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作成:森岡正博
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論文
The Review of Life Studies Vol.7 (December 2016):1-19
フランクル『夜と霧』における人生の意味のコペルニクス的転回について
森岡正博
1 はじめに
ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』の第二段階(第二章)の末尾において、人生の意味の「コペルニクス的転回」が語られる(1)。すなわち、霜山徳爾の旧訳を用いれば、「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである」というのである(2)。この箇所は人生の意味についてのフランクルの考え方が凝縮されたものとして有名であるが、それが何を意味しているのかを正確に捉えるのは簡単ではない。この文章によって、フランクルはいったい何を言おうとしたのだろうか。本稿では、この点に迫ってみたい。
2 諸富祥彦による解釈
まず手がかりとして、フランクル研究者である諸富祥彦の著書においてどのような解釈がなされているのかを見てみる。
諸富は『フランクル 夜と霧』を2013年に刊行している。これは2012年のテレビ番組「NHK100分de名著」で放映された自身の番組のテキストをもとにして単行本として刊行されたものであり、一般読者向けの入門書である。同書において諸富は、当該の箇所でフランクルが言おうとしているのは次のようなこと、すなわち、「私たち人間がなすべきことは、生きる意味はあるのかと「人生を問う」ことではなくて、人生のさまざまな状況に直面しながら、その都度、「人生から問われていること」に全力で応えていくこと」であると指摘する(3)。諸富は、さらに次のように言い換えている。
人間は「人生から問われている者」である――これがフランクルの基本テーゼです。そして、この観点、立脚点に立つならば、人がみずからの主観で人生に意味があるかないかを決めうるとして、人生の意味を問う構えそのものが、そもそも傲慢なものだということになります。
人間の原点は「人生から問われている者」であるところにある――したがって、人間にできること、しなくてはいけないことは、人生のさまざまな状況に直面しながら、その都度その都度、状況から発せられてくる「問い」に全力で応えていくことである。その状況にひそんでいる真の「意味」を発見し、それに全力で応えていくことである。そして、そうすることで自分の人生に与えられている「使命(ミッション)」をまっとうすることにある、とフランクルは言うのです。(4)
すなわち、私から人生に向かって意味を問うのではなく、人生から私に向かって問われてくる問いに対して私が全力で応えて、意味を発見していくことが大事なのだと諸富は解釈する。そしてそれは自分の「使命(ミッション)」をまっとうすることにつながるのだとしている。人生から問われてくる問いに応えるとは、「日々直面する人生の状況から発せられてくる問いかけに精一杯応え、自分の人生に与えられた固有の使命(ミッション)をまっとうしていく、という人間本来のあり方へと立ち戻ることで、人ははじめて慢性的な不満状態から解放されていく、とフランクルは言う」と諸富は述べる(5)。
そして、人生の意味への答えは、「私を超えた向こう」から、私のところに、「私たちが何もしなくても、もうすでに、与えられてしまっている」。したがって私たちがなすべきは、「私たちの足下に、常にすでに送り届けられてきている「意味と使命」を発見し、実現していくこと」ただそれだけであり、「勇気をもち、こだわりを捨てて、人生のこの素晴らしい真実を受け入れていくだけ。人間は「人生から問われている」とフランクルが言う時、それはこのことを意味しているのである」と結論する(6)。
3 「コペルニクス的転回」についての考察
諸富の解釈は正しいのだろうか。それを知るためには、そもそも『夜と霧』の当該の箇所で、正確にどのようなことが言われていたのかを知る必要がある。そのためには、まず翻訳の問題に目を向けなければならない。
『夜と霧』の和訳には、霜山徳爾による1956年のもの(旧訳)と、池田香代子による2002年のもの(新訳)がある。旧訳は刊行以来長く読み継がれてきたもので、これまで無数に引用されてきた。依拠している原著は1946年刊行の初版である。この原著の改訂版が1977年に刊行された。それを翻訳したのが新訳である。改訂版にはフランクル自身による語句の加筆訂正がある。本稿で取り扱う箇所にも若干の改訂があるが、基本的にはほぼ影響はない(次頁の註9で示す)。むしろ問題となり得るのは、旧訳と新訳の翻訳文である。
ここで、「コペルニクス的転回」について書かれたパラグラフを、旧訳、新訳の順に引用してみたい。
【旧訳】
ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると云えよう。すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。(7)
【新訳】
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを一八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているのかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく応える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。(8)
この二つの翻訳は、全体としては意味の掴みやすい日本語である。しかしながら、細部を理解するのはなかなか難しい。旧訳で「生命」「人生」、新訳で「生きること」となっているのはすべて「Leben」である。旧訳の「使命」は、新訳では「課題」となっている。旧訳の「われわれが人生の意味を問うのではなくて」の箇所は、新訳では「生きることの意味を問うことをやめ」となっており、意味への意志を強調するフランクルがなぜここで意味を問うことに否定的なのか、両翻訳を一読しただけでは理解しにくい。ドイツ語原文を新版に準拠して引用してみよう。
