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作成:森岡正博 
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自分と向き合う「知」の方法

 

森岡正博
自分と向き合う「知」の方法
PHP研究所 1997年6月 全235頁 本体1333円
  →kinokopress.com 2001年2月 全98頁 PDF定価800円

  →ちくま文庫 2006年5月 全242頁 本体640円


単行本表紙(絶版)


文庫版表紙

著者の初エッセイ集。「学ぶとは?」「大学とは?」「恋愛とは?」若い人たちに、ストレートに問いかける、早わかり森岡思想入門書。

『宗教なき時代を生きるために』のリハビリもかねて、それまで書きためていたエッセイをまとめて、それに書き下ろしを加えて本にしました。冒頭の書き下ろし部分は、自分を棚上げにしない思想がいま必要なのだという主張。真正面から学問論を書いてみた。自分を切り離して学問することはいちばん簡単なんだけど、もうそれではダメなんだ、オウム見ちゃった以上。後半は、欲望、エロス、生と死などについてのエッセイ。「自由」とか「恋愛」とかについての、肩肘張らないエッセイが並んでいて、森岡思想への入門書という感じに仕上がりました。若い読者からの支持が多い本です。最後の「もうひとつの世界・もうひとりの私」は私がそれまでに書いたいちばん美しい文章だと思っております。初版7000部。単行本絶版につき、kinokopress.comよりPDFファイルで発売中。2006年5月に、ちくま文庫から9000部で再刊されました。鷲田清一さんの文庫版解説もすばらしいです。

筑摩書房
HP:http://www.chikumashobo.co.jp/top.html
kinokopress.com
HP:
http://www.kinokopress.com/index-j.htm


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新世紀の読者に向けて・・・・文庫版のまえがき

 この本には二つのキーワードがある。ひとつは「自分と向き合う」ということ。もうひとつは「自分を棚上げにしない」ということだ。この本を書いたのは、もう一〇年も前になるのだが、いま読み返してみてもその内容はけっして古くなっていないと思う。テレビを見ても、本を読んでも、自分のことを棚上げにしたままで、他人のことを高みから偉そうに評論したり、品のない悪口を垂れ流したりする文化人たちがいかに多いことか。
  もちろん、対象から冷静に距離を取って眺めることで、ものごとの全体像がくっきりと見えてくることはある。それはそれで、とても大切なことであるのはまちがいない。しかし、だからといって、人間の心や生き方を考えるときに、いつまでも「自分を棚上げにした」ままではまずいのではないか、というのがこの本で私がもっとも主張したかったことなのだ。ものごとを考えるときに、「では、この私はどうなのか」「私はいままでどのようにしてきたのか」「私はこれからどのようにしていくつもりなのか」ということを、たえず自分に問いながら進んでいくことが、もっとも大切なことではないだろうか。
  この本が書かれたのは一九九七年のことだ。その二年前には、オウム真理教事件が起きている。私にとって、オウム真理教事件について考えることは、ほかならぬ自分自身について考えることでもあった。「自分を棚上げにしない」という考え方は、そのプロセスの中から生まれてきた。そして、自分を棚上げにしないような形で、お互いに学び合っていけるような「知」のあり方が可能なのではないか、という発想が生まれてきた。この本には、その着想を得たときの、生き生きとしたよろこびがあふれている。
  新世紀となった、二〇〇一年九月一一日に、対米同時テロが起きた。引き続いて、米国は多国籍軍を引き連れてアフガニスタンに攻め入り、イラク戦争を開始した。それ以来、「あいつらのせいで、私たちはこんなにひどい目にあっている」という声が、世界中のメディアから聞こえてくるようになった。米国から、イスラム諸国から、そして日本から、それらの声は聞こえてくる。しかし、他人のことを批判する前に、まずは一度立ち止まって、自分たちがいままでしてきたことがほんとうに間違っていなかったのかを、自分を棚上げせずに、素直に考え直してみることが必要なのではないか。
  この本にこめられたそのような思いを、正面から受け止めてくれた方のひとりに、金沢大学の青野透さんがいる。青野さんは、この本をテキストにして学生たちと対話する授業を、毎年行なってきた。自分を棚上げせずにものごとを考えていくことの大切さを、実際に大学の場で実践してこられたのである。学生たちからのレポートを集成した報告書を読むと、胸が熱くなる思いがする。
  今回、ちくま文庫に収められることで、この本のメッセージは、さらに多くの読者に届くことだろう。三〇代の終わりに書いた本であり、いま再読すると恥ずかしい箇所もあるが、それも含めてまるごと受け止めてもらえるとうれしい。知性、欲望、性愛、生命などをテーマとしたエッセイであるから、リラックスして読み進められるはずだ。


