本ページは「生命学HP」1999年10月12日付のスナップショットです


 

『生命学への招待』勁草書房(1988年3月) 239−254頁

姥捨山問題           森岡正博

                              *【000】は書籍のページの変わり目です

 最近、この国で静かに進行しつつあるいくつかの社会的な出来事の裏には、それらを互いに結び付ける、何か共通の糸があるような気がしてならない。
 朝日新聞の天声人語(昭和六二年一月二四日)はマザー・テレサの次のようなことばを紹介している。「東京で道端に倒れている人を見ました。通行人がだれも救おうとしないのには、ショックを受けました。助けてもまた戻ってくるからといって手をさしのべないのは、その人の尊厳を奪うことになります。」天声人語はこのことばをうけて次のように続ける。「多くの人は、この「正論」に頭を下げる。下げながらも、内心では公園や地下街に野宿する人びとを迷惑に思っている。」
 医大で聞いた話。重い糖尿病の女性が、合併症を起こし、ほぼ全盲となり、股間節もやられて歩行困難になった。そのうえ腎臓が悪化し尿毒症も進んでいるので、透析をする必要がある。ただしその場合、日常生活や通院のために、長時間の他人の介助が必要となり、かなりの額の出費が予想される。【240】医者はこの女性に透析を勧めるが、彼女ははっきりとした意思表示をしない。そこで医者は、彼女の家庭を訪問し、家族に事情を説明する。家族の皆さんのご協力があれば、彼女は透析を受けることができ、病状の悪化を少しでも遅らせることができますよ、と。ところが家族は、透析の勧めに対して賛成も反対もせず、ただお茶をにごすのみである。その脇で、彼女は、申し訳なさそうに、うつむいて座っている。
 この不幸な女性のために自ら犠牲を引き受けて手を差しのべよ、という医者の言い分は正論である。家族はこの正論には頭を下げる。下げながらも、それを迷惑に思う。
 年老いた親を離れに住まわせる。やがて親は、夜中に大声で騒ぎ、何度も何度も食事をさいそくし、いたるところで失禁を始めるようになる。痴呆性老人を抱えた家族の多くは、いずれその世話に疲れはて、精神も肉体もズタズタになって、結局は痴呆性老人を老人施設へ送るであろう。家族は言うかも知れない。「私の力ではこれ以上あの人の世話をすることはできません。老人施設でめんどうを見てもらった方が、あの人のためになるし、あの人もその方が幸せだと思います。」しかしその表現の裏には、「あの人のために私がこれ以上苦しむのはいやです」という思いが見えかくれする。
 痴呆性老人を抱えた家族に対して、「確かにつらいのは分かるが、その苦しみを両肩に引き受けてこそ、真に人間らしい行ないと言えるのですよ」と言うのはたやすい。これは正論である。しかしこの正論を、他人に対してだけではなく、自分に対しても責任をもって言える人が、どのくらいいるだろうか。自分の親が、親戚が、痴呆性老人になって、私と私の家族を苦しめ、私と私の家族の生活を【241】どん底にまで崩壊させたとき、それでもなお「私はこのすべての苦しみを引き受け、どんなことがあろうともこの老人の世話を責任をもって続ける」と断言できる人が、どのくらいいるのだろうか。
 人工妊娠中絶がこんなにも多いのはなぜか。若い女性たちはどのような動機で、人工妊娠中絶を選択するのか。彼が堕せと言ったから。経済的理由から。生まれてくる子供のことを思って。しかし、表面には出てこない重要な動機のひとつとして、「経済的に私が苦しくなるのがいやだから」「生まれてくる子供のことを思いやってではなく、子供を産んでしまったあとの私の生活のことを思って」という動機があるのではなかろうか。私はまだ若い。お腹のこの子さえいなければ、私はもっともっと楽しい生活をエンジョイすることができる。今、この時期に子供が生まれるのは、私にとってこのうえない迷惑である。だから、胎児にはかわいそうだが、私は人工妊娠中絶を選択する。
 これら様々な問題は、同じひとつの構造を持った問題として見ようとしない限り、ただのバラバラな出来事でしかない。これらの問題を結び合わせる共通の糸、それが「姥捨山問題」である。姥捨山問題は、現代、突然に生じたものではない。それは、その名が示すように、姥を背負って楢山に捨てに行った貧しい昔から、存在していた。ただ、その行為が、巧妙に姿を変えて、豊かな社会に生きる私たちの生活の思いもかけぬところにまで浸透している点が、現代の姥捨山問題の特徴であろう。
 現代、姥捨山問題は広義の医療の場面に集中して現れているように見える。しかしそれは、医療の場面での姥捨山問題の現れ方がショッキングなだけに、それ以外の場所で生じているものよりも、目立つためであると私は考えたい。姥捨山行為とは、石ころのようなモノを捨てる行為ではない。血も【242】涙もある生身の他者を捨てる行為である。他者を捨てるという行為が、他でもない、他者のいのちを救うことを至上目的とする広義の医療の現場で、私たち自身をも巻き込んでなされているという点が、人目を引きつけるのだ。
 私は以下、姥捨山問題について、少々探究してみたい。姥捨山問題なんて「言わずもがな」のことさ、という意見も当然あるだろう。しかし、「言わずもがな」のことをあえてことばに出して言ってみることもまた、大切なことだと思う。ましてや、ことばに出さずに「あうん」の呼吸にまかせることが、姥捨山問題の本質の一部をなしているとすれば、なおさらである。以下の叙述によって、姥捨山問題の構造は、思いのほか複雑で根が深いことがわかるだろう。

