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『インパクション』No.105 1997年11月 76−80頁
男性から見た避妊 森岡正博
*大幅に修正して、『生命学に何ができるか』に採録しました(2001年11月)。最新版はこちらをお読みください。
フェミニストの友人とセクシュアリティについて話をすることがある。彼女はセックスは性差別であるというラディカルフェミニズムの考え方には懐疑的である。しかしながら、彼女は、性関係において男には理解できないことが確かにあると言う。それは「レイプ」と「妊娠」だ。
女性は、どんなに親しくて信頼できる男性といるときであっても、その男に不意に襲われてレイプされるかもしれないというおそれを、こころのどこかでかすかに抱いている。そして、好きな男とセックスするかもしれないときには、いつも妊娠のことが頭をかすめてしまう。もし避妊に失敗したら、その男の子どもができてしまうということを、セックスの前にどうしても考えてしまう。
「この気持ちは、分からないでしょう」と彼女は言う。たしかに、男である私にはむずかしい。男は、自分が誰かにレイプされるという想像をほとんどしないだろうし、ましてや自分が妊娠することなどありえない。だから、彼女が指摘したこの二点については、きわめて鈍感だとしか言いようがない。そして、すべての女性が彼女のように考えるわけではないのだろうけど、そこに男性と女性の深い溝が口を開けているという感じがする。
じゃあ、男性はレイプや妊娠についてなんにも考えてないのかといえば、そんなことはないのだ。まず、レイプについては、ポルノグラフィのなかに嫌というほどあふれている。たいがいの男性は、ポルノやビデオを使ってマスターベーションするときに、自分が主役となってレイプするシーンを想像したことがあるのではないだろうか。アダルトビデオでも、レイプものというのは確固としたジャンルを形成している。レイプについては、男は、レイプする側としての想像力を性的快感獲得の過程で教育させられてきている。だから、逆に言えば、男性が女性とふたりきりになったときに、男性の頭のなかに「レイプ」の二文字がかすかに潜んでいないとは言えない。女性に対して腹を立てたときに、「こいつ、レイプしてやるぞ」みたいなことばが思わず喉まで出かかってしまうというくらいのものは、男性の無意識のなかには染みついているのではないだろうか。実は、いわゆる「慰安婦」問題の根っこというのは、このあたりにあると私はにらんでいるのだが、それについてはまた別の機会に書くことにしたい。
それでは、妊娠についてはどうか。
男性が妊娠することはない。だから、「自分が妊娠する」ということに関しては、男性の意識は基本的には他人事である。それはちょうど、生理があるということに対する男性の想像力に限度があるのと同じことだ。つきあっている女性にいくらやさしくする男性であっても、生理や妊娠に関しては、どうしても頭で想像して分かったつもりになるという域を出ることはないであろう。
だとすると、男性は妊娠に対してなんにも意識がないのかと言えば、それは全然違うのである。まだ結婚していない男性が、ガールフレンドとつきあっているときに、彼の頭のなかをいつも去来しているのは、「セックスして彼女が妊娠したらどうしよう」という思いだ。彼女とセックスするたびに、いつもどこかでびくびくしている。ひょっとしたら、いまの射精で妊娠させてしまったのではないだろうか。きちんとコンドームは使ったつもりだけれど、精子が漏れていない保証はない。その精子がしぶとく生き残って、妊娠してしまったら、ぼくはどうしたらいいのだろう。そういう思いが、セックス直後からずっと頭から消え去らない。
男にとって、妊娠とは、自分が妊娠することではなく、セックスした相手が妊娠してしまうことである。そして、「彼女が妊娠したらどうしよう」という意識は、相手に次の生理が来るその日まで消え去ることはない。なんのことはない、セックスしてから、彼女の次の生理の日まで、いつもどこかでびくびくしっぱなしなのだ。その意味では、彼女とのあいだに子どもができたら困ると思っているあいだは、心底から楽しめるセックスというのはできないとも言える。どのくらい激しい快楽があったとしても、それは「びくびく」のうえでの快楽なのだ。
もちろん、これをもって男性一般に拡張することはできない。おそらく多くの男性に当てはまるだろうという予想のもとに、私の体験から類推して書いてゆくことにする。
子どもをほしくない男性にとっての避妊とは、このような「びくびく」をなるべく軽減するための方策である。それが第一関心事ではないだろうか。突き放した書き方をすれば、もし相手の女性が妊娠したら、彼女がどういうことになるのだろうかというような、相手に対する想像力と思いやりというのは、二の次かもしれない。避妊に気を配っている男性にとっての「避妊」とは、だから、自分自身の自己防衛の手段なのだと思う。それはちょうど、女性にとっての「避妊」が、やはり望まない妊娠を防ぐための自己防衛だというのと同じなのかもしれない。
だから、考えようによっては、避妊をきちんとするカップルというのは、お互いに自己防衛の意識がしっかりしているエゴイスト同士なのだと言えるのかもしれない。お互いにエゴイスト同士であっても、たのしいセックスはできるし、思いやりがあればその関係は続いていくであろう。それはけっして否定すべき人間関係ではない。
