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作成:森岡正博 
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『生命学に何ができるか』書評集

 

*以下の文章は、『生命学に何ができるか』の研究資料として、学術目的で引用するものです。

与那原恵「田中美津にならい、「とり乱し」ながら生命を語る」 『論座』2002年1月号(316〜317)書評欄 2001年12月7日

 ここ二年ほど不妊治療の現場を中心に生殖医療の周辺を取材している。驚くのは、猛烈な勢いで進む生殖医療技術だ。つい最近、学会をにぎわわせた新しい技術が、あっという間に医療の現場ではあたりまえの「治療」になってしまう。
 たとえば凍結した受精卵による出産が日本で成功したのは一九八九年だが、現在では多くの不妊クリニックで冷凍受精卵による出産が行われている。一度に数個の受精卵を凍結し、数年の期間をおいて胎内に戻し、妊娠出産に至る。つまり、本来なら双子、三つ子となる子供たちが歳のはなれたきょうだいとなって誕生しているのだ。
 また生殖医療の進歩は、つぎつぎと新たな「欲望」を生み出してもいる。かつてならあったはずの、身体機能の限界といった「あきらめ」の道すら、もはや失われたといっていいだろう。そして、こうした欲望をターゲットとしたビジネスも半ば公然化している。
 不妊治療について言えば「子供をもちたい」という願いを他者が否定することは困難だ。
 今年七月、六十歳の女性が第三者の卵子提供を受け、日本最高齢の初産を果たしている。私はこの本人に話を聞くことができたのだが、彼女は愛する夫の子供を持ちたいという一念での出産だったと話した。彼女が妊娠に至った体外受精は、生殖医療にかんする法規制のゆるやかなアメリカで行われた。
 これをサポートした日本のコーディネーターも、この出産は愛と勇気ある「命を賭けた」出産だったことを強調している。
 このコーディネーターが扱ったケースにはシングル女性の妊娠出産も少なくない。第三者から提供された卵子と、リストから選んだ精子をシャーレのなかで体外受精させ、胎内に戻し妊娠出産した例、また同じく第三者の精子卵子を体外受精したうえ妊娠出産も第三者、いわゆる「代理母」が行ったという事例もあった。この場合、生殖技術によって「つくられた子供」であるといっていいだろう。
 彼女たちはなぜ子供が欲しいのだろうか。その問いに六十歳の女性は「夫に子供をプレゼントしたかった」と言い、シングル女性は「一度、子供を育ててみたかった」「自分の将来が不安」と答えた。
 ごく自然の妊娠出産でも「なぜ子供が欲しいのか」と深く問うことはないかもしれない。ただ、妊娠によって知る、胎内の「生命」を育てていこうとするだけ【317】なのかもしれない。
 しかし、前記のように、子供が「つくられる」という状況のなかで、いったい「生命」とは何かという根源的な問いの不在を感じることがしばしばだ。
 私たちには「生命」の前で、深く思考する時間はないのだろうか。
 本書を読んで著者にもっとも共感したのは、生命のリアリティの前で立ち止まり、悩み、揺れ、さらにはさまざまな角度から問いを発している、という点だった。著者は「生命」とは何かと問われればこう答えるという。 「『生命』とは、それを大切にしたいという人と人とのかかわりあいによって、かけがえのなさを与えられた『存在』のことなのである」
 最新の生殖医療技術のなかに「かけがえのなさ」という思いは、あるのだろうか。私はこの一文によって、今後、そう問うことができる。
 さて本書は、まず「脳死」について語り始められる。日本においては脳死について早い時期から多様な論議がなされてきたということが明らかにされる。また医学的な言説もわかりやすく解説している。「脳死状態という生と死の狭間を科学技術が作り出」した現在、もっとも大切なのは「揺らぐ」ことだと著書は言う。
 私は脳死によって臓器提供がなされ、それは「命のリレー」だとされることに疑問を持つひとりだ。脳死した人の「存在」の前で、揺らぎ、その関係を思い返すことこそが、命、生命を見つめることにほかならない。
 本書で圧巻なのは、生命について最も早く、論議してきたウーマン・リブの姿を描いていることだ。その発端は「優生保護法」をめぐるものだが、中絶の権利、障害者、優生思想、さらには女という存在について深い議論があったことを紹介している。
 なかでも七〇年代、こうした論議の中心的存在であった田中美津についての論考は興味深かった。田中美津らが「とり乱し」と表現する、多様な思考のなかに身を置き、生命というものを真摯に受け止めていたことに新鮮な驚きを持った。この時代の論議の中心は「中絶」にあったけれど、現在の「子供をつくる」生殖技術を彼女たちはどうとらえるのだろうか、ぜひ知りたいと思う。
 フェミニズムは男社会と女の対立という二項対立が強調されることが多くあり、私もそれについては反発を感じることがある。その課題は今でも残されているだろう。しかし現在こそ、男女ともに生命について語り合い、揺れ、「取り乱す」ことこそが重要であると、本書は語りかけている。 (本文入力:りんご

