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作成:森岡正博 
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エッセイ

まるごと成長し、まるごと死んでいく「自然の権利」
:参議院スピーチandNHK教育テレビ「視点論点」スピーチ
森岡正博

【解説】
以下の文章は、臓器移植法改正に際して、参議院厚生労働委員会にて参考人発言したときの発言議事録と、改正成立後にNHK教育テレビにて発言したときの手元原稿の全文である。ともに様々な反響があった。資料としてここに公開しておきたい。参議院では改正前ということもあり、全体にわたって発言している。NHKでは改正後ということもあり、子どもの脳死に絞って詳述している。

【追記】
このテーマを2013年に論文にして発表した。
>  森岡正博「まるごと成長しまるごと死んでいく自然の権利 :脳死の子どもから見えてくる「生命の哲学」

 

(1)

2009年7月7日・第171回国会・参議院厚生労働委員会にて
(参議院議事録より)

 森岡と申します。よろしくお願いします。
  私は、二十年間、生命倫理の研究をしてまいりました。今日は一研究者として意見を述べたいと思います。恐らくマイノリティーの考え方になるかと思いますが、よろしくお願いいたします。
  私は、衆議院提出B案の原案となったいわゆる森岡・杉本案の提唱者の一人でございます。内容としましては、大人については現行法のまま、子供については子供にも意見表明の機会を与えるという案であります。参議院におきましては、個人的には、E案というのでしょうか、に親近感を抱いております。
  今日は、主にA案に対して疑問点を述べさせていただきます。
  まず、最初の第一点でありますが、これは親族優先提供であります。
  A案の親族優先提供の条項は削除すべきであると思います。例えば、英国では提供先の指定というのはガイドラインで禁止されております。昨日もそうでしたが、ぬで島さん、あるいは私のかねてからの論敵であります町野先生も削除ということをおっしゃっておりました。私も削除です。ですので、この点に関してはもう議論の余地なく削除ではないかと私は思っております。
  二番目は、本人の意思表示についてであります。
  A案は本人の書面による意思表示がなくても脳死判定、移植ができるとしていますが、これは国民のコンセンサスにはなっていないと私は思っています。二〇〇四年の内閣府調査、そして二〇〇八年内閣府調査共に本人の意思表示に賛成する案が五〇%を超えております。本人の意思表示が必要ということについては過半数の国民が現行法を支持していると私は考えております。新聞調査によっては、社によって意見が違います。読売新聞は一九・二%ですが、毎日新聞は五二%。ですので、やはりこれに関しては、政府の調査を見る限り、本人の意思表示の前提を外すことに関しては国民のコンセンサスはないと言わざるを得ないと私は思っております。この点に関しては後ほどもう一度戻ってきたいと思います。
  三番目でございます。長期脳死についてでございます。
  子供は長期脳死になりやすいとされています。長期脳死とは脳死状態で三十日以上心臓が動き続けるケースでございます。その間に脳死の子供は成長し、身長が伸び、歯が生え替わり、顔つきが変わると言われています。A案はこのような子供を死体と断じるものであります。
  日本移植学会理事長の寺岡氏は七月二日の厚生労働委員会において次のような発言をされておりました。ネット中継から文字を起こしてみたのですが、以下にちょっと引用します。寺岡さんはこうおっしゃいます。最近繰り返し報道されているいわゆる長期脳死につきましては、法的脳死判定の基準あるいは小児脳死判定基準を完全に満たしている事例は存在せず、脳死とは言えません。すなわち、無呼吸テストが実施されておらず、またその他の判定基準も一部しか満たしていないのが事実です。引用終わりです。
  これをお聞きになった皆さんは、長期脳死は無呼吸テストを行っていないし、法的脳死判定をしていないので厳密には脳死ではないと思われたのではないでしょうか。ところが、昨日の谷澤先生、島崎先生の御発言では無呼吸テストをした長期脳死があると言われておりました。事実はどうなのでしょうか。昨日も丸川議員からその点について最後に御質問があったと存じます。それについて私が代わってお答えしたいと思います。
  二〇〇〇年に日本医師会雑誌に発表された旧厚生省研究班の論文、「小児における脳死判定基準」という論文があります。これでありますけれども、これは日本の小児脳死判定基準を定めた決定版の論文でございます。寺岡さんが発言で引用されていたものであります。論文には次のように明記されています。まず、脳死とされる六歳未満の子供について厳密に無呼吸テストを二回以上実施して無呼吸が確認されたケースが二十例あったと述べられています。これは小児脳死判定基準を厳密に満たしております。そして、その二十例のうちの七例が長期脳死になっています。すなわち、無呼吸テストを行った六歳未満の脳死の子供のうち、何と三五%が長期脳死になっています。さらに、驚くべきことに、そのうちの四例、すなわち二〇%が百日以上心臓が動き続けております。これが論文で発表されている事実です。
  無呼吸テストを厳密に実施した脳死判定で、脳死の子供の三割以上が長期脳死になっており、二割は百日以上心臓が動いている、我々はまずこの厳粛たる事実を胸に刻まなくてはなりません。どうしてこのような重大な事実が国民に広く知らされてこなかったのでしょうか。この論文は、日本で最も権威のある脳外科の医師である竹内一夫先生のグループによって執筆されたものでございます。
