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柳田邦男編『現代日本文化論6・死の変容』岩波書店 (1997年1月) 93−116頁
脳死との出会い 森岡正博
*若干修正して、『生命学に何ができるか』に採録しました(2001年11月)。
1
いままでこころの内にそっと秘めていたことを、語ろうと思う。
私は一九八九年に『脳死の人』という本を出版した。そこで、私は、脳死というものを、脳死の人をめぐる人と人との関わり方であると考えた。そして、家族の視点、親しかった人々の視点から、脳死というものをとらえようとした。この本は、当時の脳死論に一定のインパクトを与えることとなった。
一九八九年と言えば、脳死臓器移植問題が社会的に大きくクローズアップされ、テレビや新聞などのメディアでさかんに取り上げられていた時期である。京都に移ったばかりの私も、あちこちに引っぱり出されて、とまどいながらも発言を続けていた。
一九九〇年の夏、滋賀医科大学の学生から連絡があって、秋の学園祭で脳死など生命倫理の問題をとりあげるので、そのシンポジストになってほしいとのこと。断わる理由もないので、お引き受けすることにした。打ち合わせのために、三名の学生さんたちが、新築間もない私の職場へ訪ねてきた。そのうちのリーダー役らしいひとりの女性が、シンポジウムの狙いを語り、私に対する期待を語った。彼女は、私の『脳死の人』を読み、とても興味を持ったと言った。ぜひ、その本で展開したような意見を述べてほしいと。その女性、藤原好(よしみ)さんの、きらきら光る眼差しは、とても印象深く脳裏に刻み込まれた。
一九九〇年一〇月二八日に、滋賀医科大学で開催された公開討論会「日本におけるお任せ医療について―患者と医師の新しい関係を考える―」は、とても好評だった。学生が主体となって作り上げた討論会らしく、参加したみんなが、それぞれ本音で語り合えた。藤原さんは、司会を無事にやり遂げた。すばらしい会だった。
一九九四年、私の職場で開催していた共同研究「生命と現代文明」で、現代医療と看護の問題をとりあげることになった。現場の一線で活躍されている看護婦の方や、医療現場で調査に当たっている学者の方に発表していただくことにした。そんなとき、ふと、二年前に出会った滋賀医科大学の藤原好さんのことを思い出した。彼女はもう卒業して、研修医になっているだろうか。あの生き生きとした、問題意識の旺盛な女性は、どんな医師になったのだろうか。もし、時間に余裕があるのなら、この共同研究会にオブザーバーとして出席してくれないだろうか。そうしたら、お互いに、きっと実りあるものになるはずだ。そう思って、彼女の自宅に研究会の案内状を出した。それを投函したあと、二年前のことを、なつかしく思い出した。会うのがとても楽しみだった。
数日後、電話が鳴った。
私は受話器を取った。
「森岡です」
一瞬の沈黙があって、女性の声がした。
「藤原と申します」
私はすぐにピンときた。
「藤原さん、お久しぶりです。お元気でしたか」
ちょっとうれしくなった。
しかし、電話の向こうから聞こえてきた返答は、想像を絶するものだった。
「私は、藤原好の母です」
「あ、はい」
「研究会の案内状ありがとうございました。ですが、好は、一年前に亡くなりました」
私は、どう反応していいのか分からなかった。
彼女は続けて言った。
「好は、脳死になって、亡くなりました」
2
私の『脳死の人』を読んで、私に講演を依頼しにきた二七歳の医学生が、その三年後にヘルペス脳炎が原因で脳死の人となり、死んでしまった。私は、その事実を、どう受け止めればいいのか、まったく分からなかった。そう、まったく分からなかった。
この、宙吊りにされたような感じ。その人とは、たったの二回しか会ったことがない。人生で触れ合ったのは、ほんの、ほんの一瞬にしかすぎない。私の脳裏には、その人の、若く元気だったときの姿が、そのまま焼き付いている。私は、彼女の脳死の姿を見ることもできなかったし、冷たくなった姿を見ることもできなかった。そのくらいの、たんなるゆきずりの他人にすぎない。
