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論文

 

Heidegger-Forum vol.8, 2014 pp.32-69
「人間のいのちの尊厳」についての予備的考察

森岡正博

 

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1 はじめに

  「人間の尊厳」は近代市民社会を基礎づける根本的な概念のひとつである。しかしながら、科学技術の進展にともなって、その概念の使い勝手の悪さが指摘されるようになった。たとえば、人間の受精卵は「人間の尊厳」をもっているからそれを破壊すべきではないというふうに使われる一方で、人間の終末期においては「人間の尊厳」をもって死ぬ権利を認めるべきだという「尊厳死」の考え方が登場してきている。前者においては「人間の尊厳」という概念は人間の生命を維持するために使われており、これに対して後者においては「人間の尊厳」という概念が人間の生命を死に向かわせるために使われている。

このような状況にあって、「人間の尊厳」という概念はもはや有効性をもたないから、生命倫理の場面では破棄したほうがいいという論調も登場してきている。たとえばルース・マックリンは、「人格への尊敬respect for persons」という概念があれば十分であり、それに加えて「人間の尊厳」は必要ないとする [1] 。それに応答する形で、米国大統領生命倫理評議会は2008年にHuman Dignity and Bioethicsと題する報告書を刊行し、生命倫理における「人間の尊厳」の概念の射程について包括的な議論を行なった [2] 。この報告書は、伝統的な「人間の尊厳」の思想史研究と現代の生命倫理学を接合した画期的なものであり、現代における「人間の尊厳」について考えるための必読文献となっている。

私は脳死臓器移植などの生命倫理の諸問題に関わってきた。その視点から「人間の尊厳」についての関連文献を読んでいるうちに気づいたことがいくつかある。まず、生命倫理学において、「人間の尊厳」という概念は、「自己意識と理性をもった人格(パーソン)」の尊厳として理解される場合と、「精神と身体を包括した全人的存在」の尊厳として理解される場合があるということである。後者はさらに、精神と身体がまだ未分化である受精卵のような存在者に対しても適用される場合がある。また、このような理解の差異は、自己意識と理性を不可逆的に失ったと考えられる脳死の人の尊厳というものをどうとらえればいいかという問題にも複雑な影を落とすことになる。自己意識や理性といった属性に人間の尊厳を見る思想は、当然のように、カントやロックの近代西洋哲学からの延長線上にあり、その源流はさらに古代ギリシアのアリストテレスにまでさかのぼることができるのは周知の通りである。そのように考えてみれば、生命倫理の場面で「人間の尊厳」の概念が直面しているゆらぎは、ヨーロッパの思想史の中にはらまれていた何かの不整合が、今日的な状況のもとで露呈したと言えるようにも思われるのである。

科学技術が人間のいのちに直接的に介入を始めた現代において、人間のいのちが内在する何かの「尊厳」というものに注目してそれを守ろうとするのは決定的に重要なことである。私たちは「尊厳」の概念を捨て去るのではなく、そこに内在する未開拓の可能性に目を向け、それを新しい方向へと展開していかなければならない。そのために私は、「人間の尊厳human dignity」という概念のかわりに「人間のいのちの尊厳dignity of human life」という概念を導入し、「尊厳」に関する議論を新たな次元へと引き上げたい。「人間のいのちの尊厳」とは、人間が「いのち」というあり方をして存在していることの「尊厳」である。すなわち、「いのち」というあり方をしている限りにおける人間の尊厳について考えてみるのである。では、人間の「いのち」というあり方とは何であろうか。

人間の「いのち」というあり方を一言でいえば、それは、生まれ、成長し、再生産に関与し、老い、死んでいくというあり方で人間がこの世を生きることである。人間の「いのち」には、さらに以下の3つの側面から光を当てることができる。

まず、(1)「いのち」を生きる私自身の視座から見てみれば、私は気がついたら生まれてきているのであり、やがて死んでいくのである。そして私の生きている人生は一度限りである。過ぎ去った日々はもう二度と戻ってくることがない。この世における私の存在は不滅ではない。私は無限の過去から存在し続けていたのではなく、無限の未来に向けて存在し続けるわけでもない。「いのち」を生きるとは、不滅の存在を生きることではなく、みずからの生成と消滅のプロセスを生きることである。この世での死後、来世において人間が存在を持つかどうかについて、私たちはそれを判断することができない。私たちは来世の存在について様々な想像を持つが、それはあくまで想像にとどまる。

次に、(2)人間は身体を生きるというかたちで存在している。人間は非物体的な魂として浮遊しているのではない。人間は身体というあり方をして現実世界を生きている。身体を通して人と人は交わることができ、身体を通して人は生命活動を維持することができる。人間の再生産もまた身体を通してなされる。そして身体は、生物学的な仕組みによって動かされている。身体に成長や老いや死があるのも、人間が生物としての身体を持っているからである。人間以外の生物の身体もまた、成長し、老い、死んでいく。人間と人間以外の生物は、このような身体の移りゆきのプロセスを共有している。もちろん人間が身体を生きているというリアリティを生物学的な側面だけから把握することは不可能である。しかし人間の身体が生物学的な仕組みによって動かされているという面を軽視するのもまた早計である。

さらに、(3)人間は、この世に生きる様々な「いのち」とのつながりのなかではじめて生きていくことができる。このことを次の3つの局面から見ることができる。

3a)世代間のつながりにおいて。人間は前の世代から様々なものを受け渡されて現在を生きており、そして次の世代に様々なものを受け渡していく。そのような世代を超えた人間の生命の連鎖に埋め込まれながら、私たちはいまここに生まれ、成長し、再生産に関与し、老い、死んでいくのである。人間のいのちは人間個体の内部に閉じ込められているのではない。人間個体が死んだとしても、その人間がこの世で生きた証はその人間個体を超えて次世代へと受け渡される。ここで言う証とは、生物学的な子孫にとどまらず、人間個体がこの世でなした行ないや生産物すべてに及ぶ。

3b)社会のつながりにおいて。このようないのちの連鎖は、同時代における社会的な平面に向けても広がっている。人間はこの世でただひとりで生きていくことはできない。人間が生きていくためには、社会を形成し、相互のささえあいの仕組みを作り上げる必要がある。すなわち、「いのち」というあり方は、人間が社会における相互のささえあいによってはじめて生きていけるということを意味している。このことは、とくに人間の生の始まりと終わりにおいて、自分の力だけでは生命を維持できないような状態であるときに、もっとも鮮烈に浮上してくるであろう。

3c)大自然のつながりにおいて。同様に、人間が生きていくためには、食物連鎖などをとおした他の生物種とのかかわりあいが必要である。人間の身体は、人間以外の生物の身体とかなりのものを共有している。共有しているからこそ、他の生物を殺して食べることによって、それらの生物の身体は人間の身体へと吸収され、人間を生かしていくのである。農耕、牧畜、畜産による植物や動物の搾取がなければ、人間は今日のような規模では生きていくことができない。また、人間が死んだあと、その身体は細菌などによって分解され、大自然へと還っていく。人間の身体を構成していた物質は、大自然へと広く薄く拡散し、他の生物たちの養分となる。

 

 

人間が「いのち」であるとは、人間が以上のようなあり方をしつつこの世を生き死ぬということである。「人間のいのちの尊厳」とは、そのようなあり方をしつつこの世を生き死ぬ人間にとっての「尊厳」である。それはいったいどのような「尊厳」なのであろうか。それを探るために、まずはヨーロッパにおける「尊厳」概念の成立を概観したのちに、現代的な意味での「尊厳」を確立したカントの尊厳論を詳しく見ていくことにしたい。カントを背景とすることによって、私の提唱する「人間のいのちの尊厳」の姿が、よりいっそうくっきりと現われてくるはずだからである。

 

2 ヨーロッパにおける「尊厳」概念とカントの「尊厳」論

人間の尊厳という考え方は、古代地中海世界において現われてくる。この世にある様々な存在者のうち、人間だけが特別に優れているという世界の見方が登場する。そして人間におけるその優れた部分を尊厳と呼ぶのである。すなわち、人間は単なるモノではないし、単なる動物でもない。それらよりも優れた存在者なのである。そのような人間の卓越性を根拠づけるものが尊厳だったのである。古代ギリシアにおいて、アリストテレスは、人間を理性的な動物とした。人間は理性を持っているという点で、それらを持たない存在者よりも卓越しているのである。アリストテレス自身は尊厳という言葉は使っていない。その卓越性を「尊厳」として記述したのはキケローである。キケローは人間と動物を比較し、人間は理性を持っている点において動物よりも優越しており、そこにこそ人間の尊厳があるとした。この理性はすべての人間が共有しているものであり、そこから道徳的高貴さと上品さが生まれる [3]

と同時に、「尊厳」概念にはもうひとつのルーツがある。旧約聖書にはじまるヘブライ的な系譜である。旧約聖書では、神はみずからにかたどり、みずからに似せて人間を作ったとされる。人間は、「神の像」あるいは「神の似姿」なのである。人間は「神の像」であるという点において、他の動物たちよりも特別な地位を与えられている。しかしまたそれは人間の神に対する従属をも意味している。人間は「神の像」なのであり、神から「尊厳」を一方的に与えられたにすぎない。だから人間が像であることを忘れて神そのものになろうとすることが悪とされる。真に「尊厳」に値するのは神なのである。

「理性的存在としての人間」という人間観と、「神の像」という人間観が交錯しながら、古代から中世にかけてのヨーロッパの「人間の尊厳」の概念は形成されていく。金子晴勇は、「一般的にいってヨーロッパ中世の神学思想は、「神の像」と「人間の尊厳」という源泉を異にする二つの概念を同義的に捉えるようになる」と指摘する [4] 。その後ルネサンスに至って、「人間の尊厳」は、宇宙における人間の地位という問題設定のもとで理解されるようになる。マルスィーリオ・フィチーノは実在を、神、天使、魂、質料、物体という5段階に分け、人間は神や天使の下位、質料や物体の上位にあるとするが、しかし人間は理性を持っているので神の無限の完全性に近づこうとすることができ、そこに人間の尊厳を見る。それを受けて、ピコ・デッラ・ミランドラは、人間は存在の階梯の中に特定の位置を占めているのではないとする。人間は自由意志によって低次の存在を選び取ることもできるし、高次の存在を選び取ることもできる。このような人間の自由意志による自己実現というものに、ピコは人間の尊厳と卓越性を見た。「人間の尊厳」の核心部分を自由意志に見るピコの思想は、近代の啓蒙思想を経てカントに引き継がれていくのである [5]

カントにおける「人間の尊厳」は、『道徳形而上学の基礎づけ』においてその全体像が与えられている。興味深いことに、カントは「尊厳」を、伝統的な「人間の卓越性」として理解すると同時に、「他人から単なる手段として扱われないこと」という一種の防衛の根拠としても理解している。前者を「尊厳の卓越原理」と呼び、後者を「尊厳の防衛原理」と呼んでおくことにしよう。カントは尊厳に防衛原理を与えたことによって、「人間の尊厳」の概念にまったく新しい次元を開いたと言ってよいかもしれない。

カントは理性を欠いた存在者である物件と、理性を持った存在者である人格を峻別する。物件は手段としての価値しか持たないが、人格はそれが存在すること自体が目的であり、絶対的な価値を持っている [6] 。後の議論で明らかになるように、人格は理性と道徳性を持ち自律しているがゆえに、「尊厳」を有している。この点において人格は物件よりも卓越している。ここにおいてカントは、「尊厳の卓越原理」を明瞭に語っている。それは、ヨーロッパ古代・中世・ルネサンスにおいて理解されてきた「人間の尊厳」と同一線上にあると考えられる。

カントは人格と物件を峻別したのち、定言命法の第二方式を定義する。「汝の人格Personやほかのあらゆるひとの人格のうちにある人間性Menschheitを、いつも同時に目的として扱い、決してたんに手段としてのみ扱わないように行為せよ」 [7] 。この定式によると、それぞれの人格のうちには、人間性Menschheitなるものが存在している。そして私たちは、その人間性を、いつもそれ自体目的として扱わなければならず、決してたんなる手段としてのみ扱ってはならない、とされるのである。この人間性とは何かということであるが、高田純の考察によれば、カントにおいてMenschheitは多義的に使用されるが、この場面でのMenschheitは人間の普遍的本質あるいは本性のことであり、さらには類としての人間すなわち人類をも意味する。そして、その類的な本質であるMenschheitが人格に内在化されたときに人格性Persönlichkeitとなる。したがって、カントがMenschheitと書くときには、その意味するところはPersönlichkeitよりも広いと考えなければならない。というのも、人間が様々な素質を発達させるのは個々人ではなく人類としてであるというのがカントの基本的な人間観だからである [8] 。したがって、「汝の人格やほかのあらゆるひとの人格のうちにある人間性」という言葉は、道徳的主体としての人間個人の内側には、けっしてその人間個人には還元され得ないような、人類次元の類的な本質である人間性なるものが存在しているのだ、というふうに読むべきなのである。そして、そのような類的な本質としての人間性を内在させている人間個人というものを、私たちはいつもそれ自体目的として扱わなければならず、けっしてたんなる手段としてのみ扱ってはならない、ということになるのである。

そしてカントは、定言命法の他の方式を検討した後に、「尊厳」について次のように語る。

目的の国においては、すべてのものは、価格Preisをもつか、尊厳Würdeをもつか、そのいずれかである。価格をもつものは、そのもののかわりになにかほかのものが等価物とされることができる。これに反して、あらゆる価格を超えていて、したがっていかなる等価物もゆるさないものは、尊厳をもつのである。 [9]

目的の国では、すべてのものは、交換可能な「価格をもつもの」と、交換不可能でかけがえのない「価格を超えたもの」に分かれる。そしてこの「価格を超えたもの」こそが、「尊厳」をもつとされるのである。「価格を超えたもの」とは、それ自体が目的となるもののことである。

