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竹田純郎ほか編『生命論への視座』大明堂 (1998年1月) 115−133頁

生命と優生思想              森岡正博

1 優生思想をどう考えればよいのか

 生命を考えるときに、優生思想を避けて通ることはできない。
 優生思想というのは、文字通りに解釈すれば、「すぐれた生命が望ましい」とか、「生命をよりすぐれたものにしていこう」というふうに考える思想のことである。この点だけ取り出してみれば、それはとくに問題をはらんでいないようにも見える。というのも、我々は、自分自身の生命や人生をよりよいものにしていきたいと思っているし、それをめざすことで今日の文明が築かれたという側面もあるからである。
 しかしながら、実際には、優生思想ということばには負のラベリングがなされている。それはなぜかといえば、第二次世界大戦中のナチスの優生学と、ユダヤ人に対する大量虐殺が、癒えない記憶となって我々の社会に尾を引いているからだ。
 ナチスは、生命を、生きるに値するものと、そうではないものに分けて考え、ユダヤ人や障害者などの人間を生きるに値しないものとして強制断種したり大量虐殺したりした。そのときに使われたレトリックが、優生学である。そこでは、単にひとりの人間の生命の質を引き上げることがめざされたのではなく、人種とか民族などの全体の生命の質を引き上げる(あるいは引き下げない)ために、劣等な生命を持った人間を増やさないあるいは減らすということが行なわれたのである。
 このように、優生学とは、生殖によって子孫を再生産してゆく集団の、その全体の質を管理するために、劣った人間に断種をして子孫を生ませないようにしたり、そういう人間を強制的に殺したりするような思想と行動のことをまず第一に指す。しかし、優生学はなにも戦時中のドイツのみにあったわけではない。それよりもはるかに早くヨーロッパに誕生していたし、今世紀はじめにはアメリカでも日本でも優生学は流行した。そのひとつの典型例がナチスであったというにすぎない。
 ちなみに日本では、戦時中に国民優生法という法律が成立しており、戦後一九四八年に優生保護法という法律が制定された。これは、「不良な子孫の出生を防止する」ための優生手術(子どもを産めないようにする手術)などを規定し、それと同時に女性の人工妊娠中絶を規定するための法律である。優生保護法というあからさまな優生思想にもとづいた法律が、日本では一九九六年九月まで堂々と存在していたのである。
 優生保護法の第一条は次のようになっていた。

 障害者団体などからの長年の改正要求を受け入れる形で、この法律は「母体保護法」と名前を変えて改正された(そのいきさつについては拙論「優生保護法改正をめぐる生命倫理」『日本研究』印刷中参照)。母体保護法の第一条は、次のようになった。  ここに見られるように、条文の本文からは、「不良な子孫の出生の防止」というような優生思想が削られた。そして母体保護法は、女性の人工妊娠中絶と不妊手術を定める法律として再出発することとなったのである。
 しかしながら、法律の条文から優生思想が削られたからと言って、我々の社会から優生思想が消滅したということにはならない。いや、むしろ、生殖テクノロジーが急展開している現在、優生思想はその装いをあらたにして、より巧妙に我々の社会の底辺に浸透しようとしているのではないだろうか。そしてそれは、いわゆる「内なる優生思想」として、我々ひとりひとりのこころの内部にまで染み込んでしまっているのではないか。本論文は、我々がいま優生思想をどのように考えればいいのかについて、若干の考察を行なうものである。

2  中絶と優生思想

 まず、きわめて現代的な優生思想のあらわれかたについて見てみたい。
 一九六九年から七二年にかけて、兵庫県衛生部は「不幸な子どもの生まれない対策室」というものを設けて、ダウン症などの<不幸な>障害児が生まれないようにする行政施策を行なった。その妊婦向けパンフレット『あなたのために』を見てみよう。
