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池上哲司・永井均ほか編 叢書エチカ3『自己と他者』昭和堂 1994年2月 110−132頁

この宇宙の中にひとりだけ特殊な形で存在することの意味
 −「独在性」哲学批判序説
森岡正博



(中編作品集・第4章:29〜39頁)にて、縦書きで読みやすい画面閲覧用PDFファイルと、全集版の頁数付き印刷用PDFを入手することができます。

 

1 永井均の<私>の独在論

 この世界には、たくさんの人々がいる。しかし、それらの人々のうち、ただひとりだけ、特別な存在の仕方をしている者がある。それは「私」である。「私」のあり方と、私以外の「他者」たちのあり方は、根本的に異なる。「私」とは、私の身体をとおして世界が開けている独特の「世界の原点」であるが、「他者」とは常にその外部から把握された対象でしかない。こうして、世界には、ひとりの「私」と、たくさんの「他者」がいることになる。
 では、この唯一性を持つように見える「私」とはいったい何か、そして「私」とは区別されるところの「他者」とはいったい何かという問題が生じてくる。我々は、「私」と「他者」をめぐる哲学的問題に直面するのである。
 「私」と「他者」の問題は、現代の哲学・倫理学の根本問題の一つとして、さまざまな文脈から議論されてきた。行為・規範・言語・外部などのテーマは、この私と他者の問題を、徹底的に突き詰めることなしには捉えきれないようになっている。
 私と他者をめぐるそのような問題群の中に、「独我論」の問題がある。すなわち、「私」と同じような形式で存在する人間は、この私以外には存在しないのではないかという問題である。直観的に分かりやすい例で言うと、すべての他人は実はよくできたロボットであって、この私が生きているような意味では存在していない。だから、この私と同じような内的な意識をもって生きている存在者は、この世界にこの私ひとりしかいないのだというような考え方が、独我論の一種である。
 もちろん、ほとんどの人間は、他人もまたもうひとりの「私」としての生を、その内面世界において生きているのだというふうに信じて、毎日の生活を行なっている。だから、「独我論」の立場は、正常な神経をもった大人がとるべき姿勢ではないという常識が、今日の世界を支配している。ただ、困ったことに、他人にも「もうひとりの私としての内的世界がある」ことを証明しようとしても、それはなかなか難しいことが、今世紀の現象学研究によって明らかになってきたのである。
 「独我論」がいくら評判悪いとしても、この世界が実際に「独我論的」にできているという事実自体は、否定できないように思う。私は、自分自身を把握するのと同じような仕方で、他者たちを把握することができない。この意味で、「私」は、「他者」たちとは異なった特異な存在者である。そして、「私」にそのような特異な存在のあり方を配当しているこの世界の構造それ自体が、きわめて「独我論的」にでき上がっていると言わざるをえない。
 世界の持つこのような独我論的な性質は、今世紀の独創的な哲学者たちの頭脳を悩まし続けた問題の一つであった。フッサールや前期のヴィトゲンシュタインにとってそれは方法論上の根本問題であったし、大森荘蔵がいわゆる「立ち現われ」論を提唱するにいたった背景にも、独我論との対決がある。
 そして、今日の哲学界で「独我論」を正面から肯定的に議論しているのが、永井均(一九五一−)である。永井の独我論は、前期ヴィトゲンシュタインの影響を決定的に受けているとはいえ、ヴィトゲンシュタインや大森荘蔵が積極的には語らなかった局面にまで踏み込んで自説を展開している独創的なものである。
 本論文で私は、永井の独我論を、「独在性のレベル」にまで明確に達した理論として肯定的に評価したい。しかし同時に、彼が「他者」について語りはじめるとき、永井の独我論は、本来踏みとどまるべき独在性のレベルから決定的に後退することになる。この点を私は、本論文の末尾で批判したい。
 永井の理論は、処女作『<私>のメタフィジックス』(一九八六年)から、「他者」(一九九〇年)、『<魂>に対する態度』(一九九一)を経て最新作の「独在性の意味(二)」(一九九三年)に至る過程で微妙に変化してきているので、永井の理論を紹介するときには、なるべく最新のものを参照するようにした(1)。
 さて、まず永井の「<私>の独在論」を簡潔に紹介してみたい。
 地球上にはたくさんの人間たちがいる。彼らは、自分のことを呼ぶときに「私」ということばを用いる。つまり、人類の数とほとんど同じ数だけ「私」はいるように見える。
 永井の議論はここから始まる。それらたくさんいる「私」たちの中で、たったひとりだけ異なった様式で存在している者がいる。それは「この私」である。永井は言う。「この私が存在する、とはどういうことだろうか。それは地球上に存在する数十億の人間のうち、一人だけ他の人間とまったく違うありかたをしている者がいる、ということである。」(2)
 たくさんの人間たちの中で、いまここでこうして生きているこの私だけが、唯一特別な存在のあり方をしていることに対する驚き。それが永井の独在論の出発点である。「要するに問題は、世界には並び立つ無数の人間たち、つまり諸々の「私」たちだけではなく、特別な、例外的なありかたをした一人の人間、つまりこの私というものが存在しているということであり、そしてその例外的なありかたは、その人間のいかなる性質とも無関係に成立している、ということなのである。これが問題の出発点である。この事実を、私は次のように表記する。世界には、無数の「私」たちとは別に<私>が存在する、と。<私>には隣人がいない。すなわち、並び立つ同種のものが存在しないのである。」(傍点永井)(3)
 こんなふうに言われると、確かにそれはそうだと思ってしまう。
 しかし、ここで、(1)その<私>というのは具体的には永井均という人物の内面世界のあり方のことだけを排他的に指しているのか、それとも(2)永井均の内面世界のあり方をもその一例として含む、もっと一般的な存在者のあり方のことを指しているのかという二種類の疑問がでてくる。
 もし(1)だとすれば、それは永井均という人間だけの個人的な問題であり、この文章の読者にはなんの関係もない、とるにたらない凡庸な独我論であることになる。もし(2)だとすれば、この文章の読者であるこの私もまた<私>であるがゆえに、永井も<私>、読者も<私>であることになって、<私>には隣人がたくさんおり、したがって「<私>には隣人がいない」とは全然言えなくなる。
 永井の真意はいったい何か。
 結論から言えば、この二つはともに永井理論の誤解である。永井理論は、(1)でも(2)でもない別種の境地を示しているのである。ここをクリアーしないと、そのあとに開かれてくる美しい世界が味わえなくなるので、ここでもうすこし踏ん張ることにしよう。
 多くの読者がここで挫折するのには、理由がある。そのひとつは、永井のこの点にかんする説明の仕方がもうひとつ明快でなかった点にある。しかし、最近永井が書いた論文「独在性の意味(二)」では、この点がきわめてはっきりと述べられている。この論文を踏まえて、もういちど<私>概念に挑戦してみたい。

