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『図書新聞』2180号 1994年1月1日
書評:松浦理英子『親指Pの修業時代』河出書房新社
森岡正博
小説家の想像力って、ほんとに常軌を逸しているもんだ。私もむちゃくちゃな想像力にかけては人後に落ちないつもりだが、この人には負ける。
ある日とつぜん、主人公の若い女性は、自分の足の親指が「ペニス」になっていることを発見する。それは刺激すると勃起するし、射精に似たエクスタシーも感じる。こうやって、一美はジェンダーのはざまに立つ存在者となって、流浪の旅に出るのだ。
彼女は、性的な奇形を売り物にする見世物一座に加わる。そこに出演する人々の描写は、はきけを催すくらいすごい。ここではとても書けない。その中で、盲目でバイセクシャルのやさしい青年、そしてシャム双生児のひとりを体内に生きたまま収めている男、そして彼のパートナーである女が、複雑怪奇なセクシャルな人間関係を繰り返してゆく。
中でも、双生児を体内に収める男というのがスゴイ。男の腹のなかには、脳のない弟がいて、その弟のペニスが彼の下半身から突きだしている。そのかわりに、男自身のペニスは自分の体内に没しているのだ。ということは、男の股間で勃起するペニスは、弟のペニスであって、男には何の快感をももたらさない。
彼が女と交わるとき、彼と女とのあいだにはもう一人の性的な存在者がいて、彼自身はその性交を精神のみで観察している格好になる。この保という人物の創造に成功したことで、本書は文学史上にいつまでも記憶されるはずである。
性的な奇形者の世界を異様な想像力で描き切った松浦理英子の創作意図は、きわめて明確である。それは、ペニスをもった男とヴァギナをもった女が生殖器同士を結合させることが普通のセックスであるという、我々の社会の支配パラダイムをいったんくつがえし、そのかわりに、ジェンダー・アイデンティティ崩壊寸前の奇形者同士の多様なセックス関係を何重にも多層的に描きとることによって、逆に我々の「普通」のセクシャルな人間関係に潜んでいるところの多様な「n個の性」の可能性を、示唆することである。
いきなり、こういうふうにまとめると、なんだか「既存のヘテロ・セクシャル・パラダイムを脱構築しよう」みたいな、ラディカル・フェミニズムと誤解されてしまいそうだが、松浦の目指しているものはそれとは違うはずだ。たぶん、この小説は、きわめてというか異常に理知的な「童話」なのだと思う。ある晩、少女と少年は家から誘いだされて、夜の森でこわい体験をいっぱいして、あくる朝家に帰ってくる。そのとき、彼らが再び見る家の風景は、もうきのうの風景とは異なっている。彼らは、前夜の異様な体験によって、「成長」したからである。
松浦のこの小説も、この意味での「成長」を読者とともにたどる、一種の「ビルドゥンクス・ロマン」型の童話なのだ。『親指Pの修業時代』という題名もそれを暗示する。我々は、悪夢のようなストーリーを体験することで、我々自身が日々かかわっているセクシャルな人間関係、ひいては男と女の関係性そのものを、以前は考えてもみなかったような多様な視点のもとで、もういちど再吟味する機会をえることができる。
松浦の意図は、たぶん常識の脱構築それ自体にあるのではない。彼女の意図は、徹底した脱構築の実験をへることによって、より豊かな「視線」と「知性」とをこの世界に振り向けることにあるのだと私は思う。そして、この小説は、その試みに成功している。
松浦の小説を読んでいると、理科の実験室で、様々な制約条件を設定されて黙々と動き回っている生物を、上から子細に観察しているような気分になる。たぶん、これはサイエンティストの視線なのだ。そういう種類の知性をもった作家が日本にもしっかりいることを、私はほんとうにうれしく思う。