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柳田邦男編『現代日本文化論6・死の変容』岩波書店 (1997年1月) 93−116頁

脳死との出会い      森岡正博

 いままでこころの内にそっと秘めていたことを、語ろうと思う。
 私は一九八九年に『脳死の人』という本を出版した。そこで、私は、脳死というものを、脳死の人をめぐる人と人との関わり方であると考えた。そして、家族の視点、親しかった人々の視点から、脳死というものをとらえようとした。この本は、当時の脳死論に一定のインパクトを与えることとなった。
 一九八九年と言えば、脳死臓器移植問題が社会的に大きくクローズアップされ、テレビや新聞などのメディアでさかんに取り上げられていた時期である。京都に移ったばかりの私も、あちこちに引っぱり出されて、とまどいながらも発言を続けていた。
 一九九〇年の夏、滋賀医科大学の学生から連絡があって、秋の学園祭で脳死など生命倫理の問題をとりあげるので、そのシンポジストになってほしいとのこと。断わる理由もないので、お引き受けすることにした。打ち合わせのために、三名の学生さんたちが、新築間もない私の職場へ訪ねてきた。そのうちのリーダー役らしいひとりの女性が、シンポジウムの狙いを語り、私に対する期待を語った。彼女は、私の『脳死の人』を読み、とても興味を持ったと言った。ぜひ、その本で展開したような意見を述べてほしいと。その女性、藤原好(よしみ)さんの、きらきら光る眼差しは、とても印象深く脳裏に刻み込まれた。
 一九九〇年一〇月二八日に、滋賀医科大学で開催された公開討論会「日本におけるお任せ医療について―患者と医師の新しい関係を考える―」は、とても好評だった。学生が主体となって作り上げた討論会らしく、参加したみんなが、それぞれ本音で語り合えた。藤原さんは、司会を無事にやり遂げた。すばらしい会だった。
 一九九四年、私の職場で開催していた共同研究「生命と現代文明」で、現代医療と看護の問題をとりあげることになった。現場の一線で活躍されている看護婦の方や、医療現場で調査に当たっている学者の方に発表していただくことにした。そんなとき、ふと、二年前に出会った滋賀医科大学の藤原好さんのことを思い出した。彼女はもう卒業して、研修医になっているだろうか。あの生き生きとした、問題意識の旺盛な女性は、どんな医師になったのだろうか。もし、時間に余裕があるのなら、この共同研究会にオブザーバーとして出席してくれないだろうか。そうしたら、お互いに、きっと実りあるものになるはずだ。そう思って、彼女の自宅に研究会の案内状を出した。それを投函したあと、二年前のことを、なつかしく思い出した。会うのがとても楽しみだった。
 数日後、電話が鳴った。
 私は受話器を取った。
 「森岡です」
 一瞬の沈黙があって、女性の声がした。
 「藤原と申します」
 私はすぐにピンときた。
 「藤原さん、お久しぶりです。お元気でしたか」
 ちょっとうれしくなった。
 しかし、電話の向こうから聞こえてきた返答は、想像を絶するものだった。
 「私は、藤原好の母です」
 「あ、はい」
 「研究会の案内状ありがとうございました。ですが、好は、一年前に亡くなりました」
 私は、どう反応していいのか分からなかった。
 彼女は続けて言った。
 「好は、脳死になって、亡くなりました」

