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作成:森岡正博 
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論文

 

『疑似法的な倫理からプロセスの倫理へ−「生命倫理」の臨床哲学的変換の試み』大阪大学文学部2006年3月、63〜75頁
人間の生命操作に対する批判的見解に関する予備的考察(1)
:大統領評議会報告書の場合
森岡正博

 ヒトクローン胚の作成、ES細胞の作成が成功した。それらの技術をかけあわせて臨床応用することによって、再生医療が劇的に進歩するとされている。その延長線上に見えてくるものは、ヒト受精卵や発生途上の胎児に遺伝子的な操作を行なうことによって、生まれてくる人間の性能を「増強enhance」することである。当初は、遺伝子や染色体レベルでの病気や障害を治療して、「正常」に戻すための医療として応用されるであろうが、いったんそれが成功すると、同じ技術は、「正常」な人間の性能や能力をさらに増強することにも応用されていくだろうと予想されている。この意味では、「治療」と「増強」の区別はあいまいなのである。これまでも、たとえばヒト成長ホルモンを治療のために処方することがあったが、現在では、正常な人間がそれを自己投与し、老化防止や能力増強をはかっているという現実がある。それと同じことが、受精卵や胎児の遺伝子操作においても生じるであろうと予想されるのである。
  生命倫理学には、問題含みの先端技術が社会に応用される前に、その良い面悪い面の双方を徹底的に吟味して、臨床応用に対して何らかの介入をするという役割が課せられている。最近ではヒトクローン技術に対して、そのような議論が各国で積み重ねられ、その結果、クローン技術規制のための法律が各国で立法されるに至った。そのプロセスにおいて、生命倫理の議論は一定の役割を果たしたと評価して良いと私は思う。これと同じような議論を、人間の受精卵や胎児の遺伝子操作に対しても行なうべきだという意見には、説得力がある。そして実際に、この問題に敏感な米国を中心にして、生命倫理の議論が積み重ねられてきた。それはヨーロッパや日本などにも飛び火して、いまや生命倫理のもっともホットな話題となっている。たとえば2003年にドイツのボッフム大学で開催された国際会議「Cross-Cultural Issues in Bioethics: The Example of Human Cloning」においても、この問題は大きく取り上げられ、当地のマスメディアも興味を示していた。(私は日本のクローン技術規制法について発表した。その会議全体の記録は2006年に書籍として公刊される)。日本においても、2005年の日本生命倫理学会にてエンハンスメントの生命倫理をめぐる分科会が開催されており、注目度は高い。
  この問題をどのように考えればよいのかは大問題であり、時間をかけて慎重に取り組まなければならない。本稿ではそのための準備作業として、近年刊行された重要文献を検討し、そこで議論されているポイントを整理することを目的とする。この問題に対しては、科学の当然の進歩として肯定的に取り上げるのは比較的簡単である。その種の文献も多数出ている。しかしそれに比して、批判的見解を展開することのほうが難しいように思われる。なぜなら、これらの技術のどこに倫理的問題があるのかを明瞭に指摘するのはきわめて困難だからである。であるがゆえに、これらの技術に対して批判的な論陣を張る文献が、いったいどのような論点に切り込んでいるのかを調査することには大きな意味があると思われる。邦訳のあるものとしては、レオン・カス編著『治療を超えて』(原著2003年)、レオン・カス『生命操作は人を幸せにするか』(原著2002年)、ビル・マッキベン『人間の終焉』(原著2003年)、ユルゲン・ハーバーマス『人間の将来とバイオエシックス』(原著2001年)などがある。また、金森修『遺伝子改造』(2005年)は、いまのところ日本語で書かれたもっとも詳細な議論であろう。また、拙著『生命学に何ができるか』(2001年)、『無痛文明論』(2003年)も同様の議論を行なっている。それらを系統的に吟味するための最初の素材として、本稿ではカスがプロデューサーとなった『治療を超えて』およびカスの単著『生命操作は人を幸せにするか』を取り上げることにする。他の文献については、次回の検討課題としたい。引用箇所は、訳書の翻訳が問題ないと思われるときにはそれを用いたが、所々で森岡が訳し直した部分がある。

