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作成:森岡正博 
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信濃毎日書評 2002年バックナンバー

 

12月29日掲載

中島義道『「私」の秘密』講談社選書メチエ・1400円

この本は、哲学の永遠のテーマである「私とは何か」という問いに対して、正面から解答を与えたものである。西洋の哲学者の受け売りではなく、自分自身のことばで考え抜かれている。これは、ほんとうの意味での哲学書・・・ >>続きを読む


12月15日掲載

亀井智泉『陽だまりの病室で』メディカ出版・1900円

長野県立こども病院に、重症の新生児が運び込まれた。脳はほとんど働いておらず、「脳死」と言ってもいいような状態だった。その赤ちゃんは「陽菜(ひな)」ちゃんと呼ぶのだが、意識もなく寝たきりのまま、医療スタッフの・・・ >>続きを読む


11月24日掲載

金井淑子・細谷実編『身体のエシックス/ポリティクス』ナカニシヤ出版・2200円

フェミニズムと倫理学が、いま急速に接近している。その二つが交差する場所こそが、私たちの「身体」だ。たとえば、代理母や体外受精は、「産む性」である女性の身体を抜きにしては語れない。買売春や、セクシュアリティ・・・ >>続きを読む


11月10日掲載

ミシェル・フーコー『真理とディスクール』筑摩書房・2800円

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 ミシェル・フーコーが死んだのは、もう一五年も前のことだ。しかし、彼の影響力はますます大きなものになってきている。
 フーコーによれば、人々を支配する権力というのは、政治的な力をもった独裁者から一方的に降りてくるものではない。権力というのは、われわれ一般人がうごめいている日常生活の隅々で自発的に発生し、われわれの考え方や行動を草の根から縛る「匿名の権力」なのである。このような分析は、この社会に蔓延している何とも言えない「息詰まり感」を見事に説明してくれる。
 しかしながら、このような分析になじんでしまうと、われわれはいったいどうすればいいのかが分からなくなる。この状況を変えたいと思っても、権力はつねに匿名のままわれわれを監視し続けており、社会全体に張りめぐらされた権力のシステムから逃れるすべはどこにもないように思えるからである。フーコー自身も、晩年にはそのことを考えていた。
 本書は、その限界を突破するためにフーコーが行なった講義である。システムによってがんじがらめになった人間たちを解放するかもしれないものは、意外にも、自分で自分のことを配慮しようとする倫理だとフーコーは言う。それは単に言行一致を心がけると言った内面倫理だけを指すのではなく、地位も実権も持たない位置から、危険をかえりみずに自由な発言(パレーシア)を仕掛けていく勇気をも指すのだ。
 この種の倫理については、古代ギリシアからローマにかけての思想家たちが、幾度となく語ってきた。フーコーは、現代社会の根本問題を解くために、古代哲学を読み解き、そこに人間の真の自由と自律の原理を探そうとする。
 彼が紹介する古代の逸話やその分析は、きわめて具体的で、とても面白い。ディオゲネスとアレクサンドロス大王との生命を賭けたやりとり(パレーシア)は、哲学者の本来の姿を彷彿とさせる。私を殺すのか、それとも真理を知るのかと王に向かって迫るディオゲネスの姿に、晩年のフーコーは、みずからを重ね合わせていたのではないか。不思議な迫力を持った本である。


10月27日掲載

ジョージ・マーティン『ビートルズ・サウンドを創った男』河出書房新社・2800円

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 いい音楽は、ミュージシャンの力だけで、できるのではない。陰の立て役者として、プロデューサーの力も大きいのである。本書は、あのビートルズを裏でささえた名プロデューサー、ジョージ・マーティンの自伝だ。彼が、いかにしてビートルズの音楽世界を作り上げていったのか、その秘密が余すところなく描かれている。  
 ジョージ・マーティンは、クラシック畑から出発した人物だ。レコード会社に就職してからも、クラシックの録音を担当していた。彼はまた、無類のエンジニアであり、ステレオ録音のテクニックを開発する先陣に立っていた。彼は、あるとき、ビートルズの売り込みテープを聴き、軽い気持ちで売り出してみることにする。ここから、伝説は始まった。
 当初のビートルズは、音楽技法のことなどほとんど分かっていなかった。ジョージ・マーティンは、彼らに音楽技法の基礎を教え、彼らの持ってきた原曲を編集し、密度の高いヒット曲へと変えた。
 ところが、ビートルズの吸収力はすばらしく早かった。いつしか、ビートルズ自身の編曲のほうが、マーティンを上回るようになる。かくして、マーティンは、純粋にレコードの音作り作業に没頭できるようになった。
 その結果、名作『サージェント・ペパーズ』が誕生する。このアルバムで、ビートルズとマーティンのコンビは、可能な限りの実験をする。たとえば「ストロベリー・フィールズ」は、キイの異なる二種類の録音を、機械的に処理してつなぎ合わせたものである。
 「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」では、この曲を四度に分けて録音し、それらを少しずつ間をずらしてつなぎ合わせて編集した。注意深く聞けば、そのずれを聴き取ることができるそうである。
 ドラッグをやるビートルズのメンバーと、ドラッグ抜きのプロデューサーが、この名作を生み出した、とマーティンは語る。音楽を演奏することの至福にひたっていたビートルズと、音の響きを録音することにいのちをかけていたマーティンの、不思議な出会いが緻密に記された本である。一九七九年原著であるが、いま読んでも古さは感じさせない。