  私の『脳死の人』を読んで、私に講演を依頼しにきた二七歳の医学生が、その三年後にヘルペス脳炎が原因で脳死の人となり、死んでしまった。私は、その事実を、どう受け止めればいいのか、まったく分からなかった。そう、まったく分からなかった。
 この、宙吊りにされたような感じ。その人とは、たったの二回しか会ったことがない。人生で触れ合ったのは、ほんの、ほんの一瞬にしかすぎない。私の脳裏には、その人の、若く元気だったときの姿が、そのまま焼き付いている。私は、彼女の脳死の姿を見ることもできなかったし、冷たくなった姿を見ることもできなかった。そのくらいの、たんなるゆきずりの他人にすぎない。
 でも、私が受けたこの衝撃は、いったい何だろう。脳死になって死んだということを聞いた瞬間に、私のなかにわき起こってきた、このやるせない、切ない感情は何なのか。死のことを聞いた瞬間に私のなかに立ちのぼってきた、この生気に満ちた彼女のイメージは何なのか。「彼女は生きているはずだ、どこかで」という思いを断ち切ることができなかった。
 しかし、彼女はすでに一年以上も前にこの世からは姿を消したわけで、その事実との落差が、私にはきつかった。それに、やっぱり、「脳死の人」になって死んだというのがつらかった。私たちは、あのとき、脳死についても語り合った。これから医師になっていく彼女にとって、脳死とは何かという話もした。脳死という事象に、いまの医療の様々な問題が集約してあらわれているというような話もした。私の話に、彼女は真剣にメモを取っていた。ふと目をそらして、窓から外を眺めるときの、彼女の生気に満ちた表情はいまでも思い出す。
 藤原好さんの母上、康子さんと会うことにした。
 藤原康子さんは、好さんの死について淡々と語ってくれた。学園祭の準備のときには、私の『脳死の人』を興味深く読んで、とても面白がっていたと私に伝えた。彼女は、好さんの死後、その思い出をまとめるために、『飛翔』という文集を自費でまとめられた。そこには、好さんの脳死に至る経過や、彼女の友人・先生たちによる数多くの感動的な文章がおさめられている。
 私はその文集を受け取って、パラパラとページをめくってみた。好さんの写真がたくさんある。友人や先生たちとの楽しそうな姿の数々。そのなかには、私と出会ったころのショートの髪型をした姿もある。ショートカットの下で揺れる、大きめのイヤリングは、とても素敵だった。その横顔を、ありありと思い出す。文集のなかに、学園祭のパンフレットが載っている。そしてその隣には、おそらく彼女が書いたと思われるメモがある。討論会のテーマを箇条書きにしたもので、「日本人の意識構造」「患者の権利意識」「医療現場における人間疎外」などの項目が並んでいる。私は、そのメモを、たしか打ち合わせのときに見た覚えがある。その記憶は、私を、そのメモを持っていた好さんの姿へと連れ戻してゆく。
 三人の滋賀医科大学の学生さんたちが、私の職場を訪ねてきたとき。クーラーの入った部屋に彼らは入ってきて、誰かが私の壁にはってあるビートルズのポスターを指さして、ビートルズ好きなんですかと聞いた。そして私たちは、学園祭のテーマについて、語り合った。藤原好さんは、三人のなかでもいちばん年長であるらしく、話をまとめるのがうまかった。彼女は、最初は心理学の勉強をしていたこと、そのあとで医学部に入りなおしたことを教えてくれた。心理学から医学部というコースをたどったという話は、とても興味を引いた。だから、医療現場のインフォームド・コンセントなんていう話題を、自分から考えようとしているのだろうか。そう思った。当時、彼女は『脳死の人』に共鳴していたらしく(『飛翔』一八頁)、われわれのあいだの基本的な意思疎通はきわめてうまくできたように思う。
 藤原康子さんから手渡された文集をめくりながら、そんなことが、一気に脳裏によみがえってきた。藤原さんは、この文集をぜひ私に読んでほしいと言った。私は、いまからすぐに読ませていただきますと答えた。そして彼女に、今度の研究会に来てみませんかとお誘いした。彼女は、こころよく受けてくれた。彼女と別れてから、私は自室に戻って、文集を舐めるように読んだ。