ところで、理性的な存在者がそれ自体目的となるためには、道徳性をもたなくてはならないとカントは言う。したがって、理性的な存在者が、道徳性をもつとき、その理性的な存在者は価格を超えたものとなり、「尊厳」をもつものとなるのである。カントは次のように書いている。「道徳性と、道徳性をそなえることができる人間性とが、それのみが尊厳をもつ当のものである」 [10] 。すなわち、人格が内在させている類的な本質としての人間性Menschheitこそが、尊厳Würdeの担い手なのである [11]

カントによれば、この人間性の核心部分にあるのは「自律Autonomie」である。「自律が、人間およびあらゆる理性的存在者の尊厳の根拠である」 [12] 。自律とは、自己立法自己服従、すなわちみずから普遍的な法則を定めると同時にその法則にみずから服従することである。「人間性の尊厳は、この普遍的に立法する能力のうちにこそ存するのであって、それはたとえこの立法に同時に自らが服従するという条件を伴うにしても、そうなのである」 [13] 。「尊厳」を支えるものは「自律」であることがここに示された [14]

さて、定言命法の第二方式に戻ろう。「汝の人格Personやほかのあらゆるひとの人格のうちにある人間性Menschheitを、いつも同時に目的として扱い、決してたんに手段としてのみ扱わないように行為せよ」。ここで、なぜ人間性をつねに目的として扱い、たんに手段としてのみ扱わないようにしないといけないのかといえば、人間性の核心部分に自律があり、そこに尊厳が存するのであるから、私たちは他人の人間性からけっして自律を奪ってはならないからである。自律を奪わないということを言い換えると、つねに目的として扱い、たんに手段としてのみ扱わない、ということになるのである。そのような他人の人格の取り扱いによって、他人の尊厳が守られるからである。

このように考えるならば、カントの定言命法の第二方式によって、「人間の尊厳」の概念に、まったく新しい次元が付与されたと見ることができる。というのも、外部からの暴力が人間を一方的に手段化し、その人間から「自律」を奪おうと襲ってきたときに、「自律を奪ってはならない、なぜなら自律が奪われることによってその人間の尊厳が破壊されるからだ」という理由でもってその暴力に抵抗することができるからである。「人間の尊厳」は、外部からの暴力を撃退するための「抵抗原理」として働くのである。

このように考えてみると、「人間の尊厳」というものは、外部からの暴力によって破壊されることがあり得るということになる。であるから、それをなんとしてでも破壊から守らなければならないのである。この考え方は、ドイツ連邦共和国基本法(ボン基本法)にまでもつながるものであろう。その第1条第1項は「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、および保護することは、すべての国家権力の義務である」とされており、「人間の尊厳」は時と場合によっては破壊されることがあり得るから、それを「尊重し、および保護する」ことが国家権力の義務として定められていると読める。

しかしながら、ここで難しい問題が生じる。カントに即して考えるならば、「尊厳」というのは「人間性Menschheit」という人類次元の類的な本質に存するのであるから、ある人間の自律が外部からの暴力によって奪われたとしても、そのことによってその人間個人の内部の人間性が破壊されることはあり得ないし、その人間性に存する「尊厳」が破壊されることもまたあり得ないということになりそうだからである。たとえ、その暴力によってその人間がいくら悲惨な状況に陥ったとしても、その人間に内在する「尊厳」はけっして破壊されないという結論になりそうだからである。破壊されるのは、たかだかその人間個人の「自由」や「人権」であって、けっして類的な「尊厳」ではないからである [15]

もしカントの言う「人間性」を徹底して類的な本質として解釈し切るとすれば、たしかにそのようなことになるだろう。いかなる暴力も人間から「尊厳」を奪うことはできないというのである。これは直観的には受け入れがたい結論であり、今日私たちが「尊厳」という言葉を使うときの標準的な考え方からは逸脱している。たとえば、ある女性が身体を拘束され、意に反して繰り返し無残にレイプされたとしよう。このときに、この女性から何か決定的に尊いものが奪われたと感じない人がいるだろうか。その尊いものこそが「尊厳」でなくて何であろうか。

しかしながら、このようなケースにおいて、「しかしその女性から尊厳はけっして奪われなかった」とする考え方があり得ないわけではない。もしそれがあり得るとすれば、それは極端に強力な何ものかを「尊厳」という概念に付与していると言える。それは何かというと、「たとえいくら私が無残に蹂躙されようとも、そしてその結果として私が絶望と自己否定のどん底に突き落とされようとも、私が自分の人生の先端を内側からありありと生きているというそのことはまったく完全無欠であり、まったく破壊されておらず、まさにこのこと自体が真の意味での尊厳なのだ」という極端に強力な世界の見方である。

カントはおそらくこのようなことは考えていないし、自己立法自己服従という意味での自律の思想はこのようなことまでをも包み込みはしないだろう。この点は、カントの尊厳概念がかかえる難問のひとつである。品川哲彦は、Menschheitが人類を含意していることを指摘したのち、カントのこの箇所をめぐって「個人の尊厳」と「類の尊厳」のあいだの緊張が存在することを、バイエルツの議論を引きながら議論している。品川は、人格と身体のつながり、人間と人類のつながりを重視する「ふくらみのある尊厳概念」の方向へと議論を開こうとする [16]

私は以上の考察から、ひとつの重要な論点を抽出したい。それは、「人間の尊厳」には、破壊される可能性のあるものと、けっして破壊され得ないものの二種類があるのではないかという論点である。これはカントが「尊厳」を人類の類的な本質としてとらえたことによって浮上したものであり、カントを通過してはじめて明瞭になったものである。この視座を持ちながら、いったんカントを離れ、私自身の「尊厳」の考察へと移っていくことにする。

 

3 「人間のいのちの尊厳」とは何か

前節では少しばかり先走ってしまったので、もう一度最初に戻って考え直してみる。私はまず非常に素朴な直観からスタートしたい。それは、人間のいのちには、何か非常にかけがえのなく尊いものがあるに違いないという直観である。そしてそれは非常にかけがえのなく尊いものであるがゆえに、私たちはその尊さを全力で守らなければならない。なぜその尊さを全力で守らなければならないのかというと、もしその尊さが破壊されてしまったならば、人間は生を悔いなく生き切ることができなくなるからである。私たちが全力で守らなくてはならないものは、そのくらい尊いのである。私たちが守るべきこの尊いもののことを「人間のいのちの尊厳」と呼ぶことにしたい。

すなわち、「人間のいのちの尊厳」とは、いのちというあり方をした人間が生を全うすることができるために守られるべき尊いもののことであり、けっして破壊されてはならないようなかけがえのない大切なもののことである。ここにおいて「生を全うする」とは、自己意識をもって生を生きている人間にとっては「生まれてきて本当によかった」と思えるように生きることを意味し、そうでない人間にとっては現に持って生まれた身体の全体性を保持したまま生と死のプロセスを歩むことができることを意味する [17] 。後者が具体的に何を意味しているのかは、後に詳述する。

「人間のいのちの尊厳」とは、生を全うするために守られなくてはならないもの、破壊されてはならないもののことである。生を全うするための大事な条件として、「人間のいのちの尊厳」があるのである(これについては後述)。「人間のいのちの尊厳」は、人間が生きていくための目標にはならないし、生きる意味でもない。「人間のいのちの尊厳」が確保されたからといって、ただちに人間が幸福になるわけでもないし、生きる意味が見つかるわけでもない。私たちは「人間のいのちの尊厳」を獲得することを目指して生きるわけではない。私たちは、「人間のいのちの尊厳」をいわば土台として、その上に立って、自分の悔いのない人生を形作ろうとするのである。私たちがなすべきことは、まず前提として「人間のいのちの尊厳」を全力で守ること、もしそれが破壊されたならばそれを再構築すること、そしてそのうえでの目標として、そのようにして保全された「人間のいのちの尊厳」を土台としてそれぞれの悔いのない人生を生き切ろうとすることである。

さて、「人間のいのちの尊厳」は、「いのち」というあり方をした人間にとっての尊厳である。「いのち」というあり方については、本論文の冒頭でその3つの側面を具体的に示した。すなわちそれは、(1)人間がこの世で一度きりの人生を生きること、(2)人間が身体を生きるというかたちで存在していること、(3)世代間・社会・大自然のつながりのなかで人間がはじめて生きていけること、の3つであった。「人間のいのちの尊厳」に対してもまた、これら3つの側面から光を当てることができると考えられる。

すなわち、「人間のいのちの尊厳」は、(1)人間がこの世で一度きりの人生を生きるという意味での「人生の尊厳」、(2)人間が身体を持って生きるという意味での「身体の尊厳」、(3)人間がつながりのなかではじめて生きていけるという意味での「生命のつながりの尊厳」という3つの尊厳によって構成される。以下、この3つについて順番に詳しく考察していくことにしたい。

4 人生の尊厳(「人間のいのちの尊厳」その1)

「人生の尊厳」とは、いのちというあり方をした人間が、「人生を生きる」という局面において生を全うすることができるために守られるべき尊いもののことであり、けっして破壊されてはならないようなかけがえのない大切なもののことである [18]

まず「人生」とは何だろうか。「人生」とは、生を生きる私自身の視座から見えてくる人間のいのちのあり方である。そのような視座から見たときにまず言えることは、私は気がついたら存在しており、そしてまだ死んでいないということである。私がこれまでの生の軌跡を振り返ったときにそこに広がって見えるもの、そしてこれからの生の進路を想像したときに予感されるもの、それを合わせたものが「人生」である。そしてこの世での人生を考えたときに、私は無限の過去から存在し続けているわけではないし、無限の未来にわたって存在し続けるわけでもない、ということがリアリティとして迫ってくる。私のこの世での人生には限りがある。そしてその人生は、一度きりしかない。過ぎ去った生はもう二度と戻ってはこない。今より若かった頃の私の生を、私がもう一度生きることは不可能である。「人生」について、これらのことが論理的に導かれる。

ここで、「人生」にいったいどのような尊さ、かけがえのない大切さがあるのかについて考えてみよう。まず、人生は一度きりしかないし、過ぎ去った生はもう二度と戻ってはこない、だから人生はそのすべての瞬間が尊いということが言えるであろう。もし人生を何度も経験でき、過ぎ去った生であってもまたふたたび経験できるのだとすれば、そのような人生は「かけがえのないもの」ではなくなり、したがって尊いものではなくなってしまう。人生は一度きりであるからこそ、過ぎ去った生はもう二度と戻ってこないからこそ、人生のすべての瞬間は尊く、かけがえのないものなのである。

第二に、私の人生を内側から生きている主人公は私でしかあり得ないという事実がある。これは、たとえ私の人生にどんな悲惨なことが起きたとしても、たとえ私の人生が誰かによって奴隷状態にされたとしても、たとえ私の人生がこれ以上ない絶望と自己否定に陥ったとしても、その人生を内側から生きている主人公は私でしかあり得ないということを意味している。私はここに、人生の尊さとかけがえのない大切さを見る。なぜかと言えば、たとえそのような絶望と自己否定に陥っていたとしても、その絶望や自己否定は私がそれらを経験しているという事態を殺すほどの力を持ち得ていないわけであるし、たとえ誰かが私を奴隷状態にして支配したとしても、その人間はその奴隷状態の私の人生を私が主人公となって生きているという事態を支配することができないからである。もちろん、絶望や自己否定によって私が自殺することはあり得るし、誰かが私の精神を奴隷状態にして支配することもあり得る。しかしそのときでもなお、自殺へと向かう私の人生を内側から生きている主人公は私でしかあり得ないし、奴隷状態の精神を奴隷として内側から生きているのもまた私でしかあり得ないという点に、私は尊さとかけがえのない大切さがあると考えるのである。

第三に、私の人生は一度きりしかないのであるから、私の現実のこの人生の全体を、他の内容をもった想像上の反事実的な私の人生の全体と比較して、あっちのほうが良かったとか悪かったとか言うことは、本来比べられない二つのものを比べていることになり、論理的に意味のないことをしているのである。もちろん、私が経験し得たであろう想像上の反事実的な二種類の私の人生の内容を比較することは意味がある。その二つはともに私の現実のこの人生ではないのであり、比べられる二つの反事実的な人生は存在として同等の次元にあるのだから、その二つを比べることには意味がある。しかしながら、私が現実に生きているこの人生の全体と、想像上の反事実的な私の人生の全体は、存在としてまったく異なった次元にあるのであり、正当に比較することはできない。

ここから、私の人生は一度きりしかないのであるから、それは他との比較を絶した価値を持っているということが導かれる。俗に、成功した人生とか失敗した人生ということが言われるが、私の人生は一度きりしかないのであるから、一度きりしかない人生に成功も失敗もないということになる。私はここに、人生の尊さとかけがえのない大切さを見る。なぜなら、たとえ社会的に見てこのうえない失敗を犯した人生であったとしても、私の人生は一度きりしかないのであるから、それは実のところ人生の失敗でもなんでもないわけである。たとえ私が他人を絶望に突き落とすようなことがあったとしても、たとえ私が他人の生命を奪う殺人者となったとしても、私の人生はけっして失敗であったとは言えないのである。良識的な感覚からすれば受け入れられない見解かもしれないが、私は人生というものがこのような性質を本質として持っているところに、根源的な尊さを見るのである。

