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日本倫理学会編『日本倫理学会第50回大会報告集』 1999年10月 52−57頁   
女性学からの問いかけを男性はどう受け止めるべきなのか
森岡正博
 

 女性学が現代倫理学にとってきわめて大きな問いかけをしてきたことはもはや疑問の余地のないことだと思う。女性学からの問いかけは、「男性」=「人間」という等号を疑うことすらなかった、というよりも、そういう等号の存在にすら気づかなかった哲学・倫理学を根底から揺さぶる力をもっていたと言わざるを得ない。(もちろん、女性学からの問いかけの根本性にまったく鈍感であったり、分かったふりをして実は完全に誤解していたり、知りもしないのに感情的に批判したりする学者もいるが、そういう方々のことはとりあえず無視しておこう)。
 私はここで、女性学と倫理学についての総説をするつもりはない。そのかわりに、女性学に(まさに)殴られながら、ジェンダー・コンシャスに思索を続けてきたひとりの生物学的男性として、いま感じていることをいくつか述べ、討議の素材としたいと考えている。女性学について語るときには、まず、語る者が、どのような立場から、何のために、誰に向かって語ろうとしているのかを自覚的に表明しなければならないというのが、ジェンダー・スタディーズの要請する基本であるから、私もまたそこからはじめたいと思う。
 まず私は、生物学的男性として、この社会のなかで「男らしさ」に向かって性的主体形成を果たし、しかしながら、そのような性的主体に対する違和感で悩み続けてきた一個の人間として語ろうとしている。私が語ろうとしている目的は、おそらく、みずからが巻き込まれている「性」と「ジェンダー」と「セクシュアリティ」について、もっと分かりたいからである。そして、その面において、もっとよりよき生を生きたいからである。しかし、性的によりよく生きるとは、どういうことなのか? それを知りたい。倫理学とはそういう学問ではないのか?
 誰に向かって語るのか。私は、女性に向かって、と同時に男性に向かって、そしてこの自分に向かって語ろうとしている。語ることはそれ自体が政治であるが、語りの政治に敏感でありながらも、思索の道筋を政治へと妥協することは最後までしないつもりだ。だから私は、女性学におもねることはしない。私の思索は、女性学によっていったん粉砕させられ、それを経由して大きく成長させられた。女性学のある部分は、すでに私の血肉となっている。しかし私は、女性学を全面的に支持することはおそらくない。
 私は、「男性」を代表しない。いや、むしろ、私は<規範的>「男性」からの逸脱者としての面を多くもっている。私は自分自身の「ジェンダー」が、いまは、分からない。自分自身の「セクシュアリティ」も揺らいでいる。その分からなさ、揺らぎそれ自体を生き切り、そしてそのことを分かりたいと思っている。結論から言えば、私はそういうことを、女性たちから学んだ。「女性学からの問いかけを男性はどう受け取るべきなのか」というタイトルの問いに対する答えを、いま言ってしまった。私は、そういうふうに、受け取った。そして私はそのことを幸せだったと思っている。森岡は、そう受け止めた。では、あなたは、どうするのか? そういう運動がいまここから開始されることこそが、「女から女たちへ」ということばで意味されていたことのひとつではなかったのか。
 いま女性学について語ることは、きわめて困難だ。なぜなら、すでに<たくさんの>女性学・女性運動があるからだ。「どの女性学について語っているのか」ということが、つねに問題となる。女性学の分化と多様化によって、女性学をくくる基準としては「女性が主体となっている」「女性のための学問・運動である」「女性への暴力や差別がない社会を模索する」くらいしかなくなった。それ以上の内容については、女性学のあいだで意見が対立することが多い。売春にせよ、母性にせよ、戦争にせよ、個々のイッシューについては、もはや統一見解というものはない。フェミニストと言われる人々の姿もまた、多様である。彼女たちの発言や振る舞いも多様すぎて、ひとくくりにはできない。だから、「女性学とは・・・・」とか「フェミニストとは・・・・」という語り方は、学問的水準では不可能に近い。
 私の知人のフェミニスト女性が、女性運動の「われわれ女たちは怒っている」式の言説には鳥肌が立つと言っていた。一枚岩の「女たち」は、すでに解体している。そのことをどうとらえるか、というのが、最近の女性学の課題のひとつになっているのが現状である。同じ意味で、「男というものはですねえ・・・・」という言説もまたすでに解体している。渡辺淳一が好みそうな「いわゆる男」というような存在は、実は幻想に過ぎない、ということがようやく社会現象としても露呈しはじめてきた。だから、ジェンダー保守派は危機感を持って、「父性」とか「戦争で死んでいった祖父たち」とか言うのだろう。
