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『現代思想』25(7) 1997年6月号 50−74頁(特集:多様性の生物学)
クローン技術をめぐって−単性生殖の夢?
対談:柴谷篤弘+森岡正博
クローン技術の実態
森岡 個人的に、そもそも生物学的にこのクローン技術というものが一体どのようなものかというあたりに、実は興味があるんです。だから原著を読んで来ました。『ネイチャー』(nature,
1997, 2. 27)に載っているやつですけれど(Viable offspring derived from fetal
and adult mammalian cells, I. Wilmut et al.)。これは細かいところでわからないところもいっぱいあったけど、でも大変面白かったです。
柴谷 そうでしょう。これは大変よく書けているいい論文でもあり、僕はもうほとんど完全にわかります。
森岡 私みたいに専門家でない人が読んでもよくわかりますから。
柴谷 上手に書いてある。非常に質の高い論文ですね。
森岡 これはちょっと感動しました。
柴谷 その前に、去年乳腺細胞を扱う前の段階までは技術的に完成していたわけです。一九九六年に、こんどの発表のもう一つ前の段階の報告をした論文がすでに出ているんです。しかしその時は見過ごしていて、なぜ今回世界的に話題がぱっとなったのかということも気になります。【50】
森岡 それも教えて下さい。両生類のクローン実験のことは知っていたし、七○年代にクローンの小説とかが話題になったことも知っていたし、哺乳類の受精卵のクローンというのをやっているというのも知っていたけれど、今回は哺乳類の体細胞のクローンということですよね。
柴谷 ちょっとひとこと言うと、レシピエント(受ける側)についても、実は受精卵ではないんです。つまり核をもらう方の卵細胞は、受精卵ではないんです。
森岡 体細胞のDNAを未受精卵に入れるわけですね。
柴谷 ええ、そこでまたちょっと話の筋がずれていきます。法律的には法文の適用に関してその辺が問題だとかいう話もあります。
森岡 今回の実験は、生物というか、生命現象の不思議というものを解明していく科学の、非常に良質の部分が現れた結果であるなと思ったのと、もう一つは、テーマ的にも非常に奥の深いところを突いているのではないかという印象を持ちました。
この原著を見ると、彼らが強調しているのは、「クローンをつくった、すごいだろう」ということではなくて、例えば最初に書いてあるように、つまり英語だとディファレンシエ【51】ーション、日本語だと分化と言うのだと思いますけれど、細胞が分化していくプロセスが、不可逆的な遺伝子の変化を伴うのではないという確実な証拠を得られたということなんですね。
柴谷 そうですよね。私もそう思いました。
森岡 面白かったのは、この中でテロメアショートニングの話がありましたね。
柴谷 染色体にテロメアという、一番端っこの部位があるんです。
森岡 それが分裂する時に、一回ごとに短くなっていくんで、多田富雄さんの『免疫の意味論』(青土社、一九九三)に書いてあって、へえと思ったんだけど、つまり細胞が分裂するごとにテロメアの部分で、その回数が数えられていくんですね。だから老化の一つの・・・・・・。
柴谷 モデルですね。
森岡 その問題がクローニングの時に引っかかるわけです。つまり体細胞だとテロメアの長さが減っているわけですね。六歳まで生きたヒツジだと、六歳分そこがカットされて減っているわけなんで、それを未受精卵に戻して赤ちやんを産んだ時に、その赤ちやんの細胞はすでに六歳になっているのではないかと推論できるわけです。つまりそういう意味では完全な遺伝子のコピーにはなっていない。
柴谷 そういう意味ではね。それは一つのモデルであって、そういうモデルを受け入れるかどうかの境目に来ている、そういう実験だというふうに解釈すればいい。
森岡 この論文にも、テロメアがどう働くのかを理解するための研究にもなるということが書いてありますね。
柴谷 もちろんです。
森岡 そういう意味では、基礎科学的な意味はとても大きいんだなというふうに僕は思いました。テロメアの話は、ヒトのクローニングに話題が及んだ場合には、そこで大きな問題を生み出すことになります。老化という意味で。
柴谷 これに対する反響の日本での一番早いものとしては、朝日新聞で出している『SciAsサイアス』という隔週刊の雑誌ですけれども、その四月四日号に佐藤英明という東京大学医科学研究所の助教授だから、まだ若い人の解説が出ています。これとこのオリジナルの論文から、ここまで至る歴史をちょっと言っておくと、あれは一九五○年代ぐらいだったでしょうか、カエルでの実験があって、カエルではクローンができると。それは受精卵の核を抜いて、胚発生の初期のを入れたらクローン化できるということが報告され、
もっと発生の進んだ体細胞ではできないのではないかと言っていたんです。それからまた二○年ほど経った七○年代だったと思いますが、一つだけ成功した例が報告されて、腸の細胞の核でうまくいったという一例がありました。でもそれは一例だけだからわからないと言って、みんなもそれをわきにおいていたわけです。
それで八○年代に入ってバイオテクノロジ?をすすめるというような気運が出てきた時に、マウスでクローン化ができるという例を、北アメリカのニューイングランドの研究所で出したのがあって、それをやったのがスイス人のイルメンゼーという人でした。ところがあと何回やっても追試ができないので、これはいんちきをしたんだということで大騒ぎになりまして、その時に私に宿った「偏見」は、哺乳類では結局できなかったんだということだったんです。ところがこの佐藤さんの解説や、あるいは今回の論文で見ると、マウスでは特にやりにくいので、ウシとかヒツジの方がやりやすいんだと。
森岡 そう書いてありましたね。一瞬、逆ではないかと思いますけれども。
柴谷 なぜだかわかりません。だからはじめにマウスでやったのがまずかった。マウスでも多少はやれるみたいですけれど、あとの経【52】過は主に家畜でやっています。アメリカのサルの話はまた別ですけれど、ウシで同じように胚の一番初期の細胞を核移植して、三代ぐらい世代を繰り返してやっているということです。つまりクローンウシをつくってそれを大きくして、そこからまたその次にクローンをつくり、というように三回繰り返してやって、こうして何回も育っているというところまでは来ていると。それがこれまでの経過であったようです。
森岡 「生殖細胞」と「体細胞」はカテゴリー的に違うんだということで、生命倫理の議論はなされているんですけれども、今回のこういう実験をちゃんと見てみると、実は体細胞と生殖細胞は、非常に連続的なものであると思うんです。
柴谷 本来はこれはワイスマンの説というのが昔からありまして、生まれた時から生殖細胞系というのは別にとってあって、残りが体細胞系などというんだけれど、それが現実にそうだとは言えないのです。生物の種類によっては、カエルあたりでもそうなんですが、発生のある段階で体細胞の中から生殖系細胞系の細胞群が別れてくる可能性があると。それが確実な場合もあると。植物なんかはこれがしょっちゅうあって、だから一般則としては言えないけれど、高等動物の経験則として、生殖系の独立なんてことを言っているだけのことです。
森岡 そもそも非常に早い時期での胎児の体細胞というのは、成人の体細胞とはやはり違う能力というか、働きをするかもしれないわけですね。すると生殖細胞か体細胞か、どちらのカテゴリーにも当てはまらないような細【53】胞がたくさんあるかもしれないということですよね。
柴谷 そうです。とにかく受精卵から発生して八細胞期くらいまで細胞が増えた時に、一つの細胞から核を抜き取って、そこからクローンをつくるんですが、この核ならば受精卵の核とは交換可能だということの証明はすでにあります。
森岡 ですから受精卵がどこまで分化していくと体細胞というものが現れるのかということ自体、実は非常に連続的なわけで、これはちょうど脳がいつ脳死になるのかということが、生物学的には連続だとしか言いようがないのと同じような意味で、生殖細胞と体細胞は連続的である。大人になったとしても、ウィルムットが書いているように、乳腺に、非常に分化度の低いものが幹細胞として温存されているのだとしたら、それは何ともいえないと言うか、体細胞だけどもいわゆる生殖細胞的な側面を色濃く持っているものがあ
るかもしれないわけですね。
柴谷 亜細胞群(サブポピュレーション)というか、いわゆる体細胞の中に一部分、そういう幹細胞的なものがあるかもしれない。それはほとんど大部分の体の部分について言えるので、確実にそれが言えないのは例えば脳の細胞ぐらいです。肝臓なんかは部分切除すると残りからまたわーっと細胞が増えてくるので、すべての細胞にそういう能力がまだ残っているのか、あるいは一部分だけにそれが残っているのかはわからない。
森岡 わからないけれど、いずれにせよ倫理問題を議論する時に、受精卵と体細胞、体細胞と生殖細胞は原理的に違うんだという前提を立てて考えてきたわけですけれど、今回、体細胞の核を使ってクローンを作れるということが証明されてしまった以上、そういうことの根拠は実はないというか・・・・・・。
柴谷 いわゆる体細胞と言ってもいろいろございまして、と言うわけです。ステム・セル、幹細胞というのが温存されている可能性があるので、どこまでが幹細胞なのか外からは見分けがつかないわけです、細胞自身に「聞いて」みないと。だから脳の細胞でできたということになると、これは大ごとになります。ただ脳の細胞はこの研究でやられたように培養できませんから、今のところ、そんなことはできない。
森岡 そこが面白い点で、特に幹細胞という存在は結構ユニークですね。
柴谷 血液なんかに関しては、それがかなり明確につかまれてきて、幹細胞の数がどのく
らいあるか、一匹の動物に八個ぐらいあるんだとかいう話もあって、そういうものをうまくつかんで移植すると、白血病などは助かるということになって、ある程度臨床的な実践の中にも取り込まれているわけです。
