肯定し、それにとことんまでこだわることで、自分の生を変革し、他者と出会っていこうとする哲学がある。
たとえば同書で田中は、マニキュアをして革命理論を語った学生運動の女性が、逆にそのマニキュアと革命理論との矛盾をリブの人々に問いつめられた事件について語っている。田中は言う。
その女のまちがいは、マニキュアをしたことにあるのではなく、その教科書的な解放理論がマニキュアに象徴されるそのヒト内部の矛盾から改めてとらえ返されることがない、理屈に己れを従属させている、そのあり方がまちがいなのだ。<ここにいる女>から出発するとは、マニキュアと革命理論を同居させている、その矛盾を矛盾としてごまかしなく見つめるところから出発するということなのだ。(中略)
リブは常にふたつの本音から出発する。その間のとり乱しから出発する。<ここにいる女>の、ふたつの本音の間でとり乱すその「現在」の中にこそ、生き難さの歴史の中で、さまざまに屈折してこざるをえなかった、生ま身の女の、その確かな温もりが胎まれている。(64)
リブは常にふたつの本音から出発すると田中は言う。中絶に関して言えば、女の身体は女のものという本音と、私は胎児の殺害者だという本音の、その間でとり乱す地点から出発することこそ、リブが切り開いたはずの思想的地平である。田中は、その地平から、フェミニズムの生命思想を語りだそうと試みている。
さて、このような背景のもとに、「中絶の権利」ではなく、「産める社会、産みたい社会」を作ってゆこうというスローガンが登場する。一九七三年の優生保護法改悪阻止全国集会のために配布された、優生保護法改悪阻止実行委員会のビラ「産める社会を! 産みたい社会を!」が、その代表的なものである。
さきほどの田中の文章を受けて、ビラは次のように言う。
子供の命より車の生産量を重視するこの世は問わず、女にのみエセヒューマニズムを押しつけてくる「生長の家」のナンセンスさ加減は今さら云うまでもない。がしかし、だからといって<こんな社会だから堕して当然><胎児は、まだ意識がないから>と称して、子殺しさせられる我が身の痛みを、女は合理化でない。合理化してはならない。(中略)
産めない社会の悪を悪として追求する中で、女は切り刻まれる胎児と真向おう。女に子を殺させる社会は、むろん女自身も生かせない。次に殺されるのは我が身である、その事実を鮮明に意識化する中で、産める社会、産みたい社会をこそ創っていこうではないか! その闘いを通じて女に子殺しを強制する社会から、己れの生命の可能性を、誇りをとり戻していこうではないか。そうだ。中絶・避妊の主体的選択とは、あくまで産める社会・産みたい社会あってのもの。(中略)
ひとつの生命とごまかしなく真向かった、その己れへの確信をよりどころに、己れの生を主体的に選択するということの怖さとキビシサを、その身に負いつつ、女たちよ今こそ叫ぼう! 産める社会を! 産みたい社会を! (65)
権利ということばで合理化するのではなく、胎児の生命とごまかしなく真向かったうえで、「産める社会、産みたい社会」の建設に向かおうという呼びかけが、ここにはある。そのような社会が到来してはじめて、「中絶」「避妊」の主体的選択というものが女性たちに開かれてくるというのだ。そして、中絶の倫理性をどう考えればよいのかという問題は、女性たちに中絶を強制しているこの社会が変わって、女性たちが産みたいときに産めるような状況になってからはじめて問われるべきなのだ。このような思想がはっきりと示されている。
江原由美子は、八〇年代の論文の中で、次のように的確に表現している。
「中絶」を単なる外科手術として肯定してしまうのではなく、あえてその「子殺し」としての側面を直視したリブ運動のこうした主張には、かえって強烈な自我の主張がはらまれていたと読むこともできる。中絶も子殺しも女と子どもの「傷つけあい」であり、母と子が傷つけあわねば生きられないような状況が厳として存在する−−この状況を直視した上で、たとえ「手を汚しても」女は自我を主張せざるをえない。だからこそ、問題とすべきは、こうした女と子どもの対立・傷つけあいを生む状況の構造なのだ−−とリブは主張する(66)。
田中美津に先導されたこのような思想は、「子殺しをしてしまう私とは何か」という内面への問いかけと、「女に子殺しをさせる社会とは何か」という社会構造への問いかけのふたつが車の両輪となって展開されるときに、もっとも深いものとなる。しかしそれは、維持するのがとてもしんどい立脚点である。へたをすると、単なる内面への沈潜に終わってしまったり、あるいは女性を抑圧する社会構造の糾弾だけに終わってしまったりする危険性がある。この地点から退却することなく、どこまで前に進めるかが問われているのだ。
