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伊東俊太郎編『講座文明と環境14・環境倫理と環境教育』朝倉書店 1996年3月 45−69頁
ディープエコロジーの環境哲学−その意義と限界
森岡正博
 

 「地球環境問題」とは、1972年にストックホルムで開かれた国連人間環境会議に端を発し、1987年に発表された「環境と開発に関する世界委員会」のレポート『Our Common Future』 を経て、1992年にリオデジャネイロで開かれた「環境と開発に関する国連会議」(地球サミット)において決定的に形成された議論枠組みである。その中核にある概念が「持続可能な発展」(sustainable development)である。持続可能な発展とは、「将来の世代の人々が彼ら自身のニーズを満たすための能力を損うことなしに、現在の人々のニーズを満たすような発展」(1)のことを指す。
 地球環境問題というフレームワークのもとでは、その問題の本質は、有限な地球システムの内部で人類がいかにして持続定常型の産業社会に移行できるかという問いへと還元される。そして、その目的を達成するために、先進諸国が開発途上国の意見をよく聞きながら、国際的な利害関係の調整によって、地球システムの管理と運営を行なってゆく。いいかえれば、現在の国家主権システムを前提としたまま、その枠内で、徹底して政治的・現実的な解決が目指されるのである。
 したがって、1972年の「人間環境宣言」や1992年の「環境と開発に関するリオ宣言」を読んでも、そこには現代の環境問題を生んだ現代科学技術文明に対する思想的反省や、環境問題を真摯に受け止めることのできる新たな思想・哲学の必要性、あるいは先進国の住民のライフスタイルを根本的に見直すことなどが、ほとんど説かれていない。というのも、少々極端に言えば、国際政治問題としての「地球環境問題」とは、現在の先進諸国が享受している生活レベル・体制思想・社会制度などに深い変更を加えないことを前提としたうえで、環境問題を解決しようという議論枠組みだからである。そして、「持続可能な発展」の概念が示すように、そのパースペクティヴに捉えられているのは「将来世代の人間」をも含めたうえでの「人類」とその「生息環境」であり、人間以外の生命体や自然それ自体の「内在的価値」(intrinsic value)は基本的には考慮されていない。
 これに対して、地球環境問題を生み出した現代文明に対する思想的な反省は、今日、「ディープエコロジー」という思想潮流となって先進諸国のエコロジストを中心に形成されつつある。その議論が、地球環境に関する国際政治の議論の場に登場することはきわめて少ない。しかし、ディープエコロジー的な発想は、環境NGO(非政府組織)にかかわる人々を中心に、かなり広い分布を見せている。そしてこのディープエコロジーは、独特の環境哲学と環境倫理学とを内包しているのである。
 ただ、ディープエコロジーの思想がアカデミックな討論の場で検討されることは比較的少なかった。たとえば、日本語で書かれた数少ない環境倫理学の研究書のひとつである加藤尚武の『環境倫理学のすすめ』(丸善、1991)においても、ディープエコロジーの環境倫理学は、「自然主義」の名のもとに、ほとんど検討されないまま一蹴されている。エコフェミニズムについては言及さえされていない。加藤は、分析哲学の流れをくむ「講壇派」環境倫理学を、環境倫理学の本道と考えているようである(2)。
 本章では、このディープエコロジーの環境哲学と環境倫理学の概略を検討し、その意義と限界を明確にしてゆきたい。

ディープエコロジーの概観

 ディープエコロジーとは、アメリカの伝統的な自然保護思想(エマーソン、ソロー、ミュア、レオポルドなど)を背景として、1960〜70年代のエコロジー運動の影響を強く受けて成立した哲学的思索パターンのことである。B・デュヴァルとG・セッションズの『ディープエコロジー』(1985)や、T・ベリーの『地球の夢』(1988)などによってその輪郭を知ることができる(3)。
 まず、彼らの主張の全体像を簡単にまとめておこう。
 ディープエコロジーの思想家たちは、現在の社会と文明のあり方を前提としたうえでの環境保護運動を否定する。現在の地球規模の環境問題は、ほかならぬ現在の形の社会システムと文明が生みだしたのであるから、それを根本的に解決するためには、現在の社会システムと文明それ自体を変革することがどうしても必要となる。そのためには、まず現代社会に住むわれわれひとりひとりが自らの「世界観」や「価値観」を改め、意識変革を行わなければならない。そして、いまのようなライフスタイルを改め、新しい生活スタイルを足下からつくり上げてゆく必要がある。思想は具体的な実践をともなわなければならない。一般に、ディープエコロジーの思想は、近代哲学批判、近代文明批判の様相を呈する。そして、近代文明によって抑圧されてきた先住民のライフスタイルに学び、女性的なものを再評価しようとする。
 また、ディープエコロジーはおおよそ次のような自然観を採用する。すなわち、現在の地球環境問題は、近代以降、人間が自然に対して誤った態度を取ってきたことに由来する。自然とは、近代人が考えてきたような「征服すべき対象」ではない。人間と自然とはそもそも一体である。自然のなかで、自然に支えられて生きる人間という、正しい世界観をわれわれが再発見することなしに、環境問題はけっして解決しない。そのためには、われわれ自身がまず変わる必要がある。われわれは見失ってきた「自然の声」、「地球の声」を聞くことのできる感受性をとりもどし、それらと呼び合うことのできるような人間へと、われわれ自身が変わってゆかねばならない。このような意識変革(自己実現)があってはじめて、真の自然保護が可能となる。この自然観は、人間中心主義ではなく、人間非中心主義(nonュanthropocentrism, biocentrism)である。自然に対するそのような態度を実戦するために、われわれは自分たちが住む足下の地域の自然にもっと真剣なまなざしを向け、その地域独自の自然に即したやさしいライフスタイルを模索してゆかねばならない(生活地域主義、生命地域主義bioregionalism)(4)。