  この論文の注に引用されている論文の一つが皆様の今お手元に資料として配られております。これを御覧になりながらお聞きいただきたいと思うのですが、この論文は日本救急医学会雑誌二〇〇〇年のもので、「三百日以上脳死状態が持続した幼児の一例」というものであります。これは兵庫医科大学のケースであります。
  このケースでは、生後十一か月の男児が脳死になった後、厚生省研究班の小児脳死判定基準を二回の無呼吸テストを含め厳密に満たしております。その状態で三百二十六日間、約一年弱心臓が動き続けております。論文には、二回の無呼吸テストを含む神経学的評価を行い、基準案を満たしていることを確認したと明記されておりますし、また、医学的には本例は早期から脳死状態にあったことは間違いないと明記されています。小児脳死判定基準を厳密に満たし、二回の無呼吸テストを行い脳死と判定された上で三百二十六日間心臓が動き続けた長期脳死の例がはっきりとあるのです。
  また、それだけではありません。この間、身長が七十四センチから八十二センチまで伸びています。成長しているのです。また、九十日ごろから手足を動かし始め、著しいときにはあたかも踊るように見えた、いわゆるラザロ兆候というものですが、と書かれております。手足の動きは心停止まで続いております。再度確認しますが、この兵庫医科大学のケースでは、無呼吸テストは二十四時間空けて二回行われています。
  ここにもマスメディアの皆さんがおられると思いますが、脳死についての正しい情報を是非とも国民に知らせてください。心臓が百日以上動き続け、成長し、身長も伸びる脳死の子供が死体であるとする国民のコンセンサスはありません。また、長期脳死になるかならないかを見分ける医学的な基準も発見されていません。たとえ親の同意があったとしても、長期脳死の可能性のある脳死の子供を死体と断じ、その身体から心臓や臓器を取り出すことは危険過ぎます。これらの点について子ども脳死臨調で専門的な調査を行って、その結論が出るまでは脳死状態の子供からの臓器摘出を許可してはならないと私は考えます。この点において改正は拙速に過ぎます。
  再度繰り返しますが、お手元の資料にあるように、無呼吸テストを二回行って長期脳死になった例がはっきりとあると、複数あるということでございます。
  さて、再び、残りの時間をまた本人の意思表示の問題に戻りたいと思います。
  私は、本人の意思表示の原則は外してはならないと思います。その理由をこれから述べます。
  現在、ドナーカードの所持率は八・四%でございます、実際にイエスと記載している人はもっと減るのでありますけれども。私個人は、B案の原案の提唱者でありますが、ドナーカードを持っております。ここにありますとおり、私はドナーカードに記載しております。ですので、私が脳死になって、家族が反対しなければ、私の臓器は使ってください、私はそのことに何の後悔もありません。ただ、ドナーカードを持っていない大多数の人々にはやはりその理由があると思うんですね。ドナーカードを持っていない人というのは、持たないことによって何かの意思表示をしていると思うのです。そのうちの多くの人々は迷っているのです。この迷っていることを尊重すべきだと私は思います。
  我々には脳死が人の死かどうか、臓器を摘出すべきかどうかについて迷う自由があります。この迷う自由を人々から奪ってはなりません。迷う自由を保障するもの、それこそが本人の意思表示の原則であります。すなわち、迷っている間はいつまでも待っていてあげる、もし決心が付いたら申し出てください、これが本人の意思表示の原則なのです。これが現行法の基本的な精神となっております。
  A案、すなわち拒否する人が拒否の意思表示をすればよいというA案では、この迷う自由、悩む自由というものが守られません。なぜなら、あれこれ迷っていたら、迷っているうちに脳死になってしまい、家族がもし承諾してしまえば臓器は取られてしまうからです。迷っていたら臓器は取られてしまいます。これが私がA案に反対する大きな理由の一つです。
  最後に、脳死の議論で忘れ去られがちになるのは、忘れ去られるのは、脳死になった小さな子供たちです。脳死になった小さな子供たち、彼らは、生まれてきて、事故や病気で脳死になり、そしてひょっとしたら何も分からぬまま臓器まで取られてしまうのです。余りにもふびんではないでしょうか。
  ここから私の個人的な見解といいましょうか、思想、哲学になるのですが、子供たちには自分の身体の全体性を保ったまま、外部からの臓器摘出などの侵襲を受けないまま、丸ごと成長し、そして丸ごと死んでいく自然の権利というものがあるのではないでしょうか。そして、その自然の権利がキャンセルされるのは、その本人がその権利を放棄することを意思表示したときだけではないでしょうか。私はこのように思います。そして、現行法の本人の意思表示の原則というものは、このような考え方が具現化されたものなのではないかというのが私の解釈、考え方であります。
  外国では脳死の子供からの移植が可能だというふうに、すぐに外国のことを我々は気にします。しかし、日本は実は世界で最も脳死について国民的な議論をした国です。その結果成立したのが本人の意思表示の原則という日本ルールなのです。我々はこの日本ルールにもっと誇りを持とうではありませんか。もちろん、移植法全体としては、昨日ぬで島さんが指摘したような改善点は当然あります。しかしながら、本人の意思表示の原則というものは世界に誇れるものであるというのが私の考え方であります。
  私からは以上です。御清聴ありがとうございました。