Was hier not tut, ist eine Wendung in der ganzen Fragestellung nach dem Sinn des Lebens: Wir mussen lernen und die verzweifelnden Menschen lehren, das es eigentlich nie und nimmer darauf ankommt, was wir vom Leben noch zu erwarten haben, vielmehr lediglich darauf: was das Leben von uns erwartet! Zunftig philosophisch gesprochen konnte man sagen, das es hier also um eine Art kopernikanische Wende geht, so zwar, das wir nicht mehr einfach nach dem Sinn des Lebens fragen, sondern das wir uns selbst als die Befragten erleben, als diejenigen, an die das Leben taglich und stundlich Fragen stellt ? Fragen, die wir zu beantworten haben, indem wir nicht durch ein Grubeln oder Reden, sondern nur durch ein Handeln, ein rightiges Verhalten, die rechte Antwort geben. Leben heist letzlich eben nichts anderes als: Verantwortung tragen fur die rechte Beantwortung der Lebensfragen, fur die Erfullung der Aufgaben, die jedem einzelnen das Leben stellt, fur die Erfullung der Forderung der Stunde.(9)
原文と翻訳を比較して分かるのは、まず旧訳は原文を正確に翻訳していないということである。一例を挙げれば、最後の文章にある「人生の意味の問題に正しく答えること」は、「die rechte Beantwortung der Lebensfragen」であるから「人生の問いへの正しい応え」としなくてはならない。内容を考えるに、これは致命的な点である。他にも、重要な単語の翻訳が欠落している。新訳は、この箇所をも含め、旧訳よりも正確である。しかし新訳の「一八十度方向転換」という表現が訳しすぎであるなどの問題もある。「Verantwortung」を「義務」と訳してよいのかという問題もある(10)。原文と翻訳を比較してみて次に分かるのは、二つの翻訳はともに日本語読者の読みやすさを最優先しており、原文の単語の繰り返しや淀みなどを切り捨てている箇所があちこちにあることである。(実は2011年増補の英語版についても同じことが言える。英訳でも単語の脱落があちこちにあり、たとえば「コペルニクス的転回」を述べた一文はそもそもまったく翻訳されていない。したがって、一般的な英語版読者は、『夜と霧』の「コペルニクス的転回」と言われても、何のことか分からないだろう(11))。
『夜と霧』におけるフランクルの文体はけっして流麗とは言えない。それが日本語訳では読みやすく美しい文体になっている。一般書として商業出版するわけだから、メッセージが正しく伝えられているかぎりそれで問題ないのだが、フランクルの言いたいことを汲み取ろうとすると隔靴掻痒の感がある。そこで、新旧の翻訳を参考にしながら、逐語訳的な私訳を行なってみた。
ここで必要なのは、問いを人生の意味の方向へと大きく転換することだ。我々が学ばねばならず、また絶望している人たちに教えなければならないのは次のことである。すなわち、我々が人生から何をまだ期待すべきかなどということは決して問題ではないのだ。そうではなくて、むしろ単に、人生が我々から何を期待するかということだけが問題なのだ! 本格的な哲学用語を使うならば、ひとつのコペルニクス的転回法が以下のように行なわれると言うことができる。すなわち、我々は、人生の意味のほうに向かって問いを立てるということをもうすっかりやめてしまうのであり、そのかわり逆に、自分自身のことを、問いを問われた者として捉え直すのである。そしてそのようにして問いを問われた者の上へと、人生は毎日毎時、問いを立てかけてくるのである。その問いに我々は応えなければならないのであるが、正しい応えは、沈思黙考やおしゃべりによってではなく、ひとつの行為によって、ひとつの正しい態度によってなされるのである。つまり人生とはまさに次のように呼ばれる他はない。すなわち人生とは、人生の問いへの正しい応えについて、人生が各人へと課してくる責務の履行について、そして毎時の要請への履行について、応答責任を果たすことに他ならないのである。
このように翻訳してみると、このパラグラフでフランクルが強調したいことがくっきりと浮かび上がってくるように私には思える。フランクルがここで言いたいのは、「コペルニクス的転回法」の内容についてである。それは、次の文章によって的確に表現されている。「我々は、人生の意味のほうに向かって問いを立てるということをもうすっかりやめてしまうのであり、そのかわり逆に、自分自身のことを、問いを問われた者として捉え直すのである。そしてそのようにして問いを問われた者の上へと、人生は毎日毎時、問いを立てかけてくるのである」。すなわち、我々は、どこかに「人生の意味」というようなものが実体として存在しているかのように思い、それに向かって「人生の意味とは何だろうか?」と問うようなことをやっているが、それはダメだとフランクルは言うのである。そうではなくて、その逆に、問いはこの自分自身に向けて問われているということに気づかねばならない。この自分自身こそが、問いを問われているその真の対象なのである。問いは、ちょうど矢のようにして、この自分自身へと向かって飛んできている。問いは、「人生」から「この自分自身」へと向かって、毎日毎時、ひたすら矢のように飛んできているというのである(「矢のように」という表現は私が補ったものであり、フランクルは用いていない)。