2 独在性の<私>

 永井の独在論(永井は<私>のことを「独在性のわたし」と読むと宣言しているので、以下、彼の独我論のことを「独在論」と呼ぶことにしたい)には、すでにいくつかの反論・吟味がなされている(5)。それらの中で、入不二基義の英文論文"From De Se to De Me" は、永井の独在論を明らかに念頭に置いて書かれた、魅力的な論文である(6)。
 入不二の議論の要点を、本論文の議論にかかわる文脈にかぎって、森岡のことばと例をつかって紹介してみたい。
 入不二は、「私」あるいは「この」ということばの使用法に注目し、そのことばに潜む多重性をあぶりだそうとする。彼は、「私」ということばが、三つの異なった次元で使われることを指摘した。ここでは便宜的にそれら三つの「私」を、私1、私2、私3と呼ぶことにしたい。(これは永井の提案に従った。入不二自身はこの術語を使用していない。)
 私1とは、任意の発話者が、その言葉を発した身体を指差して「私」と言ったときの、「私」のことである。このレベルの「私」は、単に発話主体を指し示すだけの働きしかしていない。
 私2とは、自己意識をもって身体の内側から生きている自分自身を指し示すようなレベルの「私」のことである。私2は、いままさにことばを発しながら生きている自己意識主体を、再帰的に指し示すのである。
 私1や私2は、この私であれ、他人であれ、誰もが自分のことを指して同じ意味で使用できるという「等質性」をもっている。しかし、「私」ということばを「自分自身のことを指してfor myself」使う場合、すなわちほかならぬ「この私」という文脈で使う場合、そこには、「唯一無二の例外的な非−等質性」があらわれる。誰にでもあてはまるという意味での等質性を拒否した文脈で、「この私」ということばを、世界でただひとり特殊な形で存在するこの主体に適用して使うときの、その「私」が、私3なのである。
 「私3」は、自分のことを「この私」と呼んで、その唯一無二の例外性をどうしても強調したいときに使われる「私」である。入不二は「私3」が示すもののことを「単独性」と呼んでいる(7)。
 入不二の私3は、一見、永井の<私>に対応する概念であるように見える。ところが、永井は論文「独在性の意味(二)」において、入不二の論の進め方の大筋を基本的には承認しながらも、永井の言う<私>は、入不二の「私3」とは異なると主張する。
 森岡の見るところ、永井の入不二批判の要点は、次の一点につきる。入不二は「唯一無二の例外的な非−等質性」をもった「この私」を「私3」として概念化しているが、そのように概念化した瞬間に、その「この私」は、誰でもが自分自身の唯一無二性を語りたいときに使用できる「みんなのための道具」にまで転落してしまい、そこに当初はこめられていたはずの真の「唯一無二性」が蒸発してしまう、という点である。
 要するに、「ほかの誰でもないこの私」と概念化してしまった瞬間に、それは「ほかの誰でも」が自分自身のことを指して使えることばへと変質してしまうのである。「この」がもつはずだった真の「唯一無二性」は、「この」と発話した瞬間に、誰でもが共有できるような「唯一無二性」へと変質する。永井は、入不二の「私3」を、このような変質後の「唯一無二性」に関する概念にとどまっていると批判するのだ。
 永井によれば、真の唯一無二性である<私>は、入不二がしたようにたとえば「世界でただひとり特殊な形で存在するこの主体」(私3)という形で概念化した瞬間に、その概念化によっては捉えられない次元へとすりぬけてゆくものなのである(ずれの運動)。「私が<私>について語ったとしても、それもまた即座に入不二の「私3」のようなものに読み換えられるであろう(8)」から、<私>の内容について主題的に語ることは不可能なのだと永井は言っているように見える。