第四に、私の人生において、私はまだ死んでいないという状態にある。ということは、人生を内側から生きる私にとって、つねに何らかの未来が待ち受けているのである。その未来は私の死の直前まで開けている。ということは、もし私がこのうえない絶望や自己否定に陥っていたとしても、私が死んでしまうその最後の瞬間まで、私にはその絶望や自己否定を脱出する可能性が論理的に開かれているのである。もちろん実際にそこから脱出できるためには、大きな自己変容と、何かの幸運のようなものが必要であろう。しかしそれでもなお、そのようなものが働いて私がそこから脱出できる可能性は、私が死んでしまうその最後の瞬間までつねに開いているのである。私はここに、人生の尊さとかけがえのない大切さを見る。人間は、その最後の瞬間まで、変わることができる。これは人間が人生から贈られている最大の希望である。もちろんこれを逆から見れば、たとえ人間が希望に満ちており、自己肯定に満ちていたとしても、それは未来においてつねに絶望と自己否定へと転換する可能性をもっていることになる。しかしそれでもなお、その絶望と自己否定から人間はふたたび脱出することが可能なのであり、その可能性はけっして揺るがないのである。ヴィクトール・フランクルの言葉を用いて言えば、「それでも人生にイエスと言う」ことができるようになる可能性は、どんな人間であってもつねに開かれているのであり、その人間がどんな絶望に陥っていようともその可能性は開かれているのである。これこそが人生の尊さであろう。

以上を総合すれば、人生の根本的な尊さとは、(1)人生が一度きりしかないこと、(2)人生の主人公は私でしかあり得ないこと、(3)人生には成功も失敗もないこと、(4)最後の瞬間まで絶望から脱出できる可能性が開けていること、の4点にまとめることができる [19] 。「人生の尊厳」とは、これら4つのことであると考えてよいのであるが、その前に確認しておかなければならないことがある。

というのも、「人生の尊厳」とは、「どうしても守られていなければならない尊いものであり、けっして破壊されてはならないようなかけがえのない大切なもの」であるのだが、ここにあげた人生の4つの根本的な尊さは、けっして破壊されることがないからである。たとえば、人生が一度きりしかないことは論理的な必然であり、いかなる力をもってしてもそれを破壊することはできない。同様に、人生の主人公は私でしかあり得ないこと、人生には成功も失敗もないこと、最後の瞬間まで絶望から脱出できる可能性が開けていることについても、論理的な必然であり、何によってもけっして破壊されることはない。それらは破壊されることがないから、それを破壊から守ることも必要とはされない。

すなわち、これらの4つの尊いものは、人間の人生においてダイヤモンドのように硬く光り輝いており、破壊されて輝きを失うことなどけっしてないのである。これらは、「どうしても守られていなければならない尊いものであり、けっして破壊されてはならないようなかけがえのない大切なもの」であるのだが、しかし実際にはいかなる力をもってしても破壊されることのない、最硬質の尊さである。私はこれら4つを「破壊不可能な人生の尊厳」と呼ぶことにしたい。以前にカントの人間性を考察したときに出てきた、けっして破壊され得ない尊厳というのは、まさにこのことを指している。身体を拘束され、意に反して繰り返し無残にレイプされたとしても、その被害者におけるこの4つの人生の尊厳はけっして破壊されることがない。私たちの直観には反するかもしれないが、それらは破壊されない。ちょうど大火で全焼した建造物の焼け跡から発見された金庫の内部で光り輝くダイヤモンドのように、それら4つの人生の尊厳は、けっして破壊されることなく存在を続けるのである。人生の尊厳ということを考えるときの極北の姿がここにある。この意味での尊厳が、いかなる大火をもくぐり抜けることができるからこそ、人間はいかなる絶望的な経験をしようとも未来に向けて人生を切り開いていける可能性を原理的にもつのである。まずはこの点を冷徹に確認しておきたい。

そのうえで、考察をもう一歩進める必要がある。

さきほどのレイプ被害を受けた女性における「人生の尊厳」はけっして破壊されないとしても、その女性の人生において、それに匹敵する何か非常に尊いものが決定的に破壊されたということが言えなくてはならないはずである。では、いったい何が破壊されたのであろうか。それは、その女性から、「自分の人生には破壊不可能な尊厳がある」という「実感」が決定的に破壊されたのである。その女性が「自分の人生には破壊不可能な尊厳がある」というありありとした「実感」をもって自分の人生を前向きに生きていく可能性が、レイプの被害によってその女性から決定的に奪われたのである。人生が一度きりしかない、人生の主人公は私でしかあり得ない、人生には成功も失敗もない、最後の瞬間まで絶望から脱出できる可能性が開けているというありありとした実感をもって、自分の人生を前向きに切り開いて生きていく可能性というものが、その冷酷な行為によって彼女から奪われたのである。レイプは魂の殺人と言われるが、そう呼ばれるに値することが起きたのである。

人間は、「自分の人生には破壊不可能な尊厳がある」というありありとした「実感」をもってはじめて、自分の人生を前向きに切り開いて生きていくことができる。その「実感」が揺らぎはじめたとき、人間は何か言葉にならない不安に襲われ、自分をその基盤において支えてくれそうなものを探し求めるようになる。そしてその「実感」が破壊されたとき、人間は自分の人生を前向きに切り開いて生きていくための基盤を見失い、表面上は普通の生活をしているように見えても、その精神の奥底では未来の見えない果てしない暗闇へと落ち込んでいくようになるのである。

このような意味での尊厳を、「破壊可能な人生の尊厳」と呼ぶことにする。「破壊可能な人生の尊厳」とは、「私の人生には〈けっして破壊されることのない人生の尊厳〉がある」という「実感」をもって私が自分の人生を前向きに切り開いて生きていくことができるような状態になっていることである。それは生を全うすることができるためにどうしても守られていなければならない尊いものであり、けっして破壊されてはならないようなかけがえのない大切なものである。このようなことが言えるであろう [20]

ではこのような意味での「人生の尊厳」が破壊されるのはどのようなときだろうか。他人からの暴力、虐待、内面の支配などによってそれが破壊されることがあるのはすでに述べた。そのほかに、まず社会からの抑圧によって破壊されることがある。たとえばあるエスニックグループや女性たちが大きな偏見にさらされて無力化されるとき、彼らの人生の尊厳が破壊されることがある。そのような力は外部から襲ってくるだけではなく、内部から沸き上がってくることもある。たとえば徹底した自己否定や、不幸な事故にあったときのトラウマや、脳内物質のバランスの崩れなどである。あるいは「愛という名の支配」によって人生の尊厳が破壊されることもある。これらのケースについては、現実の場面でさらに詳しく考察されなければならない。

私は「人生の尊厳」を、「人生を生きる」という局面において生を全うすることができるために守られるべき尊いものというふうに規定した。では、「人生の尊厳」と「生を全うする」こととの関係はどうなっているのだろうか。「人生の尊厳」は生を全うすることができるために守られるべき尊いものであるが、しかしながらそれは生を全うすることができるために必要な絶対条件とまでは言えない。なぜなら、「人生の尊厳」が守られていなくても、ある人間が「人生の尊厳」が破壊された生を結果的かつ偶然的に生き抜いて全うすることはあり得るからである。人間が実際に生き抜く生というのは、それほどまでに強力なものを秘めている。しかしながらそれを理由として、「社会全体で人生の尊厳が必ずしも守られなくてもよい」ということにはならない。すべての人間の「人生の尊厳」が守られるようにしなくてはならないというのは、それを守られなくても生を全うすることのできる人間がいるということによっては覆すことのできない最低限の義務だろう。

ここから、他人の「人生の尊厳」は守られなくてはならないという結論が導かれる。ここまで、「人生の尊厳」について、私は人生を内側から生きる主人公の視点に立って考えてきた。しかし「人生の尊厳」は、一人称の私にだけ適用される概念ではない。一人称の私と同じ構造の人生を生きているとみなすことのできる他人についてもまた、その「人生の尊厳」は守られなくてはならないのは当然である。他人の人生を、何か別のもののための単なる道具として扱ったり、それを外部から支配してはならないということである [21] 。私の「人生の尊厳」だけではなく、他人も含めたすべての「人生の尊厳」が守られなくてはならないのである。カントの尊厳の第二方式は、その一部がここに組み込まれることになる。

5 身体の尊厳(「人間のいのちの尊厳」その2)

「身体の尊厳」とは、いのちというあり方をした人間が、「身体を生きる」という局面において生を全うすることができるために守られるべき尊いもののことであり、けっして破壊されてはならないようなかけがえのない大切なもののことである。

「身体」とは、人間が世界に具体的に関わろうとするときにどうしても通ることが必要な通路のことである。「身体」は細胞からできているが、人工臓器や人工付着物が組み込まれていることがある。「身体」は「いのち」が物化したものであるとも言える。本論文冒頭でも述べたように、「身体を通して人と人は交わることができ、身体を通して人は生物活動を維持することができる。人間の再生産もまた身体を通してなされる」と言える。

「身体の尊厳」をひとことで言えば、まるごとの身体(身体の全体性)が外部からの侵襲にさらされておらず、単なる物体以上のものとして扱われることである。「まるごとの身体(身体の全体性)」という概念を、私は脳死臓器移植の議論を手がかりにして提唱した。あまり知られていないが、脳死の子どもの身体は、完全な脳死状態であるにもかかわらず、身長が伸び、体重が増え、手足をよく動かすことがある。それは法律的には「成長する死体」なのである。これは、私たちがイメージする一般の死体の観念とはかけ離れている。このように身体全体で成長しようとしている脳死の身体については、「まるごと成長し、まるごと死んでいく自然の権利がある」と考えるべきだというのが私の主張だったのである。ここで言う「まるごと」とは、身体が外部の欲望による侵襲を受けないことを意味している。他人の欲望をかなえるために切り刻まれたり、臓器を取り出したりされないということである。とくに幼くして脳死になった子どもは、臓器摘出について意思表示をしていないがゆえに、この自然の権利が発動して、その脳死の子どもの身体は守られるのである。それが「自然の権利」であるというのは、ちょうど生命権や自由権のように、すべての人間に生まれながらにして天から与えられた破壊不可能な権利として、すべての人間の身体にはまるごと成長しまるごと死んでいく権利があるということを意味しているのである。医療技術の進んだ21世紀に是非とも必要な新たな「自然の権利」として、「まるごと権」を認めていくべきではないかと私は考えたのである [22] 。このときただちに、本人の意志によってこの権利を放棄することができるのではないかという論点が立ち上がってくる。脳死臓器移植においては、それは意思表示カードという形を取ることになる。この点をどう考えればいいかについては、のちほど詳述することにする。

では、「身体の尊厳」とは何かについて、もう少し細かく見ていきたい。

第一に、「身体の尊厳」とは、人間の身体において、まるごと成長し、まるごと死んでいく自然の権利が守られていることである。人間の身体はその生まれたまるごとのままで成長し、死んでいけるようになっていなくてはならないのである。その身体の外部にある欲望、たとえば脳死の子どもの身体から臓器を取り出して病気を治したいというような欲望によって、その子の身体の一部が切除されて取り出されたり、身体の大部分がバラバラに解体されたりすることがないということである。人間の身体は、たとえ脳死状態になったとしても、たえず成長し、死へと向かう生命存在であるという点に注目しなければならない。まるごとのまま、全体性を保ったままで、成長と死のプロセスを歩んでいくことそれ自体の尊厳というものが、ここで意味されているのである。「身体の尊厳」の概念には、「いのち」のあり方をして生死を歩むものとしての身体という視点が濃厚に埋め込まれているのである。

脳死の身体に限らず、たとえば体外で作成された受精卵に対しても「身体の尊厳」は守られなければならないから、体外で作成された受精卵については、それを破壊することは「身体の尊厳」の破壊であることになる。受精卵については、それを破壊することなく観察するというのが許容ラインとなるだろう [23] 。胎児については後述する。

6年ほど前に、マンションの一室で女性が殺され、その身体が犯人によって細かく裁断されてトイレに流されたり生ゴミとして捨てられたりした事件があった [24] 。警察は、トイレの配管に残っていた人体組織を発見した。この事件を知ったときに、私は単なる殺人事件を超えるようなおぞましさを感じたのだが、そのおぞましさの原因がどこにあるのか理解できなかった。このおぞましさこそ、人間のまるごとの「身体の尊厳」が、外部の人間の欲望によって徹底的に破壊されたこと、そしてそれらがまるで単なる生ゴミや糞便のように捨てられ流されたことに対するおぞましさだったのである。

第二に、「身体の尊厳」とは、ある人間の身体が外部の人間の欲望によって完全に支配されるというようなことが起きていないことである。ひとことで言えば、人間の身体がけっして他人の奴隷として使用されたりしない、ということである。たとえば過酷な労働現場において、労働者の身体が意に反した不当な暴力や契約によって奴隷のように拘束され、虐待され、支配されることがあると報告されている。肉体労働、デスクワーク、セックスワークなど労働の種類を問わず見られる現象である。それらの労働現場において、それらの拘束や支配が起きないようにすることが「身体の尊厳」を守ることである。労働現場のみならず、教育現場(体罰など)や、家庭環境(DV、児童虐待など)や、親子関係(デザイナーベビーなど)においても、同様のことが発生し得るであろう。カントの尊厳の第二方式の一部は、ここに組み込まれる。

先に、私は、「身体を拘束され、意に反して繰り返し無残にレイプされたとしても、その被害者におけるこの4つの人生の尊厳はけっして破壊されることがない」と書いた。これを「身体の尊厳」という言葉で書き換えれば、たとえある人間の「身体の尊厳」が徹底的に破壊されたとしても、その人間の「破壊不可能な人生の尊厳」はけっして破壊されることがない、ということになるだろう。

第三に、「身体の尊厳」とは、人間の身体がたとえ本来の機能を大きく失い、醜くなり、汚くなり、役立たずになったとしても、その身体が単なる物体以上のものとして扱われることであり、健康な人間の身体が受けるべき敬意と同様の敬意をもって、その人間の身体が扱われることである。このような意味での「身体の尊厳」は、医療や介助や介護の現場で、人々を悩まし続けている問題である。老いて身体を自力で動かせなくなり、言葉を明瞭にしゃべることができなくなり、記憶力が落ち、排泄を他人にまかせきりになり、認知症を発症するようになった人間の身体は、健康な人間の身体よりも一段低い価値しかないものであるかのように扱われがちであるし、ときには単なる物体のように右から左へと処理されるのである。そのように扱われるとき、その人間の「身体の尊厳」は破壊されている。たとえ言葉が理解されてないかもしれなくても、たとえ処置の内容が本人の精神には届かないかもしれなくても、それでも健康な人間の身体に対して行なうときと同様の敬意を持ってそれらのケアをすることが、それらの人間の「身体の尊厳」を守ることであり、目指すべき理想はここにおかなくてはならない。

