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鬼頭秀一編『環境の豊かさをもとめて』昭和堂 1999年5月 30−53頁
自然を保護することと人間を保護すること
−「保全」と「保存」の四つの領域
森岡正博
保全と保存
いまの時代、自然環境を守らなければならないということに、反対する人はほとんどいない。これは現代の常識である。
ところが、「ではいったいどうして、我々は自然環境を守らなければならないのですか?」と聞いてみると、それに対する答えは、かならずしも同じではない。この問いに対する答えは、だいたい以下のような二種類のパターンにはっきりと分かれてしまう。
最初のパターンは、自然環境を守らないと人類がたいへんな被害にあってしまうからだという答え。このままの調子で木を切り続けてゆくと、やがて地球上から緑が消滅してしまい、人類も滅亡してしまう。だから、自然保護が必要なのだ。
あるいは、フロンガスを使い続けていると、地球の上空のオゾン層が破壊されて、そこから侵入する紫外線で人間がたいへんな被害を受ける。だから、フロンの生産をやめて、オゾン層を保護しなければならない。
ひとことで言えば、「人間に被害が及ばないようにするために、自然環境を保護するのだ」という論理である。これを「保全conservation」の思想と呼ぶ。
これに対して、第二のパターンは、熱帯雨林や海岸沿いのゆたかな生態系には、それ自体尊い価値があるから、破壊から守ってやらないといけないというものだ。熱帯雨林などは、何千年もかかって、いまの複雑でゆたかな生態系を作りあげてきた。それは、人間の文化遺産にも匹敵するほどの貴重な価値をそなえている。だから、それを破壊するような行為は、熱帯雨林が今後も生存し続けてゆく可能性を、いまここで摘み取ることになる。だから、なんとしても破壊をくいとめなくてはならない。
あるいは、長い時間かけて成長してきた生態系には、そのままの姿で生き続けてゆく「権利」があるはずだ。そのような自然の権利を一方的に無視して、破壊してはならない。
ひとことで言えば、「自然環境は、それ自体貴重で尊い価値をもっている。だから、自然環境を保護するのだ」という論理である。これを「保存preservation」の思想と呼ぶ。
この「保全」と「保存」の思想は、おなじ自然保護を訴えながらも、その発想がまったく異なる。もっと簡単にまとめてしまえば、「人間のために自然を守る」というのが保全で、「自然のために自然を守る」というのが保存である。
このふたつの思想は、自然保護の運動があるときにかならず顔を出す。そして、自然保護のいろんな現場で、このふたつの思想がはげしく衝突する。そしてこの衝突は、けっして根本的には解決されない。というのも、このふたつの思想は、私たちの生命の奥底にあるもっとも深い対立を、背負っているからである。
J・パスモアは、次のように表現する。保全の思想は、自然環境を、人間のための「道具」であるとみなす(=道具的価値)。これに対して、保存の思想は、自然環境に「それ自体の価値」がそなわっているとみなす(=内在的価値)。(『自然に対する人間の責任』岩波書店 原著一九七四年)
自然環境は、人間の道具なのかどうか。このあたりに鍵がかくされているようだ。
人間をとるか自然をとるか
具体的な例をとって、このあたりのことを、もういちど考えてみよう。
たとえば、ある地域の原生林が、開発によって伐採されようとしている。
これに危機を感じた人々は、伐採反対の運動をはじめる。
彼らは、開発を進めようとする企業や自治体に対して、反対の声をあげる。
ところで、このとき彼らの「反対する理由」を注意深く見てみると、そこには保全の思想と保存の思想が、混在していることがわかる。
ある人々は、次のように言う。その山の原生林を伐採してしまえば、雨が降ったときに山の表土が大量に流出する。流れ出した土は、川を汚し、海の水を濁らせる。すると、近海の魚が逃げてしまって、漁獲量が激減するかもしれない。また、木々がもっていた保水能力がなくなるので、大雨が降ると川の水があっというまに増えて、洪水を引き起こしやすくなる。それだけではない。木がなくなって、表土がむきだしになるから、山の地盤が弱くなり、山崩れや地滑りの危険性がますます大きくなる。
だから、その原生林を切ってはならない。
この反対意見の論理をひとことで言えば、「原生林を切ったら、結局はそこに住む人間に被害が及ぶ。だから、伐採に反対する」というものである。これは典型的な「保全」の思想だと言える。
一方、次のように言って反対する人々もいる。
