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未発表原稿
「見立て」の論理学
森岡正博



(中編作品集・第7章:52〜55頁)にて、縦書きで読みやすい画面閲覧用PDFファイルと、全集版の頁数付き印刷用PDFを入手することができます。


 

 玉砂利を敷き詰めた庭に、岩石がいくつか配置されている。こんな枯山水の庭園を前にして、人々は無数の視覚イメージをその背後に透かし見てきた。目の前に広がる庭の背後に見えてくるのは、ある実在の名所の光景であったり、あるいは海に浮かぶ大陸と島々の姿であったり、あるいはこの大地を支えている宇宙全体の構造であったりする。
 絵画にも同じ構造が見られる。たとえば、鈴木春信の『見立て大黒天』という浮世絵では、目の前に描かれた美女の姿を通して、大黒天が二重映しになって観賞できるようになっている。ただし、そこに大黒天を見るためには、彼女の持っている小槌を大黒天の持ち物として認識するという、きわめて知的な操作が必要になる。
 さまざまな芸術作品の中に見られる、この「見立て」という仕掛けの「論理学」について、少々考えてみたい。
 「見立て」の構造については、服部幸雄が「「見立て」考」(『変化論』平凡社、一九七五年)の中で的確な指摘を行なっているので、まずそれを簡単に復習しておく。
 見立てが仕掛けられた浮世絵を前にすると、そこに描かれた美女の姿を通して、「その奥に「見立てられた」ものの形が二重写しのようになってほの見えることになる。」(一八〇頁) しかしこのときに、「バックにある「見立てられたもの」が、強烈に印象に残るようでは成功したとはいえない。」(一八〇〜一八一頁) あくまでも、目の前に実際に見えているものと、その背後に透けて見えるものとが、バランスを保っていなければならないのである。そして、このとき、背後に透けて見えるものは、実在しない夢まぼろしではなく、ある種の実在する観念であったと服部は述べる。少なくとも前近代人はそう思って見立ての芸術を作成したのだと、服部は考えている。目の前に実在する「絵」と、その背後に透かし見ることのできる実在的「観念」とを、重ね焼きすることによって、「見立て」は成立する(一八八頁)。
 見立てが成功するためには、目の前の絵に描かれたものと、その背後に透かし見られるものとが、できるだけ奇抜なとりあわせになっていることが重要だと服部は言う。美女と大黒天などは、奇抜な取り合せの代表的な例であろう。その奇抜な取り合せのひとつのパターンが、俗なるものに聖なるものを見立てるパターンである。たとえば、遊女に普賢菩薩を見立てるような例である(一八五頁)。
 服部は最後にこう結論している。「「見立て」は、象徴でも譬喩でもなく、ひとつの独自な表現の力である。・・・・「見立て」は既成の知識や形状に引き寄せられていくのではなく、それを意図的に犯し破壊し、引き寄せることによって、新しい創造を果たすための有力な方法である。」(一九二頁)
 ここに見られる論理を、さらに前進させてみよう。
 まず、見立ては、「美女」を「大黒天」として見立てるというところから始まる。そこで、見立ての素材となるもの(=美女)のことを見立ての「前景」と呼び、その背後に透かし見られるもの(=大黒天)のことを見立ての「後景」と呼ぶことにする。
 見立てとは、目の前に現実に与えられた「前景」を手がかりとしながら、その背後に「後景」を二重写しのように透かし見ることである。
 この術語を使えば、服部が指摘している点は、以下の三点にまとめられる。(1)見立てでは、前景も後景も視覚・想像世界のうちで共存しなければならない。(2)前景と後景のあいだには奇抜な意外性が必要である。(3)前景が後景を犯し破壊することで創造が達せられる場合がある。
 さて、見立ての論理学の鍵となるもののひとつは、見立ての前景に向かう「主体」の能動性であると私は思う。たとえば、大黒天が仕掛けられた見立て浮世絵の前に立ったとしても、それを見ている主体がその仕掛けに気付かなければ、その絵は見立て絵として機能しない。その絵の中に見立てのキーワードを発見し、その前景を後景へと判読してゆく主体の能動性があってはじめて、見立て絵は機能しはじめるのである。