 『治療を超えて』は、米国の大統領生命倫理評議会の報告書である。この評議会は、2001年にジョージ・W・ブッシュ大統領によって設置されたものであり、生物医学やテクノロジーの進歩に関わる生命倫理の問題について議論し、大統領に勧告することがその設置目的である。議長はレオン・R・カスであり、彼を編者として報告書『治療を超えて Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness』が2003年に公刊された。その全文は評議会のウェブサイトから無料でダウンロードできる。評議会のメンバーはカスを含めて17名。哲学者、法学者、医師らから構成されている。報告書の文章の執筆分担は表示されていないが、内容から見て、議長・編者であるカスの大きな影響のもとに書かれたことが推測される。カスはユダヤ教に理解を示す倫理学者であり、先端テクノロジーに対しては懐疑的なスタンスを取ってきた。米国では、生命倫理問題に関して、1980年代初頭に大統領委員会が設置され、脳死、遺伝子操作、尊厳死などについての議論をまとめて大統領に報告する作業を行なった。それが米国の生命倫理学成立の大きな触媒となった。ブッシュ大統領が諮問した今回の評議会も、その流れのうえに位置づけられる。『治療を超えて』は、「よりよい子どもbetter children」「優れたパフォーマンスsuperior performance」「不老の身体ageless bodies」「幸せな魂happy souls」の4分野にわたって、これまでになされたきた議論を総ざらえして検討しており、この種の問題に対して批判的なスタンスで考察を加える際の必読文献となっていることは間違いないであろう。またブッシュ大統領が諮問したという点も重要である。これについては、最後に述べることにしたい。
  本報告書は、寿命をどんどん延ばしたり、子どもの能力を増強するような先端医療テクノロジーが進歩することによって、我々は果たして「幸福」になるのだろうかという問いから開始される。これは後に検討するカス自身の単著で全面展開されている問題意識である。本報告書がカスの強い影響下に書かれたことが伺われる。その問いを検討するために、長く生きたい、優秀になりたいといった我々の深い「欲望」をテクノロジーによって満たそうとすることの意味に焦点を絞るのである。この点で、本報告書の議論は、何が良くて何が悪いのか、どのようなルールを作成すればいいかと言った「生命倫理学」の従来の本筋からははずれた問題構成を取ることとなる。そして、「人間であるto be a human beingとはどういうことか、そして人間として活動するto be active as a human beingとはどういうことか」(1)という「あまりにも哲学的」(2)な問いに集中するのである。すなわち、「結局、バイオテクノロジーは、「よい人生とは何かwhat is a good life?」「よい社会とは何かwhat is a good community?」という古代の哲学の問いが我々にとっての現実的かつ焦眉の問題であることを、思いがけず示しているということなのである」(3)。
  報告書は、議論すべき論点を、「人間学」の問題、「生きる意味」の問題に絞ろうとする。この点において、報告書は、米国のバイオエシックスの中できわめて特異な位置を占めることとなった。いわば、本報告書は、議論すべきは生命の「倫理」というよりも、生命の「哲学・人間学」である、と宣言したのである。本報告書によってなされた、「倫理」から「哲学・人間学」へのシフトは、今後のこの領域の議論の決定的な転換点として認知されることになるであろう。生命倫理学のいわゆる「原理主義」(4原理=ジョージタウン・マントラ)時代は、本報告書の登場によって終わりを告げるであろう。そしておそらく、「生命の哲学」「生命の人間学」へと展開する学術的流れが、ゆっくりと形作られていくことだろう。報告書の議長であるカスはこの点にかなり自覚的であったようだ。カスは後に述べる単著『生命操作は人間を幸せにするのか』(2002年)の中で、これらの難問に納得のいく答えが出るとすれば、「その答えは科学でも、いや倫理学でもなく、正しい人間学a proper anthropologyからしか得られないに違いない」と述べている(4)。