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日本哲学会『哲学』50号 1999年4月 1−12頁
シンポジウム:時代の危機と精神的価値
現代において哲学するとはどのようなことなのか
森岡正博
1
私がどうして大学生のときに哲学系のコースにすすんだのかについては、他の場所で詳しく書いたことがあるので(1)ここでは繰り返さないが、私は、私が生きている意味とはなにか、宇宙はどうしてこのような姿で存在しているのか、なぜ私が存在しているのであって存在していないのではないのか、などの問いに私自身満足のいく答えを出したかったのだ。当時、理科系のコースにいた私は、自然科学の授業に絶望し、私の問いを正面から受け止めてくれるのは文学部の哲学系のコースしかないと思いこんでいた。そこにいけば、教師や学生たちが日々、自己とはなにか、死んだらどうなるのか、人生の意味はなにかなどについて議論しあっており、そのなかからわくわくするようなオリジナルな哲学がわきあがっているのだと思っていた。
ところが、その期待は無惨にも打ち砕かれることになる。なぜかと言えば、そこに(私が進んだのは倫理学教室だったが、以下に述べることは哲学教室でも事実上同じだった)あったのは、文献学の道場であり、哲学者についての研究や、哲学史についての研究をもって<哲学>だと言いくるめている空間であった。だから、私は文学部に移ってきても、ふたたび絶望するしかなかったのであった。私がやりたいのは、カントがどう考えていたかということではない。私がやりたいのは、私がどう考えればいいのかということなのだ。哲学とは、そもそもそういうことではなかったのか。哲学するとは、いまこの一回限りの人生のなかで、この私が、この私にとって切実きわまりない問題に正面から戦いを挑み、この私のことばと思考でもって答えを模索していく試みのことではなかったのか。私はそのように思い、そしていまなおそのように思っているのだが、当時の研究室は私のこの思いを受け入れてくれる雰囲気ではなかった(いまはどうなのか私は知らない)。
「時代の危機と精神的価値」という討議において、私がいきなりこんなことを話題にしていることは、読者には奇異に映るかもしれない。しかし、まさにこの点こそが、「時代の危機」に対して哲学界というものが意味ある反応をほとんどできていない根本的理由なのではないかと私は思うのだ。もちろん私は「哲学界」なんてものがどうなろうと知ったことではないし、彼らに意味ある反応ができなければそれまでのこと、そういう学者しか彼らは生み出してこなかったということの証拠なわけで、それ以上でも以下でもない。私は時代の問題について研究生活の当初から哲学的に取り組んできたつもりだし、私は自分自身の必然性によってそれを行なってきたわけで、なにも哲学界の発展云々のために研究してきたわけではない。生命倫理、脳死、電子メディア、オウム真理教、そして無痛文明論(2)。私は一貫して現代と自分自身の関わりのなかに生起してくる諸問題を哲学的に解明しようと試みてきた。そして私は文献学をほとんどやってきていない。しかしながら、私は自分自身がいままで行なってきたことを哲学だと思っているし、現代において哲学することのひとつの形はこういうものになるのだということを示し得ているとさえ思ったりする。
まず思うのだが、時代の危機を痛切に感じた人々が、日本哲学会の学会誌『哲学』を図書館で手に取るか、という問題がある。この混迷した世界を根本から考え直すのは哲学しかないと思っている人々がいる(私もそう思っている)。彼らは、私が哲学を研究していると知って、「哲学の学会というのは、現代の人間の心の不安とか、環境問題の解決とか、生命の価値などの問題をみんなで必死に考えているんでしょうね」という意味の問いを投げかけてきたりする。そういうふうに問いかけられて、私はどう答えていいのかいつもとまどってしまう。彼らは、もちろん哲学の学会のことなんか知らないし、そもそも大学の研究者の世界のこともよく知ってはいない。
