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作成:森岡正博
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論文
『生命倫理のフロンティア』(粟屋剛・金森修編 シリーズ生命倫理学第20巻 第6章)、2013年、95〜114頁
まるごと成長しまるごと死んでいく自然の権利
:脳死の子どもから見えてくる「生命の哲学」
森岡正博
*【数字】の箇所で、印刷頁が変わります。数字はその箇所までの頁数です。
はじめに
本章では、脳死臓器移植を素材としながら、人間にはまるごと成長しまるごと死んでいく自然の権利があるということを述べていきたい。私がこの考え方をはじめて公にしたのは、臓器移植法改正についての国会審議が大詰めを迎えていた2009年7月7日の参議院厚生労働委員会の参考人発言においてであった。いまから振り返ってみれば、この考え方は、20年以上脳死臓器移植に関わってきた哲学者としての私の思索が凝縮されたものだった。以下の考察で、このテーマを掘り下げて考えてみたい。なお、本章で焦点となるのは、脳死臓器移植から見えてくる新たな生命観についての考察である。脳死臓器移植そのものの是非論争については、本シリーズ中にその問題に特化した巻があるので、そちらを参照していただきたい。
1 長期脳死という状態
2000年から始まった臓器移植法改正において議論の焦点のひとつとなったのは、「長期脳死」をどのように考えればよいかであった。脳死判定を受けた人間は数日から一週間で心臓も止まると言われてきたが、その通説を超えて、一ヶ月、一年と心臓が動き続ける例があることは、すでに専門家のあいだで知られていた。そのことを決定的に証明したのがアラン・シューモンによる論文「長期にわたる脳死」(*1)である。シューモンは、過去30年間の医学文献に現われた脳死につい【97】ての記述を調査し、その結果、175例の脳死患者の心臓が少なくとも1週間以上動き続けていたことを明らかにした。さらには1年以上が3例あり、最長では14年6ヶ月というケースがあった。シューモンによれば、子どものときに脳死判定をされた患者のほうが、大人の脳死患者よりも長期脳死になりやすい。子どもの脳死と長期脳死は密接に結びついているのである。
シューモンの論文は、当時の専門家たちを困惑させた。長期脳死の患者たちは正確な脳死判定を受けていないのではないか、無呼吸テストを受けずに脳死と判定された例が混ざっているのではないかというのである。無呼吸テストとは、脳幹テストなどの神経学的な検査を受けた後で、人工呼吸器のスイッチを切り、患者がほんとうに自発呼吸をしていないことを確かめる最終的な確認のテストである。正式な脳死判定基準では、無呼吸テストをすることが求められている。
日本の場合、臓器移植を目的として法的な手順に従って2回の無呼吸テストを行なったうえで判定されたものを「法的脳死判定」と呼び、それ以外のものを「臨床的脳死判定」と呼んで区別する。臨床的脳死判定の中には、無呼吸テストを行なっていないものも多い。であるから、いわゆる長期脳死と呼ばれているケースについても、実は法的な脳死判定の必須項目である無呼吸テストを行なっていないのではないか、だからほんとうは脳死ではないケースが混ざっており、何ヶ月も心臓が動き続けるというようなことが観察されたのではないか、という疑いを持つ医師たちがいたのである。
2009年の参議院厚生労働委員会においても、この点が取り上げられ、長期脳死は脳死ではないという主張が移植医や参議院議員からなされることになった。参考人として発言した私は、そのような主張は事実誤認であることを指摘した。無呼吸テストを厳密に行なったうえで長期脳死になったケースは、たしかに存在するのである。これは本章の議論にとっても重要なので、詳しく紹介することにしたい。
2000年に厚生省「小児における脳死判定基準に関する研究班」(班長:竹内一夫)から刊行された論文「小児における脳死判定基準」(*2)は、竹内一夫らのグループが日本の脳外科の現場で観察された小児脳死症例を系統的に調査し、その結果をふまえて正式な「小児脳死判定基準」を提言した重要論文である。竹内らは、脳死が強く疑われる6歳未満の小児ケースの報告を国内1220施設から求め、暫定的な小児脳死判定基準による検査を行なったかどうかを調査した。報告されたケースのうち、20例において神経学的検査に加えて無呼吸テストが2回以上実【98】施されていた。また竹内らは脳死判定から心停止まで30日以上かかったケースを「長期脳死症例」と定義した。これが日本における長期脳死の公式の定義である。その定義を、無呼吸テストを行なった20例に当てはめてみると、7症例(35%)が長期脳死となっている。さらにはその中の4例においては、心停止まで100日以上かかっている。またその中の2例においては、心停止後の解剖によって脳が自己融解して原型をとどめていなかったことが報告されている。すなわち、脳がもはや構造物として存在していないのに、心臓は100日以上も動き続けたのである。また、長期脳死においては、手や脚を動かす運動(竹内らは脊髄反射と解釈する)が有意に多く見られた。
この論文でまず確認すべきは、2回の無呼吸テストを含む厳密な小児脳死判定を行なったケースにおいて、長期脳死になる割合が35%と予想以上に多いことである。長期脳死は脳死ではないという言説は間違っているのである。次に確認すべきは、脳の機能が停止しても、さらには脳が融解したあとでも、長期脳死の患者は人工呼吸器の助けを借りて身体全体を統合的に生かし続ける能力を持っているということである。