たとえ自己意識や理性を失った身体であっても、その身体は「身体の尊厳」を持つ。ある看護師は、脳死患者の身体をケアするときでも、健康な人間の身体を前にしたときと同じような態度で接していると私に語った。献体された医学解剖実習のための遺体を、敬意をもって扱わなければならないのも、それが「身体の尊厳」を有しているからである。解剖のための遺体であっても、いまだ最後の死のプロセスを歩んでいる途中であるという認識が本来は必要なのである [25]

さて、以上のような「身体の尊厳」を守ることが、なぜ生を全うすることにつながるのだろうか。先に述べたように、「生を全うする」とは、「自己意識をもって生を生きている人間にとっては「生まれてきて本当によかった」と思えるように生きることを意味し、そうでない人間にとっては現に持って生まれた身体の全体性を保持したまま生と死のプロセスを歩むことができることを意味する」のであった。

まず「身体の尊厳」には、自己意識をもって生を生きている人間の「身体の尊厳」と、そうでない人間の「身体の尊厳」があるのであった。前者としては、自己意識をもって生を生きている人間の身体が外部の人間の欲望によって完全に支配されないことや、その身体が単なる物体以上のものとして扱われることが「身体の尊厳」であった(第二および第三)。後者としては、人間の身体において、まるごと成長し、まるごと死んでいく自然の権利が守られていることが「身体の尊厳」であった(第一) [26]

自己意識をもって生を生きている人間の「身体の尊厳」(第二および第三)が守られることが、「生まれてきて本当によかった」と思えるように生きることにつながるのは理解しやすい。また、そうでない人間の「身体の尊厳」(第一)が守られることは、その身体が現に持って生まれた身体の全体性を保持したまま生と死のプロセスを歩むことと同一である。したがって、「身体の尊厳」を守ることが生を全うすることにつながるのは明らかである。

しかしながら、ほんとうの論点はそこにあるのではない。ほんとうの論点は、なぜ「生を全うすること」として、第二および第三の「身体の尊厳」と、第一の「身体の尊厳」が並列する形で含まれているのかという点である。すなわち、自己意識をもった人間が「生まれてきて本当によかった」と思えるように生きることと、そうでない人間の身体が現に持って生まれた身体の全体性を保持したまま生と死のプロセスを歩むことができることが、いったいどういう関係にあるのかというのが問題なのである。

これを正面から解決するのは非常に難しいのだが、そのかわりに、問題設定を次のように変えることでひとつの糸口を見出したい。読者や私のような人間は、受精卵の段階でその身体が形成されたときにおいては自己意識をもっておらず、成長のどこかで生を生きる自己意識的な主体となる。そしてある期間の生を過ごしてから、老いが進み、重い病気や障害を抱えるようになる。そしてそれらが悪化して自己意識を失うに至って、またふたたび自己意識をもたない身体となる。そしてその身体はしだいに機能を停止し、死に至るのである。すなわち、ひとりの人間が生まれてから自己意識をもつまでのあいだは第一の「身体の尊厳」が守られるべきであり、自己意識をもって生を生きているあいだはそれに加えて第二および第三の「身体の尊厳」が守られるべきであり、生の終期において自己意識を失ったときにはふたたび第一の「身体の尊厳」が守られるべきである、というふうになっているのである。

このときに、生の始期と終期において第一の「身体の尊厳」が守られるということが、自己意識をもって生を生きている期間の人間が「生を全うする」こと、すなわち「生まれてきて本当によかった」と思えるように生きることに対して、大きな重要性を持つのではないかと私は考えるのである。

その理由であるが、まず生の終期については、私が自己意識を失った後、私の身体であったところの身体の一部が他の人間の欲望によって切除されて取り出されたり、身体の大部分がバラバラに解体されたりしないという意味での「身体の尊厳」が守られることが保障されているとすれば、それは私に大きな安心感をもたらし、私がいまここで生を全うして生きることに対して肯定的な貢献をするであろう。次に生の始期については、私が自己意識を持つ以前の段階で、私の身体になるであろう身体の一部が他の人間の欲望によって切除されて取り出されたり、その身体の一部が外部の人間の欲望を満たすために改造されたりしないという意味での「身体の尊厳」が守られていたとすれば、それは私に大きな安心感をもたらし、私がいまここで生を全うして生きることに対して肯定的な貢献をするであろう(生の始期における本人のための医学的治療によって「身体の尊厳」が破壊されるのかどうかについては別途の議論が必要である)。

したがって、生の始期と終期における第一の「身体の尊厳」を守ることは、自己意識をもって生を生きている期間の人間が「生まれてきて本当によかったと思えるように生きる」ことに大きな貢献をすると言えるのである。それを確認したうえで、もう少し先にまで進んでみたい。

私はかけがえのない一度きりの人生を歩んでいる。その人生は、私が自己意識をもつ前の生の始期から発出してきたものであり、私が自己意識を失う生の終期へと没入していくものである。自己意識をもって人生を生きる私は、自己意識の存在しない生の始原から発出し、自己意識の存在しない生の終局へと没入していくのである。私が生を全うするためには、私がそこから発しそこへと還っていく生の始原と終局をあたかも「聖なる存在」であるかのように手つかずのまま保護し、誰の欲望によっても操作されることのできないものとして囲い込んでおくことが必要であると私は思うのである。すなわち、生の始期と終期における第一の「身体の尊厳」を守ることがなぜ必要なのかと言えば、それが「いのち」の世界において「聖なるもの」であるとされるべきだからであり、ここにおいて私たちは存在の始原と終局という超越的かつ宗教的なものに接続されているからである [27]

ここで2つのことを補足しておきたい。

まず、「人生の尊厳」の場合は、「破壊不可能な人生の尊厳」と「破壊可能な人生の尊厳」があるのであった。では「身体の尊厳」の場合はどうであろうか。以前に、「身体の尊厳」が破壊されたとしても、それにもかかわらず残り続ける「人生の尊厳」があるということは指摘した。それと同様に、「身体の尊厳」が破壊されたとしても、それにもかかわらず残り続けるような身体の次元でのかけがえのない大切なものは、何かあるであろうか。私はいまの時点ではこれに答えを出すことができない。ここにひとつの身体があったという記憶のようなものや、身体がそれらの破壊をどこまでも受け入れ続けていくことなどが思いつくが、それにどのような意義があるのかよく分からない。この問いについては答えを留保し、後の課題にしたいと思う。

次に、カントの尊厳概念の中核にある定言命法の第二方式「汝の人格やほかのあらゆるひとの人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決してたんに手段としてのみ扱わないように行為せよ」は、私の言う「人生の尊厳」と「身体の尊厳」へと実質的に分割して組み込まれることを以前に指摘した。すなわち、「人生の尊厳」の内部へは、「他人の人生を、何か別のもののための単なる道具として扱ったり、それを外部から支配してはならない」という命法として組み込まれ、「身体の尊厳」の内部へは、「人間の身体はけっして他人の奴隷として使用されてはならない」という命法として組み込まれるのである。すなわち、カントの尊厳概念の核心部分は、私の提唱する尊厳概念に漏れることなく受け継がれているのである。これを別の角度から言うとすれば次のようになるだろう。「他人を道具や手段として扱うときには、他人の「人生の尊厳」と「身体の尊厳」がけっして破壊されないようにせよ」。これはカントが定言命法の第二方式で言いたかったことと一致する。この意味で、私の提唱する尊厳概念は、カントを受け継ぎ、それを拡張するものであると言える。しかしながら、その拡張はカントが想定していないところにまで及ぶことになる。これまでの議論においてもすでにそうであったが、次節以降ではさらにそれが大幅に拡張され、まったくカント的ではないところにまで及ぶことになるであろう。

 

6 生命のつながりの尊厳(「人間のいのちの尊厳」その3)

  「生命のつながりの尊厳」とは、いのちというあり方をした人間が、「生命のつながりを生きる」という局面において生を全うすることができるために守られるべき尊いもののことであり、けっして破壊されてはならないようなかけがえのない大切なもののことである。冒頭で述べたように、「生命のつながり」は、(a)世代間における生命のつながり、(b)社会における生命のつながり、(c)大自然における生命のつながり、の3つの局面において捉えることができる。この3つそれぞれにおいて、尊厳というものが考えられるのである。

「生命のつながりの尊厳」は、これまで述べてきた「人生の尊厳」「身体の尊厳」とは異なった面を持っている。「人生の尊厳」は、人生を生きる私という主体にかかわる尊厳であり、「身体の尊厳」は、人間の個体的な身体にかかわる尊厳であった。これに対して、「生命のつながりの尊厳」は、ある人間と、その人間を取り巻くなにものかのあいだの「つながり」にかかわる尊厳である。「人生の尊厳」「身体の尊厳」は個体的な尊厳であり、「生命のつながりの尊厳」は関係的な尊厳であると言える。

それでは「生命のつながりの尊厳」を3つの局面において見ていこう。

 

(a)世代間における生命のつながりの尊厳

人間は、前の世代から様々なものを受け渡され、そして今度は自分たちが次の世代に様々なものを受け渡していく。世代を超えて受け渡されていくものとして、まず生物学的な子孫がある。そして人間個体がこの世でなした行ないや生産物すべてが、何かの形で次世代へと受け渡されていく。そのような世代を超えた受け渡しの中に埋め込まれながら人間が生きていくことにおける尊厳とは、いったい何であろうか。

それは、第一に、自分が死んだあとも、自分の同胞がこの世に存在していると確信できることである。自分が死んだあとというのは、自分が実感をもって想像可能な近未来のことである。自分の同胞とは、狭く考えれば自分の家族や親戚などの血縁集団、あるいは文化・言語・価値・アイデンティティなどを共有する集団であり、さらに拡大すればエスニック集団、国家、人類全体にまで広がる。同胞をどの集団でとらえてもかまわないが、それが視野の届く近未来において滅亡せずに存在し続けていてくれると確信できること、それが世代間における「生命のつながりの尊厳」である。なぜなら、そのようなことを確信できてはじめて、人間は、時系列的な生命の連鎖において孤絶してはいないと実感することができるからであり、そしてその実感に支えられて、自分の生を全うしていくことができるからである。

第二に、自分たちの前の世代が作り出した様々なものの恩恵を得て、私たち現世代が生を享受しているように、私たちがこの世で行なったことや作り出したものが、次世代へと何らかの形で肯定的に受け渡されていくということを確信できること、それが世代間における「生命のつながりの尊厳」である。それは私ひとりが行なったことや作り出したことでなくてもいい。私がその一部であるところの何かの集団が、何かを肯定的な形で次世代へと受け渡していくことを私が確信できるようになっているとき、そこに尊厳があると言えるのである。なぜそれを尊厳と呼ぶのかという理由は、第一のものと同じである。そしてこの世に生きるすべての人間が、そのような確信をもって生きることができるとき、この社会は「生命のつながりの尊厳」に満ちた社会であると言えるはずだ。

第一と第二の尊厳は、現世代がみずからの役割を無事に終えて、次の世代へと大事なものをバトンタッチしていくことを意味している。ここから導かれるのは、現世代が地球のリソースを独り占めにして次世代に負の遺産を残すということを行なわないということ、すなわちサステイナビリティ(持続可能性)の重要性である。もうひとつは、現世代が自分の席を次世代へときちんと譲り渡し、自分の存在を肯定的に終わらせることである。たとえば現世代が次世代の人間に渡すべき遺産を次々と消費しながらいつまでも生き続けるというような社会では、生命のつながりの尊厳は破壊されているはずだ。現世代が自分の席を次世代へと譲り渡し、自分の存在を肯定的に終わらせること、そして各世代の人間たちが順繰りに生を開花させていくこと、これを世代間における第三の「生命のつながりの尊厳」と呼ぶこととしたい。

 

(b)社会における生命のつながりの尊厳

人間はひとりで生きていくことはできない。人間は社会における相互のささえあいによってはじめて生きていける。とくに人間の生の始まりと終わりにおいて、自分だけの力では生命を維持できないような状態であるとき、そのような側面がもっとも強く出てくる。すなわち、社会における「生命のつながりの尊厳」とは、社会の中で自力で生活できる人間たちと、自力で生活できない人間たちが、お互いにささえあって生きていけるようになっていることを意味する。

たとえ健康に暮らしている人間や、社会の中で優位な地位に立っている人間や、スマートに人生を送ってきた人間であっても、いずれ病気や、老いや、障害によって、自力では生活できない人間、他人より生活能力の劣った人間、足手まといだと言われるような人間になって、死んでいくのである。健康なときに即死しないかぎり、これは誰にでも当てはまることなのである。高齢化と医療化が進んでいる現代社会の大きな特徴だと言える。

いくら優位な人間であっても、やがて劣位な人間になって死んでいくのである。このときに、他人の助けを借りないと生活できないようになった人間たちが、他人の助けを借りなくても生活できるような人間たちによって、その生活をきちんとささえられていることが、人が生を全うするためにどうしても必要なことである。そして、そのときに他人を助けていた人間たちがいずれ弱者になったときに、今度は別の人間たちによってきちんとささえてもらえるようになっていることが必要である。

生の始まりにおいても同様である。生まれたばかりの新生児は、自力で生きていくことができない。子どもたちが大きくなるまで、彼らをささえていかなければならない。また妊娠中から出産後の期間の女性も助けを必要とする。子育てを行なっている人々に対しては、社会からのサポートがどうしても必要である。出産や子育ての当事者たちを、回り持ちで支え合っていく仕組みを作り上げなくてはならない。