そんなとき、私は自分が感じていることを正直に言うようにしている。「たぶん、そのような問題を哲学の学会で必死になって考えているということはないと思いますよ。言い訳のように生命倫理や環境問題についてのシンポジウムをくむことはあっても、それらを重要な課題として討議しているということはないようですね。彼らが一番関心あるのは、やはり自分が好きな哲学者の個人研究をすることか、あるいは哲学史の読み直しをすることなのです」。そう言って、私は日本哲学会の学会誌『哲学』をお見せすることもある。「シンポジウムというのは、年に一回開かれる学会の企画です。これは一種の打ち上げ花火のようなものでしょう。その下にある「公募論文」というのが学会の主要な活動です。これは、学会発表を論文にして採用したものです。そのタイトルを見てください。これこそが、哲学の学会がいちばん力を入れてやろうとしていることなのです」。
『哲学』の公募論文は、ほとんどすべてが「××という哲学者における××について」というようなものである。この姿は、ほんとうに時間の流れが止まったようだ。私が学生だった時代から、ほとんど何の変化も見られない。「良くも悪くもこれが哲学の学会というものなのです」と私は説明する。その人は「哲学の学会では、<私はこう思う>とか<現代社会をこういうふうにとらえ直す>とかいう議論をみんなでしているわけではないのですね」と感想を漏らすこともある。私はうなづくしかない。「そうなのです。哲学の学会とは、私はこう思うとか、現代社会はこうなっているとか、そういう時流に流されるような研究は「ジャーナリスティックだ」とか言われてほとんど評価されないのですよ。そういう目先のことを考えるのを哲学だと言うのではなくて、プラトンやアリストテレスが考えていたことを解明するというような、哲学者についての解釈学のことを哲学と呼んでいるのですよ。私はそういうのはおかしいと常々思っているのですが、こればかりはまったく変わらないようですね」。
たしかに、学会が公募論文としてどのようなものを採用するかという点については、ここ一五年間まったく変化がないように見える。ちなみに近年の『哲学』の公募論文を見ても、一五年前の公募論文を見ても、そこに取り上げられている哲学者の名前に若干の違いがあるくらいで、「××における××について」という内容の論文がほとんどだ。これはいったいどういうことだろう。ここには「制度化」の問題が深くかかわっているのだが、それについてはあとから述べることにしよう。
ちなみに、私が大学院生のときに書いて知人に配布した未発表のエッセイがある。「現代日本の哲学をつまらなくしている三つの症候群について」(一九八六年頃)というものだが、そこで私が書いたことはいまだにそのままの形で当てはまる。これは何を意味しているのか。原文はホームページで公開しているのでそちらを参照していただくとして(3)、そのエッセンスのみを紹介してみたい。
まず、第一の症候群は、「−−における」症候群と呼ばれる。これは学会誌に載せられる論文が「誰々における何々問題について」という形式のものばかりであるということだ。学生にとって大学院時代というのは、いかにして重箱の隅をつつくような論文を生産するかという技術を学び、またそのような論文を発表することがとりもなおさず「哲学」であると信じ込まされる期間である。そのような修練を経ることによって、哲学とは「私はこう考える」ということではなくて、「誰々がどう考えたのかについて私はこう考える」ということなのだと洗脳されていくのである。その洗脳を受けたのちには、特定個人についての文献学はとても快いものになっていく。そのエッセイから引用しよう。
2
ところで、ここで制度化の問題について考えておかなければならない。科学論においては、学問は「学会」「レフェリーつき学会誌」「大学のポスト」「教科書」などが有機的に組織化されることをもってその学問は制度化されたと考える。つまり、何がその学問であって何がその学問ではないかについての評価基準が学会によって明示的暗示的に作成され、その基準によって学問的業績とそうでないものが振り分けられ、その業績を積み上げたものが専門家・研究者として認定され、大学のポストに就き、そして学生を再生産していく。これが学問の制度化のひとつの意味である。