  そのときの読書体験を、私はどのように表現すればいいのだろう。
 二九歳で脳死の人となって生を閉じた、藤原好さんという女性の生命が、この文集のなかに脈打っている。その文集に文章を寄せたたくさんの人たちの「思い」のつながりあいのただ中に、彼女のいのちは、こうやって生き続けている。その思いのつながりのネットワークのなかに、こうやって文集を読んでいる私もまた組み込まれているのだ。そして、そのネットワークの細い糸を伝って、生々しいいのちの流れが私のこころのなかに入り込み、そして私のなかで存在しつづけていた好さんの姿に生命を与え、それをなめらかに動かしはじめる。
 好さんは、文集を読んでいる私のなかに、いまここで、生き続けている。なぜなら、私は、好さんの生命の熱さや、なまめかしさや、ほとばしるそのいのちの流れを、ありありとこの心身で実感できるからだ。この世界に物質としてはなにも存在しなくても、私はそういう流れをありありと感じることができる。そのような、なにか生きた塊のようなものとして、好さんは、いまここで生き続けていると思わざるを得なかった。私にとってまだ未知であった彼女の様々な姿が、私の前に開かれてくる。その濃密な時間の経過。しかしながら、彼女はすでに一年前に死んでいるのだ。もうこの世には存在していないのだ。読みながら、私は様々なことを記憶の底から思い出し、手が震えた。いまから思えば、そのときに私が思い出していたのは、好さんのことだけではなく、それまでに私がかかわりをもった別の幾人かの人間たちとの過去の出来事も、そこには含まれていたのにちがいない。好さんの文集は、そうやって、私個人の深い記憶の層の奥底にまでたしかに届いたのだった。
 読み終ってから、私はしばし呆然と椅子に座り込んでいた。たったいま、この文集から立ち現われてきた彼女の生々しい姿と、その彼女が実は一年以上も前に死んでいるという事実とのギャップを、どういうふうに理解していいのか分からなかった。このやり切れない、せつなすぎる感情はいったい何なのか。それに加えて、もうひとつの謎が私を襲う。どうして、私の『脳死の人』に共鳴して私をたずねてくれた人が、そして私の出席するシンポジウムの企画・準備・司会をしてくれたその人が、そのすぐ後に脳死になって死んでしまったのか。あんなにせつない文集を一冊のこして。
 文集『飛翔』は、ご両親によって編集された自費出版の書物である。小部数のため、脳死の現状に興味をもたれる方々のあいだにもほとんど出回っていない。好さんが私の本を読んで私を滋賀医科大学の学園祭で紹介してくれたように、私もまた好さんの生と死の一片を、読者に紹介したい。それが、亡くなった好さんから届けられた一冊の文集を手にして震えている私に課せられた、責務であると思うからである。
 文集の冒頭に、藤原康子さん、藤原史和さんご両親による、好さんの死までの闘病の記録がある。これは、現代の病院医療の現実を知るうえでも貴重な記録である。そして、そこには、脳死になった好さんに対するご両親の生命観がみごとに表現されている。
 好さんが発病したと思われるのは、一九九二年一二月一七日のことである。好さんは医大の近くの瀬田に一人住まい。この日は、京都市上桂の自宅に帰ってきたが、頭痛を訴える。解熱剤を飲んだが、三八度を超える熱があり、トイレで倒れた。そして昼ご飯を食べていたときに、お茶碗を握りしめたまま一分弱意識を失う。次の日、熱が三九度台まで上がり、開業医で診てもらうが、風邪であるから休養していれば治るだろうと言われる。同日、午後一一時二五分、痙攣発作がおきて意識を失い、冷汗が出る。すぐに救急車が呼ばれ、向日市にある救急病院に運び込まれる。CT、胸部レントゲンには異常がなく、これは「ヒステリー」であって、ストレス等の原因によるものであるという説明を受ける。
 翌日、好さんの意識は回復する。このとき、母親の康子さんとベッドサイドで久しぶりにこころを開いた会話をする。康子さんは、もっと親に甘えてくれてもいいのにと、好さんを抱きしめる。次の日、好さんは親しい先生たちが自分を覗き込んでいるという一種の臨死体験らしいものを経験している。好さんの様子がおかしいので、康子さんは主治医に次のように言う。

 好さんは無意識にいろんな身体運動をするようになる。康子さんは転院を考えはじめる。次の日、好さんにチアノーゼが出る。ここではじめて、好さんの髄液が取られ、検査に回される。ご両親は自分たちで奔走して、好さんの大学である滋賀医科大学病院第三内科にようやく転院できることになった。この救急病院の最後の夜の様子。  発作がおきて救急車で運び込まれた一二月一八日の深夜から、転院する二二日朝までの三日間半、こういう状態の救急病院で過したことが、好さんの脳死へのプロセスに大きな影響を与えたであろうことは容易に想像が付く。この病院での診断は「ヒステリー」。治療・看護状況も、康子さんが描写するような状況である。
 康子さんは、好さんの死後一カ月たってはじめて、やっと医学書をひもといて、真の病名である「ヘルペス脳炎」について調べる。すると、好さんの症状の進行の様子や、不可解な無意識行動などすべてが、「数学の解答を見てから、問題を解くように」理解できたという。「まるで、テキストどおりの症状を網羅していることに気付いた。その上、発病年齢のピークが九歳以下と二十九・六歳にあることなど、全く典型的な単純ヘルペス脳炎であることが理解できた」とのこと(二五〜二六頁)。ちなみに好さんは当時二九歳であった。康子さんは、しかし「今となっては、誰にも責任を問いたくない」と述べておられる(二六頁)。私もこのお気持ちは大切にしたいと思う。
 康子さんは、同時に、患者の家族として、ご自分が体験された救急医療に対して疑問を投げかけておられる。  そして、それを解決するために、「病院の学閥、閉鎖的な体質、秘密主義」を取り払い、医師は自分の専門分野以外にも広く研究のまなざしを向け、病院間に風とおしのよいネットワークシステムを確立することが必要だと提言している。現代の病院医療がかかえる矛盾を指摘した貴重な提言である。襟を正して聴かなければならないと私は思う。