森岡 だからその意味では幹細胞というのはやはり注目細胞で、今はヒトの遺伝子治療をやっているでしょう。あれも結局は骨髄の幹細胞に遺伝子操作を加えて戻すんですよね。それはなぜ幹細胞かというと、やっぱり増殖能力がすごくあって、そこに謎めいた力があるように思えます。
柴谷 ほかの細胞だって、培養して増殖させてある程度増えたあと全部老化して死ぬんだといわれています。それで一番もとの若い細胞ならば、まだ初期の段階が残っているという理論、半分はまだモデルですがね。
森岡 だから幹細胞というのは、いろいろな意味で注目すべきです。つまり生物学的な意味だけではなくて、社会科学的にも注目すべきです。増殖能力のおかげで、社会問題を生み出しやすいというか・・・・・・。
柴谷 つまり人為操作(マニピュレーション)の対象になりやすい。
森岡 そうなんですよ。そのあたりの重要性を、倫理学はあまり考えていなかったと思います。だから僕はこれを読んで、そういう重【54】要性というものをもう一回考え直さなければいけないかなと思いました。
それから先ほど言い忘れたのは細胞融合・フュージョンの問題です。私がこれを読んで感動したのは、融合というやり方をとっているということです。私の今までの知識だと、フュージョンではなくて、DNAそれ自体を受精卵に導入するということだったんです。
柴谷 細胞から抜き出してね。
森岡 そうです。だから今回もそうやって成功したのかと思っていたら、実はそうではなくて、今回は核を抜き出した未受精卵と、体細胞の核とを刺激を与えて融合させることなんですね。
柴谷 それはもう生物学では二○年以上使っていることです。
森岡 そうなんですけれど、私が言いたいことは、もし細胞の外から非常に細い管か何かでDNAを注入するのでしたら、細胞融合の方法は使っていないわけですね。今回は細胞膜の接触があったわけでしょう。
柴谷 だから受ける方の細胞が、いわば自発的にやっているわけです。
森岡 つまりね、DNAを受ける方の卵細胞が動きはじめるきっかけとして、やはり膜の接触というのが引き金を引いているのではないかと。そういうことをうまく使ったのではないかという気がするんです。わざわざフュージョンを使っていたのは。そこはどうですか。
柴谷 それはわからないけれど、森岡さんのようには解釈できますよ。でも僕らはあまり深く考えないで、テクニックとしては上手だなと。というのは、生物学はあまりにもわからないところが多すぎますから、そんなことをいちいち言っていてはわからない。だからその辺は括弧でくくって置いておくわけです。
森岡 でも私がこれを読んだ時の大きな感銘の一つはそこなんです。つまり融合という方法でいったということ。もう一つはまさに細胞膜と細胞膜の接触ということが何かの引き金を引いている、あるいはそれが卵の方に何かを認識させているというか、そうしたことというのが非常にくっきりと浮かび上がったのかなと思ったんです。
柴谷 僕はそこまではあまり考えておりません。上手だなと思った程度です。そこまで踏み込むには、あまり知らないことが多すぎるので、早とちりは危険だというふうに判断停止しておこう、あまりそこまでは読みこまないようにしているんです。
そこのところでもう一つ、生物学的に気になるのは、なぜ性が二つあるのかというような話です。一つの理論としては、最近本が二つほど出ていて、一つは日本の団まりなさんの『生物の複雑さを読む』(平凡社、一九九六)もうひとつはリチャード・ミゴット『なぜオスとメスがあるのか』(池田清彦訳、一九九七)ですが、どちらの場合でも真核生物は減数分裂をやって生殖細胞になりますね、卵なり精子なり。この減数分裂をする時に、二つの相同染色体が接合して、組み換えをやったりいろいろなことをする。それはよく知られていますが、その接合というのは、実はDNAの個体一生の間の誤りを直すメカニズムであるというのです。この議論はある程度説得性があるんです。ですから一生の中で誤りをした分が老化の回路になってしまうわけだから、そういう老化を防ぐ意味では一生のある段階で個体は生殖細胞をつくると。こうして減数分裂の段階が必要ではないかというモデルが一つ出てくるわけです。それは生物を大きく見れば、なぜ性があるのかということの理解につながっていくので、生物の基本の非常に大切なラインですね。それを今度この実験が、果たして否定できたのかどうか。まだできないのではないかという気がするわけなんです、今のようなステム・セルの問題とかがあるか【55】ら。だからこういうのを何回続けたらできるかというようなことも問題になるから、これをやった人たち、あるいはその亜流の人たちは、いっぱい実験をしたいわけでそうするんだろうと思います。そうするとそういうことが生物学的に言ったらずいぶんわかってくるだろうと。そういう話があります。
森岡 今のこととも関係するんですが、この論文に一行だけ書いてあって面白いと思うのは、セクシャル・マチュアリティーがあるかどうかを今調べていると書いてありますね。このことの意味というのは、生物学的にどう理解すればいいですか。つまりクローン羊が子供を作れるかという話なんですよね。繁殖できるかという。
柴谷 そうです。それは特に性的成熟というのではなしに、私がさっき言ったように、何代まで継げるかというその問題で、あなたが言われたテロメアかというようなことと関係することだと思っております。さっきの佐藤さんの記事だと、ウシではともかく胚の核からだけど、三代ぐらいまでも性的成熟して後世代に続いているということがある。それで今回は乳腺細胞ですから、雌の細胞から出てくるんだから、クローンのヒツジはこのテクニックに関する限り、全部雌なわけです。生殖に何の問題があるわけでもないんで、また卵をつくれるということになるわけです。
森岡 それを使って、もう一回クローンができるかどうかということもわかるわけですね。
柴谷 そういうことになりますね。
生物学と資本主義
森岡 すなわち、これが商業ベースに乗るかどうかということがあるから、この点が大事になってくるわけですね。
柴谷 そうそう。純粋生物学の話ではなしに家畜学みたいなところから言えば、ヒツジというのはスコットランドの基幹産業の一つですね。タータンとか何とか有名な生地がありますが、ここの研究所はエジンバラにあるでしょう。だから地域産業のことがあるわけで、つまり普通の増殖をさせると一代ごとに染色体の組み換えがあるから、都合のいい性質を持った一匹の母体をうまく継げないという困難があります。その困難を乗り越えることができる。その時にヒツジをうまく使って同じ「優秀な」性質のヒッジを増やしたいという場合には、この方法がいいに決まっていると。そういう見通しがあるわけです。
森岡 だからこの論文を最初に読んだ時に、これは基礎科学に限定して書いてあるので、
その意味でも大変な成果だと思ったけれど、同時に今のような社会的文脈に置いてみた時の意味というのも、ちやんと見えてくるということですね。
柴谷 現代生物学としては、典型的ないい論文ということだと思います。
森岡 そうだと思います。だからまさに科学社会学が明らかにしてきたように、科学がどちらへ進むのかとか、どういう研究を科学者がするのかということ自体が、社会からの要請、あるいは社会環境によって誘導されてくるということが、非常によくわかる例ですね。柴谷 だけどその現代の状況を、基礎科学の立場と地域産業という両方の立場を非常にうまく兼ね合わせて使っているという、その辺のことはあまり反響の中には入っていないね。僕はこれは「いい科学」の一つの例だというふうに思います。
森岡 だから、社会背景まで広げるとすれば、このウィルムートという人は科学の持っている基礎科学としての意味と、社会の中の科学という意味の両方がよく見えている人だと思います。彼の研究所の財政基盤とか、いわゆる顧客のニーズにもかなうということまで全部含めてこれを選んでいるという、その意味ではいろいろなことがよく見えている人だと【56】思います。
柴谷 だから質は非常に高い。
森岡 いろいろな意味でよく見えているし、それぞれのところでヒットしていますね。こういうヒットポイントを突いた具体的な成果が出てきた時に、例えば今までの科学批判の言説がどこまで通じるかという試練になると思うんです。つまり科学批判というのは、科学は純粋科学だから普遍的なものが得られるという言説に対して、そうではないんだ、科学にも社会的な文脈があって、それが差別を生み出したりいろいろな悪を増大させたりするんだ、というカウンターアーギュメントを立てることによって科学批判が立ち上がってきた歴史がある。でも、そういう形の批判がこのような研究にどこまで通じるのかという問題を、科学批判は抱えることになると思うんです。
柴谷 いわゆるアカウンタビリティーがちゃんとしている純粋科学だというふうにも言えるわけです。
森岡 そうですね。そういうものが出てきた時に、いわゆる従来型のと言えばいいんでしょうか、そういう科学批判というものが、こういうものを一体どう評価するのか。つまりこれはアカウンタビリティーもあるし、いろいろなメリツトもありそうだし、そういうこと考えているから、これはこれでいいですねということになるのか。
柴谷 私が科学批判をやったということにつなげていうと、この論文に関しては直接攻撃はしにくい状況になっているんです。科学が今まで来た一番いいところが凝縮されていて、なおかつアカウンタビリティーまで入っている。ただし、科学そのものという文脈で言えば、私が今までしてきた批判の内容は全部生きます。科学というのは共通したたくさんの人の営みであって、一人が非常にいいことをしても、その人だけが科学者でないために、科学の社会的な面というのは全然別にあって、こういうふうに発表するからほかの人はみんな真似ができるということになっているので、発表しなかったら科学の客観性は成り立たない。だから発表するという行為の中には、どのような悪用も自由ですという含みがあるわけです。