しかしながら、当時の「産める社会を! 産みたい社会を!」のスローガンに対しては、反発もあった。リブがそこに収斂されていったわけでは、けっしてない。まず、「女性の権利」を主張する側からの反論があった。関西のリブのミニコミである『女から女たちへ』には、次のような文章が載っている。これは、かなり強烈な反論である。
「中絶は女の権利である」ということばにためらいを感じる女が少くない。「権利」の二文字にひっかかるのだ。でもわたしは「中絶は女の権利である」と主張したい。(中略)
「産める社会を! 産みたい社会を!」のスローガンはあまりに抽象的で、無害で、わたしには「中絶は女の権利である!」の方がずっと具体的で現実的だと思われる。政府が中絶をさらに制限しようとしているとき、女は中絶の権利を主張するべきではないだろうか。(中略)
胎む性の女には産む権利があると同様に、中絶する権利もあるのである。その権利がさらに縮小され、ますます女が生きがたくされようとするいま、「中絶は女の権利である!」と声を大にして叫びたいと思う。(中略)
女の子宮の中でしか胎児が成長しないということは、女が希望するときにのみ胎児はこの世に生まれる可能性をえるのであり、その女を無視して「胎児は生きる権利がある」とは誰も言う資格はない。(中略)
女が産みたいときに生めるような社会を! と同時に、女が産みたくないときには中絶できる自由を! 女の権利として主張したい。(『女から女たちへ』No.9
一九七三年)(67)
これははっきりとした「女性の権利」の主張であり、リブ新宿センターの影響力にもかかわらず、女性の権利論が根強く女性たちのあいだに存在したことを示唆しているように思われる(68)。ことに、最後の文章は、何を女性の権利として主張するのかという点に関して、新たな視点を提示している。
「産める社会を、産みたい社会を」というスローガンは、子どもを産むことがいちばん価値があるのだという、母性主義の主張として受け止められることもあった。そのスローガンには、何かの理由によって「産めない人」や「産まない人」のことが排除されているかのような印象があった。江原由美子は、「実際、リブ運動の主張は読みようによっては、産むことは積極的で価値があるが、堕ろすことはちがうという価値観の上に立つもののようにすら解釈できた。状況さえ許せば女は皆産むべきなのか。これは女性の価値をあくまで母性にしか認めない「母性礼賛」の主張と五十歩百歩ではないか」と解説している(69)。先にあげた『女から女たちへ』の引用の最後の文章にも、その疑念が反映されているように思われる。八〇年代に広まった「産む産まないは女が決める」というスローガンもまた、このあたりへの配慮から生まれてきたと言えるだろう。
田中美津の「敢えて提起する=中絶は既得の権利か?」と同じ年、一九七二年に発表されたもうひとつの深い思索がある。それは、村上節子の「HOW TO CHUZETSU」だ。村上もまた、田中に似て、中絶は子殺しであるということから目をそむけずに、自己と「産み」というものを見つめてゆく。村上のこの文章は、江原の言う「母性礼賛」の典型例と解釈されてもしかたないかもしれない。しかし、ここには単なる「母性礼賛」とはまったく異なった視点が存在している。
今の生まない選択とは、すべて子殺しであり(ああこの主張はカトリックと同じになるね!)、生きることとは子を殺すことで生きのびる自分を、ある子を殺しある子を生む女を、みずからみつめ続けることなのではないだろうか。(中略)
私は女が生みたいだけ生める世の中に憧れる。女が生まぬのは、「男」を拒否し、世の中を拒否する意志、だから生む算段にこそ、生まない意志は活かされるべきなのだ。生まないといいはるのは生む日のためだ。女は生むことを忘れてはならない。生むことに価値があるという意味ではない。生むことの権利があるといっているのでもない。生むこと自体は生理でしなかい。人間の女のすべきことは生む欲望をもつことだ。生まれる価値と生まれる権利のために。命の管理を神や他人にまかせておけるものか!「生まれることと生きることは同じことなのでしょう?」女よ、冷静に子殺しをし、衝動的に子を生もうよ! (70)
中絶は子殺しであり、女は生むことを忘れてはならないとしながらも、「冷静に子殺しをし、衝動的に子を生もうよ」と言い放つその点において、村上の考え方は母性礼賛をはるかに超え出ている。中絶というのは、なるべく見つめたくないし、その倫理性を語りはじめると女性運動への攻撃を誘発するかもしれないという配慮からフェミニズムはそれについて積極的には語りたがらない。しかし、その点に徹底的にこだわって言語化し、「冷静に子殺し」をしようと書く村上の文章には、鬼気迫るものがある。「冷静に子殺し」をしようという問題の引き受け方を、どう考えればいいのだろうか。
第5章 八〇年〜九〇年代フェミニズムへの流れ
