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作成:森岡正博 
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論文

 

『現代生命哲学研究』第1号 (2012年3月):1-10
ペルソナと和辻哲郎

生者と死者が交わるところ
森岡正博

 

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第1章 和辻哲郎のペルソナ論

本論文は、私が2010年に刊行した論文「パーソンとペルソナ:パーソン論再考(1)」への補遺として書かれるものである。正確を期したい読者は上記論文に目を通していただけると幸いである。

「ペルソナ」とは、生命倫理学で提唱された「パーソン」に対置される概念であり、私が上記論文で提唱したものである。脳死状態になった患者の家族が、その患者の身体と、言葉にならない対話をすることができるという報告を行なうことがある。自己意識も理性も持たないと考えられる脳死状態の患者と対話ができるとは、いったいどういうことか。それを単なる家族の心情的幻想として切り捨てるのでなく、実際にそこで家族がなにものかと対話しているとみなしたときに、その対話の相手方として想定されるものが「ペルソナ」なのである。実際に、それら家族は、自分たちが言葉を使わずに対話しているときに、その対話の先にある何ものかを、ありありとした実感でとらえている。

これらのことを検討したうえで、私は、「ペルソナとは、他人の身体のうえにあらわれたところの、言語を用いない対話をすることのできる何ものかのことである」と定義した(2)。そして、ペルソナの立ち現われる身体をもった人間と、そのペルソナを感じ取る人間のあいだに、長い時間をかけて培われた歴史性があり、その関係の歴史性が「ペルソナ」を生み出しているのだと私は考えた。

ところで、「ペルソナ」の概念を独自の視点から展開したのは私が最初ではない。すでに1935年に、和辻哲郎は「面とペルソナ(3)」という小論を世に問うている。現時点から再読してみると、そこには思いもかけない独創性が見られるのである。上記論文を刊行した時点では、私は和辻の論考を読んでいなかった。今回、それをていねいに読むことができたので、その成果を読者と分かち合いたいと思う。

和辻はまず、人物における「顔」の独自性を指摘する。彫刻を例に取ってみると、胴体から切り離された顔の彫像があったとしてもそれは「人の表現」として成り立つのだが、首から下の胴体だけの彫像はもはや「人の表現」とは言えず、そこには肉体美のような美しい自然の表現があるのみである。

このような顔の特異性をさらにいっそう突き詰めたのが「面」であると和辻は言う。古くはギリシアの仮面があり、日本にも様々な面がある。これらの面を棚に並べて、彫刻を見るのと同じように眺めたのでは、そのすばらしさは分からない。そのすばらしさが際だつのは、生きて動く人がそれを顔に付けて、一定の動作をするときである。和辻は言う。「彫刻が本来静止するものであるに対して、面は本来動くものである」と(4)。つまり役者が面を付けて実際に動くときに、面はその機能をもっとも良く発揮するのである。

和辻は、日本の能面に注目する。ここからが和辻の分析の山場である。まず能面の表情からは筋肉の生動が注意深く洗い去られており、それは「急死した人の顔面」によく似ている。尉や姥の面は「強く死相を思わせるもの」である。ところが、この能面が舞台で動くとき、それは実に豊富な表情を示し始める。和辻は言う。「面をつけた役者が手足の動作によって何事かを表現すれば、そこに表現せられたことはすでに面の表情となっている。たとえば手が涙を拭うように動けば、面はすでに泣いているのである」。(5)

ここにおいて、役者と面の立場の逆転が起きる。「実際には役者が面をつけて動いているのではあるが、しかしその効果から言えば面が肢体を獲得したのである」。舞台上での主役は面なのであり、面が役者の肢体を従えるようになるのである。

と同時に、その面は「肢体に支配される」。というのも肢体の動きひとつで、面はまったく異なった表情を見せてしまうからである。役者の肢体が女らしい身体のうねりをすれば、面の表情もなまめかしいものとなる。「肢体の動きはすべてその面の動きとして理解され、肢体による表現が面の表情となるからである」(6)。面は肢体の動きによってその表情を支配される。