地球上から自然がどんどん失われているいま、この地域の原生林は、ほんとうに貴重な人類の遺産である。原生林の生態系は、たくさんの生物による微妙で洗練された相互依存のシステムをもっている。人間がそのシステムの一部を破壊すれば、原生林の全体が音をたてて崩壊してしまう。そして、原生林を一度破壊してしまうと、それはもう二度と再生しない。原生林は、貴重で尊いものであり、我々はその自然の奥深い神秘に尊敬の念をもたなければならない。そしてその自然を大切に守ってゆかねばならない。原生林は我々にとって母なる自然の象徴であり、将来の世代へと引き継いでゆくべき貴重な遺産である。人類が行なってきた自然破壊は、もうストップするべきだ。森の木を切るとき、その木々たちは悲しみの叫び声をあげている。私たちは、その木々の声に耳をすまし、原生林が訴えかけていることばを聞き取らなければならない。
だから、その原生林を切ってはならない。
この論理をひとことで言えば、「原生林は貴重で尊い存在である。だから、伐採に反対する」というものである。これは典型的な「保存」の思想である。
このように、同じ自然保護の運動に加わっている人たちのあいだにも、このふたつの相異なった思想が混在している。このふたつの思想は、同じひとりの人間の頭の中で共存していることもある。
この例では、どちらの思想も、伐採反対という点では同じであった。
ところが、ちょっと状況が異なってくれば、このふたつの思想が正面から衝突するケースがでてくる。次の例を考えてみよう。
ある町の裏に、奥深い森がある。その森には、数多くの動物や鳥が住んでおり、大きな川も流れている。ところがこの町は、例年夏になると水不足に悩まされる。また、町には大きな産業がなく、この森を利用して生計をたてないとやってゆけないような状況に追いこまれている。
そのときに、ある開発計画がもちあがる。森の中を流れる川にダムをつくって、町の水不足を解消しようというのだ。もちろん、森の一部はダムの底に沈んでしまうが、でも町の人々の生活にはかえられない。同時に、森の木々を計画的に伐採し、木材として売って産業にする。もちろん、切ったあとには植林をして、森林資源を絶やさないようにする。さらに、森の中に遊歩道やロープウェイをつくって、気楽にピクニックできるようにする。町の人々の憩いの場として利用できるし、都会からの観光客を呼ぶこともできるかもしれない。こうやって、森を人工的にうまく管理してゆけば、それは自然保護とも両立するはずだ。
これを聞くと、けっこういい話じゃないかと思う。
ところが、開発反対運動が、さっそく起きた。
彼らは言う。森の中の川にダムをつくるなんてとんでもない。ダムの人工湖によって貴重な自然が沈んでしまう。これは自然に対する暴力だ。ダムができることで、森全体の生態系のバランスも、完全に破壊されてしまうだろう。そして、その地域で大切にはぐくまれてきた、数多くの生物種が消滅するであろう。単なる水対策なら、ほかにも方法があるはずだ。たとえば、隣の地域の水系から水をわけてもらうような仕組みをつくるなど。それに、森の木をいったん切りはじめたら、もう取り返しがつかなくなる。植林してできた森林は、もとの自然林がもっていたような多様でゆたかな生態系をもつことができない。それは、人間が自分たちの利益のためだけにつくりあげる、いびつな自然である。森を観光化するのは、森の商品化である。遊歩道をつけ、ロープウェイをかけることで、どれほどの被害がそこの自然に及ぶか、考えたことがあるのか。そういう遊歩道から眺める自然なんか、人間によってずたずたにされた自然の残骸だ。観光気分にひたるのは勝手だが、それを自然だと勘ちがいされるのはこまる。
こういう論理で、森の開発反対をうったえる。この論理は、「森はそれ自体貴重で尊いものだ」という保存の考え方である。「保存」の思想による、開発反対運動である。
ところが、別の自然保護のグループから、疑問の声が上がる。
あなたたちは、森に手を入れるのは悪いことだと言っているが、あなたたちは自然保護の意味を取りちがえているんじゃないのか。自然保護とは、そこに生きる人間が自然をかしこく利用していけるように、自然を管理してゆくことだ。それが自然との共生ということの意味だ。もちろん、森の木を切りすぎて、付近の住民が山崩れなどの災害にあったり、数年後に森がまるぼうずになったりするのは、行きすぎた開発だから、中止するべきである。しかし、木を切っても、植林によって次の苗をそだて、そうやって森の資源を持続的に管理し、災害対策もきちんと行なってゆくことに、なんの問題があるというのか。いや、それこそが、真の意味での自然保護と言えるのだ。ダムにしても、自然環境をうまく管理して、住民の生活の質を向上させるわけだから、問題はない。遊歩道やロープウェイにしても、それがあってこそ、ふつうの人々が森の自然に親しめるのだ。そういう施設をもうけて、自然と触れあう機会を保証することこそ、自然保護の目標ではないのか。
