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作成:森岡正博 
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論文

 

『ユリイカ』青土社 第51-5号 (2019年4月臨時増刊号・総特集梅原猛):91-95
脳死と土偶

梅原猛の思い出
森岡正博

 

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ホテルの懇親会場で、ワインを片手に立っている私のほうに向かって、梅原猛がゆったりと歩いてきた。そして私の顔をチラと眺めてから、おもむろに口を開いた。私の心臓はきゅっと収縮し、あたりの雑音が消え、静寂に包まれたかのように感じた。

私が最初に梅原に出会ったのはそれより6年前の1988年、梅原らが創設した国際日本文化研究センター(日文研)の辞令交付式のときであった。私はこの創設2年目の研究所の助手に採用され、東京大学から異動してきた。梅原は「なにか面白そうなことを言っている若いのがいたから、俺が取った」と私のことを紹介した。

哲学者梅原から見れば、私は研究所で唯一の哲学専攻であったわけだから、何かの期待をかけられていたのだろう。私のほうから言えば、梅原はちょうど私の父親の年代であった。当時の日本社会はバブル経済に向かおうとしていた。私はときおり梅原のあとについて京都祇園の座敷の奥深くに入っていった。舞妓の舞を眺め、古びた座敷から鴨川を眺め下ろした。芸妓遊びの座敷で、ついたての向こうから熊になって四つん這いで出てくる梅原の姿は、まだ若かった私の目にはたいへん不思議なものに映った。

梅原と私の学問的な最初の接点は、脳死臓器移植問題であった。私は1980年代半ばより、脳死の哲学の研究を行なっていた。そして日文研に異動してすぐの19【91】89年に著書『脳死の人』を刊行し、脳死を人の死と断定する見方に疑問を投げかけた。脳死が人の死かどうかを科学が決定することはできない。哲学や宗教の次元をも含んだ包括的な視点が必要であるという慎重論を訴えた。私はその本を梅原に献呈した。

その翌年の1990年に、国論を二分していた脳死臓器移植問題を解決するための首相の諮問機関である「脳死臨調(臨時脳死および臓器移植調査会)」が設立され、梅原がその委員の一人となった。

当時の日本の医学界は、先進国の中で日本だけが脳死からの臓器移植ができないという事態に苛立っていた。1968年の札幌医大心臓移植の疑惑に対するグレーな幕引きの影響もあり、日本の脳死と臓器移植は著しく遅れていた。それに加えて、ジャーナリストや研究者の中には、脳死は人の死とは言えないと考える者も多かったのだ。しかし国策としては、脳死を人の死とみなして、心臓移植を再開させようとするレールが敷かれ始めていた。そのような中で、梅原はどのような論陣を張るのだろうと私は思った。

1990年のある日のこと、私は日文研所長室へと呼び出された。梅原はソファに腰掛けながら、秘書にタイプさせた原稿を私に手渡した。「今度、文藝春秋に脳死論を発表するのだが、原稿をチェックしてもらえないか」と私に言った。私は自室に戻ってそれを読んだ。ユニークな脳死反対論であった。これは話題になるだろうと思った。本論とは直接関係のないところで、私の目には事実誤認と映る点もあったが、それについて私が何か言うべき権限はないと思い、私は脳死についての専門的な箇所を直して、梅原に戻した。その原稿は『文藝春秋』1990年12月号に「脳死・ソクラテスの徒は反対する」というタイトルで掲載された。梅原は、脳死臨調で正面から闘うのだろうと私は思った。

脳死臨調は2年間の議論を終え、1992年に最終答申を発表した。脳死を人の死とする意見が予想通り採用されたが、最終答申にはそれに反対する委員たちによって少数意見が付記された。これはこの種の諮問機関の答申としては異例のことである。その中心となった一人が梅原であった。梅原は、答申の中で、脳死は人の死ではないとする持論を展開した。

そのころ、梅原は脳死問題を議論するNHKの討論番【92】組に出演した。脳死を人の死とする賛成派と、そうは考えない反対派に分かれて議論の応酬が行なわれた。番組中で、脳死の妊婦から赤ちゃんが無事に生まれるシーンが放映されると、梅原は「たとえ脳死であれ、赤ちゃんを産むことのできる体が死んでいるはずはない」と訴えた。梅原の直観は本当に冴えていたと私は思う。実は21世紀に入って、脳死の医学が進展し、脳死の身体の持つ驚くべき能力が明らかになってきたのだ。たとえば、脳死になった妊婦の身体は、自発的にみずからの血管網を再編成し、子宮に多くの血液が流れ込むように自身を変容させる。そしてそのプロセスは脳死の状態で行なわれるのだ。毎年のように世界のどこかで脳死の妊婦から、すなわち法的な「死体」から、赤ちゃんが誕生している。梅原は脳死を死体とする奇怪な人間観を許すことができなかったのだ。