竹内らの論文に引用されているケースのひとつに、兵庫医科大学の長期脳死例がある。久保山一敏らの論文「300日以上脳死状態が持続した幼児の1例」(*3)に、その臨床記録がある。生後11ヶ月の男児が、頭部外傷後の意識障害で搬送され、治療を尽くしたが8日目に無呼吸テスト以外の成人の脳死判定基準を満たした。15日目には無呼吸テストが行なわれ、自発呼吸消失が確認された。ところがこの小児の心臓はその後も鼓動を続け、長期脳死の状態となった。218日目に、竹内らが発表していた小児脳死判定暫定基準に則った検査を行ない、2回の無呼吸テストを含むすべての検査で基準を満たした。この男児は、この状態を維持し、326日目に心停止に至った。120日目を超える頃から容態は安定化し、それまで投与していた薬剤を減らすことができるようになった。そしてこの1年弱のあいだに、男児の身長は72センチから82センチまで8センチ伸びた。また、90日目を超える頃から手足を伸ばしたり回転させたりする運動や、腹壁の不規則な収縮運動が見られ、その運動は心停止まで続いた。その身体の動きは「著しいときはあたかも踊るようにみえる体動」(*4)であったと記述されている。ただこの体動は脳由来のものではなく、脊髄由来のものであろうと久保山らは推測している。また、このような体動は、「両親に心理的動揺を与えた」(*5)とされている。
この論文から分かることは、長期脳死の子どもの場合、身長が伸びて成長する【99】ということ、そして長期間にわたって手足や胴体を自発的に動かす場合があるということである。この男児が示したような手足の回転運動は「ラザロ兆候」として報告されてきたものであり、脊髄自動反射と呼ばれている。ラザロ兆候のビデオを実際に視聴すると、まるで生きた人間が腕を自分で持ち上げて回転させているように見える。この男児の両親に心理的動揺があったことは想像に難くない。
脳死状態では身体は温かく、汗をかき、排泄もすることはよく指摘される。体位変換をしないと床ずれをするし、身体は清拭をして清潔に保たなければならない。顔の血色は良く、すやすやと眠っているように見える。そしてそれだけではなく、長期脳死の子どもの場合は、身長は伸び、体重は増加して、成長するのである。
長期脳死の子どもの体重増加については、池田陽子「体重が増え続けて栄養量の設定が困難であった遷延性脳死状態の小児の栄養管理」(*6)が参考になる。この論文によれば、3歳の女児がけいれん発作によって脳死状態となった。池田らは、自発呼吸消失を厚生省法的脳死判定マニュアルによって確認し(無呼吸テストを行なったと考えられる)、臨床的脳死状態と判定した。この女児はその後、長期脳死の状態となり、9ヶ月で身長が8センチ伸び、体重は4・1キロ増加した。池田らは、長期脳死の子どもの「栄養管理」という課題に直面し、肥満による栄養障害を避けるべく慎重に栄養量の調整を行なうことで「成長を維持」することができたと述べている(*7)。池田らは、この女児を、長期脳死の状態にあるけれども成長している子どもとしてとらえ、「悩み、揺れ動き続け」ながらケアしている(*8)。この女児は上記論文刊行時点でまだ心停止に至っていない。
無呼吸テストを行なっていないが、それ以外の脳死判定基準をすべて満たして、臨床的な長期脳死状態になった子どももたくさん存在する。彼らの身体の状態も、これまで述べたような無呼吸テスト済みの長期脳死の子どもの状態と酷似している。雑誌『読売ウイークリー』の記事「「脳死」を生きる子どもたち」は、彼らの状態を詳しく報告している。ある男児は1歳のときに病院に搬送され、無呼吸テスト以外のすべての脳死判定基準を満たして、臨床的脳死と判定された。その後、7歳のときには脳の血流が途絶えていることも確認された。脳血流停止ということは、脳は機能死の段階を過ぎて、器質死に至っていることを示唆している。男児は容態が安定した4歳のときに、両親に引き取られて自宅に戻った。人工呼吸器を付けたまま全身のケアを受け、身長は30センチ以上伸び、乳歯6本が永久歯になった。感染症などの病気にかかることもあるが、順調に成長して【100】いる。無呼吸テストを行なわなかった臨床的脳死の子どもの例は、他にも親の手記の形でいくつか報告されている(*9)。ケアをする親の視点からすれば、長期脳死の子どもと、脳機能が残存する重症の子どものあいだにほとんど差はない。前述の記事では、臨床的脳死を含む超重症児の親14人に「脳死は人の死と思うか」と尋ねているが、13人は「生きている」と回答し、1人は「答えは出ていない」と回答した(*10)。
前述の竹内らの論文からは、短期で心臓が停止するタイプの脳死と、心臓が30日以上動き続ける長期脳死を区別する医学的テストが存在しないことが読み取れる。これは、子どもの脳死が判定されたとしても、その子どもの心臓がいつまで動き続けるのかを誰も確実に予測できないことを意味している。止まるのは明日かもしれないし、一ヶ月後かもしれないし、一年以上後かもしれないのだ。このことは大きな問題を提起する。
ある子どもが脳死判定を受けたとする。もし家族の同意を得てこの脳死の子どもから臓器を摘出すれば、その子どもの身体は手術後すぐに冷たくなり、血の気を失った遺体となってしまうだろう。しかしもし臓器摘出を行なわなければ、その子どもは脳死状態のまま何百日も心臓を動かし続け、身長も伸び、体重も増える可能性がある。親は長期脳死の子どもをずっとケアし、その子どもと時空を共有していくことができる。脳死の子どもからの臓器摘出に同意した親のほとんどは、このような事実を知らない。もし臓器摘出をしたあとで、親がこのことを知ったらどう思うだろうか。もしあのとき臓器移植に同意していなければ、ひょっとしたら1年以上も脳死状態の子と一緒にいることができ、その成長を見守ることができたかもしれないということを知ったときの親の気持ちはどのようなものか。