青木やよひ 『聖教新聞』2001年12月26日 今年の収穫欄

(1)チョムスキー『9・11アメリカに報復する資格はない!』(中略)
(2)シュリーヴ『パイロットの妻』 (中略)

(3)『生命学に何ができるか』
 いったい人間の生命の始まりと終わりに、明確な線引きができるものだろうか? この素朴な疑問に対して著者は、単純な「善か悪か」ではなく、われわれの言語化されない無意識に光を当て、新しい「生命倫理」を構築しようとする。女性や弱者によりそう誠実な思索と、実践に裏づけられた貴重な問題提起の書。

長谷川真理子 『日本経済新聞』2002年1月6日 書評欄

 いのちをめぐる問題は難しい。人は生まれ、生き、そして死ぬ。これは、過去につねに繰り返されてきたことであり、本来、難しくはないはずなのだが、最近の生命科学の進歩による医療技術の数々に、今の私たちの生命観はついていけなくなりつつある。
 本書は、脳死、中絶、遺伝子診断の問題を取り上げ、現在、私たちは何をしているのか、何をするのがよいことなのか、その倫理的基盤を問い詰めていく。これは生命倫理の書であるが、著者の意図は、従来のような生命倫理学の精密化にあるのではない。著者は、それらをふまえたのちに、まったく新しい「生命学」と呼ぶものの構築を提唱している。
 著者は、脳死は人の死でないと結論し、体温を持ち呼吸しているからだに「死」を感じることのできない私たちの感覚を大切にするべきだと言う。
 中絶の問題については、一九七〇年代のウーマン・リブの思想の歴史を振り返ることから始まり、そもそも中絶という事態が生じるもととなる、男のセクシュアリティを問い直さなければならないというところに行き着く。
 最後の遺伝子診断の問題は、障害があるとわかった胎児を中絶したいと思う、私たちの内なる優生思想とどう闘うか、先の中絶一般に関する話を、とくに障害者問題と関連させて深く検討している。
 著者の視点はこれらの諸問題について、なるべく論理的に矛盾なく、しかも個人の選択の自由をはばむことがないように結論を出しながら、私たちの誰もが心の底に持っているエゴイズムをごまかさずに見据え、内なる悪から目をそらさずに生きようというものだ。
 そして最後に、自然科学でもなく、従来の生命倫理学でもなく、私たち一人一人がどのように生きていくかを考える「生命学」というアプローチを提唱している。しかし、「生命学」とはいったいなんだろうか? それは、さまざまな経験を積み、いろいろなことに思いをめぐらせたあとで達する「さとり」のようなものかもしれない。いのちをどう捉えるかには、本来、論理や言語で語り尽くせないものがつきまとうのだろう。

吉澤夏子 『朝日新聞』2002年1月13日 書評欄

 いまここで生きている私の生そのものへと直接かかわっていくような学、それを著者は生命学とよぶ。生と死をめぐって錯綜する現代社会の倫理の問題、その「何をどのように」考えればよいのか、が絡んだ糸を解きほぐすように丁寧に論じられていて、とても読みやすい。
 意識のある理性的な人間だけを〈ひと〉とみなす生命倫理学の人間観がいかに貧弱なものか、また七〇年代以降主に中絶をめぐって蓄積されたウーマン・リブと障害者たちの言説がいかに実り豊かなものであったか、に驚かされる。生命倫理をめぐる最新の知見が手際よく整理されていて、入門書としても適している。
 もし出生前診断が一般的なものになったら、すべての生まれてくる子どもが、その存在を無条件に肯定されるという基本的な安心とよろこびを奪い去られることになるという指摘は、「生命の質」を選択しうるという社会に生きる私たち一人一人に、深く重たい問いを投げかけている。