 さて、好さんは二二日の午前中に滋賀医科大学病院に到着する。ただちにICUに入り、「ヘルペス脳炎」の診断を受ける。そして、一〜二週間が山であり、予後は四〇〜三〇%であると説明される。好さんのからだには様々な管やモニターが取り付けられた。「何か人間的なものを離れ、サイボーグ人間のような、物体になったような、そんな気がして依り付きにくかった」と康子さんは述べている(一一〜一二頁)。やがて、好さんの意識が戻るようになる。家族の語りかけにうんうんとうなづくようになり、大学の先生や友人たちも見舞いに来てくれる。
 一二月二六日、突然モニターが異常を知らせる。脳幹ヘルニアになったらしいとのこと。翌日、医師から、ヘルペス脳炎が原因の脳幹ヘルニアになったという説明を受ける。ほぼ脳死に近い状態であると言われる。父親の史和さんは次のように書いている。

 ここには、肉親が脳死の診断を受けたときに多くの人がもつ実感が、率直に表現されている。脳死の状態になったということは理解できるのだが、人工呼吸器のおかげで体もまだ暖かい。血液も全身をめぐっている。心臓も動いている。だから、死んだという実感がわかない。ただ、そこで深い眠りについている(昏睡状態)だけのようにみえる。このような感覚は、これまでも、実際に肉親、とくに子どもを脳死状態を経て亡くされた方々から報告されている(杉本健郎『着たかもしれない制服』波書房(一九八六年)など)。
 脳死になったらもう意識はないし回復もしないという説明を頭では理解していても、自分の感情と身体はそれを「実感」として受け止めることができない。頭での理解と、全身での実感という、ふたつの世界観・リアリティのあいだで、ただ揺れ動くしかない。人間とは、そういうものだと私は思う。どちらかのリアリティが正しいわけではなく、そのようなお互いに矛盾するいくつかのリアリティを、同時にまとめて生きなければならないのが人間の生命なのだ。頭で分かっても身体・感情が分からないという事態そのものを、人間の真実としてとらえてゆくような視点が必要なのだ。
 なぜ、体がまだ暖かい脳死の人を前にして、死んだという実感がわかないのかと言えば、それはおそらく、脳死の人の暖かい体と、それを見たり感じたりしている親しい人の心身のあいだに、ある親密な関係性と歴史性がなお強固に成立していて、それが脳死の人をまだ「いのち」あるものとしているからであろう。「いのち」は関係性と歴史性のなかに成立し、そのなかで育まれていくものである。だから、親しい人々とのあいだの「いのち」の関係性と歴史性がその場から消え去らないうちは、脳死の人は、親しい人々にとってまだ「いのち」をもっていると言えるのである。そして、その関係性と歴史性をささえるものとしては、「元気なときの面影」と「あたたかいからだ」が、とても重要になってくる。親しい人にとっては、「元気なときの面影」と「あたたかいからだ」のほうが、その重要性において、「脳内の科学的情報」よりもはるかに勝っている。
 史和さんは述べる。「ここ数日で好の人生も終わるのか。そんなことを考え、一方では、死後の準備もしておかなければならないと心は乱れる」(一五頁)。脳死の説明を受けてそれを理解した後でも、史和さんは「ここ数日で好の人生も終わるのか」というふうに、<好さんがまだ生きている>というリアリティを保ったままである。
 一二月三〇日から、翌年一月一三日までの、史和さんの記述を追ってみよう。  好さんの手を握ると温かいこと。そしてそれを確認することで、自分が安心することなどが記述されている。娘さんの温かい体温をもった手に触るということが、史和さんにとって、とても大きな意味をもっていたのだということが伝わってくる。史和さんにとって、脳死状態の好さんは、こころから「ガンバリや!」と声をかけてあげることのできるような存在者なのだ。
 同じ時期の、康子さんとご兄弟の様子も、康子さんによって次のように記されている。  好さんの体を丁寧に拭いて髪をとかしてくれる看護婦さんに感謝し、妹さんはチェックのリボンを好さんの髪に結んで、自分の身にもそれを付ける。康子さんは、好さんの体にボディーローションを塗って、香水をつけてあげる。脳死状態になった好さんと言う存在者は、家族のなかで、このような親密な関係性をつむぎだせるような、そういう存在の仕方をしているのである。そういう行為を親しい家族にさせてしまうようなある種のパワーを、好さんはまだ保っている。家族にとって、脳死状態の好さんは、けっして死せる物体ではない。好さんは、家族のこころのなかに、大きなとまどいと安心を呼び起こすパワーを秘めており、このような行為をうながすパワーをもっているのである。そのような意味での「いのち」を、脳死状態の好さんはもっているのである。
 一月一四日深夜、好さんの心臓はとうとう停止した。家族が駆けつけたときにはすでに心臓マッサージが行なわれていた。午前一時二六分心臓停止。
 史和さんの記述。  康子さんの記述。  康子さんは、脳死とはいえどもそれは生きているのであり、心臓死が本当の死なのだという実感を書いている。親しい関係性を生きてきた人間が、このような実感をもつという事実を、われわれはけっして無視してはならない。脳死は科学的に見れば死であるという言説があるが、それは誤っている。現に生活している人間の真実から見れば、脳死の人は心臓死まで生きているとしか認識できないこともあるのだ。
 私は『脳死の人』のなかで、人間がいつ死ぬのかという問題は、その人と、その人を取り巻く人との関係性によって異なってくるのであり、一義的な答えはあり得ないと述べた。いまでも、その考え方は正しいと思っている。
 たとえば、好さんと大学四回生のときから話をしはじめたというある学生さんは、つぎのように書いている。  人形のように一点を見つめたまま動かない好さんというのが、この学生さんが経験した脳死の人のリアリティだったわけで、それはこの学生さんにとっての真実である。そしてそのようなリアリティの一部は、おそらくこの学生さんと、好さんとの、それまでの関係性によってもたらされたのであろう。(あとは、医学教育だと思う)。この学生さんの体験した脳死の人のリアリティと、ご両親が体験された脳死の人のリアリティは、まったく異なっているが、しかしいずれも「真実」であると私は考えたいのである。