10月6日掲載

白倉敬彦『江戸の春画』洋泉社・780円

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 江戸時代の春画を、そのままのかたちで鑑賞することができるようになった。それは、われわれがよく知っているポルノやビデオなどとは、ずいぶん違った世界である。本書で、白倉さんは、春画のおもしろさと不思議さを、コンパクトにまとめて見せてくれた。春画を知りたい読者が、最初に手に取るべき好著だ。
 白倉さんは、江戸の春画と、現代のポルノは、まったく別物であると考える。たとえば、春画には「レイプ」というものがほとんど描かれていない。そこにあるのは、男と交わって恍惚にひたる女の姿であり、男女の関係はきわめて対等に描かれているように見える。
 描かれる男たちの姿も、華奢で美形が多く、絵柄だけを見たのでは、どちらが男でどちらが女なのか分からないものも多い。それは、美しい女同士の性愛のようにも見える。初期には裸の男女が描かれていたが、しだいに着物を着たままの姿が好まれるようになり、春画はファッション雑誌の機能を果たすようになる。また、男女の交わりの近くで子どもや赤ちゃんが遊んでいる図柄も描かれる。ここでは、子どもと大人の分離線もまた、あいまいである。
 春画のモチーフとしては、大人の女が、美形の若い男を誘惑して交わるというものも多い。それが極端になると、女装した若い役者と交わる姿となる。女が、振り袖姿の若い男との性愛を願望するのは、なぜなのか。
 白倉さんも指摘しているが、江戸の春画に描かれる性愛の姿は、現代の爛熟した性愛によく似ている。ビジュアル系バンドの男たちに熱いまなざしを送る女性ファンの姿を、ここに重ね合わせてみることも可能だ。
 だが、同時に、性愛の負の側面もまた、現代と類似している。春画では、男の性器は極端に大きく描かれ、男の視線は挿入にのみ向かう傾向がある。回数もまた重視される。白倉さんは、これを「春画に見られる男根主義」と呼ぶ。そして、春画には男の幼児性があらわれているかもしれないと言う。
 いずれにせよ、現代の風俗と比較して読むとき、いろんなヒントを得ることができる貴重な資料が、本書にはあふれている。


9月22日掲載

大澤真幸『文明の内なる衝突』NHKブックス・970円

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 対米テロ事件から、1年が経過した。ブッシュ政権は、イラクに対する先制攻撃を計画しているようだ。テロ事件を逆手にとって、世界の警察官の役割を、極限まで押し進めようとしているように見える。「テロ事件の犠牲者のことを考えよ」という大義名分のもと、世界を米国好みの姿へと着々と改造しようとしている感がある。
 本書は、対米テロ事件について、思想のレベルから迫った斬新な試みである。いままで海外の知識人からの発言が目立ったが、大澤さんによるユニークな分析は、日本発の言論として、きわめて注目に値するものだ。
 ブッシュ政権は、テロリストは海外に潜んでいると強調する。しかしながら、多くの米国人の心理のなかには、「テロリストたちは米国の外側にいるのではなく、米国の内側、すなわち自分たちの身のまわりにこっそりと隠れて溢れているのではないか」という不安が存在する。あらん限り遠くにいるはずの敵が、実は、われわれ自身のすぐ身近に深く浸透しているという感覚。このことの意味を、大澤さんは、繰り返し確かめようとする。
 米国は警察権力として肥大しているが、その捜査先は、アフガニスタンやイラクだけではなく、ほかならぬ米国本土の、日常生活の隅々にまで伸ばされる。つまり、米国のセキュリティ水準を上昇させることによって、米国の自由や民主主義そのものが浸食されるのだ。このような罠に、いま米国は落ちようとしている。
 大澤さんは、米国とイスラム過激派との戦いを、宗教の次元にまでさかのぼって分析する。米国が象徴しているのは、現代の資本主義であり、資本主義の運動の根本には、たえず繰り返される「キリストの殺害」という出来事が刻み込まれている。
  ところが、イスラム教は、そのような宗教観とはまったく異質である。イスラム教においては、神は人間の次元からキリスト教以上に徹底的に切り離されており、それは資本主義の運動を支える源泉とはならない。テロは、「資本主義の運動」と「宗教」が交差する場所から自発的に発生するのだという大澤さんの仮説は、十分検討に値する。