現代日本の哲学の制度化においては、「文献学」「解釈学」が、哲学の業績の認定基準として基本的に採用されたということがある。したがって、文献学・解釈学のスタイルをとらない論文は、まずその形式からして学会誌に採用されにくい。
制度化された学問は、きわめて自己目的的に運動する。ある論文が哲学の論文として評価されるためには、文献学・解釈学というスタイルをとったほうが有利なのであるから、応募者はそういうスタイルで論文をまとめようとする。その結果として、応募されてくる論文のスタイルはそのようなものばかりとなり、掲載されるものもそうなる。すると、それが既成事実を作り上げて、あとに続く学生たちはさらに強固にそのスタイルを学習することになるのである。
学生が学会誌に論文を載せようとするときに、彼らはその学会誌でどのようなものが受け入れられやすいかを研究する。そして、論文を作成するときに、その受け入れられやすいスタイルに合わせて、論文を書くことになる。だから、基本的には、受験秀才のような器用な学生の論文が採用されやすくなる。私自身、『哲学』に投稿した論文は文献学のスタイルにしてしまった。いまでは自分の研究発表の汚点のひとつだと思っている。私自身が、「−−における」論文を書いてしまったのだ。これは私が自己批判しなければならない点だ。なぜ私がそういう論文を書いてしまったのか。その理由は、「哲学界」というものに認められたかったからだ。そういう欲望のとりこになっていたからだ。いまでは「哲学界」というものの存在自体が幻想でしかないということは分かっているが、当時はまだ分からなかった。制度化された学問というのは、そういう研究者の欲望と共犯関係を取り結び、自己目的的に運動を続けるのである。
そして、学会の公募論文というのは、大学院生や若手の研究者を制度化の枠にはめ込んでいくためのイニシエーションの働きをする。つまり、それは、「こういう論文こそが哲学なのであり、こういう論文を書かない限りきみは学会では認められないのだよ」という教育機能を有しており、同時に、その試験をパスした者に対してとりあえずの学会通行許可証を発行するという機能もまた有するのである。その通行許可証に業績という名の論文群を蓄積すれば大学教員への道が開かれる。だから、哲学研究者として認められ、あわよくば大学教員となりたいという欲望をもつ大学院生や若手の研究者たちは、そのイニシエーションを通過するために、みずから進んで学会からの教育を受け、スタイルを学習し、みずからを制度化の枠にはめ込んでいくのである。みずから進んで枠にはまっていくプロセスのなかで、彼らはそういう制度化の枠のなかでしかものを考えられないようになっていく。そしてそれが骨身にまで染みたときに、彼らは制度化の枠組みをまったく疑うことすらしない専門家として完成するのである。「文献学・解釈学こそが哲学である」というパラダイムを骨の髄まで染み込ませた研究者が、時代の危機に真に対応する哲学の営みを開始できるはずはないのである。彼らにできるのはせいぜい過去の哲学者の思想を抽出してきて現代の状況にただあてはめてみるだけのことだ。そんなことで現代の問題の構造が解明できるほど、現代社会の抱える病理は浅くない。そして、さらに付け加えれば、生命倫理などの学際集会でいちばん失笑を買うのは、哲学者と称する者のそういうたぐいの発表なのである。(もうひとつの失笑の的は、自然科学者や医者の大家が滔々と述べる幼稚な哲学論や科学論なのであるが)。
現代日本において、哲学は文献学・解釈学を主軸として制度化された。その功罪は様々あるだろうが、時代の危機に対応するという視点からすれば、デメリットのほうが格段に大きいと言わざるを得ない。なぜかと言えば、「私はこう考える」とか「現代の問題を哲学したい」という動機付けをもっている学生たちを、その研究のスタート地点において排除していく方向へと制度化の圧力は働くからである。というのも、そういう動機付けでもって哲学に興味を示してくる学生たちは、「自分自身が問題をどのように考えたいのか」ということのほうに主たる関心があるからである。私の接する範囲で言っても、そのような関心を示す学生は多い。しかしながら、大学院や学会へと続いていく研究者の道は、そのような学生たちの希望をくじくばかりである。自分の頭とことばで現代の問題を哲学したいと思っている彼らが、大学生活を送るうちにしだいに失望し、絶望し、哲学への道をあきらめていく、そういう姿をいままでどのくらい見てきたことか。