「はじめに」

 私たちが大学で学んできたものは、要するに、自分のことを棚上げにしたままで、社会や世界について考えるための、「知の方法」だった。大学で、自分の「こだわり」や「思い」をこめた卒論を書いたりすると、「きみはまだ客観性が足りない」などと先生から文句を言われたりする。それは、つまるところ、「きみはまだ自分のことを充分に棚上げできていないじゃないか」ということなのだ。
   この本で、私が言いたいのは、自分を棚上げにする思想は終わった、ということだ。自分のことを棚上げにしているかぎり、自分に都合のいいようなものごとしか見えてこない。自分に都合のいいことばかり見続けるのは、とても気持ちの良いことなのだけど、そうやっているうちに、だんだん真実から離れていく。
 ひとりひとりが、自分のことを棚上げにせずに、そして自分にとって都合の悪いことからも最後まで目をそらすことをせずに、どこまで自己と世界を見つめ続け、考え続けられるか。それが問われている。
 人は、ものごとを、自分に都合のいいように正当化しよう、正当化しようとする。
 私もまた、そういう罠に、何度も落ちてきた。
 だから、「自分のことを棚に上げて考えよう」とか、「自分に都合のいいように正当化しよう」という無意識のこころのはたらきが出てきたときに、それを最後のぎりぎりのところで食い止められるような知性が、いまどうしても必要なのだ。

 この本の最初のテーマは、<自分を棚上げにしない思想>とは何かということだ。たとえば、「差別」について、自分を棚上げにせずに考えるためには、「自分はそもそもなぜ差別というテーマについて考えようと思ったのか」というところからスタートしないといけない。そうやって、「差別」という社会問題と、それを考えようとしてしまう(あるいはそこから目をそらそうとしてしまう)自分とは何者なのかという問いのあいだを、行きつ戻りつすることだ。これは、人はなぜ学ぶのかという問いとも関係する。

 第二のテーマは、<欲望>である。たとえば、環境問題を考えるとすぐに分かるのだが、できるだけ快適な暮らしをしたいとか、陽が沈んでも明るい部屋でテレビを見ていたいという欲望があるから、自然破壊が起き、地球環境問題が起きている。そういう欲望が原因なのだと頭では分かっていても、私たちはそう簡単には欲望から逃れられない。このあたりを、どう考えていけばいいのだろう。

 第三のテーマは、<エロス>である。エロスと性愛は、私たちにかぎりなく大きい快楽を与えてくれるのだが、それは同時に、女と男のあいだ(あるいは同性のあいだ)の根深い相互不信や支配関係を生み出してしまう。その泥沼にはまったものは、そこから抜け出したいと思うのだけれど、自分自身の頭とからだに染みついてしまった価値観から自由になるのは、とてもむつかしい。九〇年代のフェミニズムは、とくにこの問題と闘おうとしている。そして、これは、男にとっても無縁なことではないのだ。

 第四のテーマは、<生と死、老い、宗教>だ。いまは元気にこうやって本を書いている私も、いずれは老いて死んでゆく。この本の読者もまた同じだ。なぜ人は、老いて、死んでいかなければならないのだろう。死にゆくときに、私はいったいどのような絶望に陥り、どのような幻影を見ようとするのだろうか。しなやかなからだでセクシーに踊っているあの若者もまた、いずれは老人施設でひっそりと死んでゆくしかないのだ。そのとき、人は、宗教になにかの救いを求めようとするのだろうか。自分を超えるものに対して、何かの願いをかけようとするのだろうか。

