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山折哲雄編『日本人の思想の重層性−<私>の視座から考える』筑摩書房 1998年4月刊 77−100頁
ある哲学者の内面構造−語りの中の重層性
森岡正博
1
今回の本書の企画は、研究者と呼ばれている人の、その内部に潜んでいる思想や体験の重層性をあぶりだそうというものであるらしい。
私は、自分がそれほど特殊な内面の構造をしているとは思っていない。むしろ、私と同年代の、わりとお勉強のできた男の子がもっている内面性の、きわめてありふれたパターンのひとつを踏襲しているはずである。ただ、メディア業界では「不思議な問題意識をもつ研究者」という印象を与えているらしい。しかし、その「不思議さ」の大部分は、私の属する世代が共有している問題意識が、私より上の世代の人間に与える「不思議さ」にすぎないと思う。
私は一九五八年生まれである。同年代の研究者に、上田紀行(文化人類学)、大澤真幸(社会学)、大塚英志(評論)、佐倉統(生物学)、宮台真司(社会学)、吉見俊哉(社会学)らがいる。新人類と呼ばれた世代に属する。新人類研究者たちの特徴のひとつは、大学紛争を経験していないことである。彼らは、紛争が終わってから大学に入学した。そして、疲れきったかつての闘士たちが大学を去っていったあとの、無風地帯で学園生活を過ごすのである。
直観的に言えば、新人類研究者たちは、独特の相対主義的感覚が骨身に染みており、支配イデオロギーに対してはとりあえず一定の距離を保つ習性をしめすように見える。そして、議論にかんしては、「あなたはそう言うが、僕はこう思う」ということを気負いなしに言える雰囲気をもっている。既成の権威は基本的に信じていないが、かといって、それに代わる権威を自分たちで作り上げようとするパワーもあまりない。基本的には、自分が気持ちよければそれで良いのだ。
ということで、私自身のことに話題を移してゆきたい。
私が論壇(というものが本当にあるとして)に登場したのは、一九八八年の春、ちょうど三〇歳になる年のことである。以前から書きためていた論文をまとめて『生命学への招待−バイオエシックスを超えて』(勁草書房)を出版し、同時に、赤林朗と共著で「脳死身体の各種利用はどこまで許されるか」という論文を『中央公論』五月号に発表した。
おりしも、脳死・臓器移植問題が盛り上がっていた時期であり、この問題について発言する若手学者がほとんど皆無であったという偶然から、私は突如として雑誌・新聞などのメディアに引っ張りだされた。『中央公論』に発表した論文は、かなり衝撃的なものであり、我々は激しい誹謗中傷を覚悟していた。しかしながら、これに対する反応は当初はきわめて少なく、拍子抜けしたのを覚えている。ただ、あとになって分かったことだが、脳死問題に積極的な関心を持っている人たちは、結構あの論文を読んでくれており、それぞれ我々の問題提起を受け止めてくれていた。
私の自己紹介をもかねて、ここで、この論文について少し述べておきたい。
論文「脳死身体の各種利用はどこまで許されるか」において、我々は次のような議論を行なった。
脳死を人の死と認めてよいかという議論は、もっぱら脳死の人からの臓器移植と結び付けてなされている。しかし、脳死を人の死といったん社会的に認めてしまえば、脳死の人の身体は、臓器移植以外の様々な用途に利用できるのである。たとえば、希少血液の輸血のための貯蔵庫として利用したり、高度で危険な手術を行なう際に腕をみがく実験台として利用したり、AIDSに感染させて治療法を研究したり、人工心臓などの開発のための実験台としたり、あるいは開発中の医薬品の効き目を試すために利用したり、いくらでも利用価値は生まれてくる。臓器移植のドナーというのも、これらの脳死身体の各種利用の一ケースでしかない。欧米では、一九八〇年代にすでに、人工心臓開発時の実験台および新薬の試験のための実験台として脳死身体が利用された事実がある。日本でも、大阪大学で、脳死状態の循環動態を調べるための基礎医学実験の実験台として利用されている。
いったん脳死の人からの臓器移植が認められてしまうと、その利用の裾野は、ここまで地続きで広がっているのである。しかも、これらの各種利用は、倫理的・社会的にさらなる問題をはらんでいる可能性が強い。したがって、それらの各種利用が一般化する前に、それらの利用を我々はどのような理由でどこまで承認すればよいのかについて、社会的に議論しておくべきである。
これが我々の問題提起であった。
一九九五年四月現在、事態はまったく変わっていない。そして、脳死身体の各種利用について社会的な議論は、いまだなされていない。
この論文の意図は、多くの場合誤解された。
