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『創文』294号 1988年11月 14−18頁
デレク・パーフィットと死の予感
森岡正博



(中編作品集・第5章:40〜43頁)にて、縦書きで読みやすい画面閲覧用PDFファイルと、全集版の頁数付き印刷用PDFを入手することができます。

 

 人が哲学的な思索を展開する動機は何であろうか。人は何につき動かされて、高度に抽象的な、時には無味乾燥な思索にふけるのか。
 一九八四年に出版されたデレク・パーフィットの『理性と人格』  (Derek Perfit, Reasons and Persons, 1984, Oxford Univ. Pr.) は、発表直後から話題を呼び、分析哲学・倫理学・社会哲学・法哲学の分野で大きな論争を呼び起こしている。その膨大な分量と、きわめて英米哲学的な臭みのある論述のゆえに、邦訳は当分実現しないだろうし、またことさら日本語に直す必要性も感じない。
 しかし、この書物の第三部は、日本に住んでいる少数の思索者たちに大きな刺激と憤りを与えることは確実である。憤りの原因は、一見緻密な論述の背後に隠された、論理の詰めの甘さに由来する。読者の知的水準を過小評価しているのではないかと思わせる箇所もある。だが、それよりも、本書が与えてくれる刺激の方が貴重である。
 『理性と人格』第三部「人格の同一性」は、それだけで優に一冊の書物に匹敵する分量を持つ、比較的独立したパートである。そこでは、瞬時遠隔移動装置による人間の「電送」や、脳分割・融合など、SFの古典とも言える思考実験を駆使して、人格の同一性の問題が執拗に論じられている。
 人格の同一性の問題は、イギリス哲学の流れをくむ分析哲学の、基本テーマの一つと言える。昨日眠りについた私と今朝起きた私とは、果して同一の人格なのか。何がその同一性を保証するのか。
 パーフィットはこの問題に、還元主義による解決を与え、人格の同一性を重要視する立場そのものに疑問を呈し、人格の別個独立性に基礎をおく社会哲学に対抗して、功利主義の復権をはかった。本書第三部を祖述するとこうなる。そしてこれが、パーフィットの正しい読み方なのだろう。しかしそれだけでは、第三部を貫いているもう一つの基本モチーフが、まったくあらわれてこない。パーフィットの論述は、もう一つの基底から、眺め取ることもできるのである。
 パーフィットは、人格の同一性についての考え方を、エゴ(魂)のような持続的な実体の同一性として考える立場と、それを心的あるいは肉体的なものの連続性に還元して考える立場とに大きく分類する。彼自身は前者を否定し、後者(還元主義)をとる。「還元主義が否定するのは、経験の主体が、脳や身体それに一連の肉体的心的な出来事から分離した、離れて存在する実体である、という考え方である。」(223)
 パーフィットは人格の同一性を、心的なものの連続性に還元して説明する。たとえば、今朝の私と昨日の私とが人格的に同一であるのは、今朝の私と昨日の私との間に、ある最低限の心的なもの(記憶など)の連続性があるからだと言える。すなわち、大雑把に言えば、人格の同一性があるとは、(1)少なくともある種の推移律の満たされる心的な連続性(R関係)が成立し、(2)かつての私とR関係にある他の人格が存在しないことである。
 次のような状況を想定したとき、自己同一性の議論は、一般にアポリアに遭遇する。たとえば私の脳細胞(身体の細胞)を一つずつ他者の脳細胞と入れ替えてゆく。このとき、私の心的なものと肉体的なものは徐々に私ではないものへと変化してゆくことになる。入れ替えが完了したとき、私は以前の彼と同じ人間になっているはずなので、私の人格の同一性は、この作業のどこかで成立しなくなったはずである。では、いったいいつ人格の同一性は壊れたのか。(236f.)
 パーフィットはこのアポリアに対して、この問いは実は「空虚なempty 」問いであるという仕方で解決を与える。空虚な問いとは、真でも偽でもない答えしか導けない問いのことである。この作業のいったいどの時点で自己同一性が壊れたのかという問いは、この意味で空虚な問いである。空虚な問いに、答えを出そうとして奮闘するのはばかげている。
 それだけではない。パーフィットによれば、「人格の同一性」という概念はそもそも重要なものではないnot what matters。重要なのは、人格の同一性ではなくて、心的なものの連続性(R関係)の方である。この点で、人格の同一性というものにこだわる哲学は戦略を間違えている。なぜかというと、(ここからは筆者の読み込みになるが)、人格の同一性にこだわることは、人格の持続ということにこだわることになり、ひいてはその必然的否定である人格の「死」、あるいは「私の死」にこだわることになるからである。人格の同一性を問題として取り上げ、それに直面することは、同時に人格の同一性の終焉である「死」の問題に直面することになる。しかし、人格の死あるいは私の死の問題は、本当にそのような形で、すなわち「それはどの瞬間に訪れるのか」という形で直面すべき問いなのであろうか。
