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作成:森岡正博 
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脳死移植について

−母の脳死体験を通して

99年度明治学院大学応募論文

大野綾子
 

はじめに

91年自宅階段で転倒した母は間もなく脳死状態に陥り、15日後に心臓が停止して亡くなった。当時脳死臨調では各分野の学識経験者が「脳死と臓器移植」をめぐり審議を重ねていた。正確な知識を持ち合わせなかったが関心は持っていたので、母の脳死に遭遇してすぐに臓器提供を真剣に考えた。しかし結果的には出来なかった。以来、提供出来なかったのは私の「エゴ」故だったのかと自問し続け、「脳死と臓器移植」は重いテーマになり、この問題に関する社会の動きに特別の関心を持って見守ってきた。
この春、本学院で大阪府立大学教授森岡正博氏の講演があった。そこでは脳死移植の是非を論議するのでなく、臓器が流通する社会にあって、「脳死移植」に「意味付与」をするという大変興味のあるものだった。そんなことから身内に脳死者を持った者として、その間の心の推移を通して、改めて「脳死移植」とはの意味付与をしてみたい。

脳死者をだした家族(私)の心の推移

当日 我が家の近くに住む母と路上で別れた日の翌朝、1991年2月7日、近所の方から母がマンションの階段で転んで今救急車で運ばれたという電話にビックリ、行き先が東京女子医大ということで、何でそんな遠い病院なのか、大分ひどいのかと不安が一瞬脳裏をよぎる。駆けつけた病院では近所の方が廊下にいて、途中で意識がなくなったという、大分悪いようだから覚悟しなさいよの言葉に益々不安が拡がる。今処置中ということでそのまま待つこと2時間近く、漸く担当医の説明がされる。転倒したことでくも膜下出血を起こしたか、又は発作が起きて転倒したか分からない。CTや脳部レントゲンなど検査をしたが今の段階では手術は不可能、自力呼吸をしていないので人工呼吸器をつけてICUに入っている。経過を見て落ち着いて手術できるようになれば良しだが、その可能性は少ない、それよりもこのまま脳死に至る可能性が多いという話だった。それからICUに案内され母と対面、沢山の機械に囲まれた母は転倒の時切ったのだろうか唇に少し血をにじませ、呼吸器をつけ、点滴を受け、導尿されてはいるが、ちっともやつれてもいず、顔色もよく、心電図も規則正しく、単に昼寝中としか見えなかった。「昨日あんなに元気だったのにどうしたの。全くオッチョコチョイね。起きてよ。」と声をかけ、手を握ると温かい。この時点では医学知識の乏しい私は事態をそれほど深刻に受け止めず、くも膜下出血ならあの人も手術をして元気になっているから、落ち付いて手術さえが出来れば大丈夫。25才の若さで未亡人になり、その後苦労してきた母がこのまま死んでしまうなぞ、神様が許すはずがないと、取り乱し動揺しつつも希望的であった。多くの脳死者の家族と同じように、全く晴天の霹靂の出来事であり、心の準備はゼロだった。

その頃脳死臓器移植に関して脳死臨調が審議中であり、まだ答申はでていなかったが、移植を推進する医療関係者の声が優勢であった。既に心臓死臓器移植は行われていた。私自身は義父が長いこと人工透析をして苦しんだので、臓器移植に関しては積極的に推進すべきだと簡単に思っていた。自分が死んだら腎臓と角膜の提供を決めており、家族間では意思表明をしていたが、実際の登録は一日延ばしにして済ませていなかった。