では、人生から矢のように飛んでくる問いに対して、私は何をすればいいのだろうか。私は、ひたすら沈思黙考したりおしゃべりをしたりすることでそれに応えるのではなく、行為と正しい態度によってそれに応えなければならないとフランクルは言う。その問いに対して、私が実際にどう行為するのか、どういう正しい態度を取るのかが、いちばん大事なのである。人生からひたすら矢のように飛んでくる問いに対して、きちんといまここで「応答責任Verantwortung」を果たしていくことがいちばん大事なのである。私はこのパラグラフをこのように読み取りたい。
ふたたび繰り返すと、このパラグラフで言われていることの核心部分は、(1)私が人生の意味に向かって問うのではなくて、人生が私に向かって問うているということ、そして(2)人生から私に向かって矢のように問われていることに対して、私はいまここで行動と態度によって応えていく応答責任を負っているということである。
このことは、フランクルが『夜と霧』と同時期に刊行した他の書物によっても裏付けられる。まず『夜と霧』と同じ年に刊行され、その理論的基盤となった『人間とは何か』を見てみよう。この本は、その後もフランクルによって繰り返し改訂されている。最近、山田邦男らによって信頼できる新訳が刊行されたので、同書から該当部分を山田らの翻訳で引用する。
ここで、これまで人生の意味への問いについて述べてきたことの全体から結論を得ようとするとき、われわれは、この問いそのものの根本的な批判に到達する。それは、人生そのものの意味への問いは無意味である、ということである。なぜなら、もしその問いが漠然と人生「というもの一般」を指し、具体的な「各々の私の」実存を指していないならば、誤って立てられているからである。われわれが、世界体験の本質的構造に立ちもどり、それを深く熟考しようとするならば、人生の意味への問いにある種のコペルニクス的転回を与えなければならない。すなわち、人生それ自身が人間に問いを立てているのである。人間が問うのではなく、むしろ人間は人生から問われているものであり、人生に答え(antworten)ねばならず、人生に責任を持た(ver-antworten)ねばならないものなのである。そして、人間が与える答は、「具体的な人生の問い」に対する具体的な答でしかありえない。現存在の責任のうちにその答は生じ、人間は実存そのものにおいて彼固有の問いに対する答を「遂行する」のである。(12)
ここで注目すべきは、引用後半部分である。上記の翻訳では若干掴みにくいが、フランクルは原文でこのように述べている。「人間は人生に応えantwortenなければならないし、人生に応答責任を果たさver-antwortenなければならない。・・・現存在の応答責任verantwortungのただ中で、その返答Beantwortungは生起する。すなわち、その実存のただ中で、人間はその人間の固有の問いに対する返答をみずから遂行するのである」(13)。
フランクルはここで「応える―返答する」ことと、「応答責任を果たす」ことの二つを区別している。すなわち、人間は人生から問いを絶えず投げかけられるのであるが、人間はそれらの問いに対して「応え」なければならない。そしてその返答は、人生から問われた問いに対して「応答責任」を果たすという地平の上ではじめて、正しくなされるというのである。言い換えれば、人生からの問いかけに対して、応答責任を果たすというところまで考えない軽い気持ちでもって、単にその問いに返答してもダメだということである。すなわち、フランクルは、人生からの問いに応えるという行為を、応答の「責任性」の次元まで降りて捉えているということである。この応答の「責任性」の次元のことを、フランクルは「実存Existenz」と呼んでいる。(これと同様の文章は、『夜と霧』と同時期になされた講演録(Frankl(1946b))においても見られる(14))。
このような視点で再度『夜と霧』の該当箇所を読み直してみると、そこにおいてもまた、この二つは明確に区別されていることが分かるだろう。
ここで、『夜と霧』の英語版に収められた「Logotherapy in a Nutshell」における記述を見てみよう。これは『夜と霧』の読者のためにフランクルが同書に収めたロゴセラピーの簡潔な概説である(15)。当然、フランクルの手が入っているとみてよい。その中から「コペルニクス的転回」に当たる箇所を英語から翻訳してみる。
人生のそれぞれの状況は、人間に対する課題を表象したものであり、人間が解決すべき問いを投げかけている。したがって、人生の意味の問いは、実際、逆転させて考えたほうがいいとも言える。結論から言えば、人間は人生の意味とは何であるかと問うべきではなく、そのかわりに、問われているのはその人自身であるということを認識しなければならないのである。要するに、それぞれの人間は人生から問いを発せられているのである。そして、人間は自分自身の人生に対して応えるanswering for his own lifeことによってのみ人生に応えるanswerことができる。すなわち、人生に対してつねに応答責任を果たす態勢になっているbeing responsibleことによってのみ、人間は人生に応答するrespondことができるのである。したがって、ロゴセラピーは、この応答責任性responsiblenessの中に、人間存在の真の本質を見るのである。(16)
フランクルは、「応えるanswer」ことと「応答するrespond」ことを区別している。これは『人間とは何か』における「応えるantworten」ことと「応答責任を果たすver-antworten」ことの区別に対応している。そしてフランクルは、この後者の「つねに応答責任を果たす態勢になっているbeing responsible」という「応答責任性responsibleness」にこそ、人間存在のあるべき姿の核心を見るのである。