こういうふうに言うと、すぐに反論が返ってくるだろう。すなわち、どんな学問であっても徒弟修行の時代はあるのだ。最初は、文献をきちんと読んで、過去の哲学者の考えたことを頭に入れる。そうやって哲学とはなにかが分かってから、自分の思索に進めばよい。そういう反論だ。
その反論の内容自体はかならずしも間違ってはいない。しかしながら、私が問題視したいのは、そういう言い方でもって、自分の頭で考えたい学生たちを押さえつけ、締め付け、彼らからことばをうばっていき、自分たちの解釈学の流派にはまらない場合は大学院のコースから巧妙に追放し、そうやって結局は文献学・解釈学の制度化の枠でしかものを考えられないように洗脳を繰り返してきた歴史があるじゃないかということなのだ。私は、哲学のコースをドロップアウトした学生たちのインタビューをやってみるととてもおもしろいと思っている。私が個人的に知っている学生たちのなかにも、自分の頭とことばで考える力を持っているような学生がけっこう大学院に進まないという現象がある。
もし日本哲学会が、時代の危機に対応する哲学の必要性というものをほんとうに考えているのなら、まずできることのひとつとしては、文献学・解釈学以外のスタイルの論文を積極的に公募論文として採用するという方針を打ち出すことだろう。もちろん、私のこの論文がここに公刊されるということでなにかのメッセージにはなるのだろうが、それだけではだめだ。積極的にアピールする必要がある。すくなくとも、公募論文の半分は文献学・解釈学ではないもの、たとえば自分自身の存在論や言語論を深めたものや、現代の諸問題を哲学するものなどになるようにめざすことだ。そういう哲学研究をエンカレッジする仕組みをなにか考案することだ。私は何も文献学や解釈学を排斥しろといっているのではない。そうではなくて、文献学や解釈学と、現代の諸問題を哲学するものの両者が相拮抗する状態を目指すべきではないのかと述べているのだ。それらのあいだの緊張関係のなかから、意義ある哲学の営みは生成してくるのではないのか。時代に流されない問い、たとえば「存在とはなにか」「理性とはなにか」という哲学的問いの探求と同時に、現代に生きているわれわれが直面せざるを得ない問い、たとえば「科学技術は人間を幸福にするのか」「現代文明の構造はどうなっているのか」という哲学的問いを探求していく、まさにそのときにこそ、哲学の精神は生き生きと再生し始めるのではないのか。私はそう思うのだが、みなさんはどう思っているのか。そして、この学会誌を見ている限り、みなさんがどう思っているのかということが、私には見えてこない。
とりあえず、このことが私のいちばん言いたいことなのだが、しかしながら、制度化に関しては、どうしても付け加えておかなければならないことがある。それは、「哲学の制度化」ということが、「自然科学の制度化」と同じような意味であり得るのかという問題である。というのも、哲学というものは、われわれが立っているところの基盤となる知の基底それ自体を根底から問いなおすという営みでもあるはずだからだ。つまり、哲学とは、われわれがはまっているところの枠組みそれ自体を、野蛮な力をもって徹底的に疑い、再考し、われわれ自身が何者であるのかを根底からあぶりだしていくような試みであるはずだ。そのような営みが<制度化される>ということが、はたしてありえるのだろうか。言い換えれば、哲学の営みというのは、その営みを制度化しようとする運動それ自体に逆らって、その運動自体を疑い、再考し、相対化していく営みとしてしか真の意味では成立しないのではないか。つまり、哲学を制度化する運動に無批判に乗ってしまったが最後、哲学の営みはその根底のところで死んでしまうのではないのか。ここが重大なポイントである。