たとえば、臓器移植推進の立場をとる人からは、次のように反論された。「脳死身体の各種利用すべてについて事前に議論していたのでは、当面の緊急な課題である臓器移植がいつまでたっても実施できなくなる。その議論の間に、かけがえのない患者のいのちが次々と失われてゆくのだ。彼らを犠牲にしてまで、各種利用の議論を事前に行なえと言うのか。」言外に、脳死身体の各種利用の問題提起は、反対派による臓器移植妨害工作だと言いたいように見える。
これに対して、臓器移植反対の立場をとる人からは、次のような反論が出された。「いまだ臓器移植の是非について議論が煮詰まっていない段階で、脳死の人の身体を使えばこんなこともあんなこともできるという宣伝をしている。技術至上主義のそういう発想こそが、いま問われているのである。これは臓器移植の問題から国民の目を意図的にそらすためのものである。」まるで我々が、移植推進派の手先であるかのようだ。
法的な側面にかんする正当な批判は二件ほどあったものの、そのほかはだいたい、感情的な非難か、我々の意図を誤解したうえでの批判であった。
我々の論文に対して、表立った批判を行なってくる人々は、概してこの論文を「政治的」な論文として理解していたように思われる。たしかに、一九八八年とは、我々の言説がそう受け取られてもしかたのないような時期ではあった。
しかし、我々の真の意図は、明らかに別のところにあった。
我々が目指していたのは、人間の身体と生命にこれほどまで深く侵入してくる現代の科学技術の姿と本質を、「脳死」を例にとってとことんまで見すえてみたいということ、そして先端テクノロジーが数々の社会問題を生み出してゆくであろう二一世紀に向けて、それらの問題が生じる前に、あらかじめそれらを予想して、それらの妥当性について事前に議論しておく必要があるのではないかと訴えること、この二点であった。
共著者である赤林朗は、私と同年生まれの医師・研究者であり、この問題意識は容易に共有された。
脳死を例にとって、現代の科学技術と文明の本質に迫る試みは、私の第二作『脳死の人』(東京書籍:福武文庫、一九八九)で、ほんの少しだけではあるが開始された。この書物は、入門書という形式をとっていたこともあって、広く一般に読まれた。一九九四年に出版された『生命観を問いなおす』(ちくま新書)では、その路線をさらに半歩進めることができたと思う。
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私の中の重層性に迫るための準備段階として、森岡正博とはいったい何をやってきた研究者なのかを、もう少し書いておかなければならない。
私が論壇に登場したのは「脳死問題」の研究者としてである。
しかし、脳死問題それ自体は、私が追求してきた問題群のほんの一部を構成するにすぎない。
いままでのところ、私が行なったもっとも重要な学問的な提案は、「生命学」という議論枠組みを提唱したことである、と私は思っている。処女作『生命学への招待』の冒頭で、私は「生命学」というものを次のように規定した。すなわち、生命学とは、「現代文明と現代科学のもとで、私たちは生命とどのような関係に置かれているか、そして私たちは生命とどのようにかかわりあって生きてゆけばよいか」を問う学問である。脳死、体外受精などの生命倫理の問題や、遺伝子操作などのテクノロジー問題、末期医療と宗教の問題、そして自然保護、地球環境問題など、現代文明の中で生じている「生命」の問題は、どれかひとつだけを取り出してきて専門的に研究してもその本質が見えるようにはなっていない。だから、それらの問題群を同時に相互関連的に扱える新たな枠組みを設定し、そこで専門領域の壁を超えて、これら問題群の本質を掘り下げようというのが、「生命学」提唱の意図である。
だから、私は、医療周辺学として制度化を始めている「生命倫理学」や、人間の死とそこに向かう生に特化して議論を進めようとする「死生学(サナトロジー)」の試みからは距離をとりたい。同時に、何かの「専門家」であることがそれだけで意味を持つような世界からも、距離をとりたい。「生命」の問題群を包括的に捉えるためには、我々は専門家の殻を脱ぎ捨てて、ひとりの「素人」に戻らなければならないというのが、私の主張である。
そのような生命学の視点から脳死を捉えようとしたのが『脳死の人』であり、外国人研究者にけっこう受けている「いのち」観念の研究論文The
Concept of Inochi(Japan Review No.2, 1991)である。
生命学こそは私の真のライフワークであり、今後何十年かをかけて、きちんとしたものへと育て上げてゆくつもりである。だが、『生命学への招待』では、「生命学」という枠組みが必要だということは高らかに提唱したのだが、その具体的内容を示すことができなかった。すでに紹介した『脳死の人』『生命観を問いなおす』では、生命学の方向性のみは示すことができたが、まだそれにとどまっている。一九九五年現在、『生命学入門』というタイトルで、生命学の輪郭を正面から示す著書を書いているところなのだが、まだ公刊までには数年かかりそうだ。