いったん面が動きはじめるとき、「面は肢体を獲得する」と同時に「面は肢体によって支配される」という二重性が出現する。そのような二重性を指摘したうえで、和辻は言う。「顔面は人の存在にとって核心的な意義を持つものである。それは単に肉体の一部分であるのではなく、肉体を己に従える主体的なるものの座、すなわち人格の座にほかならない」。そして和辻は、この人格の座のことをペルソナpersonaと呼ぶのである。(7)

第2章 和辻哲郎のペルソナと脳死

このように、和辻は日本の能面を例にとって、「ペルソナ」の概念に独自の意味づけをおこなった。論旨はいささか込み入っているが、それを私の視点から要約しておくと、以下のようになる。

(1)能面は急死した人の顔面に似ている。

(2)役者の肢体の動きによって、死せる能面に生気が吹き込まれる。能面は肢体の動きによって支配される。

(3)生気が吹き込まれた能面は「ペルソナ」となり、舞台上の人格の座となって肢体をふたたび獲得する。

和辻はこのようなことを述べているが、しかし和辻は次のことをあえて語らずに読者の想像にまかせている。それはすなわち、ペルソナとは身体の動きによって無から生成されてくる存在者であるのか、それともペルソナの顔面の背後には自己意識を備えた人格が存在していて、それによってペルソナが形作られるのか、という点である。もし前者であるとするならば、生きた人間でなくても、たとえロボットであっても人形であっても、それはペルソナを持ち得ることになる。和辻の論考から放たれるメッセージを素直に受け取れば、この前者の結論が導かれるはずである。ところが、もし後者であるとするならば、ペルソナを持ち得るのはやはり自己意識を持った人間のみであることになる。役者によって動かされた能面といえども、そこに現われているのはペルソナそのものではなく、ペルソナに似た何ものかであるということになるだろう。

和辻の文章は、あえてこの両者の解釈を許すものとして書かれている。文章をていねいに読めば、和辻は「能面」と人間の「顔面」を区別して用いており、人格の座であるペルソナは人間の「顔面」に現われると書いてある。しかしながら論考全体としての強調点は、能面にいかにして人格の座が立ち現われるかというところにあるのは明白であり、和辻が真に意図していたのは、人格の座としてのペルソナは自己意識を持った人間にのみ現われるものではない、ということだとも解釈できるのである。この二重性こそ、和辻の狙ったものではないか。

ところで、ペルソナは、自己意識を持った人間のみに現われるものではないということこそ、拙論「パーソンとペルソナ」で私が強調したことであった。すなわち、脳死状態になった患者に対して、家族がペルソナを感受することがあり、それを単なる家族の幻想として切り捨ててはならないというのが、私の主張したことだったのである。脳死におけるペルソナ論と、能面におけるペルソナ論は、ここで結びつくのである。

上で三点にまとめた和辻のペルソナ論は、実際に、脳死におけるペルソナの現われをうまく説明するように思われる。

まず(1)については、脳死の人の顔はすやすやと眠っている人の顔に近い。冷たくなった死体の顔とは別物なので、和辻の言う能面の表情とは異なるが、しかし意識があって会話しているときのような表情や筋肉の動きを脳死の人の顔がすることはない。言葉によるコミュニケーションを行なうのは不可能である。

次に(2)であるが、ここに見られるダイナミズムこそが、ペルソナの核心部分であると言える。能面の場合、役者の肢体の動きによって、死せる能面に生気が吹き込まれる。これによって、能面はペルソナとして立ち上がり、私たちの前にその姿を現わす。そのペルソナの立ち現われを起動しているものが、役者による肢体の動きである。では、家族の前に、脳死の患者の身体がペルソナとして立ち現われるとき、いったいどのようなダイナミズムがはたらいているのだろうか。上記拙論で詳述したように、脳死の人の身体に現われるペルソナは、脳死の人とその家族とのあいだに長い時間をかけて培われた「関係の歴史性」を基盤として、立ち現われてくる(7)。

だとすれば、ここにひとつの対応関係があることが分かる。すなわち、能面の場合に「肢体の動き」によって担われていたものが、脳死の場合では「関係の歴史性」によって担われているということである。能面の場合、肢体の動きによって、死せる能面に生気が吹き込まれるのだが、それと同じように、脳死の場合は、脳死の人と家族とのあいだに培われた「関係の歴史性」によって、眠れる脳死の人の身体にペルソナの生気が吹き込まれるのである。

