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小原秀雄監修『環境思想の系譜・3』東海大学出版会 (1995年5月) 106−116頁

ディープ・エコロジーと自然観の変革        森岡正博

 環境思想には、問題点の把握と解決を、その政治的・経済的下部構造に求めるものと、精神的・内面的要因に求めるものの二類型がある。前者の代表が「社会派エコロジー」だとすれば、後者の代表がここで述べる「ディープエコロジー」であろう。
 ディープエコロジーは、現代の環境問題を引き起こした我々の精神の内面性それ自体を問題にする。そして、いまここで生きている我々の内面性の自己変革なくしては、環境問題の解決はないと考える。内面への深い旅によって我々自身を内側から変革し、そのあとで、生まれ変わった我々が直接行動をとってゆくことで、世界を徐々に変革しようと試みるのである。
 ディープエコロジーという名称は、ノルウェーの哲学者アルネ・ネスによって一九七三年に宣言された。ネスの提唱は、その後八〇年代にかけてしだいに共感の輪を広げてゆき、その枠組みの中にニューエイジ思想や先住民研究などの潮流が流れ込んで豊かな言説群を形成した。そして八〇年代後半から九〇年代にかけて、ヨーロッパや日本にも影響を与えはじめている。
 まず、ディープエコロジーの主張の全体像を簡単にまとめておこう。
 ディープエコロジーの思想家たちは、現在の社会と文明のあり方を前提とした上での環境保護運動を否定する。現在の地球規模の環境問題は、ほかならぬ現在の形の社会システムと文明が生み出したのであるから、それを根本的に解決するためには、現在の社会システムと文明それ自体を変革することがどうしても必要となる。そのためには、まず現代社会に住む我々ひとりひとりが自らの「世界観」や「価値観」を改め、意識変革を行なわなければならない。そして、いまのようなライフスタイルを改め、新しい生活スタイルを足下から作り上げてゆく必要がある。思想は具体的な実践を伴わなければならない。一般に、ディープエコロジーの思想は、近代哲学批判、近代文明批判の様相を呈する。そして、近代文明によって抑圧されてきた先住民のライフスタイルに学び、女性的なものを再評価しようとする。
 また、ディープエコロジーはおおよそ次のような自然観を採用する。すなわち、現在の地球環境問題は、近代以降、人間が自然に対して誤った態度を取ってきたことに由来する。自然とは、近代人が考えてきたような「征服すべき対象」ではない。人間と自然とはそもそも一体である。自然の中で、自然にささえられて生きる人間という、正しい世界観を我々が再発見することなしに、環境問題はけっして解決しない。そのためには、我々自身がまず変わる必要がある。我々が見失ってきた「自然の声」「地球の声」を聞くことのできる感受性を取り戻し、それらと呼び合うことのできるような人間へと、我々自身が変わってゆかねばならない。このような意識変革(自己実現)があってはじめて、真の自然保護が可能になる。この自然観は、人間中心主義ではなく、人間非中心主義non- anthropocentrism, biocentrism である。自然に対するそのような態度を実戦するために、我々は自分たちが住む足下の地域の自然にもっと真剣なまなざしを向け、その地域独自の自然に即したやさしいライフスタイルを模索してゆかねばならない(生活地域主義bioregionalism)。
 さて、「ディープエコロジー」という概念を最初に提出したのは、アルネ・ネスである。一九七三年に発表された論文「浅いエコロジー運動と深くて長期にわたるエコロジー運動・その要約」の中でネスは、当時のエコロジー運動を「浅いものshallow ecology movement」と「深いものdeep ecology movement」 の二種類に分け、後者の重要性を説いた。
 この深いエコロジー=ディープエコロジーの提唱によって、ネスはその運動の中で教祖視されてゆく。ネスは、一九七二年の第三回世界未来研究会議での講演の要約であるこのエッセイを発表してから、短いエッセイやインタビューの形でメッセージを送り出していった。そして、一九八九年にデヴィッド・ローゼンバーグの翻訳と編集になる英文の書物『エコロジー・コミュニティー・ライフスタイル』が刊行されて、ネスのディープエコロジー哲学のアウトラインが明らかになった。この書物は、ネスがノルウェー語で一九七六年に出版した原著を改訂したものである。ネスの思想は、英語という国際語に翻訳されることではじめて世界的なインパクトをもったのである。