 ここで当面、話を「絵」に絞って、主体と絵の相関関係について考えてみたい。
 ところで、絵画芸術が成立するためには、それを制作する人と、それを観賞する人が必要となる。これは、見立て絵の場合でも同じである。そこで、まず、見立て絵を制作する場面での、見立ての論理を考えてみよう。
 たとえば、「普賢菩薩に見立てた遊女」の絵を例にとる。書き手は、絵筆で遊女の姿を描いてゆく。そして遊女の姿のどこかに、普賢を暗示する何かの仕掛けを描き入れる。たとえば、歌川周政の『見立て普賢』では、遊女は白象に乗った姿で描かれている。この場合、白象の絵が、前景の遊女と後景の普賢とを結びつける「掛け橋」となっているのである。
 ということは、見立て絵を描くという行為のポイントは、前景の絵の中にこの「掛け橋」を描きこむ行為にあることになる。掛け橋を描くときに、制作者は二つの主体的な選択をしなければならない。ひとつは、前景の背後に仕掛ける「後景」をいったい何にするかという選択である。遊女と結び付けることのできるものは、理論的には無限にある。その中からひとつだけを選び取る。この作業は、実際には、絵を書きはじめる以前の構想段階ですでに終了していることがほとんどであると思われる。前景と後景の取り合せの妙こそ、制作者の力量がもっとも問われる点となる。第二の選択は、前景と後景とを結びつける「掛け橋」として、何をもってくるかというものである。白象という絵を使うのか、それとも仏典からの何かの引用を付するのか。「掛け橋」にあまりにも即物的なものをもってきてもダメである(遊女の顔が菩薩になっているとか)し、逆にあまりにも難解でもダメである(仏教経典を知らないと理解できないものとか)。
 この二種類の選択を、いかに気のきいた面白いものにするかが、見立て絵制作の醍醐味であろう。制作におけるこの二種類の選択は、制作者にとっては「発見的」な能動的行為であると言える。すでに存在するマニュアルに従って自動的に制作するのでないかぎり、新たな「見立て絵」はこれらの能動的な発見的行為を経てはじめて創造されるのである。
 ではこのとき、制作者は何を「発見」するのであろうか。
 制作者は、目の前に存在する明示的・即物的な前景を、目の前に明示的・即物的には存在しない後景の、終わりのない意味連関のネットワークへとつなぎ止める、その「通路」を発見するのである。
 具体的に絵を描いてしまうと、そこに描かれたものは限定を受け、見る者の想像力を殺す方向に働く。たとえば、普賢菩薩の絵を実際に描いてしまうと、我々はそこに描かれた形や色や表情に縛られてしまい、それ以外の普賢のあり方にまで想像力が及びにくくなる。また、我々はそこに具体的に描かれた普賢の姿形に目を奪われがちになり、普賢が連想させる「浄土」の姿やその意味の方まで想像が届きにくくなる。
 ところが、遊女の絵から掛け橋をつたって透かし見える「普賢」の姿は、きわめて柔軟性に富む。それは、見る者の想像世界の内でいかなる姿形でも取りえるし、見ているうちにどんどんそのイメージが変化してゆくこともありえる。後景の普賢のイメージは、決して固定されない。それはいつまでも流動的である。それだけではない。即物的な絵柄が描かれていない分だけ、見る者の想像力は、普賢という記号が織り込まれている意味連関のネットワーク上を、やすやすと広がることができる。我々の想像力は、その掛け橋をとおって、「浄土」イメージへと到達し、そこで生を営んでいるはずの先祖の姿さえ脳裏を去来するかもしれない。この意味連関のネットワークには、果てがない。
 見立て絵の制作とは、従って、目の前に限定されて与えられたものをとおして、目の前には与えられていない無限に広がる意味連関のネットワーク世界へとつながる通路を開こうとする、能動的な想像=創造の営みなのである。
 前景と後景のあいだに大きな落差がある場合、その二つに通路をつける作業には、想像力の大きなジャンプが必要となる。遊女と普賢を白象によって結びつける創作行為には、身体を力いっぱい飛翔させて高いハードルを飛び越えるときのようなスポーツ的快感が伴う。想像力の飛翔は、心身の伸展によるエネルギーの自己解放と同じ効果を、創作主体へともたらすのである。この自己解放は、前景と後景の落差が大きいほど、強烈なものとなって主体を襲うであろう。