二日めから前期 ICUの前のベンチで眠れぬ一夜を明かした翌日、再び担当医の話では、転倒により脳幹部に強いダメージがあり、手術は不可能、ほぼ脳死状態に近い状態になっている。これから一日おいて二回脳死判定をする。脳死になると99パーセント一週間から十日で心停止になる。まだ手術の可能性を信じていた矢先故、頭の中は真っ白になったが、咄嗟に口に出たのは「たとえ脳死が判定されても、心停止するまでは積極的に治療を続けて下さい」。私の乏しい知識では脳死が判定されれば即臓器移植されかねない。それはこの寝ているとしか見えない母の身体にメスを入れて心臓を取り出すことであって、そんなことは絶対に出来ない。先生は99%といったじゃないか。1%の可能性に賭けよう(担当医は治癒の可能性でなく、心停止に至る期間を意味していたようだが)すると担当医は「勿論です。脳死移植はまだ日本では認められていませんから、出来るだけの治療をします」との言葉に安堵する。一日三十分足らずの面会時間に、身内が次々やってきて「頑張ってよ」と手を握り、足をさすりして励ましてくれる。第一回判定の結果は脳死。会う度に母の髪の毛が少しずつ伸びているのが根元だけ白髪なので分かる。爪も伸びる。尿も出ている。愛犬の写真を枕もとに飾り、話しかけながら手を握っていると、不思議なことに血圧が事実少し上がるのだ。まだ完全に希望を断ち切れずにはいるが、1日ごとに、1%に望みを賭けたいけれどやっぱり駄目なのかなと、次第に母の寿命が尽きる寸前なのだと受け容れ始めてくる。でもICUに来れば寝ている母の温もりに直接触れられるだけでも良い、一日でも長くその小さな平安が続いてくれるように祈り続ける。第二回判定結果も脳死。脳死になったら助からない、「脳死は人の死」を頭で理解していても、目の前に寝ている母は断じて死んでいる人ではなかった。

この辺りの家族の心理を森岡氏は人間は頭での理解と全身での実感という、二つの世界観・リアリティの間で揺れ動くしかない。どちらかが正しいのではない。矛盾する幾つかのリアリティを同時にまとめて生きねばならないのが人間であり、その真実を捉えていく視点が必要だ。何故実感が湧かないか、それは脳死者の温かい身体と、それを感じている親近者との心身の間にある親密な関係性と歴史性がなお強固に成立している故、まだいのちある者としている。親近者には「元気な時の面影」「温かい身体」の方が、その重要性において「脳内の科学的情報」より遙かに勝っているのだと述べている。

中期 母の顔がパンパンのムーンフェイスになって人相が違ってくる。腎機能が衰えて排尿量が極端に減ってきたためのむくみからだ。その顔を見ながら、もしこの状態で死んだらお葬式に来た人は母とは思えないだろう。亡くなる前に何とかむくみを取ってもらいたいと、母の死が着実に間近だと受け容れの準備が気づかぬ内に次第に出来てくる。透析が始められる。そんな中で母の心停止後の臓器提供を考え始め、身内に相談する。母の長兄は「身体と霊魂は別のものだと思っているからおまえの好きなように」といってくれる。長女は「お祖母ちゃまは生きている内に充分人のために尽くしたから、死んでまで人のために尽くすことはない」という。多くの意見を聴きながら、母自身の意志を確認はしていなかったが、私は臓器移植を決意していく。だが今はまだ言う時ではないと意思表明を拒むものがあった。意思表明することよって新鮮な臓器を得るために、積極的な治療は打ち切られるに違いないという不安と危惧。寝ているだけの母で良いから、このままここにいて欲しいという母の身体への執着を断ち切れなかった。苦渋の選択であったが家族として仕方ないと思い、心に秘めていた。