 そこでは、まず、親の形質が子に受け継がれることを「遺伝」と呼ぶとしたうえで、受精のときに染色体がうまく分裂できなかった場合などに「奇形」や「精神薄弱」の子どもが生まれるとする。「この代表的な例が<ダウン症>という知恵おくれの子どもなのです」。ところが、母親のお腹から羊水を取って調べることで、このような子どもが生まれるかどうかが分かるようになってきた。「これを<胎児診断>と呼んでいます」。
 そういう記述をしたうえで、異常のある子どもをもつことが好ましくないであろうことを、以下のような表現で書いている。

 このように、障害児を持つことが「悩み多き」ことであるという断定がなされている。そして障害児を産まないためには、二〇歳から遅くとも二五歳までに結婚することが望ましいとし、女性の性に対する節度がなくなると、子どもが先天性梅毒にかかって「眼や耳の障害をおこしたり、精神薄弱者になることがある」としている。
 この対策室の名前にも典型的にあらわれているように、ここには、「障害児は不幸な子どもである」ということ、そして「障害児を持つことは悩み多きことである」という明確な価値観がある。そしてこの価値観は、当時の社会のなかではそれほどとっぴなものではなかっただろうし、いまでもに一般の人々のあいだに少なからず抱かれている価値観であると思われる。
 もうひとつ注意しておくべきことは、このようなパンフレットが作られるようになったきっかけとして、生殖技術の発展があるということだ。パンフレットにも書かれていたが、母親の羊水を調べて胎児の異常を発見する羊水診断というものが、当時、実用の域に入ろうとしていた。羊水診断それ自体は一九五〇年代半ばから行なわれていたが、ダウン症などの診断のために羊水診断することは六〇年代後半にいたって可能になり、六八年には羊水診断にもとづくはじめての人工妊娠中絶が行なわれた(カレン・ローゼンバーグ、エリザベス・トムソン編『女性と出生前検査』日本アクセル・シュプリンガー出版 一九九六年 六七頁)。
 すなわち、羊水診断という技術は、六八年頃を境にして、ダウン症などの胎児を早期に発見してそれを中絶するための技術として認知されはじめたということだ。そのような技術を妊婦向けのパンフレットに載せることの意味は、もはや明白である。そこにこめられたメッセージは、「不幸な子ども」を産むのを防止し、親が「悩み多き」人生を背負わなくてもすむように、胎児の障害を早期に発見して中絶することができますよというものであったのだ。
 ちょうど同じ時期に、優生保護法の第一次改正の動きがはじまった。それは自民党と厚生省の主導で開始されたもので、(1)経済的理由による中絶を禁止する、(2)胎児に障害があった場合にそれを理由にして中絶できるようにする、(3)若いうちに子どもを産むように女性を指導する、という三点の改正案が出された。これは一九七二年に衆議院に提出され、その後参議院に回されたが、七四年に審議未了廃案となった。
 この改正点のうち、第二点の、障害児があるという理由で中絶できるとするいわゆる「胎児条項」こそが、兵庫県の不幸な子どもの生まれない対策室にあらわれたような優生思想を、先鋭的に言語化したものであると言える。
 このような発想に対して、青い芝の会などの障害者団体は、強い異議申し立てをした。彼らは、「障害を持って生まれることは不幸なことではない」と主張した。それは障害を持った本人が決めるべきことであって、他人がとやかく決めつけるべきことではない。さらに、子どもに障害があるから中絶してよいというのは「健全者のエゴイズム」だと批判した。
 このような批判は、この社会のメインストリームを構成する健全者の内部に潜む、いわゆる「内なる優生思想」批判という形を取るようになる。「障害者抹殺の思想」という表現も登場した。すなわち、優生思想というのは、ひとむかし前のナチの時代にのみあったのではなく、まさに現在ここで民主主義の社会を生きている我々ひとりひとりの内部に潜んでいるのだというのである。