そしてこの流れは、当初から「哲学」「人間学」寄りであった日本の生命倫理の議論と、さほど齟齬なく結びついていくのではないかと思われる。たとえば、日本における脳死の議論は、米国に比べて、脳死に直面した家族の人間的な揺らぎや、脳死患者を取り巻く人々の関係性についての記述や分析が目立っていた。私はこの潮流を、「脳死への関係性指向アプローチ」と呼んだが、それは倫理学というよりも、むしろ人間学の香りを濃厚に漂わせていたのである。この意味で、人間学へとシフトしてきたカスらの生命倫理の議論は日本の生命倫理の議論と親和性をもつ、とみなすことができるかもしれない。

 報告書は、まず「よりよい子ども」についての議論からスタートする。彼らは意外にも、受精卵に遺伝子操作をする「デザイナーベイビー」の可能性は大いに誇張されていると言う。しかしそれに対する一般人の懸念には、見るべき「知恵wisdom」(5)が含まれているとする。その知恵がなにであるかを見るために、報告書はまず、もっと現実的な生命操作であるところの、出生前診断と胚の廃棄について検討していくのである。
  報告書は、出生前診断を利用した選択的中絶および、受精卵診断(着床前遺伝子診断:PGD preimplantation genetic diagnosis)を念頭に置いて議論を進める。報告書は述べる。これらの技術が受容されていけば、ダウン症のような「ある種劣った類の人間は・・・生きるに値しないcertain "inferior" kinds of human beings....do not deserve to live」(6)という考え方が社会にいっそう広がっていくことになりはしないか。その「得も言われぬ強制的な影響subtly coercive consequences」(7)を親は受けることになり、「不適切な者the "unfit"」(8)への差別が強くなる可能性がある。その結果として、子どもは「無条件で歓迎すべき贈り物an unconditionally welcome gift」ではなく、「条件つきで受け容れ可能な生産物a conditionally acceptable product」へと変わっていく危険性がある(9)。その結果として、「遺伝子疾患を持って生まれてきた者への寛容の精神が衰えてしまうthe prospect of diminished tolerance for the "imperfect"」のではないか(10)。たとえば、遺伝病をもって生まれてきた子どもに対して、「なぜお前は生まれてきたのだ」と言ったり、親たちに向かって「なぜ彼らをそのまま産んだのだ」と言ったりするような社会が到来するかもしれない。さらには、「一定程度重篤で、そして発見可能な障害を持った子どもは生まれてくるべきではないとする〈コンセンサス〉」に、親が抵抗するのは難しくなるだろう(11)。要するに、社会の中に、障害者に対する差別的な視線が充満するようになると言うのである。
  問題はさらに「親子関係」の崩壊にまで及ぶことになる。そもそも自然な文脈においては、子どもは「授かるbegotten」ものであって「作られるmade」のではない(12)。すなわち、伝統的には子どもを産むということは「受け容れるacceptance」ことであって、「作り変えたりreshape、設計したりengineer」することではなかった。そして親であるということは「人生において、招かれざるもの、選ばれざるものを受け容れるべく開かれていることbeing open to the "unbidden" and "unelected" in life」を意味するのであった(13)。ところが、子どもの選別にあってはこの根源的な理解が崩されるのである。「授かりもの」は、「条件つきで受け容れられるもの」となってしまう。すなわち、いかなる子どもも「その子がどのような長所を持っているとか、親がどのような希望を抱いているとかには関わりなく、最初から条件をつけずに愛すべきものであり、世話すべきものなのだ」(14)という価値観が崩されていくのである。