こういう論理で、開発に賛成する。この論理は、「人間のために自然をかしこく管理することが自然保護である」という考え方にもとづいている。そしてこの考え方は、ある行為が「人間のためになるかならないか」を究極の判断基準にしているという点で、「保全」の思想の一種であると言える。
ここにあげた例では、「人間のために自然を守る」とする「保全」の思想と、「自然のために自然を守る」とする「保存」の思想とが、正面から衝突している。
もちろん、現実の場面では、このふたつの思想の衝突は、政治という名の妥協によって、うやむやのまま解決されることになる。しかし、政治的に解決されたとしても、思想の対立それ自体が、解消されたわけではない。それどころか、自然保護が社会問題になるたびに、これと同じ対立が、延々と繰り返されてゆく。
この対立の実例として、環境倫理でよくひきあいに出されるのが、今世紀はじめにアメリカでおきた、ピンショーとミュアの対決である。
アメリカのヨセミテ国立公園のヘッチーヘッチー渓谷に、ダムをつくるかどうかをめぐって、一九〇八年から一九一三年にわたって、大論争が行なわれた。自然保護の父と言われるミュアを代表とする「自然派」は、ダム建設に反対し、その地域を手つかずのまま残すことをうったえた。これに対して、行政官の立場に立つピンショーらは、ダムを建設してその地域の自然をかしこく管理することこそが自然保護だと主張した。この論争は議会にもちこまれ、その後、政治的決着がはかられて「自然派」は敗北し、ダムが渓谷に建設された。
ミュアが「保存」の立場にたってダム建設に反対し、ピンショーは「保全」の立場にたって建設を推進する。そして、ふたりとも、自分たちの考え方こそが真の「自然保護」なのだと主張する。ほんとうに、象徴的な対立だ。
ピンショーは、森の木材を安定供給できるような形で、自然を管理してゆくことこそが自然保護だと考えている。この考え方は、その後の自然保護運動のひとつの典型的な発想として、受け継がれてゆくことになる。たとえば、一九五七年に改組された国際自然保護連合(IUCN)は、自然保護の目的を、自然の「かしこく合理的な利用」と規定している。「保全」の立場にたつわけである。
これに対して、ミュアは、自然をそのままの形で残してゆくことこそが自然保護だと考える。その背後には、自然のなかに、なにか神聖で宗教的なものを認める思想がある。そして、この考え方は、極端なケースでは、自然に人間の指一本触れさせないというところにまで行きつくであろう。ミュアは、アメリカの民間自然保護団体・シエラクラブの初代会長となり、「保存」に基礎をおく自然保護のもうひとつの流れを生み出した。 保全と保存の思想的対立がもっともはっきりするのは、次の問いを突きつけられたときである。
「自然を守る行為が、人間のためにならないときにでも、自然を守るべきか。」
YESと答えるのが保存。NOとするのが保全。
もちろん、これはもっとも極端な理念のレベルの話なので、実際にはもっと妥協的な答えが出されるはずだ。ほかの付随条件によっても答えは左右される。しかし、思想的対立の根源がこの地点にあるのは確かだと思う。
そしてこの対立は、環境倫理の争点である「自然にどこまで価値をみとめるか」「動物や自然に権利はあるのか」「人間の利益と自然の利益が衝突したときどうすればよいのか」「人間非中心主義は可能なのか」などの問題と、深くつながりあっている。
この点は、鬼頭秀一が『自然保護を問いなおす』(ちくま新書)のなかで明快に指摘したように、白神山地のブナ林を保護するときの、秋田県側の思想と、青森県側の思想の違いとなってあらわれている。洋の東西を問わず、先進工業諸国でこの問題が出てくるときには、この「保全」と「保存」の対立はかならず顔を出すと言ってよい。
「保全」と「保存」再考・その一
さて、保全と保存についてさらに突っ込んで考えてみたい。というのも、環境倫理学では、まだ充分な議論がなされているとは思えないからだ。
さきほど例にあげた、アメリカのヘッチーヘッチー論争では、人間のための自然保護を主張する「保全」派が開発を推進し、自然のための自然保護を主張する「保存」派が開発に反対した。
こういう形の保全と保存の対立は、いまでもよく見られる。
でも、保全がかならず開発に賛成し、保存がかならず開発に反対するとはかぎらない。
開発ということばを使わずに、「人間の手による自然への介入あるいは保護」というふうに考えると、保全と保存の双方の立場から、これに賛成する場合と反対する場合があることがわかる。
