生命学ホームページ
ホーム > エッセイ・論文 > このページ |
作成:森岡正博
掲示板|プロフィール|著書|エッセイ・論文 English Pages | kinokopress.com |
エッセイ・論文
『高校国語教育』三省堂 2001年12月 冬号 6−8頁
いま身体をどう考えるか
森岡正博
身体というのは、ほんとうに、やっかいなものだなあと思う。
朝、木立の中に入って、思い切り空気を吸い込んでみる。そのとき感じる清冽な気持ちよさ。われわれは、身体を持っているからこそ、それを味わうことができる。しかし、家に帰ってみれば、われわれは冷暖房完備の部屋に住んでいる。身体に気持ちよい快適な室温を一日中維持しておくために、莫大な電力を使い、資源を枯渇させている。
身体の声を聞くとは、どういうことなのだろう。それは、身体にとって気持ちのいいことを、なんでもやってみるということなのだろうか。そんな疑問があって、『「からだ」と「こころ」』という文章を書いた。
そこで書きたかったことを、別の角度からもう一度考えてみよう。
近代思想は、人間を人間たらしめているものは「人間の精神」、とりわけ「人間の理性」だとみなしてきた。
理性がきっちりと考えて、われわれの行動をコントロールするときに、人間は正しく振る舞えるはずだし、社会の秩序も維持されるというわけである。
ところが、二〇世紀に入って、思想家たちはそのような考え方を本格的に疑いはじめた。人間は、理性によってコントロールできるような、単純な存在ではない。なぜなら、人間には「身体」というものがあって、理性が「ああしろ、こうしろ」といくら言っても、それをやすやすと裏切ってしまうからだ。
「身体」ということばが分かりにくければ、たとえば「自分のからだに刻み込まれたもの」という言い方をしてもいい。フロイトはそれを「無意識」とか「トラウマ」と呼んだ。生物学はそれを「本能」とか「遺伝子」と呼んだ。
このようにして、二〇世紀の思想は、人間にとって「身体」がいかに重要であるのかを繰り返し強調したのである。たとえば、シュタイナーのオイリュトミーや、インドの瞑想などが注目されるようになるが、それもまた、「身体の感覚を鋭敏にすることによって、人間をより深く知ることができる」という彼らの思想が人々を惹きつけたからである。その流れは、もう一つの道を探る教育実践にも影響を与えた。「子どもたちの身体が悲鳴をあげている」「子どもたちの身体の声を聴こう」という言い回しも、このような思想の流れのうえに位置づけることができる。
私は、そのような考え方をいちがいに否定するわけではない。だが、「身体の声を聴こう」と言って、それを実践しているだけでは、どうにもならないくらい、現代文明の病理は進んでしまったのではないかという気がしてならないのだ。
苦痛を避けて快をどこまでも追求し、いったん手にした既得権は死んでも手放さないという現代文明の宿命は、われわれの身体にこそ刻み込まれているのではないか。
私は、その宿命のことを、「身体の欲望」と呼ぶ。身体の欲望を理性によってコントロールするのは、至難の業である。身体の欲望は、レールの上を全速力で邁進してくる巨大な蒸気機関車のようなものだ。われわれの理性は、レールの上に立ちはだかって、その機関車をストップさせるだけの力を持ち合わせていない。
では、どうすればいいのか。
私は欲望の「転轍」という作戦を考えている。走ってくる蒸気機関車のスピードを落とすことなく、その機関車の進路を、別の目的地に向かうレールへと巧みに切り替えてしまうことだ。そうすれば、身体の欲望という機関車は、いつの間にか、異なった方角へと誘導されてゆくことになる。
たとえば、室温が快適にコントロールされている環境を手放したくないという身体の欲望があるとする。しかし、クーラーを消して外気を入れ、鳥や虫の鳴き声を聞きながら、冷たい水を飲むほうが、ずっと気持ちよいぞ、とわれわれの身体に向かってささやいてみたらどうだろうか。その気持ちよさは、クーラーの部屋の気持ちよさとは、また別次元の、なにか忘れていたものを思い起こさせるような気持ちよさだぞと、誘惑してみてはどうだろうか。身体の欲望が、その声に少しでも反応すれば、それがチャンスだ。そこをきっかけとして、身体の欲望を転轍できる可能性がある。
だから、身体の欲望との戦いは、自分をいかに「誘惑する」かという戦いになるのである。私は、身体の欲望に突き動かされた現代文明のことを「無痛文明」と呼んでいる。この「無痛文明」との戦いこそが、二一世紀の最大の思想的課題のひとつになることは間違いない。
*「無痛文明」については、私のホームページにある「無痛文明論」(1)−(6)をご覧ください。