でも、私が受けたこの衝撃は、いったい何だろう。脳死になって死んだということを聞いた瞬間に、私のなかにわき起こってきた、このやるせない、切ない感情は何なのか。死のことを聞いた瞬間に私のなかに立ちのぼってきた、この生気に満ちた彼女のイメージは何なのか。「彼女は生きているはずだ、どこかで」という思いを断ち切ることができなかった。
しかし、彼女はすでに一年以上も前にこの世からは姿を消したわけで、その事実との落差が、私にはきつかった。それに、やっぱり、「脳死の人」になって死んだというのがつらかった。私たちは、あのとき、脳死についても語り合った。これから医師になっていく彼女にとって、脳死とは何かという話もした。脳死という事象に、いまの医療の様々な問題が集約してあらわれているというような話もした。私の話に、彼女は真剣にメモを取っていた。ふと目をそらして、窓から外を眺めるときの、彼女の生気に満ちた表情はいまでも思い出す。
藤原好さんの母上、康子さんと会うことにした。
藤原康子さんは、好さんの死について淡々と語ってくれた。学園祭の準備のときには、私の『脳死の人』を興味深く読んで、とても面白がっていたと私に伝えた。彼女は、好さんの死後、その思い出をまとめるために、『飛翔』という文集を自費でまとめられた。そこには、好さんの脳死に至る経過や、彼女の友人・先生たちによる数多くの感動的な文章がおさめられている。
私はその文集を受け取って、パラパラとページをめくってみた。好さんの写真がたくさんある。友人や先生たちとの楽しそうな姿の数々。そのなかには、私と出会ったころのショートの髪型をした姿もある。ショートカットの下で揺れる、大きめのイヤリングは、とても素敵だった。その横顔を、ありありと思い出す。文集のなかに、学園祭のパンフレットが載っている。そしてその隣には、おそらく彼女が書いたと思われるメモがある。討論会のテーマを箇条書きにしたもので、「日本人の意識構造」「患者の権利意識」「医療現場における人間疎外」などの項目が並んでいる。私は、そのメモを、たしか打ち合わせのときに見た覚えがある。その記憶は、私を、そのメモを持っていた好さんの姿へと連れ戻してゆく。
三人の滋賀医科大学の学生さんたちが、私の職場を訪ねてきたとき。クーラーの入った部屋に彼らは入ってきて、誰かが私の壁にはってあるビートルズのポスターを指さして、ビートルズ好きなんですかと聞いた。そして私たちは、学園祭のテーマについて、語り合った。藤原好さんは、三人のなかでもいちばん年長であるらしく、話をまとめるのがうまかった。彼女は、最初は心理学の勉強をしていたこと、そのあとで医学部に入りなおしたことを教えてくれた。心理学から医学部というコースをたどったという話は、とても興味を引いた。だから、医療現場のインフォームド・コンセントなんていう話題を、自分から考えようとしているのだろうか。そう思った。当時、彼女は『脳死の人』に共鳴していたらしく(『飛翔』一八頁)、われわれのあいだの基本的な意思疎通はきわめてうまくできたように思う。
藤原康子さんから手渡された文集をめくりながら、そんなことが、一気に脳裏によみがえってきた。藤原さんは、この文集をぜひ私に読んでほしいと言った。私は、いまからすぐに読ませていただきますと答えた。そして彼女に、今度の研究会に来てみませんかとお誘いした。彼女は、こころよく受けてくれた。彼女と別れてから、私は自室に戻って、文集を舐めるように読んだ。
3
そのときの読書体験を、私はどのように表現すればいいのだろう。
二九歳で脳死の人となって生を閉じた、藤原好さんという女性の生命が、この文集のなかに脈打っている。その文集に文章を寄せたたくさんの人たちの「思い」のつながりあいのただ中に、彼女のいのちは、こうやって生き続けている。その思いのつながりのネットワークのなかに、こうやって文集を読んでいる私もまた組み込まれているのだ。そして、そのネットワークの細い糸を伝って、生々しいいのちの流れが私のこころのなかに入り込み、そして私のなかで存在しつづけていた好さんの姿に生命を与え、それをなめらかに動かしはじめる。
