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季刊『仏教』no.8 1989年7月 119〜126頁
人称の存在しない世界
「主客未分」再考
森岡正博



(中編作品集・第6章:44〜50頁)にて、縦書きで読みやすい画面閲覧用PDFファイルと、全集版の頁数付き印刷用PDFを入手することができます。



 

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「主客未分」と「自他未分」

 仏教では、主客未分の世界という概念がよく使われます。それは、世界を認識する「主観」と主観によって認識される「客観」がいまだ成立していないような状態、あるいは主観と客観の区別が崩壊してしまったような状態を指すようです。
 たとえば、仏教の影響を強く受けた哲学者、西田幾多郎は『善の研究』のなかで次のように述べます。「それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象が全く合一している」(岩波文庫版、一三頁)。つまり、普通の経験とは異なる「純粋経験」の世界では、主観も客観も存在しない主客未分の状態が成立していると言うのです。
 ただ、ここで気になることがあります。主観と客観が存在しないような状態では、「他者」はどうなっているのでしょうか。そして他者と対をなす「私」はどうなっているのでしょうか。主客未分の世界では、私と他者の区別までも、いまだ成立していないのでしょうか。言い換えれば、主客未分の世界と自他未分の世界とは、どう関係しているのでしょうか。
 ここに一つの分かりやすいモデルがあります。それは、「私‐対象世界‐他者」モデルです。これは、この世界が「私」「対象世界」「他者」という三つの極によって構成されていると考える立場です。「私」は主観です。私が認識する対象が、「対象世界」という客観です。そして、対象世界と【120】いう客観を認識するもう一つの主観が「他者」です。このモデルでは、私と他者の関係は、一つの対象世界を認識する主観と主観との関係となります。
 このモデルで、主客未分の状態を考えてみましょう。まず、主観と客観の関係がなくなるので、私と対象世界の区別がなくなります。同時に、他者もまた一つの主観ですから、他者と私との関係もまたなくなります。ということは、このモデルにしたがえば、主客未分の状態とは、私も対象世界も他者も区別されない、まったくの混沌の状態だということになるでしょう。
 逆に考えればこういうことです。このモデルでは、世界には、(1)主客分離かつ自他分離の世界と、(2)主客未分かつ自他未分の世界の、二種類しかないことになります。そして(1)の世界がこの現実の世界であり、(2)の世界は、神秘的な体験の世界、あるいは狂人や精神病の世界、あるいは幼児の世界などとしてのみ、ありえることになるでしょう。
 しかし私は、このモデルを採用しません。というのも、このモデルは主客未分ということと、自他未分ということを、安易に同一視するからです。
 私は別の方法によって、この問題にアプローチしてみたいと思います。それは、人称的世界の哲学という方法です。