 パーフィットは言う。私はやがて死ぬのだろうか、という問いには、イエスかノーの答えがあるものと我々の多くは信じている。しかしこれは「空虚な問い」であるのかもしれない。そしてこの点についての信念の変更がなされれば、それは「老いや死に対する我々の態度」にも影響を及ぼすことになるだろう。(214-215)
 パーフィットの論述を背後から支えているものは「死の予感」である。
 私の死とは、私の人格の同一性がいつ切れるかという問題でもある。人格の同一性の問題を重要ではない問題として退けることによって、人格の同一性の終焉、すなわち私の死の問題をもまた退けることができる。それは、目をそむけるという形での消極的な退け方ではない。そうではなくて、問題自身を無化するという形で、もっと積極的、肯定的に、退けるのである。
 しかし、それを本当に積極的に退けるためには、単に頭だけで退けても駄目で、どうしても生きてゆく上での信念としてそれを退けなくてはならない。この意味で、自己同一性を、そしてその終焉をどう考えるかは、知識ではなく、信念の問題なのだ。
 彼は脳分割という議論を試みる。私の脳の全細胞が二つに分裂して、私の脳は二つに分割されるとする。このとき、私はいったい分割された二個の脳のどちら側として存在しているのだろう。言い換えれば、この脳分割の前後において、私の人格の同一性はどうなっているのか。このような状況における人格の同一性の問いは、「空虚な問い」である。私は片方の脳として存続すると答えても、両方の脳として存続すると答えても、あるいはまた私は分割の瞬間に死ぬと答えても、それらはすべて真でも偽でもない答えに過ぎない。(245-260)
 脳分割の思考実験において重要なのは、「人格の同一性」について問うことではない。重要なのは、「心的なものの連続性」について問うことである。脳分割の後に、以前の私と心的に連続な二つの人間が誕生する。これが重要な点である。私と人格的に同一であるかどうかは不明であるが、少なくとも私と心的に連続な存在者が(思考実験上は)複数存在可能である。
 眠る直前の三〇分間の記憶を消失させる薬を私が飲む。そして眠る直前に、ある重要な発見をする。私がこれを明日も覚えているためには、明日の私に手紙を書かねばならない。これは私が誰か他者とコミュニケーションするのと似ている。(287-288)
 これらの思考実験を積み重ねることで、パーフィットは次のような結論を出す。
 私と他者の間には越えがたい溝があると言われている。しかし、もし人格の同一性が重要ではないのなら、私と他者の断絶は、今の私と将来の私を隔てている断絶と、同じ種類のものであると言える。「私の生と他の人間の生との間にはまだ差異がある。しかし、その差異はより少なくなり、他の人間はより身近になる。私は自分自身の生の残余に対して執着が少なくなり、他者の生についてより関心を抱くようになる。」 (281)
 従って、他者であろうと将来の自分であろうと、今の私と心的に連続している程度に比例して倫理的な配慮をすることが基本的に推奨される。この場合、私の人生の時間軸上における心的な連続性の薄まりと、私と他者の間の心的な連続性の薄まりとの間に、本質的な区別はない。このような立場を取る点で、別個独立な人格の存在に基礎を置くロールズ流の倫理学とたもとを分かつと言われるのである。
 このように、今ここにいる私を中核として、倫理的配慮の地平が時空のへだてなく広がってゆく点で、パーフィットの考え方は、功利主義へと接近してゆくことになる。しかし、彼の考え方は、配分的正義を考慮する点など、必ずしも功利主義を全面的に擁護するわけでもない。ただ、功利主義の相対的な妥当性については、おおむねそれを肯定するのである。
 私は、この功利主義擁護の考え方が、契約説や正義論に対抗する目的で出されたものだとは思わない。むしろパーフィットが「私の死」を空虚な問いとして積極的に退けるための、生の場における支援装置として、それを倫理という形でみずからに課したのではないだろうか。パーフィットは言う。「・・・・私にとって真理は解放的であり、慰めとなる。それは私に私自身の将来と私の死についてより関心を持たせなくさせ、他人に対してより関心を持たせる。私は私の関心のこの拡大を歓迎する。」(347)
 パーフィットにとって、私の死に関心を持たなくなることと、他人の生に関心を持つようになることの、どちらがより重要なのだろうか。私見によると、『理性と人格』第三部に限って言えば、少なくとも動機の上からは前者の方に比重があったのであり、たまたまそれが倫理の方へと流出しているにすぎない。この意味で、『理性と人格』第三部を背後から支えているのは、一貫して「死の予感」であり、『理性と人格』第三部は「死の哲学」の流れに位置する作品であると言ってよいと思う。

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