好さんは、文集を読んでいる私のなかに、いまここで、生き続けている。なぜなら、私は、好さんの生命の熱さや、なまめかしさや、ほとばしるそのいのちの流れを、ありありとこの心身で実感できるからだ。この世界に物質としてはなにも存在しなくても、私はそういう流れをありありと感じることができる。そのような、なにか生きた塊のようなものとして、好さんは、いまここで生き続けていると思わざるを得なかった。私にとってまだ未知であった彼女の様々な姿が、私の前に開かれてくる。その濃密な時間の経過。しかしながら、彼女はすでに一年前に死んでいるのだ。もうこの世には存在していないのだ。読みながら、私は様々なことを記憶の底から思い出し、手が震えた。いまから思えば、そのときに私が思い出していたのは、好さんのことだけではなく、それまでに私がかかわりをもった別の幾人かの人間たちとの過去の出来事も、そこには含まれていたのにちがいない。好さんの文集は、そうやって、私個人の深い記憶の層の奥底にまでたしかに届いたのだった。
読み終ってから、私はしばし呆然と椅子に座り込んでいた。たったいま、この文集から立ち現われてきた彼女の生々しい姿と、その彼女が実は一年以上も前に死んでいるという事実とのギャップを、どういうふうに理解していいのか分からなかった。このやり切れない、せつなすぎる感情はいったい何なのか。それに加えて、もうひとつの謎が私を襲う。どうして、私の『脳死の人』に共鳴して私をたずねてくれた人が、そして私の出席するシンポジウムの企画・準備・司会をしてくれたその人が、そのすぐ後に脳死になって死んでしまったのか。あんなにせつない文集を一冊のこして。
文集『飛翔』は、ご両親によって編集された自費出版の書物である。小部数のため、脳死の現状に興味をもたれる方々のあいだにもほとんど出回っていない。好さんが私の本を読んで私を滋賀医科大学の学園祭で紹介してくれたように、私もまた好さんの生と死の一片を、読者に紹介したい。それが、亡くなった好さんから届けられた一冊の文集を手にして震えている私に課せられた、責務であると思うからである。
文集の冒頭に、藤原康子さん、藤原史和さんご両親による、好さんの死までの闘病の記録がある。これは、現代の病院医療の現実を知るうえでも貴重な記録である。そして、そこには、脳死になった好さんに対するご両親の生命観がみごとに表現されている。
好さんが発病したと思われるのは、一九九二年一二月一七日のことである。好さんは医大の近くの瀬田に一人住まい。この日は、京都市上桂の自宅に帰ってきたが、頭痛を訴える。解熱剤を飲んだが、三八度を超える熱があり、トイレで倒れた。そして昼ご飯を食べていたときに、お茶碗を握りしめたまま一分弱意識を失う。次の日、熱が三九度台まで上がり、開業医で診てもらうが、風邪であるから休養していれば治るだろうと言われる。同日、午後一一時二五分、痙攣発作がおきて意識を失い、冷汗が出る。すぐに救急車が呼ばれ、向日市にある救急病院に運び込まれる。CT、胸部レントゲンには異常がなく、これは「ヒステリー」であって、ストレス等の原因によるものであるという説明を受ける。
翌日、好さんの意識は回復する。このとき、母親の康子さんとベッドサイドで久しぶりにこころを開いた会話をする。康子さんは、もっと親に甘えてくれてもいいのにと、好さんを抱きしめる。次の日、好さんは親しい先生たちが自分を覗き込んでいるという一種の臨死体験らしいものを経験している。好さんの様子がおかしいので、康子さんは主治医に次のように言う。
転院が決まってから、看護婦は尿の量を測りだす。後で気が付いたのであるが、ゴムシートの上にシーツが一枚かかっているだけのベッドに寝ていたのだ。床づれもできていた。
朝、湯たんぽで火傷をし、左足首のあたりに水ぶくれが出来ていた。熱さも感じなくなってきたようだ。看護婦は、こちらが指摘するまで気付かない。(一〇〜一一頁)
髄液を採る検査は、入院後三日後の月曜日であったが、土、日、祭日等は、緊急を要する検査であっても、行なわれないのか?