以上のように、長期脳死が存在することは医学的に確認されている。では医学は長期脳死を人の死とみなすのであろうか。政府の公式文書である「脳死臨調最終答申」は、脳死とは、脳の機能とともに「脳による身体各部に対する統合機能が不可逆的に失われ」ることであり、「たとえその時個々の臓器・器官がばらばらに若干の機能を残していたとしても、もはや「人の生」とは言えないとするのが、わが国も含め近年各国で主流になっている医学的な考え方である」としている(*11)。ところが長期脳死では、脳死であるにもかかわらず、人工呼吸器などのサポートを得ながら身体の統合性は長期にわたって保たれ、身長・体重すら増加し、成長するのである。脳死臨調のように、身体の統合機能の喪失を人の死の必【101】要条件のひとつとしてとらえる医学的立場からすれば、長期脳死が「人の死」であるとは言い難くなる。海外においては、近年、医学的な視点から脳死を人の死でないとする論文が多数存在する。2008年に米国の大統領評議会が刊行した脳死レポートは、それらの反論をレビューしたのち、従来の議論に代わる新たな脳死肯定論の提唱を行なっている(*12)。また、脳死は医学的に「人の死」であるから長期脳死も人の死であるとする見解も根強い。以上のことを考慮すれば、現時点においては、長期脳死は臓器提供の目的で判定された場合、臓器移植法にもとづいて法的には死体であるが、長期脳死についての医学的見解は混乱しており、医学的には生きているとも死んでいるとも結論できない状態とするのがもっとも妥当であると思われる。また法的には脳死の身体は「死体」であるから、現行法のもとでは、長期脳死の子どもは「成長する死体growing corpse」であることになる。長期脳死についての厳密な検討をせずに法改正をしたために、我々はいま「成長する死体」という存在を誕生させたのである。長期脳死は、法的には成長する死体であり、医学的には生きているとも死んでいるとも結論できない状態であり、日常的な一般人の感覚からすれば生と死のあいだのいずれでもあり得るような境界線上の人間である。
2 脳死の子どもからの臓器摘出
脳死の子どもは、長期脳死の状態になる可能性をつねにはらんでいる。医学的に見て生きているか死んでいるか分からない長期脳死になる可能性のある脳死の子どもから、心臓などの臓器を摘出してよいとしたら、その理由はどこにあるのだろうか。考えられるひとつの理由は、脳死の子どもの身体は親の所有物であり、親に処分権があるからだ、というものである。もし脳死の子どもの身体が法的な物件であるとするならば、そのような所有権が親に与えられてもよいかもしれない。しかしながら、脳死状態で身体の統合性を維持し、これから成長する可能性さえ秘めている身体、医学的に見て生きているとも死んでいるとも結論できない身体を、家具や鉛筆のような物件と同一視することはできないように私には思われる。
脳死の子どもからの臓器摘出を肯定するもうひとつの理由は、摘出された臓器が他の子どもや大人たちのいのちを救うからそれは許される、というものである。もちろん大人の場合であれば、たとえ医学的には生か死か結論の出ていない【102】脳死状態であっても、「もし自分が脳死になれば脳死は死だと考えるから、臓器を摘出して誰かの役に立ててほしい」と意思表明し、その善意を活かすかたちで臓器移植を行なうことも許されるであろう。しかしながら、1歳や2歳で脳死になった子どもの場合、臓器摘出についての意思表明はまったく行なわれていない。臓器摘出は、子ども本人にとって何の役にも立たないばかりか、子ども本人に明らかに害をなす行為である。そのような場合、親が第一になすべきことは、臓器摘出という侵襲から、脳死の子どもを守ることではないかと私は思うのである。子ども本人が意見表明をしていない場合、親がなすべきことは、子どもの身体を外部の侵襲から保護することである。たとえ臓器移植によって重病の子どものいのちが救われる可能性があるとしても、そのことは、医学的に生きているか死んでいるか分からない脳死の子どもから、本人の意思表示なく、本人にとって害をなす臓器摘出を行なってよい理由にはならないと私は思うのである。
子どもが脳死になった場合、親は自分の子どもの臓器がどこか他人の身体の中で生き続けてくれることを願い、臓器摘出に同意することが多いと言われている。しかしこれもやはり親がなすべきことではないはずだ。子どもの臓器が、目の前の子どもの身体から切り離されてどこか他人の身体で生き続けていてほしいというのは親の願望であって、けっして子ども本人の意思ではない。であるから、親は、自分の子どもの臓器がどこかで生き続けてほしいと思ってしまう自分自身の欲望や、自分の子どもの臓器を人類愛のために犠牲にしたいという自分自身の欲望からも、子どもを守らなければならないのである。もちろん、小さな子どもが病気になったときに手術を受けさせる決定を親がするのは問題ない。なぜならそれは子ども自身のメリットになる行為だからである。しかしながら、臓器摘出はその子ども自身のメリットにはまったくならない。この違いを無視してはならない。