 その証拠に、たとえば胎児に異常が発見されたときに中絶するかどうかをアンケートで調査してみると、きわめて多くの人たちが中絶を選ぶという傾向があらわれる。たとえば白井泰子のアンケート調査によると、第一子にダウン症の患児をもつ若い母親の第二子妊娠を事例に用いたところ、胎児の羊水診断を希望すると答えた日本人は約九割にのぼり、希望すると答えた人に、もし胎児に異常があったらどうするかと尋ねてみると、「僧侶を除いた回答者の八割以上が人工妊娠中絶を受けたい」と答えた。(白井泰子「先端医療に対する社会的態度」『心理学評論』Vol.33 No.1 pp.71-85. ただし、調査期間が一九七〇年代後半と古い。現在では違ったデータが出るかもしれない。また、イギリスでも同様の傾向があるとのことである。佐藤孝道『染色体異常の出生前診断と母体血清マーカー試験』新興医学出版社 一九九六年)。これは、我々が建て前では障害があろうとなかろうとすべての人間は平等だと言いながら、本音では障害児は要らないと思っているからだと、障害者たちは批判する。
 自分のことを振り返っても分かるように、多くの人は、うちの子どもは五体満足で生まれたほうがいいと思っている。障害をもった子どもよりも、五体満足な子どものほうをほしいと思っている。これを「内なる優生思想」と呼ぶのである。ナチのような優生政策が後退して、優生保護法のような優生思想を明文化した法律がなくなっても、優生思想そのものは我々ひとりひとりの内面にしっかりと根付いているというわけだ。(ただ、注意しておかなければならないのは、実際に出生前診断で胎児に重い障害があることが分かった場合、少なくない女性が障害児の出産を決断するらしいことである。その統計は出ていないが、アンケート調査での回答と、実際にその事態に遭遇した場合の決断は、ずれてくることが予想される)。
 障害者たちは、健常者のなかにある「内なる優生思想」のことを、よりきびしく「障害者抹殺の思想」だと批判する。この世に障害者はいないほうがいいと考えている、と指摘するのだ。この批判について考えてみなければならない。
 ここで、まず、「障害者抹殺の思想」と「障害胎児抹殺の思想」とを区別しておこう。「障害者抹殺の思想」とは、胎児・子ども・成人に関係なく、障害者はいないほうがいいとする思想である。これに対して「障害胎児抹殺の思想」というのは、母親のお腹のなかにいる障害をもった胎児は生まれないほうがいいとする思想である。もちろん、「障害胎児抹殺の思想」は、「障害者抹殺の思想」と緊密に連関している可能性がある。その点については後に検討するとして、まずこの二つを分けておく。
 さて、我々のなかには五体満足な子どもがほしいという願望がある。だから、出産のときに、赤ちゃんが無事に生まれたかどうかを気にする。ここにあるのは、自分の子どもには先天的な障害がないほうがいいという考え方である。
 ところで、もし自分の子どもに重い障害があった場合にはどうするのか、というふうに問題を立ててみると、それには二つの答えがあることが分かる。ひとつは、私は五体満足な子どもがほしいと思っているけれども、胎児が障害をもっていることが分かった以上、その子を産んで育てたいという決断である。もうひとつは、私は五体満足な子どもがほしいと思っているので、障害をもった胎児は要らない。だから中絶して次の子どもに期待したいという決断である。
 前者の考え方は、「内なる優生思想」ではあるけれども「障害胎児抹殺の思想」ではない。障害のない子どもがほしいなあと思っているのだが、実際に障害胎児に直面したときにそれを殺すことをしないからである。これに対して、後者の考え方は、「内なる優生思想」であり、かつ「障害胎児抹殺の思想」である。胎児に障害があるという理由で中絶を選ぶからである。中絶を選ぶ理由がどのようなものであれ、たとえば親の都合とか、女性の権利とか、胎児は人間ではないからとか、障害をもって生まれるのはかわいそうだからとか、どのような理由であったにせよ、それが「障害胎児抹殺の思想」であることには変わりない。
 この二つの立場の違いを明確にしておくことはとても重要である。
 たとえば先天性障害者がよく表明する意見に次のようなものがある。「もし、自分の親が、現在のような進んだ出生前診断を受けていたならば、私はこの世に生まれてこなかったであろう」。つまり、自分は親によって「要らない」と判断されて中絶されていただろうということだ。あるいは「もし自分の先天的障害がもっと重いものであったならば、私はこの世に生まれてこなかったであろう」。こういう考えが先天的障害の子どものこころに浮かんだときに、その子どもは親とのあいだに信頼関係を結べるであろうか。自分の親は、自分を産んだことを後悔しているのではないか。自分の障害がもっとひどかったなら、親は私を殺すことを選択していたのではないか。そういう疑念が湧いてきたとき、子どもは親に対する信頼を失い、親からの愛情というものを疑うかもしれない。そして、この自分の存在が無条件に許されたのではなく、<ある条件のもとではじめて>自分の存在が許されたのだという感覚を抱くようになるだろう。そのような感覚を抱いた子どもは、果たして、みずからの存在や生を肯定することができるだろうか。