 人称的世界の哲学は、この現実の世界を、まず第一に、「私」や「他者」などの人称が存在する、人称的世界としてとらえます。そしてその人称的世界の構造解明を行なってゆきます。(「人称的世界の哲学」とは、私がいま練り上げているひとつの哲学の試みです。本論文は、やがて出版される同名著書の一節にあてる予定です。他の節は、『科学基礎論研究』第七二号、一九八九、などに少しずつ発表しています。)
 その際のひとつの手順として、この現実の人称的世界から、人称とそれに関わるすべてのものを取り除いたら、一体どのような世界が後に残されるか、という思考実験を行ないます。いわば、まず自他未分の世界とはどういう世界なのかを、思考実験によって明らかにしようというのです。
 その検討を始める前に、二つばかりの注意をうながしておきましょう。ひとつは、これとよく似たやり方に、ピアジェやメルロ=ポンティなどの影響を受けて、幼児の内的な世界を、自他の人称が未だ分離していない「先」人称的世界としてとらえる考え方があります。そして幼児の発達の過程で、母親や家族との相互関係によって、自他が分離し、やがて人称的世界を獲得するようになるというのです。先人称的世界から人称的世界への移り行きを、幼児から大人への内的世界の発達という現実の発生論的過程に、重ね合わせるわけです。
 私たちの試みはこれとは異なります。私たちにとって、人称の存在しない世界とは、あくまでひとつのフィクションです。頭の中で考えられた架空の産物です。私たちは、人称のない世界を、何かの現実の物や過程に重ね合わせたりしませ【121】ん。人称のない世界とは、現実の人称的世界をより良く理解するために、あえて想定する架空のフィクションなのです。
 もうひとつの点。ここでの試みは、ある時期のフッサールが行なった「エポケー(括弧にいれること)」の作業と似ている面があります。エポケーとは、ある主題を選んで、それに関わるすべての要素を括弧に入れ、それについては判断を停止するという方法です。この作業行程そのものは、私たちのここでの試みと同じと言えるでしょう。
 ただし、フッサールが『デカルト的省察』の中で、具体的に行なったエポケーは、次のようなものでした。まず、この世界から「他者」に関する要素をすべてエポケーして判断停止します。その結果として、「私」に固有な意味から成り立った世界が残ります。彼はこの世界を「一次的世界」と呼びます。つまり、この現実の世界から、他者を取り除いてみれば、そこには、世界を認識する超越的な「私」・「自我」が残されるというわけです。そして彼は、この「私」を、彼の哲学の基盤におきます。
 私たちの具体的な試みは、これとは異なります。
 私たちは、この世界から、他者をも私をも含めたすべての「人称」についてエポケーをします。従って、その作業の後には、人称的な意味をもついかなる「私」も残ることはありません。この点が、フッサールとは異なります。
 この現実の人称的世界から、人称とそれに関わるすべての要素を取り除いた世界。そこには、私やあなたや彼などのいかなる人称も登場しません。また世界は、いかなる人称にも所属しません。
 しかし、人称の存在しない世界は、決して混沌としたカオスの世界ではありません。この世界から、人称とそれに関わる要素を除いた残りのものは、依然として成立し続けているからです。