しかし、「生命学」という学問が今後はどうしても必要となるし、誰かがその無謀な試みを行なわなければならないということを、私は確信している。そしてその学は、専門領域の壁を破壊するだけではなく、いまここで生きて死んでゆくこの私の生のあり方それ自体にも、深くフィードバックしてくるような学的営みとなるはずである。私という「いのち」の生と死を捨象したところでは、「生命学」は成立しない。私の生死を捨象したところで成立する「客観科学」「自然科学」とは別種の学的可能性として、私は「生命学」を考えているのだ。
『生命学への招待』を書く具体的なきっかけとなったのは、やはり、「脳死」や「人工妊娠中絶」などの生命倫理の問題群と、エコロジー・環境倫理の問題群であった。一九八八年当時は、生命倫理と環境倫理を結びつけて議論している若手の研究者は日本では私しかいなかったので、インタヴューを受けるたびに、「どうしてこんなテーマを選んだのですか?」と聞かれるはめになった。
私はだいたい大学生のころからのストーリーを図式的に捏造して(と言っても嘘じゃありません)、次のように答えるのが常であった。
私はそもそも、自然科学に大きな興味を持っていた。大学の教養部では理科系のコースに所属していた。しかし、その無味乾燥な授業に嫌気がさして、文学部に進学。このころから、自然科学と社会の接点で起きている問題に関心が向くようになった。たとえば、遺伝子操作への危機感から科学者たちが実験を一時凍結したアシロマ会議などの出来事を知ったときには、大きな衝撃をうけた。安楽死や、今で言う地球環境問題にも興味が出てきた。
そこで、若さの無謀さを発揮し、当時このような問題に取り組んでいた数少ない研究所であった三菱化成生命科学研究所の中村桂子を一方的に訪ね、いろいろ教えてもらった。まだ無名であった米本昌平からは、特にたくさんのことを学んだように思う。モノーの『偶然と必然』、ベルタランフィの『一般システム理論』、ローマクラブの『成長の限界』などを薦められ、感動したのもこのころである。
ところが、私の所属していた東京大学文学部倫理学研究室というところは、生命倫理とか環境問題などをテーマにして卒論や修論を書ける雰囲気ではなかった。そこで受け付けられるテーマは、たとえば「中期カント哲学における悟性概念の検討」とか「後期ハイデガーにおける存在概念の変容」などのような、西洋哲学あるいは日本思想の個別思想家の著作を吟味する文献学に限られていた。当時の教室主任であった小倉志祥教授の口癖は、「倫理学は文献学である」というものであった。私が研究室で生命倫理の面白さについて語っていたときに、ある学生が「生命倫理なんて言っていると破門だぞ」と忠告してくれたそのことばを、私はいまでも忘れない。
しかし、私は研究者になりたかった。そして好きなテーマについて本が書きたかった。
そこで私は二重生活者になることを決心した。
すなわち、裏では生命倫理などの勉強を続けながら、表では研究室の要求する文献学で論文を作成することにしたのである。
私がテーマに選んだのは、ヴィトゲンシュタインという、ウィーンからイギリスに渡った哲学者の著作である。彼は、ことばとは何かという問いを手がかりにしながら、他者とか、行為とか、確実性などについてしつこい思索を続けた今世紀を代表する哲学者である。そして、卒論・修論ともにヴィトゲンシュタイン研究でクリアーしたのであった。
大学院博士課程に入ってしまえばこちらのもの。あとは化けの皮を自らはいで、千葉大学の飯田亘之・加藤尚武らのバイオエシックス(生命倫理)翻訳プロジェクトに飛び入り参加し、それをきっかけにして『現代思想』『中央公論』などに生命倫理の論文を発表させていただいた。それらをまとめて処女作を出版したのはすでに述べたとおり。
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と、こういうストーリーで話をすると、だいたい分かってくれる。そして、「いろいろたいへんでしたね」とねぎらってくれることも多い。
ところが、これをしゃべっている自分としては、大事なことをいくつか意図的に飛ばしていることがいちいち気になるのだ。たとえば、なぜ「生命」に私が執着するのかが説明されていないし、文学部への進学の動機も明らかにされていない。なんでヴィトゲンシュタインを選んだのかも、不明である。
ここを突っ込むことで、私の中の重層性が、少しずつあらわになってくるはずである。
なぜヴィトゲンシュタインか。それは私が彼の初期の代表作である『論理哲学論考』を読んだからである。