つまり、「保全/保存」x「介入・保護に賛成/反対」で、全部で四通りの場合分けがあるのだ(図参照)。
保全 保存
介入や 賛成 (1)
(3)
保護に
反対 (2)
(4)
これはけっこう重要なので、その四つのケースを、順番に検討してみたい。
(1)保全の立場から人間の手による自然への介入あるいは保護に賛成するケース
代表例:「森林を荒れさせずに持続的に資源として利用してゆくためには、人間がきちんと手を入れて管理しなければならない。」これは、典型的な保全の思想である。自然を人間のために役立たせるためには、その自然をしっかりと保護しなければならない。これが真の自然保護だというわけだ。そのほかには、「自然災害から人間を守るために山や川をきちんと管理する必要がある」「現在と将来世代の人間の利益のために、森林を有効に利用してゆくべきである」などがある。「木を切ったあとには、きちんと植林をして、砂漠化をふせごう」というのもこのケース。
(2)保全の立場から人間の手による自然への介入あるいは保護に反対するケース
代表例:「山を開発すると、その結果土砂が流れ出して海を汚染し、漁獲量が減るので、開発すべきではない。」以前にもひいた例ではあるが、人間のためにならないから自然に手をだすなという、保全の思想にもとづいた反対意見である。これがもう少し抽象化すると、たとえば「開発は結局人間のためにならない。いつか、しっぺがえしをくらう。だから、開発はしないほうがよい」という形の反対意見になる。こんなのもそうかもしれない。「人間の目から見て快適で美しい自然をそのまま残してゆくべきである。」美しい自然とは、結局のところ、それを見る人間にとっての「美しい自然」なのだ。
(3)保存の立場から人間の手による自然への介入あるいは保護に賛成するケース
代表例:「トキなどの貴重な種を絶滅から守るためには、人間が人工飼育などで保護しなければならない。」トキを絶滅から守ることで、人間が大きな利益を得るとは考えられない。当事者や社会の心理的満足くらいはあるかもしれないけれども。トキは、ここで絶滅させてはいけない貴重な生物種である。それを守るために、人間が介入するというわけだ。「ゆたかな湿原に上流から土砂が流れ込んで干上がってしまうのを防ぐために、ダムをつくってそれをくいとめる」というのはどうか。ゆたかな湿原の存在それ自体に大きな意味を見いだしているのなら、このケースである。
(4)保存の立場から人間の手による自然への介入あるいは保護に反対するケース
代表例:「何千年もかけて作り上げられてきた原生林は、手つかずのまま保存しなければならない。」なぜなら、それはかけがえのない貴重な遺産だからだ。もし、その原生林の姿が、ふつうの人間の目から見て「醜い」ものであったとしても、守るべきである。その原生林の中で、ある生物が滅びそうになったとしても、それは自然の摂理と受け止めて、人間が手だしするべきではない。「捕鯨は全面禁止するべきである」というのもこの一例かもしれない。いくら捕鯨が漁民の役にたったとしても、クジラのためを思えば、これ以上クジラに手をだすべきではない。
こういうふうに、四つに分けて整理してみると、たいへんすっきりする。
自然保護の論争がおきたときに、おたがいの議論がまったくかみ合わないことがよくあるが、その原因のひとつは、あきらかにこの四つの立場が入り乱れて混乱しているからなのだ。現場での論争の背後には、ここにあげたような四つのケースの対立があるのかもしれない。そこをクリアーにすることができれば、現場での自然保護運動にかかわるときにも、役に立つのではないだろうか。
ここで、これら四つのケースについて、さらに詳しく見ていきたい。
まず(1)の、保全の立場から自然への介入や保護に賛成するケース。これはいちばん分かりやすい。人間が技術の力を駆使して、自然環境に介入し、自然を人間にとってもっとも役立つように維持してゆくという考え方だ。この考え方の基本には、この地上を人類のための大きな庭園にして、きっちりと管理し尽くそうという思想がある。いわゆる地球庭園化の思想だ。これは、最近の地球環境問題の文脈では、人類による惑星管理という考え方にまで発展しはじめている。人間が技術力によって外部の自然にはたらきかけて、自分たちのためにそれをきっちりと利用しようというこの思想は、とてもストレートだ。