非人称文の世界

 たとえば、人称的世界の中で走っていた自動車は、人称の存在しない世界でもまったく同じように走っているはずです。その自動車は、カーブになれば曲りますし、信号が変われば停止します。ただ、その自動車を運転している人間は、誰でもないし、その自動車は誰の自動車でもありません。
 天気のいい日に戸外に出て涼しい風に当たり、喜びがこみあげてきたとしましょう。人称の存在しない世界では、この喜びは、誰の喜びでもありません。まず、この喜びは決して「私」の喜びではありません。人称の存在しない世界には「私」はいません。かと言って、この喜びが、誰か「他者」の喜びであるわけでもありません。人称の存在しない世界に「他者」はいません。人称の存在しない世界では、この場合、ただ、「喜びがこみあげてくる」と叙述できるような、ある事態が成立したこと以上でも以下でもないのです。【122】
 私たちは、人称の存在しない世界を、ただ、「痛みがある」とか「腹が減った」とか「空が青い」とかの、非人称文によってのみ叙述が可能な世界として考えたいのです。すなわち、人称の存在しない世界では、空の青さを認識する主観としての「私」は存在しません。同時に、私によって認識される客観としての「空の青さ」も存在しません。ということは、主観たる「私」が、客観たる「空の青さ」を認識することも、その世界では起きません。ただ、「空が青い」と叙述できるようなある事態が成立しているだけなのです。
 これは、人称の存在しない世界は、同時に、いわゆる主客未分の世界でもあることを意味します。(このことと、前述の世界の三極モデルとの違いについては最後に述べます。)これは、人称の存在しない世界では、主観による客観の「認識」ということが意味をもたなくなることを示しています。
 人称の存在しない世界とは独我論的世界ではないか、という疑いを持たれる方があるかもしれません。しかし、人称の存在しない世界には、「我」さえいないので、それは独「我」論的世界ですらありません。
 人称の存在しない世界では、「私」や「他者」がいないので、そこに生活している人間たちは、ただ人形のようにぼんやりと生きていると想像されるかもしれません。しかしそうではありません。人称の存在しない世界でも、人間たちは能動的に生きています。腹がたったり、腹いせに物を投げつけたりします。たとえば、ある問題を解こうとするがなかなかできない。そうするとだんだん腹がたってきます。そして、手にしていたペンを思い切り床に叩きつけます。あるいは、テレビを見ようと思って(意志して)、テレビのスイッチをつけます。人称の存在しない世界で生じるこれらの事態は、能動的な事態です。
 ここで注意してください。ペンを思い切り床に叩きつけたのは、そしてテレビを見ようと意志したのは、「私」ではありません。誰が叩きつけたのでも、誰が意志したのでもありません。ただ、ある動作が生じた、ある意志が生じたということ以上でも以下でもありません。
 ここで大事なのは、能動的な動作や意志が、人称の存在しない世界においてもあり得るということです。つまり、能動的な動作や意志は、私や他者などの「人称」とは無関係だということです。そしてまた、人称の存在しない世界では、主観と客観の区別はないのですから、能動的な動作や意志は「主観」とも無関係であることになります。「意志」は「私が――を意志する」という形をとらなくてもあり得るのです。