以上を総合するに、当該のパラグラフの「コペルニクス的転回」の議論は、一直線に、この「応答責任性」という結論へと突き進むものであると言うことができる。「応答責任性」こそが、フランクルの狙っていた標的であろう。
さて、ふたたび『夜と霧』の当該箇所に戻りたい。
当該箇所での記述内容は、その次のパラグラフへと引き継がれ、この行動と態度でなされる応えは、けっして一般論でなされるのではなく、徹底的に具体的な仕方でなされるとされる。そしてその応えは一度限りであり比類なき仕方でなされる。さらに次のパラグラフで、この問いを問われている者、応答責任を負っている者とはいったいどのような者なのかについてクリアーな答えが書かれているのでそれを私訳してみたい。
とにかく具体的な運命が人間にひとつの苦しみを課すかぎり、人間はその苦しみの中にすらひとつの責務を、すなわちひとつの完全に一回的な責務を、見なければならないだろう。人間はたとえ苦しみに直面したときですら、次のような意識へとみずから到達しなければならない。すなわち、そのような苦しみに満ちた運命とともにありながら、いわば全宇宙に一度かぎりそして比類なき仕方でもって立っているのだという意識へと人間は到達しなければならないのである。
Sofern nun das konkrete Schicksal dem Menschen ein Leid auferlegt, wird er auch in diesem Leid eine Aufgabe, und ebenfalls eine ganz einmalige Aufgabe, sehen mussen. Der Mensch mus sich auch dem Leid gegenuber zu dem Bewustsein durchringen, das er mit diesem leidvollen Schicksal sozusagen im ganzen Kosmos einmalig und einzigartig dasteht.(17)
すなわち、問いを問われている者、応答責任を負っている者とは、「全宇宙に一度かぎりそして比類なき仕方でもってim ganzen Kosmos einmalig und einzigartig」立っている者のことである。これはすなわち人間一般のことではなく、ほかならぬこの文章を書いている私のことであり、この文章をいま読んでいるあなたのことなのである、とフランクルは主張していると私は考えたい。私はこのような存在者を「独在的存在者」と呼んできた(18)。フランクルが言うところの、人生から問いを問われている者とは、人生の意味を求めて生きている人間一般のことではなく、ほかならぬこの文章を書いている私、そしてこの文章を読んでいるあなたのことである。そしてあなたについて言えば、この文章を読んでいるその毎時毎刻に、人生から矢のような問いがあなたに向かって飛んできているのである。まさにこの文章を読んでいるあなた自身がいまここで問われているのである。フランクルの主張は、この次元で受け取られなくてはならない。まさにあなたこそが、いまここで人生が問いかけてくる問いへの応答責任を果たさなくてはならない。「問いを問われている者」一般ではなく、この文章を読んでいる唯一無二のあなたが、この独在性の極北で応答責任を引き受けたときにはじめて、あなたはフランクルを正しく受け止めたことになるはずである(19)。
フランクルが『夜と霧』原著の117ページから119ページにかけての3つのパラグラフで中心的に主張したのは、以上のことである。
以上に述べた私のフランクル解釈は、現代の「人生の意味の哲学philosophy of meaning of life」に興味深い寄与をなすと考えられる。その一部はすでにMorioka (2015)として発表した。そこにおいて私は、人生の意味の中核部分が問われるのは、上記の独在的存在者の次元であるという主張を行なった。今回、『夜と霧』を読み直してみて、フランクルもまたそれと同様の主張をしていることが分かった。以上の点については、さらに別論文にて掘り下げてみたいと考えている。
4 「コペルニクス的転回」の様々な解釈
ここまで考察してきて、当該の箇所でフランクルが中心的に主張していたことの主筋を捉えることができた。しかしながら、人生が私にたえず問いかけてくるその問いに対して、応答責任を果たしていくということが具体的に何を意味するのかについては、はっきりとしたことは分からないままである。
フランクルは先のパラグラフに引き続いて、彼の主張する考え方が実際に役立った二つの例を思い出すと述べて紹介している。それは強制収容所で人生に絶望し、自殺を考えるようになっていた二人の男の例で、一人に対しては故郷で父親の帰りを待つ子どもがいること、もう一人に対しては自分の本を書き上げて完結させることをフランクルは思い起こさせた。このように、自分を待っている仕事や、自分を待つ愛する人たちがいれば、人は自分の人生を投げ出すことはできないとフランクルは言う(20)。山田邦男は、この箇所を「コペルニクス的転回」のひとつの内容だとしている(21)。諸富もまた、このエピソードに触れて次のように述べている。
「人間は人生から問いかけられている」――それはまた、「誰か」があなたを待っていて、「何か」があなたを待っている、ということでもあります。(22)
もちろん、山田や諸富が指摘するように、誰かが私を待っている、何かが私を待っているというのは、「コペルニクス的転回」が人間にもたらすひとつの大いなる気づきであろう。しかしながら、この気づきこそが「コペルニクス的転回」の中心的な内容であると考えるのは的を外しているように私には思える。フランクル自身、この二つの例は、「コペルニクス的転回」の思想に関連して「思い出した」ことであると書いている。もしこの二症例が「コペルニクス的転回」の中心的な内容だとしたら、フランクルがあそこまで執拗に応答責任を強調する意味が理解しにくい。また、誰も私を待っていないし、どんな仕事も私を待っていないという状況の人間に対しては適用することができないという問題も生じる。(諸富の2013年の本の帯には「“何か”があなたを待っている。“誰か”があなたを待っている。」という言葉が大きく書かれており、出版社による宣伝文句だとはいえ、これは読者をミスリードする可能性がある)。