森岡 私はそこで微妙な点がわからなくなるんですが、例えばこの実験そのものは一九九六年の段階でやっているわけです。そしてその結果を検討して、一九九七年二月に『ネイチャー』に出したわけですよね。でもね、『ネイチャー』に投稿するということは、『ネイチャー』を頂点として成り立っている今の科学の構造をそのまま追認する営みでもあるわけです。悪用する学者や企業人などがたくさん存在するシステムを追認していることになる。そういう意識がどこまであるのか。??というゴリゴリの批判みたいなのは出てくるでしょうか。
柴谷 この論文が出た『ネイチャー』の巻頭言にも書いてあるし、そのあとの号でつづいてでた記事にも出ていましたが、この同じ号に書いてあるのは、このウィルムートの論文が出るちょっと前に、内容が新聞ですっば抜かれて先にわかったそうなんです。それでいくつか反応があって、合州国からたしかロートブラットでしたか、核実験反対のことをしてノーベル賞をもらったような人ですけれど、そういう人からのファックスが入って、この論文を『ネイチャー』に載せるなという要求が来たそうです。来たけれど、載せますということで載せているわけでね。こういう論文を載せると悪用があるから載せるなという話があり、もう少し続けて読んでみると、劇的なところから言えば、クリントン大統領は合州国の研究費は今後人間のクローンには出さないと言いましたね。イギリスでもクローン研究はしばらくモラトリアムすべきであ【57】ると。それでいろいろ議論すべきであると。だからこのウィルムートの研究にも今後研究費を出させないということらしいんです。 今言われたように、研究上のいい見通しはいろいろ可能性があるわけでしょう。でも今はちょっと止めましょうと言っているわけで、それに対してまたいろいろな反応があって、こういう研究はこの人がしなくても時の勢いだから誰かがいつかするわけで、するところまでは人類の現代の状態としてなってしまっているが、個々の研究費はどこから出るか決まっていないので、この研究を止めたからと言って、クローンの研究は止まるわけではありません・・・・・・という、そうでしよう。
森岡 だから科学批判の立場を重視する人は、多分ウィルムートがやらなくてもたぶん別の人が同じことをやって、それが『ネイチャー』に載ってどんどん産業化されていって、巨大企業はそれを使って儲けるんだと。
柴谷 これは国費では出さないと言うけれど、会社がやるでしょう。
森岡 そういうシステム全体が今問題なのだから、『ネイチャー』がこういうことを発表して注目を浴びるという構造全体をやめなければいけないという科学批判というか、現状批判というのはあり得るけれど、それに対して柴谷さんはどう思われますか。
柴谷 資本主義的な営為の下では、ほかの問題があってもできるだけ最大スピードでやるべきだという要請があるわけです。資本主義諸国の競争の問題があるし、それに関与する科学者の生活の問題もありますので、二重に競争になっていくわけです。競争というのは必ずあることだし、しかも競争の上に乗せなければ、科学はこれだけ大きく発展できなかったでしょう。そういう科学研究のシステムを離れて現代の文明、生活というものの性格全体を問わなければいけないのであって、科学だけ問うわけにはいかないではないかという話になると思います。
別の例でいえば、吉岡斉さんの最近の論調で、例えば大学を任期制にしたらいいという話がありますね。吉岡さんの言うのは、なぜ大学の教授とか教職員が一番はじめにこの規制の候補者にならねばならないのであるか、まず官僚あたりからした方がいいのではないか。なぜ研究者を選ぶのか、そこが一番弱いからだ、というような話になります。同じことがこの問題にもあるので、資本主義的な営為として、最大速度でやりたい、そこに「悪」が推進する、という構造全体が問われていること。それと先進国の営みの問題と、そうでない側の問題という関連のもとにやらねばならない。だから今大切なのは、科学研究の管理・制御ということがまずあるとすれば、それはよろしいけれど、それは質的な制御ではなしに、速度の管理支配であろうと。その間に民意の形成というのは、ゆっくりであればやりやすくなる、誤解も少なくなる。それをやるためには、全体の科学文明の速度を落とさなければならない。そのためには通信のやり方も、例えば旅行とか運輸とか、それぞれの速度もみんな落としていくということになると。そうすると、資源の使用の速度も落とさなければ、というように、ずっと落ちていくというのが、自然保護という面から見ればやはり要請されていることでもある。それでできるならそうだろうと思うけれど、多分それはできないであろうとも思います。
それができなかったらこんなクローンがどうのこうのという問題だけでなしに、地球資源の枯渇とか、環境悪化の方がもっと緊急なのかもしれない。何が将来起こるかわからないから予言はしませんけれど、同じような重みで両方の問題があるんだというふうに、私は問題をかわしているんだと言われるかもしれませんが、全体から見ればそうだと思います。【58】
クローンの欲望
森岡 今の話は非常によくわかります。私も吉岡さんの言うこともそうだなと思うし、そういうふうに考えていくしかないのかなと思うんです。一つはもちろん地球環境問題なんかの方が緊急を要するであろうし、そちらからの要請で文明のスピードを落とすということがより強く要請されるだろうというのはその通りだろうと思います。それとまた別の点から言えば、今回のクローンの問題が文明の問題として認識されようとしている理由は・・・・・・。
柴谷 また別にあるんです。それは人間の生命を操作していいのかという問題です。
森岡 つまり人間というものが操作の射程に入ってきているからそういう問題が出てきているわけですね。
柴谷 そうです。特にその問題を森岡さんと議論したいというのが私の希望なんです。
森岡 いろいろ問題があって、どの辺からやればいいのかなと思うけれど、いきなりこの話からしましょうか。この間テレビに出まして、中村桂子さんと対談して、その時に中村さんが私に質問したのは、普通の科学者の普通の発想だと、「私たちは」と彼女は言うんだけど、こんなことを言ったんです。「私たちは人への応用ということは、そもそも発想しないんです。でもメディアは人間のクローンのことだけ騒ぐ。そのギャップがよくわからない」と。彼女はそういう言い方をしたわけです。それに対して私は「いや、私なんかだと、人間のことはどうだろうとか、科学と言っても人間を扱う科学あるいは医療に近い科学というのがあるわけで、そこでは治療に使えるだろうと発想するのが普通なんだ」というふうに反論しました。その時彼女が私に質問したのは、ヒトのクローンについてメディアは騒いでいるけれど、一体具体的にどういうニーズというかベネフィットがあるでしょうか、ということだったんです。
柴谷 人間にとって?
森岡 ええ。「ニーズがあるんですか」と私に聞いたんです。その時に、私は答えたんですが、まずSF的な仮定だけど、臓器移植とか骨髄移植のためのドナーをつくるということに使えるのではないかということがよく言われていると。
柴谷 皮膚移植の話もあります。やけどした時とか。
森岡 それはもう生命倫理でずっと言われていることですよね。で、具体的にはもう一つあるかもしれない。それは例えば自分の子供を交通事故で亡くした親が、自分の子供が死んだということをどうしても受容できない時に、もしヒトのクローン技術があるのだったら、死んだ子供の体細胞の残りを使えば遺伝子的にはまったく同じ子供が生まれてくる。そういうようなニーズが出てくる可能性があるのではないかということを言いました。これはニーズとしては出てきやすいのではないかと思うんです。
柴谷 脳死なんかだって、細胞を取るのは簡単だからね。
森岡 簡単ですよね。交通事故あるいは脳死の場合もあるだろうし、髪の毛が残っていればできるんですか。それは技術がどこまで進むかということでしょうけれども。
柴谷 髪の毛だったら幹細胞系の一つの末端だから、役に立たないとも思いますけれど。
森岡 それはわからないですよね。そのうち技術が進めばできるかもしれないという話をしたんです。そうしたら、放映後NHKに電話がかかってきて、それは実際に自分の子供を亡くされたお母さんで、「森岡さんの話を聞いたけれど、それができるんだったら私はそれを希望したい。そのために息子の髪の毛を取っている」と言うんです。
柴谷 それはもう古いからだめだけれども。【59】
森岡 もう一つあるんですが、その後別の手紙が来まして、これがさらにすごい。これもまた視聴者ですけれども、老齢のご婦人から手紙が来て、私は不妊で子供が持てなかったと。このままいくと私も老人だし、不妊のまま死んでしまうけれど、森岡さんの話を聞いて、そうか、自分の細胞を使って自分の子供が持てる可能性があるのかもしれないという希望が出てきましたと書いてありました。
柴谷 それは論理的には正しいですよ。
森岡 彼女はもうできるかもしれないと錯覚しているんですけれども、要するに子供が欲しかったんです。不妊であきらめかけていたけれど、クローンができるらしい。そうしたら自分の細胞を使って、自分の子供を子孫として残せるのではないかと書いているんです。それで今はもう老齢だから自分の卵細胞はもうないと。けれども体細胞でも子供を産めるという希望を見たというお手紙が来たんです。この手紙なんかを読んだりして、私は中村さんが言っていたことは今ではかなり疑わしく思っているんで、人間の気持ちとか感情とか欲望というのはあなどれないもので、この人の場合は子供を持てなかったという思いをずっと抱えているわけでしょう。それが体細胞を使ってできるのだったらつくりたいということが、ニーズとして出てくる可能性は十分あるわけですね。
柴谷 イギリスやアメリカのその後の反響を見ても、大体そういうことが書いてあります。自分の子供を残したいと。この場合、普通の子供を残したいというのとはまったく違うので、まったく同じクローン、これは括弧つきですけれども、そういう意味ですね。それでも残したいのですかと。さっきの場合は子供が二人いて、一人からもう一人をつくるというふうにする。だから産んだ子供の「写し」をつくりたいという意味ですね。でも老人の方の場合、自分と同じ「写し」をつくりたいと。