次に(2)の、保全の立場から自然への介入や保護に反対するケース。これは見過ごされやすいが、しかし重要なカテゴリーである。要するに、ほんとうに長期的な人間のためを思うのなら、いまここでは自然環境に手をつけないほうが賢明だという考え方である。手をつけないほうがいいというのは、自然の管理すらしない方がいいということだ。へたに管理しようとすると、結局は失敗するのがおちだから、なにもしないのがよい。このように考える点で、(2)は(1)と決定的に異なる。(1)だったら、長期的に人間のことを考えるのなら、正しく管理しなくてはならないとなるはずだ。(2)は、逆に、長期的に人間のことを考えるのなら、管理なんかしないほうがよい、そのままにしておいたほうがよいとする。この意味では、(2)の考え方の基本には、人間が手中にしているテクノロジーに対するどこかあきらめに似た不信感があると言ってもよい。
技術によって世界を自分たちの都合よいように管理しきれるはずはない。管理しきれると思うのは人間の傲慢であって、最初はいいかもしれないが、いつかそのうちしっぺがえしをくらうだろう。そういう歴史観が(2)の背後にはあるのはないだろうか。そのような歴史観が形成される背景としては、やはり二〇世紀のたび重なる世界大戦や紛争のために、われわれの科学技術が大量に開発され、使用されたという厳然たる事実があるのだろう。科学技術は人類を幸福にするはずだったのに、実際は、非常に多くの技術が人間の大量殺戮のために研究開発され、そしてシステマティックに使用されてしまった。工場排水などによる公害もまたその一例である。われわれを豊かにするはずの近代工場が、住民たちを悲惨な健康状態に陥れてしまった。このような歴史を見ているかぎり、人間がいま手中にしているテクノロジーに対する不信感が生まれてきても不思議ではない。
テクノロジーで自然を管理することによって、ほんとうに人間は快適で豊かになるのか。この問いかけは、やはり真正面から受け止めなければならないと思う。対象が複雑系の場合、それを制御するテクノロジーに「完全」ということはあり得ない。いつ未知の事態が起きて、システム全体が崩壊するともかぎらない。まず第一に、複雑系の中心部分にはカオスやゆらぎの現象があって、そのふるまいは原理的に予測不可能だ。そして、自然環境というのは、われわれが知っているもっとも高度な複雑系なのだ。そんなものを、いまの人間の技術力で管理しきれるはずがない。それに加えて、われわれはまだ自然について充分な知識をもっていない。自然現象についても未知な現象は多いし、気候変動についても、研究者によってその予測値は大きく食い違う。自然環境についての知識をまだ充分にもっていないという点について、われわれはもっと謙虚になるべきではないだろうか。さらにいえば、管理技術のなかには、それを管理する人間のファクターが組みこまれている。自然を管理する側の人間たちのふるまいや、その人間たちが生きている社会の動向まで含めて管理しない限り、充分な自然環境の管理はできない。それに、いうまでもないが、現在の地球環境危機は、産業化を押し進めた人間社会のふるまいが原因となって生じたのだから、人間社会がこれからどういう行動をとり続けるのかということそれ自体が、管理の対象にならざるを得ないわけだ。だから、自然環境の管理をするためには、この複雑怪奇な人間社会全体の管理をうまく行なわないといけないことになる。
このように、人間のために自然を管理するということがほんとうに可能なのかどうか、とてもむずかしい問題なのだ。(2)の立場というのは、そういったことを考慮したうえで、ある場面においては、人間のためを思うのならむしろ管理をしないという選択をしたほうがいいのではないかと考えるのである。たとえば、巨大で複雑な原生林を人間のために管理するよりは、むしろそれをそのまま手つかずで残しておいたほうが、長期的には人間のためになるのではないか。そう考える。その意味では、(2)の形をとる保全の立場は、(1)から明確に分離して押さえておくことが必要だと思われる。
ただ、ひとつだけ注釈をしておくと、(2)の立場というのは、<いまのところ人間には管理しきる技術力がないから>管理しないほうがいいのではないかというものだ。ということは、もし将来、人間の技術力が飛躍的に発展して、自然保護のある領域においては、ほぼ完全管理ができるようになったとする。そのあかつきには、(2)の立場をとっていた人々は(1)に鞍替えせざるをえなくなるだろう。(この点において、(2)の考え方は、後に述べる(4)とはまったく異なる)。