社会において、このような順繰りのささえあいの仕組みがきちんと整備されていることが社会における「生命のつながりの尊厳」である。これは社会福祉というものを根拠づける尊厳であると言ってよいだろう [28]

この意味での尊厳についてさらに考えてみれば、それは、たとえ人間がどのような劣位に置かれようとも、どのような足手まといの存在になろうとも、どのような機能を失おうとも、あくまでひとりの人間として社会からささえられ、ひとりの人間として存在する価値のあるものとして扱われるということを意味する。このような仕組みが社会に備わっていてはじめて、自力で生活できる人もできない人も、心底安心して生を送ることができるはずだ。私は以前にこのような安心感のことを「根源的な安心感」と呼んだ。すなわち「根源的な安心感」とは「たとえ知的に劣っていようが、醜かろうが、障害があろうが、私の〈存在〉だけは平等に世界に迎え入れられたはずだし、たとえ成功しようと、よぼよぼの老人になろうと、私の〈存在〉だけは平等に世界に迎え入れられ続けていると確信できる」という安心感のことである [29] 。社会における「生命のつながりの尊厳」は、このような意味での「根源的な安心感」が社会全体において確保されていることであると言える。

この考え方をさらに推し進めれば、どんな人間であれその存在は平等に社会に迎え入れられなくてはならないし、どんな人間であれ弱者になったときには平等にささえられなければならないということになるだろう。このように、すべての人間に対して存在とささえあいの平等が確保されていることを、社会における第二の「生命のつながりの尊厳」と呼んでよいと私は考える。これは、後に述べる、すべての生まれ死ぬものの平等という考え方につながっていくものである。

 

(c)大自然における生命のつながりの尊厳

人間は身体をもっており、身体を通して大自然とつながりあっている。また、人間の外なる自然と、それに対応する人間の内なる自然があり、それらは密接に結びついている。人間が大自然の中で生きることに関する「生命のつながりの尊厳」とは、どのようなものであろうか。

まず、大自然とは、人間を取り巻く大気、水、日光、風、動植物、微生物などが総体となって関係し合いながらうごめいているその全体のことである。大自然は、とりあえずは地球上の大自然として考えてかまわない。大自然は、人間が地上に人工物を作り出す以前から、大自然として地上にあったというふうに私たちは感じ取っている。であるから、私たちは大自然を感じたいときに、人工物にあふれた都市を去り、人工物が比較的少ない海や山に行くのである。

大自然のかなりの部分を構成するものとして、生命圏がある。生命圏とは、単細胞あるいは多細胞の生物がお互いに食物連鎖や寄生や共生によって作り上げている生物体の巨大なネットワークの総体である。その中に、個々の人間や動物や植物は埋め込まれている。私たちが大自然をイメージするときに、その中にはほとんどかならず木々や植物や動物が含まれている。大自然という言葉を聞いて、見渡すかぎり一面の溶岩から煙と硫黄が吹き出している火山口を真っ先にイメージする人は少ないであろう。私たちにとって大自然とは、何よりもまず、生命体たちが織りなす大自然なのである。

人間にとって大自然はどのようなものとして現われているのか。私はそれを「資源」と「聖性」の二つの側面において捉えてみたいと思う。資源とは、人間が生きていくために利用しなくてはならない食料、水、材木、植物、天然資源などをひとくくりにしたものである。人間と大自然のあいだのかかわりの第一の特徴は、人間による大自然の資源利用である。しかしながら人間は大自然を単なる資源の集合体としてのみ捉えているわけではない。大自然は、長らく人間にとって畏怖の対象であった。自然災害のパワーや自然景観の圧倒的な巨大さは、人間など無価値に思えるくらいの他者性と荘厳さをたたえている。また大自然は人間が死んだあとにその肉体が分解されて還っていく場所であり、その意味においても、人間を包み込む母体のような存在であると見ることができる。この荘厳さや超越性に、人間たちはある種の「聖性」を見てきた。この感覚は今日においてもなお生きている。この「資源」と「聖性」の対立は、環境倫理学における「保全」と「保存」の対立へと引き継がれている。

この「資源」と「聖性」の緊張関係のなかに、大自然における「生命のつながりの尊厳」を見ることができる。まず、人間にとって大自然は「資源」である。もし大自然において人間が利用できる「資源」が枯渇すれば、人間は生きていくことができない。この意味で人間が「資源」を持続的に確保できていることは人間にとって必須である。と同時に、もし仮に人間が地球上の大自然をすべてテクノロジーによって管理してしまったとしたらどうだろうか。台風も地震も好きなようにコントロールできるし、自然景観も自由自在に整形できるのである。そうなったとき、大自然がそもそも持っていたところの他者性、荘厳さ、超越性などの「聖性」が大自然から消え去ってしまうのである。大自然を大自然たらしめていたその本質を、人間がみずからの手で奪い去ることになるのである。そこにあるのはもう大自然ではない、何か別のものなのである。

すなわち、大自然が人間を圧倒してもダメであるし、逆に人間が大自然を圧倒してもダメなのである。このように、人間と大自然のあいだに、一方が他方をけっして制圧しないというダイナミックな緊張関係が保たれていることが、大自然における「生命のつながりの尊厳」である。人類が文明を発展させてきた道筋は、人間による大自然の征服の歴史であった。この歴史の初期においては、人間が大自然を制圧することによる「生命のつながりの尊厳」の破壊というような課題は存在しなかった。その時期にあったのは、むしろ、大自然が人間を制圧することによる「生命のつながりの尊厳」の破壊という課題であった。しかしながら20世紀に入って、人間が大自然を制圧することによる「生命のつながりの尊厳」の破壊という課題が徐々に私たちの視野に入ってきている。大震災やハリケーンに見られるように、いまだなお大自然の圧倒的な力は健在なのであるが、しかしいつまでもそうであるかどうかは分からない。大自然における「生命のつながりの尊厳」は、今後徐々に重要性を増していくテーマであろう。

これは、以下のように、さらに展開して考えてみることができる。

まず、人間の身体の外側に大自然という「外なる自然」が広がっているが、それと同時に、人間の身体の内側に「内なる自然」が存在している。「内なる自然」は、人間の身体のリズムが地球の自転のリズムと呼応していることや、季節に呼応していることによって知られる。私たちが緑の多い場所に行って植物や木々の葉音に包まれるときに癒しを感じるのは、私たちの「内なる自然」が、私たちを包む「外なる自然」と共鳴しているからであろう。この、「内なる自然」と「外なる自然」の共鳴こそが、先に述べたような、人間によっても大自然が制圧されておらず、大自然によっても人間が制圧されていないという緊張関係のことを意味しているのではないかと私は考える。この共鳴の考え方においては、人間と大自然が対立的に捉えられていない。そこにあるのは、人間の身体という入れ物と、その入れ物を出入りして内側と外側から共鳴する一個の自然があるのみである。枠組みをこのように変えたときに、そこからどのような自然観が出てくるのかをさらに考察していく必要がある。

次の論点。「身体の尊厳」について論じたときに、生の始原である身体と、生の終局である身体を、私がそこから発しそこへと還っていく「聖なる存在」であるとみなすことが必要だと私は主張した。これを大自然における「生命のつながりの尊厳」の視座から見ることができる。40億年前に生命の原初細胞のネットワークが存在した。それはひとまとまりに関わり合いながら、多様に分化して無数の生物種へと進化し、今日の地球上にいる生物個体たちを生み出した。人間個体の生の始原を辿っていけば、それは人間の祖先をずっと遡ることになり、ついには原初細胞のネットワークにまで還ることになる。この原初細胞のネットワークこそ、今日の地球上の生命圏の原初の姿である。そして人間が死んだあと、人間の身体を構成していた物質は地球上の大自然へと還っていき、その多くは生命圏へとふたたび取り込まれる。このように、人間の身体は、その始原において生命圏から生み出され、その終局において生命圏へと還っていくのである。人間の身体の始原と終局がなぜ「聖なるもの」であるのかと言えば、人間の身体がそれらの地点において、生命圏を内蔵する大自然の「聖性」をいわば受肉しているからである。人間の聖性は、大自然の聖性によって裏付けられている。「身体の尊厳」はこのようにして「生命のつながりの尊厳」と結びつく。

さらに「生命のつながりの尊厳」は、人間と動物の関係をどうしていけばいいかという難問を抱え込むことになる。霊長類に属する動物には痛みがあり、内的な時間感覚もあると言われている。彼らは彼らなりの人生を生きている可能性がある。霊長類の「人生の尊厳」というものを考えなくていいのだろうか。ほ乳類も痛みを感じる。人間がほ乳類を殺して食べるときに、彼らの何かの尊厳を暴力的に奪っているのではないかという疑念がある。今日の畜産工場で行なわれていることは、ほ乳類の何かの尊厳を決定的に破壊しているという直観を持つ人は多いはずだ。

私たちは、畜産工場の内部で何が行なわれているのかを人々の目から隠してきたし、今日においても意図的に隠されており、また私たちは進んでそれを見ようとしない。なぜかと言えば、そこにおいて何かの尊厳が決定的に破壊されていることを私たちがすでに薄々と感じており、私たち自身の欲望によってそのような尊厳の破壊が起きていることから目を背けておきたいからであると私は考えている。動物実験についても同様である。動物の権利を擁護する人々が主張してきたことを、「人間のいのちの尊厳」の視座から再考する必要がある。この点については私の考えはまだ未熟であり、本論文ではそれを行なうことができないので、今度の課題として遂行することをここで確認しておく。

さらに、大自然における「生命のつながりの尊厳」が、人間による大自然の制圧を許さないということを、時間軸に沿って考えてみよう。地球上で生命圏が成立し、そこから様々な生物種が生まれてきた。しかしそれらは進化の途上で次々と縮小しあるいは絶滅し、新たに出現した種によって取って代わられた。進化のプロセスにおいて、いったん繁栄した生物種は、やがて縮小するか絶滅し、そうやって生物種の交代が順繰りに起きてきたのである。ところで、人類もまた、新しく登場した生物種である。現在は地球上で繁栄を謳歌しているが、いずれは縮小するか絶滅すると予想される。

ところが、もし人類が高度テクノロジーの力によって、この地上における繁栄を果てしなく長く続けることができるようになったとしよう。何千万年、何億年と、現在のような支配的地位を継続できるようになったとしよう。このとき、人類と大自然との関係で言えば、人類のこのような超長期政権によって、人類の他のすべての生物種に対する時間軸上の制圧がなされることになると考えられる。すなわち、生命圏における支配的地位の交代が何億年も起きないわけであるから、地球上で生物種が順繰りに開花するということが退けられることになるからである。

したがって、大自然における「生命のつながりの尊厳」を守っていくためには、人類はみずからの繁栄を果てしなく長く続けてはならないことになるように思われる。人類は、ある程度の繁栄の後、みずから進んでその支配的地位を降り、他の生物種に支配的地位を譲らなければならないのである。これが、大自然における「生命のつながりの尊厳」を守るということの意味なのである。常軌を逸した考え方のように聞こえるかもしれないが、「生命のつながりの尊厳」の話はここまで行き着くのであり、それを実際に実行することは人類には不可能と考えられるとしても、やはりこの点を避けて通ることはできない。現時点での人類はこの問題にまったく直面していないが、遠い将来において、きっと直面することになるはずである。そのときに、人類がみずからこの尊厳について深く考え、それに対処していくことができるかどうかが人類に問われているのである。

 

 

さて、以上で「生命のつながりの尊厳」の3つの局面を考察した。

これらはすべて「破壊可能な尊厳」である。私たちが生を全うするためには、全力を挙げてそれらの「破壊可能な尊厳」を守らなくてはならない。

ところで、「生命のつながりの尊厳」には、「破壊不可能な尊厳」というものがあるのだろうか。いくらそれを破壊しようとしても、けっして破壊されないような尊厳が、「生命のつながり」にはあるのだろうか。私は、「破壊不可能な生命のつながりの尊厳」があると考えている。すなわち、世代と世代、人間と社会、人間と大自然のあいだを「たえずつなげていこうとする動き」があるということ、これは何によってもけっして破壊することができない。そしてそれがけっして破壊されることがないということは、かけがえのない尊さであると考えられる。このような意味での「たえずつなげていこうとする動き」の尊さが、「破壊不可能な生命のつながりの尊厳」である。

この「たえずつなげていこうとする動き」は、個々の人間のコントロールを超えたものである。その動きは、それ自体が主体となって、人間や社会や大自然を次々とつなげていく。その動きが個々の人間のコントロールを超えているからこそ、「たえずつなげていこうとする動き」を人間が破壊することはできない。そこにかけがえのない尊さが存する。

まず、世代と世代をつなげていこうとする動きがある。ある世代が次の世代を生み出し、さらにその世代が次の世代を生み出して行くという動きがそれである。子産みに直接参加しない人間がいたとしても、そんなことはおかまいなしにこの動きは自分で前進する。子産みに直接参加せずに死んでいく人間は、その身体を大自然へと還して分解させることによって人間以外の生物を生み出していく。ここにもその「たえずつなげていこうとする動き」は存在しており、人間は人間以外の生命体へも強制的につながれていくのである。

この動きは、ある世代が生み出した文化や人工環境が次の世代に受け継がれていくという面においても現われる。私は、これまでの世代たちが作り出した様々なリソースを否応なしに受け取るのであり、私がそれを受け取ってさらに次の世代に受け渡していくということは止めようがない。もし人類が絶滅したとしても、人間たちが作り出した人工物やその影響は、大自然へとつながれていき、留まるところがない。たとえ大規模隕石が衝突して地球が氷の惑星になり、人類が瞬時に滅亡したとしても、世代を超えてつなげられてきたものたちは、その氷の惑星の凍った大地や吹雪や音のない深海にまで極微に分解されながら染み渡っていくことであろう。