森岡 自分自身のクローンになるわけですね。これはかなり深い問題に食い込んでいる可能性があって、不妊治療というのがあるわけでしょう。例えば女性の場合、卵管とかに器質的な問題があって産めない人が、いろいろな技術を使って産もうとしているわけです。そういう人たちによく投げかけられる問いというのが、そこまでしなくても養子をもらえばいいじゃあないかということなんです。その時によく返ってくる答えが、「あなたには私の気持ちがわからない」という言葉で、その言葉にはいろいろな意味があるんだけれど、
一つはやはり養子ということではなくて、いわゆる括弧つきの「血のつながった」子供がほしいということ、そして自分の体を使って産みたいということですよね。そのことがあなたにわかるかというような意味が含まれているわけです。自分の細胞を使って自分と同じ遺伝子をもった子どもを産むのがいいか悪いかという問いには二つの意味があって、そんなのだったらいやでしょうという答えを期待している面と、もう一つは、だからほしいというのかな、つまり養子ではだめなんで、自分の遺伝子というか血みたいなものを引き継いでいるからこそ子供がほしいと。今の話というのは、その辺の人間の欲望みたいなものに食い込んでいる話だと思うんです。
例えばカトリックなどはかなり敏感に反対していくわけではないですか。その理由はよくわかるし、例えばクリントンも、多くの人も、ヒトでは絶対にだめだと言う。何でそこまでヒトのクローンはだめだと表面的にすぐ反応するのかと言うと、その背景には、実はヒトのクローンというのがもしできちやった場合、何かわれわれが隠し持っている本当にしたいことに触れてくるからではないかなと思うんです。
柴谷 あまり切実だから、ネガティヴに反応【60】するんです。
不死の獲得
森岡 それは何かといえぱ、やっぱり「不死」ということに観念的に結びつくからだと思うんです。不死の獲得みたいな。
柴谷 私から見ると、結局その辺は二つの水準があって、一つは生物学を生半可にわかっている人が、自分の感情と結びつけて適当に反応しているわけで、その人たちはもう少し深い意味で、人間としての生物学を学ぶという点から見て、もうちょっと考えた上での論なのか、衝動的なのか、その辺の区別が重大な問題だと思います。それを言い出すためには、ご本人がどれだけいろいろなことを勉強して、責任を持って言っているのかということは問われてもいいですね。
もう一つは、また科学批判になるけれど、科学技術というのは人の欲望を新しくつくり出す装置であると。欲望というのはきりがないようにできているので、結局そこを加速させる格好でまた進んでいますから、新しい欲望はなるべく最大の速度で満たすというふうに、社会的に科学技術が働きかけて、それが科学の効用だと思ってお金が出るように仕組んでいるということがある。だから欲望の生産にきわめて従順にというか、素早く反応するということ自体を、まずは歯止めをかける必要があるのではないかと思います。これは池田清彦さんが次の本に書くんだ、という話があります。
グリムのおとぎ話によると漁師の話というのがあって、欲望がどこまでいくかということを問いかけているんですが、王から帝王になって法王になってという話があるけれど、最後に欲望が拡大して、自分が「日月の運行を自由にしたい」という欲望が出るんです。これも現在の状態にかなり近づいてきているわけで、その時に欲望の実現がばたっとだめになるというお話なんです。法王になるまでは人間の話だから、人間がなるんだったら何であってもかまわない。欲望というのはそのように創造されるので、童話ができる頃から、そういうふうな欲望というのが本来人間にあった。それが自然科学によって次々と可能であるが如くに、少なくとも見せられているということがあると思います。だから科学は欲望生産装置であると。ミシェル・フーコーのラディカルな抵抗の哲学によると、「欲望」そのものはきわめていかがわしいものである、政治的なものであると。「欲望」というのはすなわち政治であるというふうな言い方をしています。
森岡 それはよくわかりますし、欲望の問題は本当なんだけれど、もう一回戻しますと、例えばこういう反応があるんです。メディアの中で、この間も朝日新聞かどこかに載っていたんだけど、クローンがヒトに応用されるということを考えるとどうですかと学者に聞いた時に、気持ち悪い、何か変だという意見が出てくるわけです。ただ、「気持ち悪い」「変だ」と感じるその理由は何なのかということですね。
柴谷 「そのことをちゃんと言ってくれないと、私にはわかりません」といってもいいかどうか、その辺はわからないけれど、僕はそう言いたくなる。どこが「気持ち悪い」のかな。
森岡 そこを推理すると、「自分と同じものができてくるというのが気持ち悪い」というふうに考えているんじゃないかと思うわけです。
柴谷 それは生物学者から見ると、果たしてそうなのかどうかわからないじゃないの、という言い方ができる。
森岡 もちろん、遺伝子が全く同じであったとしても、環境が違えば、異なった個体になってしまいます。生物学的にはそういうことです。でも、人々はそうは受け止めなかった。生物学的な知識と、人々がどう反応したかと【61】いう次元から何が見えるかということは、また別の問題だと思うんです。だから、何が見えるかというところにちょっと焦点を当ててみると、例えば一般メディアでは、クローンとは同じ個体を生み出すことだというふうに報道したわけです。それを聞いた時に、同じものができるのか、それは気持ち悪いという反応が出た。
その時に、なぜそういう反応をする人々がいるのだろうというふうに推理してみる。するとそれはまずクローンヒツジを人間にどこかで置き換えて考えているんだろうと。自分自身に置き換えているということがあるのではないか。自分とまったく同じものが生まれてくるというのは気持ち悪いと考えた時に、さっきもちょっと言ったけれど、実はその裏に自分が自分と同じものを残したいという気持ちがあって、でも普通はそれを隠しているので、それを暴かれるから気持ち悪いのではないかというのが私の推理なわけです。
柴谷 気持ち悪いというのは裏願望ですよ。
森岡 そうですよね。それで、自分と同じものを残したいという裏願望があるのはなぜかというと、さっきも言ったけど、不死が達成できるのではないか、達成されてしまうのではないかという感じですよね。秘められた不死の願望に触れてしまう感触が、「気持ち悪い」という形で出てくるのではないか。
もう一つは、まさにそこに触れるから、ある種の普遍宗教、超越神を立てるような宗教が反対するのもそこなわけです。不死を願うというのは、例えばキリスト教の場合、最大の神への冒涜であり人間の傲慢であり、原罪なんですね。人間の原罪というのは神になろうとしたことで、それは不死のリンゴを食べたことですよね。だからキリスト教の場合はそこに触れてしまう。それでああいう声明がすぐさま出るのだと思うんです。でもキリスト教ではない文化でもやはり同じようなことがあるわけで、中国でも皇帝が不死の薬を求めたりしますよね。人間の持っているそういう奥深いねじれというものをあぶり出しているのかなと思うんです。
もう一回言うと、本当は自分の個体の死を超えた不死というのを獲得したいという思いがどこかにあるんだけれど、何かの理由でそれは自分の中に隠蔽されてしまっているんです。けれどもその隠蔽がクローンによってはがされる。隠蔽する時にわれわれがよく使うレトリックというのは、そんないつまで生きていたって人生に飽きるだろうということですよね。われわれの生には限りがあるから今生き生きと生きられるんだろう、というレトリックというか言説というのが今はあふれているわけです。生命論という形を取ってあふれているんです。つまり死があるからこそ、人は今生きている取り返しのつかない瞬間瞬間を燃焼し尽くして生きられるという、そういうのが実はあふれているんです。
柴谷 死がなければ燃焼する必要はないんだよ。
森岡 そういう言い方があふれているけれど、私はそれが何かの隠蔽装置になっているんじゃないかという疑いを、どこか感じてしまうことがあって、それは何を隠すかと言うと、本当のところではどこか不死を願っているとがあって。
柴谷 それができないから、代償としてね。
森岡 ええ。代償としてそちらの方向に持って行っているのではないかと。
柴谷 僕も基本的には思うけれど、でも多分それはそうではないんだと僕は思いますけれど。
森岡 それはどうしてですか。
柴谷 現在の瞬間瞬間というのは、不死があろうがなかろうがやはり、生き方としては一番の中心点であって、実はそれ以外にわれわれは制御できない。現在でも制御できないか【62】もしれないけれど、せめて制御できそうなのは現在に限られるんで、過去は制御できませんよね、起こってしまったんだから。未来だってできませんよね。
森岡 でも未来を制御できるかのように進んでいるのが文明というものですよね。
柴谷 そういうふうになっているように見えるんですけれど、多分制御できませんよ(カオスなどはその典型)。
森岡 その文明というものは、特に農耕文明以降成立した文明というのは、制御できないものを、なるべくある一定の枠内で制御するようにやってきたわけですね。
柴谷 それはそうです。制御しようとしているけれど、必ずしもいつでも制御できるとは限らないし、時どき全然制御できないこともある。だからそこで制御したいという欲望の方へ誘い込んでいるんだけれど、本当に制御できるのは現在で、未来に制御をかけたようとしたら現在が空洞化して、現在できることまでしなくなるという裏があるわけです。その裏の方が大事だというふうに私は思うんです。
森岡 でもね、それをさらに逆から見れば、現在が空洞化して生きている意味を失っていくという裏があるにも関わらず、そっちの方へ文明が進展していることをどう考えればいんですか?