 このような存在否定にかんして、障害者自身が語っていることばがある。
 ベッカー型筋ジストロフィーの四六歳の男性は、座談会で次のように「存在否定」の不安を語る。  筋ジスの患者が子どもを産まないという選択をしたとすれば、それは筋ジスである自分自身の存在を否定したことになる。そういう不安がつねに心の底にあるという。このレベルの問題が、はらまれているのだ。
 これは、なにも先天的障害児にのみ当てはまることではない。
 たとえば、すべての妊婦が出生前診断を受けるような社会が到来したとしよう。そういう社会では、生まれてきたすべての子どもは、「親がこの自分の生命の質を吟味してOKを出したから自分は存在を許されているのだ」という感覚、すなわち「自分の生命にかんする、ある価値判断がクリアーされたから、自分の存在は許されたのだ」という根本感覚を抱いたまま生きなくてはならなくなる。この根本感覚は、一方において「自分は選ばれた人間なのだ」という選民的優越感をもたらすかもしれないが、他方において「自分の存在は無条件に祝福されたわけではないのだ」という存在不安をもたらす危険性をはらんでいる。この存在不安は、そのような社会において、集団的な精神病理を発生させる可能性もある。この点は、深く考えなければならない。
 このことからも分かるように、「内なる優生思想」と、「障害胎児抹殺の思想」とを分かつものは、胎児という他者の存在を抹消するのかどうかという点にある。ポイントは「存在抹消」である。
 この点を別の角度から考えてみよう。
 「内なる優生思想」批判に対する反論がある。それは、我々は病気になったり障害をもったりするときに、治療やリハビリによってそれを克服しようとする。このような医療行為を、我々は優生思想だといって批判したりはしない。だから、障害をもった胎児を中絶することを批判されても困るという反論である。この反論は、筋違いの論なのであるが、しかしおもしろい論点をそこに見出すことができる。それは、治療ということを引きあいに出している点と、自分と胎児とを混同している点である。
 これらの点を考慮すれば、人間の生命の質を配慮するときに、少なくとも三つの違った立場があることが分かる。
 (1)まず最初は、自分の身体が事故などによって障害を受けたり、あるいは病気になったりしたときに、治療を受けたりリハビリを受けたりして、もとの健康な状態に戻そうとするケースである。病気にならないように、感染予防をしたり、健康の自己管理をしたりすることも含まれるであろう。
 これは、この自分自身の生命の質が悪化しないように努力することである。現代社会では、このような試みは、他人に被害を及ぼしたり、他人の犠牲を要求したりしないかぎり許されるし、非難されないのが普通である。
 (2)これと違った形の配慮としては、お腹のなかにいる自分の子どもが病気になったときにそれを治療したり、お腹のなかの子どもが病気や障害にかからないように女性が自分の身体を自己管理したりすることがある。お腹のなかの胎児の病気や奇形を治療したりする、いわゆる「胎児治療」はまだほとんど開発されていないが、いずれ近い将来には続々と可能になるだろう(以下ではそれが可能になることを前提に議論を進める)。胎児の病気予防のために、妊婦が酒やタバコをやめたり、薬を飲むのをやめたり、ストレスのたまる仕事をやめたりすることが多い。これも、このケースである。
 この場合、自分自身のために治療や自己管理をするのではなく、お腹のなかの胎児という他者のためにそれらをするという点がポイントとなる。胎児が病気になったり、障害をもったりするのを防ぐために、妊婦が自分の身体を管理する。