『見えない死』の著者中島みち氏は先端技術は常に効率を追っており、臓器移植にとっては新鮮な臓器ほど優れた材料、資源であるとされていることが問題だ。臓器移植を心臓死以後に行う場合でも、心臓死後では刻々と臓器の活性が失われるのを恐れて、腎臓提供にしても脳死の内に足の付け根の動脈から管を入れて臓器の冷却を開始する。これにより心臓死も速まる。臓器提供は申し込まれると、その人を生かす医療から、臓器の新鮮さを保つ医療に切り替わるのである。ここに完全に相容れない立場が顕著になってくる。脳死者を単なる死体とは見えない身内と、脳死者を移植のための単なる資源としか見えない移植医療関係の人達だ。強い医師が脳死者は死体であり、資源であると考えれば、患者側はそれに逆らうことが難しくなり、その扱いに傷つき、移植に賛同したことに哀しみを新たにし、後悔するだろうと述べている。私の危惧もあながち杞憂でなかった医師と患者の関係の構図が浮き彫りになってくる。この溝を埋める手だてはないものだろうか。現実にこの4月、我が国で臓器移植法制定後初の脳死者からの臓器移植が高知赤十字病院で行われた際に、医学界、行政、メディアも死にゆく人の家族を深く考えていなかったことが露呈した。それは病院側は患者がドナーカード登録していることが分かると、法的脳死判定に入る前段階から、脳死移植を前提に動き出した可能性が強いということだ。この点を柳田邦男氏は移植優先でなく、死にゆく人と家族を尊重した形にすべきと主張している。著書『犠牲』の中で、死には一人称、二人称、三人称の死があり、一人称(私自身)がどのような死を望むか、二人称(あなた)連れ合い、親子、兄弟、恋人等人生を分かちあった肉親の死に辛く厳しい試練に直面する。三人称(人一般)第三者の立場から冷静にみる死である。医師にとっては患者は飽くまで三人称の死であり、そこには人生を共有した肉親との死別の喪失感や悲嘆はない。それぞれに全く異質である。氏自身が自死し脳死になった次男つまり二人称の死をいかに受容し、臓器移植にまで至ったかを書いている。その11日間を最初の2日間は動転して何かを考えるまでに及ばない。3日目辺りから、彼の人生をどう完成すべきか少しずつ前向きに考え始める。五日目不必要な延命は辞めること、彼の遺志を汲み死後腎臓提供を決意したが順調に移植の準備が進んだのではなく、数日をかけ、担当医や移植コーディネーターとじっくり話し合い、心の整理をし、声なき息子とも対話を重ねた上で、可能な限り自然死に近い死を実現するために輸液の軽減と死後腎提供の準備に入った。その間担当医や看護婦達が患者に誠意を込めた世話をしてくれ、家族を励ましてくれた。いのちの共有を感じられた。看取る家族への医師や看護婦の温かいケアに支えられ、看取りのためのゆったりとした「時間」と ICUの中の個室という気兼ねなく患者の側にいてやれる「場」が与えられた故に、臓器移植ができたことによりむしろ慰められ、充足感を得たように思われる。

後期 我が家の場合は幸か不幸か臓器提供を申し出ないままに、誕生日までは頑張ってネという祈りどおり、その翌21日小雪の舞う朝、家族の見守るなか、遂に心蔵が止まった。「お疲れさまだったわね。ご苦労様」と母を労いつつ、刻々と冷たく硬くなっていくその死を静かに着実に受容できた。その後担当医の方から解剖の申し出があった(結果は脳挫傷による硬膜下出血だった)ので、承諾と共に臓器提供を初めて申し出たが、結果的には母が頑張った15日間という期間のため、臓器は溶けて移植できる状態ではなかった。この結果がその後の長く苦しい私の葛藤になった。移植の意志表明をしなかったのは私のエゴではなかったかという自責の念と、二人称の母の脳死を受容するのにあの期間は必要不可欠だったとの想いの狭間での自問が続いた。当時移植法成立以前のことであり、表だって私を攻める人は誰もいなかったが、心停止後の移植は可能であったので、その後の移植医の論議の中に、移植を待つ患者から、メディアから無言のプレッシャーを感じた。その葛藤を前述の森岡氏の講演会の最後に質問した。「それをエゴというのであれば、移植を受けたい患者も他人の死を待ってその臓器をもらってまで生きたいというエゴでしょう」との回答に正に眼前の霧が晴れる想いであった。誰がエゴかなどの論議から解放され、もっと大きく「脳死移植」に意味付与をしていくことに方向転回させてもらった。