要するに、「哲学の学会」などというものが、その言葉の真の意味で成立するわけがないということなのだ。制度化された空間のなかでは、哲学の営みは死ぬ。そこで行なわれているものは、哲学に一見似てはいるが、実はまったく別物でしかない。そもそも、枠が定められた空間の内部で営まれる哲学とは、いったいどういうものなのか。それを「哲学」だと呼んでいるところに、最大の自己欺瞞があるのではないのか。もし哲学というものがあるとすれば、それは学会というような制度化の自己運動それ自体を疑い続けるような空間でのみ成立するはずである。
考えてみれば、公募された<哲学>の論文を、なにかの基準によって<審査>するということがあり得るはずがないではないか。なぜかといえば、哲学の営みとは、そういう審査の基準のようなものそれ自体を疑い、再考し、再構築していくような営みであるはずだからだ。哲学の営みというのは、本来は、それを審査する基準などというものがまったく存在しないような地平で、哲学するもの同士が戦い合い、学び合っていくことではなかったのか。
哲学は、制度化された学会の空間の外でのみ営まれ得るはずである。では、学会というのは何なのか。哲学の場合、それは、哲学を志している者のあいだの連絡集会、情報交換集会、あるいはなにかのプロジェクトの母体、そういうものとしてなら存立するのであろう。そしてその場合においても、実際の哲学の営みは、制度化され評価機能を持った学会空間の外でなされていくしかないはずだ。
だから、逆説的に考えれば、日本哲学会の学会誌においては、三つの症候群に満ちた公募論文をこれからも再生産し続けていくことがもっとも健康的なのかもしれない。そうすることによって、「真の哲学の営みはこの学会空間の外にのみあるのだ」ということを、メタメッセージとして示し続けることこそが、日本哲学会が「哲学」に対して行ない得る最大の貢献なのかもしれない。
だから、ここまで考えてみれば、日本哲学会がどちらの道をこれから選択していっても別にかまわないと思ったりする。ただし、いま述べた後者の道をとるときには、みずからのしていることが「他山の石」であるということを深く自覚したうえで行ない続けてほしいと私は思う。
3
哲学が「時代の危機」に対応すべきかどうかについては、様々な議論がある。時代の危機に対応するために哲学があるわけではないのだから、そういう「社会からの要請」とは無関係に哲学の根本問題を探求していればよいのだ、という意見には私も賛同する。時代の危機に対応するための即効薬として哲学を売り物にするのは本末転倒である。
ただ、私のように、自分自身の切実な問題意識のなかに「この現代社会に生きている私とはいったい何なのか」という哲学的問いが埋め込まれている場合、自分の問題意識を探求することがすなわち現代社会と人間の姿を探求することであり、もし時代の危機があるのならばその構造を解明することが哲学の内容となってしまうのだ。すなわち、少なくとも私にとっては、自己を問うことと、現代を問うことと、哲学することは同じことなのである。
だから、現代を問うこと、そして現代社会がなにかの危機を抱えているのならば、その構造を根本的に解明して、そこにおいてわれわれがいかによく生きることができるのかを問うことが、哲学の営みのひとつとして成立することだけは間違いないのである。
現代日本の哲学は文献学・解釈学を主軸として制度化されてきたと述べた。しかしながら、もし、現代社会とそこに生きる人間の姿を問うことをその中心に据える哲学があるとすれば、それは文献学・解釈学を中心に据える哲学ではなく、自分自身がこの社会を生きるその実践のプロセスのただ中において思索を深めていくという形の実践学を中心に据える哲学になるはずだと私は思う。そして、もし仮に、制度化された哲学の学会がほんとうに時代の危機に対応するような哲学をバックアップしたいのならば、それは自分の人生を土台に据えた「実践学としての哲学」の営みをサポートしなければならないはずだ。