ここで、「コペルニクス的転回」についてフランクル研究者たちがどう考えたのかを見ておきたい。まずラファエル・L・シロニスは「極限状況の実存論的・実在論的地平:フランクル『夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録』をめぐって」(1990年)において、次のように述べている。すなわち、フランクルの言う「人生は私から何を期待しているか」という観点は、「人生そのものや存在そのものに対する絶対的信頼、絶対的希望を要求する」(23)。だが、そのような絶対的信頼は、「絶対的存在である神への信仰なしには考えられない」(24)。シロニスは以下のように結論づける。
特に自分の人生を作り出したのではない生かされている人間が、だれも代わりに果たし得ない使命を有していることを考えると、その使命は天から授けられたもの、天職と考えられるであろう。人間はそう考えて初めて、その使命を良心的にかつ責任を持って果たし、自分に対するかなたからの呼びかけに答えるのである。私見であるが、ある人がもし神への明白な信仰を持たないと人生そのものや存在そのものを信頼することができないとは思わないが、その無条件的で絶対的と言える信頼や希望の態度のうちに、もしそれが単なる盲目的で主観的な態度でないならば、絶対的な存在(その意味での神)の少なくとも含蓄的な肯定が含まれていると私は思う。というのは、絶対的な存在が肯定されないと、その絶対的信頼や希望は根拠づけられ得ないからである。(25)
すなわち、人生から私に問いかけられてくる問いは、神からの問いかけである。神は私に使命や天職を与えているのであり、その使命や天職でもって神からの問いかけへと応答していくことが求められているというのである。たしかに、人生とは神のことであると考えると、フランクルの文章は分かりやすくなる。諸富によれば、フランクルは「かなり熱心なユダヤ教徒」であり、「「神の存在」についてはかなり強い確信を抱いて」いた。そして「人間は眼に見えない神の前で人生というステージに立っている」とフランクルは言っているとする(26)。だとすると、シロニスのような解釈も間違ってはいないと言えるだろう。しかしながら、そのように解釈してしまうと、神への信仰のない者は、フランクルの言う「コペルニクス的転回」に正しい形では参与できないことになりかねない。それはフランクルが真に主張していたことではないと諸富は指摘している(27)。
次に山田邦男の解釈を見ておきたい。山田は『生きる意味への問い―V・E・フランクルをめぐって』(1999年)において、「人生から何をわれわれはまだ期待できるか」という捉え方を「自己中心的な観点」と呼ぶ。それに対して、「人生が何をわれわれから期待しているか」という捉え方を「世界中心的な観点」呼ぶ。フランクルは、人生の意味を探求するときに、「自己中心的な観点」から「世界中心的な観点」へと切り替えることを提唱しているというのである(28)。
この二つの観点を順番に見ていくと、まず「自己中心的な観点」とは、自己を中心として人生を捉える見方である。すなわち、「自分の人生は自分のものであり、自分がそれをどうしようとも自分の自由である、という観点」である。しかしこのような考え方は、強制収容所のような「人生から何も期待できない」極限状況に陥ったとき、自分を支えることができないし、最後には自殺にまで行き着いてしまうと山田は言う(29)。
これに対して「世界中心的な観点」とは何だろうか。「自己中心的な観点」によれば、自分の人生は自分のものなのだが、より視野を広げて考えると、その考え方は間違っていることが分かる。というのも、自分の人生は「自分を超えた何ものかから与えられたもの」だからである。この「自分を超えた何ものか」というのは、キリスト教では「創造主である神」のことであり、仏教では「国土の恩」「衆生の恩」「師の恩」「父母の恩」という「四恩」のことであると山田は言う。そしてこの「四恩」を「世界」と言い直すならば、「自分は世界によって生かされている者として、自分の人生は世界から与えられたものであり、世界に対して自分の人生を生き抜く責任を担っている」ことになると言う(30)。
山田はこのことを、『フランクル人生論―苦しみの中でこそ、あなたは輝く』(2009年)において、次のように語り直している。
人間は誰でも、この宇宙において唯一独自の存在であるが、その唯一性(かけがえのなさ)は他のものとの関係性におけるそれであり、したがってそれは他のものからの自分への呼び求めに対して誠実に応答すること(責任性を担うこと)によってのみ実現される。そして、このことによって初めて生きがい(生きる意味)が他のものから自分に贈与されるということである。(31)
これはまた、「自分以外のすべてのものや、自分を超えたものによって、自分が生かされているからである」(32)。よって、山田はフランクルの思想を次のように言い直す。
このような生には単なる個人の生だけではなく、個人を超えた、いわば宇宙的な大きな生も含まれている。人生が私たちに絶望しないということは、このような大きな生から自分を見た場合の人生という意味である。たとえ自分がどれほど人生を見捨てようとも、人生は自分を決して見捨てない。それが〈生〉ということである。
この意味での生はまた〈いのち〉と言い換えることもできる。自分の生、自分が生きているということは、自分の働きというよりも、根本的には大きな生、大きないのちの働きである。(33)
すなわち、山田の言う「世界中心的な観点」とは、自分の外側から自分全体を包み込む宇宙的な大きな生のほうから、この自分を眺め見ることであり、そのときに宇宙から問いかけられたことへと私が誠実に応答することによって、人生の意味が向こう側から私へと与えられるというのである(34)。