「身体世界」の特徴

 さて、フィクションとして想定された、人称の存在しない世界のことを、人称的世界の哲学では、「身体世界」と呼びます。その理由と、身体世界の特徴とを、以下に述べてゆき【123】ましょう。
 ここで人称の存在しない世界をひとまず離れて、この現実の世界で使われる「身体」ということばについて考えてみましょう。「身体」とは、ふつう、人間の骨や肉や皮膚などをひとかたまりのものとして捉えたときの呼び名です。空間的にみれば、人間の皮膚の内側を指すことになります。日常言語で使われるときの「身体」という概念のポイントのひとつは、それが内側と外側とをもつという点にあります。全体からある内側が切り取られているということ、それがそこでの「身体」の意味です。
 ところで、人称的世界においては、「身体」の内側と外側とを区別することに、たいへん重要な意義があります。たとえば歯の痛みを考えてみましょう。私が歯の痛みを感じているとき、私以外の他者は私の感じている痛みそのものを、私と同じように感じることはできません。それは、歯の痛みが「身体」の内側、すなわち私的な領域で生じているからです。 
 これに対して、空が青いことはどうでしょうか。私が空の青さを眺めているとき、私以外の他者もまたその空の青さを眺めることができます。それは、空が青いということが、「身体」の外側、すなわち公共的な領域で生じているからです。
 すなわち、人称的世界では、私ひとりにしか開けていない私的な領域と、みんなに開けている公共的な領域とを、はっきりと区別することが重要になります。そしてそれを区別する際に、その出来事が「身体」の内側で生じているのか、それとも外側で生じているのかを手掛りにするわけです。この意味で、人称的世界の中では、「身体」の内側の領域と外側の領域とを区別することが必要になります。
ところが、人称の存在しない世界では事態が異なってきます。人称の存在しない世界では、「私」も「他者」も存在しません。ということは、私的な領域と公共的な領域との区別も、そこにはあり得ないことになります。その世界では、私が、他者には感じることのできない歯の痛みを、ひとりで感じることはありません。その世界では、皆で空が青いことを共有し確認し合うこともありません。ひとりだけで感じたり、皆で共有したりしようにも、そもそも「私」も「他者」もいないからです。
 私的な領域と公共的な領域の区別が存在しない世界では、「身体」の内側と外側とを、はっきりと区切る必要性が薄れてきます。
 人称の存在しない世界で、「身体」の内側と外側を区別することは、単に皮膚の内側と外側を場所的に区別することしか意味しません。確かに、皮膚の内側と外側とでは、世界の質に差異があります。しかその差異は、人称的世界で持っていたほどの重要性を、もはや持っていません。すなわち、人称の存在しない世界では、皮膚の内側を「身体」という概念で決定的に切り取らなければならないほどの、重大な差異は、【124】皮膚の内側と外側の間にはないのです。
 人称の存在しない世界では、皮膚の内側と外側の差異は、むしろ連続的な、程度の差なのではないでしょうか。私たちは、この考えをもう一歩おしすすめて、次のように考えます。人称の存在しない世界において、ある内側を「身体」として場所的に切り取ることにそれほど重要な意義がないのならば、むしろ身体概念を可能な限り拡張して、世界全体に同定するべきである。
 人称の存在しない世界では、「身体」という概念は、世界全体の大きさにまで拡張されるのです。このような世界を「身体世界」と呼びたいと思います。人称の存在しない世界は、身体世界なのです。
 身体世界では、皮膚の内側での出来事と、外側での出来事とを、本質的に区別するものはありません。それらはともに、身体の内側で起きた同質の出来事となります。たとえば、皮膚の内側で「ある痛みが生じる」という事態と、皮膚の外側で「強い風が吹く」というふたつの出来事の間に、それほど大きな差異はありません。痛みは身体世界の中で生じ、風も身体世界の中で吹きます。晴れた空のもと風が吹いて木々の葉が散るとき、その空は身体世界の中で晴れ渡り、風は身体世界の中で吹き、木々の葉は身体世界の中で散ります。その光景をみて胸が熱くなり、もの思いにふけるとき、熱い感情は身体世界の中で湧き上がり、活発な思考もまた身体世界の中で生じるのです。皮膚の内側であろうが外側であろうが、経験されるすべてのものは身体世界の中で経験されます。人称の存在しない世界では、世界は一個の身体となるのです。
 川のほとりを歩くとき、身体世界のただ中で、日は照り、鳥はさえずり、川面を光が反射し、枯草を踏みしめる音が響き、様々な想い出が脳裏に浮かび上がってくる。このとき、鳥のさえずりも、脳裏に浮かぶ想い出も、ともに身体世界の変容する姿であるという意味において、同一なのです。
 人称の存在しない世界に生じるすべての出来事は、身体世界それ自身の変容としてとらえることができます。鳥のさえずりだけではなく、「思考」というものもまた、身体世界それ自身の変容としてとらえることができます。身体世界では、「思考」も、他の出来事に較べて特権的であるわけではありません。
 人称の存在しない世界を身体世界として把握することによって、従来は皮膚の内側の世界の変容の特徴として閉じ込められがちであった、世界のある性質が、皮膚の外側にも解放されるようになります。それは「生成」と「共鳴」です。

