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作成:森岡正博 
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死について―死んでしまったこの人がまるで生きているかのように感じる…なぜ?

けい

 わたしの知っているこの人が死を迎えた。
 この人はもう、ふたたびその瞳でわたしを見ることはない。わたしはこの人の亡骸を見て、もうこの人はこの世にはいない、ということを確かに理解した。しかしこの人がこの世にいなくなったとはいえ、わたしの記憶からこの人が消えることはないし、それどころかわたしの心に映るこの人の影は、これまでに見たこともないような美しい表情でわたしに微笑みかけたりするのだ。この人はまるで生きているかのようにわたしを勇気づけてくれる。わたしは生きている。しかしこの人は死んでいる。いやこの人も生きているのではないか。わたしは生きて横たわる時間の連続の中にいる。しかし死んでしまったこの人にとって、時間はいったいどこにいってしまったのか…。生きているわたしにとってみれば、時間のなかにこの人はいない。そして死んでいるこの人にとっては、この人の時間のなかにわたしはいない。時間という概念には、わたしと死んでしまったこの人とが共有できる接点はないであろう。けれどもなぜか、死んでしまったこの人をわたしはまるで生きているかのように感じる…。
 けれども、死後の世界についてどのようであるかをいくら問いかけてみても、結局、ほんとうの答えというものをもっていないので沈黙してしまう。それでもあえて、わたしはいつかこのことを語ってみたいと思っていた。
 ここに小さな論文がある。G.ローフィンク(1975,当時チュービンゲン大学神学教授)著の「死後、何が到来するか」(邦訳:神学ダイジェスト41号pp.4-15)である。著者は、自然科学者や医者や哲学者としてではなく、神学者として、つまり神の言葉を説き明かす者として話している、ということを前提にしている。 「信じる」という行為が自らを他者に完全にゆだね、それによって認識することであるという委託する人間の基本的姿勢を明らかにしながら、「無のなかにではなく、神のなかに死にゆく」人間の最終的な永遠の出会いを描こうとするのである。わたしはこの論文に出会ってとても嬉しかった。「死んでしまったこの人をまるで生きているかのように感じるのはなぜか」というわたしのなかの問いを、この論文を使って誰かに話してみたいと思った。

 「記憶」は、時間を超越してわたしのなかで現実となる。過去に体験したことを、まるで今体験しているかのように想起することは、とりもなおさず、「今、想起している」という現実のなかで行われていることだ。すべての人は「記憶」をもっている。わたしは、わたしのなかの記憶が単にわたしのなかの記憶に留まらず、わたしを超えたもっと大きな記憶のなかで小さなわたしが記憶しているという感覚を記憶に対して抱いている。この感覚をG.ローフィンクは美しく説明してくれる。

 死を迎える人は自分のその全生涯の「記憶」をすべて携えて死んでいくという。G.ローフィンクは「死後、何が到来するか」の論文のなかで、ソ連の詩人、エフゲニー・エフトシェンコの詩を用いてこのように説明している。人間一人ひとりには世界があり、自分だけが味わうことのできた過去の経験と体験は、全く独自で、無限に貴重で、理解しえない神秘である。だから、人は死ぬとき、彼とともにすべての「記憶」も携えて死んでいくのである。

「人はだれしも自分だけのひそやかな一個の世界を育てている。
 この世界には最良のときがあり、この世界には恐怖のときがある。
 だが、それらはすべてわれわれの目に隠されている。
 そして人が死ぬとき、
 その人とともに死ぬのは、その初めての雪、その初めての口づけ、その初めての争い…
 それらを人はすべて携えてゆく」。

 G.ローフィンクは「人間が死ぬたびごとに、決して平凡なものとはいえない、きわめて個人的な世界が崩壊していく」と言う。そしてさらに「人間一人ひとりの個人的な世界には、他の世界および歴史全体が分かちがたく結びつけられており、死においては、私たち自身(死にゆく人)とともに他の全歴史が神のもとに行く」ことになると続ける。とすると、わたしが生きているこの時間の真っただ中で、わたしをも含む全世界、歴史全体の記憶を携えたこの人が、そしてまた他の人が、ひとりひとり死を迎えるたびごとに、わたしはその死にあずかっているということになる。
 「死において、すべての時間は消滅する」。
 わたしが生きているこの世界は、「時間」によってしか経験できない世界であるが、今、この一瞬の時間にでさえ、死を迎える人たちの現実があるとするならば、わたしは消滅した時間のなかにも存在していることになるのではないか。