まず、山田の言う「自己中心的な観点」と「世界中心的な観点」について考えてみる。たしかにフランクルの「コペルニクス的転回」の意味内容を、そのような二つの観点から解釈するのは興味深い。ただし、『夜と霧』の当該箇所を読むかぎり、転回以前を「自分の人生は自分のものであり、自分がそれをどうしようとも自分の自由である、という観点」とみなし、転回以後を「自分は世界によって生かされている者として、自分の人生は世界から与えられたものであり、世界に対して自分の人生を生き抜く責任を担っている」とみなすのは読み込みすぎだと私には思われる。まず、「自己中心的な観点」について、それを「自分が人生をどうしようとも自分の自由である」とみなすような文章は、このパラグラフの前後に見出すことはできない。また、「世界中心的な観点」について、それを「自分は世界によって生かされている者として、自分の人生は世界から与えられたもの」であるとみなすような文章もまた、このパラグラフの前後には見出すことはできないからである。
山田はさらにフランクルの思想を、東西の様々な宗教哲学と結びつけ、人間が大きな「いのち」の働きによって生かされているという根源的事実のことをフランクルは説いているのだとする。山田はフランクルの「コペルニクス的転回」をシロニスの考えるようなユダヤ=キリスト教の枠組みから解放し、禅仏教などの多様な宗教哲学へとつなげようとしていると言えるかもしれない。山田のこのような思想的拡張は、フランクル思想を現代において展開するひとつの試みとして面白いものを含んでいる。山田の著書にはフランクルの前期から後期にわたる思想が分かりやすく概観されており、とくに『生きる意味への問い』には他の思想家たちとの共通性について多くの示唆が含まれている。ただし、山田の主張するような宗教哲学は、『夜と霧』の当該箇所からは直接的には読み取ることができないということは押さえておく必要がある。
雨宮徹は、「恋と愛―フランクルの「コペルニクス的転回」を手がかりとして―」(2008年)において、次のような考察を行なっている。まず、フランクルのコペルニクス的転回は、「「自分中心」から「世界中心」へという仕方で、構図をそのまま単純にひっくり返した転回ではない」(35)。そうではなくて、それは、「自分中心」的なあり方から、「自己超越」的なあり方へと転回することである。雨宮によれば、「自己超越的なあり方」とは、「Bei-sein(もとに―在ること)」というあり方である。
「Bei-sein」とは、現存在が主観と客観に分裂する以前のあり方である。言い換えれば、「自己」と「世界」がまだ分裂する以前の存在様態が「Bei-sein」である。フランクルの「コペルニクス的転回」とは、「自己」と「世界」が分裂したあとで「自己」が「世界」に向かって意味を問うというあり方から、「自己」と「世界」がまだ未分化であった「Bei-sein」の存在様態へと自分を連れ戻すようなあり方へと発想を転換することであると雨宮は考える。雨宮自身の言葉を引用する。
あの箇所において、人間は人生に向かって問うべき存在なのではなく、人生から問われている存在なのだ、とフランクルが言うとき、やはり自らの出自を忘れた自己を、もう一度、元来の関係へと連れ戻すことが意図されている。そうして元来の関係に戻るとき、自己は問うものではなく、むしろ問われているものとしてあるのだ、ということが語られているのである。必ずしもフランクルのテキストにおいて明示的に語られているわけではないが、このように「Bei-sein」におけるレベルと、それが分裂して以降の自己と世界の関係におけるレベルとを分けて考えることができるはずである。(36)
では、「Bei-sein」において自己が問われているとは何を意味するのかと言えば、それは主客分裂以前の「Bei-sein」において、そもそも何かがそこに存在するということへの驚きが立ち現われてくることである。
説明することもできなければ、根拠を示すこともできない存在そのものが、それにもかかわらず存在するものを存在させているという、この奇妙な事態に深く驚くとき、これまで当たり前すぎて何も感じることのなかった、この世界のすべてが、ただならぬこととして、ただごとではないこととして、立ち現われて来る。息を吸って吐くことも、友人に会って挨拶をすることも、ネコが目の前を通り抜けて行くことも、何もかもがこの「ただごとでなさ」を帯びる。(37)
この「ただごとでなさ」の相の下で他者が立ち現われるとき、その他者の立ち現われ自体によって私へとひとつの問いが立てられてしまっているのであり、その問いへと正しく応えることが応答責任として私に課せられるのであると雨宮は考えているように私には思われる(38)。雨宮の解釈は、山田とはまた異なった視点からなされており、シロニスの解釈ともまったく異なっている。
ところで、実は、『夜と霧』の当該のパラグラフは、シロニスのように読むのが素直なのではないかと私は考えているのである。フランクルは『人間とは何か』で「コペルニクス的転回」について述べた直後で、次のように書いている。
自分の良心との対話においては――すなわち、この存在しうるかぎり最も親密な独白においては――、彼の神が彼の相手なのであるist ihm Gott der Partner。(39)
フランクルはこの箇所の註で、「神の体験Gotteserlebnisとは、まったく根源的「汝」の体験das Erlebnis des Ur-≫Du≪に他ならない」と書いている(40)。この点を加味して考えると、私にたえず問いを立てかけてくる人生とは、ここで言う「根源的「汝」」のことであり、すなわち「神の体験」のことであるとするのがぴったりくる。このように考えると、「人生」が「神」だということになる。これは一見理解しがたい考え方である。だが、「人生」の原語は「Leben」である。「Leben」は「人生」であるが同時に「生命」であり「いのち」である。旧約聖書において、「神」は人間に「いのち」を与える「生ける神」として表象されてきた。したがって、「Leben」が私にたえず問いを立てかけてくるとは、一方においては「人生」が私に問いを立てかけてくることであるが、同時に他方においては、「生ける神」が、私にたえず問いを立てかけてくるということだと解釈することができる。
山田や諸富の言うように、フランクルの思想には一神教を超えて展開可能なものが含まれているとの指摘はたしかに正しいように思われるが、しかし『夜と霧』の当該箇所では、私に問いを立てかけてくる相手として、根源的な汝としての神が暗黙裏に想定されていたと考えるのが妥当なのではないかと私は考える。しかしもちろんそれは暗黙裏であって、明示的には表明されていない。問いを立てかけてくる主体として一神教の神がある「かのように」読むのがもっとも穏当であろう。これが私の暫定的な結論である。