 ただ、私の見るところ、ネスのディープエコロジー思想は、一九七三年の要約論文で、その全体像が出そろっている。八九年の著書は、そこでの主張を精緻化したものにすぎないとも言える。思想界に与えた影響力から言っても、七三年論文の方が重要であろう。残念ながらこの論文の翻訳権が取得できなかったので、この解説でその概要を紹介しておきたい。第 章で紹介されるアリエル・サレーのエコフェミニズムからのディープエコロジー批判も、ネスのこの論文を念頭においている。
  ではその論文を紹介したい。
 ネスは、一九七〇年代に存在した「浅いエコロジー=シャロウエコロジー」と、これから必要な「深いエコロジー=ディープエコロジー」を区別する。
 シャロウエコロジーとは、「第一に汚染と資源枯渇に反対する」ようなエコロジーのことであり、「その主要目標は、先進諸国に住む人々の健康と繁栄」である。
 これに対して、彼は「ディープエコロジー」を、以下の七つの点によって特徴付けている。以下、それらを順番に検討してゆきたい。
 (1)ディープエコロジーは、生命体や人間を、個々ばらばらな存在として捉えるのではなく、「相互連関的・全フィールドthe relational, total-field 」に織り込まれた結び目として捉える。どのような存在物も、他の存在物との関係性の中で成立しているから、その関係性から切り離して物事をとらえることはできない。原文は舌足らずで理解するのが難しいが、いわば原子論的世界観から関係論的世界観への転換が必要だということを、ネスは述べたかったのだと推測される。
 (2)ディープエコロジーは、原則として「生命圏平等主義biospherical egalitarianism 」をとる。エコロジカル・フィールドワーカーにとっては、「生を送り開花する平等の権利the equal right to live and blossom 」は自明の理である。我々は、他の生命体と親しむことによって深い喜びと満足を享受する。このような人間の本性に、この原則は根差している。これを抑圧したり無視して自然を奴隷のようにみなすことは人間中心主義であり、人間に有害な悪影響を与え、人間を自分自身から疎外することになる。ただし、この平等主義はあくまでも「原則としては」であって、人間が生きてゆく上で生じる他の生命体の若干の殺戮・開発・抑圧は必然である、とネスは述べている。このディープエコロジーの平等主義は、その後様々な非難を浴びることになる。一見して明らかなとおり、人間が他の生物を殺さければ生きてゆけない現実と、生命圏平等主義とは、どうしても矛盾するからである。ディープエコロジーが厳格な平等主義にこだわるかぎり、それはディープエコロジーのアキレス腱となって残存するであろう。しかしその平等主義を(ネスのように)緩めるとするならば、逆にディープエコロジー的発想のインパクトを弱めることにつながりかねない。このジレンマをどのように哲学的・倫理学的に深め、乗り超えるかがディープエコロジーの将来の可能性を決めると思われる。この問題は、環境倫理学の「人間中心主義/人間非中心主義」論争と密接な関連性をもっている。
 またネスは、人口密度の増加、さらに言えば哺乳類の個体密度の増加が、地球上の「生命の平等」を損なっていると指摘する。都市に見られるような高人口密度は、人間の生活にも悪影響を及ぼしていると述べる。この考え方は、後のディープエコロジーの「地球上の人口削減」発言につながってゆく。
 (3)ディープエコロジーは「多様性と共生の原理」を採用する。多様性は、生存の潜在的可能性と、新たな生命様式が出現するチャンスと、生命の様式の豊かさを増大させる。また、いわゆる「生存競争」「適者生存」の概念も、殺戮・開発・抑圧の能力を意味するのではなく、こみいった生命の関係性の中で「共生」し「協同」してゆく能力として解釈されるべきである。「お前の生か、私の生か」という原理よりも、「自分が生き、他者も生かさせるlive and let live」の方がよりパワフルなエコロジーの原理である。ディープエコロジーは、人間の生活様式・文化・職業・経済の多様性を支持する。そして、経済的・文化的・軍事的な侵略支配に対して闘い、アザラシ・クジラや少数民族・文化の絶滅に反対する。