ある論者は、臓器提供は重い病気の人々に対する社会的連帯の行為であり、我々はそのような社会的連帯を行なう義務を負っていると主張する。たとえば町野朔は、「我々は、死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである」と主張する(*13)。しかしながら、連帯を表明したり、自己決定をしたりすることが可能であるのは、その人が表明や決定をする能力を有しているときだけである。ところが小さな子どもはそのような能力を有してはいないから、このような主張は成立しない。また、人間の身体は死んだら社会の共有財産になるという考え方もある。しかし、たとえ脳死の身体を共有財産だと考えることが可能だとしても、そ【103】の身体の医学的利用の正当化がそこから必ずしも導かれるわけではない。というのも、まったく逆に、そのような共有財産を我々自身の欲望から保護しなければならないという結論を導くことも可能だからである。これはちょうど、原生自然という共有財産を我々の産業文明による開発から守らなければならないとするエコロジストの主張と軌を一にするものである。共有財産に関して、生命倫理と環境倫理の領域で同型の主張に出会うというのはたいへん興味深い。
このように、脳死の子どもについて考えを進めていくと、その身体からの臓器摘出は控えなければならないこと、そして脳死の子どもの身体は外部の侵襲から保護されなければならないことが導かれるように思われるのである。
3 「聖なる存在」と「まるごとの原理」
ここまで述べてきた考え方から導かれる生命観は、以下のようなものである。まず基本的な発想は、脳死の子どもの身体は「聖なる存在holy being」であり、それを利用しようとする他の人間たちの欲望から「まるごとのかたちthe form of wholeness」で守られなければならない、というものである。たとえそれが他の子どもたちのいのちを救うためになされるのだとしても、脳死の子ども本人の同意のない脳死の身体への侵襲は禁止されなくてはならない。子どもは、脳死状態で成長する能力を有している。成長している人間は、生きていようが死んでいようが、誰かのための単なる道具として扱われてはならない存在者である。脳死の子どもは「まるごと成長しまるごと死んでいく自然の権利」を持っている。実際に、脳死の子どもは、人工呼吸器や医療機器に支えられ、医療スタッフや家族にケアされながら、ベッドのうえで成長することができる。心臓が止まるまでのあいだ、脳死の子どもは栄養を取り入れ、排泄をし、手足を動かし、取り囲む人たちと時空を共有する。この成長のプロセスは保護され、慈しまれなくてはならない。心臓停止後、身体は冷たくなり、葬儀に出されて、家族によって火葬される。このプロセスもまた保護され、慈しまれなくてはならない。これらのすべてのプロセスにおいて脳死の子どもは丁重に扱われ、身体はまるごと保護されなくてはならい。なぜなら、脳死の子どもは、その身体を利用したいという他人の欲望によって侵害されることなく死のプロセスをたどっていく権利を有しているからである。これこそが、脳死の子どもが臓器移植についての意見表明をする能力をまだ獲得していない時期に、その子どもを処遇するやり方であると私【104】は思う。言い換えれば、脳死の子どもの身体というのは、私たちが手を付けてはならない一種のサンクチュアリなのである。
と同時に、子どもが臓器提供について自分の意思を表明できるくらい大きくなったときには、状況は根本的に変化する。臓器提供について自分の明瞭な意思を表明していた子どもが脳死になったときには、まるごと成長する自然の権利はその子どもの意思によって上書きされなければならない。もしその子どもが臓器提供の意思表示をしていたならば、臓器摘出の可能性が検討されるべきである。この場合においても脳死の子どもは依然として「聖なる存在」とみなされなければならないのだが、しかしながら、まるごと成長する自然の権利は脳死の子どもの事前の意思表示に席を譲らなければならないのである。言い換えれば、脳死の子どもの聖なる身体は、正当にその子どもの事前の意思表示の管理下に置かれる。脳死の子どもの身体は聖なる存在であり、まるごと成長しまるごと死んでいく自然の権利を有しているのだが、自らの明瞭な意思を表示する能力を持つ子どもの場合は、その子どもの意思が優先され、脳死の身体の聖性を上書きするのである。
では、脳死になる以前の段階で臓器提供について意思表示する能力を有していたにもかかわらず、それについての明瞭な意思表示をすることなく脳死になった子どもについては、どのように考えればよいのだろうか。私は、この子どもの身体もまた聖なる存在とみなされるべきだと思うし、意思表示能力を持たなかった子どもの場合と同様に、外部の侵襲から守られなくてはならないと思うのである。では、意思表示能力を持つ大人が、意思表示することなく脳死になった場合はどうであろうか。私は、意思表示をしなかった脳死の大人と、意思表示をしなかった脳死の子どものあいだに、存在論的に重要な差異は存在しないと考える。もちろん大人の場合は身長が伸びることはないが、脳死の身体の脳以外のすべての部分は、臓器レベル、組織レベル、細胞レベルでみずからを新しく更新し続ける。脳死の大人の身体もまた、汗をかき、排泄し、手足を動かし、全身の機能を少しずつ崩壊させ、心停止へと向かって進んでいく。もし成長が聖なるプロセスであり外部の侵襲から守られなくてはならないとするならば、死にゆくプロセスについても同じことが言えなくてはならない。なぜなら、死にゆくプロセスは成長するプロセスと同じくらい聖なるものであるからだ。この議論は、人間にとって死ぬことは成長することと同様に重要であり、等しい価値を持つという考え方に基づいている。私はここで生と死を比較しているのではないということに注意【105】してほしい。(また、この文脈においては、意思決定能力を有していない大人は、意思表示能力を有していない子どもに類した存在者とみなすことができる)。