『論理哲学論考』は、今世紀のヨーロッパ哲学を語るときに、決して欠かせない重要文献である。一九二一年にドイツ語で発表され、翌年にバートランド・ラッセルの序文を付けて独英対訳で出版されたこの書物は、いわゆる論理実証主義のバイブルとして熱狂的に読みつがれてきたものである。
文学部に移りながらも、まだ数学や論理学に未練のあった私は、この工学部出身の論理学者の書いた古典に、おのずと手が伸びていったのであった。この書物は、一読しただけだはさっぱり分からない論理式や、難解な断片に満ちている。初心者には、きわめて不親切な書き方をしている。
しかし、その中にときおり現われる明快で深遠な断章を読んで、私は目からうろこが何枚も落ちた。
彼は、その書物の中で述べる。
5.62 独我論の言わんとすることはまったく正当である。ただ、それは語られるものでは
なく、おのずと現われてくるものなのだ。
5.63 私とはわたくしの世界にほかならぬ。(つまり、小宇宙。)
6.431 死にさいしても、世界は変化せず、終熄する。
6.4311 死は人生の出来ごとにあらず。ひとは死を体験せぬ。・・・・現在のうちに生きる
者は、永遠に生きる。われわれの生には終わりがない。われわれの視野に限りが
ないように。
6.44 世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘な
のだ。
6.522 いい表わせぬものが存在することは確かである。それはおのずと現われ出る。そ
れは神秘である。
7 語りえぬものについては、沈黙しなければならない。(坂井秀寿訳、法政大学出版局)
論理と命題の関係について書かれた難解な論理学書である『論理哲学論考』の、後半部分に散りばめられたこれらの有名な断章を読んだとき、ヴィトゲンシュタインは私のもっとも大切な哲学者になった。論理的に徹底的に突き詰めたときに、その向こう側に最終的に残されてしまう「語り得ぬもの」とはいったい何か。それは、語らないことによってのみ示されるような、なにものかである。「独我論」、「死」、「世界の存在」、そして「神秘」。ものごとを徹底して論理的に突き詰めようとする哲学の営みが最終的に発見したもの、それは論理的には語り得ないものとしての「存在の神秘」が、おのずから立ち現われてくるような境地であった。
ヴィトゲンシュタインのこれらの記述に衝撃を受けた理由のひとつは、ヴィトゲンシュタインがそこでこだわっていたのと全く同じ問題に対して、私自身も一〇代のときからずっとこだわり続けていたからである。そして、私なりに考え、苦悩し、舌足らずの文章を書きつらねていたからである。私がこだわっていた問題を、今世紀はじめに、こんなにまで明晰に考え抜いて記述していた人間がいたことを知ったときの衝撃。
どうして世界は存在しているのか。どうして私は存在しているのか。どうして私ひとりだけが特殊なあり方で生きているのか(独我論)。私はどうすれば他者へと到達することができるのか(他者問題)。
ハイデガーが直面したのと同じ問いを、ヴィトゲンシュタインは別のルートで追い詰めてゆこうとする。
これらの問いは、私の記憶ををさらに過去へとさかのぼらせてゆく。
高校生のときにパスカルの『パンセ』をはじめて読んだときのことを、私はありありと思い出す。この、キリスト教擁護哲学のための断章群の主要部分は、キリスト教の素養がないとまったく理解できない。しかし、パスカルが、神を持たない人間の「悲惨」さを描いた箇所は、幼い少年にも充分理解できる迫力を秘めている。
68 私の一生の短い期間が、その前と後につづく永遠のうちに没し去り、私の占めている
小さい空間、いやむしろ、私の見ているこの小さい空間が、私を知りもせずまた私の知
りもしない無限の空間のうちに沈んでいるのを考えるとき、私は自分がここに居てかし
こに居ないということに、恐れと驚きを感じる。というのも、何ゆえかしこに居ないでここ
に居るのか、何ゆえかの時に居ないで現にこの時に居るのか、全然その理由がないか
らである。
199 そもそも人間は自然のうちにおいて何ものであろうか? 無限に比しては虚無、虚無
に比しては全体。無と全体のあいだの中間者。両極を把握することからは無限に遠く隔
てられているので、事物の終極やその始原は、人間にとっては、しょせん、底知れぬ神
秘のうちに隠されている。彼は自分がそこから引き出されてくる虚無と、自分がそこへ呑
みこまれていく無限とを、ともに見ることができない。
201 この無限の空間の永遠の沈黙は、私に恐怖をおこさせる。
(松浪信三郎訳、講談社文庫)
この宇宙の中で、無限に大きいものをも把握できず、逆に無限小の虚無をも把握できず、その中間に宙ぶらりんの状態で吊り下げられている人間。その人間は、自ら把握することのできない虚無から生まれ、そして無限の中へと死んでゆく。どうして私がいまここで生きているのか、まったく分からない。どうして世界がこのようになっているのか、分からない。いまここに投げ出されて存在している私を、無限の空間が冷たく取り囲んでいる。