ネスのディープエコロジー

 もちろん、このような考え方の原型は世界中どこでも見られるわけであるし、アメリカを例にとっても、ソロー、レオポルドなどの伝統的な自然保護思想のなかにすでに内在していたものである。ノルウェーの哲学者A・ネスは、1973年に発表した論文「シャロウエコロジーとディープエコロジー」において、これらの考え方を1970年代以降の世界的なエコロジー運動の文脈のなかで再定立し、近代批判として明確に位置付けた(5)。この論文でネスは、当時のエコロジー運動を「浅いもの」(shallow ecology movement)と「深いもの」(deep ecology movement)の2種類に分け、後者の重要性を説いた。
 ネスによれば、シャロウエコロジーは、「第一に汚染と資源枯渇に反対する」ようなエコロジーのことであり、「その主要目標は、先進諸国に住む人々の健康と繁栄」である。この流れは、本論文冒頭で述べたような、1990年代の政治的な「地球環境問題」の枠組みへと受け継がれているとみることができる。
 これに対して、彼は「ディープエコロジー」を、以下の七つの点によって特徴付けている。以下、それらを順番に検討してゆきたい。
 (1)ディープエコロジーは、生命体や人間を、個々ばらばらな存在として捉えるのではなく、「相互連関的・全フィールド」(the relational, totalュfield)に織り込まれた結び目として捉える。原文は舌足らずで理解するのが難しいが、いわば原子論的世界観から関係論的世界観への転換が必要だということを、ネスは述べたかったのだと推測される。
 (2)ディープエコロジーは、原則として「生命圏平等主義」(biospherical egalitarianism)をとる。エコロジカル・フィールドワーカーにとっては、「生を送り開花する平等の権利」(the equal right to live and blossom)は自明の理である。われわれは、他の生命体と親しむことによって深い喜びと満足を享受する。このような人間の本性に、この原則は根ざしている。ただし、この平等主義はあくまでも「原則としては」であって、人間が生きてゆくうえで生じる他の生命体の若干の殺戮、開発、抑圧は必然である、とネスは述べている。このディープエコロジーの平等主義は、その後さまざまな非難を浴びることになる。一見して明らかなとおり、人間が他の生物を殺さければ生きてゆけない現実と、生命圏平等主義とは、どうしても矛盾するからである(6)。ディープエコロジーが厳格な平等主義にこだわるかぎり、それはディープエコロジーのアキレス腱となって残存するであろう。しかしその平等主義を(ネスのように)ゆるめるとするならば、逆にディープエコロジー的発想のインパクトを弱めることにつながりかねない。このジレンマをどのように哲学的・倫理学的に深め、乗り超えるかがディープエコロジーの将来の可能性を決めると思われる。この問題は、環境倫理学の「人間中心主義/人間非中心主義」論争と密接な関連性をもっている(7)。
 (3)ディープエコロジーは「多様性と共生の原理」を採用する。多様性は、生存の潜在的可能性と、新たな生命様式が出現するチャンスと、生命の様式の豊かさを増大させる。われわれは、こみいった生命の関係性のなかで、殺戮、開発、抑圧を目指すのではなく、互いに共存し協力する方向を目指すべきである。ディープエコロジーは、人間の生活様式、文化、職業、経済の多様性を支持する。
 (4)ディープエコロジーは「反階級の姿勢」をとる。目指すものは「無階級の多様性」である。今日の南北問題にもこの姿勢を適用する。
 (5)ディープエコロジーは「汚染と資源枯渇に対する戦い」を進める。
 (6)ディープエコロジーは「混乱ではなく、複雑性」を評価する。生命体や自然のなかにみられる、驚くべき高いレベルの複雑性を評価し、それを社会システムのなかにも実現すること。
 (7)ディープエコロジーは「地方の自律と脱中心化」を支持する。それぞれの地域が自律して、環境問題に立ち向かうことが重要である。この指摘は、その後、「生活地域主義」というディープエコロジーの行動指針となって継承されてゆく。
 ネスは以上のようにディープエコロジーの特徴を規定したあと、次のように述べる。ディープエコロジー運動は、「規範的」である。それはエコロジカルというよりも、「エコフィロソフィカル」である。つまり、ディープエコロジーとは実証科学の一分野なのではなく、われわれの世界観や価値観を扱い、われわれの行為に指針を与えるような実践的な環境哲学・環境倫理学だ、というのである。彼は、彼の「エコロジカルな調和と均衡の哲学」のことを「エコソフィー」(ecosophy)とよんでいる。
 ネスの本論文によって、われわれが今日ディープエコロジーという名でよんでいる思想の基本的な枠組みが確定されたとみてよい。とりわけ、彼がディープエコロジーを、市民活動や政治活動までをも含んだ「英知」(wisdom)の学としての「哲学」として構想したことは、特記に値する。
 ネスは1989年に、D・ローゼンバーグと共著で、ディープエコロジーのその後の発展を語っている(8)。彼はそこで、「エコロジー」、「エコ・フィロソフィー」、「エコソフィー」の三つの概念を区別する。「エコロジー」とは、自然科学としての生態学のことである。「エコ・フィロソフィー」とは、エコロジーと哲学にまたがる問題の研究であり、大学でなされるような記述的な研究のことである。これらに対して、「エコソフィー」とは、私自身の世界観・価値観に直接かかわるものであり、われわれが巻き込まれている実際的な状況に立ち向かうときの哲学のことである。エコソフィーは、単なる記述的な研究ではなく、自分自身の行為に直結する。そして、それぞれの人ごとに、それぞれのエコソフィーがあるのだとネスはいう。ネスの定義によれば、エコソフィーとは「生態圏のなかの生命の諸状況によって触発された、哲学的な世界観あるいはシステム」のことである。ネスが、エコソフィーを、個人の実践に直接結びつく知的営みとして考えている点は重要である。しかしながら、エコソフィーをスピノザ的に体系化しようとするあまり、ネスは本書の後半で、事実命題と規範命題のヒエラルキカルな羅列へと突き進んでおり、通常のディープエコロジーのイメージからは遠く離れた場所にまで行ってしまった感はぬぐえない。