要約すれば、以下のようになる。(1)すべての脳死の人は、大人であれ子どもであれ、「聖なる存在者」である。(2)もし彼らが臓器提供について明瞭な意思表示をしていなかったならば、その脳死の身体はどのようなタイプの外部の侵襲からも守られなくてはならない。(3)もし彼らが臓器提供について明瞭な意思表示をしていたならば、その意思は脳死の身体の聖性よりも優先されなくてはならない。このときはじめて脳死の人からの臓器摘出が可能となる。(そしてまさにこの主張こそが、旧・臓器移植法の根底にあった考え方のひとつなのだと私は思う)。
同様のことは、心臓死の人間に対しても適用されなくてはならないと私は思う。というのも、心臓死の人間もまた死にゆくプロセスの途中にあると考えられるからである。すなわち、心臓死の患者からの臓器摘出も、もしその患者が臓器提供の意思を表明していなかったとすれば、やはり行なってはならないのである。心臓死の人間もまた、この意味では、「聖なる存在」と考えられるのである。私たちは似たような生命観を、刑法一九〇条の死体損壊の規定に見ることができる。そこには、「死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、3年以下の懲役に処する」と書かれている。ここには、一般民衆が、心臓死した人間の身体の一部に対して、聖性のかけらを見出していた可能性が読み取れるであろう。
したがって、私の考えでは、人間は聖なる存在としてこの世に生まれ、自己意識を持った主体へと向かって成長し、歳をとり、ふたたび聖なる存在となって、自然へと還っていくのである。そして事前の意思表示がないかぎり、この聖なる存在は「まるごと成長しまるごと死んでいく自然の権利」を有している。人間の生命は、ひとつの聖なる存在から、もうひとつの聖なる存在への旅以外のなにものでもないのである。
ここで、「外部の侵襲」という言葉の意味を再確認しておこう。私がこの言葉で意味しているのは、外部の人間のエゴイスティックな欲望を満たす目的で、ある人の身体の全体性が毀損される行為のことである。したがって「外部の侵襲」は、侵襲された人間自身にとって何のメリットもないような行為となる。脳死の子どもからの臓器摘出はその典型例である。これに対して、赤ちゃんを救うために行なわれる手術は、その赤ちゃんにメリットをもたらすことを目指して行なわれるのであるから、「外部の侵襲」とはならない。【106】
では、「まるごとwholeness」とは何のことだろうか。「まるごと」とは、生きたり死んだりする人間を構成する生物的な身体が有するところの、様々な次元での統合性をひとまとめにしたもののことである。身体の一部が欠けた先天的な障害者は「まるごと」ではないのかと言えば、それは間違っている。そのような障害者は、身体の一部が欠けた状態で「まるごと」なのである。人生の途中で身体の一部を失ったり、それをみずから切り捨てたりした場合でも、そのあとで統合性を維持することができれば、そのあとに残された身体の全体が、あらたな「まるごと」を形成する。「まるごと」存在する身体は、それ固有の統合性とまとまりをもって、自律的にみずからの生を生き、死んでいくことができる。「まるごとの原理」とは、このような「まるごと」を構成する構成要素を、外部の人間のエゴイスティックな欲望による侵襲で奪われてはならないとする考え方である。
4 「まるごとの原理」と生命倫理
前節で考察した「まるごとの原理」は、人間が生まれてくるプロセスと、人間が死んでゆくプロセスを、ともに聖なるものとして手厚く保護し、外部の侵襲から徹底的に守っていく考え方であった。この考え方は、生と死の生命倫理に対して、大きなインパクトを与える可能性を持っていると私は思う。「まるごとの原理」は、多様な生命倫理の諸問題に対しても適用することができる。以下に、そのうちのいくつかを考察する。
4.1 脳死の患者への人体実験
脳死の患者に対する、本人の事前の承諾のない人体実験は、これまでいくつかの国で行なわれてきた(*14)。この種の実験は禁止されなくてはならない。もし脳死の人があらかじめ実験に承諾していた場合は、臓器移植と人体実験に関する法律に基づいて、その妥当性を倫理委員会で慎重かつ仔細に検討するべきである。
4.2 小さな子どもに対する人体実験
同意を与える能力を有しない小さな子どもに関しては、その子ども自身にとって害がありメリットのない侵襲的な実験は禁止されなくてはならない。たとえその実験が、その子どもと同じような属性を持った子どもたちの健康にとってメリットがあると考えられるようなものであったとしても、禁止されなくてはなら【107】ない。このような場合は、他の代替法が追求されるべきである(*15)。
4.3 受精卵に対する実験
受精卵に対する実験や、受精卵の破壊を含むような医学的取り扱い(たとえばES細胞を採取するための受精卵の破壊)は禁止されなくてはならない。また、中絶胎児の組織や臓器を医学的に利用することもまた禁止される。
では、受精卵はシャーレの中でまるごと成長する権利を持っているのだろうか。もしそうだとしたら、我々はいったん受精卵を作成したら可能なかぎり長くそれを育てる義務を負うことになるのだろうか。まるごとの原理によれば、成長する人間はまるごと成長する自然の権利を有しているのだから、我々はいったん受精卵を作成したらその成長の力に無理に反してその成長を止めてはならないように、私には思える。現在の技術水準では、受精卵の成長は一ヶ月未満でストップする。したがって、我々がなすべきことは、受精卵が成長して死に至るプロセスをただ見つめることだけである。このようなシチュエーションであっても、侵襲なしで科学的な観察をすることは可能である。そして受精卵が成長をやめて死んでしまうまで受精卵を捨ててしまわないことだ。