最後に、冒頭に引用した諸富の解釈を振り返っておこう。諸富の解釈は、フランクルが当該箇所で言いたかったことを簡潔に表現したものである。したがって、諸富の解釈は正しいと言える。しかしながら、諸富が「使命(ミッション)」を強調してフランクルの主張を代弁するのは、当該のパラグラフの読み方としてはいささか読み込みすぎのように私には思える。もちろん「Aufgabe」には「使命」の意味があり、旧訳もそのように訳してはいる。『人間とは何か』でも「Aufgabe」は語られており、山田らも「使命」と訳している。しかしながら、当該のパラグラフの全体を読んでみれば、そこに書かれていることの主筋は、人生が私にひたすら迫ってくる問いかけがまず先にあり、それに対して私がたえず応答責任を果たしていくという内容である。ここには、日本語で「使命を果たす」と言うときのような、天から与えられた命令を遂行するというニュアンスはさほど大きくないように私には思える。ただし諸富が「使命」に「ミッション」という言葉を補足するのにはそれなりの理由があるようにも思われる。たとえば『夜と霧』の英訳では「Aufgaben」は「mission」ではなく「tasks」と訳されているのだが、フランクルが監修したはずの前述の「Logotherapy in a nutshell」には、同じ文脈で「vocation or mission」という語が現われており、「ミッション」という言葉には一定の正統性があるとも考えられるからである(41)。
諸富自身の強調点も、時とともに変わってきている可能性がある。たとえば1997年の『フランクル心理学入門―どんな時も人生には意味がある』で「コペルニクス的転回」について論じたときには、「使命」という言葉は用いられていない。その箇所を引用しておこう。
フランクルの言う「人生からの問い」は、いかなる時、いかなる人のもとにも必ず届けられています。たとえ本人は気づいていなくても、人生からの問いは、各人の足下に、絶えず送り届けられているのです。だから人生の各々の状況には、その時その人によってしか実現しえない要請が必ず潜んでいて、そしてその人に見出され実現されるのを待っているのだとフランクルは言います。(42)
諸富によるこの解釈は、きわめてニュートラルであり、フランクルが言おうとしていることを的確に捉えたものであると考えられる(43)。
このように見てくると、『夜と霧』の「コペルニクス的転回」の箇所は、そもそもテキストが説明的に書かれていないぶん、様々な解釈や思想的展開を許容する性質を持っていると言える。この点こそが、我々がフランクルの「コペルニクス的転回」に引きつけられる理由であろう。
文献一覧
*『夜と霧』Frankl, Viktor E.
ドイツ語・旧版 Ein Psycholog erlebt das Konzentrationslager. (1946a).Verlag fur Jugend und Volk.
ドイツ語・新版 ...trotzdem Ja sum Leben sagen. (1977). Kosel.
日本語・旧訳 V・E・フランクル(霜山徳爾訳)『夜と霧:ドイツ強制収容所の体験記録』(1956 みすず書房)
日本語・新訳 ヴィクトール・E・フランクル(池田香代子訳)『夜と霧 新版』(2002 みすず書房)
英語訳 Man’s Search for Meaning. (2004, 2011a). Rider. (翻訳者:Ilse Lasch)
* フランクルの他の著作
“Vom Sinn und Wert des Lebens.” (1946b). In Die Sinnfrage in der Psychotherapie. (1981). Piper, pp.77-141. (山田邦男・松田美佳訳『それでも人生にイエスと言う』1993春秋社)
Arztliche Seelsorge: Grundlagen der Logotherapie und Existenzanalyse. (2005). Dtv. (山田邦男監訳、岡本哲雄・雨宮徹・今井伸和訳『人間とは何か―実存的精神療法』2011b春秋社。旧訳:霜山徳爾『死と愛』1967みすず書房)
“Logotherapy in a Nutshell.” (1962, 2011c). In Man’s Search for Meaning. Rider, pp.79-108.
* その他の文献
雨宮徹(2008)「恋と愛―フランクルの「コペルニクス的転回」を手がかりとして―」『大阪河崎リハビリテーション大学紀要』2、大阪河崎リハビリテーション大学、pp.23-37。
シロニス、ラファエル L.(1990)「極限状況の実存論的・実在論的地平:フランクル『夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録』をめぐって」『哲学科紀要』16、上智大学、pp.65-100。
森岡正博(1994)「この宇宙の中にひとりだけ特殊な形で存在することの意味 −「独在性」哲学批判序説」池上哲司・永井均ほか編 叢書エチカ3『自己と他者』昭和堂、pp.110-132.
森岡正博(2013)『まんが 哲学入門』講談社現代新書
諸富祥彦(1997)『フランクル心理学入門―どんな時も人生には意味がある』コスモス・ライブラリー
諸富祥彦(2013)『NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧』NHK出版
山田邦男(1999)『生きる意味への問い―V・E・フランクルをめぐって』佼成出版社
山田邦男(2009)『フランクル人生論―苦しみの中でこそ、あなたは輝く』PHP
山田邦男(2013)『フランクルとの〈対話〉―苦境を生きる哲学』春秋社
Morioka, Masahiro (2015). “Is Meaning in Life Comparable?: From the Viewpoint of ‘The Heart of Meaning in Life.’” Journal of Philosophy of Life Vol.5, No.3:50-65.