七〇年代の第一次優生保護法改正劇は、七四年に審議未了廃案となって終結した。一九七七年には、優生保護法改悪反対運動の拠点となっていたリブ新宿センターが解散し、七〇年代のウーマン・リブはひとつの区切り点を迎えた。秋山洋子は、この七七年を、「ウーマン・リブ」から「フェミニズム」への転換点としてとらえている。日本のウーマン・リブは七〇年代の思想と行動だった。その精神はその後も個々の女性たちへと引き継がれていったが、社会運動体としてのウーマン・リブは八〇年代を前に前線から退いた。
八〇年代は、女性が社会に本格的に進出し、消費の主役に踊り出た時代である。女性運動の言説も、書籍や雑誌などのメディアにのって、七〇年代とは比較にならない規模で流通しはじめた。それにともなって、女性運動の主役も、メディアに近い位置にいる文筆家や学者へとシフトしていった。彼女たちの文章を読むことによって、男性も含め、多くの人たちがはじめてフェミニズムというものの存在を知った。女性運動が培ってきた言説は、八〇年代にようやく情報社会のフロントページにまで届いたのである。
女性運動を取り巻く環境が大きく変動をはじめた一九八二年に、第二次優生保護法改正劇が起こった。経済条項撤廃をめざしたこの動きに対して、女性たちはすばやい対応をした。各地で集会が開かれ、改正反対の要望書が次々と発表された。パンフレットや書籍が続々と刊行された。これらの反対運動の盛り上がりによって、改正案は国会には提出されなかった。八二年前後に出版された関連資料・書籍の豊富さは、情報社会のなかで彼女たちが着々と力をつけてきたことを示している。
第二次改正劇において、自民党から出されていた案は、経済条項の撤廃に限定されている。それは、七二年の法案のパラダイムから一歩も出ておらず、むしろ後退したものだと言える。だから、それに対する反対運動の言説もまた、七〇年代のものとほぼ同型のものにとどまったと言ってよい。前章で紹介したウーマン・リブの三つの主張は、すべてそのまま反対運動の主張のなかに引き継がれている。八二年の改正反対運動における女性たちの言説パラダイムは基本的には七〇年代と同じである。七〇年代にリブの女性たちが主張した様々な論点が、幾とおりかのバリエーションをともなって再現されている。社会運動体としてのリブは前面からは退いたかもしれないが、その思想と言説は八〇年代の女性運動の担い手たちにしっかりと受け継がれている。
しかしながら、七〇年代にはさほど顕著ではなかった考え方が、八〇年代には表通りへと出てくる。
そのひとつは、中絶の自由を求める運動が、当時の国際的な女性の人権運動との関連において主張されるようになった点である。一九七五年にはメキシコで国際婦人年会議が開催された。これには日本からも女性たちが参加し、インパクトを受けて帰国している。この会議は、先進工業国のフェミニストと、第三世界のフェミニストが出会って、南北問題をめぐって先進工業国のフェミニストが批判されたことで有名な会議である。
その後、一九七九年の第三四回国連総会で「女性差別撤廃条約(女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約)」が採択された。そこには、「子の数及び出産の間隔を自由にかつ責任をもって決定する同一の権利並びにこれらの権利の行使を可能にする情報、教育及び手段を享受する同一の権利」を女性に確保するべきことが謳われている(71)。生殖の自由を女性の権利として認めたのである。「子供の数と出産間隔を決定する権利」という言い方のなかには、あきらかに中絶を行なう権利が含まれている。
このような国際的な女性の人権運動にリンクする形で、日本の女性運動は、中絶の問題をとりあげるようになった。
たとえば、日本家族計画連盟は、一九八三年の声明文「優生保護法の一部「改正」に反対する」において、次のように主張している。
まず、改正に反対する理由として、
「産む」「産まない」は個人が決める問題であり、国家が介入すべきではない
とする。そして、テヘランの国連の人権宣言やメキシコの国際婦人年会議に言及し、優生保護法の改正は、中絶が個人および夫婦の権利であるとする「世界的合意の線に沿って見直され、検討されるべきである」とする。経済的理由の削除は、「産む」「産まない」の選択を実質的に奪うことであり、「基本的人権」を侵すものである(72)。
このように、「産む」「産まない」は個人が決めることであり、それは基本的人権であるという考え方が前面に押し出されてくる。世界的な女性の人権運動の流れをバックにして、改正論者たちに圧力をかけていくというやり方が出てきたのだ。斎藤千代は、「七四年の各種の反対声明を読み比べてみると、今回は「人権」がずっと鮮明になっているものが多く、十年間の進歩は感じます」と八三年に述べている(73)。