4.4 生命維持治療の中止
生命維持治療の中止に関しては、それが患者以外の他の人々の利益のためになされるのではなく、またそれによって死にゆく患者の全体性が破壊されることがないのであれば、その中止は必ずしも悪いということにはならない。たとえば、意識がなく、末期医療についての意思表示をしていない末期患者の生命を、攻撃的で通常外の治療によって長引かせている場合ならば、その治療を中止することはまるごとの原理から見ても許されるかもしれない。しかしながら、人工的心停止後臓器摘出(CDCD)に見られるような、臓器獲得のための人工呼吸器の意図的な取り外しは禁止されなければならない(*16)。もちろん、どのような治療が攻撃的で通常外なのかを決定するのが非常に難しいことは言うまでもないので、さらなる考察が必要である。
4.5 人工的妊娠中絶
人工的妊娠中絶は胎児の成長を止めるためになされる外部からの侵襲以外の何ものでもないから、一見すると、まるごとの原理の視点から禁止されるべきであ【108】るように見える。だが、胎児というのは、受精後二二週目までは子宮の内部で完全に母親の身体に依存している存在である。胎児はこの期間、独立した存在ではない。胎児は物理的に母親の子宮につながれているので、子宮の外部に出されたら生きていけない。この意味で、胎児は母親の身体の一部なのである。したがって、胎児の視点からすれば、母親というのは胎児の「外部」に存在する人間とは言えないし、中絶も「外部」からの侵襲だとは言えない。なぜなら、胎児は母親の身体に融合的に編み込まれているからである。まるごとの原理は、外部の侵襲から胎児を守ることを要求する。しかし上記の理屈が正しいとすると、中絶はけっして「外部」から来る侵襲だとは言えないことになる。であるから、まるごとの原理によって中絶を禁止するべきだ、ということにはならないのである。と同時に、中絶の問題がまるごとの原理のみによって解決されることはあり得ないということも知っておきたい。胎児と母親の関係性についてのさらに突っ込んだ哲学的研究が必要である。
4.6 尊厳死と自殺
もし事前の意思表示に基づく脳死の人からの臓器移植がまるごとの原理に反しないのなら、患者の事前指示に基づく末期昏睡状態の患者の生命維持装置の停止もまた、まるごとの原理に反しないように思われる。もちろんその行為は尊厳をもって、すなわち徐々に、慎重なやり方でもってなされなければならないが。そのときには、私たちは重度障害の患者や高齢者たちが周囲からのプレッシャーに負けて尊厳死を選ばされることのないように、細心の注意を払わなくてはならない。
では自殺についてはどうか。私はすべての人々が幸福に後悔なく生きて死ぬことができることを願っているから、私は自殺する人の数が劇的に減っていくことを心から祈っている。しかしながら、人に自殺する権利はあるかと聞かれれば、最後の手段としての自殺をまるごとの原理によって糾弾することは避けなければならないと私は答えるだろう。もちろん自殺は生きている人間の身体を破壊すること以外の何ものでもない。だが、この破壊は殺されるであろう本人によってなされる破壊なのである。誰か他人の欲望が外部から侵襲してきて行なわれる破壊ではない。したがって、少なくともまるごとの原理からすれば、自殺は積極的に許容されたり勧められたりするものではないが、かと言って非難されるべきものでもないと思われるのである。もし、外部からのプレッシャーによって追い詰めら【109】れた結果として自殺が行なわれるケースがあるとしたら、その場合は、そのような外部からのプレッシャーこそが非難されるべきだということになるはずだ。それは、外部の欲望によって脳死の子どもからの臓器摘出がなされるときに、それが非難されるべきであるのと同じ理由による。
5 「自然の権利」としての「まるごとの原理」
今日の生命倫理学では、生きている人間は外部の侵襲から守られる権利を有しているが、死んだ人間は必ずしもそのような権利を有していないとされる。であるから、多くの国々で、臓器提供についての本人の意思表示がなくても、脳死の人から臓器を取り出すことが可能になっているのである。ここにおいては、決定的な線は「生」と「死」のあいだに引かれている。これとは対照的に、まるごとの原理は、その人間が生きていようが死んでいようが関係なく、人間の成長するプロセスや死んでいくプロセスを外部の侵襲から守ることを要求する。すなわち、まるごと論においては、死の決定の問題や、胎児はいつから独立した人間存在になるのかという問題は、外部の侵襲を正当化する議論において決定的な役割を担わないのである。これが、生命倫理におけるまるごと論のインプリケーションのひとつである。
まるごとの原理は、成長する人間や死にゆく人間の身体は聖なる存在であり、不可侵であると考えられねばならないと主張する。これは非常に強い言明であり、たとえば、米国の独立宣言に見られる「奪いがたい天賦の権利unalienable rights」に匹敵するものであると考えられる(Declaration of Independence, 1776)。近代的な天賦の権利は、最初にトマス・ホッブズによって、「自然権(自然の権利)right of nature」として導入され、ジョン・ロックらによって発展させられた。ここで、彼らの議論を簡単に振り返り、まるごとの原理を近代の自然権思想の視点から再検討してみたい。