最後に 母の脳死を通して脳死移植に関して考える点と問題点

「脳死移植」の問題を考える時、脳死者とその家族、医療関係者、移植を待つ患者のそれぞれの相容れない立場の相違がある。それら様々の立場に立つ人々、ドナーの家族、現在のところ移植しか直す方法がない患者を抱える移植医、移植を待つ人のこと、又外国で移植を受け元気になった人、移植前に亡くなった人、移植推進派、慎重派、反対派のジャーナリスト、医療関係者、法律家、社会学者、文学者、宗教家などそれぞれの意見には傾聴に値するものが多かった。それらを総じて私なりの考えが形成されてきた。結論のみを先にいうなら脳死移植は行われるべきものである。但しハードルは高い。臓器移植を前面にみると、先端医療による患者への治療医療が絶対化され勝ちなのが世の中の趨勢であるが、一方人間としての尊厳を持って一生を終焉するための看護医療、又その家族にとっての看取りや、亡くなった後のグリーフワークなどをも含んだ末期医療が治療医療とは別に大きくクローズアップされてきている。正に末期の看取り医療を要するドナー家族の人々と臓器移植による治療を待つ人々がいる。その間を双方の面から関係づけるのが医療関係の人々である。それを考える時、順序として初めにドナー家族への看取り医療が充分に行われるべきであり、それなくして、次のステップには進み得ない。決して初めに臓器移植ありきであってはならない。その看取り医療に必要なことは、・長い看取りの時間を保証する。・静かに看取りが出来る場所と設備を提供すること。・脳死の人に看取りのための最低限の看護を施すこと(森岡正博著『脳死の人』)とある。脳死者家族の願いがこれによって整理された。移植はその家族がその人の看取りを終え、その死を受容した後に初めてなされるべきものである。その次にかたや移植によって生き長らえる人が待っている、本人も移植に賛同していた、愛する人は死んでもせめてその臓器だけでも他で生き延びてくれれば等、色々考えて葛藤の末、臓器移植を選択し、呼吸器を外す決断の可能性がでてくる。その哀しみと喪失感に打ちのめされている人に対する労りと心配りのある対処が為されれば、その遺族も傷つくことなく、却って移植をしたことによって慰められ、癒されるのではないか。その理想通りの看取り医療を受けた柳田氏の例に見るように、現に実行し得るのである。

家族が選択に悩む時、本人の意思表明、ドナーカードは大きな後押しになるゆえ、全ての人がよく考えてドナーカードを書くべきである。今回私も初めて知ったのだが、ドナーカードには脳死後、あるいは心停止後どの臓器を提供するか、又全く提供しない、の三つの中からの選択があるので、自分はどれを望むのか、これを機に自分の死を見つめ自己決定する良い機会である。現在の移植法は三年後に見直され、その際はこのドナーカードがなくても家族の同意だけで出来るように変更されるそうだが、そこにはきめ細かいケアーより、単に数の増加を計って、脳死者の家族に対する強い治療医療からの圧力にならなければ良いがという不安を感じるのは思い過ぎだろうか。
他にも問題点は多くあるが、一つに日本は移植の数が少ない、移植後進国だと外国との数の比較での批判が聞かれるが、数のみに追従するのは正しいことなのか。フランス、イタリア、ドイツでは脳死に陥った時、臓器提供はしないという本人の拒絶表明がない限り、家族が同意しなくても即刻摘出が行われる。しかし今移植先進国といわれるアメリカの生命倫理学者の間では、特に家族が脳死の人をどう捉えるかの議論がなされなかったので、日本の脳死論議が高く評価されはじめ、日本の論議から学ぶべき時期に来ているといわれている。国によって死生観も多様であるが故に、外国の件数のみに踊らされず、日本でも脳死移植がスタートした今、日本人の心情に沿ったやり方がなされているか否か、国民は見ている。その如何によって医療不信を一掃し、臓器移植が我が国に根付き、ドナーが後続するかどうかの正念場であり、それは偏に医療関係者の対応にかかっているのではないか。それは今まで得てして医療関係者に求められてきたものは治療医療が主流であり、そのためには患者と距離を置いて、第三者として冷静に治療に携わることが当然とされてきたために、むしろ感情移入せず、傍観者の科学の目で効率性のみを追求し、それで良しとされてきた長い歴史がある。そこには当事者のいのちのかけがえのなさが軽視されがちであったが、今そのかけがえのないいのちに目を向ける看護医療の大切さが見直されていることは既に述べた。この二つの医療の関係をどう切り結ぶか、医療関係者の今後の対応が生命倫理の上からも最も大切なのではないか。