金森修 『読売新聞』2002年1月20日 書評欄

 とても重要な本だ。扱われる話題は、脳死、中絶、優生思想や、生命論と連接するものとして定位されたフェミニズム、と多様だが、その根底にはある確固とした筋が一本通っている。アメリカ風の生命倫理学が扱う諸問題には関心をもちながらも、その功利主義的で手続き論的な特性に違和感を感じている人にとって、森岡氏が実践する「生命学」は、それとは異なる知的鉱脈を踏査するためには格好の霊感源になる。
 それは宗教ではないが、自然科学的パラダイムとは異なる方向を目指すという基本線は明確に意識されている。ただ議論の節目に何度かでてくる悪や責めの受忍という発想が、どこか仏教的に響くのには若干驚かされる。ともあれ森岡は、脳死者を看取る家族や、中絶の自由を死守しようとしながらも、自己の心に潜む生命選別の思想に苦しむ女性たちなどの揺れ動く思いに、しっかりと立ち会い、繊細な意味の分節に目を凝らすことをやめようとしない。とりわけ選択的中絶、並びにその背後に潜む思想を執拗に批判していく様子は本書の圧巻だといえる。
 フェミニズムとの格闘が彼を一層成熟させた、と私は思う。理論的分析の後で彼は、フェミニズムという実践的思想と、自分の理論性との相克がもたらす問題点を反省している。築いては崩す、言説の転成だ。事象に関する考察が中心の本書のなかで、唯一、個人の存在に肉薄しようとする田中美津論は、理論的迂回を経ながらも第三者的スタンスに留まり続けることを必ず否定する著者の姿勢が、最も顕わに発現したスリリングな論考だ。その種の辛苦な作業のなかからねばり強く紡ぎ出される彼の言葉は、わが国固有の「いのちの倫理」の、最良の表現の一つである。
 私個人は、幾つか重要な点で彼とは違う判断をもっている。だがその私にとっても、本書の読破は重要な経験だった。生命学のさらなる発展と深化を心から祈りたい。(本文入力:りんご

金森修、立岩真也『みすず』490号 2002年1月  二〇〇一年読書アンケート

p11 金森修(科学史) 1.森岡正博『生命学に何ができるか』勁草書房  若い頃からの有名人は、駄目になることも多い。だが、森岡氏はこの本でエンジン全開、これが彼の主著の一つになるのは間違いない。選択的中絶を執拗に批判する議 論の節目を辿っていけば、この本の執筆のために彼が注いだエネルギーが並々ならぬ ものだということが直感できる。

p49 立岩真也(社会学)  他であげた三冊のうち一冊は、森岡正博『生命学に何ができるかー脳死・フェミニ ズム・優生思想』(勁草書房)。『看護教育』(医学書院)で「医療と社会・ブック ガイド」という連載を昨年の一月から始めていて、数ヶ月遅れで(いちおう雑誌の営 業に対する配慮です)ホームページ(私の名で検索すると出てきます)にも掲載され る。森岡の本はそこでも取り上げた。 (本文入力:りんご

鷲田清一 『京都新聞』2002年2月14日夕刊

・・・(中略)・・・

 「人の生命の萌芽」としてみるというのは、ひとが、「ひと」としてのみならず、その存在をひとによって消去される「人の生命の萌芽」である者の側にも立って、事態を考えるということであろう。死んだひとの無念、生命として見棄てられた赤子の哀しみ、そういう「声にならぬ声」にどこまで耳を澄ましうるかに賭けることによって、みずから「ひとである」ことの意味を問いつづけることに、(「声なき声」を言った六十年安保のときの岸首相の言葉とはまったく別の意味で)それはつながる。
 受精胚という、いまだひとのかたちをとらないがやがてひとになる可能性をもったものの仕組みをも知り、操作しうるような地点まで、わたしたちの科学は到達した。では、わたしたちの「ひと」としての想像力は同じようにそこにきちんと着地しうるのか。「ひと」はどこまで「ひと」でいつづけられるか、それが問われているようにおもう。
 「生命倫理は、『すでにいないはずの存在者』から伝えられた『他者の声』が、様々なルートをつたってわれわれの身体とこころの奥深くに到達したときに真に開始される。生命倫理とは、すでに死んでしまった者、かつて生まれることのなかった者、私が殺した者とともに、われわれが生命について考え、行為し、生き切る知の営みなのである」。
 最近読んだ森岡正博さんの『生命学に何ができるか』のなかの文章に、深く納得する。