このように、たとえ世代間における「生命のつながりの尊厳」が破壊されたとしても、世代間の生命を「たえずつなげていこうとする動き」それ自体はけっして破壊されることがない。この点において、この「たえずつなげていこうとする動き」は、かけがえがなく尊いのである。この尊さのことを、「破壊不可能な生命のつながりの尊厳」と呼ぶ。

次に、社会において人間と人間をつなげていこうとする動きがある。人間はひとりでは生きていけないから、他の人間たちと必然的につながろうとする。先に述べたような、社会福祉の基礎となるような「生命のつながりの尊厳」は、その典型例である。そこでは強者と弱者がお互いにささえあっていくことが強調された。しかしながら、ここで注目しておきたいのは、人間たちがお互いにささえあおうとせず、逆に傷つけあい、殺し合おうとしたとしても、そこにはそのような「たえずつなげていこうとする動き」がはたらいているということである。人間と人間をつなげていこうとする動きは、人間と人間をささえあうような方向につなげていくこともあるし、人間と人間をつぶし合うような方向につなげていくこともある。どちらの方向に向かったとしても、そこに「たえずつなげていこうとする動き」がはたらいていることに違いはない。ある人間が、社会の中にある人間と人間のささえあいの仕組みを次々と断ち切っていったとしても、その人間は、その断ち切るという行為においてささえあいの仕組みとつながってしまっているのであり、断ち切ることによって別の意味で人間と人間をつなげてしまっているのである。人間を一方的に殺すこともまたその人間とつながることである。破壊も一種のつながりである。このような意味での「たえずつながろうとする動き」を、人間は破壊することができない。

もちろん人間は、ロビンソン・クルーソーのように孤島に渡ってひとりで生きていくことはできる。そのときには、社会の中で「たえずつながろうとする動き」は途絶えているといってもかまわないであろう(そのときであっても「たえずつながろうとする動き」は、その人間を大自然へとつなげていこうと虎視眈々と狙っているのではあるが)。しかしながら、人間が集団として次の世代を生み出そうとしているかぎり、人間たちは再生産のために互いにつながっていかざるを得ない。世代を超えて人間個体を受け渡そうとするかぎり、人間は全体としてはロビンソン・クルーソーになることはできず、互いにつながりあいながら次世代を生産していくことになる。すなわち、人間たちが次世代を生産しようとするかぎりにおいて、人間たちは集団レベルでこの「たえずつながろうとする動き」を破壊することはできない。

このように、たとえ社会における「生命のつながりの尊厳」が破壊されたとしても、社会の人間たちの生命を「たえずつなげていこうとする動き」それ自体はけっして破壊されることがない。この点において、この「たえずつなげていこうとする動き」は、かけがえがなく尊いのである。これが第二の「破壊不可能な生命のつながりの尊厳」である。

以上のような「たえずつながろうとする動き」は、人間と大自然のあいだのつながりにおいて、もっとも極端で典型的な姿を現わすことになる。

人間と大自然のあいだに、一方が他方をけっして制圧しないというダイナミックな緊張関係が保たれていることが、大自然における「生命のつながりの尊厳」であった。この意味での尊厳が破壊される場合とは、大自然が人間を制圧するとき、そして人間が大自然を制圧するときである。

まず大自然が人間を制圧するとき、たとえば天変地異が起きて人間の文明が崩壊し、人間たちが生存を求めて逃げ回るのだが、そのかいもなくひとりまたひとりと干からびて死んでいくような場合を考えてみよう。このとき、天変地異という大自然の「自然の営み」が人間に襲いかかり、人間の抵抗を制して死に至らしめる。このすべてのプロセスを支配しているのが、人間の手を超えたところではたらいている「自然の営み」である。人間はこの「自然の営み」を破壊することはできない。抵抗することはできたとしても、「自然の営み」はそれをものともせずに、人間の抵抗を押しつぶしてくる。大自然が人間を制圧するとき、この「自然の営み」が大自然のほうから人間に向かって怒濤のように流れてくるのであり、人間はそれに太刀打ちできない。

人間個体に目を向けてみれば、人間の老いと死というのはそのようなものであろう。人間を老いさせ、死なせる「自然の営み」がある。人間はそれに抵抗しようとするが、「自然の営み」はそれをものともせずに押しつぶしてくる。最後はどんな人間も「自然の営み」に勝つことはできず、それに屈するのである。人間を老いさせ、死なせようとする「自然の営み」を人間は破壊することができない。ここにひとつのかけがえのない尊さがあると私は考えたいのである。

話を大自然と人間に戻せば、その二者の緊張関係が崩れて、大自然が人間を制圧して、人間が生を全うすることができるための「生命のつながりの尊厳」が破壊されたとしても、しかしながら、大自然が人間を制圧するという「自然の営み」に人間が勝つことができないことそれ自体は、けっして破壊されることのないものであり、かけがえのない尊いものであると考えられるのである。人間が、人間の手を超えたものによって滅ぼされていくことそれ自体は、かけがえのない尊いことなのだ、というふうに考えていく余地が残されている。

では逆に、人間が大自然を制圧する場合を考えてみよう。将来のスーパーテクノロジーによって、大自然がすべて人間の予測範囲内に管理されたとしよう。そのとき、もはや「聖なるもの」としての大自然はどこにも存在せず、その意味で「生命のつながりの尊厳」は破壊されたと言える。しかしながら、不思議なことに、大自然のなかにうごめいていた「自然の営み」は、大自然を予測範囲内に管理している人間の内部に入り込んで、生き生きと生き続けていると考えられるのである。というのも、大自然だったものを管理している人間というものを生かしているのは、人間の手を超えた「自然の営み」だからである。人間はけっして自分が生きようとする根源的な動因を支配してはいない。その動因は、人間を超えた彼方からやってくるのである。その彼方とは、人間がその原初において分かれ出てきたところの生命圏である。人間が生きようとする根源的な動因は、生命圏から分かれ出てきて人間の身体の内部に分属して存在しているところの「自然の営み」である。その人間の身体の内部にあるところの「自然の営み」が、人間をその根源において生きようと思わせる動因となり、それによって突き動かされた人間たちが、いまや大自然だったものを管理している、というふうになっているのである。したがって、大自然のなかにあった「自然の営み」は、人間が大自然を制圧した場合、今度は人間の内部に移り住んで、人間を内側から動かし始めるのである。したがって、人間は大自然の中にあった「自然の営み」を管理することができたとしても、自分たちの内部に移り住んだ「自然の営み」を管理することはできない。なぜなら、大自然を管理したいという人間たちの情熱それ自体が、人間の内部にある「自然の営み」から発しているからである [30]

以上とはまったく逆の想定をして、もし人間が大自然を徹底的に破壊したとしよう。すべてを焼き払い、汚染し、動植物を壊滅させたとしよう。地球上は放射性物質に汚染され、核の冬が来たとしよう。それによって人間が大自然だと思っていた景観は破壊されるが、しかし人間の外側にある「自然の営み」はいっこうに破壊されない。人間によってめちゃくちゃにされた地球環境は、新たにそのような状況の自然として再創造されたにすぎない。そこにおいては、また新しい「自然の営み」が開始され、人間からは想像もつかないような新しい生物の形が作り出されるかもしれないし、生物は死滅して復活しないとしても、地殻変動などによって地球はゆっくりと「自然の営み」を続けるだけであろう。ここにおいてもまた、人間は「自然の営み」を破壊することはできないのである。このように、人間がいくら管理しようと思っても、破壊しようと思っても、それをすり抜けて大自然や人間の中ではたらき続ける「自然の営み」というものがある。人間のいのちがこのような絶対に破壊されない営みによって生かされているということは、かけがえのない尊いことであると私は考える。

ここでいう「自然の営み」は、先に述べた「たえずつなげていこうとする動き」と同じことを指していると考えられる。それは人間の力を完全に超えており、人間はそれを管理することも破壊することもできない。そして人間はそれを自分の中に内在させており、それを動因とすることによって自分自身を生かしているのである。そしてそれの営みによって人間は老い、死に至るのである。このような「自然の営み」のことを、日本語では「おのずから」とも呼んできた。親鸞の言う「自然(じねん)」もまたこれに近接する概念であろう。

以上のように、たとえ大自然における「生命のつながりの尊厳」が破壊されたとしても、大自然と人間を「たえずつなげていこうとする動き」すなわち「自然の営み」それ自体はけっして破壊されることがない。この点において、この「たえずつなげていこうとする動き」すなわち「自然の営み」は、かけがえがなく尊いのである。これが第三の「破壊不可能な生命のつながりの尊厳」である。

ここまでの考察によって、「生命のつながりの尊厳」においても、破壊可能なものと、破壊不可能なものの二種類があることが分かった。

以上、「人間のいのちの尊厳」を、「人生の尊厳」「身体の尊厳」「生命のつながりの尊厳」の3つの尊厳に分けて考察した。これによって、「人間のいのちの尊厳」の大枠を描き取ることができた。

 

7 「人間のいのちの尊厳」をさらに考察する

 

7−1 生を全うすることと「人間のいのちの尊厳」の衝突

「人間のいのちの尊厳」をめぐる3つの大きな論点について議論する。

第一は、私が生を全うしようとすることが、「人間のいのちの尊厳」と衝突する場合についてである。

すでに述べたように、「人間のいのちの尊厳」とは、いのちというあり方をした人間が生を全うすることができるために守られるべき尊いもののことであり、けっして破壊されてはならないようなかけがえのない大切なもののことである。一見すると、私が生を全うすることと、「人間のいのちの尊厳」のあいだに衝突などないように思われるが、実はそうではない。この二つが抜き差しならぬ緊張関係に置かれることがある。

まず、私が生を全うしようとすることが、他人の「人間のいのちの尊厳」と衝突する場合がある。たとえば、私が重い心臓病で苦しんでいて、それを克服して生を全うしようとするためには、他人から心臓を移植するしかないという場面を考えてみよう。このとき、一〇代前半の若者が脳死になり、その心臓の適合性によって私がレシピエントに選ばれたとする。ただし、その若者は臓器提供についての意思表示をしておらず、家族が承諾したのみである。この場合、脳死になった若者の身体はまだ脳死状態で成長をしており、このまるごと成長している身体から一方的に臓器を摘出するのは、この若者の「身体の尊厳」を破壊することになる。すでに述べたように、他人の「身体の尊厳」を破壊してはならないというのは、尊厳の根本原則である。したがって、このような場合、たとえ私が生を全うするためであったとしても、私は他人の「身体の尊厳」を破壊してはならないことになり、この若者からの臓器摘出に加担してはならないことになるのである(意思表示がある場合については後述する)。

すなわち、私には、他人の「人間のいのちの尊厳」を破壊してまでも自分の生を全うしようとする自由は、与えられていないのである。私が自分の生を全うしようとするときに、もしそれが他人の「人間のいのちの尊厳」を破壊することになるとすれば、そのようなときには、私は他人の「人間のいのちの尊厳」を破壊しないですむような仕方で自分の生を全うできるやり方を探さなくてはならない。

次に、私が生を全うしようとすることが、私自身の「人間のいのちの尊厳」と衝突する場合がある。これは重要な論点なので詳細に考察してみたい。

第一に、私が生を全うしようとすることが私自身の「人生の尊厳」と衝突することはあり得ない。というのも、そもそも「人生の尊厳」とは、人生が一度きりしかない、人生の主人公は私でしかあり得ない、人生には成功も失敗もない、最後の瞬間まで絶望から脱出できる可能性が開けている、という「実感」をもって私が自分の人生を前向きに切り開いて生きていくことができるような状態になっていることであった。私が生を全うしようとすること、すなわち「生まれてきて本当によかった」と思えるように生きることが、このような意味での「人生の尊厳」と衝突したり、それを破壊したりするケースを私は考えることができない。

第二に、私が生を全うしようとすることが私にかかわる「生命のつながりの尊厳」と衝突することはあり得るが、それを想定することは非現実的である。世代間における「生命のつながりの尊厳」については、たとえば、自分の同胞が自分の死後もこの世に存在していると確信できるという状態が破壊されなければ、私は自分の生を全うすることができない、というケースを想定することはできるが、そのようなケースは非現実的である。社会における「生命のつながりの尊厳」については、たとえば、社会において生命のささえあいの仕組みがきちんと整備されているという状態が破壊されなければ、私は自分の生を全うすることができない、というケースを想定することはできるが、そのようなケースは非現実的である。大自然における「生命のつながりの尊厳」については、たとえば、「人間と大自然のあいだに、一方が他方をけっして制圧しないというダイナミックな緊張関係が保たれている」という状態が破壊されなければ、私は自分の生を全うすることができない、というケースを想定することはできるが、そのようなケースは非現実的である。

したがって、以上を除外すれば、考えるべきは、私が生を全うしようとすることが私の「身体の尊厳」と衝突するケースに限られることになる。

これについては、いくつかの具体的な事例を想定することができる。たとえば自殺がそうである。私が生を全うしようとするためには、私は自分自身の「身体の尊厳」を破壊することによって自分の人生をここで終わらせなくてはならない、と考えてしまうような状況は現実に存在する。自殺については、生を全うすることを目指した自殺と、生を全うすることを目指したわけではない自殺とを区別しておく必要がある。

後者の一例は絶望による自殺である。これ以上生き続けていたとしても、様々な理由によって、耐えがたい精神的あるいは肉体的な苦しみが続くばかりであるから、この生をここで終わりにしたいと思って自殺するのである。この場合は、「生まれてきて本当によかった」と思えるようになるために自殺をするわけではないのだから、私が生を全うしようとすることと、「身体の尊厳」はまったく衝突していない。鬱による自殺、オーバードーズによる自殺、衝動的な自殺についても同じであろう。これらの場合、「身体の尊厳」がみずからの手によって破壊され、その結果として、私が生を全うする可能性もまた断絶されてしまうのである。これは悲しいことである。「人間のいのちの尊厳」の視座からは、「身体の尊厳」の破壊は許されず、またその結果として起きる「人生の尊厳」の破壊もまた許されないという結論が出されるように思われる。しかしながら、そこから、人間には絶望による自殺の自由はないという結論が導かれるかというと、それにも疑問が残る。人間には絶望する自由があり、絶望によって自己の身体を処分する自由があるかもしれないからである。また、「人間のいのちの尊厳」の概念は、生を全うすることは望ましいという価値観を志向しているのであるが、その価値観からすれば、たとえ人間には絶望の自殺をする自由があるとしても、周りの人間たちには、その絶望をできるだけがんばって絶望ではない方向へと変えていこうと説得する義務が生じるように思われる。この問題は今後さらに考え続けなくてはならない。