この(2)の考え方は、自然保護の場面だけではなくて、現代の科学技術がかかわる他の場面でも出てくることがある。たとえば、医療においては、人間の遺伝子治療の倫理性が問われたときに、この考え方が出された。つまり、人間の生殖細胞の遺伝子治療をやってよいかどうかについては、もちろん生殖細胞を改変することで重い遺伝病を根絶できるかもしれないというメリットはあるのだが、しかしわれわれが現在もっている科学技術の力では、生殖細胞改変によってどのような長期的な影響を人類がこうむるのかがまったく分からない。だから、人類のためを思えば、いまは生殖細胞に手をつけないほうが倫理的なのだという提案が、研究者側から出されてきたのであった。これは、おそらく、今日の科学技術社会が共通してかかえている状況なのだと思う。
「保全」と「保存」再考・その二
では次に、(3)の、保存の立場から自然への介入や保護に賛成するケースについて考えてみる。これもまた一見すると矛盾したことを言っているように思われるかもしれない。というのも、従来「保存」というのは、自然環境それ自体の価値や尊さを守るために、それらに手をつけないこととしてとらえられることが、ふつうだったからである。しかし、自然環境やそこに生きる生物それ自体の価値や尊さを守るということと、それらに手をつけないということは、かならずしも同一ではない。自然環境やそこに生きる生物が大切だからこそ、あえて手をつけてその価値を守るということがあるのだ。先ほど例にあげた、絶滅寸前のトキを人工飼育によって保護することや、上流からの汚れた水を食い止めることで湿原を守ることなどは、たしかにこのケースである。
つまり、これらのケースでは、豊かな自然を守るために人間がなにもしなければ、その自然が損なわれてしまう。だから、その貴重な自然それ自体を、人間への利益抜きで守るために、人間がそこへ介入しなければならないのだ。
このことをもう少し考えてみよう。たとえば国立公園で自然発火の山火事が起きたとする。このときに、原生林を燃やしてしまうかもしれない火事を、人間の手によって消火して食い止めるべきかどうか。これは、いつも意見の分かれるところである。山火事が定期的に起きて植生を変化させることこそが、まさに自然の運行なのだから、それを食い止めようとするのはほんとうに自然のことを思っているのではないという反論がある。それはそうだが、大規模な山火事で、国立公園の原生林が全部消えてしまうようなときでも、それを消火してはいけないのかと問われたらどうすればいいのか。
(3)の立場から言えば、そもそも自然発火の山火事で原生林が全部消滅するほど原生林が少なくなっていることこそが、ほんとうの問題なのだということになる。そこまで原生林を少なくしたのは、ほかならぬ人間の文明活動である。だから、もし人間がここまで原生林を追いつめてこなかったならば、山火事はそのままにしておいてもいいのだが、ここまで追いつめてしまった以上、原生林の存続の脅威になるような山火事は人間の手によって消火しなければならない。
原生林を脅かしているものが工場から排出された酸性雨などのような場合だと、(3)の立場はより説得力をもつ。酸性雨を人間の手によって食い止めなければ、貴重な原生林が失われてしまう。原生林を保存するために、人間の介入がどうしても必要となるのだ。この場合、原生林を脅かそうとしているものは人間が作り上げた工業文明であるし、原生林を守ろうとしているのもまた人間である。つまり、人間は、自分の手を自分で縛ろうとしているのだ。だから(3)とは、自然それ自体の価値を守るために、「自然を改変しようとする自分」を、自分自身の手によって無理矢理押さえつけ、自分の行動を変えようとすることなのである。対処療法的には、こうやって無理矢理押さえつけるということになるのだが、より根本的には、自然を無節操に改変しようとする自分たちの文明を、内側からしずかに解体してゆくことがもとめられるはずである。そのような自己変革作業もまた(3)に含まれるはずである。
テイラーは、『自然への畏敬』(Paul W.Taylor
Respect for Nature Princeton 1986.)のなかで、「回復的正義」について述べている。人間が不当に汚染してしまった環境は、人間の手によって元通りに回復するのが「正義」にかなっている。それは、人間のためというよりも、自然それ自体に対する正義の履行としてである。テイラーのこのような考え方もまた(3)の一例であろう。
(3)にかんしては、「動物園」というものについてひとこと述べておかなければならない。動物園とは、自然のなかで生息している動物たちを、その住環境からむりやり引きはがして都会の人工的な空間に隔離し、人間のための見せ物として一生を終わらせる制度である。動物園での動物たちの行動は、自然環境のなかでの行動とまったく異質であるし、さまざまな病理現象に陥っている動物も多いとされている。この意味で、動物園というのは、まず人間による動物の搾取の典型だと言える。