もちろん、脳死の人はまだ身体が温かいし、手足もよく動かすことがあるし、家族の問いかけに血圧の上昇で反応したかのように見えることもある。そのような状況が家族の心を動かして、脳死の人の身体にまだその人の人格の座が残存していると思わせることがあるかもしれない(9)。しかしながら、脳死の人の身体へのペルソナの立ち現われを、そのような現象だけによって説明するのは不可能である。なぜなら、家族たちは、脳死の人に触れてないときや、その身体がまったく動かないときであっても、その身体にペルソナを感受することがあるからである。以上を考え合わせれば、脳死の人の身体が温かく、手足を動かすことがあり、眠っているようにしか見えないということと、脳死の人と家族のあいだに「関係の歴史性」が培われているということの二つが一緒になって、脳死の人の身体にペルソナを立ち上げていると言ってよいように私は思う。(10)

そして(3)であるが、生気の吹き込まれた能面が「ペルソナ」となり、舞台上の人格の座となって肢体をふたたび獲得するという状況と同じものが、集中治療室においても見られることがある。それは、脳死患者と家族のあいだに培われた関係の歴史性によって生気を吹き込まれた脳死患者の身体に「ペルソナ」が立ち現われ、それが脳死患者と家族とのあいだの関係性を司る主体となるときである。たとえば、家族が脳死患者の身体にペルソナをありありと感受するとき、家族は脳死患者の身体を、ちょうどペルソナが受肉したものであるかのように理解するであろう。そして、家族が話しかけたときに脳死患者の血圧が上昇すれば、それは単に脳死状態の身体の反応という意味を超えて、その身体を司っている主体としてのペルソナの悲嘆や感情的高揚や歓喜などとして家族に理解されるのである。家族の呼びかけに対して目の前の身体が応えたのではない。家族の呼びかけに対して、目の前の身体にありありと現われたペルソナが応えたのである。身体は生理的に反応することしかできないが、ペルソナは呼びかけに対して全人的に応答することができる。その全人性こそ、ペルソナが家族に開く次元である。

脳死患者の身体に手を当てて必死で名前を呼ぶ家族が対面しているのは、脳死患者の身体ではなく、その身体のうえにあらわれた脳死患者のペルソナである。家族はペルソナに向かって声をかけ、涙を流し、お願いだから帰ってきてほしいと祈るのである。ペルソナが立ち現われて以降、関係性を制圧しているのはペルソナの側であり、家族はそのペルソナの表情の変化によって右へ左へと揺り動かされる。上記拙論でも指摘したような「迫力」をペルソナは備えているのである。ここにあるのは、動きを奪われ、声も出せず、言葉も発せないという状況に置かれたがゆえに、逆に非常に強い迫力を持って立ち上がり、まわりの者を付き従え、まさに無言の神として関係性を制圧するペルソナの姿である。しかしここにまで高められたペルソナには、また異なった名称が与えられるべきであろう(11)。

このように和辻のペルソナ論は、現代の脳死の場面におけるペルソナの立ち現われについても見事に適用できる。それだけではなく、能面の場合と比較することによって、脳死の場合のペルソナの立ち上がりのダイナミズムについて、より詳しい検討を行なうことができるのである。私の提唱した脳死のペルソナ論が和辻によって補強されるというのは、非常に心強いものがある。

第3章 生者と死者が交わるところ

以上の考察に加えて、さらに第4の点を指摘しておきたい。それは、能と脳死には根本的な共通点があるということだ。すなわち、能と脳死は、ともに生者と死者が交わる場所で繰り広げられる物語(12)であり、そしてまさにその交わりの場所において「ペルソナ」が立ち現われるのである。

能は世阿弥によって完成させられた。そのひとつの形に夢幻能がある。夢幻能は、舞台の上で生者と死者が出会うところから始まる。ある場所を通りかかった生者の前に、その場所にゆかりのある死者が立ち現われる。死者は生への思いや、この世への未練や、過ぎ去った日々への悔恨を生者の前で語り、そのクライマックスでみずから舞いを踊り、そして舞台裏へと静かに退場していく。夢幻能とは、死んだ者が到来してきて、生者と交わり、去っていく物語である。そして舞台のうえでの主役は、シテによって演じられる死者である。