飽くまで臓器移植による治療法は過渡的なものである。どうやってもドナーより移植希望者の方が絶対的に多いアンバランスは如何ともし難い。しかし臓器移植も含めてかって想像だにできなかった先端医療を視れば、今移植しかないというその別の治療法も必ず開発される。一説によれば人工心臓を含めた人工臓器の時代はあと十数年で来るといわれている。脳死にしても低温治療法などは日本が移植先進国でなかった故に開発された治療法であるが、それによって脳死の線引きも少し動いた。これらを考えれば人の死を待つ臓器移植による治療法は通常の医療としての本流になるべきものではない。

今一度原点に戻って「脳死は人の死か」を再考する時、日本では脳死移植のために移植法では脳死は人の死である。よって脳死者からの臓器移植は殺人ではないという論旨の根拠としているが、脳死者の身内としてはどうしても馴染めない論旨である。又その論旨を拡大していくとゆくゆくは脳死になった途端に死人には保険が利かず、死んだ者への治療は取り止めになるだろう。それよりも脳死者は生者であるが、社会的利益を認め、違法であっても容認する違法阻却論に基づく移植法の方が、脳死者の身内としては提供を決意しやすい。どう脳死移植に意味付与をしても、私にとってあの最後の15日間を共有し、無言の優しい語り合いの相手をしてくれた母は死んでいたとは思えない。

参考資料 森岡正博『脳死の人』ベネッセ『生命観をといなおす』筑摩書房・「移植前夜」「脳死移植について」「脳死との出会い」「」はインターネットより 岸栄三『臓器移植』東洋経済新報社 柳田邦男『「犠牲」わが息子・脳死11日』文芸春秋社「移植成功絶賛の陰に」‘99.3.1週間文春 日本死の研究会編『死とむきあうための12章』人間と歴史社 鈴木盛一『生命から生命へ「臓器移植」海竜社 椿忠雄・関正勝『生命科学とキリスト教「脳死」』日本基督教団出版局 梅原猛『「脳死」と臓器移植』朝日新聞社 水谷弘『脳死ドナーカードを書く前に読む本』草思社 加賀乙彦『脳死・尊厳死・人権』潮出版社 立花隆『脳死』中央公論社   【了】



自己紹介                                                     98NS-026大野綾子

 既に3人もの孫のいる私が、20年近い東京YWCA『留学生の母親』運動でのボランティア活動の延長線上に、許されて社会人として明治学院大学での学びを始めたのは2年前の春でした。私の夢「共生」出来る世界の実現への一歩でした。久々の学舎では授業以外にも私の興味を引く沢山のプログラム企画がありましたが、授業についていくだけで精一杯で、全てに参加できないことはとても残念な思いでした。そんな中で昨年は日韓関係研究会に参加し、今年は秋にその集大成ともいえる「韓国から平和の考える旅」に参加し、春には社会学部学内学会、同窓会共催の大阪府立大学教授森岡正博氏の講演会「脳死移植」を聴くことができました。
 それは'91年に私の母が突然脳死になった時、心停止したら使える臓器は全て提供しようと決意をしていたにも拘わらず、申し出たタイミングが遅く、移植出来なかったことが、移植を待っレシピエントとの「共生」にまで心が至らなかったエゴだったのかと自分を責めました。以来脳死移植は依然私にとって大きな辛い関心テーマでありましたが、森岡氏の講演会で一条の光が射し、今回そのテーマを真正面から見据えて自分なりの見解をまとめ上げることが出来ました。ただ考えるべき論点も、言いたいことも沢山ある中、枚数の制限もあり、当方の表現力の未熟もあり、消化不良の多いものに終わったことは私の力不足で残念です。しかしともあれ、これを成し遂げられたこと自体が、母と私自身への鎮魂歌であり、私にとっては大きなグリーフワークになりました。その上思わぬ賞まで頂戴できたことは望外の喜びでした。この機会を与えて下さった本大学及び保証人会に、又そっと後ろから後押しをしてくれた母に心から感謝をしています。