9月8日掲載

滝本太郎編著『異議あり!「奇跡の詩人」』同時代社・1300円

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 NHKスペシャルで、「奇跡の詩人」という番組が放映された。十一歳の脳障害児で、自分でしゃべることもできず、立つこともできない男の子が、すでに多数の詩集やエッセイを執筆しているという内容だった。その子は、母親の手の助けを借りながら、猛スピードで文字盤を指さし、そこから言葉があふれてくるのであった。
 ところが、この番組放映後から、内容に関して賛否両論が沸き起こることになる。とても男の子が書いたものとは思えないという意見や、ほんとうに自分の意志で文字盤を指しているのかという疑いなどが噴出した。その一方で、この「天才児」の言葉によって癒やされたという声も寄せられ、脳障害児の知性を見くびってはならないという声も現われた。
 本書は、この「奇跡の詩人」現象に対して、懐疑的な立場からまとめられた批判の書である。しかしながら、これは単なるインチキ糾弾本ではない。この本に収められた、様々な立場の人々のエッセイを読むことによって、われわれは、障害児を育てるとはどういうことか、障害の受容とは何を意味するのか、他人よりも秀でていることにどのような価値があるのか等について、あらためて熟考することになるからである。
 たとえば、重度の脳障害の娘さんを抱えたある母親がエッセイを寄せている。彼女は、娘さんに対して、この「天才児」と同じきびしい訓練法を行なっていた。あるとき、娘さんは、子どもたちとのんびり遊んでいたのだが、母親が迎えに来たのを見て、おもわず顔をそむけて隠れてしまう。母親は、これを見て目から鱗が落ちる。母親は書く。「娘のために訓練していると言いながら、じつは、私自身が、障害児の母親にはなりたくなかったのです」、と。
 親と障害児が密着宇宙を形成するとき、それがどのような帰結を導くおそれがあるのか、本書はそれをありありと描き出している。オウムを生みだしたニューエイジ思想が、その後どのような展開を成し遂げたかについても、われわれは考えることができるだろう。現象を普遍的に読むための好著である。


7月28日掲載

軍事同盟研究会編『知られざる戦争報道の舞台裏』アリアドネ企画発行、三修社発売・2200円

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 アフガニスタンやパレスチナでの戦争の模様が、CNNなどのテレビによって報道される。印象的なシーンは、何度も繰り返して放映され、われわれは戦場の真実を知ったような気になる。
 しかし、テレビで流される映像は、様々な検閲を受けたあとのものでしかない。アフガニスタンの映像について、米CBSのあるディレクターは、アメリカ国民が見たくない映像は流さないと言っていた。
 本書は、世界の紛争地帯に飛び出した独立ジャーナリストたちが、戦場のいわば裏側を描き出そうとするものである。テレビには映し出されることのない、もうひとつの戦場の姿が、生き生きと捉えられている。
 たとえば、パレスチナで、イスラエルの戦車に石を投げて抵抗する運動(インティファーダ)が、集結している先進国のメディアを強く意識して行なわれていることがよく分かる。
 戦場ではジャーナリストもまた襲われる。一カ月の収入が数ドルという国で、先進国のジャーナリストたちは一泊一〇〇ドルのホテルに泊まり、車と通訳を雇って一気に危険地帯を通過しようとするが、そういう彼らにかぎって襲われ、金品を奪われたりする。検問所でもカメラを奪われ、ときには従軍した兵士からも強奪にあう。
 本書の著者たちは、一匹狼として、もっと質素な取材をしているようだが、こんな危険を背負ってまでも戦場に向かってしまうのは、やはりそこに彼らの血を沸き立たせる何かが存在するからであろう。
 孤独に取材をつづけていると、一般メディアが潜入することのできなかった現場で、貴重な情報を得ることもある。著者の一人は、タリバンによる初期の仏像破壊の様子を写真に収めることに成功した。と同時に、タリバン支配下のアフガニスタンの人々が、いかに悲惨な状況だったのかをも取材した。
 しかし、著者の取材を知った日本の大手メディアは、仏像破壊には関心を示しても、そこに住む疲弊した人々には目もくれなかったのである。このことは、著者も言うように、われわれ全員が深刻に受け止めるべき問題だ。