前者の一例は、自己肯定的な自殺である。これまで良い人生を歩んできたし、生まれてきて本当によかったと心底思っている、いま死んだとしても後悔はない、だからこの気持ちが続いているうちに生を終わりにしたいと思って自殺するのである。ではもっと生きればいいではないかと言われるかもしれないが、今日は非常にすがすがしく死ねると思ったとか、末期がんにかかっていてこの機を逃したら今後はずっと耐えがたい痛みに苦しむことが予測されているなどの理由があるかもしれない。このようなケースにおいては、私が生を全うしようとすることと「身体の尊厳」は衝突しており、私が生を全うしようとするために、私は自分の「身体の尊厳」を破壊することになる。これは「人間のいのちの尊厳」に関するある種の極限状況である。「人間のいのちの尊厳」の考え方からすれば、生を全うするためにはどうしても「身体の尊厳」を破壊することが必要だというのであれば、「身体の尊厳」の破壊は肯定されなくてはならないという結論になるように思われる。しかし生を全うするために、ほんとうに「身体の尊厳」の破壊が必要なのかという点については、何度も繰り返し確認をする必要がある、ということになるだろう。いずれにせよ、生を全うするために「人間のいのちの尊厳」の破壊が肯定されるケースはあり得るということである。しかしそれが肯定されるためには、破壊の必然性について、きびしい吟味を経なくてはならないということである。

自殺に類した行為として、自傷行為や、みずからの意志による身体切断などがある。これらについても、基本的な考え方は自殺の場合と同じになる。

自分の身体からの臓器摘出についても、このような考え方をするべきである。まず生体からの臓器摘出、すなわち自分の家族に臓器やその一部を提供するために、自分の意志でもって自分の健康な身体から臓器やその一部を摘出することについて考えてみる。この場合、病気に苦しむ家族を助けなければ自分の生を全うすることができないという強い意志によって、自分の健康な身体から臓器やその一部を摘出し、自分の「身体の尊厳」を破壊するわけである。これについても、臓器やその一部を摘出して移植することが、ほんとうに自分の生を全うすることにとって必要不可欠なのかについてのきびしい吟味が必要とされる。その吟味をクリアーした場合にのみ、「身体の尊厳」の破壊は肯定されることになる。

次いで、自分が脳死になったときにその身体から臓器摘出をすることについてはどうだろうか。臓器提供の事前の意思表示があった場合、たとえ自分が脳死になったとしても、その意思表示が脳死の時点での自分の意思表示であると解釈することによって、臓器摘出を肯定するということが考えられる。この場合も、生体からの移植と同じように、脳死になった身体から臓器を摘出して移植することが、ほんとうに自分の生を全うすることにとって必要不可欠なのかについてのきびしい吟味が必要とされる。脳死移植の場合、日本では親族優先提供の選択肢が認められるようになったが、もし親族に該当者がいない場合、見知らぬ人々に向けて移植されるわけである。まったく見知らぬ第三者に臓器を移植することが、ほんとうに自分の生を全うすることにとって必要不可欠なのかを吟味しなければならないのである。この吟味をクリアーした場合にのみ、「身体の尊厳」の破壊は肯定されることになる。

脳死の場合は、さらに難しい問題が存在している。ある人間が、脳死になったら臓器提供することが生を全うするために必要不可欠だと言っていたとする。しかし、その人間が脳死になってしまったら、その人間が内的意識の次元で生を全うする可能性はなくなったわけである。だとすれば、いったん脳死になってしまったら、その脳死の身体から臓器を摘出しようがしまいが、その人間が生を全うすることに対して、いまさら何の影響も与えられないことになる。とすると、生を全うするために臓器移植が必要だという理屈は成立しないことになると思われるのである。以前に述べたように、自己意識のない身体については、現に持って生まれた身体の全体性を保持したまま生と死のプロセスを歩むことができることが、生を全うすることであった。とすれば、たとえ事前の臓器提供の意志があったとしても、いったん脳死になってしまった時点でその意志は破棄され、残された脳死の身体はその全体性を保持したままそっとしておくことが「身体の尊厳」を守ることになる、という結論になるようにも思われる。ただし私たちの社会では、ちょうど遺言のように、人間の意志は本人が自己意識を失ったとしても効力を発揮し続けるという擬制によって動かされているという事実があるので、事はそれほど単純ではない。この問題についても、今後の課題として考察を続ける必要がある。いずれにせよ、たとえ事前の意思表示があったとしても、臓器摘出がほんとうにその人間の生を全うするために必要不可欠であるのかどうかというきびしい吟味が必要であるという点は、これまでの生命倫理学において主張されることがなかったので、とくに注意を喚起しておきたい。

では人工妊娠中絶はどうであろうか。日本において人工妊娠中絶の適用とされているのは、母体外で生存する可能性がない時期の胎児である。その時期の胎児は、胎盤を通して母親の身体と一体になっており、切り離されると生きていけない。しかし同時に、中期以降の胎児においては神経系のはたらきも観察され、手足の自発動もある。人工妊娠中絶はこのような胎児の身体を破壊するのであるから、他人の「身体の尊厳」の破壊であるかのように見える。しかしながら、体内の胎児の身体が、他人の身体であるかどうかは明確ではない。胎児は決定的に母胎に接続されているのだから、胎児の身体は母親の身体の外部にあるとは言えないかもしれない。だとすれば、人工妊娠中絶とは、ちょうど生体からの臓器摘出と同じような行為かもしれず、母親が自分の生を全うするために必要不可欠であるならば、人工妊娠中絶は母親自身の「身体の尊厳」の破壊として肯定される可能性がある。しかしながら、たとえこの時期の胎児であっても、それは成長しつつある存在であり、成長を続ければひとりの人間になるのであり、神経系のはたらきもあるわけで肝臓などの臓器とはまったく異なる。

これらのことを考慮すれば、人工妊娠中絶については、それが誰の「身体の尊厳」の破壊であるのか根本的にあいまいである。そして母親が自分の生を全うするために「身体の尊厳」を破壊することが肯定できるかどうかについてもまた、根本的にあいまいである。したがって、人工妊娠中絶のケースにおいては、生を全うすることと「身体の尊厳」が衝突することは確かだとしても、それがどのような意味での衝突なのか答えが出ないということ、そして胎児の破壊を肯定できるかどうかについても答えが出ないということ、この二つの結論に私たちは耐えなければならない。私たちは人工妊娠中絶をめぐる尊厳の問題に答えが出ないことに、耐えていかなくてはならないのである。

以上、自殺、臓器摘出、中絶について考察した。これらは「人間のいのちの尊厳」という視座からの考察である。現実社会においてこれらの問題を考えていくときには、尊厳の視座に加えて、さらにいくつもの視座から総合的な考察を加えなければならない。そのような総合的な考察に対して、ここで試みた尊厳による考察は一定の貢献をなし得るであろう。また、誤解を避けるために再確認しておくが、ここで起きているのは尊厳と尊厳の衝突ではない。ここで起きているのは、生を全うすることと尊厳の衝突なのである。尊厳と尊厳はけっして対立しない。

 

7−2 人間・人類が永遠に生きようとすること

バイオテクノロジーの発展にともなって、人間の不老不死をめざすべきではないかという意見がトランスヒューマニストたちから出されている。これをテクノロジーによる「老化遅延age retardation」「生延長life extension」と呼ぶ。不老不死は人類古来よりの夢であったのだから、それを追求することを妨害してはならないとする意見がある一方で、人間は不老不死を達成することによって社会的基盤や生きる意味を失い、幸福にはなれないとする意見が出されるに至っている [31]

また、地球環境危機が深刻化していることを受けて、人類のサバイバルが必要だという考え方が出されてきた。それはその後、持続可能性・サステイナビリティという概念となって展開し、人類が将来世代を持続的に産出し、将来世代に生きやすい地球環境を保障できるように現在のライフスタイルや社会システムを調節しなくてはならないとする考え方を生み出した。しかしこれに対して、人類が地球上に存在すること自体が人類にとって不幸なことだから、人類はなるべく早く消滅したほうがいいという反論も出されている [32]

人間の「生延長」と人類の「持続可能性」の追求の背後には、人間が永遠に生きようとすることをどう考えればいいのか、人類が永遠に生き延びることをどう考えればいいのかという問いが隠されている。「人間のいのちの尊厳」の視点からすれば、これらの問いはどのようなものとして見えてくるだろうか。

まず、人間が永遠に生きようとすることであるが、これについては批判者たちが指摘する社会レベルでの問題、たとえば人口増加や格差固定などの問題があることは明白である。だがもし仮に、社会レベルでの問題が解決されたという前提で、人間個人の問題として考えたときにどうなるであろうか。

この場合、「人間のいのちの尊厳」のうち、世代間における「生命のつながりの尊厳」が破壊される危険性がある。すなわち、世代間における「生命のつながりの尊厳」には、現世代が自分の席を次世代へと譲り渡し、自分の存在を肯定的に終わらせること、そして各世代の人間たちが順繰りに生を開花させていくことという尊厳が含まれていた。人間が永遠に生きようとすることは、この意味での「人間のいのちの尊厳」を破壊することになる。もちろん、永遠に生きたいとはいってもいずれはどこかで死ぬのだから、そのときに次世代に席を譲り渡せばいいという反論はあり得るだろう。しかしながら、永遠の生を望む人間というのは、不本意にも死ぬそのときまで、次世代ではなく自分自身が生き続けていたいと心底願っているのだから、その意志を貫徹させようとするその姿勢において、「人間のいのちの尊厳」に反抗しているとみなされるのである。生延長は世代交代の原理に背くものであるという批判はすでに出されている [33] 。私たちは「人間のいのちの尊厳」の視点から、その批判をサポートすることができる。

次に人類が永遠に生きようとすることであるが、これについてもまた「人間のいのちの尊厳」の視点から議論すべきことが含まれている。大自然における「生命のつながりの尊厳」からは、人類はある程度の繁栄の後、みずから進んでその支配的地位を降り、他の生物種に支配的地位を譲らなければならないということが導かれるのであった。この意味での尊厳は、人類が現在のような支配的地位を保ったまま永遠に生きようとすることを否定することになる。地球上の大自然をテクノロジーで制御し、他の生物種を食料や資源として奴隷化したままの状態で永遠に生きようとすることを否定することになる。

だとすれば人類はどうすればいいのか。残された道は、生命圏における支配的地位を他の生物種に譲り渡したのちに、局所的で従属的な単なるひとつの生物種として細々と地球上で生きながらえることである。人類の繁栄と支配をある期間味わったあとは、他の生物種にその繁栄と支配を譲り渡して、様々な生物種が順繰りに開花していくようにするのである。そうすることによって、大自然における「生命のつながりの尊厳」を保持することができると同時に、視野の届く近未来において同胞が滅亡せずに存在し続けていてくれると確信できるという意味での世代間における「生命のつながりの尊厳」をも保持することができる。

このような考え方に対しては、「人類がみずから進んで支配的地位を降りなくても、いずれ外的なカタストロフィや人類の自滅によって人類は崩壊するであろうから、そのときにおのずから人類は支配的地位から転落することになる、だから人類があえてそのようなことを考えなくてもよい」という反論が寄せられる。この反論に対して私が思うのは、「たしかにそのような結末はあり得るかもしれないが、永遠に生き延びようとしてもがいているなかでそれを押しつぶされるという結末ではなく、みずから進んで支配的地位を降りようと選択してそこから降りるという結末のほうが、人類の繁栄と支配の終わらせ方として美しいのではないか」ということである。ここで美学を出してくることに対しては当然異論の余地があるだろう。

大自然における「生命のつながりの尊厳」には、地球上で生物種が順繰りに開花するようになっていることが含まれている。現在の人類と動物の関係を見てみると、人類は動物を家畜化し、食料や資源として殺戮して利用している。実験動物としても使っているし、また動物たちの生息地を破壊して人間のために利用している。これらについては、動物の権利の視点からも再考されるべきことであると同時に、地球上で生物種が順繰りに開花するようになっているという意味での「生命のつながりの尊厳」をも破壊するものであると考えられる。しかしながら現状の人類社会において、畜産や動物実験が撤廃される可能性は非常に少ないように思われる。

人類が将来みずから進んで支配的地位を降りるという選択肢は、現在において動物たちを奴隷化して利用している人類が将来においてなすことのできる罪滅ぼしであると考えることはできないだろうか。長い時間軸上において、いまは動物たちを殺し食べ利用しているが、遠い将来においてはその地位を逆転させ、人類はみずから進んで生息範囲を縮小させ、動物たちの脅威にさらされながら細々と生きていくことを選択する。そこにこそ人類の尊厳があるのとは考えられないだろうか。もちろん遠い将来にそのような選択をすることによって現在の動物の奴隷化を正当化することはできないように思われる。将来私のことをいっぱい殴っていいから、いまお前をとことん殴らせろという理屈は通用しないであろう。同時代における共生が不可能なら、遠い将来における役割交代において共生しようという考え方はこの種の問題をはらむ。この問題もまた引き続き考察していかなければならない。