あるいは、リブ新宿センターの流れをくむ「'82優生保護法改悪阻止連絡会」(阻止連)は、一九八二年のパンフレット『優生保護法改悪とたたかうために』において、次のように主張している。
このように述べたあとで、国際婦人年会議を引用して、みずからの反対運動を世界の流れのなかに位置付けようとしている。『資料』によれば、優生保護法改悪に反対する会(東海)は、「産む・産まないは女が決める大阪集会」を開いており、「産む産まないは女が決める」という言い方も登場していることが分かる(75)。
日本家族計画連盟と阻止連は、基本的には同じ路線で主張を展開しているのだが、しかし細かい点では重大な差異がある。日本家族計画連盟は、産む産まないは「個人」の基本的人権だとしているのに対し、阻止連はそれを「女」の基本的人権だとしているのである。産む産まないを「個人」の基本的人権だと言ってしまうと、そこには「男性」も入ってくることになる。つまり、女とか男とかいう以前に、一個の人間としてそのような権利があるという思想なのだ。これは、性別を抜きにした「近代的個人」の概念を信頼する近代的思想である。人間は、女とか、男とかである前に、まず「かけがえのない一個の人間」なのだという思想である。そういう「かけがえのない一個の人間」であるあなたや私に、産む産まないの基本的人権があるのだということなのだ。
しかしながら、阻止連の方はそう考えない。産む産まないは「個人」の基本的人権ではなく、「女」の基本的人権である。産む産まないの基本的人権に関しては、男は、女と同じような資格ではそこに関わることができない。子どもをはらみ、出産し、あるいは中絶するのは、女の身体においてなのであって、男はそれらを自分のこととしては経験できない。さらに言えば、女と男との関係は対等ではなく、差別的である。ここにあるのは、人間は無色透明の「人間」一般として存在するのではなく、まず前提として「女」あるいは「男」として存在するのであり、性別・ジェンダーからの規定抜きに考えることはできないという思想である。これは、七〇年代リブの思想を引き継ぐものである。リブは、いまここに生きている「女」としてのこの私というものに徹底的にこだわり、そこからすべての思索と行動を開始した。「人間」という概念は、性差別を隠蔽するために男が発明したものであり、それにまどわされてはいけない。阻止連は、その後、「産む産まないは女(わたし)が決める」という言い方を好んで使うようになる。「女」ということばのあとに、わざわざ「(わたし)」という読み方を振るところに、彼女たちの自己主張がもっとも先鋭にあらわれている。
産む産まないの権利があるとして、それはいったい誰の権利なのかという問題が、ここにクリアーに姿をあらわしたのである。『資料』によれば、優生保護法改悪に反対する会(東海)は、一九八二年の反対集会で、アンケートを回収した。すると、「産む産まないは女の基本的人権」という言い方に対して、次のような意見が寄せられた。「女性のみでなく「個々人の権利」とすべきである」「あたりまえのことですが、この問題は女性だけの問題ではないと思います。運動を大きくして、より男性も参加できるように「人間の(個人の)基本的人権」の方がよい」(76)。ジェンダーが論点となるとき、「同じ人間だから」という言い方がどこまで通用するのかという難問が出てきたのだ。この点は、これから男性学が本格的に立ち上がってくるときに大きく浮上してくる問題のひとつであると私は思う(77)。
国際的な女性の権利運動の流れのなかで優生保護法改正を考えてゆくという路線は、その後も続けられることになる。一九九四年カイロで国連世界人口開発会議が開催され、「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」(性と生殖に関する健康と権利)ということばが登場した。そして、そのような枠組みのなかで中絶問題も議論しようという流れが出てきた。一九九六年に改正されて成立した母体保護法には、リプロダクティブヘルス・ライツ(性と生殖に関する健康・権利)の観点からを取り入れた附帯決議がなされた。
八〇年代以降、日本の女性運動は、第三世界をも含めた国際社会のただなかで思索と活動を進める時代に本格的に突入したのである。リブの時代にもそのような視点はあったのだが、観念レベルにとどまっていた。九〇年代の女性運動は、リブが予想しえなかったような国際時代の困難に直面しはじめている(78)。それらの草の根の実践は、彼女たちに、そして後からついてゆくであろう男性たちに、貴重な経験をもたらすはずである。
註
(1) たとえば、アメリカの生命倫理学の制度化に寄与したEncyclopedia
of Bioethcis 初版(一九七八年)には、「フェミニズム」という項目がない。一九九二年に刊行された『フェミニズムから見た医療倫理』(Holmes,H.B.