ディープエコロジーの展開

 ネスの提出したこの枠組みのなかに、その後さまざまな思想潮流が流れ込み、今日のディープエコロジーの姿が現われてくる。たとえば、B・デュヴァルとG・セッションズの『ディープエコロジー』(1985)は、ネスの枠組みに忠実に従い、その後のディープエコロジー思想を総括したものである。
 彼らはまずディープエコロジーを、シャロウなエコロジーと区別し、「包括的な宗教的・哲学的世界観」を構築する試みとして規定する。そしてディープエコロジーの基礎は、われわれが自然に向き合ったときの直観と経験であると言う。
 彼らの次の文章は、ディープエコロジーの雰囲気をよく伝えるものである。<個人、共同体、全自然のあいだに、新たなバランスと調和を作り上げてゆくための道としていま登場しはじめているのが、ディープエコロジーである。それは今日我々が抱いているもっとも深い渇望を満たす可能性を秘めている。その渇望とは、すなわち我々のなかにあるもっとも基本的な直観に対する確信と信頼であり、直接的な行動をとる勇気であり、甘美なハーモニーにあわせてダンスをするときのうきうきする信頼感である。そのハーモニーは、流れる水流や、天候や季節の移り変わりや、地球上の全生命プロセスに発見されるリズム、あるいは我々の身体に内在するリズムに対して、我々が自発的で明るい親密な交わりを行なうときに、見いだされるのである。>(9)
 何千年もの間、西洋文化は「支配」の観念にとりつかれてきた。自然の支配、男性による女性の支配、富めるものによる貧しいものの支配、西洋による非西洋文化の支配。ディープエコロジーは、これらの考え方を誤った、危険なものと考える。ディープエコロジーは、われわれ自身のことを、有機的な全体の一部として考える。物質科学による視野の狭いリアリティの把握を超えるとき、リアリティの精神的側面と物質的側面は統合されるのである。ディープエコロジカルな意識の探求は、客観的な意識の探求であり、それはアクティヴでディープな真理探求と、ディープな暝想のプロセスと、ディープな生活様式によって達成される。そうすることによって、哲学的・宗教的レベルの知恵を獲得することができる。それは、近代科学の方法によっては決して確証できないものである(10)。
 つまり、まず自己の探求や暝想などによって、誤った近代的世界観を捨て去り、その代わりに、有機的な生命世界のなかに織り込まれて存立している真の自己のあり方に目覚め、そして生活をエコロジカルなものに改め、調和のとれた世界を実現してゆくための直接行動に立ち上がろう、というのがディープエコロジーの考え方である。彼らの言説のなかに、自己と世界との境界をなくすとか、暝想によって意識変容をはかるなど言葉が出てくるのは、明らかにヨガや禅などを重視するアメリカ・ニューエイジ運動からの影響である。1970年代から80年代前半に盛り上がった、アメリカ・ニューエイジ運動のひとつの結実が、このディープエコロジーであると見ることもできる(11)。
 さて、彼らによれば、ディープエコロジーの二つの究極目標は「自己実現」と「生命中心主義的平等」(biocentric equality)である。この2点は、ともにネスがディープエコロジーの目標として採用したものであり、彼らがネスから受けている影響をうかがうことができる。自己実現とは、近代的な自我の確立を意味するのではない。それは、人間と人間以外の世界を含んだ有機的全体であるところの「大きな自己」のなかで、それとの関連性において(小さな私の)自己を成熟させてゆくことである。ここには、ヒンドゥー思想、仏教思想の顕著な影響がみられる。生命中心主義的平等とは、すべての生命体がおのおの自己実現をする平等の権利をもつことを意味している。すべてが繋がり合った生命圏のなかで、他の生命体を傷つけることは、ひいてはわれわれ自身を傷つけることになる(12)。しかし彼らは、人間の食欲の犠牲になる動物や植物の自己実現と、人間の自己実現とをどうやって調和させるのかという難問に、明確な答えを出していない。彼らは、ネスと同様の難問を抱え込んでしまっている。
  彼らが提案しているディープエコロジーの基本原理を紹介しておく。

 (1)人間と、地球上の人間以外の生命体の幸福と繁栄は、それ自体価値あるものである。
 (2)生命体の豊かさと多様性には、大きな価値がある。
 (3)人間は、自分自身の「いのちにかかわる」(vital)欲求を満たすときを除いては、生命体の豊かさと多様性を減少させるどんな権利をも持っていない。
 (4)人類の人口の大規模な減少がなければ、人間の生と文化の繁栄はない。人間以外の生命体の繁栄も、人類の人口の減少が条件となる。
 (5)現在の人間の自然界への介入は度を超えている。
 (6)従って、政策が変更されなければならない。
 (7)「生活水準」から「生の質」へと考え方を変えなければならない。
 (8)これに共鳴する人は、行動を起こす義務がある(13)。