 (3)以上二つとまったく異なったものとして、胎児が障害をもっているという理由で胎児を中絶する行為がある。胎児の生命の質や、健康状態や、障害の有無などについて親が価値判断をして、胎児になにかを働きかけるという意味では(2)と同じなのだが、しかしながら、胎児の存在を抹消するという点において、(2)とは決定的に異なってくる。(2)の場合は、胎児の病気や奇形を治療したり予防したりするだけであって、当の胎児は生存を続けるのであるが、(3)の場合は胎児そのものの生存が中断させられてしまう。
 この「存在抹消」というファクターが付け加わっている点において、このケースはまさに独特の重い意味をもってしまうのだ。さきに紹介したような、もし親が出生前診断を受けていたら私は存在していなかっただろうという障害者の不安というのは、この「存在抹消」に対する割り切れなさの表現なのである。
 さて、以上の三つのケースを比較してみよう。
 最初のケースでは、この自分自身の生命の質を悪化させないように、自分自身で配慮する行為である。これは、ある意味ではエゴイズムであるわけだが、しかしこれを「内なる優生思想」だと言えるのだろうか。優生思想とは、基本的には他者の生命の質や、集団の生命の質について何かの配慮や介入をするときの思想である。そして、生殖や遺伝にかかわるときにもっともその色が濃くなる。しかしながら、この最初のケースでは、対象がとりあえず自分自身のことに限定されているので、優生思想とは呼びにくいと思う。であるから、もし最初のケースを支配している特別の思想があるとすれば、それは「エゴイズム」であろう。
 第二のケースでは、自分の子どもの生命の質や健康や障害について配慮し、なにかの介入をしようとしている。そしてそこには、自分の子どもという他者の生命について、障害や奇形や病気があるよりも、それらがないほうがいいという価値判断が働いている。そういう価値判断にのっとって、治療を試みようとしたり、予防をしようとする。だから、この意味では、ここには優生思想があるといってもよい。
 しかしながら、そこにはまだ「障害胎児抹殺の思想」はあらわれてはいない。そこにはむしろ胎児を抹殺しなくてもすむための「治療」や「予防」の思想があるとも言える。だから、ここにあるのは、治療や予防の形をとった他者へのパターナリスティックな優生思想だ。
 第三のケースになってはじめて、「障害胎児抹殺の思想」がはっきりとあらわれる。胎児に障害があるから、という理由でもって胎児の存在を抹消してしまうのである。ただ、ここでも若干注意が必要なのは、「自分の子どもが重い障害をもっていた場合は中絶するが、他人が障害胎児を妊娠した場合には口を出さない」という個人主義的な障害胎児抹殺の思想と、「そもそも障害胎児は(病気の遺伝を受け継いでいるから)すべて中絶したほうがみんなのためになる」という社会防衛的な障害胎児抹殺の思想とは、区別しておいたほうがよいということである。この後者の考え方の典型はナチの優生学である。しかし現代でも、重い遺伝性疾患をもった子を産まないように男女産み分けや受精卵診断をするべきだという話がでたり、あるいは重い遺伝病を根絶するために生殖細胞の遺伝子治療を進めるべきだという話がでたり、あるいは障害児の数が減ったほうが医療費の削減につながるという話がでるときには、この後者の思想が背後には存在していると考えられるのである。
 第三のケースに関して、さらに指摘しておくべきことがある。ひとつは、自然流産のことを例にあげて、障害胎児の中絶は倫理的に問題ないとする考え方があることである。すなわち、卵管内で受精した受精卵が子宮に達したとしても、うまく着床せずに流産したり、あるいは着床したとしてもすぐに流産することが多いと言われている。そして、このような自然流産のケースでは、流産した受精卵が染色体異常などの先天的な障害をもっていることが通常より多いとされている。だから、人間の身体の仕組みとして、そもそも障害をもった受精卵や初期胎児は流産しやすいようにできているのだから、障害胎児を人間の手で中絶することも、そういう「自然の摂理」にのっとったことをやっているだけなのであって、倫理に反するわけではないという反論である。