*本研究は、科学研究費基盤(C)「「人間のいのちの尊厳」に関する哲学的基盤研究」(代表者:森岡正博 早稲田大学 研究課題番号26370026)および科学研究費基盤(B)「「人生の意味」に関する分析実存主義的研究と応用倫理学への実装」(代表者:蔵田伸雄 北海道大学 研究課題番号16H03337)の成果である。
(1) そもそもはカントが『純粋理性批判』で用いた言葉である。
(2) フランクル/霜山(1956), p.183.
(3) 諸富(2013), p.56.
(4) 諸富(2013), pp.57-58.
(5) 諸富(2013), p.60.
(6) 以上は、諸富(2013), p.61.
(7) フランクル/霜山(1956), p.183.
(8) フランクル/池田(2002), pp.129-130.
(9) Frankl (1977), pp.117-118. 原著初版では、「das . . . erwartet!」がイタリックになっておらず、そのかわりに「wir」「von uns」が隔字体になっている。また「Wende」は初版では「Wendung」に、「beantworten」は初版では隔字体になっている(Frankl (1946a), p.108)。
(10) ただしフランクルの(1946b)を見てみると、人生は「義務Pflicht」であるとも書かれており、またコペルニクス的転回のことを「Wendung um 180o」と形容している箇所もあるので、大枠で考えれば不適切だとは必ずしも言えない(p.88)。
(11) Frankl (2011a), p.62.
(12) フランクル (2011b), p.131. 括弧内および傍点は翻訳者による。傍点は原著ではイタリック。
(13) Frankl (2005), p.107.
(14) Frankl (1946b), p.89.
(15) 1962年に書かれ、その後改訂されたものだとp.79脚注にある。
(16) Frankl, (2011c), p.88.
(17) Frankl (1977), pp.118-119. ちなみに、旧訳と新訳を引用しておきたい。【旧訳】「ところで具体的な運命が人間にある苦悩を課する限り、人間はこの苦悩の中にも一つの課題、しかもやはり一回的な運命を見なければならないのである。人間は苦悩に対して、彼がこの苦悩に満ちた運命と共にこの世界でただ一人一回だけ立っているという意識にまで達せねばならないのである。」(p.184).【新訳】「具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課せられる責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。」(p.131). 旧訳の「一回的な運命」というのは誤訳であろう。
(18) 「独在的存在者」は、永井均の〈私〉概念を検討する際に生まれた言葉である。これについては、森岡(1994)、森岡(2013)などを参照。独在性の問題については、『現代生命哲学研究』第6号(2017年)に拙論を掲載する予定である。
(19) 「この文章を読んでいるまさに唯一無二のあなた」をさらに正確に言えば、「「この文章を読んでいるまさに唯一無二のあなた」という言葉によって確定指示されるもの」となる。この点については、前註の森岡(2017予定)を参照していただきたい。
(20) Frankl (1977), pp.120-121.
(21) 山田(1999), pp.148-149.
(22) 諸富(2013), pp.67-68.
(23) シロニス(1990), p.84. 原著は日本語。
(24) シロニス(1990), p.85.
(25) シロニス(1990), p.85.
(26) 諸富(1997), p.63.
(27) 諸富(1997), p.67.
(28) 山田(1999), p.147.
(29) 山田(1999), pp.144-146.
(30) 山田(1999), pp.146-147.
(31) 山田(2009), pp.148-149.
(32) 山田(2009), p.232.
(33) 山田(2009), p.234.
(34) 同趣旨の見解は、山田の『フランクルとの〈対話〉』(2013年)においても語られている。
(35) 雨宮(2008), p.31.
(36) 雨宮(2008), pp.33-34.
(37) 雨宮(2008), p.34.
(38) 雨宮(2008), p.35.
(39) フランクル (2011b), p.132. Frankl (2005), p.108.
(40) フランクル (2011b), p.357. Frankl (2005), p.283.
(41) Frankl (2011c), p.62, p.88.
(42) 諸富(1997), p.109.
(43) ただし、諸富は、2013年の『フランクル 夜と霧』で、「コペルニクス的転回」を解説するにあたって、自身の「覚醒体験」を叙述している。諸富の記述を引用すると、それは横たわったおなかのあたりの「ちょうど一メートルほど上のあたりでしょうか。そのあたりに、何かとても強烈な、力強い“エネルギーの渦”が見えたのです。「あああぁぁ・・・・・・」言葉になりませんでした。けれども、その途端、わかったのです。「これが私の本体である」と。・・・そこに「真理」が現成し、立ち現われるのを、ただ「見た」のです」と(p.66)。そして「この覚醒体験を経て、フランクルの「人間は人生から問いかけられている」という言葉が私の胸にストンと入ってきました」と述べている(p.67)。拙稿ではこれ以上論じないが、しかしこの記述は批判されてしかるべきであろう。このような体験を得ること自体は何の問題もないが、それをフランクルの人生の意味論にナイーブに接続させることには大きな問題があるからだ。この種の体験の意味については、私は『宗教なき時代を生きるために』(法藏館、1996)で論じたことがあり、それを視野に入れて改めて議論する必要がある。