自分の人生を土台に据えた実践学としての哲学の営みは、あるテキストをたんねんに読んでそこに内包する思想をあぶりだすという作業を中心とはしない。そのかわりに、この現代社会に生きる自分自身がいったいどのような生を生きているのか、そこからどのような哲学的な問題が浮上してくるのか、この社会はどのように構造化されているのか、この社会においてわれわれを縛っている枠組みとは何なのか、そういう問いを実際の世界から汲み上げてきて自分の頭とことばで探求していく作業を中心とすることになるはずだ。すなわち、実践学としての哲学においては、テキスト読解のかわりに、実人生と実社会の読解が入り口となるのである。この意味で、実践学としての哲学で重視されるのは、テキスト解釈ではなく、「フィールドワーク」である。それは、この現代社会がどのような原理で機能しているのかを自分の目と脚で探ってくるフィールドワークであるし、あるいは自分のいままでの人生がなんだったのかを反省的に振り返ってみる人生のフィールドワークであるかもしれない。実践学としての哲学にとって重要なのは、この意味でのフィールドワークである。
このような意味での実践学を、私自身は自覚的に行なってきた(私は次の機会にとは言わない)。私にとっての「実践学としての哲学」は、現代において宗教とはなにかを探求した『宗教なき時代を生きるために』としてまず最初の形をなした。いまその続編の「無痛文明論」を連載している。それら一連の営みのなかで、私はこの現代社会に生きる自分自身の姿を明るみに出し、人間にとって宗教的なるものとは何か、癒しの罠とは何か、科学は真理を与えてくれるのかなどの問いを自分自身のことばで探求した。私はこれらの営みを、哲学の営みであると考えている。ただ、現代日本の哲学界からこれを「哲学」だと認めてもらえるとは思っていない。なぜなら、私の営みと表現行為は、文献学・解釈学とはまったく異なった方法でなされているからである。
文献学・解釈学から実践学へ。
私の言いたいことはこれだ。
なぜなら、実践学においてわれわれはもっとも深く、そして痛切に、「世界」と「他者」に出会うからである。そしてみずからの知的な傲慢さを打ち砕かれ、本物の問いを突きつけられ、単に机の上だけでこねくりまわしていた議論がいかに存在の奥底にまで届いていなかったのかを身をもって知るからである。少なくとも私はそうだった。実際の人生、実際の他者とのやりとりや戦い、実際の世界への働きかけ、それらのただなかにおいて、はじめて私は本物の哲学の問いを突きつけられてしまったからだ。
われわれが存在として分断されているとはどういうことか、自分の人生を悔いなく生ききるとはどういうことか、他者を理解することの可能性と欺瞞はどういうふうにあらわれてくるのか、そういう哲学的問いを私は実際の自分の人生、そして他者とのやりとりのただ中から突きつけられた。そして、それに身をもって対決しなければならなくなったそのとき、それまでテキストを通して学習していた他者理論や時間論、存在論などがいかに自分自身にとってうわべだけの知でしかなかったのかを思い知らされた。過去の哲学者の思索に自分の思索を重ねて理解したつもりになっていた哲学理論が、いまここを生きるこの私と他者にとっていかに力のないものであるのかを思い知らされた。
実際に人生を生きるなかで、他者とやりとりするなかで、世界に向かって働きかけるなかで直面してくる諸問題に、哲学的に真摯に向かい合うこと。それを中核とするような哲学の営み。そしてその営みを思索として深め、そこからなにかの知識や知恵を汲み上げてきて表現し、そしてそれらを再び自分の人生へとフィードバックしてゆくこと。それが実践学としての哲学なのだと私は思う。医療倫理などからの問いかけに応じる形で、「現場」「臨床」を重視する哲学の必要性が語られ始めている。鷲田清一らの「臨床哲学」もその一例である。実際の現場、実際の生と死、実際のやりとりなどを最重要視するという意味で、それはここで言う実践学としての哲学に近いものをもっている。医療倫理からの問いかけを、こういうふうに受け止めていく力がまだ哲学界に残っているということは、若干の希望を抱かせる。