和辻は、死せる能面に生気が吹き込まれて、そこに人格の座が現われると言った。それはまさに夢幻能の舞台で起きている物語そのものに対応している。死んだはずの者がいまここにありありと立ち現われて生者と交わる、という物語を演じるためには、死せる能面を動かしてそこに生気を吹き込ませるという仮面演劇の手法が最適だったのである。

では脳死のペルソナの場合はどうだろうか。ここに見られるのは、集中治療室という場所において、死にゆく者のうえにペルソナが立ち現われ、ベッドサイドの家族と言葉を用いない交わりを行ない、そして少しずつ彼方へと消え去っていくという物語である。死へ向かう者と、家族という生者のあいだで、ペルソナが立ち上がり、言葉を用いない会話が家族とペルソナのあいだで行なわれる。まさに生者と死者の交わるところでペルソナは立ち現われるのである。能と同じ構造がここにおいても見出される。

生者と死者の交わりとは、死にゆく者あるいは死んでしまった者と、これからも生き続ける者とのあいだにおいて起きる交わりのことである。ここで三つのことを付記しておきたい。

第一に、ペルソナは、生者と死者のあいだでのみ立ち現われるものではないということだ。上記拙論でも書いたが、生きて活動している者もまたペルソナを持っている(13)。そのことをはっきりさせるために、眠っている子どもに「おやすみ」と声をかけるときのことを考えてみよう。このとき、私はその子の自己意識に向かって声をかけているわけではない。そうではなくて、眠っているその子の身体のうえに立ち現われたペルソナとしか言いようのないもの、無条件に配慮のまなざしを注がざるをえないものに向かって、「おやすみ」の声をかけているのである。私は同じような声かけを、机の上のペットボトルに対しては行なわない(14)。ペットボトルにはペルソナが現われてないからである。そしてその子が、予期に反して、目を開けて「おやすみなさい」と言ったとき、私はその子が自己意識を持ったパーソンとしてもまた存在していることを知るのである。このとき、その子は、ペルソナとして存在していると同時にパーソンとしても存在していることになる。すなわち、このことから分かるように、日常生活において私が誰かと会話しているとき、私はその人に、ペルソナとパーソンの両方の次元を感受していると言えるのである。したがって、ペルソナは生きて活動している人間もまた持っているものであると言える(15)。

ところである人間が脳死状態になってベッドに横たわっているとき、そこにはパーソンの次元は存在しない。しかしながら、家族や親しい人間にとっては、その存在がさらに底辺に持っていたもうひとつの次元、すなわちペルソナの次元が脳死の人の身体にありありと残されており、家族はその身体にペルソナの立ち現われを感じ取るのである。ちょうど、太陽の燦々とした光が夜になって天空から取り払われたあと、それまで背景に隠れていて認知不可能だった無数の星たちが一面に輝きはじめるように、ペルソナは私の前にありありと現われるのである。そして夜になってはじめて我々が星座の網目模様をくっきりと捉えることができるように、パーソンが消失してはじめて私はペルソナの質感や迫力をくっきりと捉えることができるようになるのである。ペルソナ論が脳死の登場によってふたたび新たな地平へと展開されようとしている理由はここにある。

第二に、「ペルソナ」と「関係性」はどう違うのかという点である。脳死を例に取れば、(1)「ペルソナ」は脳死の人と家族とのあいだに成立している関係性それ自体のことなのか、それとも(2)「ペルソナ」は脳死の人と家族とのあいだの関係性のただ中に存在する何ものかであるということなのか、それとも(3)「ペルソナ」は脳死の人と家族とのあいだの関係性(正確には関係の歴史性)によって生み出されて脳死の人の身体のうえに存在する何ものかであるということなのか。これまでの考察からすれば、(3)の記述がもっとも正確であると私には思われる。