  またそれによって、子どもに対する親の態度は「無条件の受容unconditional acceptance」から「批判的な精査critical scrutiny」へと静かに変わっていく(15)。それにともなって、子どものほうも、自分が「親の意思の産物a product of their will」でもあるという感覚と取り組まなくてはならなくなる。この家族のダイナミクスは、ますます複雑さを増すであろう(16)。この親の期待という重圧は、「世界の中で自分自身の道を切り拓いてゆく子どもの自由を侵害する可能性がある」(17)と報告書は述べる。これらの技術は遺伝子の束縛から人間を解放するために生まれたものであるのに、逆説的に、個人としての我々の自由をさらにいっそう狭めることになってしまうかもしれないと報告書は指摘する(18)。
報告書は、以上のような点を指摘し、社会に広がる障害者への差別感覚、どんな子どもであれ歓待するという親子関係の崩壊、親の期待が子どもの自由を侵害する危険性などが、決定的な難点となって残ると結論する。そして、遺伝子増強やデザイナーベイビーにおいても、これらの難点は継続すると示唆するのである。この批判的視点は、きわめて重要なものである。
  ところで、私は同様の視点を、『生命学に何ができるか』(2001年)の中で、以下のように述べた。すなわち、選択的中絶が広く行なわれるようになった社会では、(1)障害者は生まれなかったほうがよかったのにという視線によって、障害者たちが「無力化」されること、そして(2)「私は無条件に存在を許されたのだ」という安心感やよろこびが、社会から系統的に奪われていくことになる。これが、生命の選別の根本的な問題なのである、と。とくに、後者の「条件を付けられない安心感」のことを、私は「根源的な安心感」と呼んだ。それは、「たとえ知的に劣っていようが、醜かろうが、障害があろうが、私の〈存在〉だけは平等に世界に迎え入れられたはずだし、たとえ成功しようと、失敗しようと、よぼよぼの老人になろうと、私の〈存在〉だけは平等に世界に迎え入れられ続けていると確信できる」という安心感のことである(19)。選択的中絶は、この「根源的な安心感」を浸食するがゆえに問題なのである。
  また私は『無痛文明論』(2003年)において、選択的中絶のようなテクノロジーの果たす機能を、「予防的無痛化」と呼んだ。選択的中絶のような生命の選別と管理が社会全体に広がったとき、その社会には、「私は条件付きでこの世に存在を許されたのだ」という原感覚が蓄積されていく。自分は親や社会が課した条件をクリアーしたから存在を許されたのだという感覚は、人間から「愛」の感情を消し去っていく。というのも愛とは、いまの、このままの姿でここにいるだけで、私の存在が肯定されているという確信を与えられることだからである。この意味での「愛の確信」がシステマティックに奪い去られていき、「私はほんとうは誰によっても愛されていないのではないか」という不安をすべての人がこころの奥底でかかえるような社会になる。従って、これらのテクノロジーの最大の問題は、人々から「愛の確信」を奪い去っていくことにある(20)。
  カスらの報告書も、私の議論も、ともに、生命を選別するテクノロジーによって、子どもを見る視線が「無条件」のものから「条件つき」のものへと変化してくるという見方を共有している。そのうえで、それを我々の社会に突きつけられた大きな挑戦状だとみなすのである。私の場合は、それをさらに「根源的な安心感」や「愛の確信の喪失」というところまで押し進めて形象化しようとした。この点については、それらの喪失を嘆くこと自体が一種のロマン主義ではないのかという批判をすでに受けている。科学や文明の進歩にともなって、我々は絶えずいろいろなものを喪失してきたが、その一方で我々は豊かさや長寿を獲得してきたのであり、多くの人々は前者よりも後者のほうをやはり選択するだろうというのである。しかしながら同時に、その選択によって、我々がいまどのくらいの巨大な難問を抱え込まなくてはならなくなっているのか、について考えずにすますことはできないはずだ。『無痛文明論』において、私は、それが「生命のよろこび」の喪失という大問題を引き起こすのであり、これはかなり決定的なことであると主張した。この論点は引き続き考え続けなくてはならない。