       *

 救命ボートの倫理という話がある。乗客をたくさん乗せた船が難破して、人々は救命ボートで脱出する。ボートの定員は六人。定員いっぱいになってようやく浮かんでいる救命ボートに七番目の人間が泳ぎ着いた。彼を乗せるとボートは沈没し全員死んでしまう。私たちは彼を乗せるべきか、それとも見捨てるべきか。
 これは典型的な極限状況である。では、次の例を考えて欲しい。
 定員六人の救命ボートに五人乗っている。そこへ六番目の人間が泳ぎ着いた。彼をボートに乗せた場合、一人分の食糧の割当が少なくなり、生活環境は極度に悪化して、ひとりひとりの生存の確率も【243】低下し、乗員の苦しみは急激に増加することになる。それでもかまわない、六番目の人間を乗せてみんなで苦しみを分かち合おう、というのは正論である。しかし実際には、この正論に頭を下げながらも、六番目の客を迷惑に思い、結局彼を見捨てることがあるかもしれない。
 姥捨山問題は、この後者の例に似ている。特に、これ以上の苦しみを引き受けることができるにもかかわらず、あえてそれを引き受けずに、他者を見捨てるという点が。
 たとえば、前述の尿毒症の女性が透析を受けることは、家族に莫大な負担をかけるかもしれない。そしてその結果、家庭は崩壊の危機に直面するかもしれない。しかし、そのようなすべての苦しみを引き受けて、彼女に透析を受けさせることは、決して理論的に不可能な行為ではない。家族がその気になりさえすれば、出来るはずである。出来るにもかかわらず、しない。
 痴呆性老人の世話は、家族に莫大な負担をかける。老人のしもの始末や食事の世話、そして行動の監視など、家族がすべて引き受けざるを得ない。家族は精神的にも肉体的にも疲労困憊する。しかし、老人の世話によって家族の誰かが死んでしまうわけでもない。異常な苦しみにあえぎつつも、家族が協力して、老人の世話を続けることは、不可能ではない。不可能ではないにもかかわらず、家族は老人を施設に送る。
 同じ構造は、人工妊娠中絶の場合にもみられることがある。赤ちゃんを産むことで、私の経済状態は悪化し、日々苦しい生活が待ち受けていることが予想される。しかし、健康な赤ちゃんを産んで育てることは、決して不可能ではない。不可能ではないにもかかわらず、私は赤ちゃんを見捨てる。【244】
 出来ないからしない、というのなら話は分かる。ところがこれらのケースでは、「出来るのに、しない」のである。出来るのに、しない。それはなぜか。それをすることで、私が(あるいは私の身内が)これ以上苦しむのがいやだからである。痴呆性老人の世話を続けることで、あるいは赤ちゃんを産んで育てることで、私がこれ以上苦しむのがいやだから、私は彼らを見捨てる。本人のためを思ってとか、そうするのが普通だからとか、様々な言い訳がなされるだろうが、心の奥底では、私がこれ以上苦しむのがいやだから彼らを見捨てるのだ。
 私の心の中に潜む利己傾向、私がこれ以上苦しむのは絶対いやだという利己傾向が、姥捨山問題を生む。ただし、姥捨山問題は、単なる利己傾向・エゴの問題ではない。
 痴呆性老人を施設に送る。あるいは人工妊娠中絶を行なう。そのあとで私は内心ほっとする。今までの緊張と苦しみはほぐれ、再び静かな生活がよみがえってくる。しかし、やがて、私は自分のした行為に対して新たな苦しみを覚えるようになるだろう。自分のエゴを通して他者を捨ててしまったことへの悔恨と、自責の念と、それに対する正当化が、私の心の中で激しく衝突する。その衝突を経験することは苦しみである。私が他者の世話をすることでこれ以上苦しむのはいやだから、私は他者を捨てたはずなのに、今度は捨てた行為そのものが、私を苦しめる。捨てずに世話をするのも「苦しみ」、捨ててしまうのも「苦しみ」。姥捨山問題は、このような苦しみの構造を持っている。自分の利己傾向を見つめることの苦しみなど、痴呆性老人を世話する苦しみに比べれば、微々たるものだ、と人は言うかもしれない。しかし、自分の利己的行為を正面から見つめたときに、さしたる煩悶を覚え【245】ないほど、人間は利己に徹しきれる動物ではない。
 では、これ以上苦しむのがいやな人はどうすればよいか。答え。捨て方を考えればよい。千葉県動物愛護センターは、一年間に、捨て犬二万五千二百五十二匹、捨て猫七千三百四十五匹を受け入れた。そのほとんどは、殺処分になった。「殺処分施設は、あってはならない施設だと思います。しかし、犬、猫が捨てられるという現実を、じゃあだれが引き受けるのでしょう。……人間のエゴでしょうね。結局、自分の命の貴さしか感じていないのではないでしょうか。そして、自分は残酷なことはしていないと思いたいから、こういう施設が必要になる。」(朝日新聞、昭和六二年七月三日朝刊・金曜ひろば)
 残酷なことはしていないと思えるような形で、捨てればよいのだ。私は確かに他者を捨てたのだが、実はそれが結局は彼自身のためであり、私は自分の行為に苦しみを感じる必要など全くないのだ、と自分に言い聞かせることができるような形で。
 そのような、いわば社会的に認知された言い訳を、ハード面で支えるものとして、「施設」はあるのだと思う。そして、それをソフト面から支えるものとして、ある独得の言説システムが用意されている。