柴谷 自分自身による制御をあきらめて、何かに制御してもらって、そこに乗っかれば一番楽だということですよ。
森岡 そういう負の面を引き受けつつも、文明全体が今のところそっちに向かって進んでいるということは一体なぜだろうと考えると、それはやはり未来への制御を広げたいという欲望の方が勝っているからだというふうに解釈できますよね。では未来の方向へ制御するということを、どんどん広げていくと何になるかというと、まさに今柴谷さんがおっしゃったようなグリムの童話の日月運行の制御へ行きたいわけですよね。その日月運行の制御まで行ったその先に何があるかというと、やはりそこにあるのは、不老不死なのではないでしょうか。
柴谷 その時にすべての人が不老不死というふうには結局なり得ないということが見えるわけですから、他人の排除ということに現象するんでしょうね。
森岡 でしょうね。でもそういう負の面があるかもしれないけれど、少数の人々の不老不死を達成できたら負の目を全部キャンセルしてもいいと思ってしまうような力というのが、
何万年か何千年かの人類の文明を動かしている力かもしれないと思ったりするんです。
柴谷 政治というのはそれをうまく利用するわけで。
森岡 その意味で、文明というのは、「自分の不死のためだったら差別をいくらしてもかまわないんだ」という人間の暗い欲望みたいなものに突き動かされて進んできたというような気もするんだけれど、そういうのは考え過ぎでしょうか。
柴谷 いや、そうでしょうね。だけどそれは大変なだましに引っかかっているので、しかしだましに引っかかるのは、結局人と人との関係における権力の問題で、これはフーコ?が言っている問題だけど、そういう話に結局はなると。
森岡 たしかに、それは権力関係の問題でもあります。
柴谷 個人の話ばかりしていて、一人一人の個人間の相互関係というタームでは、自分と同じものをつくりだしたい気持ちがあって、それはあるでしょうが「一般の人たち」は自分と同じではないわけです。そういう人たちとの間の相互関係ということには、その論議は焦点が全然合っておりませんね。不特定多数による将来の制御に「私」というものは、
【63】誰それによる制御だということを特定しないで乗ったらそれでいいという話で、そこの先のところは、「不老不死」というのは自分が自分を同一のものとしてずっと続いていきたいという、それは他人を排除した話になると。実際はそうではなしに、現在における「他」と「私」との、あるいは他者、人によっては異者というふうに言うけれど、その間の関係ということが現実だと。そのように見えないような話になっているというふうに、私は思うんですけれども。
森岡 それはよくわかりまして、そちら側から見るとそうなんだけれど、逆から見ると、そういうことを押しつぶすような別の力というものも見えてくるということなんですね。その時に、まさに現在この瞬間での、他者とのその都度その都度のコミュニケーションを回復していくことをめざすべきだということが、ある種の倫理的要請として出てくるわけです。そうなんだけれども、技術の進展による解決というものは、そういう倫理的要請を、いとも簡単に覆してしまう・・・・・・。
柴谷 それは今疎外していると言われている現在の代償として求めているというのではないの?そんなことではだめ?
森岡 そういう面ももちろんあります。現在は不老不死はないわけですから。
柴谷 現在は非常に満足される状況でもないわけだから。だからこれだけで死んじゃったら何のために生まれたのかわからないということで、不老不死ということに行くので。
森岡 それはこういうことですね。つまり多くの人たちが、まさに今ここで満足し充実しきっていたら、誰も不老不死なんてことは心の底で抱かないだろうということですね。
柴谷 うん。自分自身が変化していくこと自体が満足されていく状況では、非常に満足すべきものであって、いくらでも同じであったらやっぱり旨味がないと。
森岡 でも、それはそういう単純なことではないのであって、つまり今この瞬間瞬間を生ききって自己肯定している人がいたとして、でもそういう状態を無限に続けたいという欲望は成立するわけですよ。つまり今現在ここで自分を自己肯定して、いきいきと生きて充実して、かつ自分がそうやって他者とコミュニケーションをして変化していくということが、まさに生の意味だと考えている、そのような人が、その状態を無限に続けたいという欲望を持ってしまう可能性はある。それは不死への願望に結び付くでしょう。
柴谷 それはわかりません。それはそういうふうに出てこないかもしれない。自己肯定にはないというか、絶えず変革していくということが、現在生きるところの一番いいところであるとすればね。
森岡 でもまさにそういう現在を常に変革し生き切るということを無限にしたいという欲望が出てきた時に、どうするんですか?いきいきと生きている個体が死か不死かの選択を迫られた時に、何で死の方を選ばなければいけないのかということですよね。
柴谷 無限に変化をすり抜けたいと。
森岡 そうですね。そういう欲望とは両立するのではないか。
柴谷 ところが逆に言っているのは、あくまでも自分の延長だから、同一の方を軸にして願っているわけでしょう。
森岡 そうです。
同一と差異
柴谷 やっぱりそこで「同一」という問題が、主に西洋文明の発祥以来、それでめぐっているその辺の矛盾が、技術が先まで行った時に見えてきてしまう。
森岡 もちろんそれはそうですよ。私が永遠に変わり続けているんだったら、たとえば千年前の自分がいたとして、いまの自分と同一【64】かと言われると、もう内容は推移してしまっているから他者ですよ。でも、変化していく主体それ自体は同一性を保っているとも言える。そういう同一性の問題っていうのが、ものすごくラディカルに出てくるんです。もし今のようなことが起きればね。同一と他者ということが、非常にクリアな形で問題として出てくる。
柴谷 出てきますね。
森岡 瞬間瞬間が永遠に連続しているという意味での推移というか、推移の列は無限にしたいという欲望が出てきても不思議ではない。
柴谷 あるところで切れるというのではなしにね。
森岡 切れるのがいやだっていう。
柴谷 それを過去では子孫の連続性で代償的に満足させようとした。
森岡 まさに子孫の連続は代償なんですね、個人で連続ができないから。それで個体の死ということにいろいろ意味づけをしていくわけですよ。その意味づけが、死があるから現在いきいき生きれるみたいなことだったりするんだけれども。だとすると、ここでまた生物学に戻るけれど、不死を求める願いというのは、すごく深いんだともし仮定すれば、それはまさに多細胞生物というか、有性生殖を選択してきた我々自身が、実は単細胞的な繁殖を本当はしたいのだということになるんじゃないかと。
柴谷 それはその通りだと思いますよ。
森岡 もしそうだとすると、われわれの存在っていうのは、かなり悲劇的じゃないですか。個体の死と生殖によって不死になるという選択をして単細胞から進化したわけですから。柴谷 そういうのだから、結局生存していったわけなんですけれども。
森岡 そうだけど、その時に深い意味で自分を裏切っていないですか。単細胞で分裂によって増えていきたいのに、それを裏切る方向へと進化したという・・・・・・。
柴谷 単細胞でも二つに割れたらもう、どちらがもとと同一かは決められない。もとのものはなくなって、別なものが二つできた。
森岡 哲学の話になっちゃうんですが、細胞が分かれた時に自己同一性がどうなっているかというのは、いろいろな考え方があり得るんですよ。つながっているという考え方もあり得るし、同一性の主体はどっちかにいっちゃうという考え方もあるし、両方死んで生まれ変わるということも考えられるでしょう。これは実験によっては確かめられないことだ
から。
柴谷 DNAでいえば、半分しか残っていないということになります。
森岡 でもそれは情報が転写されていけばいいわけで。
柴谷 転写する時に時どき変わるから、基本的に同じということはあり得ないんです。
森岡 あり得ないけれど、さっき言ったように人間だって瞬間瞬間に変わっているわけで、少しずつ変わるという形でゆるやかに推移していけばいいわけですよ。とりあえず。
柴谷 僕は基本的に生命というのはそういうものだと思っているんです。それがないと、進化なんていうのは起こりませんから。
森岡 それはそうなんだけど、でも、個体のラディカルな死と、死ぬ前の有性生殖ということを選択した生物と、そうでないのがあるわけですよね。それで人間は有性生殖の選択をしたわけです。
柴谷 そういう選択をした結果というのは、悲劇的であるということになると。
森岡 と私は思うんですけれど。
柴谷 それに行くまでに何がなされたかというところを見ると、ちっとも悲劇的ではないというふうに思うんです。結局同一性をめぐって非常に矛盾したというか、混乱した状況で何となくいるので、哲学者さんにはその同【65】一性の問題を突き詰めて考えてもらえばいいと。ところが西洋文明というのは、同一性をめぐる論議として展開してきたので、今のもっともラディカルな哲学の人たちは、同一性そのものを疑うというか、問題にしているんだというふうに、おぼろげながら理解しています。
森岡 現代哲学はそのようなスタンスで最近は来ていると思います。
柴谷 僕たちはそんなに変わらないと思ってますがね。単細胞生物と言ったって、大部分は殺してしまって、一部分だけ生き延びる戦略を取っているので。
森岡 でも生き残った方にしてみれば・・・・・・。
柴谷 だから存在し増殖する細胞群の大部分が死ぬということを前提として、単細胞はやっているわけです。
森岡 まあ有性生殖をしたって大部分は死にますけれどね。
柴谷 だけど個体の保存というのは残るようになっているわけですね。私はもうちょっと前にもどって、そこへ行くまでにクローンをつくったら、自分と同じだというのは、生物学的にいうとそうではないんですということを、まずこの段階では誰にも了解しておいてもらいたいと思うんだけど、なかなかそうはいかないんです。
森岡 もちろん一〇〇パーセント完全に同じではないというのは明らかだけど、ドリーの場合、大人になって母親と比べてみた時に、例えば外見とか筋肉のつき方とか、いろいろな肉体の特徴というのはかなり似ているということになるのではないかという気がするんですよ。DNAというのは、やっぱり形を決めたりいろいろなことをする時に、常に参照されている何者かなわけでしょう。だとすると、必然的に似てくる部分もあるはずで・・・・・・。
柴谷 出てくるというのは、卵の瞬間はそうかもしれないけれど、それが発生する時には絶えず環境の影響が入りまして、生物学で言うと、それは半々ぐらいというふうに見ておいたらいい。