加藤秀一 『週刊読書人』2002年2月22日

 書物というものはなく、書物と読者との関係だけがある。森岡正博の十年に及ぶ思索の集成である『生命学に何ができるか』は、評者にとって、胸の透くような共感と強烈な違和感とがたえまなく交錯する書物であった。そのような振幅は、おそらく「生命学」という名づけそのものに対する著者と評者の根本的な態度のちがいを淵源とするだろう。
 森岡の生命学はこれまでの生命倫理学に対する<批判>から出発する。生命倫理学が客観的な基準によって問題の是非を一刀両断しようとするのに対し、生命学は法にも倫理にも還元されえない個々の内面の葛藤やゆらぎを直視するのだという。だがそれはたんなるアンチテーゼではなく、むしろ生命倫理学を前方へ向かって乗り越えようとする知=生き方の提言である。実際、生命学には、自らの生き方をかけて問題に答えねばならないと読者を叱咤する強烈な「個人主義」の側面があるが、それを生命倫理学的な「自己決定権」概念の可能性を汲み尽くそうとする志向として読むこともできるだろう。
 このような構えから語り出される最初の二つの章が、「脳死とは人と人との関わりである」と喝破した『脳死の人』以来の「関係志向的アプローチ」を最新の医学的知見をいれて深化させた脳死臓器移植論・妊娠中絶論であることは矛盾に見えるかもしれない。だがそうではない。脳死の人や中絶される胎児という他者との遭遇によってもたらされる自己のゆらぎを見据え、それ自体を<自己>の生として引き受けていくという高階の課題こそが生命学の核心なのだから。いわば生命学とは、個人主義と関係主義という相反する二つの契機を、それぞれのリミットにおいて接合しようとする知の試みとして理解されうる。それでは、果たして本書においてそのねらいはよく達成されているだろうか。
 本書の最も優れたページは、我々の内面に潜む優生思想(新優生学)についてねばり強く論じた第6章にある。出来合いの差別批判をふりまわすのではなく、<存在してほしい生命とそうでないものとの選別>という優生思想の核心を明確につかみ直すところから始めて、「健康増進思想」と「優生思想」との冷静な区別をふまえ、身も蓋もないほど具体的な場面に即しながら、「障害を理由に中絶することと、いま生きている障害者を差別すること」を切り離せるかという地雷原のような実践的問いに深く分け入っていく、その強靱な分析性こそが──いささか道学者的に自己反省の必要を繰り返し訴える著者にとっては心外だろうけれども──本書に比類ない価値を与えている。
 だがそのように評価するからこそ、関係志向アプローチに内在する酷薄さに対する著者の懐疑の甘さが気になる。確かに著者は、関係志向は「少なくともすべての生きている人間に保証されるべき生存権と基本的人権」を基礎づけえないがゆえに「生命の保護の範囲を拡大する方向」にのみ展開されるべきだと指摘しているが、この極めて重大な論点に費やされているのはわずか数行にすぎない。関係志向(生命学)の陥穽と権利論(生命倫理学)の意義についてそれ以上の考察はなされないまま、最終章に至って、「生命」とは「それを大切にしたいという人と人とのかかわりあいによって、かけがえのなさを与えられた『存在』」であるという、美しき関係志向がまたしても高らかに語られるのである。
 だが、まったく反対に、この世の誰からも「大切にしたい」と思ってはもらえない存在、いかなる肯定的な「かかわりあい」からも排除された存在、そのような不可視の存在へのまなざしをいかに現実のものにできるか──誰からも大切にされない人のかけがえのなさをいかに守るのかという問いこそが、倫理学に課せられた真の責務ではないだろうか。家族の愛に包まれて死んでゆく脳死の人はすでに幸福であり、そこではほとんどの問題はあらかじめ解決されている。それに対して、むしろ家族によってこそ殺されるかもしれない人を、医師や倫理や国家がどうやって守れるのか。未だなお「家族」という記号がほとんど絶対善として流通している日本の現状では、これは緊急の問題である。こうした疑念を言いがかりと受けとらないでほしい。現実に我々は、たとえば殺人犯の処遇をめぐって「被害者の遺族の気持ちを考えろ」などと言うではないか。まるで、死んでも悲しんでくれる遺族のいない人の死は、相対的に重大ではないかのように。
 このような疑問は、本書が「生命」という概念そのものを決して疑わないように見えることへの批判にたどりつく。<誰の・どんな>から切り離された「生命」などというものがあるのか。「誰々が生きている」という厳密な意味でかけがえのない事実を、「生命」「存在」という物象化された一般概念に還元してよいのか。著者は既存の学問のすべてを「生命学の視点から一気に組み替える」という壮大な構想にみずから幻惑され、思考の台座である「生命」そのものを<疑う>という、学が学でありつづけるために不可欠の苛酷な自省性を忘却しているのではないか。──こうした疑念は、ウーマンリブの思想、特に田中美津の『いのちの女たちへ』を「生命学」の先駆として解釈する章を読むときに一層強まる。中絶を暴力として直視するリブの思想から森岡が学び、自分の言葉として消化しようとする姿勢の真摯さは疑いえない。だがまさしくその真摯さゆえに、ここには男性によるフェミニズムの簒奪が典型的に生じてしまっている、と思う。これと平行して、内容面では、森岡のあまりに生真面目な叙述が、リブ/田中のすぐれた<いい加減さ>を消してしまっていることに違和感をおぼえる(詳細は別の機会を期して論じたい)。
 本書にみられる妥協なき探究の姿勢、その豊かな知識と鋭利な分析から学ぶべきものは多い。だがそれゆえにこそ、特に若い読者には、著者の誠実さにうっとりと追従することなく、<批判>への強固な意志を携えて本書と格闘することを望む。それに見合うだけの豊かな問いが、かたちを定められないまま、本書の全編に息づいているのだから。 (本文入力:りんご