 独在性についての永井の到達点は、以下のようなものである。

 ここに至って、独在性の<私>は、それについて語ることを絶えず否定してゆく運動によってしか示されえないものにまで、高まっている。このレベルのことを、森岡は「独在性のレベル」と呼びたい。これは、永井が論文「独在性の意味(二)」においてはじめて明確に提示しえた境地である(10)。しかし、このパラドックスに満ちた独在性の<私>とは、いったい何なのか。森岡は次節において、永井の到達した「独在性のレベル」をまず肯定的に評価し、それについてさらに独自の検討を加えてゆきたい。

3 「独在的存在者」と「独在性」

 さて、もういちど、最初から考えてみよう。
 <私>への問いは、世界の中で唯一ひとりだけ特殊なあり方をして存在している「この私」とはいったい何だろう、という問いを追い詰めることから始まった。これは言い換えれば、この私という存在がもっている「唯一無二のあり方」とはいったいなんだろうという問いでもある。つまり、この問いは、この私がもつ「唯一無二性」の追求でもあったのだ。
 ところが、この問題を突き詰めてゆくときに、我々が混乱してしまうのは、次の二つの問いをごっちゃにするからなのだ。つまり、
(1)「この唯一無二の存在とはいったい何か」という問い
(2)「唯一無二の存在について語るとはどういうことか」という問い
 の二つである。
 結論から言うと、第一の問い「この唯一無二の存在とはいったい何か」を把握するのは、それほど難しくない。しかし、第二の問い「それについて語るとはどういうことか」を明確にするのは、たいへん難しい。そして、独在性の議論では、この後者の問いが大きな比重を占めることになる。だから、話がめんどうになるのである。
 とりあえず、このことを頭の片隅に置いておいてほしい。
 さて、世界の中で唯一ひとりだけ特殊なあり方をしている唯一無二の存在のことを、究極まで突き詰めて考えたときに発見されるもののことを、永井は<私>ということばで呼んだ。そしてそれは、それについて語ろうとすることの否定によってしか示されえないと考えた。
 森岡は、それを別のことば、すなわち「独在的存在者」ということばで呼びたい。(後に述べるように、森岡は<私>という表記を否定する。)「独在的存在者」は、永井の<私>に対応するものである。
 そして、「独在的存在者」の存在のあり方、あるいはその存在の性質を指し示すものとして「独在性」ということばを導入したい。「独在的存在者」とは、存在している者のことを指し、「独在性」とはその存在のあり方や性質のことを指す。この二つを明確に区別しておくことが、きわめて重要になる。
 世界の中で唯一ひとりだけ特殊なあり方をしている唯一無二の存在のことを、究極まで突き詰めて考えたときに発見されるもののこと、すなわち「独在的存在者」は、永井の言うとおり、きわめてパラドキシカルな存在者である。結論から言えば、それが何であるかは、つねに「発見的に把握する」しかない。したがって、それはかくかくしかじかの存在のことであるというふうな定義的説明はできない。
 したがって、以下の論述は、独在的存在者とは何かをすでに発見的に把握している者にとっては意味をなすが、そうでない者にとっては全く意味が分からないかもしれない。(ただ、以下の論述を読むことによって、ああ、あれが独在的存在者か、と発見することもありえるはずである。)
 独在的存在者にかんしては、次の四つの原則が成り立つ。