存在の根拠が把握できないときに、人が抱く感情は「恐怖」である。
そして私は、死の恐怖におびえる少年であった。
『パンセ』は、その少年のこころをわしづかみにして、彼をむりやり哲学の道へと導いていった。「私の死」を発見し、それから目をそむけ、しかしながら再びそれを直視しようとし、耐えがたい恐怖に襲われる。そして、私は一生「私の死」という観念から逃れられないだろうと決意したとき、私は哲学者になったのだと思う。私がいまでも学問を続けている究極の根拠は、ここにある。
「私の死」という観念を発見したとき、私は同時に「私がこの宇宙の中でひとりだけ特殊なあり方で存在している」という「独我論」の意味をも非言語的に発見したのだと思う。それはただちに、私と世界は存在していなくてもよかったのに、どうして偶然にもいま存在しているのかという形而上学・存在論の根本問題と、この世界に存在する「他者」たちとはいったい何なのかという他者問題へと、私を導いてゆく。
これらの問いに突如として襲われてパニック状態になったのは、はっきりとは覚えていないが、たしか小学生の高学年か、あるいは中学生のときであったような気がする。私は、これらの恐ろしい問いのことをまずは忘れようとした。相談する相手は誰もいないし、それよりも、これは他人にばらしてはいけないことなんだという強迫観念があった。大人たちを見ながら、大人になったら自然と解決されているにちがいないと、自分に言い聞かせていた。
当時の中学生の男子の会話の中に、「死が怖い」とか「死んだらどうなるのか」という話題が登場することはほとんどあり得ない。彼らの関心の的は、もっぱらセックスと好きな女子生徒のことである。自分の中でどうしようもなく大きくなってくるセックスへの衝動とそれへの嫌悪と、そしてかたときも脳裏を去らない「私の死」の観念にさいなまれた、憂鬱で、ぴりぴりするいやな思い出にまみれている私の中学時代。
数学の問題を解いているとき、小説を読みふけっているとき、音楽を聴いているとき、私はこの世界のことを忘れることができた。数学と小説と音楽が、私の精神生活のすべてであった。とくに、初等数学のパズル解きの快感は、私の知性の基本的な性格を決定付けた。混沌とした状況の中で、閃き一発、あっと驚く解法をあみだすその興奮。これが生きがいだった時期が、たしかにある。
少年が「死」に出会う場所、それは少年マンガの中である。『デビルマン』の最終回、腹から下がもぎとられた悪魔の死に姿。その背後の海の上で天使たちが舞っている。あるいは『あしたのジョー』の最終回のリングの上の死。
死におののく少年のこころを捉えていたもうひとつの作品、それは手塚治虫の『火の鳥』である。火の鳥とは、人類誕生のはるか以前から、人類滅亡のあとにまで、時空を超えて宇宙に偏在する「永遠のいのち」が、形をとって現われたものである。人類は、その歴史のそれぞれの過程で、この火の鳥と遭遇し、その永遠不死を手に入れようと試み、そして失敗し続ける。人間は有限であり、死におののきながら、しかし最後はみんな死んでゆく。火の鳥とは、それらひとつひとつの「死」を呑みこんで、うねるように続いてゆく永遠の「いのち」の流れの象徴なのである。我々ひとりひとりの有限のいのちは、その永遠のいのちの流れの中から産み落とされ、しばしの生を送ったあと、再びその永遠のいのちの流れのなかへと吸収されてゆく。手塚は、有限な存在としての人間が、永遠のいのちを様々な方法で獲得しようと欲し、そして挫折してゆく姿を冷徹に描き切っている。しかし、同時に、その挫折への試みこそが、人間を人間たらしめているのだと考えているようにも見える。
パスカルの『パンセ』では永遠の沈黙でしかなかった宇宙の空間が、手塚の『火の鳥』では個々の死をすべて吸収する暖かい存在へと変質している。(もちろん『パンセ』の場合は、「神」がその役割を果たすことになるはずだ。)
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いまとなって考えれば、手塚治虫の『火の鳥』こそが、私の提唱する「生命学」の祖型であると断言できる。宇宙の中で宙ぶらりんになっておののいている私という存在を、あらゆるものを包みこんで流れる生命の連続性の局面からすくい上げ、意味付ける。しかしもう一方では、そのような連続性にすくいとられることを拒み、あくまで、いまここに生きるかけがえのない人間として、テクノロジーをもって永遠性に立ち向かおうとする人間の姿がある。永遠の存在から産み落とされた有限な人間が、永遠性を獲得しようと奮闘して挫折し、ふたたび永遠の存在のもとへと帰ってゆくその軌跡、それが「文明」であり「歴史」であると手塚は言っているように見える。
生命学の創始者は、手塚治虫であると言ってよいと思う。