7月14日掲載

広河隆一『パレスチナ』岩波新書・780円

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 昨年九月の対米テロ事件以降、世界情勢はふたたび血なまぐさくなっている。アフガニスタン空爆に続いて、イスラエルとパレスチナのあいだの報復戦争が激化した。とくに今年四月には、ジェニンでイスラエル兵によるパレスチナ人の大量虐殺が起きたとも言われているが、国連による調査をイスラエル側が拒否しており、そこで何が行なわれたのかははっきりと分かっていない。
 いわゆるパレスチナ問題には、長い歴史がある。長年の現地取材をもとにして、この複雑怪奇な歴史を見事に切り取ってみせたのが本書である。著者の広河隆一さんは、何度も現場に足をはこび、破壊された村々や、銃弾に倒れた兵士たちを目の前で目撃しながら、そのことの意味を冷静な距離を保って探求している。
 広河さんは、一九六七年にイスラエルに旅をする。そこで、ユダヤ人のコミューンである「キブツ」に滞在する。しかし、この美しいキブツが、実は、パレスチナ人の集落を破壊した跡地に建てられていたことを知る。これをきっかけに、広河さんは、この地方に流入してきたユダヤ人と、この地方から追い出されたパレスチナ人のあいだの、血にまみれた歴史を調べはじめるのである。
 広河さんは、一九世紀から現在に至るまでのこの地方の歩みを、簡潔明快に記述する。中東情勢についてまったく知識のない読者にとっても、非常に分かりやすい。イスラエル人すら知らないような資料を駆使して、歴史の裏側に埋もれてきた出来事を、繊細な手つきですくい取って見せる。
 イスラエルがパレスチナの村を破壊するパターンはいつも同じである。安全のためとか、戦争の危険があるとかの理由で、ある日突然、パレスチナ人村民の一時待避が命令される。村民が自分たちの村を離れると、その土地はイスラエルによって没収され、住居はブルドーザーで破壊されるのだ。それを合法化する法律さえ存在する。
 このような行為の延長線上に、ジェニンのような破壊行為があるのだ。シャロンが首相になってから、状況はさらに悪化している。日本がなすべきことを知るためにも、本書は必ず読まれるべきである。


未発表(諸事情により掲載できなかったもの)

アーノルド・ミンデル『昏睡状態の人と対話する』NHKブックス・920円

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 死ぬゆく人々と、どういうふうに対話したらよいのか。それが本書のテーマだ。著者ミンデルの言う「昏睡状態の人」とは、死に際になって、意識がとぎれたり、また意識が戻ったりしているような人々のことである。
 そのような患者は、眠っていたかと思うと、わけの分からないうなり声をあげたり、手足を不規則に動かしたりする。かと言って、言葉によるコミュニケーションがとれるわけでもない。だから、いままでは、このような状態の患者と対話してみようという試みは、医療関係者からはほとんど出てこなかった。
 ところが、臨床心理学のバックグラウンドをもつミンデルは、常識を越えたやり方で、患者とやりとりをしようとする。昏睡状態の患者は、ぐっすりと眠っているように見えたり、混乱した意識状態にあるように見えるのだが、実はその内面では、外部からはうかがい知ることのできないような豊かな体験をしているのだとミンデルは考える。
 患者は、いままでの人生を総括するようなまばゆいイメージを見ていたり、自分を包み込むような何かの存在と対話していたりする。そして、意識が戻ってきたときに、うなり声や、身体動作などで、まわりにいる親しい人たちにそのヴィジョンを伝えようとする。
 ミンデルは、昏睡状態の患者がうなり声を上げはじめたときに、寄り添うようにして、ベッドのまわりで一緒にうなり声を上げる。彼らのうなり声はだんだんと調和してゆき、患者の意識はクリアーになり、そして患者は昏睡状態のときに体験したことをミンデルに語り始めるのである。
 患者は、自分の見たヴィジョンをミンデルとともに検討しながら、自分が死んでいくことの意味を、自分なりにつかみ取る。そして、納得のうちに死に至るのである。
 昏睡状態の患者の内的な旅を手助けするための身体のケアの仕方についても、本書では触れられる。外から見た患者の姿と、患者自身の内面の世界は、かならずしも一致しない。従来の死の臨床の常識からすると、患者に介入しすぎだとして批判されるに違いない。しかし、本書を黙殺するわけにはいかないのではないか。


6月30日掲載

ロジェ=ポル・ドロワ『虚無の信仰』トランスビュー・2800円

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 仏教は、一九世紀はじめにヨーロッパに紹介された。ヨーロッパの知識人たちは、この東洋の古代宗教に大きな関心を示した。そこに希望を見出す者もあらわれた。
 ところが、仏教のテキストの内容が具体的に分かってくるにつれて、ヨーロッパの知識人たちは、この宗教に対して大きな恐怖を感じるようになったのである。それは、一九世紀のあいだずっと続いた。
 なぜ、仏教がそんなに恐怖だったのか。それは、仏教が、自我の無化と魂の消滅を説いているように見えたからである。ビガンデ神父は言う。仏教は、人間を、底なしの深淵のなかに投げ出す。そこで人間は破滅し、消滅し、無となるのである。仏教とは、「自己の存在の破壊を通して完全な自己放棄に至る」宗教だと言うのである。
 そんな自己否定の宗教が、東洋において何億人もの信仰を集めているなどということは、ヨーロッパの知識人たちにとっては悪夢でしかなかった。なぜなら、およそ人間の精神が「虚無」を切望することなどありえないからである。哲学者アドルフ・フランクは言う。「三億人もの人間が、来たるべき魂の消滅を期待しながら生きていて、それ以外の宗教を知らない、などということを信じることはできません。そのようなおぞましい状態にまで零落しうる民族や人種といったものはありえないのです」。だから、仏教徒は、われわれと別の人種=人類なのではないかと言うのである。
 仏教は、意識が朦朧とした一種の痴呆状態を目指すものであるとか、永遠の死への願望であるというふうに理解された。このような理解は、ヘーゲルやニーチェらの哲学者たちにも影響を与えた。とくにニーチェは、仏教を徹底的に敵視し、仏教が遠ざけようとしたところの「苦悩」を自覚的に選ぶことこそが、みずからの哲学であると主張した。「苦悩」や「死」を、われわれの全人生の積極的な一部として肯定することこそが、ニーチェの生の哲学なのであった。
 本書の著者ドロワは、一九世紀のヨーロッパの仏教観は、実はヨーロッパ自身の鏡像なのだと述べる。その意味は、ぜひ本書で確かめてほしい。