(2)

NHK教育テレビ「視点論点」 2009年7月27日(水)22:50〜23:00放映
(手元原稿よりコピー)

みなさん、こんにちは。

国会で、臓器移植法が改正されました。

大人については、本人がドナーカードを持っていなくても、家族が承諾すれば、脳死判定を行ない、臓器を取り出すことができるようになりました。
そして、小さな子どもの場合には、本人は意思表示できませんから、親が承諾するだけで、脳死判定を行ない、臓器を取り出すことができます。

脳死の子どもの運命が、親の手にゆだねられるのです。

今日は、脳死の子どもについて、詳しくお話ししたいと思います。

「脳死になれば、数日から一週間で心臓も止まる。だから脳死は人の死だ」と言われてきました。
ところが、最近の研究で、とくに「子ども」が脳死になった場合は、数ヶ月から1年、ときには数年以上も心臓が動き続けるケースがある、ということが分かってきました。
長いあいだ続く脳死という意味で、これを「長期脳死」と呼びます。
長期脳死のあいだに、脳死の子どもは、成長し、身長が伸び、歯が生え替わり、顔つきが変わります。

ところで、「長期脳死」の子どもは、脳死判定基準を厳密に満たしていないから、本当の脳死ではないという意見があります。
果たして、そうなのでしょうか。

フリップをご覧ください。(フリップは下記引用資料より作成)
これは、日本医師会雑誌に発表された、「小児における脳死判定基準」という論文です。
これは、脳死の子どもを判定する、日本で唯一の判定基準です。
この論文にはこう書いてあります。
「2回以上の無呼吸テストを含む、小児脳死判定基準を、厳密に満たして、脳死と判定された6歳未満の子どもが20人いた。」

次のフリップをご覧ください。
この20人のうち、7人が、脳死のままで30日以上も心臓が動き続けています。
これは全体の35%に当たります。
さらに驚くべきことに、そのうちの4人は、100日以上も心臓が動き続けたのです。
これは全体の20%に当たります。
子どもの場合、厳密な脳死判定をしたとしても、約2割は、100日以上心臓が動き続けるという厳粛な事実を、私たちは知っておく必要があります。

次のフリップをご覧ください。
これは、「日本救急医学会雑誌」に発表された論文です。
兵庫医科大学で、生後11ヶ月の男の子が脳死になり、無呼吸テストを含む、厳密な脳死判定を受けています。この子は、なんと326日間、心臓が動き続けました。約1年弱です。
それだけではありません。この間、脳死状態のままで、身長が74センチから82センチまで伸びています。脳死のまま、成長しているのです。