だが、私はごく最近になるまでこのことに気付かなかった。というよりも、『火の鳥』のことは完全に私の意識上から消え失せていたのである。
「私の死」から発する哲学的な思索を、「火の鳥」的な「いのち」の思索と結合させるという道筋は、一〇代のどこかの地点で、いったんぷっつりと切れてしまったのであった。
そのかわりに、私の思索は、「私の存在とは何か」という問題と、「他者とは何か」という問題へと集中してゆくようになる。
詳しくは述べないが、この哲学の根本問題を突き詰めてゆくと、どうしても一度は「独我論」と対決しなければならなくなる。つまり、目の前にあるあなたの身体の中のいったいどこを探せば「他者=もうひとりの私」が見つかるのか全く不明である以上、この世界に内的意識をもって存在しているのはこの「私」だけではないかと考えたくなるからである。
すでに紹介したように、前期のヴィトゲンシュタインは「独我論の言わんとすることはまったく正当である」というスタンスを取った。ただしそれは「語られるものではなく、おのずと現われてくるものなの」である。
ヴィトゲンシュタインの影響を強く受けて、独特の哲学を打ち立てた大森荘蔵もまた、独我論を肯定的に評価している。そして「整合的な独我論はもはや独我論ではないと私は信じる」と述べている(『言語・知覚・世界』岩波書店、viii頁)。
世界が独我論的にできていることは否定のしようがない。それを肯定しながらも、しかし同時に、浅薄な独我論に陥ることなく、公共的に理解可能な世界把握を行なうにはどうしたらよいか。これが私の当面の問題設定であった。
私が卒論・修論でヴィトゲンシュタインを取りあげ、彼の他者論を吟味していった理由は、ここにある。もちろん、卒論・修論はいまから振り返ればくだらないものなので、ここでは紹介しない。
ただ、ミイラ取りがミイラになってしまい、私は二〇歳代半ばから、「人称的世界の哲学」という原稿を、一日に何枚というノルマを決めて、出版するあてもないままに書きためていったのである。いまでも懐かしく思い出すのだが、当時はまだワープロをもっていなかったので、六畳一間の狭いテーブルの上にA4のコピー用紙を広げて、黒のボールペンで左上隅からきしきしと書き進めていったものだ。結婚してまもないころで、朝早く目覚めてスタンドの明かりをつけ、眠っている彼女を横目に見ながら、文字を埋めてゆき、ああ、就職も決まっていないのにこんな業績にもならない原稿をひとりで書いていていいのだろうかと思いっきりメゲているうちに、だんだん夜が明けてきて、小鳥のさえずりが聞こえてきたりしたこともある。
だから、このころは、明け方や深夜には「人称的世界の哲学」を書き進め、昼間は「生命倫理」の調べものをしたり原稿を書いたりしていたわけである。
このころ、法政大学講師であった永井均という哲学研究者と知り合う(現在は、信州大学教授)。その直後、彼は『<私>のメタフィジックス』(勁草書房、一九八六)という哲学書を出版し、きわめて独創的な「独我論」を展開した。この本は、日本哲学史に残る傑作である。出版当時はほとんど話題にならなかったが、現在、永井均が提起した<私>の独我論の問題は、日本の若手の哲学研究者たちの熱い注目を浴び、科学哲学会では永井の独我論をめぐってワークショップが開かれるまでになっている。
偶然にも、永井と私とは同じような問題をめぐって独立に思索を続けていたのだが、永井の方に一日の長があり、永井の論文や書物を読んで私は大きな衝撃を受けたのであった。さらに決定的なことには、どうも永井は、私が当時言語化できなかったことまでをも言語化できているらしいことが明確になり、私はすでに二〇〇枚ほど書きためていた自分の原稿を根本から再考せざるを得ないところまで追いこまれてしまった。
私が原稿を書いていること知った永井は、勁草書房に私を紹介してくれた。勁草書房の編集者と話をしているうちに、その「人称的世界の哲学」はまだ時間がかかりそうだから、そのまえに「生命倫理」の方で一冊出しましょうということになり、『生命学への招待』出版となったのである。
私はその後も「人称的世界の哲学」の執筆を細々と続け、黒崎政男が世話人をしていたPIN哲学研究会で発表までしたのだが、その直後執筆を中断し、原稿は本棚に長いあいだ眠ったままになっていた。
ところが、京都へ来て二年ほどたったとき、突然、手塚治虫の『火の鳥』のことを思い出し、それをきっかけとして、「人称的世界の哲学」と「生命学」が実は通底していることに気付いた。そして永井の独我論をどうやって克服し、生命学へと結びつけていったらよいかという見通しも、明らかになってきた。それを考えている途中で、永井の独我論がかかえている一種の誤謬に気付き、それを批判する論文を発表した。その論文「この宇宙の中にひとりだけ特殊な形で存在することの意味」は、ほかならぬ永井自身が編集した論文集に入れさせてもらった(講座エチカ3『自己と他者』昭和堂、一九九三)。この永井−森岡論争には、中島義道らが言及するようになっているが(『哲学の教科書』講談社、一九九五)、みんなでさらに詰めて考えていかねばならない(入不二基義や平山朝治も独特の展開を行なっている)。いずれ、眠っていた二〇〇枚を再検討し、生命学の一部として書き直す作業もしなければならない。