 (4)ディープエコロジーは「反階級の姿勢」を取る。人間の生活様式の多様性は、意識的にではれ無意識的にではあれ、あるグループが他のグループを搾取し抑圧することによってもたらされることがある。この場合、支配者は、被支配者とは異なった生を営んでいるが、しかしその双方の「自己実現self-realization」の潜在的可能性が実は阻害されているのである。三番目に述べた「多様性と共生の原理」は、このような支配・搾取がともなうような、見かけの多様性を支持しない。むしろ、逆に「反階級の姿勢」を取ってこれに反対する。以上に述べた三つの原理は、今日の南北問題をも含めたすべてのグループ間の衝突に適用される。めざすは、「階級のない多様性」の拡大である。
 ここでネスが言及している「自己実現」という概念は、後のディープエコロジー思想の鍵概念となるものである。
 (5)ディープエコロジーは「汚染と資源枯渇に対する戦い」を進める。しかし、単に、汚染と資源枯渇のみが本質であると考えるようなシャロウエコロジーに陥ってはならない。もし、汚染の回避装置の購入に高い費用がかかるのなら、それは階級構造を拡大するだけである。これはよくない。
 どんな社会においても、その政治色に関係なく、エコロジストはかけがえのないインフォーマントである。もし彼らがうまく組織されれば、エコロジカルな視野が狭い組織や企画者の仕事を、拒否してゆくパワーとなるであろう。
 (6)ディープエコロジーは「混乱ではなく、複雑性」を評価する。生態系の理論は、統合原理のない単なる混乱状況と、法則性をもったシステムから成る複雑性とを区別する。生命圏の中の有機体、生命様式、相互行為は、驚くべき高いレベルの複雑性を示している。生命圏の諸関係性と、生命圏に介入したときの影響について、人間は無知にとどまるということを、深く認識しなければならない。
 これを人間に適用すれば、「労働の断片化ではなく、労働の分担」ということになる。つまり、労働者が単に機械的にリアクションするというやり方ではなく、労働者の全人格が能動的に投入できるような統合的な仕事の仕方が要請される。そして、社会の生産様式、生活様式なども統合性のある複雑システムになるべきである。社会の複雑性に関しても、人間は無知にとどまるということも認識すべきである。
(7)ディープエコロジーは「地方の自律と脱中心化」を支持する。ある地域の生活様式は、それが外部に対して依存する割合が高ければ高いほど、脆弱になる。したがって、地域の自己統治と、物質的・精神的な自給自足を強化する努力をしなければならない。そのためには、脱中心化を押し進めることが前提となる。地域の自律によってエネルギー消費は少なくなり、汚染も減る。意志決定の階層的な連鎖を縮小することで、地域の自律は強化される。
 この指摘は、その後、「生活地域主義」というディープエコロジーの行動指針となって継承されてゆく。

 ネスは以上のようにディープエコロジーの特徴を規定したあと、次のように述べる。第一に、ディープエコロジー運動のこのような考え方は、生態学的な知識と、エコロジカル・フィールドワーカーのライフスタイルによって示唆され、直観され、補強されたものである。第二に、ディープエコロジーの原理は明らかに強い意味で「規範的」であるということを、深く認識しなければならない。ディープエコロジー運動の規範と価値を妥当だと考える人々が、世界中に多くいる。そのなかには権力の地位にある人もたくさんいる。この運動には、政治的なポテンシャルがあるのだ。
 第三に、ディープエコロジーは生態学的というよりも、「エコフィロソフィカル」である。生態学とは自然科学的な手法を用いる専門科学である。これに対して、哲学とは根本的問題を議論するもっとも幅の広いフォーラムであり、記述的なものと規範的なものをともに含んでいる。政治哲学はその一部門である。ネスは、彼の「エコロジカルな調和と均衡の哲学」のことを「エコソフィーecosophy」と呼んでいる。それは、世界に関する科学的な記述と、規範・ルール・価値に関する言明と、政治に関する知を、すべて含んだものである。
 ネスの本論文によって、我々が今日ディープエコロジーという名で呼んでいる思想の基本的な枠組みが確定されたと見てよい。とりわけ、彼がディープエコロジーを、市民活動や政治活動までをも含んだ「英知wisdom」の学としての「哲学」として構想したことは、特記に値する。