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 その話にはいる前に、ここで述べておくべきことがある。道端に倒れている人は、どんな人であれ助け起こすべきである、というのは正論であった。どんな苦しみを背負うことになっても、自ら犠牲【246】を引き受けて痴呆性老人の世話をせよ、というのは正論であった。救命ボートに六番目の人間を助け上げよ、というのは正論であった。ところで、「正論」とはいったい何のことだろうか。
 正論とは、理想化された人間に対して発せられる、倫理的な命令である。しかし、私たちは聖人君子のような理想的な人間ではない。すべての苦しみを引き受けて老人の介護をせよ、という倫理的な命令に対して、私たちは頭を下げる。本当はそうすべきであることを、私たちは良く知っているから。ただ、私たちのすべてが、その理想論を実行できるわけではない。私たちの多くは、結局は自らのエゴに負け、正論には頭を下げながらも、痴呆性老人を捨ててしまう。すべての苦しみを引き受けて痴呆性老人の介護をせよ、という命令の価値が分からずに老人を捨てるのでもなく、その命令を間違ったものとみなして老人を捨てるのでもない。その命令は正論であり、倫理的には正しいということを十分承知しながらも、老人を捨ててしまうのである。
 私が苦しむのがいやだという利己傾向が姥捨山行為を生み、その姥捨山行為が今度は再び私を苦しめる。それにもかかわらず、姥捨山行為を生む原因となった傾向を、私たちの多くは、決して克服することができない。老人を捨てるのはよくないことだと分かってはいても、あるいは自分の楽しい将来のために胎児を中絶するのはよくないことだと分かってはいても、私は結局彼らを捨ててしまう。利己傾向を克服できないという、人間の弱さ、これが姥捨山問題を育む土壌となる。
 正論にのみ立脚する倫理学というものがある。すべての人に正論を説き、利己傾向に陥りがちな人間を、あらゆる方法で正論へ導こうとする。正論の倫理学にとって、老人を捨ててしまう人間のこの【247】弱さは、克服されるべき弱さである。
 しかし私たちの多くは、正論が正論であることを承知しつつも、他者を捨ててしまう。老人をすでに捨ててしまった私に対して、苦しみを引き受けなかった私に対して、正論の倫理学はいったい何を与えてくれるのだろうか。正論の倫理学は、結局、「すべての苦しみを引き受けて痴呆性老人の介護をせよ」という正論をここでも繰り返すのみではないだろうか。正論を正論と知りつつしかも他者を捨ててしまった人間に対して、正論を繰り返し説いたとしても、それは何の解決をも導かない。いついかなる場合においても、正論のみを振りかざす倫理学があるとすれば、それは正論を振りかざすことの自己満足や快感におぼれているのであろう。
 姥捨山問題が生じる状況において、正論の倫理学は不毛である。「こうすべきだ、ああすべきだ」と述べることで自足してしまう倫理学ではなく、すべきではない行為を結局はしてしまう人間を見つめ、その人間の立場に立って、その人間がその人間のままで何をすればよいかを考える倫理学こそ、そこにはふさわしい。