6月16日掲載

金子勝・大澤真幸『見たくない思想的現実を見る』岩波書店・1800円

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 金子勝さんは、経済学者。大澤真幸さんは、社会学者。この新進気鋭の二人が、日本社会の盲点とも言うべき地帯を、共同取材して、一冊の本にした。そのタイトルは「見たくない思想的現実を見る」というもの。きわめてストレートな問題意識で貫かれた本なのだ。
 二人の旅は、まず沖縄から始まり、高齢者の医療、過疎地の現実、韓国とナショナリズム、失業問題というふうに移っていく。光の当たる地帯からは見えにくいそれらの場所に出向き、人々の話を聞き、それをどう捉えればいいのかを苦悶する。沖縄では、聞く者と聞かれる者のあいだのきびしい断絶に直面し、老人医療の現場では、自分たちが出会えなかった人々こそが「見たくない思想的現実」だったのではないかと煩悶する。
 金子さんは言う。良心的な研究者は、強者が弱者の犠牲のうえに、あぐらをかいているという図式を描きがちだ。もちろんそういう面はあるだろうが、いまの社会でむしろ顕著なのは、弱い者が、さらに弱い者に向かって牙をむくという現象である。弱い者は、同じように弱い者を蹴落とさなければ、生き残れないような仕組みになっている。たとえばこれが、「見たくない思想的現実」のひとつの姿である。
 大澤さんは、現代の若者たちが、過剰な自由を手に入れているのに、心は空虚なままであることに注目する。そして、彼らが自分自身を自己肯定して、生に意味を与えることができるためには、「誰のものでもない視線」によって自分が眺められているというきっかけが必要であると言う。親や、恋人などの具体的な視線によって慈しまれることではなく、むしろ誰のものでもない、無の視線こそが人間を救済し、再生させるのだ、と。
 大学の研究者が現場に行くとき、彼らは往々にして、弱者や被害者の側に立ちたがる。しかしながら、金子さんと大澤さんは、そのようなスタンスの暴力性をはっきりと自覚している。自分が置かれた特権というものから目をそらさないで、それでもなお「見たくない思想的現実」と向き合うことができるのかという実験を、彼らは行なった。たくさんのヒントが詰まった本だと思った。


6月2日掲載

石牟礼道子・鶴見和子『言葉果つるところ』藤原書店・2200円

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 一九一八年生まれの鶴見和子さんと、一九二七年生まれの石牟礼道子さんの対談集だ。読んでいて、こころが洗われる思いがする。対話は、けっして過去へと沈潜するものとはならない。二人の眼差しは、かならずしも明るくはない未来へと、しっかりと向けられている。そして、二人が、自分の人生を自己肯定しているその息吹が、読むものにじわじわと伝わってくる。
 鶴見さんは、大病をして死の淵にまで落ちたときに、次々と短歌が脳裏にわき上がってくるという体験をした。自分の存在が果てるかもしれないそのときに、言葉が立ち上がってくる。生命あふれるこの宇宙の核心部分を言葉によってつかまえようとしても、いちばん大事なものは言葉にならずに、逃げ去ってしまう。しかし、短歌という形をとることではじめて、その逃げ去ってしまう真実の痕跡を定着させることができるのだと言う。
 「私、病気になってよかったと思ってる。やっと真人間に近づいたと思ってる」と鶴見さんは語る。彼女の歌。「半世紀死火山となりしを轟きて煙くゆらす歌の火の山」。歌うことによって、生命に参入し、自然の流れに合流する。
 石牟礼さんは、東京で開催された水俣フォーラムのときのことを語る。水俣で、生者や死者や海の魂を入れた小さな船を、東京湾まで漕いでくる。それを品川の広場に上げて、ススキの穂を切ってきて祭壇を作り、水俣から連れてきた魂たちを、降ろす儀式をするのである。南島の白い装束を着て魂降ろしをしはじめると、雨がさあっとやんでお月さまが出て、ビルの谷間で船の帆が銀色に映え、満月のお月さまの真ん中を五羽の鳥が横切っていく。
 このとき、水俣の自然と人間、そしてそこに起きた様々な出来事が、一筋の大きな流れとなって、裏側から東京の都心に侵入したのだろう。石牟礼さんの語りは、そのことを読者に確信させる。
 二人は、人生でもっとも晴れがましいことは、死だと言う。「一番最後に死があるのは何と幸せだろうって」。この言葉を発することのできる人生は、何と幸せなのだろうと私は思った。