 古代イスラエルの「天、地、陰府」という三層構造による世界観は、この時間を超越した感覚を理解するために参考になる。

 旧約聖書に見られる「アーマキーム(深淵)」という言葉が象徴しているのは絶望感、混沌、押し寄せる困難であり「シェオル(死の支配する国、陰府)」のイメージでもある。当時の世界観において「シェオル」は神からいちばん遠いところ、神の光の射さない、神との交わりを絶たれるところと考えられてきた。一方「シャーマイム(天)」は聖域を示し、「いのちの源」がそこにあり、神が座しておられると考えられていた。天と陰府に挟まれた人間の立つ「アレツ(地)」は脆弱で壊れやすく、いつ深淵に落ちて行くかわからない不安定さを持っている。いのちの力の弱まっているところにはどこにでも、衰弱、病気、監禁、敵の脅威、法からくる危険、心配事などで溢れているように、死の領域が人間の立っている地、その世界に侵入してくる。嘆きの詩編において祈る詩人の姿は象徴的である。足元の大地の底知れぬ深みと、頭の上を果てしなく高く覆う空の彼方を想いながら、罪に曲げられた自分をただ神ヤーウェの慈しみにゆだね、声をかぎりに叫びながら、ひたすらに待つのである。
 このような三層構造の世界観は、横たわる時間を輪切りにしたときの厚みを示す。すなわち、この一瞬の時間のなかに可視的ではない世界(陰府と天)を認め、その世界と一緒に「いる」という感覚なのである。

 「死において、すべての時間は消滅する。したがって人間は、死に移行するとき、自分自身の完成のみならず、同時に世界の完成をも体験する」とG.ローフィンクは言う。
 新約聖書において、旧約聖書の世界観はイエス・キリストとの関係において語られる。「わたしたちの最終的な神との出会いは、イエス・キリストにおいて行われる」。神の永遠の愛が、すでに歴史の中でイエスにおいてこの世界に介入し、陰府から天への時間の層をも超越して完成へと導いたからである。生きているわたしたちはこの世でイエスと出会う。そして死を迎えるとき、完全にイエスにおいて神と出会う、とG.ローフィンクは言う。

 わたしは死んでしまったこの人をまるで生きているかのように感じる。
それは単にわたしのなかに残っているこの人についての「記憶」がそう感じさせるから、といったようなものではない。生きているわたしも、死んでしまったこの人も、神の「記憶」のなかで分かちがたく結びつけられているからだ。わたしを含む全世界の歴史、その「記憶」が、この横たわる時間の一瞬において死ぬ人々とともに死んでゆき、その死においてすべての記憶は神のものとなるのである。神の記憶はわたしたちを包む。こうしてわたしたち生きている者は、神の記憶のなかで、神のもとにいる彼らのことを思い出すのである。生においてすべての時間は横たわり、死においてすべての時間は消滅する。「時間」においてはたしかに、わたしと死んでしまったこの人とが共有できる接点はない。けれども「記憶」において、「神の記憶」においてわたしたちはともにいる。ともにいて、いのちを与え合っているのである。しかし…。

「人々は去ってゆく…
そこには帰路はなく、
彼らのひそやかな世界が再び建てられることもない。
そのたびに新たに私は、
この取り返しのつかなさを声をあげて叫びたくなるのだ」。

 エフトシェンコの詩はこのように続く。この「叫び声」こそがいのちのかよっている証拠のように思えてならない。「叫び声をあげる」という行為は他者への「信」という前提が含まれているような行為だからだ。たしかに去っていった人々には帰路はない。彼らがどのような到来を知ったかもわからない。そして最終的にわたしがこの人が死んだ気がしない、といった感覚でさえあてにはならないものかもしれない。「神の記憶」という概念は単にわたしが想定しているものにすぎない。こうしてわたしが話したかった「死んでいるこの人についての存在感」が崩されて行くだろう。頭のなかで考えた「偽りの信」は消えて行くにちがいない。残るのは「叫び声」だけなんじゃないか。
 G.ローフィンクは冒頭において「信じる」ことについて次のように語っていた。その後の長い神学的考察は付けたしで実はこれが言いたかったんじゃないか…とさえ思う。「私たちは他の人間が与えてくれるすべての愛の保証の背後に至高の真実の愛が隠れているということを、どうやって知りうるのだろうか。他の人が私たちを真剣に愛しているということを、私たちは信じる以外にはない。私たちが他の人間の愛を信じ、それを自分自身の愛とともに迎え入れ、ついには愚か者または欺かれた者となるときはじめて、私たちは自分が愛されていることを実際に、そして最終的に体験する」。
 こうしてわたしの話したかったことはオープンエンドで終わって行く。「なぜか、死んでしまったこの人をわたしはまるで生きているかのように感じる…」という思いを残しながら。