森岡 そう言われているけれど、本当のところどうなんでしょうかということです。
柴谷 本当のところどうなんでしょうかというのは、例えばクローンをつくってみたら一番わかるという話になるわけです。
森岡 もちろん免疫とかは個体によって全然違ったものになるわけだけど、例えば目と目の離れ方とか、両目と鼻との三角形とか、そういうようなものが顔の印象を決めているわけですよね。そういう印象は結構似ているという可能性は、非常に高くないですか。
柴谷 ただ、一生の間に顔つきが変わってきて、四○歳以上は自分の顔に自分が責任を持たなければならないということがあるでしょう。それも遺伝子で決まっているというだけではなしに、ずっと生きてきた環境なり生き方が影響するというので、半分ずつは環境が入っていると割り切った方が、私はいいだろうと思います。
森岡 しかし、同時にわれわれが経験則で知っているのは、例えば子供というのは、親のそれぞれの年齢の時と大体似たような顔の変化をしていくのではないかということです。
柴谷 年を取ってみると親に似ているというのは、それはずっと親のプロセスを見ていないから知らないので。
森岡 でも今は写真というのが残っていますからね。写真を見ると、別の遺伝子が半分入っているにも関わらず、その年齢の親と似ていたりすることがあるわけです。男の子は男親に、女の子は女親に似るというのが人々の印象としてありますよね。写真もそれをあまり裏切らなかったりするようなことがある。だからクローンの場合は、そこが極端に出てくる可能性もあるわけですよね。
柴谷 だからやってみたいと、リチャード・【66】ドーキンスは言ったそうです。記者がいろいろな人に聞いたんですけれど、俺は自分のクローンをつくりたいと。だけど決して同じにはならないということを、リチャード・ドーキンスは知っているわけ。だからどのぐらいまでなってどのぐらいまで同じにならないかというのは、面白いから見てみたいというのが一つ。
でもどうしてこの点が皆さんわからないのかと私は思うんだけれど、まったく同じ個体が出てきても、それは自分ではないわけで、やっぱり他者なんです。ことに違った環境で育ったら、もっと他者なわけです。一つの個体の中に「封減されている」というか、くるまれている生命というのは、それで別、ですから、仮にクローンが別に育っていても、その人は自分とどこまで同じだか、お互いにわからないわけ。ところがもうちょっと誤解があって、自分とまったく同じなのが自分の子孫とすれば、それは自分の所有物だというふうに思い違いやすい。だからある意味において、臓器移植の場合には、こっちの新しいクローン人間の生命というのは自分の所有物だ、だから自由に使う、というようになって、自分と同一なのが向こうに別に独立してあるという話とは、違ったところで考えているのではないかと。
自己のモデル
森岡 その気持ち悪いということですけれど、自分の場合と他人の場合では、ちょっとその気持ち悪さの質が違うかなという気がするんです。自分の場合は、さっき言ったから繰り返しませんけれど、自分の不死ということに触れる裏返しの気持ち悪さかな、というのが私の推理です。他者の場合というのは、別の意味の欲望を喚起させる面があるかなと思うのは、例えば死んだ息子さんの場合ですよ。つまり自分とある種の愛情関係とか、特別な関係を結んでいる人のクローンということを連想した時に、ある種の気持ち悪さがある。というのは、それは何の気持ち悪さかというと、それもまた裏返しなのであって、実はクローンが欲しいんですよ。つまり愛する他者のクローンはいくらでもほしいという欲望ですよ。さっき言った子供さんの場合がそうですよね。子供が死んじゃった、でもやっぱり同じのがほしい。だからクローンがほしいと。恋人がいておばあさんになってきちゃったので、昔の面影がほしいというので、若いのをもう一回つくる。それが年を取ってきたら、また若いのにつくり換えるみたいなことで。
柴谷 私はそこのところは落とし穴があると思うんで、別の個体というのは必ず別になります。いくら遺伝子が同じでもですよ。だからよけい恨みが出てきて、ほとんど同じなのに違う。だからこれは悔しい、恨めしい、憎いというようになる可能性があるんです。つまり人が人を愛するというのは、相手について自分がある種のモデルをつくって、そのモデルを愛しているわけで、だからモデルと実際とが食い違ってきたら、可愛さ余って憎さ百倍になるということがある。
森岡 でもそこでさらに考えなければいけないのは、今モデルということを言われましたけれど、それはとてもいい例を出されたと思うんです。それは、愛が憎しみにつながるという話にも関係しています。たとえば、私が誰かを愛しているとした時に、実は私は相手によって彷彿とさせられるある種の「モデル」を相手に張り付けているだけなのかもしれない。だから、愛から憎しみが生まれてくる・・・・・・。
柴谷 それで実際の変化によって、モデルが絶えず変えられているかもしれないんだけれど、実際愛しているというのは、大部分は自分の中のモデルを愛しているんです。
森岡 だとすれば、そもそもクローンでなくても、実際の人間を愛する時にでも「実際の【67】相手」と「頭の中のモデル」とのズレは生じているんですよ。だから、クローンとオリジナルが少々違ったとしても、それはクローンに固有の問題だとは言えないのでは?
柴谷 今度は三つの間の問題になりますから、そんなに簡単ではないと。
森岡 ないけれども今私が言いたいのは、つまり親しい他者とか愛情のある他者のクローンという連想をどこかでした場合の気持ち悪さというのは、つまり時間を止めたいという欲望をあばかれるかもしれませんね。わかりやすい例で言うと、やっぱり若い時の彼女といつまでも一緒にいたいとか、そのような欲望というのは、時を止めたい欲望ですよね。あるいは愛している息子でも何でもいいけれど、それが世界で一番だと思っていた場合に、その代償はどこにもないからクローンを、っていうことはあるかもしれない。つまり時問的に止める、そういう意味でのエゴというか欲望みたいなもの、何と言っていいかわからないですけれどもね。それは愛情ではないかもしれないと思うんです。
柴谷 それが一番重要な問題だと私は思っているんで、どういう場合でも愛情というものの基本は自分自身の中の一人相撲であって、自分自身と自分の中につくってあるモデルと
の相互関係であると。
森岡 でも愛情をそう定義してしまうと、今度は「愛情と他者」という大問題が出てくるわけでしょう。モデルは他者かというと、その場合モデルは自己言及しているんで、モデルは自己だと言えるわけです。
柴谷 他者によってモデルをつくり変えているだけのことであると。
森岡 それは愛情のペシミズムですね。愛の関わりの。
柴谷 ペシミズムですか?それが楽しいのでそれでいいというふうに僕は思っちゃっているけれども。それ以外のことができますか。完全にモデルを消して、ただ相手のために愛するというようなことは嘘だと私は思います。
森岡 だからこそ、ペシミズムかなと思うんですよ。ただ相手のために愛するというようなことを最初から切っちゃっているような気がして。これは面白い問題で、みんな悩んでいる話だと思うけれど、親しい他者のクローンという話題はこんなところに触れてくる問題なんです。例えばある男がいて、好きな女が老いてきたのだけれども、でもこの女が一番好きだし、一番魅力的だったから、その若い時の個体をもう一個ほしいと思う時、そのような欲望のあり方と、愛情というあり方が・・・・・・。
柴谷 そう言ったって、自分自身が年を取っちゃっているわけでしょう。だからその若いのと年取った自分との相互作用というのは、両方が若い時の相互作用とは決して同じではないから、だから結局現実と自分のモデルとのずれがかえって一層大きくなるのではないかというのが、私のオプティミスティックなペシミズムなんです。
森岡 それはわかります。それは十分あり得ますよ。ただ、その男女に権力関係があった場合はまた事情が違ってくるでしょう。
柴谷 権力関係というのは、必ず全部の個体というか他者との間にはあるんです。
森岡 あるんだけれど、権力関係の中でも、かなり束縛的な権力関係、つまり私は彼女を自由にできるけれど、彼女は私のそばにいることでしか生きていけないみたいな権力関係があった時には、また事情が違ってくるんですよ。
柴谷 そういうのは基本的に、今欲望とか何かの関係でそうであっても、それは許されないというふうに、僕らは思っちゃっているんだけれども、やはり欲望としてはそういうふうになりたいと。権力欲望というのはみんなあるでしょうから。【68】
森岡 だから、これは、そこまでえぐられるような話題かもしれないんですよ。
柴谷 そういうことだと思いますよ。だから一方には同一性があり、他方には権力の問題がある。避けがたくあるんです。それがいやだったら、自殺するより仕方がない。
森岡 その辺がまたペシミズムですね。(笑)
柴谷 それはペシミズムではなしに、それが全部解けるのが現在そのものだというオプティミズムが私にはあるんです。
森岡 それもよくわかるんですけれどもね。
柴谷 私は長く生きたから、こういうふうになったのかもしれません。
森岡 今のお話でわかったのは、やっぱり同一性の問題と、まさに欲望と他者と愛情というあたりの人間の存在の問題をえぐるトピックスであるということですね。そこはやっぱり多くの人がこの話をしている時に、どこかで感じているんだと思うんです。直感的に感じているから、いろいろな反応をするんだと思うんです。気持ち悪いという言葉でね。気持ち悪いという言葉というのは、そこに感づいた人のある種の防御じやないかという気がするんです。
柴谷 私は気持ち悪いということは、一回も考えたことはありません。僕が非常に変わっ
ているからかもしれない。
森岡 変わっているというか、柴谷さんが今言ったような話題について、わりと自覚的に考えてこられた時間が長いからですよ。
柴谷 かもしれませんね。
森岡 普通だったらそこはあまり考えていないし、なるべく考えないようにしているから。柴谷 僕はどちらかというと、気持ち悪いというのではなしに、ドーキンスと同じように、面白いという反応しかありません。
森岡 だからまさに内なる隠蔽みたいなやつに、どう向かって来たかというあたりの歴史性によって、人々の反応が全部違うと思うんです。あとは文明の問題で、特に池田清彦さんがおっしやるキャナライゼーション(運河化)みたいなことについて、どこまで敏感に見ているかというあたりで反応が違ってくると思うんです。
柴谷 だからほかの人々が僕と同じように考えてくれないということは、ちゃんと知っていなければいけないんでしょうけれどもね。