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 姥捨山問題の最大の特徴は、それが、自らを見えにくくする仕組みを備えていることである。このような仕組みが存在するからこそ、姥捨山問題は、単なる人間のエゴの問題としてではなく、まさに、「姥捨山問題」として問われなければならない。【248】
 自らの行為が姥捨山行為であることを見えにくくする最も簡単な仕組みとして、問題状況を決して言語化しないという暗黙のルールの存在があげられる。尿毒症の女性に透析を受けさせるかどうかについて、賛成も反対もせず、ただお茶を濁している家族は、あえて言語化しないことによる意思決定、つまり臭いものに蓋をしたまま相手に「あうん」の呼吸でわからせる、という態度を選んでいる。相手がこの暗黙のルールを了解して、呼吸が通じたとき、家族は臭いもののにおいを直接かぐことなく、姥捨山行為を完了することができる。「あうん」の呼吸を通じさせることで、私は自分の姥捨山行為から目をそらすことができ、姥捨山行為がもたらす苦しみを軽減することができる。「あうん」の呼吸とは、姥捨山問題を見えにくくするための、ひとつの装置である。
 姥捨山行為がもたらす苦しみから逃れるもうひとつの道は、私が苦しまないような方法で他者を捨てることであった。そのためには、自分に言い聞かせる「言い訳」があればよい。たとえば、「施設に入ってもらうことが結局は痴呆性老人のためになるのだから」という言い訳によって、自分を十分納得させることができれば、私はさほど苦しむことなく老人を捨てることができる。もし社会の中に、「施設は老人のためになる」という共通了解が形成されていれば、この言い訳はさらに効果的に機能するだろう。共通了解は言い訳を裏付け、より説得的なものにする。
 ところで私たちの住んでいるこの社会には、実は、このような働きをする共通了解が、津々裏々まで、はりめぐらされているのではないだろうか。共通了解という形で、私の目をうまく閉じさせる仕組みが、この社会には備わっているのではないだろうか。【249】
 妊娠初期の胎児診断によって、胎児の重大な異常が発見されたとする。そして妊婦の意志によって、選択的人工妊娠中絶が可能であるとする。わが国では、このような問題に対する倫理的な指針を、言説レベルの論議に求める習慣がまだ少ない。ことばには出さず、「あうん」の呼吸で処理してしまうことが多い。だが、もし、このようなケースにおける倫理的指針を、生命倫理の公の論議に求めた場合、どうなるだろうか。
 およそ三つほどの考え方がある。ひとつは、共苦の実践を勧める考え方。つまり、生まれ出てくる新生児と共に苦しみを分かちあい、その苦しみがやがて喜びへと開花するのを待つ。もうひとつは、女性の自己決定権の考え方。人工妊娠中絶するか否かは、純粋に妊婦の自己決定権にゆだねられる問題である。三番目は、生命の質の考え方。価値の低い生命は生かしておく必要はないので、人工妊娠中絶をしてもよい。(これらに、生命の尊厳論や人格論がからんでくる。)
 ところで、選択的中絶のケースの中には、姥捨山問題をその本質とするようなケースがあるはずである。すなわち、障害を持った赤ちゃんを育ててゆくのは理論的には可能であるのに、私が将来苦しむのがいやだから人工妊娠中絶をし、人工妊娠中絶という行為によって再び苦しまないように、それに目を閉じようとする。そして人工妊娠中絶に至る原因となった私の利己的傾向は結局克服できないようなケースが。
 ところが右にあげた三つの考え方はどれも、この種のケースの本質である姥捨山問題を、見事に視野からはずすような構造になっている。【250】
 たとえば共苦の実践の考え方は、要するに正論の倫理学であり、多くの人間が自らのエゴを脱却できないという事実に目を閉ざしている。すべてを女性の自己決定権に収斂させる考え方は、私がこれ以上苦しむのがいやだから他者を捨て、今度はその捨てた行為によって私が苦しむという苦しみの重層性が、全く見えないような構成になっている。生命の質の考え方は、私がこれ以上苦しむのがいやだから他者を捨てるということを、その段階で実質的に肯定しており、この開き直りとも見える肯定の壁によって、その先に潜む問題が遮断されるかっこうになっている。
 姥捨山問題をその本質とするような選択的中絶のケースを論じる際に、その論議が、姥捨山問題をとらえることのできないこれら三つの考え方を軸とする論争へと変容してしまう点に、注目したい。この論争の形態こそ、私たちの目を姥捨山問題からそらすための言説システムとして機能するのではないか。言い換えれば、姥捨山問題の解決を、「あうん」の呼吸ではなく、言説レベルに持ち込んだとしても、そこには、姥捨山問題を視野からはずしてしまう言説システムしか用意されていないのではないか。すなわち、本当は姥捨山問題であるはずの問題を、それが姥捨山問題であるという事実に目を閉ざしたまま、倫理的に議論できるような仕組みに、この社会の言説システムは出来上がっているのではないだろうか。
 では、誰がその仕組みを作り上げたのか。どうして、社会は姥捨山問題を見えにくくする仕組みを備えているのか。答えはひとつしかない。私自身がそれを作り上げたのである。いや、正確には、「私たちが」と言った方がよい。私たちが、二重の苦しみから効果的に目をそらすための装置を望み、【251】それを作り上げたのである。私たちの多くが、二重の苦しみから目をそらすための共通の仕組みを望むとき、言い換えれば、「私の姥捨山問題」が「私たちの姥捨山問題」として共有化されたとき、それに呼応して社会のレベルで、その仕組みがおのずから立ち現れてくるのである。