 <独在性の四原則・A>
原則1「独在的存在者とは誰のことであるかを、固有名詞によって指示することはできない。」
原則2「独在的存在者とは何であるかを、明示的に語ることはできない。」
原則3「独在的存在者が何であるかを把握することはできる。しかし、それを把握できる人はひとりだけでなければならない。かつ、そのひとりの人が誰であるかを、固有名詞によって指示することはできない。」
 独在性にかんしては、
原則4「独在性とは何であるかを、明示的に語ることはできる」

 では、順番に説明してゆこう。
 ふたたび確認しておくが、独在的存在者とは、世界の中で唯一ひとりだけ特殊なあり方をしている唯一無二の存在のことを、究極まで突き詰めて考えたときに発見されるもののことである。
 まず、原則1について。もし、「森岡正博は独在的存在者である」と指示したとしよう。もしこの文章に意味があるとすれば、それはその文章中の「独在的存在者」ということばが、入不二の言う「単独性の私」(私3)の意味に読み換えられたときだけである。すなわち、「森岡正博は、世界でただひとり特殊な形で存在する「この私」という形式で存在している」という言明へと読み換えられたときだけである。そしてこの言明は、森岡以外の誰のケースでも当てはまるのであり、独在性とは何の関係もない。従って、独在的存在者が誰であるかを固有名詞によって指示することはできない。
 次に、原則2について。ためしに、独在的存在者を明示的に語ろうとしてみよう。たとえば「独在的存在者とは、宇宙の中で唯一特殊なあり方をして存在しているこの私のことである」と語ってみる。しかし、そう語った瞬間、この括弧の中の「独在的存在者」ということばは、再び入不二が言う「単独性」(私3)の意味へと読み換えられてしまう。多くの人間たちが、この文章を自分のケースに当てはめて使うことが可能である。そこでは、究極的な独在性は失われている。「この「この「この・・・・私」」」というふうに、ずらして行って語ろうとしても、それは解決にはならない。独在的存在者が何であるかを把握できるのは、それについて明示的に語るのをやめたときである。(前述の規定、つまり「独在的存在者とは、世界の中で唯一ひとりだけ特殊なあり方をしている唯一無二の存在のことを、究極まで突き詰めて考えたときに発見されるもののことである」という規定は、明示的な定義ではないので、問題ない。この規定だけでは、独在的存在者の内容については一切明示的には示されていない。)
 第3の原則。独在的存在者とは何であるかを把握することは可能である。たとえそれをことばで明示的に語れなくても、ことばなしに把握することはできる。これは経験が裏付けている。ただし、驚異的にすごいのは、独在的存在者とは何かを把握できる人はひとりだけでなければならず、かつそのひとりが誰であるかを固有名詞によっては指示することができないという点だ。というのも、独在的存在者が何であるかを把握するためには、把握する人自身が独在的存在者でなければならず、独在的存在者は理論上ひとり以上いてはならないからである。かつ、原則1より、独在的存在者が誰であるかを固有名詞によって指示することはできないのだから、したがって、独在的存在者を把握している人が誰であるのかを固有名詞によって指示することもできないはずである。誤って、「森岡正博は独在的存在者を把握している」と言おうものなら、その文章中の「独在的存在者」ということばは、ただちに単独性へと読み換えられてしまうことになる。
 独在的存在者を把握している人の数はひとりだけであり、かつそれが誰であるかを固有名詞によっては指示できないというこの第3原則は、常識的な思考とは、もっともかけはなれたものであろう。しかし、この第3原則こそが、「独在的存在者」というものの特質を、極限的な形でもっとも鮮烈にあらわしていると思う。
 第4原則。「独在性」については、事情がまったく異なる。「独在性」とは、独在的存在者がもっている性質やそのあり方のことである。我々は、独在的存在者の性質や、そのあり方について、明示的に語ることができる。そして、その内容について公共的な議論を行ない、論理性や妥当性について吟味することができる。この論文で森岡が行なおうとしているのは、すべて「独在性」の内容についての議論である。
 「独在的存在者」という概念と、「独在性」という概念を、きっちり分けて考えておくことは、この意味でたいへん重要である。
 我々は、独在性が何であるかを把握し、それについて明示的に語ることができる。独在性を把握できる人はひとりに限らないし、それが誰であるかを固有名詞によって指示することも可能であろう。森岡は、森岡がこの論文で述べている意味での独在性について把握していると考えているし、まだ本人に確かめていないが、おそらく永井もそれを把握していると思われる。
 独在性のレヴェルとは、独在的存在者について明示的に語ろうとする試みが、つねに単独性へと読み換えられるという事実によって保証される、究極の唯一無二性のレヴェルのことである。(ヴィトゲンシュタインが私的言語の不可能性について語っていたときに、真に念頭にあったのものは、この独在性の原則なのかもしれない。)