 私は『脳死の人』のなかで、脳死が死であるかどうかという問いを、次の三つに分けて考えた。

(1)脳死が私の死であるかどうか。
(2)脳死が親しい他者の死であるかどうか。
(3)脳死が見知らぬ他者の死であるかどうか。(福武文庫版一四三頁)

 つまり、人称によって死の意味が違うという考え方に立ったのである。
 そして、とくに(2)の親しい他者が脳死になったときに注目した。親しい他者の場合、その他者との「人生の歴史や思い出は脳死の人という存在の一部」である。したがって、親しい他者の死は医学的・科学的に決まるものではなく、「私の死の受容」によって決まるのである。

 だから、親しい他者の場合、その人が脳死になったときに死ぬのか、あるいは心臓死になったときに死ぬのか、あるいは葬式が済んでもまだ死なないのか、それらの答えは、その死にゆく他者に向かい合う個々人によってそれぞれ異なってくるわけである。
 このように、人称によって死の意味が違うということを理解するのはとても大事なことである。この点を抜きにしては、脳死の問題は語れない。しかしながら、それと同時に、社会的なルールとしては、「人はいつ死ぬのか」という問題に対して、法律のレベルではっきりとした解答を確定しておく必要がある。そして、それは、人間の<死の概念>を法律の中で定義するという形ではなく、人間の<死亡時刻>の決定方法を法律の中に明記するという形でなされるべきだと私は考えている。<死の概念>というものは、法律で規定するべき性質のものではない。諸外国ではそれを法律で定義している例もあるが、私は賛成できない。法律が示すべきものは、死亡時刻の決定にとどめるべきである。そこを決めておけば、遺産相続や所有権の消滅などの法的な問題も、うまく処理できるはずである。
 さて、話を藤原さんのことに戻そう。
 藤原好さんの場合、私にとって彼女は死んでいない。
 彼女の文集を見るたびに、あるいは彼女のことを思いだすたびに、彼女は私のなかでふたたび生き生きと動きはじめる。その意味で、彼女は私のなかで生き続けている。
 私は、彼女とは、二回しか会っていない。だから、彼女とはけっしてお互いに親しい知人ではない。私は彼女と生活圏をともにしたことはないから、彼女と共有する歴史性というのは存在しない。
 私と彼女の出会いとは、たった二回の鮮烈な共同作業のときだけ。しかし、それよりももっと強烈なのは、『脳死の人』を媒介として出会った人が脳死になってしまった、そして三度目の出会いは文集だったということ。一年間のアメリカ生活から帰ってきて、あの人にもう一度会いたいなと思って連絡したら、「亡くなりました」という返事がきて、友人たちの思い出がいっぱい詰った文集が手もとに届けられる。
 そして、彼女が脳死になって死亡したあとで、私はその文集を読んで、いままで知らなかった彼女の姿にあらためて出会ったのだった。彼女の肉体が消滅したあと、文集のなかで、あのときの彼女とはまったく別の姿にあらたに出会って、読書という架空世界のなかで彼女とともに生きた。それが私にとってのリアリティだ。