       *

 虚心に、世界の姿と人間の生きざまを眺めてみよう。私を苦しめる出来事から距離をとって、情報から身を遠ざけ、目を閉ざすことによって、私の良心の苦しみが癒される、という構造にこの世界はなっている。姥捨山問題は、医療現場にのみ現れる問題ではない。想像力を広げることで、姥捨山問題は、現代社会のあらゆるところに見出せる。
 たとえばアジア・アフリカで飢餓に苦しむ人々がいる。その一方で私たちはこの国で大量の食糧とエネルギーを消費し、幸福に生活を送っている。どうして私たちは南の飢える人々と苦しみを分かち合おうとしないのだろうか。私たち全員の所得の半額を有効な援助に提供し、彼らに食糧と住居と技術を与え、彼らが自立できるようになるまで彼らと苦しみを分かち合うことも、理論的には可能なはずである。しかし私たちの多くは、そのことが分かっていても、そのような行動へは移らない。せいぜい、アフリカのごく一部地域の子供たちに毛布を一度だけ送るという、きわめて姥捨山的な行為をするのみである。
 私たちはこれ以上苦しみを増やすのがいやなのだ。南の人々と苦しみを分かち合え、というのは正【252】論である。しかし、いくら正論を説かれても、私たちの多くは内心それを迷惑に思う。確かに南の人々の惨状には心が痛む。しかし、いったん南の状況に目を閉じれば、日々の食事はおいしく味わえるし、食後のひとときはこんなにも幸福である。なんといっても南の国々は遠い。日々の身の回りの生活に没頭していれば、南の人々の苦しみも、南の人々を助けようとしない私の苦しみも、忘れることができる。
 ボートピープルと呼ばれる難民がいる。先進諸国の中で、私たちの国ほど、彼らの受け入れに消極的な国はない。彼らはまさに大洋のまん中に捨てられている。楽しい生活をエンジョイしようと胸膨らませている若いカップルにとって、お腹の中の胎児が招かれざる訪問者であるのと同様に、豊かなわが国にとって、移住を希望してくるボートピープルは、私たちの幸福をかき乱すかもしれない招かれざる訪問者である。
 難民の受け入れに関して、わが国の世論が盛り上がらないのはなぜか。そして、知床の森林伐採や脳死に関してはあれほど盛り上がったマスコミが、第三世界からの難民の受け入れについては、こんなにも鎮静化しているのはなぜか。それは、結局、私たちの多くが、それを望んでいるからではないのか。私たちを二重の苦しみに陥れるかもしれない情報をカットするように、私たちが心の底で望んでいるからではないのか。そのような仕組みに支えられて、私たちはこの国で、幸福に暮らしている。