話をここまで進めてくれば、どうしても次の問いを投げかけざるを得ない。つまり、われわれはなぜ哲学などをするのか、という問いである。この答えは様々であろうし、そういう問いかけなしにただ論文生産のためだけにやっている人もいるかもしれない。あるいは昔は考えたことはあるが、いまはもうそんな青いことは考えないという人もいるかもしれない。この問いに対する私の答えは、いたって簡単である。私は、ことばの真の意味で「私がよりよく生き、よりよく死ぬ」ために哲学をしている。そして、それをめざすためにはいくらテキストを読んで解釈していてもだめなんだということが分かったから、そこから足を洗い、そのかわりに、自分の人生そのものをフィールドとして、自己とは何か、現代社会とは何か、他者とは何かを自分の頭とことばで気の済むまで探求しているのである。われわれが知っている過去の哲学者たち、そしてわれわれが知らない過去の無数の哲学者たちは、なんのことはない、こういう営みを日々続けていたのだろうから、私もまたそれをするだけのことなのである。カントは、誰か過去の哲学者の文献学・解釈学を主な仕事としたのだろうか。デカルトは、そういうことをしたのだろうか。世界という書物を読むようにこころがけたのは、誰であったか。
もちろん、世界という書物をよりよく読むためには、先人が積み重ねてきた知識や思索を理解しておくことが必要となる。しかしながら、実践学としての哲学においては、それらの知識はあくまで世界という書物をよりよく読むための<補助具>として必要なのであり、その逆ではない。このようなスタイルを、日本の哲学界は、哲学のひとつのやり方として認めることができるのか。これは、みなさんへの問いかけである。私の答えはすでに述べた。私自身は、哲学界がこのようなスタイルを哲学として認めようが、認めまいが、別にどちらでもかまわない。私は、私が哲学だと思っていることを今後も遂行していくだけのことである。ただ、興味があるので、ぜひとも意見を聞きたいところである。
最後に、ひとつだけ誤解のないように述べておくが、私のいう実践学というのは、「実践」についての哲学的議論をするということではない。そうではなくて、この私やあなたが、実際に、この世界のなかで実践していくということだ。実践について語るのではなくて、実際に実践することだ。実際に実践しながら思索を深め、また実践し、そうやって考えながら自分自身の人生を生き切っていくということだ。たとえば、「対話の哲学」について議論を重ねている者が、実人生ではまったく対話的なスタンスをとらないというようなことがよくあるが、実践学としての哲学はそういう姿勢を拒否する。
時代の危機について哲学的に語ろうとする者は、そういう危機に直面した時代のなかで自分自身がどのように生きようとするのかを深く考え、そして実際に自分の人生を問いを発しながら生き切らなければならないのではないか。現代の諸問題や、自分の存在についてメタ的にのみ語ろうとする者は、結局のところ自分自身というものを棚上げにしているのであり、そこから導かれてくる結論がいかに美しいものであるとしても、それはいまここでもがき苦しんでいる者の人生をよりよきものにすることをサポートするような知とはならないのではないか。
もちろん、哲学というものがそれをサポートする必要性はまったくなく、哲学はただ純粋な哲学的問いの知的探求のみをしていればいいのだという立場はあり得るだろう。この私自身、そのような哲学的探求の凄みと快楽は共有しつつも、しかしながら、「そのような<純粋探求>というものに没頭することによって、あなたは自分がほんとうに向かい合うべき問いから巧妙に逃げているのではないか?」と問題提起し続けていきたい。そのような問いかけと対話のひとつひとつが、具体的な哲学の実践になるのだろうと思うからである。
註
1 拙著『宗教なき時代を生きるために』(法藏館)
2 それぞれ、拙著『生命学への招待』(勁草書房)
、『脳死の人』(福武文庫)、『意識通信』(筑摩書房)、『宗教なき時代を生きるために』、「無痛文明論」季刊『仏教』九八年七月より連載。
3 私のホームページ http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/ を参照。