林真理『図書新聞』2002年3月9日号

 本書は、具体的事例としては脳死臓器移植、人工妊娠中絶一般、障害児の選択的人工妊娠中絶について扱い、理論的にはパーソン論の問題点を論じた生命倫理学の論文集であり、七○年代の日本における優生保護法改「正」反対運動の思想、とりわけ田中美津の思想の捉え直しを行った生命倫理思想史の論文も収録されている、といったところが公式の紹介になるだろうか。しかし、このように既成のアカデミックなタームで本書の内容を回収してしまうのは不適切である。既存の学問的な枠組みに当てはめることによって、むしろ本書の最も重要な部分は伝わらず、逆に誤解すら招きかねない。この点がまさに本書の特徴をなしている。
 本書をどこかに位置づけることが可能であるとしたら、それは「生命倫理学」や「哲学」などといった既成の学問の枠組みの内部ではなく、むしろ著者自身のこれまでの著作に対してではないかと思われる。自身固有の学問体系樹立の試みという点では『生命学への招待』(勁草書房 一九八八年)の続編であり、現代の生命科学・技術に関わる倫理的な問題を扱っているという点では『脳死の人』(東京書籍 一九八九年)によって明らかにされた問題意識を引き継いだものであると言える。それに対して、自分自身の生き方に対して問いかけることを重視する学問的態度そのものを実践した点に注目すれば、『宗教なき時代を生きるために』(法蔵館 一九九六年)、『自分と向き合う「知」の方法』(PHP研究所 一九九七年)の延長線上にあると言えるだろう。さらに著者のオリジナリティを遺憾なく発揮している『無痛文明論』(連載終了後加筆進行中)を、比較的多くの人に関心があるような既存のわかりりやすい問題にそくして語ったものであると言うこともできるだろう。こういった執筆遍歴の大きな流れの中で見るならば、具体的な問題を扱いながら、全体としての体裁も整えた比較的総合的な著作であり、これまでの森岡「生命学」の現時点での集大成とも言えるものになっているという紹介が正しいに違いない。
 ただし、以前の著作との結びつきは必ずしも直線的なものになっていない。それどころか、これまでの論文を元にした本著作自体が、以前に書いた部分をそのまま残しながら、その続きにあたる加筆部分で前に述べたことを批判あるいは限定するような弁証法的(?)構造をあえてとっており、著者の執筆活動の進行がよく見えるものになっている。著作を最終的な作品として提示するのではなく、著作活動自体をナマで晒す態度を著者が選んでいるためであると思われる。しかし、それによって最終的な結論が見えにくくなっている場合もある。したがって、本書は何らかの有意義な結論を手っ取り早く知るという目的のために便利な著作ではない。著者もそういった「利用」のされ方を必ずしも望んでいるわけではないであろう。
 以上、全体としての本書の位置づけと特徴を論じた。以下ではより外部的な視点から個別的論点に触れたい。