 遊女による見立て普賢のように、前景が「俗」で後景が「聖」である場合には、前景から後景への飛翔は、ある種の宗教的癒しのようなものをもたらす可能性さえある。つまり、どこまでも「俗」世界からは抜け出せない我々が、あくまでも俗の世界にとどまりながら、想像力の飛翔によって一瞬「聖」なる世界へとつながれる感覚を得るとき、言い換えれば我々が自分自身の想像力によって俗から聖へと突き抜ける仮想体験を持つとき、それは宗教的な神秘体験の一種に近いものであるかもしれない。
 では、ここで、見立て絵を観賞する側に立って、見立ての論理構造をもういちど別の角度から考えてみよう。
 観賞者が見立て絵の前に立つ。観賞者は、その絵の中に描かれている絵柄を認知する。彼はこの絵が「見立て絵」であることを知っているので、絵の中に後景を暗示する何かの手がかりがないものかどうか、調査する。調査をしているうちに、絵の中の白象が「普賢」を暗示していることに気付き、彼は一瞬にして前景の遊女の姿に後景の普賢を重ね焼きにして見ることができるようになる。こうして彼は、遊女の絵を、普賢を見立てた「見立て絵」として観賞できるのである。
 このように、見立て絵の観賞とは、制作者が絵の中に仕掛けた「掛け橋」を手がかりに、目の前に描かれた前景をとおして、後景を自らの力で「発見」してゆくという能動的行為である。見立て絵の観賞プロセスでは、この「発見」という契機が重要なものになる。絵の中に仕掛けられた掛け橋と、その背後の後景を自分の力で発見したときはじめて、観賞者は前景をとおして後景を透かし見ることの快感と満足を真に得ることができるのである。
 この構造を別の視点から見てみよう。観賞者は、絵の前景の中に「掛け橋」を発見する。その瞬間、彼の想像世界の中には、その背後に隠されていた後景がありありと立ち現われる。これはちょうど、水を詰めこまれてぱんぱんに膨れあがったゴム風船に、針の先でちょっと穴を開けたとき、その穴から水が勢いよくこちらに溢れ出てくる様子に似ている。すなわち、絵の前景に「掛け橋」という通路を一点開いたとたん、その通路を伝って、後景の意味世界が洪水のように観賞者の想像世界の中へと溢れ出してくるのだ。この、前景に穴を開けるとむこうから何かがやってくる、降りてくるという構造は、見立て絵にとどまらず、芸術作品一般が共有している普遍的な構造であると思われる。
 では、前景の中に掛け橋を発見し、その背後に後景を発見してゆくという、観賞の「能動性」の本質はいったい何であろうか。それは、目の前にいま与えられているものを踏み台にして、いまここに存在しないものの方へと羽ばたこうとする精神である。すなわち、<いま・ここ>に縛りつけられた自己の限界性を一瞬解き放って、いま・ここにはない世界へと飛翔し、自分が体験したことのないもの、あるいは今後も決して体験できないようなものを、想像世界の内部で仮想体験しようとする精神である。目の前にないものを見、聞こえない声を聞こうとする精神こそが、見立て絵を存立させる原動力である。
 もちろんそれは、単に「見立て」だけが持っている論理構造ではなく、広く芸術作品一般に見られるものである。人々が、見たこともない異国の情景や、神々の姿を絵画に描いてきのは、いまここで見えないものを何とかしていまここで見てみたいという願望があったからだろう。ただ、見立ての場合は、その構造がもう一段複雑になっている。つまり、そのような情熱によって形象化された絵では満足せず、その絵の背後に、さらにもう一枚の絵を見ようとするからである。そしてそのもう一枚の絵は、決して目の前に実際に描かれることはなく、ただ観賞者の想像世界の中でのみ再創造されるのである。
 このような見立ての構造は、「見立て絵」として明示されていない芸術作品の中にも、しばしば発見される。たとえば、S・キューブリックの傑作映画『二〇〇一年宇宙の旅』では、宇宙船ディスカヴァリー号が木星へと向かうシーンがあるが、この図柄は一種の見立てになっている。すなわち、ディスカヴァリー号は明らかに「精子」の形をしており、木星は「卵」である。木星への旅は、新たな生命誕生を暗示する旅であることが、宇宙船と木星によって見立てられているのである。その証拠に、映画のラストシーンは、胎児の形をしたスペース・チャイルドが、宇宙空間に誕生するところで終わっている。