 報告書はさらにいくつかの大テーマについて質の高い議論をしているのだが、ここでは「不老の身体」についての議論を見てみよう。これは人間の遺伝子操作のみに関わる論点ではないが、報告書の哲学的スタンスを検討するために避けては通れない部分である。まず、報告書は、今後の医療技術が、人間の老化遅延と不死を目指して進んでいくであろうと述べる。老化遅延と不死は、おそらくすべての人間が望むことであるだろうから、そこに何の問題があるのだと思われるかもしれない。だが報告書は、テクノロジーによって、老いと死を限りなく先延ばししていくことがはらむ問題点をさらに検討していく。
  まず、我々の時間には限りがあるという認識があるからこそ、我々は大切なもののために命の限りを尽くそうとするのである。この「命を費やすspend our lives」という経験、そしてそうすることによって自分の「命が費やされるbecoming spent」という経験、これがまさに老いるという経験である。この経験が達成感と充実感をもたらし、我々の生に意味があるのだと教えてくれる。そして「使い尽くされるbeing "used up"」ことによって、この世で「十全に生きているという手応え」が強まる(21)。そして人間があげる最も偉大な成果の多くは、「我々の有限性に拍車をかけられ、限られた時間しかないという感覚によって押し進められる」のである(22)。このような、いわば限りがあるからこそ命が輝くという人間の真実が、これらの技術の追求によって摩耗してしまうというわけなのである。また、これらの技術によって、「時間が経過するという感覚」や「我々自身が成熟するという感覚」から、我々が切り離されてしまうことになる。このような生き方は「深くもなく、豊かでもないless serious or rich」人生となると報告書は指摘する(23)。
  報告書はさらに続ける。これらの技術を追い求めることによって、逆説的に、死はますます耐えがたいものとなり、我々はいっそう死を畏れ、死に悩まされることになるかもしれない。死と老いから意識的に逃げ続けようとする我々は、その意味で、ずっと死と老いにとらわれ続けるのである。そのようなとらわれから生まれるのは、「不安、自己耽溺、身体的不運やすべての新しい反老化対策へのこだわり」といったものになるだろう(24)。すなわち、死と老化の忌避にこだわり続けることによって、我々はますます多くの時間を、死と老化に対する不安や、怖れや、いらだちのために割くことになり、延長された我々の人生はいっそう死や老化の観念に覆われるようになり、そうやって結局我々は死と老化の悪夢から逃れることはできなくなるのである。老化遅延と不死を目指すテクノロジーのもとで、ちょうど我々はヨーロッパ中世のように、逃げ去ることのない死の観念にどっぷりと浸りながら、延長された人生を生き続けなくてはならなくなるのかもしれないのである。
  報告書のこの箇所は、とくに編者であるカスの思想の影響を強く受けている。カスの単著『生命操作は人を幸せにするか』では、さらに直接的に論点が展開されているのでそちらを見てみよう。カスは言う。「正直にいうなら、人間の命にかぎりがあることは、すべての人間にとって、自覚があろうとなかろうと、天恵であるblessingと私は考えている」(25)。「さらにいえば、不死である他の存在とは、私が思うに、死という宿命を負った今の人間ほど幸福well offではないはずだ。私たちは、死という運命に感謝すべきなのである」(26)。
  このように指摘したうえで、カスは以下のように述べる。人間は、不死や不滅、永遠といったものを求めるものなのだが、そこで切望されているものは、実はこの世で無限に生き続けることによって達成できるような種類のものではないのである。このような「人間の切望はこの世での生earthly lifeをいくら引き延ばしてもかなえられない。ただ年齢だけが増え、はてしなく「同じことmore of the same」を繰り返すばかりで、もっとも深い望みを満足させることは不可能なのである」(27)。すなわち、この世での不死が仮に達成されたとしても、そこで獲得されるのは、無限に反復される「同じこと」の集積でしかないのであり、それは当初我々が切望していたものとは、まったくかけ離れたものでしかないのである。「不死や不滅、永遠といったものにあこがれる人間の気持ちは、たとえ死を「生命医学的に」克服したとしても、きっと満足させることはできないであろう」。「それどころか、寿命の延長を追求することは、人間の魂が本来めざしているはずの目標から私たちの歩みをそらすことになり、人間の幸福を脅かすことになる」のである(28)。