ホッブズは『リヴァイアサン』で次のように述べている。
著作者たちがふつうに自然権Jus Naturaleとよぶ自然の権利right of natureとは、各人が、かれ自身の自然すなわちかれ自身の生命を維持するために、かれ自身の意志するとおりに、かれ自身の力を使用することについて、各人がもっている自由であり、したがって、かれ自身の判断力と理【110】性において、かれがそれに対する最適の手段と考えるであろうような、どんなことでもおこなう自由である。(*17)
彼は、自然の権利とは、我々自身の生命を維持するために我々が持っているところの自由を意味すると述べる。そしてこの自由は、我々自身の判断力と理性によって行使されるとする。この権利は自己防衛権を含んでいるとホッブズは他の箇所で言明する(*18)。すなわち、人は、自分の生命を奪おうとして襲いかかろうとする者に抵抗する権利を断じて持っている(*19)。ホッブズは、自分自身の生命を防衛する権利を、自然状態における不可侵の基本的権利とみなしているのである。彼の理論においては、判断力と理性を持った、生きている人間のみが、自然の権利を持つ資格を有するとされているように見える。
ジョン・ロックは『市民政府論』で次のように述べる。
自然の理性が教えるように、人間は、ひとたび生れるや生存の権利a right to their preservationをもっており、したがって食物飲料その他自然が彼らの存在のために与えるものをうける権利をもつのだと考えることができる。(*20)
ロックは、生存の権利を基本的な自然の権利のひとつとして、すなわち、我々が生まれたとき無条件に全員に付与されるなにものかとして考えている。そして、人々はみずからの生命、自由、財産を、他人の侵害から守る力powerを持っているとする。
人間は、前に証明したように、生まれながらにして世界の何人(一人また多数)とも平等に、完全な自由と自然法上の一切の権利特権を無制限に享有する権原をもっている。それ故に彼は本来、ひとり自分の所有すなわちその生命自由および財産を他人の侵害襲撃に対して護る権力をもっている・・・。(*21)
このように、ホッブズもロックも、人間は他人からの侵害や侵襲から自分の生命を守る自然の権利を有していることを強調するのである。問題は、彼らが、この自己保存の権利は理性的な大人に付与されるものであって、それ以外の人に付【111】与されるものではないと考えているらしい点である。たとえばロックは、子どもの地位について、「両親は子どもに対して一種の支配権および裁判権をもっている」と書いている(*22)。なぜなら子どもは理解力を持たないから、「彼に代わって理解力understandingを働かすものが、また彼に代わって意志せざるをえない」からである(*23)。しかしながら、子どもが脳死になったときに他の人間がその子どもの身体に侵襲を加えることを許す権利を子どもの両親は持っている、とするのがロックの考えの帰結であるのかどうかは定かではない。
いずれにせよ、ホッブズやロックの時代には脳死の人もいなかったし、人工受精卵もなかったということを忘れてはならない。人間の生命は母親から生まれ落ちたときに与えられたし、自然死したり殺されたりして冷たい身体になったときに人間は生命を失った。人間の生と死をめぐる状況は、いまの時代とはまったく異なっていたのである。もうひとつ忘れてはならないのは、彼らの時代においては死体にほとんどなんの価値もなかったのだが、今日において死体は大きな価値を持ち始めたということである。すなわち、臓器移植の資源として利用することができるし、死体の組織は人体由来の手術用の素材として利用することができるのである。脳死の人や人工受精卵のような周縁的な生命を他の人間たちの欲望から守るためにも、我々はホッブズやロックとは少々異なった考え方をしなければならないだろう。そして、どのような種類の自然の権利がそれらの周縁的な人間に付与されるべきなのかを再考しなければならないだろう。真に必要なのは、科学技術の時代において、とくに声を奪われやすく傷つきやすい人間たちの有するかけがえのない価値について考える新しい方法を作り上げていくことである。
ホッブズやロックは、生命・自由・健康などへの諸権利を、すべての人に生まれながらにして付与された自然の権利の具体例としてあげているが、私はこれに加えて「まるごとの権利」を新たな自然の権利として提唱したい。人間のまるごとの身体が科学技術の力によって刻まれようとしている現代において、それをまるごとのまま守る「まるごとの権利」がどうしても必要だからである。
自然の権利は不可侵の権利であり、人間が生まれたときにすべての人間に付与されるものである。現代の知見によれば、生物学的な人間は受精卵が形成されたときに誕生する。したがって、まるごと成長する自然の権利は受精卵が誕生したときに与えられると考えなくてはならない。死にゆく人間は、脳が生きていようが死んでいようが関係なく、身体の細胞のすべての機能が失われるまで、まるごと死んでいく自然の権利を有している。なぜなら、死にゆく人間の身体の統合的【112】な機能を構成しているところのひとつひとつの細胞は、最初の一個の受精卵の細胞から由来したものであり、まさにその最初の一個の細胞が生まれたときにその受精卵はまるごと成長する自然の権利を付与されたからである。ちょうど受精卵の生きている細胞の活動の総体が受精卵の全体性を構築しているように、死にゆく人間(脳死の人も含む)の中の生きている細胞の活動の総体が、その死にゆく人間の全体性を構築しているのである。