4 「独在性」と私

 独在性と独在的存在者について、もう少し詳しく考えてみたい。
 まず、独在的存在者とは何であるかは、つねに「発見的に把握する」ことしかできない。それに明示的な定義を与えて、教えるということは不可能である。その発見のされ方には、おそらく二通りあるだろう。ひとつは、いままで気付いていなかった独在的存在者というものを、本当に発見する場合。もうひとつは、「独在的存在者」ということばが意味するところのものを体験的にはすでに知ってはいたのだが、「独在的存在者」ということばがそれとは別のものを指しているのだと誤解していたため、そのことばの意味が分からなかった。しかし、ある日突然その誤解がとけて、熟知の「あのこと」を指して彼らは「独在的存在者」と呼んでいたんだ、と気付く場合。前者は、ことがらそれ自体を発見する場合。後者は、ことがらそれ自体はすでに知っていて、そのことがらと「ことば」の正しい指示関係を発見する場合。森岡は、後者のケースが多いのではないかと推測している。
 一般的に言って、「独在的存在者」とは何かを発見的に把握したあとでなければ、「独在性」を把握することはできない。(しかし、「独在的存在者」が何であるかを知らずに、「独在性」にかんする言語使用のルールを修得して、独在性について整合的に語ることは、たいへん難しいであろうが、可能ではある。)
 独在性を把握している二人(以上)の人間が、独在性について議論する様子とは、どんなものになるのであろうか。それは、「独在的存在者」とは何かとか、それは固有名詞で誰のことかなどには全く触れず、もっぱら「独在的存在者」の性質やあり方について、お互いに語り合うゲームとなるだろう。そして、一人が誤って「独在的存在者」の内容について明示的に語ったときには、それが実は「単独性のレヴェル」に落ちていることを、もう一人が指摘し注意するようなゲームになるであろう。
 意外にも、「独在性」について語るゲームとは、きわめて公共的に開かれたフェアなゲームであり、かつその語り方の妥当性を公共的に吟味できるようなゲームなのである。
 さて、ここで重要な補足をしておきたい。
 独在性の原則1は、「独在的存在者とは誰のことであるかを、固有名詞によって指示することはできない」というものであった。しかし、実は、独在的存在者が誰のことであるかを、固有名詞を使わずに指示する方法がひとつだけある。それは、「独在的存在者とはこの私である」と言う場合である。この文章の中の「この私」とは、入不二の言う単独性の私(私3)である。
 「独在的存在者とはこの私である」という言い方が矛盾なしに成立するのは、ほとんど奇跡のようである。ただし、この文章の構造については注釈が必要である。まず、この文章は<「独在的存在者」ということばの意味=「この私」ということばの意味>ということを言っているのではない。その等号は、端的に成り立たない。この文章の正確な意味は、<「独在的存在者」と「この私」とはまったくその意味が異なるが、しかし同時に、「独在的存在者」は「この私」を一意的に指し示している>というものである。当然だが、「この私」が固有名詞では誰なのかを指示することはできない。
 独在的存在者とは誰のことであるかを、固有名詞によっては指示できないのに、「この私」という単独性の代名詞によっては指示できるというこの事態を、我々はどう考えればよいのだろうか。ここには、いまだ解明されていない大きな謎がある。
 この点を考慮に入れると、先の独在性の4原則は以下のように拡張されることになる。