では、我々が当初切望していたものとは何かと言えば、カスはそれを「他者における完成completion in another person」(29)と呼んでいる。それは「神の愛」へと通じるものであるが、カスはこれ以上宗教的な世界に入って説明することを自粛する。カスの提出するこの論点は、ユダヤ=キリスト教の文脈によらなくても、把握可能な哲学的論点のように私には思われる。我々が「永遠」を求めるときに、そこで切望されているものは、この世での不死によっては達成できないはずの何ものかだったのであるという命題は、充分に神学の外部での考察に値するし、また医療があきらかに老化遅延と不死に向かって邁進している現在、どうしても問うておかねばならない論点だと考えられる。
  私は『無痛文明論』において、同様の論点を考察したのち、以下のように述べた。「われわれは、生の延長、所有の拡大、願望の実現によって「永遠」に近づくのではなく、まったく逆に、手にしていたものを手放し、自己を解体し、残されたものを真摯に味わうことによって「永遠」に出会うのである。無痛文明は、持続の果てに「永遠」を求めようと希求するがゆえに、けっして「永遠」に出会うことがない」(30)。この文章の「無痛文明」を、テクノロジーによって不死を追い求める我々の文明というふうに置き換えてみれば、カスの言おうとすることと響き合うことが分かるであろう。ポイントは、「永遠」をどう捉えるのか、という点に存するのである。
  すなわち、いつまでもできるだけ長く生き続けていたいという「欲望」の中身と、永遠がほしい・永遠の一部になりたいという「切望」の中身は、同じなのか違うのか、もし違うとすればどのように違うのか、について哲学的に考えていくことが必要なのである。これは、時間論、救済論などへと越境する大問題であるが、不老不死を目指す今日の医学的欲望をどう考えればよいのかというときに、避けては通れない論点のように思われるのである。これなどは、従来の生命倫理学では手に負えない種類の問題だ。どうしても、哲学・人間学へのシフトが要請されることになろう。

 さて、ふたたび大統領評議会の報告書に戻ろう。報告書は結論として、以下のようなことを述べている。すなわち本質的な論点というのは、「自然に与えられたものthe naturally given」への真の評価と尊敬の念が傲慢によって脅かされること、人間的な行動の尊厳が「不自然な」手段によって脅かされること、アイデンティティの保持が自己変容の試みによって脅かされること、真の人間の繁栄が偽りの代用品や薄っぺらな代用品によって脅かされること、の四点である(31)。なぜそのようなことになるかというと、我々が、世界の「恵み」を適切に認め、尊敬の念を払うことに失敗したからである。そもそも「生命の恵みに感謝するということは、我々の才能や力はけっしてそのすべてを我々自身が行使しているわけではないし、まして我々自身の所有物ですらないということを、しっかりと認識することなのである」(32)。これを理解するには一部宗教的な感受性を必要とするだろうが、「その響きは宗教を超えて広がっていくだろう」とカスは述べる(33)。
  以上に紹介した論点以外にも多くの注目すべき議論があるのだが、それについては他の場所で紹介することにしたい。ここで、この報告書それ自体について、若干の吟味を行なっておきたい。
  まず、報告書の論調としては、欲望増大へと突っ走る我々の文明に警鐘を鳴らし、いま立ち止まって進行方向を変えなければ、我々はいままで築き上げてきた大事なものを見失ってしまうだろうというものである。そしてそれを把握できるような知恵の復権を主張している。しかしながら、別にそれでもいいから生命をコントロールして長寿と健康を手に入れたいと主張する人々がいたときに、それを禁止する論拠にはなっていない。報告書の主張は、確信犯的な自由主義者たちの行動を規制することはできないのである。この報告書に直接的な社会政策の提言を見出そうとすると失望してしまうだろう。カスも書いているように、この報告書には、きわめて哲学的・人間学的なバイアスがかかっているのである。(そしてその哲学・人間学は、ユダヤ=キリスト教の保守思想のフレーバーに満ちている)。この報告書は、象牙の塔の安楽椅子から、社会に木鐸を鳴らすという役割しか果たしていないように見える。