以前に、生命倫理が裏で、ヴィトゲンシュタインが表という話をしたが、こうやって実態を暴露してみると、本当はいったいどっちが表でどっちが裏だったのか分からなくなるでしょう。
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こうやって新たな内面のストーリーを語ってみても、私の殻のさらに内側にあるいくつもの層には、全然届いていないという実感がある。もし本気で、私の中の重層性をあぶりだそうとするのならば、読者がおそらく興味を持たないであろうような、私の少年時代の内面世界や、大学生時代に私をおそったいくつかの経験について、詳しく述べなければならなくなる。それらの経験の層は、明らかに私の創作活動のエネルギー源であり、そして私の可能性の輪郭を形作っているものである。
しかし、ここでは、まだ私ひとりの胸の内にそっと残しておきたい。
自分の内面の重層性について語るのは、ある意味で甘美なことであるが、同時にとてもつらいことでもあるのだ。
そもそも、図式的で分かりやすいストーリーで、自分のことを充分に語るのは不可能である。
たとえば一九八九年に『脳死の人』を出版してから以降、私が何を研究していたかと言えば、それから四年間のほとんどすべての研究時間を、電子メディア論の研究に費やしていたのである。これは、ひそかに進めていたので、一九九三年に拙著『意識通信』(筑摩書房)を送り付けられた私の知人たちはさぞかし驚いたに違いない(その後の対談集『電脳福祉論』学苑社(一九九四)に至っては、何をか言わんやであろう)。
その書物で私は、電話やパソコン通信のネットワークが、現代に生きる我々の人間関係と精神構造に、どのような根本的な影響を与えているかを考察し、電子の架空世界で人々が触れ合うという可能性が完全に開花したときにどのような世界が現われるのかという可能性を、論理的かつSF的に思考実験した。パソコン通信の可能性を探るために、日本テレネットというパソコン通信会社と共同研究をさせてもらい、アメリカの大学に滞在中は図書館で電子メディア論を読みあさり、表面上は生命倫理の研究を続けているような顔をしながら、実際はメディア論を何回も書き直していたのだった。
『意識通信』を取材にきた人たちは、決まって次のように言う。「生命倫理の専門家(!)であった森岡さんが、今回はどうしてメディア論に手を出したのですか?」これに対しては、以下のように答えることにしている。私のライフワークは「生命学」であり、その研究を一生続けるつもりである。決して生命学からメディア論へと研究テーマを変えたわけではない。『意識通信』執筆中も、生命学の論文はコンスタントに発表している。
私の中では、「生命学」と「電子メディア論」は、つながっている。たとえば、現代文明が産み出したテクノロジーが、我々の生命や身体や社会やこころにどのような根本的な影響を与えようとしているかという問題意識は、この両者に共通している。そしてともに、科学技術と現代文明の本質を見据えようとする姿勢でつらぬかれている。
このような説明をすると、理屈の上ではつじつまがあう。
しかし、なぜ「電子メディア」があらたな研究対象に選ばれたのかは、やっぱり読者には分からない。
電子メディアというテーマは、あらたに選ばれたのではない。それは、私が東京にひとりで出てきた一八歳のときから、私の中に巣くっていた問題である。それから一〇年以上も、私はこのテーマをこころの奥底で反芻していた。京都の職場に移って、生活が若干安定したのを機に、集中的に調査し、考えを練り、ようやく作品化したのである。三〇歳代の前半でこのテーマをやっておかなければ、永遠に作品化できないかもしれないというあせりもあった。成熟と老いが始まってからでは、こんなものはとても書けない。まだエロスの圏内にとどまっているうちに、書き上げねばならない。
電子メディア論、それは私が東京という街で過ごした一二年間の、東京的なるものへの思い入れの結晶である。
田舎から東京に出てきて、一人暮らしをはじめる。大学では友人を作る気もしないし、はでに遊び回るお金もない。大学にはすぐに通わなくなる。やがて、深夜の個室でパンをかじり、深夜テレビと深夜ラジオをつけっぱなしにしてひとりで笑い、『ぴあ』を片手に映画館をめぐり歩き、明け方になってようやく眠る日々が続く。貧乏で、孤独。しかし、東京という街には、そんな学生の孤独をやさしく包みこんでくれる雰囲気があった。東京は、やさしい街であった。そのやさしさは、「情報」都市の持つやさしさである。深夜テレビや深夜ラジオ、情報誌、映画館。深夜になっても眠らないコンビニエンス・ストア、環七のトラックの響き。ポルノ雑誌の自動販売機、白く浮び上がる電話ボックス。それらのみずみずしい洪水のような「情報」に自分の身をゆだね、それと一体となって架空世界の中に生きはじめるとき、東京という街は私をいつまでもやさしく包みこんでくれるのであった。