たとえば紅茶を飲むときのことを考えてみよう。私が紅茶に口をつけたときに感じる紅茶の味は、私と紅茶のあいだの関係性の味ではない。そうではなくて、私と紅茶のあいだの関係性によって成立したところの、紅茶の味である。しかし、たとえば、そのときに良い音楽が流れていたので紅茶がおいしく感じられたということがあったとする。ということは、音楽をも含めた全体の関係性の味わいが紅茶の味であると言えそうにも思われる。しかしながらそれは不正確な描写である。舌によって味わわれるのはやはり紅茶の味でしかあり得ないはずだからである。したがって、紅茶の味とは、正確には、音楽や部屋の雰囲気などをも含めたすべての関係性によって作り上げられた私と紅茶の関係性によって成立したところの、紅茶の味であるということになるはずだ。そしてその紅茶の味は、私と紅茶のあいだの関係性のただ中に存在するのではなく、紅茶が口に触れる場所に存在すると言うべきである。もちろん私が紅茶を飲んでいるときに、外部から脳操作をしてその味をソースに変えてしまうことはできるだろう。しかし脳操作によって味が変わるから、味は脳内にあると言うことはできない。私にとってソースの味はまさに紅茶が口に触れる場所で感じるのであり、その場所こそが味の存在する真の地点である(16)。

これを「ペルソナ」に適用すれば、「ペルソナ」は関係性そのものを指すのではなく、関係性のただ中に存在するわけでもなく、関係性(関係の歴史性)によって作り上げられて私の目の前に現われたところの脳死の人の身体のうえに存在するということになるはずである。ただし、脳死の人の身体のうえに存在していた「ペルソナ」が、脳死の人が心臓死して焼かれてしまったあとに、故人の遺品や、故人の部屋や、生活圏の全体にまで広がって存在し続けるということはあり得る。身近な人の突然の死によって、その人の生が奪われてしまったとき、その人の生活圏やその人の住んでいた自然環境などのあちこちに、あるいはその全体に、その人の「ペルソナ」が広がってありありと存在していると感じてしまうことはあり得る。それはけっして幻想ではなく、実際に、そこにその人の「ペルソナ」が存在しているのだと私たちは言うべきである。

その「ペルソナ」はそれを感受する人の脳内にあるのでもなく、関係性や記憶の中にあるのでもなく、まさにその人の外側の世界に存在するのであると言うべきである。それは、そのようなものとしてそこに存在するとしか思えないというリアリティとして、そこに存在する。それは公共的に観察可能な実体として存在するのではなく、それを感受する者にとっての動かしがたいリアリティとして世界の中に存在するのである。そのような存在者を、それを感受する者の脳内にあると解釈させようとするところに、現代科学的な知の欺瞞がある。これは他我問題に接続する大テーマである。詳細な検討は他の論文に譲りたい。

第三に、いま述べたような状況において、「ペルソナ」と「死者」はどう違うのだろうか。まず「死者」と「死体」を区別しておかなくてはならない。棺桶に入っている見知らぬ人の身体は「死体」であって「死者」ではない。「死体」とは、そのうえに「ペルソナ」のまったく宿っていない身体のことである。ここから、「死者」のひとつの意味が明らかになる。それは、もう生きてはいないけれども、「ペルソナ」の宿っているような人間の身体のことである。脳死の人の家族が、脳死の身体はもう生きていないと考えていたとしても、そこに「ペルソナ」を感受していたとすれば、その脳死の身体は家族にとって「死体」ではなく、「死者」であるということになるだろう。「ペルソナ」は、「死体」を「死者」へと引き上げるはたらきをする何ものかである(17)。

では、さきほど述べたようなケース、すなわち、身体がこの世に存在しなくなったあと、この世のあちこちにその人の「ペルソナ」が広がって存在していることを感じる場合はどうだろうか。それが死んでしまった人の「ペルソナ」であるという意味においては、その「ペルソナ」のことを「死者」と呼んでもいいように思われる。日常語としては、それで充分に意味が通じる(18)。ただしその場合には、「死者」という言葉の意味が、かなり限定されているという点に注意しなくてはならない。

「死者」という言葉には、死んだけれどもまだ自己意識や精神を持ってこの世をうろついている魂のような実体という意味も含まれている。あるいはまた死んだあとあの世に行ってそこで存在し続けている実体という意味も含まれている。しかしながら、「ペルソナ」としての「死者」には、そのような意味は含まれていない。「ペルソナ」としての「死者」とは、自己意識を持っておらず、実体として存在しないにもかかわらず、そこにその人が存在しているという確かなリアリティをもって私に迫ってくるような何ものかなのである。古来より「幽霊」と呼ばれてきたもののうちのある種のものが、この「ペルソナ」としての「死者」に近いように思われる。すなわち、そこに存在しており、私に知覚されるが、私に対して客観的に因果関係のある影響を与えることのないような幽霊である。