 一枚岩の女性も、一枚岩の男性も解体しつつあるという状況のなかで、しかしなおかつ社会のあちこちで男性による女性の搾取や暴力を支える構造が残存し、だがそれと同時に、かならずしも一方向的ではないジェンダー間の支配・搾取が入り組んでいる。そういう流動的な社会において、女は、男は、どうすればいいのか、というところが思索と運動の今日的出発点であるはずだ。
 また結論から言えば、「男はどうすればいいか」と考えるのではなく、「男として性的主体形成してきて、いまこうなっているこの<私>はどうすればいいのか」と考えるべきなのだ。その私が、たとえば「女として性的主体形成してきて、いまこうなっている<あなた>」と、どう対話すればいいのか、というふうに考えるべきなのだ。最終的な主体は、やはり「個」であると私は思う。この点において、「人間」よりも「性・ジェンダー」のほうを根源的だとする女性学の一派とは、意見を異にすることになるだろう。ジェンダー・セクシュアリティを骨身にまでしみこませたこの<私>こそが、思索主体であり行為主体である。そのような様々なしがらみと歴史性の重荷を背負った様々な<私>たちが、お互いの多様性と暴力性を隠蔽することなく、向きあっていくことしかないのではないか。
 この意味で、私は、「女性と男性の対話」というような枠組みを拒否する。(すなわち私自身の発表のタイトルを否定する)。対話するのは、<私>と<あなた>であり、そのほかのものではありえない。その対話をとおして、お互いが自己解体し、いままでの自分を無惨にも突き崩され、そして変容していくというプロセス。そこをくぐり抜けたところにこそ、構造化された暴力と搾取から抜け出せるかもしれない出口がある。それをくぐり抜けたあとではじめて、社会の構造的問題に確信を持って挑めるのではないかと思う。
 私は、七〇年代の日本のウーマン・リブからもっとも強く影響を受けている。というよりも、ウーマン・リブの文献を丹念に読むことと、その時代から継続してリブをやってきている幾人かの方々と出会うことで、私は変容してしまったのである。だから、私が女性運動とか女性学とかフェミニズムと言うときに、まっさきに念頭に置いているのはウーマン・リブをやった人たち、そしてやり続けている人たちのことである。思想的な意味で突出していたのは田中美津である。しかし、彼女のみがウーマン・リブなのではない。『資料・日本ウーマン・リブ史』全3巻を丹念に読むとよくわかるが、田中が生まれてくる同時代的な必然性をこの時期の先鋭的な女性たちは共有していたように見える。私にとってもっとも大切なのは、七〇年代前半の日本のウーマン・リブの闘いである。なぜなら、それは彼女たちがおそらく予想もしなかったような仕方で、この私の血肉になっているからである。しかし、すでに述べたように、私はけっしてフェミニストになったわけではない。私はフェミニストではない。しかしながら、私はウーマン・リブの末裔であると自信をもって宣言するであろう。
 私がウーマン・リブから学んだものこそが、自分自身の人生を、自己肯定しながら、他人を踏みつけにすることなく、「個」として生き切るということである。そのような生を生き切ることから、人々はつながっていけるのだし、生きるあかしを獲得できるのだということだ。そして、ジェンダーの視点が、大きな力(と悪魔)になるということだ。皮肉なことに、私は、学生運動の世代の男たちからは、「個」として立つということをまったく学ばなかった。私が彼らの多くのなかに見たものは、個としての筋を通すことではなく、もっと大きなものの前に変節することか、あるいは自然とか母とかに身をゆだねること、そして酒を飲んだときに暴力的になることである。
 ウーマン・リブの女性たちが、どん底にまで落ちてほんとうの底をついたときに、そこから自己だけをたよりに這い上がり立ち上がるという苦闘をしていたまさにそのとき、権力と闘った男たちはまだ残されていた既得権益と残金にしがみついてみずからの損益をいかに少なく押さえるかということに必死になったいたように私の目には見えた。田中のことばを使えば、女たちがこれ以上転んでも何もないところから出発しようとしたそのときに、男たちは取り乱しを回避してタンスの整理を(女に尻拭いさせながら)必死でやっていたということなのだろう。田中が主張した、「取り乱しのただ中にこそ出会いがある」という思想こそ、ウーマン・リブが生み出し得た思索の宝である。出会いがあるためには、私は「個」でなくてはならない。「個」であるからこそ、出会いが開かれ、逆説的につながっていけるのだ。田中自身は、この意味での出会いを、女が、男とのあいだになしえるということを当時は信じていなかったように見えるが、そのメッセージは「誤配」(岡真理)されて、生物学的男である私にまで届いてしまったのである。
 もちろん、このような私の言い方こそが、典型的な「男による女の搾取である」という批判はあり得るだろう。なぜなら、男はいつもこうやって、女の領分に土足で入ってきて、いいところだけを奪っていく。そして、女を搾取する構造だけはいつまでたっても変わらないのである、というわけだ。私は、そのような解釈は、あり得ると思う。しかし、私が関心を示すのは、具体的にどの女性が、どういう立場から、何のために、誰に向かって、そういう批判をするのかということだ。そして私がそれに応答すべきであるのならば、私は応答しようと思う。