 その文集には、二九歳の彼女が、まっすぐに自分のめざすものに向けて生き、男性に恋をして、しかしその恋に破れ、でもあきらめきることはできず友達や母親にもらしてしまうという、そういう彼女の姿がある。入院中に母親に「何かしてほしいことは」と聞かれて、インドへ一緒に行ってほしいと答える彼女。文集には、そのインドに行ってしまった人の妹さんの文章も載っている。ある男子学生の文章「ある時二人で三二番街の喫茶店に入って話をしていて、それぞれの結婚の事、将来の事などについて話をしていると突然彼女が泣き出してしまった事がありました。高層ビルの最上階から見た夜の大阪のイルミネーション、星影、藤原さんの涙、そしてしまった事をしてしまったという僕のあせりの気持・・・・」(八五頁)その一瞬一瞬の情景を、読みながら私は彼女とともに生きる。彼女の肉体が消滅した一年後に、私はそうやって、そのような見知らぬ彼女とはじめてリアルタイムで出会う。それは、たしかに出会いであり、私が出会ったのは語りのなかで生きている彼女だ。そういう実感がある。
 彼女の肉体が消滅する前にも私は彼女と出会った。消滅した後でも、私はこうやってふたたび彼女と出会った。文章を読みながら、私の鼓動はだんだんと早くなっていく。私にそのような変化を起こさせる何かが、はじめて文集を読んだときに、文集と私とのあいだで成立している。それこそ、肉体が消滅しても生き続けている「いのち」なのではないか。文集に協力した人たちの、思いやりと、大切にしたいという気持ちのネットワークによってささえられ、保存されている、好さんの「いのち」なのではないか。
 読みながら、私は大学祭のことを思い出す。シンポジウムが終わって、控え室にみんなで戻った。そこにはテレビ局の取材が来ていて、シンポジスト何人かにインタビューする。私もなにか答える。そして、企画代表として、好さんもインタビューに答えている。雑談をしたあと、三々五々帰りしたくをはじめる。学生さんたちも、次の用事に向かいはじめる。私も帰ろうと思い、どうしようかと相談する。すると、好さんと、もうひとりの学生さんが、車で駅まで送ってくれるという。私たちは瀬田の駅まで出た。夕方だったし、私は議論の後の軽い興奮状態にあったので、このまま別れてしまうのはなんか淋しくて、彼女たちに夕食をしないかと誘った。ふたりとも、快く受けてくれた。私たちは瀬田の駅前にあるレストランで、夕食をした。なぜかワインが飲みたくなり、私は赤ワインを注文した。そして彼女たちにもふるまった。乾杯をして、ワイングラスが音をたてた。ワインを飲みながら、夕暮れのレストランで、何を話したのか、もう覚えていない。ただ、ワインをおいしそうに飲む好さんの姿だけは、いまでも覚えている。最初に会ったときのように、ショートカットに素敵なイヤリングをしていたと思う。そうやってワインを飲んで、それから瀬田の駅で別れた。生身の好さんを見るのは、それが二回目で、そして最後だった。でも、いまでも、彼女は私のなかに生きている。

* 藤原康子さん、藤原史和さんのご厚意に深く感謝いたします。

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