森岡 でもこの話は大変面白いですね。私は今、しゃべりながらいろいろ考えていました。
柴谷 すれ違いではなかったですか。
森岡 いえ、これは面白いと思います。ここから先に進むのはちょっとまだ難しいけれど。
遺伝子神話
柴谷 さっき言ったように、日本の知識人の間では、リチャード・ドーキンス以来の、あるいは遺伝子操作以来の悪しき遺伝子決定論(「遺伝子神話」)が非常に広がっていて、生物学的に成り立たないような進化および遺伝子の作用の問題が、きわめて広く誤解されていると思うんです。それを皆さんが気取って発言しておられるようなので、そういう知識意識の水準での理解なのだったら、そういう水準から出てくるクローンの話というのは、全部幻想というか、間違った話をしているのではないかという警告もしておきたいと思います。
森岡 それは正しい指摘だと思います。
柴谷 もしよければ、ここに悪い例を三つか四つ用意してあります。順序不同ですが、ここに増淵英記さんの「ケルトの魅力」(『週間金曜日』一月二四日号)というのがあるんです。ケルトというのは世界的にあるのであって、スコットランド、ウェールズあたりだけではないということを言いながら、「ケルトという名の種子は世界各地に飛び散り、変化しながらも、その地に根を下ろして生き残るんだという力強いメッセージを伝えているかのよう【69】だ」と、ここまではいいんです。「種の自己保存を諜る遺伝子にも似て、ケルトは二一世紀も逞しく生き」残るだろう。
これは非常に間違っているんです。種は自己保存をしないということが現在の生物学ではちゃんと了解されているんで、個体も自己保存をしない。自己保存するのは遺伝子だけだという話、それはそれで正しいですけれどもね。だから種は自己保存しないし、それをはかる遺伝子なんて、そんなものありゃしないので、これは非常におかしい。幻想をつくっておられるようです。
森岡 ちょっと確認していいですか。種は自己保存しないという意味は、まず種の概念自体が今は違ってきていることがあるわけですよね。
柴谷 種は自己保存をはかるというのは、ある種の願望表明であって、そんなのは生物学では一回も証明したことがないわけで、本当に自己保存をとことんまでやれば、残っているのは遺伝子だけだと。種というのは、おのおのの生物個体で意識されていない。自己と他者だけ意識されているわけです。
森岡 厳密に考えればそうですけれど。でも、自己保存するのは遺伝子だとおっしゃいますが、遺伝子ってのはそもそも何なのですか?
柴谷 意識も何もないんで、結果としては自己保存をはかっているかの如く行動しているだけで。
森岡 その場合の遺伝子というのは何ですかということなんですけれども。
柴谷 DNAのシークエンスだということです。
森岡 でもDNAのシークエンスはどんどん変わっているんだから、自己保存は何もしてないですよ。
柴谷 いや、大部分の場合は自己保存するんです。それでごくまれに、一○の六乗に一回
ぐらいは間違う。
森岡 でもそれを積み重ねていくと・・・・・・。
柴谷 だから進化するわけです。
森岡 進化するっていうことは、自己保存の否定だとは言えないですか。
柴谷 長いレンジではそうです。でも遺伝子は、少なくとも百万回は自己保存するわけです。だから百万回に一回だったら、百万回の方を取って自己保存するという。
森岡 でもそれだったら、例えば日本の名字とかというのも自己保存しているわけですよね。これも何十代ぐらいかはいくわけですよ。
柴谷 名字というのは、人間の頭でつくられた幻想に過ぎないから。
森岡 そんなことはないです。戸籍にちゃんと記載されているわけですから。それでその記載のされ方は、かなり厳密です。
柴谷 それはドーキンスのミームという考え方で、文化保存しているわけです。
森岡 そうだとすると、自己保存していく主体は遺伝子だけではないのですね。
柴谷 一つは遺伝子です。
森岡 その場合の遺伝子って何かと。しつこいかな。
柴谷 そこにいる対抗物は個体でもない、種でもないと。染色体でもない、細胞でもない。というのがリチャード・ドーキンスの説で、そこまでは正しいと思う。
森岡 構造主義生物学で言う「構造」というのはどうなんですか?
柴谷 そういう頭の中で考えたものは保存される。
森岡 そうですか。
柴谷 でも増殖するとは言っていませんよ。
森岡 はい。
柴谷 他者に対して、例えばある種の定義を伝えたら向こうも・・・・・・。
森岡 いや、そうではなくて、例えば構造主義生物学では、構造というのは頭の中の構築物だけではないわけでしょう。【70】
柴谷 いや、だから構築物だと言っているの。自然界には実在しないと言っている。
森岡 自然界に実在しなくても頭に実在するという考え方は、いいんですか、それで。
柴谷 それでいいんでしょう。自然界に実在するかどうかわからない、それは頭の中の構造によって、大体同じだと思うというふうに・・・・・・。
森岡 でも頭というのもまた自然界の一部にすぎないわけだから、どうしてそこに実在していると言えるんですか。
柴谷 それは自分が生きている個人においては、経験的にわかるということです。
森岡 でも個人にまで還元していってしまうと、今度は構造と言っている意味がなくなる
わけですよ。
柴谷 だから生きている人間の頭の動きを「ミーム」としてやっているということになって、そこまで聞かないわけ。
森岡 そこはちょっと疑問なんですが。そこは池田清彦さんとはちょっと違うんですか。
柴谷 実在はあってもなくても、そんなものはどうでもいいんだと。だけど実際にお互いに自己を了解するためには、頭の中の構造と、外界に存在するかもしれない構造とのほぼ同型性というのは認められるから。
森岡 それはそれでいいですけれど、ただその場合実在というのを・・・・・・。
柴谷 仮定しなくてもいいんですと。
森岡 池田さんとちょっと違う気がする。聞いてみないとわからないけれど、彼が細胞の構造と言う時には・・・・・・。
柴谷 その辺の話は知りません。今までのところは、彼の原文を僕は何回か英語に翻訳したから、割合にそれでいいんだろうと思っているんですけれども。
その次には、このごろ道を歩く人は、男と女が向こうから来ても、どっちがどっちだかわからない、性というものの区別がつかない、ということを言っておいて、今の二○代の女性は男性と同じように視覚でも聴覚でも感じるようになってきている。「つまりDNAの中に変化が起きており、オスとメスとは確実にその差を縮めているらしい」と。こんなのはとんでもない嘘でありまして、大石静という脚本家が毎日新聞(三月十一日、タ刊)に書いたコラムですけれども、人間の進化というのは五万年前から止まっていて変化していないということを一方で言っているんで、わずか一代の数分の一ぐらいの感覚で、DNAの中に変化が起きているというようなことなんて、とんでもない話だと生物学者は言うだろう。起こっているかもしれませんよ、でもそれは確証について言っていないし、現代の生物学の考えとは正反対のことを言っているという自覚が、もし本人にあるならば、それはそれで僕はいいと思うんですけれども、それが正しいと思われるのは困るということがあります。
その次は三笠宮でありまして、「何かそういう一種の強迫観念みたいなものが日本人の遺伝子の中にかたく組み込まれているのではないでしょうか」と。「日本人の遺伝子」というのはありません。日本人というのは文化的な構造なわけで、個体にそんなものがあるということは、基本的にはあり得ないので、定義からしてもできません。もう一つ、佐竹通男という人の毎日新聞四月一八日の「喜楽帳」に「手鼻に代わっていま横行する」「ガムのポイ捨て」「口からプット“見事に”吐き出す若者。遺伝子が変えている手鼻の代替行為」人間の行為が遺伝子に支配されることと先祖からの習慣を見習うこととの間は関係がないので、「手鼻の遺伝子」なんてもともと存在するはずがないでしょう。「利己主義」ならば遺伝子そのものの性質かもしれぬ、とはある種の生物学者ならいうかもしれぬが、全く別な次元のことです。でもこう【71】いうふうにいうと、格好がいいらしいんだよね。そういう話はいくらでも出てきます。
森岡 それはいっぱい出てきますよ。
柴谷 好きなのね、「遺伝子」という言葉が。でもそのことを考えている人が、同時に「クローン」は気持ちが悪いとか何とかということも言うんでしょう。だからどこまでわかって言っておられるのかということが、実は非常にあやふやであって、その人たちの言うことをまともに聞く必要さえないのではないかと。もうちょっとはっきりしたことを言うならば、聞いてもいいと。
森岡 もちろんそういうことの指摘は大事なんですが、これもフーコー的に言えば、そういうのは知識としてわかっているかどうかという問題と、もう一つ、同時に遺伝子に関する言説が政治的に使われているということですね。
柴谷 そうです。遺伝子に関する言説がね。言説はどういうようにも変化できるので、変化しつつあるわけですけれども。
森岡 最近どこかの英語の本で、遺伝子に関する言説を分析した本がありますね。
柴谷 ありますDNA, Myth。合州国の本です。あちらでも状況は同じ、あるいはもっと悪いらしい。僕は原典を買ってちょっと読んで、もうちょっと読もうと思っているうちにどこかへなくなっちやって。大きな本なのにいくら探しても見つからないんですけれど、最近翻訳が出たようです(『DNA神話』)。それは買おうと思っているんですけれども。
森岡 言説分析すれば、明確な傾向性が出てきますよ、きっと。
クローンと倫理
柴谷 もうちょっと言うと、クローンをなぜつくってはいけないかということは、ぎりぎり返事できますか。
森岡 どんなクローンですか。
柴谷 つまりリチャード・ドーキンスのクローンを誰かにつくらせる。
森岡 ぎりぎり言えるのは、生まれてくる人間の人格、つまりその人の身になるっていうかな、つまり自分が何かの目的でつくられたということをその人がどう考えるかというこ
と。
柴谷 「お前はクローンでできたんだよ」と言われた場合、自分が思春期の時、親の性行為によってつくられたと思うとやっぱりいやだったわけです。自分の知っている父親と母親が性行為をした結果受精してできたというふうに思うのはいやだと。
森岡 ごめんなさい、誤解されてしまいましたけれど、そういうことではないんです。もう一回ちゃんと言いますと、片方は性交で片方はテクノロジーによってということではなくて、自分が存在したことが、つまり誰かが自分の存在を、ある別の目的のために生じさせたのだということですよ。
柴谷 親父が性交したのだって、子供を産もうと思ってしたのではないでしょう。
森岡 例えば子供を働かせるためにつくろうと思った場合っていうのはどうですか?