 具体的な課題のひとつとしてあげられるのが、共犯関係の解体である。今日の男女間の問題のかなりの部分が、ここに関連していると私は思う。支配するものとされるものが、共犯関係を組んでいるということが、日常的によく見られる。たとえば、夫婦関係などが、そうなりやすい。しかし、共犯関係を組み上げているときに男性を搾取者だと言って糾弾しても、共犯関係は解体しない。なぜなら、支配されているはずの女性側が、実はいまの楽な暮らしを手放したくないと思っていることがけっこうあるからである。共犯関係は、両側から解体していかなければならない(森岡正博「無痛文明論」(4)『仏教』四七号 一九九九年七月)。共犯関係を解体するために、男と女は、苦しみを分かち合いながら、同じ営みを遂行することができる。ここには、ひとつの希望がある。しかし、その前には、われわれの「欲望」という大きな壁がたちはだかる。ここには、もうジェンダーの差異はない。「楽なほうを選んでしまう」のは、男も女も同じだからだ。
 だから、これからの線引きは、「男と女」のあいだに引かれるのではなくて、「闘う者と闘わない者」とのあいだに引きなおさねばならない。暴力に抵抗し、個として立ち、自己変容をたえず試みる者と、そういうことを後回しにして楽さを追い求める者とのあいだに、大きな断絶が形成されていくであろう。「女の敵は女だ」というふうになるのは男が仕掛けた罠だ、というのが一部のフェミニストの見解であるが、私はそうは思わない。敵は、「男」のなかにもいるし、「女」のなかにもいる。それだけのことだ。そして大きく見たときには、男の闘わなければならない敵と、女の闘わなければならない敵は、異なっている場合がある。そして、最終的には、ひとりひとりの個人が抱えもっている敵というのが、あるわけなのだ。ウーマン・リブは、そこを視野に入れていたと思う。そのうえで、社会を変革していこうとしていたのだ。そして、そういうことを学ぶ私がいる、ということも、かすかなひとつの希望ではあるだろう。
  セクシュアリティに関しては、事態はきわめて混沌としている。というのも、女性学の研究がまだ深化していないということがあるからだ。というよりも、女性学に関心のない女性たちのもっているセクシュアリティを視野に入れるほどのセクシュアリティ研究が女性学から出てきているとは思えない。セクシュアリティに関しては、私はきわめて女性学に対しては不満をもっている。なぜなら、女性学研究者たち自身のセクシュアリティが、日本においては語られることが少ないからである。もちろん、男についても同じで、多くの男もまた「猥談」以外の文脈でみずからのセクシュアリティを語るということをしてきていない。
 キャサリン・マッキノンが京都の研究会で発表したときに、日本のレディースコミックを女性たちが買ってポルノとして使っているのをどう思うかと質問したところ、マッキノンは、「女性向けのポルノというのは、実は男が男向けに作っているのであり、その読者の九九%は男である」と答えて、会場にいた者を唖然とさせた。ご存じの方はご存じだと思うが、SM的な描写のとても多いレディースコミックは、その書き手のほとんどはかつて少女マンガを書いていた女性であり、コンビニ等で購入して支えているのも女性が多い。レディースコミックの分析としては、ようやく藤本由香里の『快楽電流』が出たが、まだまだ検討の余地が残されている。
 それと同時に、実は、男性のセクシュアリティもまだ暗黒大陸のままである。フェミニストたちが想定している男性のセクシュアリティというのも、その出典に疑義がある。女性学は男性のセクシュアリティについて述べるときに、その情報をどこから得ているのか。男性自身が、男性についてのセクシュアリティを隠蔽してきているわけだから、それを女性が知るのはとても困難なはずである。男性たちは、セクシュアリティの問題を「猥談」として饒舌に語るということでもって、巧妙にみずからの前から隠蔽してきたと私は考えている。
 セクシュアリティについては、従って、男性も女性もまずは自分自身のことについて正面からもっと掘り下げなければならないであろう。そしてそのときには、「男たち」とか「女たち」というくくり方がまったく通用しない世界に突入するのだということを自覚しつつ、である。自分自身のセクシュアリティについてあるところまで掘り下げていくと、その人は大きく揺らいでしまうのではないだろうか。少なくとも、私はそうだった。しかし、そこから逃げないで踏ん張ることで、突破口が開けてくると思う。これは、男性も女性も同様に当てはまることではないだろうか。
 あとは、生命倫理や慰安婦問題などから浮き彫りにされてきたジェンダー・セクシュアリティの問題がある。これについては、討議のときに話題にすることにしたい。セクシュアリティの問題は、いままでの倫理学がもっともあつかいずらかったテーマであると思われる。しかしだからこそ、突破口となり得る。そういう点を深めていきたい。

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