「生成」と「共鳴」

 ふたたび現実の世界にかえって、私たちの身体の中のことを考えてみましょう。身体の中では、寒さや快さなどの感覚、悲しみや喜びなどの感情、そして思考や判断などが次々と湧【125】き起こります。身体の中の様々な出来事は、常に生まれ変わり、移ろい行き、新たに生み出されては、やがて消滅してゆきます。これは単にある出来事が「存在する」とか、「出現する」という非生命的なイメージによってではなく、生まれ出で成り来たるといった生命的なイメージ、すなわち「生成する」という概念によって把握されるべきです。市川浩も『精神としての身体』の中で、「生成」が身体的なものの特徴であると述べています。
 ということは、人称の存在しない身体世界では、その世界の中で生じる出来事は、皮膚の内側外側を問わず、すべて「生成」として捉えることができることになります。身体世界では、感覚や感情にとどまらず、皮膚の外側での出来事、たとえば木々の葉が風に吹かれて散ること、空が青く晴れ渡ること、これらはすべて生成として捉えることができます。ボールが落下する落下運動さえ身体世界の生成なのです。身体世界で起きるすべての出来事、すべての変化は、生成するという概念によってこそ、もっともよく把握することができます。
 さて、身体世界での様々な生成を、互いに深く結びつけている性質が「共鳴」です。共鳴とは、身体世界の中で、二つ以上の出来事が互いに密接な関連性をもって生成することを言います。たとえば腕を机の角にぶつけたとき、痛みが走ります。これは、腕をぶつけるという生成と、痛みが走るという生成が、共鳴したものと考えられます。あるいは眼鏡をはずすという出来事の生成に共鳴して、風景がぼやけるという出来事が生成します。高いはしごの上に立って地面を見降ろすとき、それに共鳴して激しい緊張が生成し、それに共鳴して額に汗がほとばしります。(共鳴は必ずしも因果関係ではありません。大森荘蔵は知覚の場面に限定して、「共変」という概念を提唱しています(『物と心』四六頁)。「共鳴」はこの「共変」をルースに再解釈したものとみることもできます。)
 椅子に深く坐って、壁に掛けてある昔の写真を眺めるとき、それに共鳴して懐かしい想い出が次々と脳裏に蘇ってきます。たとえば、風が吹くと木々の葉が散ります。これもまた、風が吹くという生成と、木々の葉が散るという生成との、共鳴としてとらえることができます。あるいは、電気スタンドのスイッチを入れるとき、それに共鳴して蛍光ランプに明りがつきます。
 このように、身体世界の中での実に多様な出来事を「共鳴」として捉えることができます。その中には、眼鏡と風景のように「共変」という概念で把握されてきたものや、スイッチと明りのように「因果関係」として把握されてきたものや、写真と想い出のようにたんなる「きっかけ」の関係にすぎないと思われてきたものなど、すべてが含まれています。しかし私たちは、これらすべてを、身体世界における「共鳴」の様々な様相として、一括して把握したいのです。このように考えるとき、身体世界とは、様々な性質や程度をもった多様【126】な共鳴が、たえず至る所で湧き起こっている「共鳴の海」であることになります。
 共鳴と心身問題についてはまだたくさん厳密に述べるべきことが残っています。また、身体世界の構造についても述べませんでした。紙面の制約がありますので、それらはまた他の機会に譲ることとします。

現実の人称的世界

 さて、話を冒頭に戻しましょう。
 身体世界、すなわち人称の存在しない世界とは、この現実の人称的世界から、人称とそれに関わるすべてのものを取り除いた、フィクションの世界でした。そこは、自他の人称が存在せず、かつ主観も客観も存在しない世界でした。
 ここで、逆に、次のように考えることが可能です。すなわち、ここで明らかになった身体世界に、人称とそれに関わるすべてのものを付加したものが、現実の人称的世界なのです。ここから重要なことが明らかになります。身体世界に人称を付加することによって、人称的世界には「私」や「他者」の人称が存在するようになります。しかしながら、付加されるのは人称としての「私」や「他者」だけであって、主観としての「私」や客観としての「対象世界」は、人称的世界には導入されません。
 これは重大な帰結です。この現実の人称的世界は、そもそも始めから主客未分の世界なのです。振り返ってみれば、西田幾多郎の言う主客未分の純粋経験は、普通の経験のことではなく、思慮分別を少しも加えない「たとえば一生懸命に断崖を攀じる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の如き」経験のことを指すのでした(『善の研究』一六頁)。私たちの考え方は、このような西田の考え方とは異なります。人称的世界においては、普通の経験も、特殊な経験も、すべてひっくるめて主客未分の経験なのです。
 私が思考しているときであっても、その思考をしている主観である「私」は存在しません。存在するのは、その思考が帰属している人称としての「私」のみです。
 「私」という概念は、「他者」と対になった人称的な概念としてのみ使用されるべきです。この人称的な「私」を、認識の主観をあらわす概念として、二重に重ねて用いてきた従来の哲学の方に、誤謬があったように思います。
 これは、哲学におけるひとつの転換点です。これを強く表現すればこうなります。現実のこの世界では、「認識」はそもそも生じていない。現実のこの世界の解明は、認識論によってなされるのではなく、人称の行為の構造解明によってなされるのだ。
 こうやって、私たちは、人称的世界の構造解明という、人称的世界の哲学の本道へと入ってゆくのです。
 

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