 これらの原理のうち、(3)と(4)以外はさほどたいした問題を含んではいない。ただし、(3)の極端な生命中心主義の主張と、(4)の人類の人口を減少させる主張は、こののち多方面からきびしく批判されることになる。
 では、ディープエコロジーに基づいた行動とは、いったい何であろうか。彼らは次のように述べる。「最初になすべきことは、政府機関や立法家や土地所有者や経営者たちに、自然プロセスに強制的に介入するのではなく、自然プロセスに逆らわないやり方を考えるように、うながすことである。次に、現実の場面では、少数民族の伝統にのっとって、地域共同体とくに生活地域(bioregion)のなかで働くことをえらんでゆく。」(14)
 まず前者について言えば、正しい自然の管理経営とは、自然をむりやり改造してゆくことではなく、老子の哲学にあるように、人間の活動を「自然の大きなサイクル」に合わせ、それに寄り添ってゆくようなものでなければならない。アメリカの自然保護運動の父J・ミューアも、産業化による開発に反対して、自然林の「原生自然の流れ」(the flow of wild nature)こそ守られるべきであると考えていた、と彼らは解釈する。つまり、自然保護とは、「流れるエネルギーの生態系」(the ecosystem of flowing energy)を守ることである(15)。
 後者の生活地域主義とは、自分たちが住んでいる地域の生態系の特徴を尊重し、それに合わせたような生活様式を選びとることである。たとえば、地域の生態系に生えている植物やそこに住んでいる動物などをそのまま住まわせておき、何かの介入をするときには、その地域の自然プロセスの統合性をつねに尊重するようにする。そして、広い地域をではなく、自分たちが住んでいるもっとローカルな場所、たとえば谷などに目を向け、そこの季節の移り変わりや、天候や、生き物の暮らしなどにいつも注意を向けていることが求められる(16)。
 しかし、ひとりひとりの生活様式の変革だけで、はたして地球環境危機が解決できるのだろうか。ディープエコロジーが与える解答は「極度に抽象的であり、地球レベルでの解決にとっては非現実的である」というこの種の反論に答えて、彼らは次のように述べている。「もし充分な数の市民が彼ら自身のエコロジー意識を向上させ、政治プロセスに介入して経営者や政府機関にディープエコロジーの原理を伝えることができれば、長期的なかしこい管理政策に向けたいくつかの根本的な変化が達成され得るであろう」(17)。つまり、管理者や政治家の頭の中身を徐々に変えてゆくことで、地球規模の環境問題の解決にも影響を与えてゆくことができると考えるのである。彼らのディープエコロジーは、自閉的なコミュニティに閉じこもることを奨励しているわけではない。
 さて、1980年代にディープエコロジーはいくつかの思想潮流を吸収する。たとえば、地球生命圏がホメオスタシスを保った有機体であるというJ・E・ラヴロックの「ガイア仮説」が登場し、「生きているかけがえのない地球」というジャーナリスティックなイメージを、ディープエコロジーの言説に導入した(18)。また、ネイティヴ・アメリカンなどの先住民研究の成果も、ディープエコロジーに大きな影響を与えた。自然のなかのさまざまな生命を敬い、そのリズムに調和して謙虚に生活するというアニミスティックな生活様式と知恵は、ディープエコロジストの理想境となった(19)。
 そのなかでも、最も先鋭的な近代文明批判を行ない、ディープエコロジーに衝撃を与えたのが、エコフェミニズムである。
 エコフェミニズムとは、女性学、女性運動の立場から、環境問題を根本的に見直そうという思想潮流である。「エコフェミニズム」という言葉は、1974年にF・ドボンヌによって提唱された。そして、1980年代に、Y・キングらによって大きな運動へと育てられていった(20)。日本にもI・イリッチらの著作を経由して導入がはかられたが、その母性主義的・反近代主義側面が一部マルクス主義フェミニズムなどから攻撃され、現在に至るまで日本のフェミニズム世界ではまともな議論の対象にすらならなかった(21)。
 エコフェミニズムによると、現在の地球規模の環境破壊をもたらした元凶は、西欧の自然科学技術と産業化であり、その背後には自然を支配し搾取することを肯定した近代の哲学と世界観がある。ところで、そのような哲学を作り上げたのはほかならぬ「男性」である。男性はそのイデオロギーを自然環境に暴力的に適用して自然支配を遂行し、同時にそのイデオロギーを「女性」にも暴力的に適用して女性支配と女性の抑圧を行なってきた。こうやって考えると、環境破壊問題と女性搾取問題は、同根の問題であることが分かる。環境問題を真に解決するためには、なによりもまず女性の解放こそが求められなければならない(22)。
 そして、多くのエコフェミニストは、女性解放と環境問題の解決のためには、女性たちが自分たちの文化として継承してきた「ケアと育みの倫理」(an ethics of care and nurture)を、環境倫理として確立する必要があると考える。それは、「権利」、「規則」、「功利」に基づいた伝統的な倫理ではなく、「ケア」、「愛」、「信頼」に基づいたフェミニスト倫理である。それは「パートナーシップ倫理」でもある。C・マーチャントはいう。「自然をパートナーとして位置付けることによって、自然と個人的で親密な(しかし必ずしも神秘的ではない)関係をとりもつ可能性がでてくる。そして、性的・人種的・文化的に異なった人々や人間以外のものに対して、共感の感情をもてる可能性がでてくる。(23)」このような考え方は、とくに女性性を重視する「文化的エコフェミニズム」に顕著である。エコフェミニズムには、このほかにもさまざまな潮流があって、そのなかには必ずしもこの種の倫理を採用しないものもあるので、注意を要する。
 このようなエコフェミニズムの影響を受けて「女性性の重視」を主張するディープエコロジストも多く現われた。つまり、近代文明が「男性原理」によって導かれてきたという点を認め、その代わりに「女性原理」を採用することによって、われわれの価値観を変革しようというわけである。しかし彼らに対しては、エコフェミニズム側からの批判がなされている(後述)。
 以上の諸潮流を総合したディープエコロジー思想の最近の完成品として、T・ベリーの『地球の夢』(1988)がある(24)。ベリーは、キリスト教神秘主義の立場に立ちながらも、エコフェミニズム、ガイア仮説、ネイティヴアメリカン研究、生活地域主義などの成果を肯定的に吸収し、自然世界のなかに偏在する「心的エネルギー」(psychic energy)と交歓できるような、霊的次元での成長の必要性を力説している。ベリーの思想は、詳しい分類をすれば「神秘主義的エコロジー」(spiritual ecology)の分野に入るものであるが、広い意味ではディープエコロジーの成果だと考えても間違いではない。
 彼はいう。近代西洋文明以前は、人類は地球との親密な関係を維持していた。自然界すべてには「神秘的エネルギー」があまねく満ちており、宇宙は多様な形態をとった1個のエネルギー事象であるが、古代人はそれに気づくことで創造神話を生みだし、その神話が多くの文化を生みだした。そして、諸文化のなかにみられる儀礼は、コミュニティによって必要とされるエネルギーを維持し、チャネリングするための主要な道具であった。
 ところが、近代になって状況が変化する。それまで人類が維持してきた世界把握、たとえば「自然の季節的リズム」や「心的エネルギー」などへのまなざしが失われ、そのかわりに究極的な目的実現のための一直線的な時間観念が出現した。そして産業社会が到来した。
 しかし環境危機に直面したいま、求められているのは、「エコロジカル・プロセスの神秘的側面をもっと適切な形で表現することである」。エコロジーには、神秘的な基盤がなくてはならない。この神秘的な側面は、ユンクが言うような、グレート・マザー、マンダラ、宇宙の樹などの「元型」のなかに、最もよく表現されている(25)。
 ベリーは、このような精神的次元での転回をなしとげるためには、新しい物語の創造が必要だという。そしてそれは、宗教的啓示に裏づけられていなければならない。「我々は、伝統的な宗教なしではやっていけない。しかし、伝統的な宗教は、いまなすべきことを行なうことができない。新しいタイプの宗教的方向付けが必要なのだ。私の考えでは、これは宇宙についての新たな物語から出てくるにちがいない。そしてこの物語は、新たな啓示的な経験を用意する。その経験は、<進化的過程はその始めから物理的プロセスであると同時に、霊的なプロセスでもある>ということを我々が理解するやいなや、把握されうるのである。(26)」
 ベリーが例にあげるのは、ネイティヴ・アメリカンの生活様式である。彼らは、素朴な神秘主義をまだ保持しており、母なる大地との交歓やシャーマニズムの儀礼などによって、自然世界や無意識の元型世界との霊的交流を行なっている。われわれに必要なのは、彼らから多くを学んで、エコロジー時代の霊性の大枠を創造することである(27)。
 それは、理性によって捉えられるものではなく、直観的、非理性的なプロセスによってのみ捉えられる。「我々は、宇宙の究極的な力によってささえられている。それらの力は、我々自身のなかにある自発性を通して現前してくる。我々は、それらの自発性に敏感になるだけでよいのだ。素朴な単純さによってではなく、批判的な理解力によって。(28)」それは、哲学者、宗教者、予言者、大学教授の役割ではなく、シャーマンの役割である。こうして、ベリーは、シャーマン的直観をもち上げることになる。
 このように、自然界との霊的な交流を取り戻すことによってこそ、環境問題は真の解決へと向かうのだというベリーのエコロジー思想は、ディープエコロジーのなかでも最右翼の、まさに神秘主義的としかいいようのない詩的世界を作り上げている。
 ディープエコロジーの最近の成果としては、W・フォックスの「トランスパーソナル・エコロジー」の試みがある。
 フォックスは、著書『トランスパーソナル・エコロジー』(1990)において、ディープエコロジーをトランスパーソナル心理学と結合させようとしている。トランスパーソナル心理学とは、A・マズロー、S・グロフ、K・ウィルバーなどによって提唱されてきた心理学であり、人間の意識の深層にまで降りてゆくと、そこでは人間たちのこころはお互いにつながっており、さらには人間以外の生命体ともつながっていると主張する。
 フォックスは、もとディープエコロジストであったが、それをさらに深めてゆくことで、「ディープエコロジー」を脱したと言う。すなわち、ディープエコロジーは自己変革と真の「自己」の発見を強調するが、その真の自己の発見をまじめに追求してゆくと、それは「自我的で自伝的で個人的な自己」を超えざるを得なくなる。その自己の経験は、「個人的なもの」、「存在論的なもの」、「宇宙論的なもの」へと3段階に深まってゆく。宇宙論的な自己経験とは、「我々とすべての存在者は、自己展開してゆく唯一のリアリティのいろいろな側面にすぎない」という深い気付きに基づくものである。そこまで深まった体験をもとにしたエコロジーは、トランスパーソナル・エコロジーとよばれるべきである。自我のレベルを超えてそこまで深まることで、エコロジーは真に人間中心主義を超えることができるのである(29)。
 フォックスは同書で、エコロジーの心理学化と、トランスパーソナル心理学のエコロジー化を同時に主張している。エコロジーと心理学との結合という彼の試みの意図は、高く評価されるべきであると思う。この方向の可能性は将来にゆだねられている。