 第一章で、いまの私の基本的な考え方がはっきりと示される。自分と向き合う「知」の方法と、自分を棚上げにしない思想こそが、私がもっともこだわりたいメッセージである。私はまだそれを充分に展開できていないし、もちろん実践もまだできていない。しかし、もうこの地点から後退するつもりはない。
 第二章以降は、短いエッセイを集めたものだから、肩肘張らずに読んでいただけるはずだ。いま述べた四つのテーマをめぐって、いろんな角度から迫ってみた。エッセイあり、小説みたいなものありで、楽しんでいただけると思う。
 この本で問題提起した様々な論点については、これからの著作のなかで、しっかりと受け止めて答えを探してゆくつもりだ。読者からのご意見もお聞きしたい。

 


目次

はじめに

第1章 自分と向き合う「知性」とは
 

    自分を棚上げにした思想は終わった
      「オウム事件」以降、求められる知性とは/みずからの思想に自分を巻き込む    覚悟が重要である/など

    人は何のために学ぶのか
       誰もがいま、何のために生きるのか、学ぶのか、分からなくなっている/自分が生きるために必要な「知」とは/など

    「欲望」に振り回されない生き方
      原子力発電は人間の欲望の産物/生命に巣くう「欲望」と向き合う/など

第2章 自分と向き合う「欲望論」
    豊かな時代になぜ人は不機嫌か? −自由の意味が変わった
    障害児を持つことは不幸か? −「幸福論」から「欲望論」へ
    「自然との調和と共生」というウソっぽさ −「生命の欲望」がもたらす疑問
    ”上昇志向”の強い人ほど「力への信仰」に陥る −「オウム事件」の教訓
    「子どものためを思う」親や教師のカンちがい −愛情の底にあるエゴ
    看護婦たちに教えられた「言いたくても言えない」関係 −「ことば」と「からだ」のギャップ
    日本社会にみる責任回避のシステム −HIV訴訟の顛末
    歴史の授業は「現代」から「古代」へと教えてほしい −いまの謎を過去に探る
    阪神大震災を忘れてしまっていたこと −「オウム論」を書かせた無意識の叫び
    老化による”もの忘れ”がなくなる日 −二〇四五年の「電脳福祉社会」
    「デジタルコピー」の時代、オリジナルの価値はどうなる? −情報社会のゆくえ
第3章 自分と向き合う「性愛論」
    人はなぜ、恋をすると不安になるのか? −「ことば」と「制度」の恋愛ゲーム
    「あなたっていい人だから」と女が去ってゆく理由 −「やさしさ」の本質とは
    「ポルノ」と「公共性」の問題を考える −「他人の視線」への想像力
    女性はみんな「レイプ願望」を持っている!? −男と女の性意識のズレ
    男と女の暗くて深い溝とは? −セクシュアリティの構造・1
    幼児期の性的虐待が女性に与える影響 −セクシュアリティの構造・2
    「夫婦別姓」は家庭崩壊が問題なのではない −無意識の女性支配
    「男の姿をしていても実は女」なんだけれども男!? −美術家・森村泰昌展をみて
    恋愛ゲームに秘められた危うさ −「遊び」のつもりでも・・・・
    プロレス観戦は暴力衝動のカタルシスだ −両刃の剣としての架空世界
    「盗聴」には透明人間の”いけない”快楽がある −電子時代の支配権
第4章 自分と向き合う「生命論」
    この世に生きた証を求め、人は死を受容する −キュブラー=ロス『死の瞬間』を読んで
    日本人への質問・「どのような環境で死にたいですか?」 −最後に見たい「青空」
    生きること自体が「憂い」である −宿命としての「老い」と「死」
    「尊厳死」を認めるなら「自殺」は? −もう一つの「自己決定権」
    この国の医療不信を診断する −医師と患者の関係を見直す
    「ことば」と「声」が人を癒すとき −尾崎豊の音楽性
    「輪廻転生」観が受け入れられる理由 −「死」と「再生」について
    人類にとっての「終末」とは? −進化のゆくえを想像する
    もうひとつの世界・もうひとりの私 −ソラリス/銀河鉄道/世界の終り/ファンタジー
    政治経済学者、村上泰亮氏との対話 −「生命」「自我」「他者」そして「時間」
あとがき
初出一覧