ただし、避妊にかんする男性の意識が、女性の意識と決定的に違うところがある。それは、セックスする相手との関係性に応じて、避妊の徹底度が激変してしまうということだ。早い話が、自分が大切にしている女性の場合は、きちんと慎重に避妊をするだろうが、もしその男がどこかで見知らぬ女性をレイプするとしたら、はたして彼はコンドームをつけてからレイプするであろうか。まさか、そんなわけはない。レイプするときには、その相手の女性は、男にとって使い捨ての道具にしかすぎないのだから、どうしてコンドームをわざわざする必要があろうか。いままで、コンドームをしてレイプしたという実例がどのくらいあるだろう。もちろん私はデータをもっていないが、もしあったとしても、それは例外ではないだろうか。もし、男がコンドームをつけてレイプしたとすれば、それは、その女性から性感染症をうつされるのがいやでつけた場合であろう。
そういうふうに考えてみると、男の性意識というのは、なんというか、おぞましいものを抱えていることがわかる。思い出すのだが、私が学生のときに、いわゆるプレイボーイの友人がいた。彼は、女性を次々とナンパしていたのだが、あるときに、前日の成果を私にしゃべってくれた。それはそれで興味深い話だったけれども、彼の言った次のことばは、いまだに覚えている。彼は、新宿で高校生をナンパしてそのままレンタルルーム(当時はそういうものが全盛だった)に行った。彼女は遊んでいる感じの子で、彼はセックスを楽しんだ。そして、「その子の中に思いきり射精してきたよ」とうれしそうに私に語ったのだった。
まだエイズなき時代の話なのだが、でも、彼のそのことばはとても印象的だった。実は、彼は長くつきあっているガールフレンドがいて、その女の子とのセックスではきちんと避妊をしていたからだ。彼からは、コンドームについても教わったりしたので、私はよく覚えている。
大切な関係の女性とはきちんと避妊をするが、セックスだけの一夜限りの女性のときは避妊にまったく神経を払わない。そういう意識構造が、彼にはあったし、おそらく多くの男性たちのなかにもあるのではないだろうか。
つまり、男にとっての避妊とは、男と女の関係性のあり方を反映するものなのである。風俗に行ったり、アジア地域で買春をする男性たちは、コンドームをつけたがらないことがあるという話を聞く。それは、その男性たちが、それらの女性を快楽のための道具としか見ていないためである。どうせセックスしたらそれで関係は切れてしまうのだし、万一妊娠しても、中絶すりゃいいじゃん、というような意識があるのではないだろうか。たぶん、男性が買春する動機のひとつは、「無責任にセックスできる」からだと私は思う。相手の満足のことなど考えず、相手を道具のように扱って自分の快楽のことだけに集中し、妊娠の可能性などどうでもいい。そういう無責任なセックスをしてみたいという思いこそが、男性を買春に走らせ、とくに他人事で済む海外での買春に走らせるのではないだろうか(ほんとうは他人事では済まないし、国際問題になっているのだが、男性の意識のなかにはそれはないだろう)。
では、男性たちを無責任なセックスに走らせるものは、なんだろう。男性たちは、無責任なセックスをすることを抑圧されているという意識をもっているかもしれない。じゃあ、何がそれを抑圧しているのか。ここを解明する必要がある。おそらく「つきあっている彼女に妊娠されたら困る」とか「つきあっている彼女との関係性が変わると困る」というような打算があるのではないだろうか。これついては、もう少し時間をかけて考えてみたい。
結局、避妊を通して見えてくるのは、男性のなかにある、女性の身体に対する想像力不足、もっと露骨に言えば「他人事の感覚」みたいなものだ。そして、女性との関係性が変われば、相手に対する思いやり度も一〇〇%からゼロまで激変するということだ。道具の女性に対して避妊する気なんかぜんぜんおきない。これが、男性の性意識の根幹に植え付けられた何ものかなのだろう。
こうやって書いてくると、私自身、男の性意識の殺伐さに気が滅入ってくる。このような性意識は、この私自身のなかにもはっきりと存在している。それが生来のものなのか、それともどこかで植え付けられたものなのかは分からない。もちろん、私の性意識には、まったく異なった側面もたくさん存在しているので、それらのあいだの葛藤はものすごい。女性を使い捨ての道具として考える見方も私のなかには存在するし、それを全否定し、セックスを通して女性と魂まるごと交わりあってお互いに変容しあいたいという意識も存在する。その葛藤のなかで、私はもう二〇年以上も苦悩を続けている。セックスからはもう離脱して足を洗いたいという思いがすでに一〇代のときから厳然とあるにもかかわらず、私はいまだにその世界から抜け出すことができていない。ラディカル・フェミニズムの過激派が、異性関係を絶望へと導いていったとき、私は男としてそのことに同意できる部分もあった。男にとってさえ、異性関係は「絶望」であり得るのだ。
いずれにせよ、ここに書いたことは私が類推できる範囲内のことに限られる。女性の性意識がすでに多様であるのと同じように、男性の性意識も多様である。男性からの反論も当然あるだろう。いままでこういうことはあまり語られてこなかったので、もっとオープンなディスカッションをしていったほうがいいと思う。男性がこういうことを語り出さないと、いつまでたっても男性の性意識は暗黒大陸のままだ。将来の男性学は、この地点からこそ立ち上がっていくべきだ。
(大阪府立大学総合科学部教員・生命学)
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