本ページは「生命学HP」1999年10月12日付のスナップショットです
森岡正博『脳死の人』福武文庫 目次+本文抜粋
はしがき
1章 脳死とは人と人との関わり方である
増補 臓器のリサイクルと障害者問題
「聖域」の落とし穴
移植医療を考える
文庫のためのあとがき
解説 木村競
1章 脳死とは人と人との関わり方である より抜粋
いままでの脳死論の多くは、医師の目から見た脳死論でした。脳死という医学的な状態についていちばんよく知っているのは、脳を研究している医師ですから、脳外科のお医者さんが脳死についての本を出すのは、当たり前の話です。
けれども、脳外科の医師が脳死の本質を知っているとはかぎりません。脳外科のお医者さんがよく知っているのは脳死の「医学的な面」だけです。脳死の人を目の前にしたときに家族の方がどのようなことを感じ、何を考えるか、あるいは脳死を人間の死と認めることが社会や文化についてどのような影響を与えるか、これらのことについて脳外科の医師が必ずしもくわしく知っているわけではありません。
しかし、脳死の本当の問題は、その医学的な面にあるのではなく、脳死の人を私たちが社会の中にどうやって迎え入れてゆけばよいかという点にあるのです。そして医療の現場にいない私たち「一般市民」が本当に気になっているのは、脳死の医学ではなく、脳死になった人との、つきあい方をどうするかということだと思うのです。
(中略)
「脳の働きの止まった人」を中心とした、このような人と人との人間関係の「場」のことを、私は「脳死」と呼びたいのです。「脳死」とは、「脳の働きの止まった人」の脳の中にあるのではなく、その人を取り巻く人間関係の場の中にあるのです。問うべきは「場としての脳死」です。
言い換えれば、「脳死」の本質は、人と人との関わり合いにあることになります。そしてその一面として、医師が「脳の働きの止まった人」の脳の中身を見たときに見えてくる、医師の目から見た脳死があるわけです。
「脳死」の本質が人と人との関わり合いであるならば、当然、脳死の人をめぐって、医師、看護婦、家族、移植関係者、住民、一般市民などの人々が、どのように関わり合ってゆけばよいかという問題が出てきます。これが、脳死の倫理問題です。「脳死」の本質が人と人との関わり方であるからこそ、ではどうやって人と人がかかわってゆけばよいかという倫理問題が生じてくるのです。
「おわりに」より抜粋
・・・この試みが成功したかどうかは、読者の判断にゆだねるしかありませんが、生命学という、実質的な内容がまだほとんどない学問を考えてゆくうえでの、何かの手ごたえを本書の執筆で得たような気がします。そして本書は、一九八九年の時点での、世界の生命倫理研究の最先端に位置するものであるという自信を私はもっています。
長いスケールで見れば、脳死と臓器移植の問題それ自体は、すぐに過去のものとなって消滅するでしょう。しかし、本書で示されたいくつかの問題点は、脳死問題が消えたあとでも、依然なんらかのかたちで問題として残り続けるでしょう。そしてその問題こそが、私たちがいまこの大騒ぎの中から学び取らなければならない本当の問題なのだと思います。