 最も注目すべきは、脳死移植問題を論じる第一章である。この問題については、すでに片付いた問題という(誤った)認識が広がっている。それだけに、現在の時点でこの問題を再び論じることには大きな意味があると言える。脳死移植に関連する昨今の言論の多くが、適切な手続きにしたがって脳死判定やレシピエントの選択が行われているかといった、決して根本的とは言えない議論を巡るものになってきており、脳死移植そのものを問題にするような議論が失われている状態が存在するからである。そのため、日本における臓器移植法の施行以後問題化された、脳死移植そのものに関する本質的で重要な疑義について論じている本章は重要な意味を持つ。
 また「パーソン論」を中心とする第二章の議論も重要である。「パーソン論」にある種の典型を見ることができるようないわゆる「バイオエシックス」に対する反省は、すでにアメリカの知的共同体内部で起こっており(例えばペンス『医療倫理』(みすず書房)、フォックス他『臓器交換社会』(青木書店))、また功利主義の限界や関係性の欠如といった問題点が指摘されてきている。そういった一連の流れの中に本書を位置づけることもできる。
 他方で、この章には疑問もある。自身の議論では自己の個人的スタンスを前面に出しながら、他者の議論は表面的なものだけを切り出す態度には不整合が感じられる。パーソン論的な主張の主要な提唱者の一人であるピーター・シンガーの考え方は、動物解放論と表裏一体のはずであり、ベジタリアンという実践と結びつき、ナチスによる迫害という歴史を背負っているはずであるが、そういった背景は問題にされない。本来そういったものが無視できないというのが著者の立場ではないのだろうか。
 また著者の歴史的感覚にも違和感を覚える。例えば、七○年代の優生保護法改「正」反対運動について「目から鱗が落ちる」発見をしたと述べ(第三章)、矛盾に満ちた存在である自分への気づきという田中美津の思想を取り上げる(第四章)が、むしろリブの思想が引き継がれなかった理由を考察することによってこそ、それらを現在再び意味あるものにできるのではないか。同様に、自己のセクシュアリティへの反省を迫る男性の生命倫理という見方(第五章)はよくわかるが、そういった際に前提とされている(ポルノグラフィーなどによって形成される)「男性」性に古典的で現実離れしたものを感じる。生きていることの「根元的な安心感」を機軸として優生思想を論じる(第六章)が、実存的意識をすっかり忘れてしまって良いのだろうかとも思う。さらに著者の立場を貫けば、学問(あくまでも生命「学」という形をとろうとしているは確かである)にとどまるのは何故か、といったことが問題になるだろう。
 このように疑問点は多々あるものの、全体としては非常にわかりやすく現在の生命倫理学の限界を指摘した著作である。すなわち、すぐれた生命倫理学「批判」の書である。ただ、<揺らぐ私>を露出する森岡ワールドには戸惑いを持つ読者もいるだろう。「私」語りの過剰に「引いてしまう」部分があるかも知れない。そこが魅力だという読者がいることも理解できるが、必ずしもシンクロ率の高くない読者には敬遠されるという危惧も感じないわけではない。 (科学論)

西川勝 『Neonatal Care』2002年4月号(76−77頁)