 <独在性の4原則・B>
原則1「独在的存在者とは誰のことであるかを、固有名詞によって指示することはできない。ただし、<独在的存在者とは、世界の中で唯一ひとりだけ特殊なあり方をしているこの私を一意的に指し示している>と言うことはできる。」
原則2「独在的存在者とは何であるかを、明示的に語ることはできない。」
原則3「独在的存在者が何であるかを把握することはできる。しかし、それを把握できる人はひとりだけでなければならない。かつ、そのひとりの人が誰であるかを、固有名詞によって指示することはできない。ただし、<独在的存在者が何であるかを把握しているひとりの人とは、世界の中で唯一ひとりだけ特殊なあり方をしているこの私である>と言うことはできる。」
原則4「独在性とは何であるかを、明示的に語ることはできる」

 ここで次のような場面を想定してみよう。
 独在性を把握していると主張するAさんとBさんが、独在性について議論している。このとき、Aさんが「独在的存在者とはAのことである」と言ったとする。するとBさんはそれが誤った主張であることを指摘し、Aさんも同意するであろう。
 しかしこんどはBさんが、「独在的存在者とはこの私のことである」と言ったとする。このとき、Aさんはどう対応すればよいか。もし、「この私」ということばが単独性(私3)を意味しており、その文章が「独在的存在者」と「この私」との一意的な指示関係を意味していることが明白ならば、Aさんはその文章それ自体の内容を肯定せざるをえないのである。かりにBさんが「独在的存在者とは、あなたではなくて、この私のことである」と言ったとしても、やはりAさんはその文章の内容を肯定せざるをえないのである。(もちろん「独在的存在者とはBのことである」と言ったのならば、それは否定しなければならない。また、「この私」ということばがその文章の発語者のことだけを意味しているならば(私1)、その文章は否定されなければならない。)
 ここに、独在性をめぐる大きな秘密がある。
 これを拡張すると、たとえば、百人の集団がいて、皆が「独在的存在者とはこの私のことである」と主張して、かつ皆が全員のその主張を認め合って、肯定しているケースもあり得ることになる。(かりに前者を「ブラフマン」後者を「アートマン」と呼んだとするとどうなるか。)

5 <私>の否定

 独在性については、まだまだ語るべきことがたくさん残されている。しかし、もはや許された枚数が尽きたので、最後に永井の<私>の独在論の欠陥について、その概要だけを述べておきたい。
 永井は、森岡の言う「独在的存在者」を指すときに、<私>という表記を用いている。しかし、この表記はきわめて不適切であり、ミスリーディングであると思う。
 「私」という概念は、「私ではないもの=他者」という概念とセットになって成立する。「他者」を予想しないような「私」は、あり得ない。ところが、独在性のレヴェルとは、「他」なるものが原理的に存在し得ないようなレヴェルのことである。独在的存在者とは、存在の唯一無二性を究極まで突き詰めたときに発見されるもののことであるから、独在的存在者に関しては、「他の独在的存在者」などというものは理論的に存在しない。その独在的存在者を指し示すときに、「他者」を予想することを宿命付けられた「私」という単語を使うのは、完全におかしい。
 永井は、<私>という表記のほかに、<魂>という表記をも行なっているが、この後者のほうがより適切であると森岡は思う。
 独在的存在者を指し示すのに<私>という表記を用いることで、永井は自ら仕掛けた罠に陥って行く。すなわち、<私>について語ることは、必然的に「他の<私>」について語ることになっているはずだ、という誤った思索へと導かれてしまうのである。
 永井は、他の<私>=他者について、次のように結論づける。