5月12日掲載

ジョン・ストルテンバーグ『男であることを拒否する』勁草書房・3300円

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 フェミニストが、男社会に対して異議を唱えはじめたとき、男たちは、彼女たちのことばを茶化したり、黙殺したりした。
 しかしながら、ごく少数ながら、彼女たちの声に耳を傾け、その訴えを正面から受け止めようとした男もいた。彼らは、自分たちの思考と行動パターンが変わって、社会が少しずつ変容していかないかぎり、事態は解決しないと考えた。
 本書は、そうした男性運動の試みが生み出した、きわめて分かりやすい書物である。出版されたのが一九八九年だから、もう一〇年以上も前の本なのだが、いまでも充分に通用するテキストだ。
 著者は、世間に流通しているポルノが、いかに女性を束縛し、支配し、虐げ、モノのようにあつかうイメージに満ちているのかを直視せよと言う。そういうイメージによって男が興奮するということは、男たちが、相手の人権を忘れて初めて味わえる快感に酔っているということを意味する。そしてそれは、単に空想の世界だけにとどまることはできず、現実の男女関係にまでフィードバックされる。
 もちろんレイプの空想を好む女性はいるが、本物のレイプを欲する女性はいない。ところが、レイプの空想で興奮することを学習した男たちは、実際に身近な女性をレイプする危険があるのだ。
 このような危険な玩具であるポルノを規制しようという運動に対しては、「保守」から「リベラル」に至るまでほとんどの法律学者が一致団結して抵抗する。その理由がなぜなのかを著者は書いていないが、答えは明らかだ。彼ら法律学者たちも、自室でポルノをこっそりと使用しているからである。
 著者のポルノに対する態度は、明確でかつ厳しい。ポルノやセックスに対して理解を示すことが共通了解となっている日本の若手知識人たちは、このような態度を一笑に付するだろうが、私はそうは思わない。男性運動はポルノをどうするのか、という大問題を臆せず問題提起した貴重な本だ。もっとも、日本にはあてはまらない記述や、一面的な見方は気になったが、それでも読むに値する。


4月28日掲載

熊野純彦『ヘーゲル』筑摩書房・3200円

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 ヘーゲルの哲学は、かつてほどの人気がない。なぜなら、ヘーゲルは、この世界に存在する根源的な差異というものを、結局、歴史と調和と同一性の内部へと、暴力的に回収してしまうように見えるからだ。
 「西洋」、「男」、「近代」などの大きな声に決して回収されてはならない小さなつぶやきに対して、敏感に耳を澄まそうとする現代の思想潮流からすれば、ヘーゲルの哲学は、とても保守的で頑迷なものに映るのである。
  ところが、熊野純彦さんの本書は、まさにそのヘーゲルの哲学のただ中に、同一性を食い破ろうとする「他者」へのまなざしが潜在していたことを、ていねいに立証しようとするのだ。この意味で、この本は、とても現代的でアクチュアルな視点から、ヘーゲルの本質に迫ったものだ。  
  たとえば、私が「他なるもの」を意識するとき、その「他なるもの」は私によって意識されているのだから、私の内側にあると言える。しかしながら、同時に、それは「他なるもの」であるがゆえに、私からは切り離された外側にある何ものかでなくてはならない。ここに、自己と他者をめぐる大いなる逆説がある。
 私は他者を手の内に置いて支配しようとする。しかしながら、私が他者を隷属させて支配したと思った瞬間、私の手のひらの内側に残されたものは、私の言うことを何でも聞くだけのロボットなのであり、「他者」は私の指のあいだをすり抜けて、彼方へと忽然と消え去ってしまう。この意味で、「他者」とは、私の意図をあらかじめ挫折させうるような存在だと言える。
 熊野さんは、ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」を、このような視点から見事に切り取って見せてくれる。
 あるいは、私が他者を傷つけるとき、私は同時に、私自身の生の根源をも傷つけているのだとヘーゲルは言う。その傷を負った生が、「運命」として私に向かってくる。熊野さんが、このような考え方をヘーゲルから採取してくるとき、それは、現代の人間の実存状況を鋭く照らし出す知の装置となるのである。これは、伝統的な哲学から、いまを生きる知恵を汲み取ろうとする最良の仕事であろう。