  ただし、報告書がブッシュ大統領に勧告されている点は注意を払う必要がある。仮に大統領がこの報告書の論調を重要視したとすれば、それを根拠にして、トップダウンの政策を発動するかもしれないからである。実際問題として、ヒトクローン研究やES細胞研究をめぐって、大統領側と民主党議員のあいだに大きな意見の対立がある。大統領評議会も、この対立図式が続く中で設立されたという経緯がある。であるから、この報告書の中身に自由主義者たちを規制する具体的な政策提言は含まれていなくても、報告書を受け取った大統領や政治家たちが、生殖や研究の自由を実際に規制する立法や政策を行なう可能性は残されていると考えられる。したがって、本報告書が政策提言として失敗作であるとは、ただちに言えないことに注意する必要がある。ただし科学研究に関しては、国家予算からの支出を規制したとしても、民間予算での研究は規制されないということになる公算が強い。もちろん人権、生殖、中絶などにかかわる面では、すべての米国市民(あるいは州住民)に適用される規制が可能であろうから、規制がどうなっていくのか注目に値する。
  私の目から見てとくに強く感じられたのは、この報告書が、現代文明の欲望の構造を捉え切れてないという点である。たしかに欲望についての考察が必要だということは強調されているが、報告書での議論は単に個人の欲望という側面に限定されている。たとえば、社会全体の仕組みとして、健康や長寿や苦痛の回避などへの欲望が、マスメディアや、都市化のテクノロジーや、快楽商品によってかき立てられ、その欲望追求の大きな流れに我々全体が飲み込まれそうになっているという点への批判が希薄であったように思われる。そしてそのような欲望の渦巻きを作り出しているものが、ほかならぬ我々一人ひとりの内部にひそむ欲望であり、その欲望はほかならぬカス自身の内部にもうごめいているはずであるという点を、さらに掘り下げる視点が足りないように思われる。私はこのような作業を『無痛文明論』で行なったわけだが、要するにこの報告書には「無痛文明論」的な視座が希薄なのである。もちろん、この報告書やカスの書物では、苦しみを避けようとすることが人間を薄っぺらにしていくこと、条件つきの愛を選択することが親子関係を崩していくことなど、無痛文明論的なテーマが的確に指摘されてはいる。その点では、この報告書は凡百の生命倫理学の書物をはるかにしのいでいると言えるだろう。そればかりか、近年のこの分野の代表作と考えてよいかもしれない。しかしながら、それでもなお私には上記の点で大きな不満が残る。この報告書での議論を、無痛文明論へと接続する必要がある。
  さらに言えば、この報告書には、米国社会が国内外で作り上げている搾取の構造をどう考えるのかという視点が欠如している。これは決定的な難点であろう。先端医療技術の恩恵に浴することができるのは、一部の米国民のみである。国内のハリケーンで被災するような人々や、米国が国外で戦闘している国民のほとんどは、これらのテクノロジーの恩恵に浴することはできないだろう。そればかりか、これらの先端テクノロジーの恩恵を受けるであろう富裕層の人々は、国内外の富裕でない人々から経済的な搾取を構造的に行なうことによって、それら先端テクノロジーの成果を購買する資金を得ているという事実がある。その仕組みそれ自体はそのままでよいのか、という点への疑問が、報告書からはほとんど感じられないのである。
  もちろん、テクノロジーの恩恵を蒙るのは富裕層のみであるという議論は紹介されているものの、我々の社会において貧富の差はなぜ固定化されてしまうのか、その落差を利用する形でテクノロジーが社会応用されていくこと自体をどう考えればいいのか、についての議論はなされていない。これは生命倫理の根本問題であるはずだと思われるのに、貧富の差を「所与」とするかのような論調に終始している感がある。いずれにせよ、これは、カスもその一員であろう米国の富裕層のエリートたちが議論して、大統領に提出した報告書であるという点を、読者たる我々は忘れてはならないだろう。すなわち報告書では、米国の富裕層が保持してきた既得権それ自体を人間学的・倫理学的にどのように考えるのか、という点についての掘り下げが決定的に不足しているのである。もちろんこの論点が、米国に匹敵する富裕国日本で富裕な私(たち)がこの問題をいま議論しているというところへと跳ね返ってくる、ということもまた忘れてはならない。