 他の<私>を暗に措定することなしには<私>を主題化できないのは、永井が「独在的存在者」を指し示すのに「私」という単語を使ったことに由来するのであり、決して「独在性」の本性に由来するわけではない。「独在的存在者」は、「他の独在的存在者」を暗に想定しなくても措定可能であり、その性質は吟味可能である。
 むしろ、「独在的存在者」には「他者」は端的に存在しないと、明確に断定すべきである。独在性のレヴェルにおいては、「他者」の問題は決して主題化されないし、非主題的にかいま見られることもないのである。
 永井が<私>の陰にかいま見たのは、独在的存在者を<私>と誤って表記したことに起因する、「他者」の完全な幻影だったのである。独在性のレヴェルに、「他者」は非主題的にさえ登場しない。もし、永井が独在性のレヴェルにおいて、他の<私>を非主題的にかいま見ることに執着するとすれば、永井はこの点において真の独在性のレヴェルから後退したのだと言わざるをえないであろう。私という単語は、人を独在性のレヴェルにまで導くための便宜的な道具としては有効だが、いったん独在性のレヴェルにまで達したあとでは、放棄されなければならない。
 森岡の独在論は、この点において永井の独在論とたもとを分かつことになるのかもしれない。森岡の独在論においては、「他者」は他の<私>として登場するのではなく、独在性のレヴェルについての議論を可能にするこの世界の公共的な性質という形に変質して、登場するのである。そしてそれは、人称的世界に関するもうひとつの性格、すなわち人称の「共同性」という性格として措定されることになる。「共同性」と「独在性」とは互いに独立変数であり、この二者がセットになることによって、人称的世界の基本構造が形成されるのだと森岡は考えている。独在性は、人称的世界を構成する一断面にすぎない。入不二が強調する「エロス的言語ゲーム」のような性質は、独在性のレヴェルとは無関係だとしても、やはり人称的世界の重要な性質のひとつを形作っていると考えるべきである(12)。
 以上、本節で駆け足で見てきた永井批判と、森岡の「共同性」論については、いずれ他の機会に詳しく論じることにしたい。そのときまでには、永井自身の考え方もさらに進展しているであろうし、森岡の見解もまた批判され、変化していると思われる。このテーマについての議論は、ここ数年のあいだ日進月歩の速度で展開されているので、森岡が本論文を仕上げた日付をここに記して、ひとまず本論文を終えることにしたい。(一九九三年三月一三日)

(1)本論文執筆にあたって参照した永井の著作は、以下のとおりである。
 『<私>のメタフィジックス』(勁草書房、一九八六年。以下、『<私>』と略する。
 『<魂>に対する態度』(勁草書房、一九九一年。『<魂>』と略。
 「他者」(『現代哲学の冒険4・エロス』岩波書店、一九九〇年。二〇八〜二六一頁。
 「独在性の意味」(『人文科学論集』26号、信州大学人文学部、一九九二年。二三〜三九頁。
 「独在性の意味(二)」(『人文科学論集』27号、信州大学人文学部、一九九三年。二七〜四二頁。
(2)『<魂>』二二四頁。
(3)『<魂>』二二五頁。
(4)「独在性の意味」二五頁。
(5)公刊されたものでは、山田友幸「他者とは何か」(飯田隆・土屋俊編『ウィトゲンシュタイン以後』東京大学出版会、一九九一年、四三〜六八頁)など。(なお、直接の関連性はないが、平山朝治『社会科学を超えて』啓明社、一九八四年、もこの問題について独特の議論を行なっている。)
(6)Irifuji, Motoyoshi "From De Se to De Me: On the Singular Self Hidden in the Irreducibility Thesis of De Se"(『武蔵大学人文学会雑誌』二四巻二号、一九九三年)
(7)入不二基義「「私」・他者・エロス的言語ゲーム」(『武蔵大学人文学会雑誌』第二三巻第四号、一九九二年[三一〜六四頁])四〇頁。
(8)永井「独在性の意味(二)」四〇頁。
(9)永井「独在性の意味(二)」四〇〜四一頁。
(10)ただし、永井の否定にもかかわらず、入不二もこの独在性のレヴェルについて語っている箇所があると私は考えている。入不二前掲論文参照。
(11)永井「他者」二五五頁。
(12)入不二「「私」・他者・エロス的言語ゲーム」の後半参照。

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