and Purdy,L.M. 1992) の冒頭で、編者のホームズは、次のように述べている。「要するに、本書は、主流派医療倫理学の紛れもない不充分さを明らかにするものである。われわれは、女性の洞察力に持続的な関心をはらってゆく必要があるし、女性がもっている(諸)問題をずっと強調し続ける必要がある」(7頁)。また同書でシャーウィンは言う。「医療倫理学がフェミニズム的であるためには、ポリティカルな次元に対する考察が必須である。しかしながら、この点は、いままでの医療倫理学の文献にはほとんど欠如しているのである」(二二頁)このような、フェミニズムにとっては自明の大前提の必要性を、いまごろになってアメリカの女性たちが主張し始めたということは、それまでのバイオエシックスがいかにフェミニズム的でなかったかを物語るものである。
(2) 「五月第一回リブ大会に向けて」ニュース4号、一九七二年、『資料』T、三五六頁。
(3) 井上輝子、一九七五。
(4) その様子は、『資料』『インパクション・リブ二〇年』『全共闘からリブへ』などの資料や回顧録にくわしい。リブ誕生のひとつのきっかけは、全共闘運動内部の女性差別の告発にあった。また、加納美紀代は「当時女たちの間では高群逸枝の『女性の歴史』、『火の国の女の日記』(講談社文庫)がリブの聖典のように読まれていた」と述べている(『まだ「フェミニズム」がなかったころ』三〇四頁)。「ウーマン・リブ」ということばについては、秋山洋子が『リブ私史ノート』で、「ウーマン・リブ」という和製英語が誕生した経緯を述べている。「ウーマン・リブ」ということばが最初にメディアに登場したのは『朝日新聞都内版』一九七〇年一〇月四日である。その前後に、朝日新聞は新しい女性運動について何本か記事を掲載し、「見方によっては朝日の都内版が「ウーマン・リブ」という言葉の定着のためのキャンペーンをしていたようなものだ」と述べている(四七頁)。またリブにとって「生きること」と「世の中を変えること」が中心テーマであったことが、秋山の以下の記述からもうかがわれる。「しかし、一九七〇年代の日本のリブ運動においては、「青踏」の遺産はかなり広い範囲で共有されていた。「母性」と「女性の主体性」とは、女にとって二者択一の選択肢ではなく、その選択を強制されることこそが女に対する抑圧であり、そのどちらをも捨てることなく人間として女として豊かに生きること、それを可能とするように世の中を変えることが、当時のすべての日本のリブグループが比重の差はあれ共にめざしていた課題であった」(一二二〜一二三頁)。
(5) 優生保護法が改正された九六年より「SOSHIREN 女のからだから」に改名した。
(6) 法律別表のなかで遺伝性疾患のカテゴリーが規定されている。(一)遺伝性精神病(精神分裂病、そううつ病、てんかん)、(二)遺伝性精神薄弱、(三)顕著な遺伝性精神病質(顕著な性欲異常、顕著な犯罪傾向)、(四)顕著な遺伝性身体疾患(ハンチントン氏舞踏病、血友病、遺伝性の難聴など二二の病気)、(五)強度な遺伝性奇型(裂手、裂足、先天性骨欠損症)。しかし、法律条文には、遺伝病ではない「らい(ハンセン病)」や、精神病・精神薄弱・精神病質が含まれている。「不良な子孫」とは、かなり幅広い概念であることが分かる。
(7) 優生手術にかんしては、三つのカテゴリーに分かれている。(a)医師の認定による優生手術。これは本人の同意が必要である。(b)審査を必要とする優生手術。別表の遺伝性疾患にかかっている者については、その遺伝を防止することが「公益上」必要だと審査された場合には、本人の同意を必要とせず、公費負担で手術できる。(c)精神病者、精神薄弱者の優生手術。これは審査と保護者の同意があれば、本人の同意は必要ではない。優生手術というのは、子どもを産めなくさせる手術なのだから、優生保護法というのは、重い遺伝病や精神病の人間たちに、本人の同意なく、いわば「強制的」に子どもを産めなくさせることを肯定する法律なのである。厚生省資料によれば、(b)カテゴリーの優生手術は、一九五五年に一二六〇件、一九七〇年に二七一件、一九八九年に二件となっている。(c)カテゴリーの優生手術は、一九五五年に一〇二件、一九七〇年に八九件、一九八九年に一件となっている。一九九三年以降は両者ともゼロとなった。本人の同意をかならずしも得ることなく、戦後このくらいの数の優生手術が行なわれてきたわけである。