柴谷 ある意志をもって自分自身がつくられたというのがいやだという?
森岡 意志ではなくて、ある目的の手段として自分の存在がつくられたということですよ。
柴谷 それは手段でも何でもないだろうと僕は思うけれど。尊厳な人間をつくり出す一つの方法に従ってつくったのであって、自分は卵の構造だって核の構造だって知らないで、自然の運行にまかせてつくったわけでしょう。いくらクローンをつくったと言ってもね。クローンというのは部品から組み立てるわけではないので、自然の運行に従ってつくったわけですから。
森岡 そういうことではなくて、例えばもうちょっと別の例を出すと、先ほどSF的な例【72】を出したけれど、臓器移植用にクローン人間をつくるという話があるわけですよね。では臓器移植用につくられた当人にしてみれば・・・・・・。
柴谷 「お前は臓器移植用だから、奴隷みたいなものでいつ殺されるかわからないけれど、所有者の自由になるんだよ」と言われたとしたら、これは非常にあわれですよ。
森岡 言われないにしても、そういう気持ちになりますよ。
柴谷 だからそういう目的としてつくるのは具合が悪いと私ははじめから思っているんで、ドーキンスのクローンをつくるのは、もう年齢も親子のようにずいぶん違うでしょう。
森岡 では何でドーキンスでないといけないんですか。
柴谷 ドーキンスが自分のはつくりたいと言ったから。彼は少なくともそう言ったからで、それは誰でもいいんですけれども。だからドーキンスに関しては不公平ではないわけです。その時はドーキンスの所有物でも何でもない。ドーキンスとまったく同じような独立した人格だと思う。ただ方法だけが通例の方法と違っただけだけど、自由に全部をつくったわけではなしに、ある種の制御をしたわけ。
森岡 それはそうだけど、その時にそれを疑問視できる根拠の一つとしては、目的手段関係というのが濃厚にあるかないかという点ですね。
柴谷 それはありますね。
森岡 ただその場合、今おっしゃたように、単にドーキンスが自分と同じものを残したいと言った時に今のような・・・・・・。
柴谷 「自分と同じように」と言ったのではなしに、自分のクローンをつくりたいと。彼は違うと思っているんです。それも彼は言っているわけです。
森岡 なるほど。では違うものになるだろうけれど、自分の体細胞からもう一個個体をつくりたいと言った時に、それを否定できる根拠がどこにあるかということですよね。
柴谷 そうそう。
森岡 もちろん、現実的な答えをすると、一つにはヒトの受精卵をいじることになりますね。あるいは未受精卵にしても、卵をいじることになるわけでしょう。生殖系列細胞は、その個体においては問題ないとしても、子孫を残していく時に何が起きるか分からない。だからいじるのはやめておこうという研究のモラトリアムが多くの国で成立している。
柴谷 しておかないと、無制限に拡大する危険がある。
森岡 その危険があるからというのは、現実的な反対の根拠ですよね。
柴谷 それでいくら倫理委員会で歯止めをしても、倫理委員会そのものがまともに動かないし,ミスだとかいろいろなことがあるから、危険なことはずっと手前の方で、すべて安全ケースを見てやった方がいいという議論なら・・・・・・。
森岡 それが第二の理由です。つまり大体二つあって、一つは今言ったように受精卵そのものの研究実験をモラトリアムしているからだめだという理由。二番目の理由は、特に受精卵のような、まさにいろいろに分化していくような能力を秘めたようなものに、一回触ってしまうと何が起こるかわからないと。つまり未知のリスクが起きる確率がかなり高いかもしれないですよね。
柴谷 その話はもう現在すでに起こってしまっているんで、動物の発生生物学は結局そこまでやっちゃっているんです。それは誰が何と言おうと起こりますよと言っているわけ。
森岡 そうです。
柴谷 私として生物学者に言えるのは、まだわからないことがあまりに多すぎるので、未知のものが多すぎるので、今やるとどんな危険なことがあるかというのが大体見えていないから。【73】
森岡 そういうことですよ。
柴谷 それを決めるのはまたずっと先のことで、いつまでも来ないかもしれないけれど、許容量の問題とすれば、今は許容量よりもはるかに足りない状況で、たとえ技術的には可能と言っても、どういうことが起きるかということは、やはり見定めないとわかりません。
森岡 だから現在の時点では、未知のリスクの未知という部分が非常に大きいので、今はヒトにやるのは時期尚早だと。
柴谷 でも倫理的に言うと、ドーキンスのクローンをつくりたいということについては、本当の倫理的な将来・・・・・・。
森岡 その場合、本当の、っていうのがまたくせ者だけど、少なくとも今私が言った二つの理由っていうのは、現時点ではこの二つが出てくると。
柴谷 それは私はまったく同意します。原理的に・・・・・・。
森岡 原理的な次元に移した時に何が言えるかというのは、一般論で言えば目的手段関係の問題というのは一つ成立すると思いますが、それをすり抜けてしまうケースもあり得ます。それが多分おっしゃったドーキンスの例でしょう。その時に、そこをすり抜けてしまった場合に、原理的にそれに対して何の規制がかけ得るかというふうに問題を立てた場合には、非常にそれは困難だと私自身思います。
柴谷 僕もそこのところに引っかかってよく考えるんだけれど、それをどういうふうに言えるかというのを、今考えているんです。けれどもまだよくわかりません。
森岡 だから一つ言えるのは、もちろんそれは、例えばキリスト教みたいな背景があった場合は言えるわけです。でもそれがない場合・・・・・・。
柴谷 ドーキンスは多分キリスト教徒ではないと思うし、日本人の大半もそうでないです
ね。
森岡 だから先ほどわれわれが議論したような不死の問題とか、欲望の問題とか、そういうことを悪い方向へ引っ張るからだめだとか、あるいは今悪い方向に行っている文明を、さらに後押しするからだめだということが、根拠として言えるかどうか・・・・・・。
柴谷 今クローン人間以外に悪い方へ行っていることがいっぱいあるから、それをどうなくすかという話をどうして先にしないのかと。
森岡 もちろんほかにいっぱい悪いことはありますよ。
柴谷 現在は既得権益にあぐらをかいて、そういうことは無視しているんじゃないの。不正直だと。
森岡 不正直でも、悪いことが一〇〇あっても、一個ずつつぶしていけばいいわけで。
柴谷 だからできるところからやると。
森岡 それがもし答えになるのだったらとてもいいんですけどね。でも今の社会というか知識人というか、今の知の感じというのは、そういうものが根拠としてはうまく機能しないのです。なぜだかわからないけれども。「人権侵害だ」と言ったら止められるけれど、これをやっているといろいろな形でわれわれの欲望を悪い方へ導きますよというのは、止める理由としては働かないような社会に、なぜかなっているんですよ、今の社会というのは。技術というのはそこに目をつけて進んでいくようなところがあって。
柴谷 新しい技術を開発すれば、そこに規制するプリンシプルはまずあまり用意されていないから、しばらくの間は一応大丈夫ということになりますね。
森岡 だからそこが悩ましいところです。同じようなところで柴谷さんも私も突っかかってしまっているんですね。
柴谷 というようなことのようですね。
(しばたに あつひろ・生物学)
(もりおか まさひろ・生命論)【74】