私は梅原の反脳死論を支持していた。ところが、学会発表のために梅原の論文を読み返しているうちに、そこに大きな問題点が潜んでいることに気づいた。梅原は論文「脳死・ソクラテスの徒は反対する」で、このような議論をしている。まず、脳死は人の死ではない。しかしながら、臓器移植によっていのちが助かる人がいるのなら、自分を犠牲にして他人のいのちを救うという行為は認めてもよい。それは仏教で言う「菩薩行」であり「利他の行」だからだ、というのである。「菩薩」とは、自分の悟りを後回しにして、人々の救いを最優先する修行者のあり方のことである。つまり、脳死は否定するけれども、自分を犠牲にして他人を救おうとする臓器移植については、それを「菩薩行」として肯定してよいとするのである。

私は、梅原のこの論理は危ないと直観した。なぜなら、「菩薩行」なら許されるという理屈をいったん認めてしまうと、それは臓器移植だけでなく、人間の身体をもっと冷酷に切り刻むような行為、たとえば血流のある温かい脳死の身体を人体実験のために繰り返し利用するというような行為をもまた認めてしまうことにつながりかねないからだ。梅原の論理は、現代科学文明がいったん暴走し始めたときに、それを食い止める力にならないのだ。ここに梅原の論理の哲学的な難点があると私は考えた。

こうしていつの間にか、私は梅原の脳死論に批判的になっていった。そして1994年に著書『生命観を問い【93】なおす』を刊行し、その最終章で梅原の脳死論を長い頁を割いて全面批判したのである。当時、梅原は日文研の所長であり、私は彼の下で働く一介の助手であった。その私が自分のボスである梅原を著書でやり玉に挙げたのだ。その本の編集者は、「ほんとうにこれでいいのですか」と私のことをかなり心配してくれた。私は「これでお願いします」と言った。本は刊行され、私は梅原をはじめ、日文研の教員たちに献呈した。

私が梅原を自著で批判したという話はあっというまに所内に広まった。いろんな声が私の耳に届いてきた。ある教授は、激怒して、森岡のことは許さんと言ったという話が聞こえてきた。言いたいことがあるなら直接本人に言えばいいのであって、いきなり本に書くのはけしからんという声も聞こえてきた。そんななか、梅原本人がどう思っているのかはまったく分からなかった。本を出してから、私は事の重大さに気づいた。私は取り返しのつかないことをしてしまったのではないだろうかと思った。

それからほどなくして、日文研で大きな講演会があり、私たち所員はそれに参加し、そのあとホテルで開かれた懇親会に移った。懇親会場の遠くの方に梅原がいた。私は反対側にひとりで立ってワインを飲んでいた。梅原が私のほうに向かってゆったりと歩いてきた。そして私の顔をチラと眺めてから、おもむろに口を開いた。何を言われるのだろう。私の心臓はきゅっと収縮し、あたりの雑音が消え、静寂に包まれたかのように感じた。

「森岡君ね、私はいま古代の生命観を考えているんじゃ」と梅原は話し始めた。「土偶の両目は閉じているだろう。あれは実は死んでいるんだ。土偶のお腹には線が一本あるだろう。あれは死んだ妊婦のお腹を切って中の死んだ胎児を取り出したんだ」。梅原は取り憑かれたようにしゃべり始めた。「古代ではこの世とあの世は対照で中身はあべこべなんだ。生まれるときにはこの世に来て、死んだらあの世に帰る。妊婦が亡くなったとき、その胎児を腹から取り出して一緒に葬った。そのときに土偶を墓に一緒に入れたんだ」。しゃべりながら梅原は満面の笑みになっていった。そして夢中でしゃべり終えると、そのまま別の人のほうに歩いて行った。

梅原は、私の本について一言も触れなかったのだ。ただただ、いま自分が何に熱中しているのかをひたすら【94】語った。考えることはこんなに楽しいんだ、三度の飯より楽しいんだ、これが学問の醍醐味だ、それは君も分かっているだろうと力強く励まされた気がした。私は梅原に圧倒された。その人物の大きさに圧倒された。

1997年に臓器移植法が成立し、脳死からの臓器移植が条件付きで開始された。2000年頃から、この法律をさらに改正し、脳死を人の死と断定する案が研究者から提出された。私はそれを食い止めようとして、脳死を人の死と断定しない対案をマスメディアに提出した。こうして臓器移植法改正論議が始まった。その頃、日文研を退任していた梅原から一枚の葉書を受け取った。そこには「脳死論は君にまかせる」と書かれていた。あの懇親会の晩のことが思い起こされ、胸に熱いものが込み上げてきた。私はその後、マスメディアで議論を喚起し、参考人として参議院で意見陳述し、脳死を人の死と断定する案を全力で批判した。しかし私たちの側は破れ、改正法で脳死は人の死と断定された。

梅原さん、私は梅原さんから委ねられた脳死論をきちんと受け継げたでしょうか。立法では梅原さんも私も反対勢力に負けました。でも哲学の次元では脳死から立ち上がる新しい哲学の可能性がまだ残されています。私は梅原さんからいただいたものを糧にして、それを完成させます。梅原さん、ご冥福をお祈りします。安らかにお休みください。【95】