ディープエコロジー批判の概要

 ディープエコロジーの思想は、今日の環境問題を哲学的に掘り下げようとする先鋭的な試みのひとつである。ディープエコロジーは今後ますます大きなインパクトを現代の哲学、思想に与えてゆくと考えられる。
 しかし、ディープエコロジーの枠組み自体に、いくつかの大きな限界があることも事実である。ディープエコロジーに対してはすでに批判も出されている。M・エルシュレーガーは、その批判点を以下の四つにまとめている。(1)ディープエコロジーは正統的な哲学というよりも、世俗宗教に近い。(2)科学的というよりも、神秘主義的な学問に近い。(3)彼らは、社会的にめぐまれない人々の正当な要求を無視しようとする、緑のがんこ者(green bigots)である。(4)彼らのかかげる社会改革プログラムは、見込みのないユートピア主義とほとんど同じである(30)。これらの批判点は、たしかにディープエコロジー思想の弱点を突いている。ベリーの著作などは完全に神秘主義思想であるし、デュヴァルとセッションズの著作で展開されている社会改革プログラムは、現実性に乏しい。
 ディープエコロジーは、他の流派のエコロジー思想から繰り返し批判されてきた。その一つは「社会派エコロジー」(social ecology)からの批判であり、もう一つは「エコフェミニズム」からの批判である。
 社会派エコロジーとは、M・ブクチンの影響下に成立したエコロジー思想である。エコロジー問題を、なによりもまず社会レベルの問題として把握し、人間が他の人間を抑圧し搾取するという構造が根本的に是正されないかぎり、エコロジー問題の解決はないと考える。このような立場に立つとき、社会レベルの問題をぬきにして、「人間・対・自然」という側面だけにエコロジーを矮小化してしまうディープエコロジーの発想は、きわめて欺瞞的なものに映ることになる。
 ブクチンは述べる。ディープエコロジーは「種」としての「人類」が環境危機を生みだしたというが、こういう見方は、(植民地支配や第三世界搾取などによって引き起こされた)人間社会内部の危機が今日の環境問題を生みだしたという事実を隠蔽することになる。たとえば、ディープエコロジーは「人類」という言葉を使うが、その言葉が、抑圧された少数民族のことを指しているのか、女性のことを指しているのか、第三世界の人々のことを指しているのか、あるいは環境危機を生みだした元凶である企業体を擁する先進国の人々のことを指しているのか、まったく不明である。人々は多様な「社会」のなかで生きており、その事実が今日の環境問題にとって根本的に重要なのである。また、人々はさまざまな「制度・組織」(institutions)を通して他の人間とかかわってゆくのであり、自然とかかわってゆくのである。ここを見逃してはならない。A・ネスのように、ディープエコロジーを宗教や哲学と同一視してしまうと、そこからは社会理論がまったく欠落してしまうのである。そしてブクチンは、社会批判と社会再構築のヴィジョンから出発する社会派エコロジーのみが、自然と人類のための真の社会改革を導くのだと述べている(31)。
 「ディープエコロジーとは、東洋の秘教に、ハリウッドとディズニーランドのファンタジーをかけあわせた神秘的な食事で育ったような裕福な人間たちによって、生み出されたものである(32)」と断定するブクチンの言葉は辛辣である。たしかにブクチンが強調するように、地球環境問題の本質のひとつは地球的あるいは国内的な南北問題であり、人間社会が他の社会を搾取し抑圧するという構造を変革しないかぎり、環境問題の解決にはつながらないというのは事実である。先進国の企業が、危険な化学物質の製造を第三世界で行い、そこで深刻な環境破壊を引き起こしているといった事態が、地球環境問題の根底にはある。そして、ある種のディープエコロジーに、こういった側面に深入りしない傾向があるのもまた事実であろう。
 われわれの内面の宇宙観や価値観こそが根本問題であると考えるディープエコロジーと、われわれが織り込まれている社会構造こそが根本問題であると考える社会派エコロジーの対立には、根深いものがある。もちろん、この両者とも真実の一面を語ってはいるのだが、しかしこの二つの考え方を統合する道は、まだ見いだされていないように筆者には思われる。
  さて、エコフェミニズムによるディープエコロジー批判は、A・K・サラーの論文「ディープエコロジーよりも深いもの」(1984)において最初になされた(33)。サラーは、ネスのディープエコロジー論文(1973)を、フェミニズムの立場から批判してゆく。ネスは、人間と生命体を相互連関的なフィールドに織り込まれたものとして捉えることを第一の原理とする。しかし、彼はここで人間を指す言葉として「マン」(man)を用いており、その内容に「女性」がイメージされていないのは明らかである。そもそも女性は、初めから、ネスが目標とするような相互連関的な生命フィールドのただなかで生きてきている。男性がそれに気づかないだけである。たとえば、女性の月経のサイクルや、妊娠時の骨の折れる(胎児との)共生関係や、出産のときの身をよじるような苦しみや、赤ちゃんに母乳を与えるときの喜びなどを考えれば、女性がすでに自然と隣接して生きていることがわかるはずである。
 ネスは「生命圏平等主義」を第二の原理として唱えているが、男性が女性を支配してきた服従の歴史を考慮に入れないような「平等主義」は自己矛盾している。人間による自然支配は、そのまま男性による女性支配へと複製されているのである。生命圏平等主義の前提として、女性/男性の平等が必要である。これはネスのいう「多様性と共生の原理」についてもあてはまる。多様性のなかに女性をも含めて考え、女性と共生することなしには、人間中心主義は克服できない。また、ネスは「反階級の姿勢」を強調するが、女性に対する性的な抑圧と社会的差別について何も触れていない(34)。
 ネスは環境の汚染には触れているが、フェミニズムは、人類を長い間支配してきた「家父長制」というイデオロギー汚染を根絶しようとしてきた。男性たちは、この家父長制イデオロギーに対してきわめて鈍感である。いままで環境危機の原因は、ユダヤ=キリスト教に帰せられたり、あるいは資本主義に帰せられたりしてきた。しかしエコフェミニズムの立場から言えば、環境危機の根本原因は、家父長性の歴史にある(35)。
 サラーは次のように結論づける。「悲しいかな、エコフェミニズムの観点から見れば、ディープエコロジーは単なる自己満足的な改革運動のひとつにすぎない。(36)」そして述べる。「男性たちが勇気をふるって、彼ら自身の内部にある女性性を再発見しそれを愛するまでは、ディープエコロジー運動は本当には起きないであろう。(37)」
 以上のようなサラーの批判は、C・マーチャントによるフェミニズムからの近代科学批判の延長線上にあるものだが、しかしディープエコロジーの盲点を見事についたものといえる。ディープエコロジーは、女性性や母性を言葉のうえでは賞賛するのだが、それを口にするディープエコロジストの男性たちが、実際の彼らの家庭のなかで妻や女性たちに奉仕の役割を押しつけて、そのことを気にもかけないといったことがあるはずである。これらの点は、フェミニズムが年来指摘し続けてきたことであるが、ディープエコロジーはその成果を勉強するのを怠っていると、サラーは示唆している。
 その後ディープエコロジー側からの再反論もなされたが、サラーは執拗に再々批判を繰り返している。このエコフェミニズム/ディープエコロジー論争は現在も続いており、今後の展開が注目される(38)。エコフェミニズムの内部にも、「リベラル・エコフェミニズム」「社会的エコフェミニズム」「社会主義的エコフェミニズム」「文化的エコフェミニズム」などのさまざまな流派がある(39)。このうち、文化的エコフェミニズムは、内面の女性性の重視や、自然との親密な関係性の再獲得など、ディープエコロジーに近い指向性と目標をもっている。もしディープエコロジーが「女性」をきちんと視野に入れることができれば、文化的エコフェミニズムとの垣根は容易に取り払われるであろう。そうなれば、おそらく、人間の内面に価値をみいだすディープエコロジー=文化的エコフェミニズム共闘と、社会構造の変革に重心をおく社会派エコロジー=社会的エコフェミニズム共闘との間で、熾烈なイデオロギー闘争が繰り広げられるようになるかもしれない。
 いずれにせよ、現在、エコロジーや生命倫理の議論のなかに、「フェミニズム」が大きなインパクトをともなって入り込んできており、われわれは生命論の領域におけるフェミニズムの動向に今後大きな注意を払ってゆく必要がある。