転院を希望したのは二〇日(日)であったが、実際に転院出来たのは、二二日(火)であった。どうしてこの様に時間がかかったのか? どこにネックがあるのか? (二七〜二八頁)
4
さて、好さんは二二日の午前中に滋賀医科大学病院に到着する。ただちにICUに入り、「ヘルペス脳炎」の診断を受ける。そして、一〜二週間が山であり、予後は四〇〜三〇%であると説明される。好さんのからだには様々な管やモニターが取り付けられた。「何か人間的なものを離れ、サイボーグ人間のような、物体になったような、そんな気がして依り付きにくかった」と康子さんは述べている(一一〜一二頁)。やがて、好さんの意識が戻るようになる。家族の語りかけにうんうんとうなづくようになり、大学の先生や友人たちも見舞いに来てくれる。
一二月二六日、突然モニターが異常を知らせる。脳幹ヘルニアになったらしいとのこと。翌日、医師から、ヘルペス脳炎が原因の脳幹ヘルニアになったという説明を受ける。ほぼ脳死に近い状態であると言われる。父親の史和さんは次のように書いている。
[一二月三一日]脳死のため回復しないと思われる病気の病状を聞きに行くのも辛い。でも好の心臓は動いている、温かい手を握りしめに行きたい。複雑な気持ちだ! ・・・・体を触ると温かい、まだ生きている。そう信じたい。好を百分の一の奇跡で何とか回復させてほしい! (一七頁)
[一月四日]好が滋賀医大四回生のとき、たまたま脳死のことなどについてのシンポジウムを企画した。当時の仲間のMさんによると、好の考えは脳死は死であって、無駄な延命治療には疑問を持っていたようである。・・・・ただ、親として人工呼吸器を止めてまで心臓死に至らしめる気は起こらない。出来る限りのことをしてやろう。それだけだ。それが親としての最後の務めなのだと自分に言い聞かせた。(一九頁)
[一月八日]手を握ると温かい。すぐに元気になり意識を取り戻しそうな気がする。(二一頁)
[一月一二日]好の顔は益々やつれ、手足も細くなってきた。来るところまで来たのだろうか、ただ手を握ると体温があり温かい。幾分、安心をする。好!ガンバリや!といって病院を後にする。(二三頁)
[一月七日]陽が望に「今のうちに、お姉ちゃんの手の感触をしっかり憶えておけよ!」といってチェロで鍛えられたがっしりした手を握る。ボディーローションを、がさついた手足に塗る。足の裏に香水をかけてやる。病室に異様な臭いがし、あまりよくない。(二一頁)
5
私は『脳死の人』のなかで、脳死が死であるかどうかという問いを、次の三つに分けて考えた。
(1)脳死が私の死であるかどうか。
(2)脳死が親しい他者の死であるかどうか。
(3)脳死が見知らぬ他者の死であるかどうか。(福武文庫版一四三頁)
つまり、人称によって死の意味が違うという考え方に立ったのである。
そして、とくに(2)の親しい他者が脳死になったときに注目した。親しい他者の場合、その他者との「人生の歴史や思い出は脳死の人という存在の一部」である。したがって、親しい他者の死は医学的・科学的に決まるものではなく、「私の死の受容」によって決まるのである。
* 藤原康子さん、藤原史和さんのご厚意に深く感謝いたします。