4月7日掲載

オギュスタン・ベルク『風土学序説』筑摩書房・3800円

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 空間とは、いったい何なのだろう。手を伸ばしていって、どこまでも広がりのある感じ、それが空間なのだろうか。どちら向きに手を伸ばしていっても、果てしなく、「広がっている」ということ。
 しかし、そのようなのっぺりとした三次元座標だけで、空間をとらえようとすると、大きな落とし穴に落ちる。なぜなら、空間の広がりというものは、その広がりを具体的に感じる「この私の存在」というものを抜きにしては語れないはずだからだ。
 オギュスタン・ベルグは、本書で、この問題に新たな角度から鋭く切り込んでいる。ベルグによれば、古代ギリシアには「場所」をあらわす二つの言葉があった。それは、「トポス」と「コーラ」である。
 トポスとは、物体をある場所に存在させるための容器のようなものだ。その容器は、中に入る物体と混ざり合ったりはしない。中に入っている物が去っていけば、次には、別の物が容器の中に入ってくる。トポスにおいては、場所と物は分離されている。
 これに対して、コーラとは、物体と、それを包み込む環境が、相互侵入して一体となったようなものだ。物が、ある場所に存在するとき、その物は、宇宙のただ中の、その場所でしか開花できない姿形を取っているはずであり、意味のネットワークを担っているはずである。このかけがえのなさこそが、コーラの特徴である。
 この二つが重なり合って成立するものこそが、「風土」であるとベルグは言う。言うまでもなく「風土」とは、日本の哲学者、和辻哲郎が提唱した概念だ。フランス出身のベルグは、和辻からヒントを得て、それをさらに充実させ、『風土学序説』を書いた。
 いま目の前にある鉛筆は、それを使って何かを書こうとする私の想像のヴァリエーションや、私の言語世界、私の生きている生活世界、制度、そして私と鉛筆が棲み込んでいる場所の気候や湿り気、そのようなすべての「関係の網の目」として、存在している。そこには、生成があり、風物身体があり、他者がある。哲学と地理学の越境を大胆に試みた注目すべき論考だ。


3月10日掲載

ぬで島次郎『先端医療のルール』講談社現代新書・660円(「ぬで」は木へんに勝)

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 クローン人間を作ろうとする科学者たちがいる。彼らは、クローン人間を規制する法律のない国で、実験を行ないたいと言っている。ボーダーレスの時代では、このような抜け道を、どうやって国際的にカバーしていけばいいのかという、なかなかやっかいな問題が現われてきているのだ。
 著者のぬで島さんは、人間の生命に深く介入しようとする先端医療に対して、しっかりと理屈の通った、包括的な規制が必要だと訴える。きちんと考え抜かれたポリシーでもって、人間の生命の尊厳と社会の秩序を守っていかないと、とてつもない混乱がおきるかもしれないくらい、先端医療技術のもつ潜在力は大きくなっているのだ。
 ぬで島さんは、「自分の体の一部をどう使おうとそれは本人の自由である」とする米国の考え方と、「すべて個人の自己決定に委ねるのではなく、社会が何をしていいか悪いかを明らかにして、個人の自由と権利にタガをはめるべきだ」とするヨーロッパの考え方をていねいに吟味する。
 ぬで島さんは、とくにフランスの考え方に注目する。フランスは、「人体」というものを、単なる「物」でもなく、かと言って「人」でもない、独自の尊厳を持つものとして生命倫理法のなかに書き込んだ。だから、フランスでは、自分の体の一部といえども、自分勝手には処分できないことになったのだ。
 このように、人体の保護を通じて、人権を保護し、個人の身勝手な自由に制限を加えるという考え方から、大きなヒントを得ることができる。
 ぬで島さんは、五つのルールを提案する。それは、まず本人の同意があること、次に人体の利用が無償でなされること、第三に匿名の原則。そして、これら三つが守られたとしても、それでもなおやってはならないことを決める公序原則。最後に、チェック体制。これらをきっちりと守りながら、許される例外について慎重に吟味していくことが必要だと言う。
  しかし、日本の現状を見てみれば、一貫性のない立法と施策のオンパレードだ。ぬで島さんの怒りが、ひしひしと伝わってくる必読書である。


2月17日掲載

カール=ビンディング、アルフレート=ホッヘ『「生きるに値しない命」とは誰のことか』窓社・1800円

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 第一次世界大戦終了後のドイツで、『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』と名付けられた一冊の書物が出版された。著者は、刑法学者のビンディングと、精神科医のホッヘ。「生きるに値しない命」を終わらせることに、何の問題もないと断言するこの本は、後に、ナチスドイツの障害者安楽死計画に大きな影響を与えたと言われている。
 歴史的にとても重要な書物なのだが、これまで日本語で読むことができなかった。かつて米本昌平が『遺伝子管理社会』のなかで、部分訳を行なっていたが、その本も現在は絶版だ。だから、今回の全訳の登場は画期的なことだと思う。訳者たちの本格的な解説も付いていて、本書が書かれた時代背景などもよく理解できる。
 ビンディングとホッヘは、殺害することを解禁してもかまわないような生命が二種類あると言う。ひとつは、治療不可能なガン患者のように、自分が置かれた状況を本人が知っていて、死を切に望んでいる人々。彼らを安楽死させても問題はないと彼らは主張する。
 そして、もうひとつのケースが、治療不可能な知的障害者たちである。彼らは生きようとする意志もなければ、死のうとする意志もない。そればかりか、知的障害者たちは、家族にとっても、社会にとっても、とてつもない重荷となっている。知的障害者を介護することは、絶対的に生きている価値がない命を何年も何十年も生かし続けることにほかならない。
 だから、知的障害者たちを殺害してはならないという理由は、いささかも見いだせないと、ビンディングとホッヘは結論する。「生きたい」と思っている人を殺してはならないのだが、知的障害者たちは「生きたい」とも「生きたくない」とも思っていないのだから、彼らを殺しても、彼らの「生存意思」を侵害したことにはならないと言うのだ。
 これを読んで、現代の多くの読者たちは、眉をひそめるであろう。だが、このような考え方は、いまでもなお脈々と生き続けているのだ。重度の障害をもった赤ちゃんを中絶してかまわないと考える人々の心の中にあるものこそが、この種の思想なのである。