ディープエコロジーの限界と今後の展望

 ディープエコロジーの主張は、本論文で紹介したアメリカ、ヨーロッパのエコロジー思想においてのみみられるわけではなく、日本や東アジア世界にも広くみられるものである。たとえば日本でいえば、今西錦司の「自然学」や、福岡正信の「自然農法」は、明らかにディープエコロジーの思想である。そのルーツは、南方熊楠や宮沢賢治などを経て、はるか近世思想にまでさかのぼることができるであろう。実際、アメリカのディープエコロジーは、日本の鈴木大拙や福岡正信を、ディープエコロジーの基本文献として掲げている。また、中国やインドの伝統思想は、ディープエコロジカルな考え方をむしろ前提として成立している感がある。
 ただし、現代の地球環境問題を視野に入れて、それがわれわれにつきつける思想的課題のひとつを「ディープエコロジー」という言葉で明確に枠づけたのはやはりアメリカをはじめとする、西洋のエコロジストたちであったという点を、われわれははっきりと確認しておかねればならない。そのうえで、ディープエコロジーの比較思想史的位置づけと、ディープエコロジーの限界の克服とを行ってゆくべきであろう。
 ではここで、前節で紹介した批判を参考にして、ディープエコロジーの枠組みそれ自体がもつ限界性についての、筆者自身の見解を述べておきたい。
 ディープエコロジーの思想は、思想史の観点からみれば、近代社会や近代文明の姿を批判し、それに対してホーリスティックで調和的な精神世界を対置する「ロマン主義」あるいは「ユートピア思想」の一分派である。ゲーテやホイットマンなどのロマン主義思想に、生態学や環境危機などの味付けをして、現代に復活させたものとして捉えることも可能である(40)。これは、ディープエコロジーが、ロマン主義的思想がもつ限界をも合わせもっている可能性が高いことを意味している。その限界とは、内面性、精神性、全体性、宗教性などを強調するあまり、その関心が内面世界の成熟と卓越へと収斂し、みにくい現実が渦巻く現実世界からのわれわれの退避を正当化してしまう危険性である。ロマン主義の思想は、主に文学や詩によって表現され、彼らの理想境は産業都市ではなく田園や森のなかに設定されることが多い。これは、近代の諸矛盾が露呈している都市社会の現実(環境問題もそのひとつである)にまみれながら問題解決を模索することを避けることにつながり、その思想を「美しいお話」、「良いお話」のレベルで人畜無害のまま凍結させてしまう危険性をはらんでいる。
 この点は、社会派エコロジーからの批判とも関連する。ロマン主義の提唱は、それ自体誤った行為ではない。ただし、その提唱者が、ロマン主義的自閉に陥って、社会の現実を直視しようとしなくなる危険性を強くはらんでいる点が問題なのである。たしかに、ロマン主義に基づいた近代批判には、評価すべき言説が多く存在する。それらの鋭い文明批判を、いかにして現実社会へと説得的にフィードバックできるかが問われているのであろう。ディープエコロジーに内在するロマン主義を、現代社会をえぐりとる現実的な哲学と社会理論を生みだすための、実り多い(そして死すべき)母体として継承してゆくことが、われわれに求められているのである。
 第二に、ディープエコロジーは一種の「対抗理論」として成立した。たとえば、ディープエコロジーは、「自然保護」の理論を母体として成立した。自然保護の理論は、都市化と産業化の拡大にともなって森林が乱開発され、自然が失われてゆく傾向を批判する。そして、なによりもまず自然破壊をくい止め、自然の姿を守ることを目標とする。なかでも、ディープエコロジーの直接の祖先である保存派(preservationist)の自然保護理論は、人間の手による自然介入をぎりぎりまで否定し、原生自然の手つかずの保存を訴える。この理論は、自然を開発し管理しなければやっていけない人間社会の人間中心主義を、仮想敵とすることではじめて成立するような「対抗理論」である。対抗理論の難点は、それが体制理論を批判し否定するのには役に立つが、もし体制理論から社会運営のバトンを渡されたときに、それを担って運営してゆくだけの積極的かつ現実的な理論装置をもち合わせていない点にある。
 たとえば、ディープエコロジーは環境開発や大規模農業やクルマ社会などを批判する。しかし、環境開発や大規模農業やクルマを本当にやめたとしたら、われわれはどうやって、大量の人口に食料と住居を確保し、現在の商品流通網と市場経済システムを崩壊させずに運営できるのだろうか。もちろん、ディープエコロジーも、地方分権政治、ローカルな流通システム、エコロジカルな交通システム、地域での自足的生活様式などの、実践的な処方箋を用意はしている。しかしそれらの処方箋は、環境、地理的位置、人口密度、所得、学歴などにめぐまれた一部のコミュニティでしか実現不可能なものである。社会あるいは国家全体をマネジメントするためには、ディープエコロジーが敵視する近代的でヒエラルキカルな社会運営システムが、いまのところどうしても必要となる。対抗理論の限界は、社会全体をマネジメントする際の積極的かつ現実的な理論装置をもてないところにある。ディープエコロジーは、この難点を、その根底において抱え込んでいると考えなければならない。
 第三の限界は、ディープエコロジーが基本的には欧米の中産階級の白人の知的エリート(男性)を中心にして形成された点にある。その独特のオリエンタリズムや、神秘主義的傾向は、すでに近代化が完了して豊かで安全な生活を享受した人間の嗜好を反映している。A・サラーの言葉を借りれば「先進国の中流の人々が、宇宙論的な<トランスパーソナル的自己>を気ままに追求するときの、幻想とわがまま」に満ちているのである(41)。豊かな社会で成立したディープエコロジーの思想は、これから近代化を本格的に迎えようとする途上国の人々、あるいは否応なくディープエコロジカルな生活を余儀なくされていた途上国の人々にとって、思想的インパクトを欠くといわざるを得ない。砂漠地帯の住民は「森の生活」を享受できない。南北問題や人種問題、環境難民など、現代世界の構造的矛盾に対するディープエコロジーの知的対応は、きわめて貧弱である。以前に紹介したように、デュヴァルとセッションズは、地球上の人口を激減させる必要があると主張するが、そのときに最も大きなネックとなるのは第三世界の人口である。どのような方法でそれを実現するかを白紙にしたままで、このようなプランを出すのは、先進国エゴだと言われてもしかたがない。ブクチンが懸念しているように、この主張は、(第三世界の)過剰な人口を削減するためにはAIDSも歓迎であるという考え方へと容易に転化しかねない(42)。それを回避するためには、ディープエコロジーをいったん第三世界の多様で混乱した現実のなかに置いてみて、現在のディープエコロジーの枠組みを根底的に再考する必要がある。その際には、第三世界のエコロジー思想、とくに第三世界のエコフェミニズムから多くを学べるはずである。