ところが、動物園を、絶滅しそうな動物たちを飼育して繁殖させ、もとの野生に戻すための救護施設としてとらえようという考え方が出てきている。ちょうど、絶滅しそうなトキを繁殖させる施設のような役割を、動物園が果たせるのではないかということだ。もしほんとうに動物園がそのようなものに変わっていくのなら、たぶんいまのような見学型施設は姿を消すはずだ。人間が見学するということは二の次になり、動物自身が安心して繁殖できるような環境づくりが求められることになるだろう。もしそういうことが成立したと仮定すれば、そのような意味での動物園というのは、動物それ自体を保護するために、人間が積極的に介入するための施設だということになり、(3)のカテゴリーに含まれることになる。これは、隔離型動物園だけではなく、サファリ・パークのような自然開放型施設でも当てはまることだと思う。
さて、(4)の、保存の立場から自然への介入や保護に反対するケースについては、もう多くを述べる必要はないと思われる。要するに、人間は自然それ自体にまったく手をつけないのがいちばんいいのだ。具体的には、原生林などのような特定の地域を指定して、そこに人間がほとんど入れないようにしたりする。自然のなかに、アンタッチャブルな聖域を作ろうとするわけで、(3)よりもラディカルな保存の立場だということになる。
二項対立を解体するために
では、このような環境倫理学の議論は、具体的な自然保護運動にどのような寄与をするのだろうか。まず最初に言えるのは、自然保護をめぐって議論が紛糾したり、意見がまとまらなかったりするときには、ここで述べたような四つの考え方のあいだで対立がおきている可能性があるということだ。混乱した議論から不毛な感情的対立が生じたり、運動が内部対立したりすることを避けるためには、議論の紛糾の根っこが、いったいどのあたりにあるのかを冷静に見極めておく必要がある。底辺にあるのが、人間関係の好き嫌いとか、派閥の問題とかではなくて、ここであげたような、よって立つ思想の違いだということが分かれば、その紛糾の収拾の仕方も異なってくるだろう。ここで取り上げた思想は、実はすべての人のなかに、多かれ少なかれ並存しているものである。どんな人であっても、(1)から(4)のすべての考え方を、自分自身で納得して理解することができるはずだ。この点を押さえておくことはとても大事だ。根本は、みんな一緒なのだ。違うのは、個々のケースにおいて、それらのうちのどこに重点を置いて考えるかというスタンスなのだ。そのスタンスの取り方の違いは、それぞれの人の感受性や、その人自身の歴史性や、パーソナリティなどによってもたらされる。だから、具体的な場面では、対立が解けないことも多い。
学問の問題、とくに哲学の課題としては、この対立をどう考えればいいのかということが巨大問題群を構成することになる。しかしながら、運動にとっては、この対立・矛盾の理論上の解きほぐしというところにこだわっていてはならないのではないか。運動の問題としては、そこに思想上の根本対立が横たわっているということを明確に把握した上で、ではどうすれば行動上の協調が可能になるのかを模索していくべきではないだろうか。
「保全」と「保存」は従来両立しないものと思われてきた。しかし、四つの領域論を使えば、実はそうではないことがわかる。
たとえば、自然保護は人間のためにあると思っている人々のなかにも、(2)のように、あるケースでは人間による介入はないほうがいいとする立場もある。だとすると、これらの人々は、(4)のような「保存」の立場に立つ人々と、運動面では協調できるはずなのである。もちろん、価値観をめぐって対立をはじめると収拾不可能になるが、しかしながら、急ピッチで計画されている開発を食い止めようという運動に賛成するという一点では相乗りできるわけである。運動は、このような協調を成立させることに全力を集中するべきである。
あるいは、ある絶滅種を救うことが、(1)のように人間のためであろうと、(3)のように生物それ自体のためであろうと、運動面では相乗りできる場合がある。そういうときには、相乗りして現実世界を変えていくことを優先するのが運動の強みなのではないだろうか。
運動の現場では、こんな図式では対処できないような複雑な泥沼があるということは私も承知しているが、しかしながら思想の対立をすり抜けて世界を変革してゆく方法論を見出すために、ここで検討したようなことが一助にはなると私は思いたい。
