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作成:森岡正博 
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エッセイ

『読売新聞』東京版・夕刊「仕事/私事」欄・4回連続掲載

森岡正博

第1回 「ロリコン」社会の危機 (2005年8月31日)

 私はいままで人間の「いのち」と「こころ」のことをずっと考えてきた。脳死になった人はほんとうに死んでいるのだろうかとか、オウム真理教の人たちはどうしてあのような事件をおこしてしまったのだろうかなどの問題である。それらをトータルに考えるための「生命学」という新しい学問を、提唱してきた。
  ところが、その私がここのところずっと考えていたのは、「ロリコン」についてなのである。えっと驚かれるかもしれないが、でもこの社会を見てご覧なさい。毎日、少女買春などで捕まる男たちはあとを絶たないし、幼女を狙った犯罪も多発している。なぜ一人前の男たちが、年端もいかぬ少女たちに、こんなにも激しく性的に関わろうとしているのか。
  そう思っていろいろ調べていくと、いまの日本の社会全体が、もうどうしようもない「ロリコン」社会になっていると思わざるをえなくなってきた。いまやアイドル写真集の売り上げ上位にランクされるのは、一二歳前後の小中学生で、その内容も、下着で挑発的な姿勢をみせるものや、大人顔負けのセクシーなものが多い。当然、少女の親も同意しているわけだから、アイドルの親自身が「ロリコン」なんじゃないかと疑いたくなる。
  つまり元祖「ロリコン」世代の男たちがいま四〇代後半になりつつあり、彼らの娘たちはちょうどいま小中学生なのだ。ちなみに、少女買春や盗撮などで捕まる男たちも、この世代が多い。つまり、いまや社会の中枢を支えようとしているこの世代の男たちこそが、日本を「ロリコン」大国にした張本人であり、いまやその視線は娘にまで注がれはじめているというわけなのだ。
  テレビでは、小中学生の少女に性的な視線を公然と浴びせかける番組が花盛りだ。娘への性的虐待の危機が、いまほど高まった時代はないと思う。「ロリコン」世代の私がいうのだから、間違いはない。

第2回 救済の書物「ボーイズ・ラブ」 (9月8日)

 今年『感じない男』という本を出したら、空前の反響があった。私には「ロリコン」の気持ちが分かると断言したが、学者の発言としては前代未聞らしい。奇をてらったつもりはない。思春期に入り始めた少女に惹かれるのは、私が自分自身の「男」の体を肯定できていなくて、それに違和感を持ち続けているからだ。だからこの「男」の体を抜け出して、私にはかなわなかった少女の生を内側から生きてみたいというのが、「ロリコン」の気持ちだったのだ。
  ところが、女性読者たちから指摘されたのだが、このような私の気持ちは、実は、美少年同士の性愛を描く「ボーイズ・ラブ」というジャンルにも当てはまるという。女性読者が、自分の「女」の身体を抜け出して、作中の美少年たちの体に乗り移って読むという点が、よく似ているというのである。
  なるほど、と思った。それで、「ボーイズ・ラブ」の原点とも言われる、竹宮惠子の名作マンガ『風と木の詩』を読んでみた。そして私はなんとも言えない感動に包まれてしまったのだった。
  『風と木の詩』の主人公のひとりジルベールは、父親に性的ペットとして育てられ、美しい少年に育っていく。しかし、その実態はと言えば、毎晩繰り返される性的虐待の連続であり、一〇歳にして父親に犯されてしまう。しかしジルベールは、自分をそのように非道に扱う父親のことが恋しくて、恋しくて、会えない日は涙を流すのである。ジルベールには美少年の恋人ができるが、それでも父親への思慕は消えない。
  ジルベールは、いかに性的に残虐に扱われても、その魂はけっして傷つくことなく、存在は逆にますます美しく光り輝く。この姿に自分を重ね合わせて、救われた女性読者は多いのではないかと私は思った。これは虐待によって心に傷を負った人間たち、自分の身体への違和感に悩む人間たちの魂を救う、救済の書物なのであった。

第3回 ”かわいい”小型犬 欲望の先には... (9月14日)

 小型犬をペットとして飼うのがブームのようだ。私は大阪でもっともおしゃれな街である堀江地区を、図書館の帰りによく散歩するのだが、本を片手に歩いていると、きれいにトリミングされた犬を散歩させている若者たちによく出会う。
  犬に人間のような服を着せたり、両手で抱えて散歩したりして、まるでお気に入りのアクセサリーのようだ。
  女性たちに人気の高いのが、手のひらに載りそうなくらい小さな犬だ。その写真を見ると、まるで熊の縫いぐるみそっくりである。ティディーベアのように毛をカットしてあるから、たしかにどこからみても愛らしい。
  これらの犬は、品種改良によって生み出されたものだ。「かわいい」姿をした犬に人気があるから、人間から見てかわいい犬が、大量に作り出されることになる。実は、このような犬は、熊の縫いぐるみのような短い尻尾にするために、赤ちゃんのうちに無理やり断尾することがある。このことはあまり知られていない。
  「かわいい」姿を見たいというわれわれの「欲望」のためならば、品種改良や断尾くらいどうってことはないわけだ。この傾向は近い将来さらに突き進むことだろう。
  「子犬はいつまでも大きくならなければいいのに」という女性の声を聞くことがある。遺伝子操作はやがてそれを実現するであろう。受精卵の遺伝子を操作することで、「死ぬまでずっと子犬のまま」という個体が生み出されることになるだろう。そして遺伝子操作された子犬のペットを愛でるその視線が、いつしか人間の子どもへと向けられる危険性はないのだろうか。
  人間には、子どもの成長を見守る楽しみがある。しかし同時に、「いつまでも子どものままであってくれればいいのに」という欲望もある。この後者の欲望と、科学技術が結びつくとき、その果てにどのような悪夢が広がるのか。それを直視できる知性が、われわれには必要なのである。

第4回 自分を棚上げにしない生き方 (9月21日)

 四回連載の最後なので、私がいま集中して考えていることを書いておきたい。私は「生命学」というものを提唱している。それは、この世にかぎりある生をうけた私たちひとりひとりが、ほんとうに悔いのない人生を生き切るために、どうしていけばいいのかを、学問の壁を超えて考えていこうとするものだ。同じような問題関心をもった仲間たちも現われてきているから、きっとこれから面白くなっていくはずだ。
  生命学は、いま生きているこの私の悩みや、実感や、問題意識などを、とても大切にする。そして私はいままでどう生きてきたのか、これからどう生きていくのかということをじっくりと考えるのである。
  つまり、研究している自分自身というものが、学問の直接の研究対象になっていくのである。と同時に、自分について知るためには、他者や社会のことをていねいに調べる必要がある。それは学問だから、当然のことだ。
  生命学は、いわば「自分を棚上げにしない学問」である。
  生と死や、セクシュアリティについて考えるときであっても、この自分自身はそれらの問題に対していままでどのように関わってきたのか、いまどういう感じ方や考え方を持っているのか、これからの人生でどうしていくつもりなのか、ということを、つねに自分の研究の中に繰り込んでいくのである。評論家によく見られるような、自分の性的嗜好については棚に上げたままで、異常者や犯罪者のことを高みから批評するような態度は、生命学からもっとも遠いのである。
近著『生命学をひらく』でも明言したが、自分を棚上げにしないこと、「考える」ことが自分のこれからの「生き方」に直結すること、これこそが、いま求められている学問のひとつの形なのではないかと、私はいま考えているのである。