  このような批判に対しては、それは国際関係論やグローバリゼーション論であって、「生命倫理学」の扱う直接的なテーマではないという反論が、正統派の生命倫理学者からは上がってくることだろう。しかし、問題構成をそこまで厳格に狭めること自体が、今日においてはもはや時代遅れかもしれないという点に、そろそろ気づかねばならないと私は思うのである。
  さらに言えば、与えられた生命の恵みに感謝することを強く主張するこの報告書が、ブッシュ大統領に手渡されたとして、その大統領が9・11の後に、アフガニスタンで、イラクで、数限りない生命に対してなにをしてきたのか、ということを我々はやはり考えないわけにはいかない。もしブッシュ大統領がこの報告書を強く支持して政策に反映するとするのならば、その行為と、ここ数年来の米国の戦闘行為との整合性をいったいどのように付ければよいのかを、カスらの生命倫理評議会は真摯に考えなければならないのではないだろうか。先端医療技術による人間の生命への介入を規制しなければならないという思想と、先端医療技術すらまだ保持していない国外の非戦闘人民(アフガニスタンの場合は世界最貧国の人民)を、自国の安全保障のためならば副作用として「予防的」に抹殺しても仕方ないとする思想が、実は一直線に結ばれているのではないかという疑問を、正面から考え抜いてみる必要があるのではないだろうか。そこからこそ、生命テクノロジーに関する真の哲学・人間学が立ち現われてくるはずだと私は思うのである。
大統領評議会報告書には、与えられた生命の恵みに感謝すること、望まれない生命を歓待することの大切さ、欲望にふりまわされて浅薄な人生を送ってしまうことへの反省、などの重要な立脚点が指摘されていた。これらの視点と、今日のグローバリゼーション状況下における米国や日本のふるまいがこれでよいのかといった自己吟味を合体させるときに、生命操作への批判的スタンスは、もっと説得力あるものになるのではないだろうか。安全保障の要請からくる予防戦争への邁進と、社会の安全保障のための子どもの予防的選別は、同じ思想から導かれてくる行為である。私はそれを予防的無痛化と呼んだ。これらの視点をも導入しながら、基本的ニーズへのアクセス可能性に厳然たる落差のある社会の中で、その構造自体をきびしく吟味し、生命の倫理・哲学・人間学を追究していくという問題設定が必要なのである。大統領評議会報告書は、生命倫理の議論をその方角へと展開していくための、重要な一ステップとして大きな価値があると私は評価したい。

(1)Leon R. Kass (ed.), "Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness." Harper Collins, 2003, p.8, 邦訳、9頁
(2) p.7, 邦訳、8頁
(3) p.11, 邦訳、12頁
(4) Leon R. Kass, "Life, Liberty and the Defence of Dignity: The Challenge for Bioethics." Encounter Books, 2002, p.18, 邦訳、26頁
(5) p.32, 邦訳、38頁
(6) p.52, 邦訳、60頁
(7) p.37, 邦訳、44頁
(8) p.37, 邦訳、44頁
(9) p.37, 邦訳、44頁
(10) p.56, 邦訳、64頁
(11) p.56, 邦訳、64頁
(12) p.70, 邦訳、80頁
(13) p.70, 邦訳、80頁
(14) p.71, 邦訳、81頁
(15) p.54, 邦訳、62頁
(16) p.55, 邦訳、62頁
(17) p.55, 邦訳、64頁
(18) p.55-56, 邦訳、64頁
(19) 森岡正博『生命学に何ができるか』勁草書房 2001年 344頁
(20) 森岡正博『無痛文明論』トランスビュー 2003年 52〜56頁
(21) p.187, 邦訳、217頁
(22) p.187, 邦訳、218頁
(23) p.192, 邦訳、222頁
(24) p.190, 邦訳、221頁
(25) p.264, 邦訳、359頁
(26) p.265, 邦訳、359頁
(27) p.270, 邦訳、367頁
(28) p.270, 邦訳、367頁
(29) p.269, 邦訳、366頁
(30) 『無痛文明論』366頁
(31) p.287, 邦訳、347頁
(32) p.288, 邦訳、349頁
(33) p.288, 邦訳、349頁