(8) 「自己堕胎」は一年以下の懲役、「同意堕胎」は二年以下の懲役、「業務上堕胎」は三ヵ月以上五年以下の懲役、「不同意堕胎」は六ヵ月以上七年以下の懲役。判例によれば、ここでいう堕胎とは「自然の分娩期に先立ち、人為的に母体から胎児を分離させることをいい、その結果、胎児が死亡したと否とを問わない」とされている(大審院判決明治四四・一二・八刑録一七−二一八三)。もし、堕胎後も生きていた胎児を殺害した場合は、堕胎罪に加えて殺人罪も成立するという判例もある(大審院判決大正一一・一一・二八刑集一−七〇五)。
(9) だから、そもそも刑法堕胎罪それ自体を撤廃しなければならないと、女性運動は訴えているのである。
(10)注目すべきは、第一項に、遺伝性とは限らない「精神病・精神薄弱・精神病質」が入っている点である。これだと、環境要因や心的外傷によって精神病になった人間も、そのことを理由にして中絶できることになる。ここにある優生思想は、遺伝病の撲滅よりも、さらに拡大されているのだ。
(11) 国民優生法第一条は「本法ハ悪質ナル遺伝疾患ノ素質ヲ有スル者ノ増加ヲ防偈[←ニンベンをシンニュウに入れ替え]スルト共ニ健全ナル素質ヲ有スル者ノ増加ヲ図リ以テ国民資質ノ向上ヲ期スルコトヲ目的トス」としている。石井美智子は、「同法に基く優生手術の実施件数は、戦中の五年間に四五四件、戦後の二年間に八四件にすぎず、悪質遺伝病の素質ある子孫の増殖を防止するためには同法はほとんど無力であったとみられている」としている(石井美智子「優生保護法による堕胎合法化の問題点」一二九頁)。
(12) 石井美智子は、国民優生法によって堕胎に関する法規制は一層厳格なものとなったと述べている(石井美智子、一二九頁)。
(13) 国民優生法と優生保護法成立については、太田典礼『堕胎禁止と優生保護法』、石井美智子「優生保護法による堕胎合法化の問題点」、斎藤千代「見えない道−優生保護法の系譜をたずねて 見たこと、考えたこと」、松原洋子「<文化国家>の優生法」、藤目ゆき『性の歴史学』第一〇章を参照。加藤シズエ、太田典礼らは、一九四七年に独自の優生保護法案を衆議院に提案したが、審議未了廃案となった。そのときの案では、中絶の要件が以下の二点になっている。「一 妊娠又は胎児の父たる者につき第三条並に第一〇条による断種手術又は放射線照射を行うことができる理由があって母体の生命又は健康に危険を及ぼし或は子孫に悪い影響を与えて劣悪化するおそれあるとき/ 二 強姦その他不幸な原因に基いて自由な意志に反して受胎した場合であって、生れ出る子が必然的に不幸な環境に置かれ、そのために劣悪化するおそれあると考えられるとき」(太田、三二四頁)。優生思想はかなり強いと言わざるをえない。なお優生保護法成立時の人工妊娠中絶の要件の第四項は、以下のようになっていた。「四 妊娠又は分娩が、母体の生命に危険を及ぼす恐れのあるもの」。また、市野川容孝によると、強制的な優生手術は、戦後、優生保護法のもとでピークに達しており(一九五五年)、その数は戦時中の国民優生法のときよりもはるかに多い(市野川の発表「「優生保護法」から「母体保護法」へ」(一九九六年度生命倫理研究会シンポジウム))。
(14) 藤目ゆき『性の歴史学』三四五頁以降。
(15) 『第一回国会衆議院厚生委員会議事録』第三五号(一九四七年一二月一日)二七三〜二七四頁。
(16) 太田典礼『堕胎禁止と優生保護法』一六四頁。
(17) 一六五頁。
(18) 谷口弥三郎『優生保護法解説』序。
(19) 石井美智子「優生保護法による堕胎合法化の問題点」一三八頁。
(20) 安倍雄吉『優生保護法と妊娠中絶』一四頁。
(21) 五四年には、厚生大臣が「人口抑制の見地に立って」受胎調節を普及推進したいと述べている(藤目ゆき『性の歴史学』三五七〜三七一頁)。優生保護法と人口管理との関係は浅くない。ただ、田間泰子が言うように、一般庶民は、人口問題というよりも、子どもを少なく計画的につくって幸福な家庭を築くための方策として中絶を受け入れていったのであろう(田間泰子「中絶の社会史」一三五頁)。