 たしかに人間の身体の機能として、染色体に異常をもった受精卵の着床ができにくいということはあるのだろう。しかしながら、障害胎児の中絶というのは、そういうバリアーをかいくぐって着床した胎児に対して行なうのだから、その反論は成立しない。その反論が適切なのは、体外受精で得られた受精卵を診断して、染色体異常などがあったものを廃棄するということに対してである。
 しかし、この後者の場合でも、ミクロなテクノロジーを利用して、人間の知性の判断によってその選別を行なうという点は決定的に異なっている。我々の知性や良識や知恵を介入させるという意味において、それは単なる「自然の摂理」の模倣行為ではない。それが倫理的に善いのか悪いのかについては別の議論が必要だが、しかし受精卵の選択廃棄が自然の摂理と同じだという反論は、的をはずしていると思う。
 第二の補足は、日本ではそもそも中絶が許されているのだから、障害胎児の中絶も問題ないはずであるという反論についてである。その反論は、もし障害胎児の中絶が「障害胎児抹殺の思想」なのであるのならば、そもそも中絶というのは「胎児抹殺の思想」であるわけで、どうして中絶一般を非難しないのかと言う。「障害胎児」を抹殺する思想は問題だが、「障害をもっていない」胎児を抹殺する思想には問題がないのかというわけだ。
 これに対しては、次のことを指摘しておく必要がある。まず、女性の権利とか、経済的理由とか、その理由は何であれ、中絶はそもそも「胎児抹殺の思想」であるということだ。正確に言えば、それは、自分のこの胎児の存在は抹消してもかまわないとする個人主義的な「胎児抹殺の思想」である。たとえば、中絶が女性の権利であるという主張は、この個人主義的な「胎児抹殺の思想」を正当化しようとするものである。ここは押さえておく必要がある。(もちろん私は、だから中絶を女性の権利として認めてはならないと言っているのではない。その逆である。森岡前記論文参照)。
 そのうえで言えば、「中絶一般」が個人主義的な胎児抹殺の思想であるからと言って、それを「障害胎児の中絶」と同一視することはできない。というのも、障害胎児の中絶の場合には、その胎児が<障害をもっている>という胎児それ自体の「生命の質」にかんする価値判断を行なったうえで、その存在を抹消しようとするからである。他者の生命の質にかんする価値判断が、その他者の存在抹消を左右するという意味において、これはたとえば親の経済的・精神的都合による中絶とは別カテゴリーに入る。
 だから、障害胎児の中絶を非難するときに、そのなかに含まれているところの、「他者の生命の質にかんする価値判断がその他者の存在抹消を左右する」という点への非難については、中絶一般を引き合いに出して反論しても、正しい反論にはならない。
 胎児に障害があったときにそれを理由として中絶するという、いわゆる「選択的中絶」の倫理性の核心部分は、「他者の生命の質にかんする価値判断がその他者の存在抹消を左右する」という点にある。さらに言えば、「他者の生命の質にかんする価値判断」というものと、「他者の存在抹消」というものが結合しているところに核心部分があるのである。
 たとえば、「他者の生命の質にかんする価値判断」をするというだけのことであるならば、多くの親は「自分の子どもは五体満足であってほしい」と願っているわけで、そこには「内なる優生思想」があるわけだが、もしそれだけならば選択的中絶ほどの深刻な倫理問題はかかえこまない。それが深刻になるのは、親が障害を理由にした中絶、すなわち存在抹消の決断をするときである。
 あるいは「他者の存在抹消」というだけのことであるならば、それは親の都合を理由にした中絶や、社会防衛を理由にした「死刑」や、自国の防衛を理由にした「戦争」などと同じか、あるいはそこまでも行かない(成人していない胎児だから)倫理問題である。これは、なにも中絶一般や死刑や戦争がたいしたことがないと言っているわけではなく、それらと同等の土俵で吟味できるような種類の倫理問題であるという意味だ。さらに言えば、避妊や男性のマスターベーションというものは、胎児が存在しはじめることを阻害しているわけで、遠い意味での「他者の存在抹消」とも言えるかもしれないし、とくに男性のマスターベーションは、将来の受精卵を生む可能性のあった精子の存在を抹消していることになる。