もちろん、学問的反省を離れた運動はいずれパワーを失っていく。学問的反省もまたつねに並行して行なっていかなければならない。ここでのテーマに即していえば、人間のためになるというときの「人間のため」とはいったいどういうことか、それを突き詰めて考えないといけない。いまのところ、「人間のためになる」ということと「自然のためになる」ということを、対立的な概念でとらえているのだが、それはほんとうに正しいのか。「自然のためになる」ことがひいては「人間のためになる」という位相はあるのではないか。
「人間のためにすること」と「自然のためにすること」が、もしその根本において対立してしまえば、それはもはや解消不可能である。私はその対立の根本に、人間の本性レベルに刻みこまれた二つの本性の対立、すなわち「自己利益の本性」と「連なりの本性」の対立を想定する。人間の生命の本性論については、他の連載で詳しく展開したのでそちらを参照してほしいが(『仏教』33−44号、一九九五−九八年)、この二つの本性の対立は、相当根深いものであると私は考えている。
しかし、人間と自然の対立関係の溝の深さばかりに意識を集中させると、人間と自然がお互いに協調しあったり、豊かにはぐくみあったりする側面を見落としがちになる。
「保全」か「保存」かという枠組みで自然保護の問題を考えることは、人間と自然をその根本的な対立関係に焦点を当ててとらえることである。それはそれで、人間と自然の対立の諸相をシャープに把握するために役立つのだから、便利な枠組みではある。しかしながら、その枠組みだけに依存して人間と自然の関係性を考えていくのは、きわめて一面的になる恐れが強い。
たとえば、われわれが身近な自然環境を守るというとき、それは人間のためだけを考慮して計画的に自然を管理することではないし、自然それ自体の価値を最優先してそれを守るのでもない。実際には、身近な自然環境のなかで大人や子どもたちが、水や、小動物や、草花と触れ合ったり、その雰囲気を味わったり、生物群に包まれてその生態系の存在のすばらしさをあじわったりする、そういう人間と自然環境の関わり合いの時空を守ろうとしているのではないだろうか。つまり、身近な自然を守ろうというときに、そこで保護の対象として思念されているのは、人間それ自体でもなく、自然それ自体でもなく、人間と自然がいままでかかわり合ってきてこれからも関わり合っていくだろう時空の「空間性」と「歴史性」なのではないだろうか。そのかかわりあいの「空間性」と「歴史性」のなかには、人間存在も、自然存在もわかちがたく織りこまれている。そこにおいては、人間か、自然か、どちらかだけを特権的に守るということ自体が意味をなさないのだ。
だから、人間と自然のかかわりあいの「空間性」と「歴史性」を守っていくことを中核におくような自然保護運動というのは、成立するはずである。もちろん、この考え方は、人間と自然とは結局は調和しているのだ、大調和のなかにあるのだ、循環と共生なのだという全体主義思想に行きつくわけではない。さきほども確認したように、人間と自然のあいだには、調停不可能な深い溝が横たわっている。人間は自然から生まれたのだが、しかし自然のふところからはもはやすでに超出してしまっている、という意味での裂け目がそこには厳然と存在するのだ。
だが、人間と自然は対立していると同時に、別の面では相互に浸透し会っている。この両面を見なければならない。
人間と自然のかかわりあいの「空間性」と「歴史性」を実感させるものとして、いわゆる「存在のゆたかさ」への気づきがある。すなわち、自然はわれわれの身体の外部に存在すると同時に、我々の身体の内部にもまた存在する。身体の境界を貫通して内側にも外側にも存在し、行き来するものが自然である。われわれが豊かな自然環境のなかでみずからの存在の鎧を解きほぐすとき、われわれはみずからの内側にある自然をも解きほぐし、その様々な声に耳を澄ますことができる。存在の豊かさへの気づきとは、我々を取り囲む自然環境の多様なゆたかさに触発されて、我々自身の内側に秘められている多様な可能性としてのゆたかさを感受し、その存在をよろこぶことである。自然に包まれてある我々自身の生命のゆたかさのただ中に、人間と自然のかかわりあいの「空間性」と「歴史性」がたちあらわれている。これもまた、人間と、人間を包みこむものとが、お互いにみずからを融合させる位相において、開示される世界である。人間にはそのようなかかわりあいの可能性が開かれているのだが、それと同時に、自然環境を単なる道具として搾取するような文明を展開してきたのもまた人間である。この点は見失ってはならない。
このあたりのことを、さらに詰めて考えることが必要だ。そうすることによって、人間と自然の二項対立図式のみによって人間と自然のかかわりあいをとらえることの危険性を回避することができ、もっと多様な人間と自然の関係性が見えてくるだろう。そして、自然保護運動を具体的に支援する力にもなり得るだろう。