もしその幽霊がそれとは異なって、実際に床を濡らしたり、私に対して客観的に因果関係のある影響を与えたりすることがあれば、それは「ペルソナ」とはまったく異なったものであると言わざるを得ない。

おわりに

以上、和辻哲郎のペルソナ論と、私によって提唱された脳死のペルソナ論を比較対照することによって、ペルソナ論に新たな展望を開くことができたように思われる。残された問題はたくさんある。ペルソナ概念の歴史の中にどう位置づければいいかという問題、哲学的な死者論へと結びつけていくべき問題、哲学的他我問題へと発展させていくという課題などがそれである。それらについては引き続き探究していくこととしたい。

 

文献一覧

大森荘蔵(1982) 『新視覚新論』東京大学出版会。

森岡正博(2001) 『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』勁草書房。

森岡正博(2010) 「パーソンとペルソナ―パーソン論再考」『人間科学:大阪府立大学紀要』5号、pp.91-121。

森岡正博(2012) 『生者と死者をつなぐ―鎮魂と再生のための哲学』春秋社。

和辻哲郎(1935) 「面とペルソナ」『和辻哲郎全集』第17巻、岩波書店、1963年、pp.289-295。

 

(1) 森岡(2010)。インターネットから全文をダウンロードできる。

(2) 森岡(2012)、111頁。

(3) 和辻(1935)。

(4) 和辻(1935)、291頁。傍点は原著。

(5) 和辻(1935)、292頁。

(6) 和辻(1935)、293頁。

(7) 和辻(1935)、293頁。

(8) 森岡(2010)、111頁。

(9) そしてこのダイナミズムを起動させているものとして、森岡(2001)で述べた「間身体性」(メルロ=ポンティ)の存在を指摘することができるだろう。

(10) ここで考えておくべきは、心臓死後の冷たくなった身体にペルソナが立ち現われることがあるのかという点である。本文で述べた二つのうち、身体の暖かさや動きはなくなるので、それははたらかない。しかし「関係の歴史性」ははたらくから、それによって、冷たい身体にペルソナが立ち現われることはあり得る。棺桶に入った遺体を単なる物体と感じない家族は多いであろう。まだそこになにものかが残存しているという実感を持つこともあるだろう。また、カルト宗教で、遺体をミイラ化するまで手元に置いておくことがある。この場合も、冷たい身体に生き生きとしたペルソナを感受しているのかもしれない。また「死体」と「遺体」の区別にも、ペルソナへの感受性が反映している可能性がある。これらの点についても、今後検討していきたい。

(11) それをなんと呼べばいいか、いまの私には分からない。

(12) 能も脳死も「物語」であると考えることができる。脳死が物語であるというのは奇妙に聞こえるかもしれないが、脳死の人をめぐる人々のかかわりのプロセスはまさに物語と呼ぶにふさわしいものである。

(13) 森岡(2010)、113頁。

(14) もちろん、それが私にとって特別のペットボトルである場合は、それがペルソナとして現われることはあり得る。これを敷衍すれば、ロボットや人形にもペルソナが現われ得ることになる。無生物にペルソナが現われることについては、さらに考察が必要である。

(15) では、生きて活動しているのにペルソナではないような人間はいるのか、という疑問が起きるだろう。これについても、森岡(2010)、114頁で簡単に触れたが、たとえば戦場における敵兵などは、パーソンではあっても、ペルソナではないということになるだろう。

(16) これは大森荘蔵が『新視覚新論』などで説得的に議論している論点である。大森(1982)参照。

(17) しかしこれは、「ペルソナ」が「死者」と同一ということではない。さきほど述べたように、生者もまた多くの場合「ペルソナ」を持っているからである。

(18) 私は拙著『生者と死者をつなぐ』において、このような意味で「死者」という言葉を使った。厳密にはここで述べたような議論をしたうえで使用すべきである。森岡(2012)参照。