 選択的中絶というものは、この二つを結合させるところに出現する。そこには、我々の生命に対するかかわりかたの、ある極限の形があらわれている。それは、ナチスの人種レベルでの強制的な優生学とは異なってはいるものの、優生学の根本にあったものが、姿を変えて現代にふたたび出現していると考えられるのだ。
 第三の補足をしておく。私はいま「他者」ということばを使ったが、中絶を肯定する考え方のなかには、初期の胎児や受精卵はまだ<ひと>となっていないので、殺人にはならず、倫理問題は起きないと考えるものがある。胎児は、いつから<ひと>となるのかというこの問題は、生命倫理上の最大の難問だ。ひとつだけ言えるのは、胎児や受精卵というのは、少なくとも<ひと>になる<可能性>をもった存在者だという点である。そしてそれは、親にとっては、自分の子どもという、親密なかかわりをもたざるを得ないような「他者」へと育っていく、そういう<可能性>をもった存在者だ。胎児がすでに<ひと>であるかどうかというのは未決だとしても、それが「他者」へと育っていく<可能性>をもった存在者だというのは確かではないだろうか。だから、その<可能性>をどこまで強く評価するかという点が、ひとつの分かれ目になる。私自身は、その<可能性>を無視するような議論には反対である。しかしながら、同時に、胎児というものが、誕生して生活している我々人間たちと同じような存在者であるとは思わない。この議論は、また他の場所でくわしく行ないたい。

3 福祉社会への難問

 選択的中絶に典型的に見られるような「障害胎児抹殺の思想」は、障害者たちが批判するような「障害者抹殺の思想」と、どのような関係にあるのだろうか。この点について最後に考えてみたい。
 「障害者抹殺の思想」ということばで批判する障害者たちは、「障害児なら要らない」と考える親の思想が、結局は、この社会に存在している障害者にも振り向けられ、障害者はいっそう住みにくくなると言う。そういう思想が蔓延している社会では、いつまでたっても障害者は否定的な意味付けをされる存在者でしかありえないし、差別は残り続けるし、社会のお荷物というような意識を背負わされる。さらに、障害者は社会のお荷物なんだから、実験的医療の実験台になってもしかたないとみなされたり、世話がたいへんだという理由で卵巣の手術を受けさせられたりする。だから、そういう意味で、障害胎児抹殺の思想と、障害者抹殺の思想は結びついているとする。
 ところで、胎児診断の結果によって分かった障害胎児を中絶することを、当の障害者本人は、どのように考えているのだろうか。先に引用した座談会では、相反する二種類の考え方が語られている。
 まず、遠位型筋ジストロフィーの五二歳の女性は、次のように語る。

これに対して、顔面上腕肩胛型筋ジストロフィーの四七歳の男性は、次のように語っている。  障害者のなかにも、このような意見の違いがあるということは押さえておかねばならない。そのくらい、重くて複雑な問題をかかえているということだ。
 選択的中絶に一貫して反対してきた代表的なグループは、脳性マヒ者の「青い芝の会」のメンバーたちである。彼らの運動は、日本の障害者運動に一時期を画したし、とくに七〇年代の優生保護法改正をめぐっては大きな役割を果たした。しかし、すべての障害者が彼らのように考えているわけではない。
 選択的中絶を批判する障害者たちは、障害胎児抹殺の思想が、いま生きている障害者をとても生きにくくすると言う。
 それに対して、「いったん生まれてきた先天的障害者や、人生の途中で障害になった人たちに対して手厚い社会福祉を行なうことを前提条件にすれば、選択的中絶によって先天的障害者を生まれにくくしてもかまわないのではないか」という反論があり得る。まず、先天的な障害者をこの世に出さないようにしておいて、そのかわりに、いったん生まれてしまった障害者に対しては社会がきっちりとサポートするということだ。
 しかしながら、この考え方に対しては、次のような再反論がある。
 すなわち、いくら障害者に対して社会福祉を行なったとしても、その社会に住んでいる多くの人たちは「障害者はなるべく生まれてこないほうがいい」と心の底では思っているわけである。そういう意識は、人々のパーソナリティに影響して、彼らの日々の態度や行動に、無意識的に滲み出してしまって、結局のところ障害者が生きにくい社会になってしまう。そもそも、「障害者はなるべく生まれてこないほうがいい」と思っている人々に、障害者は介護されたりサービスを受けたりしなければならないのだ。それがどのような屈辱感を与えるのか想像できるのか。「障害者はなるべく生まれてこないほうがいい」という考え方と、「障害者に対する手厚い福祉」を切り離して考えることはできないのだ。それらは、けっして両立しないのだ。