 第四の限界は、ディープエコロジーの思想が、人間の持つ「欲望」というものを過小評価している点にある。近代文明は、人間のもつ物質的欲望と感性的欲望を基本的に肯定し、それらを満たすような方向へと発展してきた。産業化によって商品は増え、化石燃料、食料の安定供給、公衆衛生の普及などによって平均寿命は伸び、われわれの暮らしは便利になり快適になった。飢餓を経験せずにすみ、好きなものを食べ、快適な温度の部屋で寝起きできるという現在の先進諸国の生活様式は、地球上のほとんどすべての人間が望むところであるが、これは人間の持つ根底的な生理的「欲望」に根ざしているのである。それに加えて人間には、他人より良い生活をしたいとか、権力を所有して他人をコントロールしたいなどの、根深い精神的欲望がある。
 ディープエコロジーが、われわれの「意識変革」や「自己実現」などの目標を安易に掲げ、病んだ「文明」的生活からの撤退を提唱するとき、彼らは人間の欲望というものを軽視しているのではないかと思わざるをえない。たとえば、彼らのいうエコロジカルな自己実現をするためには、都会での良い暮らしと快適な生活環境を放棄しなければならない。そして、電力消費の少ない、冬は寒く夏は暑い、そして蚊や虫の多い生活を続けなければならない。そして、他人と自分を比べて嫉妬したり、優越感にひたったりしてはならず、権力欲を放棄して生活しなければならない。日々の「欲望」から脱することの難しい平均的な人間にとって、これは実行することが不可能な命題でしかない。これを実現できるのは、一部のエリートのみである。こうして、ディープエコロジーは、エリーティズムへと限りなく接近してゆく。多くの人間は、自分の内面の欲望と戦いながらも、大枠では欲望の命じる方向へと流されて生活している。平均的な人間が逃れることのできない内面の欲望というものを、真剣に熟慮して自らの哲学と倫理学に組み入れることがなければ、ディープエコロジーは決して生活者の行為規範としては根付かないはずである。
 以上4点に絞って、ディープエコロジーの枠組みの限界性を筆者なりにまとめてみた。問題点の所在を明確にするために、筆者はあえてディープエコロジーのいくつかの側面を強調して議論を行った。しかしディープエコロジーは完全に行き詰った思想ではないと筆者は考えている。そこで今度は、ディープエコロジーのもつ可能性について議論しておきたい。
 ディープエコロジー思想の可能性のひとつは、制度を改革することによって現実の社会問題を解決するというアプローチのほかに、もうひとつ、われわれの内面性を変革してひとりひとりの人間性を成熟させることによって現実の社会問題をいわば内側から解決してゆこうというアプローチを提唱している点にある。このアプローチは、もちろんディープエコロジーだけのものではなく、実存主義やサイコセラピーなど幅広い実践活動の原理となっている。しかし、とくにエコロジーの場合、われわれの日々のライフスタイルが直接に環境破壊に結びついているため、われわれの内面の価値判断や意志のもち方が、将来の地球環境のあり方に決定的な影響を与えてしまうことになる。この意味で、環境問題に立ち向かう場合、われわれの内面変革を重視するアプローチは思いのほか重要である。「内面性」を徐々に変革してゆくことで、世界を長いタイムスパンで良いものにしてゆこうというアプローチは、われわれがディープエコロジーから学ぶべき最良の成果である。ただし、先ほど述べたように、人間本性を軽視した安易な議論は有効性に欠けることを認識しておくべきである。また、神秘的な体験を排他的に導入するのも避けた方がよい。
 社会派エコロジーは、内面性を強調し社会性を軽視しがちなディープエコロジーの性格を批判するわけであるが、「内面性」と「社会性」はともに重要なのであって、どちらか一方だけでことを片づけるわけにはいかない。もちろん「内面性」だけを唯一追求するようなディープエコロジーや、あるいは「社会性」だけを唯一追求するような社会派エコロジーは、ともに批判されなければならない。
 この内面性とも関連するのだが、フォックスが指摘した、エコロジーと心理学の関係はきわめて重要である。エコロジー思想は、従来、われわれの内面性の問題を、「哲学」や「倫理」や「宗教」と関連づけて考えてきた。しかし、われわれと自然環境との関係は、われわれの心の「認知構造」あるいは「自然に対する心理的構えの取り方」によってもまた深く規定されているはずである。この意味で、人間−自然関係を認知心理学や深層心理学の観点から把握し直すことはたいへん重要である。このような「サイコ・エコロジー」の試みが、今後ますます求められるようになるであろう。そのときには、ディープエコロジーの思索が大きく貢献する可能性もある。とくに、有史以来の「人間−自然関係史」を、サイコ・エコロジーの観点から把握してゆく試みは、有益であると思われる。
 第二に、ネスが、ディープエコロジーを、市民活動や政治活動までをも含んだ英知の学として把握したことは、現代における「哲学」の営みに大きな可能性を提示していると筆者は考えている。<具体的なエコロジーの実践活動>と<内面への思索の旅>の双方を有機的に個人のなかで結合させることが、「英知」の学としての「哲学」の可能性をひらくのではないだろうか。すなわち、現代が投げかける文明論的な問いを全身で受け止め、その問題の所在を現場での活動とフィールドワークによって確かめながら、そこから得られた生の体験と知見とを自分の精神の内面へとフィードバックし、問題点を哲学的、形而上学的に掘り下げてゆくという知的営み。そしてその思索によって得られた世界把握や世界解釈は、現実社会での具体的な活動となって再び世界へとフィードバックされてゆくはずである。このような循環的な知的営為によって行為主体の内面が豊かになり、同時に社会に対する倫理的実戦が達成されてゆくという可能性こそ、ディープエコロジーが現代の「哲学」に投げかける重大な問題提起のひとつなのである。
 ディープエコロジーの枠組みをいったん解体し、それが達成した最良の成果を継承しながら、現実に即した新たな思索を突き進めてゆくことが求められているのである。