そして、私はよく長電話をした。
深夜、延々三時間ちかくもしゃべったこともある。電話の途中で腹が減って、ラーメンを作ってからまた話しはじめたこともある。私の電話は、六畳一間の中心部におかれていた。私が長電話をするとき、私の視界からは、このきたない小さな部屋は消え失せ、私は相手と一緒に、架空世界の内部にいた。
深夜の個室の中に隔離された孤独な人間が、一本の電話線をつたって、もうひとりの孤独な人間とつながっている。私とその人間は、車を使えばすぐに会える距離にいるのだが、我々は電話で話す方を選んでいる。こっちで雨が降りだせば、向こうでもすぐに降りはじめる。東京という同じ都市を共有していながら、電子的につながっていたい私たち。
これは何だろう。
私は、ずっと、こころの奥でこの問いを反復していた。その問いかけは、生命倫理を考えているときでも、人称的世界の哲学を考えているときでも、私の奥底で響き続けてきた。それが、三〇歳を越えて京都に移り住んでから急に結晶化しはじめ、作品となる。
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で、またしても読者を混乱させるかもしれないが、一九九五年の現在、私の頭の中を占領している研究テーマと言えば、なんとフェミニズムなのである。フェミニズムへのこだわりもまた、私が大学生だったころにさかのぼる。私の世代以下の男性は、同年代の女性に対して、何かの場面できつい敗北感を味わったことがあると思う。ところが、その女性自身が、男性社会の中で敗北感を味わい続けてきたと訴える。女も男も敗北感を持っているという、この構造は何なのだろう。一九八〇年代を通して、ずっとそれにこだわってきた。京都に来て、上野千鶴子に出会ったことが、そのこだわりを一気に自覚化させる。山折哲雄の研究班で山下悦子、落合恵美子らと議論したことも大きい。松浦理英子の小説は目から鱗が何枚も落ちたし、藤本由香里の一連のセクシャリティ研究も刺激的であった(そう言えば、落合、松浦は五八年生まれ、藤本は五九年生まれか。あんまりこだわってもしようがないけど。)というわけで、いま、『フェミニズムの生命思想』という本を書いている。これは、男性が現代日本のフェミニズム言説に正面から取り組む最初期の試みの一冊になると思う。
さて、こうやって私の内面について書いてみて、はっきりと分かったことがある。
私は、自分の内面について何通りかのストーリーを語った。それぞれのストーリーは、今の時点から記憶をさかのぼって、若いときの経験や出来事を思い出し、それらに意味を与えてから再び現在へと戻ってくる旅であった。私が語った何本かのストーリーは、あるときには一貫性を保ち、あるときにはお互いに矛盾するような側面を持っていた。ある箇所は、いまでもありありと覚えている感覚の忠実な複写であるが、ある箇所は現在の私による完全な意味付与である。
私の内面の記憶は、その切り取り方に応じて、様々な断面を見せる。それら様々な断面は、まったく異なった文脈のもとで自らを表わし、虚構の世界を作り上げる。
「私の中の重層性」は、私のこころの中で、慎重に積み重ねられた地層として存在しているのではない。そうではなくて、「私の中の重層性」は、私の内面のストーリーを様々に語るという、その重層的な語りの行為の中において、はじめて立ち現われるのだ。様々な思惑と動機によって語られた、その「語りの重層性」こそが、「私の中の重層性」なのである。
私は、私について重層的に語ることによってはじめて、私の中の重層性に到達できる。そしてこれが、「重層性」のひとつの重要な意味なのである。
*登場する人名の敬称は略させていただきました。
[一九九八年の付記]
この原稿は、一九九五年四月に書いたものである。まさにそのとき、あのオウム真理教事件が起きたのであった。オウム事件は、この原稿では書くことのできなかった、私の殻の中にある秘められた経験と内面性を刺し貫いた。一九九五年夏、私はこの原稿からは慎重に排除していた私のもうひとつの内面のストーリーを、『宗教なき時代を生きるために』(法藏館)というタイトルの本として書き上げた。それを出版した現在、私は自分の中のさらに内側にある「もうひとつの語られざる自分」に直面している。哲学してゆくとは、世界や他者や学問とかかわりながら、この自分の内側にある「語られざる自己」に向かって、無限に降りてゆく血みどろの試みのことなのかもしれない。