 見立ての芸術作品としてもうひとつ連想されるのが、隠れキリシタンのいわゆる「マリア観音」である。これは、見かけは観音像であるのだが、それを所有している人々にとっては「マリア」像として機能する。すなわち、前景は「観音」、後景は「マリア」なのである。
 周囲から迫害され、ひそかに異端の信仰を守り続けてきたキリシタンの信者たち。彼ら信仰者の想像世界の内部でのみ、神聖なマリアの姿は、生き続けることを許されたのである。それも、決して見ることも触れることもできない完全な「イメージ」として。信者たちがマリアに触れようとして手を伸ばすとき、彼らの手に触れるのは、観音の木像でしかない。
 マリアの前景が観音であるというのも興味深い。おそらく信仰者たちは、本当に、観音とマリアとを二重写しにして見ていたのであろう。観音が信仰者たちの眼前から消え去ることもなく、観音をこの目では見つめながら同時にその背後にマリアをイメージするという「見立て」の基本構造が、そこでは見事に実践されていたに違いない。
 単に、迫害されたから観音で代用させたというだけではなく、目の前に見える観音をとおしてその背後にマリアをイメージするという「能動的」想像行為それ自体が、彼らの信仰をさらに補強し、彼らに宗教的なぐさめを与え得たというふうに考えるべきである。見立てるという能動的行為は、この意味での宗教性を、その底辺において内包しているに違いないからである。
 映画『ゴースト』のクライマックスで、ヒロインが、幽霊になった恋人と再会するシーンがある。幽霊になった男性は、女性霊媒師に乗り移り、ヒロインはそのことを悟ってその霊媒師とダンスをする。ヒロインは幽霊になった恋人の姿を決して見ることもできないし、彼に直接触れることもできない。しかし、身体を添えて静かに踊るその霊媒師の動きや抱擁を通して、彼女は霊媒師の向こうに、恋人の熱い身体を徐々に実感してゆく。甘いバラードにつつまれて、彼女はやがて目を閉じて女性霊媒師の胸に顔を埋める。そのとき、彼女は、二度と会えないはずの恋人に、彼女の想像世界の中で出会っているのだ。映画のラストシーン、ヒロインは、天国へと去ってゆく恋人とキスをかわす。しかし、彼女は実際に恋人と唇を合わせたわけではない。彼女は、キスのときに目を閉じている。彼女は視覚世界を閉じ、彼女の想像世界のなかで恋人とキスすることによって、彼に永遠の別れを告げたのである。
 この映画が若い人々に受けたのは、「見立て」の身を切るばかりの切なさと、それがもたらす至福とを、同時に描き切ったからであると思う。「見立て」は、恋愛を成立させる基盤でもあるのである。
 

 *本エッセイは、早川聞多氏との年来のディスカッションが下敷になっている。感謝したい。また、拙論「もうひとつの世界・もうひとりの私−ソラリス、銀河鉄道、世界の終り」『日本研究』第二集、一二五〜一三七頁(一九九〇年)および拙著『意識通信−ドリーム・ナヴィゲイターの誕生』筑摩書房(一九九三年)で関連するテーマを議論しているので、参照していただければ幸いである。方法論的には、拙論「文化位相とは何か−文化位相学基礎論(1)」『日本研究』第三集、七九〜一〇四頁(一九九〇年)において「見立て」を「文化位相」のひとつとして捉えたことがある。国際日本文化研究センターの文化位相研究会で、「見立て」などの位相についてさんざん議論したことが、筆者にとっては大きな収穫になっている。私事になるが、私は「文化位相学」の構想を、長いタイムスケールでゆっくりと実現してゆくつもりである。それまでは右記の論文を参照していただきたい。



 *上記拙論「もうひとつの世界・もうひとりの私−ソラリス、銀河鉄道、世界の終り」は、拙著『自分と向きあう「知」の方法』(PHP研究所)に収録した。
 

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