次のフリップをご覧ください。
この子は90日頃から手足を動かし始め、それは「あたかも踊るように見えた」と書かれています。
手足の動きは、心臓が止まるまで、200日以上も続いています。
この動きは、両親に心理的動揺を与えた、と書かれています。
再度言いますが、これは厳密に脳死判定がなされた男の子です。

みなさん、立ち止まって考えてみてください。
脳死の子どもからの心臓移植とは、体が温かく、おしっこも、うんちもして、身長が伸び、成長し、自分で手足を動かすことのできる体、血のめぐっている体に、メスを差し込み、ドクドクと動いている心臓を取り出すことなのです。
脳死の子どもからの心臓移植とは、そもそもそういうことなのです。

脳死になった子どもの心臓が数日で止まるのか、それとも長期脳死になるのかを、見極める方法は、いまのところ存在しません。
脳死になった我が子から、移植のために臓器を取り出せば、その子はすぐに冷たい遺体となります。
しかしながら、脳死になった我が子から、もし臓器を取り出さなければ、その子は脳死のまま何百日も成長を続けるかもしれないのです。

我が子が脳死になったときのことを考えてみてください。
新しい法律では、すべてが親の判断にゆだねられます。
「物言わぬこの子は、何をいちばん望んでいるのか。」
「脳死状態にあっても成長する体は、何を訴えているのか。」

日本社会とは、まわりの空気に逆らって、NOと言いにくい社会です。
みなさん、もしあなたのお子さんが脳死になったとき、あなたは愛するお子さんの脳死判定を拒んでもぜんぜんかまいません。移植を断わっても、ぜんぜんかまいません。
そのことは新しい法律で守られています。

脳死になった我が子を前にして、私たちには「迷う自由」が与えられています。
体の温かい脳死の子ども、脳死にもかかわらず必死で成長しようとしている我が子を前にして、親のみなさんが「迷う」のは、当たり前のことです。
私たちは「迷う自由」を持っています。
迷ったあげく、移植にYESと言えなくても、それを恥じることはありません。
そのことは新しい法律で守られています。

ここからは私個人の哲学、思想になりますが、みなさんのご参考になれば幸いです。

移植の議論で忘れ去られているのは、脳死になった小さな子どもたちです。
生まれてきて、事故や病気で脳死になり、本人は何も分からぬまま、臓器まで摘出されてしまうのです。
あまりにも不憫ではないでしょうか。

生まれた子どもたちには、自分の体の全体性を保ったまま、外部からの臓器摘出などの侵襲を受けないまま、まるごと成長し、まるごと死んでいく「自然の権利」があります。
そして、その「自然の権利」が退けられるのは、本人がその権利を放棄することを「意思表示したとき」だけなのです。
私たちは、その「自然の権利」を、親の介入からも、守らなければならないのです。
なぜなら、子どものいのちは、親の所有物ではないからです。

石川啄木に、我が子の死を歌った、次の歌があります。
「真白なる大根の根の肥ゆる頃、うまれてやがて死にし児のあり」
これが厳粛な感動を呼び起こすのは、死にゆく児が、親のはからいをも超えて、生まれたままの姿でまるごと、大自然へと帰っていくからではないでしょうか。
畑から引き抜かれたままの真っ白な大根の根のように、一片の欠けるところもなく、大自然へと帰っていくからではないでしょうか。

移植について、テレビでは様々な報道がなされています。

しかしその陰には、脳死状態になって、それでもなお、がんばって成長しようとしている小さな子どもたちがいるのです。

脳死になった彼らは、まだ幼いがゆえにドナーカードを持つこともできず、しゃべることもできず、その存在、そのいのちを、まわりにいる者たちが、感じ取るしかありません。

その小さな声を、私たちが感じ取ることができるかどうかが、いま問われているのだと、私は思うのです。

(終わり)

 

<引用資料>

厚生省"小児における脳死判定基準に関する研究班"平成11年度報告書「小児における脳死判定基準」『日本医師会雑誌』第124巻・第11号、平成12(2000)年12月1日、pp.1623-1657

久保山一敏 吉永和正 丸山征四郎 上野直子 切田学 大家宗彦 細原勝士 「300日以上脳死状態が持続した幼児の1例」『日本救急医学会雑誌』第11巻7号、2000年、pp.338-344.

上記引用資料2本の本文をご覧になりたい方は、森岡までご連絡ください。

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