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作成:森岡正博 
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エッセイ

 

2006年10月31日公開
加藤典洋のエロチックな時評(未発表)
森岡正博

  晩飯を食いながら新聞を読んでいたら、なかなか興味深い文章を見つけたので、報告しておきたい。それは2006年10月30日の『朝日新聞』夕刊の加藤典洋「文芸時評」である。
  加藤はまずガルシア=マルケスの新作『わが悲しき娼婦たちの想い出』について書き始める。その小説には、90歳になった老コラムニストが、14歳の娼婦と一夜を過ごすシーンがある。ガルシア=マルケスからの引用の最後には、「通りを竜巻が吹き抜けて、・・・女学生のスカートを捲り上げていた」との文章がある。
  その直後に、加藤は、綿矢りさの新作を取り上げて、激賞するのである。この時点で、私はすでにぎょっとしたのだが、加藤は綿谷のことを「これだけスケールの大きい、何もかも流儀の違う書き手」と褒め上げる。綿矢の小説は、端正な容貌の女の子が、アイドルとして成功したのち、恋愛に耽溺し、セックススキャンダルで18歳という若さで没落していくというものである。加藤は時評のほとんどのスペースを、綿矢の記載に当てている。
  綿矢りさは、17歳でデビューした端正な容貌の小説家であり、現在22歳である。彼女自身、メディアではアイドル的に扱われており、隠し撮り写真がネットで話題になったこともある。これらの背景を知ったうえで加藤の時評を読むと、なんともいえない気分が沸き起こってくる。90歳の老コラムニストが14歳の娼婦に注いだであろう性的な視線を彷彿とさせるような文章を、冒頭に置き、「スカートを捲り上げていた」という文章を引用し、その直後で、綿矢りさへの感情告白のような文章を延々書いているのである。
  この時評の構成は、単なる偶然とは思えない。加藤典洋というプロの批評家(コラムニスト?)が、このくらい強烈な構成の文章を書いたのだから、そこには何か伺いしれない意図があるのだろう。それが何であるのか、私には計り知れないが、読後感は爽快なものではなかった。もちろん加藤は綿矢のことを褒めちぎっているのだし、実際に綿矢の小説は加藤がそう言うのだから本当に優れたものなのだろう。綿矢もまたここまで誉められると悪い気はしないだろう。この文章の中では、誰も傷つけられてないし、誰の権利も侵害されてない。
  気になるのは、ガルシア=マルケスの小説にあるという、老コラムニストが少女娼婦を見つめる性的な視線が、この文章に横溢しているように、私には読めて仕方がないという点である。そもそも綿矢を誉めることのみが目的なら、冒頭のガルシア=マルケスのエピソードはまったく不要である。
  加藤自身は、自分はそんなことはまったく意識していないし、意図してもいないと言うだろう。問題は、この文章をこういうふうに読んだ森岡の側にあると指摘するかもしれない。つまり、老コラムニストの視線というのは、この私自身が若い女性に対して向けているところの視線なのではないか、というわけである。
  たしかにそのような側面はあるのかもしれないと思う。それでもなお言えるのは、それに気づかせてくれるほど、加藤の文章の中にもまた同種の視線が横溢していたということではないのか。さらには、「文芸評論」という装置それ自体がそのような視線を「あからさまにしつつ隠蔽する」という機能を果たしているのではないか。すなわち、文芸の内容とは関係のない性的な批評家の視線を文脈の中に横溢させるということを臆面もなく許しておきながら、同時に、それを「文芸評論」という外皮でくるむことによって、性的な視線の猥雑さを指摘するのは野暮だという共同謀議の雰囲気を捏造しているのではないか。
  自戒を込めて、そのようなことを思った次第である。(了)

 → 感じない男ブログにも転載されている