 この再反論を、我々はどのように考えればいいのだろうか。
 さらに以下のような議論もあるだろう。すなわち、もしほんとうに手厚い社会福祉が障害者に対してなされて、障害者も何不自由なくその社会で生活できるようになれば、人々は「胎児に障害があるから中絶する」という行動をそもそもとらないようになるだろう。人々は障害胎児でも産む決断をして、その障害児を社会からのサポートを受けながら大切に育てるようになるはずだ。だから、社会福祉のかわりに選択的中絶を保障するという発想は的をはずしている。
 しかしながら、この議論には、そういう福祉社会をささえる経済的余裕と人手の余裕がどのくらいあるのかという点への配慮がない。高齢化が急速に進み、医療福祉費が膨れ上がる社会のなかで、どこまで大量の障害者を社会がささえきれるかという難問が残されている。
 もうひとつは、手厚い社会福祉が障害者に対してなされるような状況になったとしても、それでも「自分は障害児を産みたくない」と考える女性やカップルは存在するであろう。そういう人々に対して、「あなたたちは障害者を住みにくくする思想に加担している」と反省を迫ることはできるのだろうか。言い換えれば、そういう社会のなかで「障害児を産まない」という個人の自由は尊重するべきなのかどうか。このような難問が残されている。
 経済的問題に関していえば、胎児診断や、もっと簡便に行なえる出生前スクリーニングが広く行なわれるようになった場合、「障害児を産むのはあなたの自由だが、障害児の養育にかかる余分な費用については全額個人負担して下さい」というような行政判断がなされる可能性はある。パトリシア・キングは、アメリカの状況について、「例えば政府も民間団体も、出生前に遺伝性疾患があると診断されながら中絶されなかった子どもには、医療費の支払いを拒否できるようになった」と述べている(カレン・ローゼンバーグ、エリザベス・トムソン編『女性と出生前検査』一四三〜一四四頁)。このようなことが広まっていけば、障害児の養育費を個人負担できないがゆえに中絶するというケースがさらに拡大することになる。福祉社会への道のりには、このような問題が立ちはだかっているのだ。妊婦の血液を採取して、胎児の異常を推定するトリプル・マーカー・テストと呼ばれるものがあるが、アメリカのカリフォルニア州では妊婦全員にこのテストについて説明することが義務付けられている。その結果、妊婦の約半数がこのテストを受けるという(NHK教育テレビ『共に生きる明日・生命を選べますか』一九九六年四月二五日放送)。このような義務付けの根拠のひとつに、経済的問題への配慮があることは間違いない。
 このような出生前検査が広まっていくと、やがては、障害児を産まないことが妊婦の心得として強制させられていくかもしれない。妊婦は、障害児を産まないように生活をコントロールする倫理的義務があるのであり、もし障害児だと分かったならば、中絶してもう一度健常児を産むべく努力しなければならないというようなコンセンサスができあがる可能性も否定できない。最近の生命倫理の論文には、妊婦には胎児の子宮内環境を守る倫理的責任があると語るものも出てきた(Irena Pollard "Preconceptual/prenatal care of our children: on the ethics of drug-induced disabilities" Eubios Journal of Asian and International Bioethics 6:1 1-6, 1996)。
 生命と優生思想をめぐる問題群は、否応なく我々の心の底にまで侵入してくる。この論文で触れることができたのはその一部にすぎないが、それでもこの問題群の奥深さと複雑さは感じていただけたと思う。

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