生命倫理学においてはパーソン論が一定の力を持ってきた。すなわち、自己意識と理性をもつ存在こそが生存する権利を有しており、それらを欠く存在は生存権を奪われても仕方ないとする考え方である。これに対して、私の主張する「まるごとの権利」は、たとえ自己意識や理性をもたない存在であっても、その存在があらかじめ意思表示をしていなかった場合には、誰もその存在から収奪をすることができず、その存在は外部の侵襲から保護されると考える。「まるごとの権利」とは、パーソン論においては周縁的な存在者とみなされる者たちを、手厚く保護するための装置である。「まるごとの権利」に依拠することによって、私たちはパーソン論に対抗することのできる哲学を打ち立てることができるはずである。そしてこの「まるごとの権利」の権原となるのが「まるごとの原理」である。
「まるごとの権利」すなわち「まるごと成長し、まるごと死んでいく自然の権利」という視座を導入することによって、人体へとアグレッシブに介入してこようとする現代医学から人間の尊厳を手厚く防御し、そのうえで人間がみずからの意志によってみずからの生死を律していく新たな道筋を見出すことができるのではないかと私は考えているのである。
注
(1) Shewmon (1988)
(2) 厚生省(2000)
(3) 久保山一敏ほか(2000)
(4) 342頁。
(5) 342頁。
(6) 池田陽子(2009)
(7) 4-5頁。
(8) 7頁。
(9) 亀井智泉(2002)/中村暁美(2009)
(10) 無署名記事(2008)、25頁。
(11) 脳死臨調最終答申全文は、立花隆(1992)に採録されている。該当箇所は247頁。【113】
(12) Potts, M., Byrne, P.A., and Nilges, R., (eds.), (2000)、President's Council on Bioethics (2008)など。President’s Council on Bioethics (2008)の文献一覧も参考にすること。
(13) 厚生科学研究事業「臓器移植の法的事項に関する研究」班(2000)
(14) Akabayashi, A., and Morioka, M. (1989)
(15) 栗原千絵子(2007)
(16) President's Council on Bioethics (2008)
(17) Hobbes, T. (1651), Ch.14. 翻訳は、ホッブズ『リヴァイアサン』第1巻、岩波文庫、1954年、216頁、に従った。
(18) 217-218頁。
(19) 221頁。
(20) Locke, J. (1689), Book 2, Chapter 5, Section 25. 翻訳は、『市民政府論』岩波文庫、1968年、31頁、に従った。
(21) 88頁。
(22) 58頁。
(23) 61頁。
引用文献・参考文献
池田陽子「体重が増え続けて栄養量の設定が困難であった遷延性脳死状態の小児の栄養管理」(2009)『臨床栄養 別冊栄養力UP NST症例集2』医歯薬出版、2-7頁
亀井智泉(2002)『陽だまりの病室で』メディカ出版
久保山一敏ほか(2000)「300日以上脳死状態が持続した幼児の1例」『日本救急医学会雑誌』11巻7号、338-344頁
栗原千絵子(2007)「子どもを対象者とする研究の倫理:序論――研究規制の成立背景と倫理的ジレンマ」『臨床評価』34巻1号、103-122頁
厚生科学研究事業「臓器移植の法的事項に関する研究」班(2000)『臓器移植の法的事項に関する研究――特に「小児臓器移植」に向けての法改正のあり方』厚生省
厚生省「小児における脳死判定基準に関する研究班」(班長:竹内一夫)(2000)「小児における脳死判定基準」『日医雑誌』124巻11号、1623-1657頁
立花隆(1992)『脳死臨調批判』中央公論社
中村暁美(2009)『長期脳死』岩波書店
無署名記事(2008)「「脳死」を生きる子どもたち」『読売ウイークリー』2月17日号、24-28頁
Akabayashi, A., and Morioka, M. 1989: “Ethical Issues Raised by Medical Use of Brain-dead Bodies in the 1990s,” BioLaw II (48): S531-538
Hobbes, T. 1651: Leviathan.
Locke, J. 1689: Two Treatises of Government.
Potts, M., Byrne, P.A., and Nilges, R., (eds.), 2000: Beyond Brain Death: The Case Against Brain Based Criteria for Human Death. Dordrecht: Kluwer.
President’s Council on Bioethics, 2008: Controversies in the Determination of Death: A White Paper of the President’s Council on Bioethics. www.bioethics.gov.
Shewmon, D.A. 1988: “Chronic ‘Brain Death’: Meta-analysis and Conceptual Concequences,” Neurology, 51:1538-1545.