       *【253】

 私は姥捨山問題を、個人の内面の問題として語りすぎただろうか。確かに姥捨山問題は、社会システムの問題、すなわち本来ならば苦しみを分かち合うはずの人々のネットワークが、現代、崩壊しつつあるという問題でもある。しかし現代の風潮として、老人問題や南北問題を、単に経済社会システム固有の問題としてのみとらえ、その底に潜むはずの私の心の問題に対して、目を閉ざそうとする傾向があるように思えてならない。そのような風潮は、まさに、私がこの論文で述べたような、姥捨山問題を見えにくくする言説システムとして機能する恐れが十分にある。
 私はこの論文で、姥捨山問題を、肯定も否定もしなかった。老人を捨てるのが悪いとも、南の人々と苦しみを分かち合わなくてもよいとも言わなかった。私がこの論文で行なったのは、ただ、姥捨山問題の姿と構造を明るみに出すことであった。
 では明るみに出た姥捨山問題に、私たちはどのように対処してゆけばよいのか。ここに至って私たちは、姥捨山問題がはらむ最大の難問に直面することになる。
 まず、姥捨山問題の単純な肯定は、姥捨山問題の状況に対して目を閉ざすことになり、姥捨山問題という視点そのものを解消してしまうことにつながりかねない。これに対して、姥捨山問題を単純に否定することは、姥捨山問題に対して正論を説くことになり、これまた姥捨山問題から目をそらすことへとつながってしまう。かといって、肯定も否定もしない態度を続けていると、いつのまにか姥捨山問題は姿をくらましてしまう。姥捨山問題は常に自らの姿を見えにくくする方向へと運動を続けている。このような問題に対しては、肯定/否定の二分法はもはや通用しない。【254】

       *

 多くの人は、口には出さないまでも、姥捨山問題についてすでに充分気付いているに違いない。その意味で私たちは、言わずもがなのことを、あえて口に出して言ってみただけのことかもしれない。
 しかし私たちの試みの最大の挑戦は、姥捨山問題が「自らの姿を見えにくくする仕組み」を備えているという点を、明るみに出すことにある。その仕組みが十全に機能しているからこそ、私たちは口に出して言うべきことを、言わずもがなのことへと押し込めてしまうのである。この得体のしれない「自らの姿を見えにくくする仕組み」とは、いったい何か。その仕組みは、私たちの思考回路の中で、あるいは社会システムの中で、どのような位置を占めているのか。
 姥捨山問題に対決するために、いま必要なのは、常に自らの姿を隠そうとする姥捨山問題の運動に逆らって、姥捨山問題を私たちの日常生活の隅々に、そして世界の至るところに新しく〈発見〉しようと試み続けることではないだろうか。このような〈発見〉の継続のみが、姥捨山問題をとらえる数少ない道ではないだろうか。
 たとえば南北問題を姥捨山問題として見る。南北問題を、そのような構造を持った問題として見る。地味ではあるが、このような〈発見〉をひとりひとりが積み重ねてゆくことから、姥捨山問題への道はひらけるのだと思う。そしてその〈発見〉の継続の中から、姥捨山問題の本質と、「自らを見えにくくする仕組み」の実体が、しだいに露わになってゆくに違いない。



*入力支援 久保文彦

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