(22) 加藤シヅエ「まず何よりも避妊を」『あごら』二八号、一七四頁。
(23) 藤目ゆき『性の歴史学』三五八頁。松原洋子「<文化国家>の優生法」一四頁参照。
(24) 一四頁。
(25) 一四頁。
(26) 二〇頁。
(27) このことの意味は、かなり重要なのではないだろうか。経済条項は、成立後に、中絶をやりやすくするためにあとから付け加えられたという経緯を背負っている。だから、七〇年代に出されてくる経済条項の廃止という提案は、付け加えられたものを元に戻すという文脈で出されてきたと言えるのかもしれない。なお四九年の改正のときの国会審議で、各党からどのような意見が出されたかは、石井美智子論文に詳しい(一四一〜一四三頁)。
(28) 一〇八頁。
(29) 上野輝将「出産をめぐる意識変化と女性の権利」一〇五〜一〇六頁。
(30) 太田典礼『堕胎禁止と優生保護法』二七〇〜二七三頁。
(31) 六〇年代半ば以降のいわゆる水子寺の急増の陰には生長の家が存在していたし(落合誓子、一九八三年)、八二年に優生保護法改正を迫る国会質問をしたのは生長の家選出の自民党議員・村上正邦であった。八二年の村上正邦の国会での芝居がかった演説は有名であるが、その後も村上は議員を続け、九〇年代には夫婦別姓について反対の論陣を張って自民党議員の保守派をまとめた。九七年の臓器移植法案の審議においては、衆議院を通過した「脳死を人の死として移植の窓口を拡大する」法案に対して、本人による移植の事前の意思があるときのみ脳死の判定を限定するという慎重案を参議院で支持し、可決させた。生命やジェンダーに関する重要法案に、宗教団体選出の一国会議員が、熟練した永田町手法をもちいて、大きな影響力をふるうという事態を、どう考えればいいのだろうか。
(32) 一九七二年の参議院予算委員会で佐藤栄作総理は「私は、一面で、わが国が堕胎天国だという、そういうたいへん忌まわしい、また耳にする、口にするすらたいへんいやなことばを言われております」と答弁している(参議院予算委員会会議録第四号 昭和四七年四月四日、二三頁)。
(33) 田間泰子「中絶の社会史」一四〇〜一四四頁。しかし、考えてみれば、この時期に中絶が諸悪の根源だと言わんばかりの言説がまとまって出てきたのは不思議な光景ではある。というのも、日本の中絶件数は一九五五年をピークとして、その後はどんどん減り続けてきていたからである。その背景には、避妊の大衆化があって、妊娠の機会それ自体が減ってきたことがある。一九七〇年には、中絶の数は、ピーク時の2/3ほどになっているのだ。
(34) 参議院予算委員会会議録第四号、昭和四七年四月四日、二三頁。
(35) ローゼンバーグ・トムソン編『女性と出生前診断』六七頁。
(36) 『リブ論第一集・ノアの箱船』所収(パンフレット、一九七二年、『資料』未収録)。
(37) 同パンフレット、七〜八頁。
(38) 九頁。
(39) 九頁。
(40) 一一頁。
(41) ぐるーぷ闘うおんな・緋文字・闘う女性同盟・集団エス・イー・エックス共同製作、連絡先リブ新宿センター、とある。
(42) 『資料』T、一八九〜一九一頁。
(43) 一九一頁。
(44) 『資料』U、三六六頁。
(45) 『資料』U、一八五頁。
(46) 『資料』U、一八八頁。
(47) 『資料』U、三二七頁。
(48) 『資料』U、三二七頁。
(49) 『資料』U、一七八頁。
(50) 『資料』U、一七頁。
(51) 『情況』二月号、二九頁。
(52) 『ネオリブ』六号(一九七二年)/二八号(一九七三年)/『資料』U、二四六〜二四八頁。
(53) 二頁。
(54) 『資料』未収録、一九七三。
(55) 四頁。
(56) 「男の責任を問う!」『月刊ペン』一二月号、八二頁。
(57) 『婦人公論』六月号、一五八頁。
(58) 『資料』U、一七一頁。
(59) 『資料』U、一六三頁。
(60) 『資料』U、六一頁、圏点原文。
(61) 六三頁。
(62) 六三頁、圏点原文。
(63) 田中美津 一九八三年、一九九五年、一九九六年。
(64) 田中美津『いのちの女たちへ』六九頁。
(65) 『資料』U、一七八頁、圏点原文。