 【考える本のはなし4】 『生命学に何ができるか』は、脳死や中絶、優生思想など、生命倫理学的なテーマを扱うが、たんなる学術書ではない。500ページの思索は、曲がりくねった道に何度も迷い、平坦ではない地面に足をとられながら進められる。生命倫理学的な問題について、黒白を決することが眼目ではないのだ。「いままでこころの内にそっと秘めていたことを、語ろうと思う」という書き出しの本書は、著者自身の経験を深く見つめ、さらにいのちをめぐって苦悩する具体的な人たちの困難や切なさに寄り添い巻き込まれるところから出発する。
 10数年前、森岡さんが、ご自身の著作『脳死の人』が縁で知り合った女子医大生が、はからずも脳死の運命に見舞われる。彼女の死後一年を経て、偶然に事実を知った著者は、母親の語りや文集のうちに彼女のいのちを辿りはじめる。彼女の面影がフラッシュバックし、切ない感情をかきたてる。すでに彼女の肉体が存在しないことは理解できても、彼女が自分の中でまざまざと生きている実感をどうすることもできないということ。この矛盾を著者は大切にする。彼女が手の届かぬ処に去ったことをただ嘆くだけでなく、粘り強くいのちの意味を問い続ける。そして、「でも、今でも、彼女は私の中に生きている」と言い切る。客観的認識のみを重視する既存の学問を超えた方法を模索する彼を、非科学的と評する人もいるが、それは生命学の価値を不当に貶めるものでしかない。
 いのちについては、物のように手に触れる実存性(リアリティ)よりも、生き生きとした動きとしての現実性(アクチュアリティ)こそが問題なのだ。ただの認識ではなく取り返しがつかない行為として、人と人との間で生じるアクチュアリティが、「悔いのない生きかた」であると同時に「自分を棚上げにしない思想」としての生命学につながる。
 さて、森岡さんの文章に即して考えてみることにする。

 「他者と出会うとは、他者を理解しようとすることではなく、他者の他者性と出会ってゆらぐことである。そして、そのゆらぎをきっかけにしてみずからを問い直し、みずからを変容させ、今までとは異なった生へとみずからを生きなおしてゆくことであり、新たな生を通してそのゆらぎを人々に伝えていくことである。他者と出会うとは、謎を理解しようとする試みによって見えなくなっていくものが存在するということにつねに敏感になることでもある。このような、『謎のなかに到来する他者』を大切に思い、そのような出来事を尊重していこうとする気持ちの中で汲み上げられ、人々のあいだに網の目のように伝わっていくゆらぎのさざなみ、それこそが『いのち』【77】なのではないだろうか」(83−84ページ)。

 ところで、他者とは、いったい誰のことだろう。脳死になった人の肌から伝わってくるもの。死んでしまった人の面影が、私の胸に湧き上がらせるもの。自分の子宮の痛みとせめぎあう中絶胎児の影。これらが、この本で取り上げられている他者である。「他者の他者性」というと難しく聞こえるが、「理解」という知的な作業の有限性を深く自覚させるところに、現実に出会う他者の力はある。私とあなたの間には、絶対に越えられない深淵が横たわっている。にもかかわらず、目前に現れるのがあなたであり、わたしはおののき、とまどい、深いところからゆらぎはじめてしまう。否応なしに私に迫ってくる理解を超えた他者との遭遇。そして、私が突きつけられた責めを、目をそらさず直視したとき、そこに出現する仮借なき荒れ野――これが、生命学のいう倫理の次元なのだ。
 英語圏の生命倫理学は、心や魂を脳に還元し人間を序列化することで、人間がどのような状態になれば、生命操作の対象としてよいのかについて議論する。このとき、研究者自身が痛みを感じていないことが問題なのだ。たとえば、生命倫理学に浸透しているパーソン論では、人はなによりもまず、「人格(person)」であり「自己意識のある理性的存在」であると考え、一定範囲での中絶を論理的に正当化する。著者は、この合理化・正当化の倫理的欺瞞性を批判する。そして、この批判は著者自身も逃さない。中絶を「子殺し」とし、そうしなければ生き続けられない女のありかたを、社会や男性、さらに女性自身にも鋭く問い続けた70年代日本のウーマン・リブ活動家、田中美津の思想と立ち向かうなかで、自分が男としてパーソン論を批判する資格を問い直している。人間という抽象的概念の陰に隠れ、孕ませた男の責任を問うことなく語れないのが、中絶問題なのだ。倫理的誠実さは、おのれに変容を迫り、「産ませる性」である男性としての責任をつきつける。
 この著作は正論の倫理学ではない。彼の昔のことばを借りれば、「すべきではない行為を結局はしてしまう人間を見つめ、その人間の立場に立って、その人間がその人間のままで何をすればよいかを考える倫理学」(『生命学への招待』)である。10年以上、この苦しい思索を粘り強く続けてきた森岡さんの勇気と誠実さは、もっと注目されてよいと思う。  彼は、この先どこへ行くのだろうーーいまを考え続ける人の著作を読むことの喜びは、現在進行形だ。