2月3日掲載

中山元『新しい戦争?』冬弓社・1000円

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 対米テロ事件直後から、様々な論説や宣言がインターネット上を駆けめぐった。諸外国語に堪能な中山元さんは、それらを徹底的にかき集めて分析し、大事なものはみずから翻訳してホームページに掲載した。その作業を積み重ねていくうちに、本書が誕生した。
 米国のメディアや、それに追随している日本のメディアでは、嫉妬に駆られた狂信的なイスラム過激派が、文明国にテロを仕掛けたという報道がさかんになされた。ところが、今回の事件を分析する世界の知識人たちの多くは、このような図式そのものを否定する。
 彼らによれば、米国が進めてきた自己中心的なグローバリゼーションが、今回のテロを必然的に引き起こしたのだ。その意味で、制裁を叫ぶ「ブッシュ」と、自爆テロを煽動する「ビンラディン」は、瓜二つの双子なのである。
 しかし、このような発言をする知識人たちへの風当たりは、日増しに強くなっている。大学内でも嫌がらせメールや脅迫などがあとを絶たない。ついに彼らは、「大学での言論の自由」を求めるアピールまで出さないといけなくなった。
 と同時に、まったく逆の意見も台頭してきた。つまり、先進国は、イスラム諸国をふたたび「植民地化」すべきではないかというのだ。そのほうが、テロで被害を受けるよりも安く上がる。英国・米国でこの種の意見が目立つと中山さんは指摘する。
 しかし、知識人たちの大方の意見は、米国の性急な軍事攻撃に疑問を呈するものであり、米国流のグローバリゼーションに代わる、新たな相互共生の作法を模索しなければならないというものだ。
 中山さんも、この考え方に賛同する。グローバリゼーション・対・反グローバリゼーションという対立は、今回のテロ事件によって無効になった。復讐が復讐を呼ぶのではない、新たなやり方を構想しなければならない。
 第三世界の貧困と悲惨があるかぎり、テロはなくならない。しかし第三世界の悲惨を生んでいるのは、ほかならぬわれわれ先進国だ。その真の意味を考えるための必読書として本書を広く薦めたい。


1月20日掲載

倉持武『脳死移植のあしもと』松本歯科大学出版会・2000円

 ネット販売はしていないようなので、出版社に直接メールを出しましょう。

 脳死の人からの臓器移植は、一九九七年に合法化された。しかし、その後、移植された件数は二〇件に満たない。これはどうしてなのか。その理由のひとつは、脳死になった人が、事前に「ドナーカード」を書いておかなければならないところにある。
 もし、誰かが交通事故で脳死状態になったとしても、その人が「ドナーカード」をもっていなければ、その人に法的な脳死判定をすることができない。だから、その人は、心臓が止まるまで生きていることになる。これが日本の法律の仕組みである。
 いま、臓器移植法を改正しようという動きが始まっている。つまり、「脳死」は一律に「人の死」であるというふうに法律を改正し、たとえ本人が「ドナーカード」を持っていなくても、家族が承諾しさえすれば臓器を取り出せるようにしようというのだ。
 松本歯科大学講師の倉持武さんは、本書で、このような考え方に、真っ向から反対する。倉持さんは言う。人間は、生きているときはもちろん、死んだ後であっても、他人のための手段として扱われるべきではない。いくら他人の命を救うためとはいえ、本人の明確な意思表示がない場合に脳死移植を強行しようとするのは、「命の贈り物」という美しい言葉とセットになって行使される、人間性に対する暴力ではないのか、と。
 さらに、倉持さんは、移植医療がどのような「すばらしい」成果をあげているのかについての実証的なデータを、専門家たちが公開していないことを指摘する。米国では、心臓移植手術待機中に、三〇%の人々が、症状が好転して移植が必要ではなくなる。これは、どういうことなのか。
 脳死の人からの臓器移植は、けっして脳死の人自身の治療に役立たない医療である。だからこそ、脳死に関する疑問点は徹底的に洗い出し、臓器移植のメリットとデメリットを、客観的に調査するべきだと倉持さんは主張する。
 脳死が人の死かどうかが、今年ふたたび国会の場で争われることになるはずだ。そのときにあわてないためにも、堅実な分析に満ちたこの本を推薦したい。