*本論文は、拙論「ディープエコロジー派の環境哲学・環境倫理学の射程」『科学基礎論研究』(vo.l21 no.2,1993,pp.85-90.)に大幅な加筆修正を加え、約2倍の分量に拡張したものである。なお、拙著『生命観を問いなおす』(ちくま新書)で、このテーマをさらに展開したので、あわせて参照していただきたい。

(1)World Commision on Environment and Development Our Common Future. Oxford:Oxford University Press, 1987, p.43.
(2)私もかつてはそうであった。環境倫理学を議論した拙著『生命学への招待』(勁草書房、1988)第1、2章参照。
(3)Cf.Bill Devall and George Sessions Deep Ecology. Layton:Gibbs M. Smith, 1985. / Thomas Berry The Dream of the Earth. San Francisco:Sierra Club Books, 1988.
(4)B.Devall and G.Sessions, p.22.
(5)Arne Naess "The Shallow and the Deep, Long Range Ecology Movement. A Summary," Inquiry 16 (1973):95ュ100.
(6)たとえばR・ナッシュの反論を見よ。(Roderick Franzier Nash The Right of Nature: A History of Environmental Ethics. Madison:The University of Wisconsin Press,1989, pp.146f.)
(7)拙著『生命学への招待』第二章参照。
(8)Arne Naess and David Rothenberg Ecology, Community and Lifestyle. Cambridge Unversity Press, 1989, pp.36ュ38,197ュ207.
(9)B.Devall and G.Sessions, p.7.
(10)p.65,66.
(11)田中三彦「再考・ニューエイジ思想」『アーガマ』一一四号(一九九〇)一二九頁。
(12)pp.65,69.
(13)p.70.
(14)p.145.
(15)p.145,147.
(16)p.22,145.
(17)p.158.
(18)J.E.Lovelock Gaia:A New Look at Life on Earth. Oxford:Oxford Unversity Press, 1979.
(19)Cf.Annie L. Booth and Harvey M. Jacobs "Ties that Bind: Native American as a Foundation for Environmental Consciousness," Environmental Ethics 12 (Spring 1990):27ュ43.
(20)Carolyn Merchant Radical Ecology: The Search for a Livable World. New York:Routledge, 1992, p.184.
(21)たとえば、1990年に発表された桜井裕子の「エコロジカル・フェミニズム論争は終わったか−エコロジー危機とフェミニズム」(江原由美子編『フェミニズム論争−70年代から90年代へ』勁草書房1990:pp.120-146.)は、日本のエコフェミニズム論争を振り返ったものであるが、桜井は「一九八三年に青木やよひによって提唱されたエコロジカル・フェミニズム(以下エコ・フェミと略記する)」といういい方をしており、また、「エコロジカル・フェミニストを自称している者を、私は青木以外にはほとんど知らない」と述べている(p.120,122)。 桜井の論文は、日本の状況に限った議論であるから、日本の文脈に限定していえば、それらは誤った記述ではないかもしれない。しかし、桜井論文には、その註をも含めて、先行するアメリカのエコフェミニズムに対する言及がまったく行なわれておらず、日本の女性学のこの方面に関する暗さをかいま見る思いがする。
(22)Carolyn Merchant The Death of Nature: Women, Ecology, and the Scientific Revolution. New York:Harper, 1980.
(23)Carolyn Merchant Radical Ecology. 1992, p.188.
(24)Thomas Berry, op.cit.
(25)P.24,34.
(26)P.87.
(27)P.184,190.
(28)P.211.
(29)Warwick Fox Toward a Transpersonal Ecology: Developing New Foundations for Environmentalism. Boston:Shambhala, 1990, p.142,197,199,249,252.  なお本書は、道元の言葉で締めくくられている。
(30)Max Oelschlaeger The Idea of Wilderness: From Prehistory to the Age of Ecology. New Haven:Yale University Press,1991, p.304.
(31)Murray Bookchin Remaking Society: Pathways to a Green Society. Boston:South End Press, 1990,pp.9-17. このほかにもブクチンは、ディープエコロジーの主張する「生命圏の民主主義」などの考え方は、人間社会のなかにある社会的概念を自然界に投影したものにすぎず、その意味で「人間中心主義」をまぬがれていないと批判する。(Murray Bookchin The Philosophy of Social Ecology: Essays on Dialectical Naturalism. Montreal:Black Rose Books, 1990, pp.184ュ185.
(32)p.11.
(33)Ariel Kay Salleh "Deeper than Deep Ecology: The Eco Feminist Connection," Environmental Ethics 6 (1984):339-345.
(34)pp.340-341.
(35)pp.342-344.
(36)p.344.
(37)p.345.
(38)Ariel Salleh "The Ecofeminism/Deep Ecology Debate: A Reply to Patriarchal Reason," Environmental Ethics 14 (1992):195-216. /Ariel Salleh "Class, Race, and Gender Discourse in the Ecofeminism/Deep Ecology Debate," Environmental Ethics 15 (1993):225-244.
(39)Carolyn Merchant Radical Ecology. 1992, pp.186ュ187.
(40)David Pepper The Roots of Modern Environmentalism. London:Routledge, 1984, pp.76f.
(41)Ariel Salleh "Class, Race, and Gender Discourse in the Ecofeminism/Deep Ecology Debate," p.229.
(42)Murray Bookchin Remaking Society, 1990, p.10.

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