また、人間や人類が永遠に生きようとすることが、何かの尊厳に抵触しているのではないかという疑問は、古代より宗教の世界において多く投げかけられていたように思われる。たとえば、ユダヤ=キリスト教の伝統における根本的な直観として、「人間が神になろうとすることが悪である」というものがあった。人間が神になろうとするとは、たとえば人間が生命の樹の実を食べて、神にのみ許されているはずの永遠のいのちを得ようとすることである。

もちろん人間がみずからの限界を内破して、自分の可能性をどこまでも押し広げていこうとするのは、否定されてはならない人間の美点である。であるから、テクノロジーを発展させることによって、不老不死を目指そうとすることを禁止するのは行き過ぎのようにも思われる。だが、そういう方向に邁進していったとしても、人間はいつかはみずからの死に直面するのである。生延長を本気で目指していた人間にとって、それは非常に大きな苦しみとなって襲ってくるのではないだろうか。それを予感した人間は、今度は、自分が望んでいるような理想的な生の終わり方を求めようとするだろう。映画『ソイレントグリーン』にあったように、好きな音楽を聴き美しい映像を眺めながら眠るようにこの世を去りたいというわけである。そのような死の迎え方を私は否定しないが、それは必ずしも尊厳をもった死ではないように思えてならない。むしろ、いつまでも生き続けていたい、もし生き続けられないのなら自分の思うような形で死にたいというような、自分の望む方向への「生命のコントロール」の欲望を、最終的にみずから手放すことができたときに尊厳は与えられると思うからである。であるから、私は、みずからの死のコントロールによってもたらされる尊厳死という考え方を支持することができない。話はまったく逆だからである。

新約聖書において、死の間際のイエスは、次のように言って息を引き取る。「父よ、あなたの両手に、私の霊を委ねます」 [34] 。生を延長しようと努力することは仕方ないとしても、その最後のときに「私のすべてを委ねます」と何ものかに向かって言うことができるかどうか、そこにテクノロジー時代の尊厳がかかっているように私には思える [35]

 

7−3 すべてのいのちあるものの平等

何度も繰り返したように、「人間のいのちの尊厳」とは、いのちというあり方をした人間が生を全うすることができるために守られるべき尊いもののことであり、けっして破壊されてはならないようなかけがえのない大切なもののことである。ここでは、人間が生を全うしないことではなくて、生を全うすることのほうに関心が注がれている。では、人間が生を全うすることができなかったとき、それはどのように評価されるのだろうか。

結論から言うと、生を全うすることができなかった人間の生も、生を全うすることができた人間の生も、その価値の上下を比較することはできないのである。いのちというあり方をした人間の生と死は、一度きりであり、その価値は比較を絶していて、何ものとも比べることができない。このことは、「人生の尊厳」について考察したときにも述べた。全うされるような生のほうを、そうでない生よりも私は望む、ということはあってよい。しかしながら、その結果として私が生を全うすることができなかったとしても、それは成功でも失敗でもないし、全うされた生よりも価値が劣っているのではない。それは、私の現実の生と私の反事実的な生を比較してもそうであるし、私の現実の生と他人の現実の生を比較してもそうであるし、自己意識をもって生きられている生とそうでない生を比較してもそうなのである。

もしどうしても比較して結論を出さなくてはならないのだとすれば、私は次のように言うしかないだろう。いのちというあり方をした人間の生と死は、たとえそれがどのような生であったとしても、それらはすべて平等に尊いのである、と。幸福感に満たされて大往生した人間の生と死も、絶望のどん底に突き落とされて衰弱死した人間の生と死も、どちらも平等に尊いのである。「生まれてきて本当によかった」と心の底から思いながら生きられた生と死も、「生まれてこなければよかった」と後悔しながら自殺した人間の生と死も、どちらも平等に尊いのである。健康に育って立派に成人した人間の生と死も、幼くして心臓病で死んでしまった人間の生と死も、生後すぐに脳死になってそのまま死んでしまった人間の生と死も、いずれも平等に尊いのである。

石川啄木の『一握の砂』に「真白なる大根の根の肥ゆる頃うまれてやがて死にし児のあり」という歌がある。この歌集を作り始める頃に啄木にひとりの子どもが生まれ、そして歌集の校正刷を仕上げるときにその子は亡くなった。生まれてすぐに亡くなってしまったわが子を、啄木は、畑でまるまると肥えた大根の根と比べている。この世に生まれてきて死んでいった人間の子と、畑ですくすくと育った大根の根が、ともに同じ大自然を背景として描かれる。そして一方は死へと向かい、一方は豊作の結実へと向かう。生命が大自然に還っていく姿と、生命が大自然から養分を与えられてはちきれんばかりになっている姿が、同じ大自然を背景に描かれる。

私はこれまで、この歌はそういうことを歌ったのだと思っていた。しかし「人間のいのちの尊厳」について考えているうちに、この歌はさらに別のことをも歌っていることに私は気づいたのである。ここで歌われているのは、このようなことだ。生まれてすぐに死んでいったわが子がいる。それは私にとって耐えがたいくらいつらく悲しいことだ。しかし、このわが子の生と死は、すくすくと育って大人になった他の人間の生と死と比べてもまったく遜色なく尊いものであるはずだ。このわが子の生と死は、いまこうやってわが子を見おろしているこの私の生と死と比べても、まったく遜色なく尊いものであるはずだ。そして、畑でまるまると肥えている大根の根と比べても、まったく遜色なく尊いものであるはずだ。いのちのあり方をして生を生きるすべてのものは、たとえそれらがどんな内容の生と死であったとしても、すべて平等に尊いのだ。だから、わが子の死は耐えがたいくらいつらく悲しいけれども、わが子の生と死は他のすべての生と死が尊いと同じくらい尊いのだ。そしてもし他のすべての生と死においてそのうちひとつでも救済されているのだとすれば、わが子の生と死もまたそれと同じく平等に救済されているのだ。このようなことを歌った歌なのである。これは悲しみを歌った歌であると同時に、救済を歌った歌でもある。

ここでは、すべての人間の生と死は平等に尊いということが歌われているにとどまらず、それを超えて、いのちのあり方をしているものの生と死はすべて平等に尊いという救済の次元が歌われている。もちろん、人間は大根を食べるし、動物を殺して食べる。人間は、人間と動物と植物を平等に扱ってはいない。しかしそれでもなお、食べる人間も、むしり取られる植物も、殺される動物も、そして生まれてすぐに死んでいった人間も、そのすべての生と死が平等に尊いと言える次元があるのである。これはこの世での倫理の次元ではなく、宗教性の次元であろう。「人間のいのちの尊厳」は、その究極において宗教性の次元に至り、いのちというあり方をして生きるすべてのものの生と死の平等の尊さ、すなわち「人間のいのちの尊厳」を超えた、もはや「尊厳」とすら言えないような尊さへと到達するのである。

 

 

まだまだ検討しなければならないことがたくさんあるが、本論文はこのあたりで筆を置くことにする。この「人間のいのちの尊厳」の考察は、今後さらに深化させて、一冊の書物として刊行する予定である。読者の方々からのコメントやご批判をお待ちしている。

 

 

文献一覧

 

Benatar, David (2006) Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence, Oxford University Press.

Frankl, Viktor (1947) …trotzdem Ja zum Leben sagen: Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager, Verlag für Jugend und Volk. VE・フランクル『夜と霧』霜山徳爾訳、みすず書房、1956年。)

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Kant, Immanuel (1956) Grundlegung zur Metaphysik der Sitten. (Hrsg. von Wilhelm Weischedel), Suhrkamp. (宇都宮芳明訳『道徳形而上学の基礎づけ』以文社、1998年。)

Macklin, Ruth (2003) Dignity is a Useless Concept, BMJ, 327:1419.

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金子晴勇(2002)『ヨーロッパの人間像』知泉書館。

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品川哲彦(2010)「ふくらみのある尊厳概念のためのノート Persönlichkeit概念について」富山大学大学院医学薬学研究部『生命倫理研究資料集IV』富山大学、1-12頁。

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保呂篤彦(2003)「人間の尊厳をめぐって バイオエシックスとカント」『岐阜聖徳学園大学紀要』421-15頁。

森岡正博編著(1994)『「ささえあい」の人間学』法藏館。

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森岡正博(2003)『無痛文明論』トランスビュー。

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森岡正博(2013a)「「他我はこの私である」ということの意味」『現代生命哲学研究』第2号、1-22頁。

森岡正博 2013b)「まるごと成長しまるごと死んでいく自然の権利:脳死の子どもから見えてくる「生命の哲学」」粟屋剛・金森修(編)『生命倫理のフロンティア』丸善、97-114頁。

森岡正博(2013c)「「生まれてくること」は望ましいのか:デイヴィッド・ベネターの『生まれてこなければよかった』について」The Review of Life Studies Vol.3 (March):1-9



[1] Macklin (2003).

[2] President’s Council on Bioethics (2008).

[3] キケロー1961参照。

[4] 金子晴勇(2002)、68頁。

[5] 金子(2002)、123頁以降。なお、小松美彦2012は、現代の生命倫理学の視点からヨーロッパの人間の尊厳の概念を再検討した著作であり、本論文と問題意識を共有するものである。

[6] Kant(1956)A:428.(アカデミー版のページ数を示す)。

[7] Kant(1956) A:429. 翻訳は宇都宮芳明に従った。

[8] 高田純2009135-136頁。保呂篤彦もそのような理解をしている(保呂(20034頁)。

[9] Kant(1956) A:434. 強調原著。

[10] Kant(1956) A:435.

[11] カントは『人倫の形而上学』において、尊厳の担い手である人間性のことを、内的自由をそなえたhomo noumenon(本体人)としている(A:418)。また尊厳は「絶対的な内的価値ein absoluter innerer Wert」(Kant(1954) A:435)「失いえぬ尊厳(内的尊厳)eine unverlierbare Würde (dignitas interna)」(PB:287)とも言われる。

[12] Kant(1956) A:436.

[13] Kant(1956) A:440.

[14] カントは『人倫の形而上学』において、「尊厳」についてさらに考察を加えている。重要な箇所を引用しておく。「ところが、人間の、単に道徳的存在者(その動物性には目を向けずに)としての自己自身に対する義務に関して、この義務は、人間の意志の格率がかれの人格における人間性の尊厳と一致するという、形式的なところに存している。それゆえ、道徳的存在者であるという卓越性Vorzug、すなわち原理に従って行為するという卓越性、つまり内的自由なるものを、人間が自己自身から奪って、そのことにより自己を、単なる傾向性に翻弄されるもの、つまりは物件にしてはならないという禁止のうちに、その義務は存しているのである」(Kant(1954) A:420 強調原著)。

[15] 高田2009もまた、「人間性の手段化」という言葉を真正面から受け止めると、それは「理解が困難」となると述べる。なぜなら、「手段化されるのはなんらかの具体的なものであろう。人間の普遍的本質という意味での人間性(とくに規範的意味での)の手段化は想定しにくい」からである(140頁)。

[16] 品川哲彦20101-5頁。

[17] 「生まれてきて本当によかった」のことを私は「誕生肯定」と呼んできた(森岡正博2011)。「生を全うする」とは何かについてはさらに哲学的に掘り下げなければならない。

[18] 安藤泰至2001もまた、「人生の尊厳」という概念を提唱している。安藤によれば、「人生の尊厳」とは「「自分自身にしか生きることができない固有の生」がもつ尊厳」のことである(18頁)。また安藤は「いのちの尊厳」を、「他のいのちに触れることによって、そうしたつながりの中で現われてくるもの」だとする(23頁)。そしてこのような「いのち」と「いのち」の出会いはどこか「向こう側」からやってくるのであり、このような視点が重要であるとする(24頁)。そして、「個々の人間によってしか生きることのできない、一回限りの生として、個を超えた「いのち」が生きられており、それが実現されている」ということへの気づきが、尊厳と結びつけられている(27頁)。安藤の考察は、本論文の視座と重なっており、重要な先行研究であると言える。

[19] この4点で人生の尊さが尽くされているということではない。他の種類の尊さも当然のごとくあり得るであろう。

[20] 「実感」という概念によって「人生の尊厳」を規定することは、カント的に考えれば人間の身体性や傾向性の次元によって尊厳を基礎づけることを意味するから、反カント的であるとみなされることになるだろう。しかしながら私は人生を生きるという文脈においては「実感」というものを非常に重要で根本的なものであると考えている。私の「人間のいのちの尊厳」論は、まずこの点においてカントと袂を分かつことになる。

[21] ただし、「他人」とは何かという哲学的問題が残る。これは巨大な問いであり、避けて通ることはできない。「他人の人生」とは何か、それは「私の人生」とどう違うのかという点などについては、他の論文で詳述する予定にしている。森岡正博2013a参照。

[22] 森岡2013b

[23] 生命倫理のその他のケース、たとえば尊厳死などについては森岡正博2013bにて論じた。

[24] いわゆる2008年の江東マンション神隠し殺人事件。

[25] 現場ではかならずしもそのようには扱われていないと医師たちが語ることがある。またプラスティネーションなどをどう考えればいいかという難問もある。

[26] 後者においても第三が考慮されるのであるが、この箇所の議論ではそれをひとまず除外して考えておく。

[27] このプロセスにおいて、「尊厳」は、ハイデガーの「存在」と接続することになるだろう。とくに、存在がそこへと隠れることによってそこから現われてくるところの一種の始原というものが、人間と身体と自然をつなぐ尊厳と接続する可能性があるように私には思 われる。

[28] 森岡正博編著1994参照。

[29] 森岡正博2001344頁。

[30] 森岡正博2003で論じた。

[31] 森岡正博2007

[32] Benatar(2006).

[33] 森岡2007参照。

[34] ルカ23:46。新約聖書翻訳委員会訳2004による。

[35] この思索は、ハイデガーやヨーナスと結びつくことになるのかもしれない。とくにハイデガーの技術論における放下の概念や、ヨーナスの生命哲学における生延長のテクノロジーの放棄に関する思索が強く参照されるべきであろう。