(66) 江原由美子『女性解放という思想』一三一頁。
(67) 『資料』U、三二六〜三二七頁。
(68) グループ・母性解読講座の一九九一年の座談会で、発言者のひとりが、「産む産まないは女の自由」から「産める社会を、産みたい社会を」とスローガンが展開していったという説はむしろ逆で、ほんとうは「産める社会を、産みたい社会を」から「産む産まないは女が決める」に変わってきたというのが実感だと言っている(グループ・母性解読講座編『「母性」を解読する』二六〇〜二六一頁)。しかし、実際に資料を当たってみると、七〇年代初頭には「産む産まないは女の自由」「中絶は女の権利」というスローガンと、
それに抵抗感を覚える「産める社会を、産みたい社会を」というスローガンの二種類があって、八〇年代になって「産む産まないは女が決める」というスローガンが主に阻止連によって広められたという感じである。また、「産む産まないは女(わたし)が決める」という言い方は、すでに一九七三年に出現している。一九七三年の関西優生保護法改悪阻止実行委員会「私<女>を引き裂く優生保護法改悪阻止!」には「己れの内なる声に耳をすまして、私のやさしさを解き放ちたい。その過程で、産む産まないを私は決める」という表現が出てくる(『資料』U、一八八頁)。『女から女たちへ』(一九七三年)にも「産む産まないは女が決める」とある(『資料』U、三二七頁)。
(69) 江原由美子『女性解放という思想』一三一頁。
(70) 秋山洋子『リブ私史ノート』二五六頁。
(71) 国際女性法研究会編『国際女性条約・資料集』東信堂、一九九三年、二七頁。
(72) 『悲しみを裁けますか』二八二〜二八七頁。
(73) 『あごら』第二八号、一八五頁の斎藤の発言部分。
(74) 『優生保護法改悪とたたかうために』三頁。
(75) 『資料』V、一九四頁。
(76) 『資料』V、一九九頁。
(77) 堀口悦子は、国連の「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」の主語はピープルであって、男も女も両方入ると述べている。「ある運動をしている人は男性にもリプロダクティブ・ヘルス/ライツはあるのだと言います。なぜならそれは自分のパートナーが妊娠した時はやはり産んでほしい、産めということを言える権利が夫、あるいはパートナーにあるというのです。そうなると女性の自己決定権と対立します」(「リプロダクティブ・ヘルス/ライツの行方」『北京発、日本の女たちへ』一〇九〜一一〇頁)。
(78) たとえばリブの時代には、朝鮮人慰安婦たちと日本人女性は連帯できると考えられていた。しかし、九〇年代に実際に「慰安婦」問題がおきて、そのような連帯の発想の安易さに対する再考が始まっている。たとえば、李順愛は、女から女たちへつながることで、在日韓国朝鮮人へもつながっていこうと言ったリブが、「従軍慰安婦」について触れた文章を批判して、「みずからは、慰安婦でもなく、朝鮮人でもない人間」がどうしてそれについて無遠慮に書けるのかと糾弾している。「ノート・日本の女性運動批判」『インパクション』七三号、一七七頁参照。
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<定期刊行物・パンフレット>
『中ピ連ニュース・ネオリブ』中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合 1972-1975
『リブニュース・この道ひとすじ』リブ新宿センター 1972-1977
『リブ論第1集・ノアの箱船―中絶禁止法―優生保護法改悪反対!!資料集』ぐるーぷ闘うおんな・緋文
字・闘う女性連盟・集団エスイーエックス共同製作1972
『優生保護法改悪とたたかうために』'82優生保護法改悪阻止連絡会 1982
*本論文は、拙論「ウーマン・リブと生命倫理」山下悦子編『女と男の時空・現代編』藤原書店 37-67頁(1996)を全面改稿し、誤植等も改め、資料を追加して二倍の分量にまで拡大したものである。
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