 さて、一九八九年の『エコロジー・コミュニティ・ライフスタイル』では、ディープエコロジーのその後の発展が述べられている。彼はそこで、「エコロジー」「エコ・フィロソフィー」「エコソフィー」の三つの概念を区別する。「エコロジー」とは、自然科学としての生態学のことである。「エコ・フィロソフィー」とは、エコロジーと哲学にまたがる問題の研究であり、大学でなされるような記述的な研究のことである。これらに対して、「エコソフィー」とは、私自身の世界観・価値観に直接かかわるものであり、我々が巻き込まれている実際的な状況に立ち向かうときの哲学のことである。エコソフィーは、単なる記述的な研究ではなく、自分自身の行為に直結する。そして、それぞれの人ごとに、それぞれのエコソフィーがあるのだとネスは言う。ネスの定義によれば、エコソフィーとは「生態圏の中の生命の諸状況によって触発された、哲学的な世界観あるいはシステム」のことである。ネスが、エコソフィーを、個人の実践に直接結びつく知的営みとして考えている点は重要である。しかしながら、エコソフィーをスピノザ的に体系化しようとするあまり、ネスはその書物の後半で、事実命題と規範命題のヒエラルキカルな羅列へと突き進んでおり、通常のディープエコロジーのイメージからは遠く離れた場所にまで行ってしまった感はぬぐえない。
 さて、ネスを始祖とするディープエコロジーは、ネスの共同研究者であるデュヴァルとセッションズによって、一九八五年に『ディープエコロジー』として体系化された。これがその後の現在までのほぼ唯一のディープエコロジーのテキストである。この書物は、ネスの思想に忠実に従い、ディープエコロジー思想の基本的理念を整理し、アメリカのディープエコロジー的な議論や思想伝統を教科書的に総合したものである。この百科全書的な書物は、大きな影響を各方面に及ぼした。思想内容の深みはさほど見られないが、ディープエコロジーをメディアに本格的に乗せたという意味では、重要な成果であろう。
 ディープエコロジーは、その後様々な成果を生み出しつつある。いくつか紹介すると、トマス・ベリーはディープエコロジーの影響を受けて、キリスト教神秘主義の立場に立ったエコロジー神学『地球の夢』(一九八八年)を完成させた。これは、厳密な分類で言えば、「神秘主義的エコロジー」の分野に入るものである。ワーウィック・フォックスは、ディープエコロジーとトランスパーソナル心理学を統合する思想として、『トランスパーソナル・エコロジー』(一九九〇年)を提唱した。この主張は、ニューエイジ思想の展開形態であるディープエコロジーが行き着く、ひとつの必然的帰結であると思われる。仏教学者で心理学者のジョアンナ・メイシーは『恋人としての世界、自己としての世界』(一九九一年)で、ディープエコロジーに独自の展開を試みた。地球の声を聴くワークを取り入れる新しいエコロジーである。
 ディープエコロジーは、ヨーロッパや日本にも影響を与えはじめている。たとえばフランスの哲学者リュック・フェリの『エコロジーの新秩序』(一九九二年)は、アメリカのディープエコロジーやエコフェミニズムを批判的にくわしく紹介し、それを超えようとした試みである。
 日本では、一九八六年にデュヴァルとセッションズの『ディープエコロジー』の綿密な書評が雑誌『生命宇宙』第四号に掲載されたのが、最初期の導入ではないかと思われる。その後、フォックスやメイシーの著作の翻訳などをとおして、エコロジストや「いのち」論者たちの間に浸透しはじめている。たとえば、ウェッブ・オブ・ライフのニューズレター(一九九四年)では、ジョアンナ・メイシーのディープエコロジー・ワークショップを連続して紹介しており、日本ではディープエコロジーが気功やセラピーの枠組みで導入されはじめている様子がうかがわれる(森岡 一九九四年参照)。
 日本文化との関連で言えば、日本の思想がアメリカのディープエコロジーに与えた影響を無視することはできない。具体的に言えば、ディープエコロジーのテキストに頻出するのは、道元禅であり、鈴木大拙の禅であり、福岡正信の自然農法の思想である。六〇〜七〇年代のアメリカ西海岸のカウンターカルチャー運動の波に乗って日本からアメリカに渡った「東洋」思想が、ニューエイジに影響を与え、その発展形態であるディープエコロジーにも影響を与えているのである。それがいまもういちど、九〇年代の日本に逆輸入されはじめている。アメリカのディープエコロジー思想は、インドのヒンドゥー思想や仏教思想、ネイティヴ・アメリカンの世界観などを基盤として取り入れており、ある面から見れば、それは一九六〇〜八〇年代にアメリカで成立した「環太平洋エコロジー思想」であると定義することもできるかもしれない。
 以下に三本の翻訳を収めた。まず、アルネ・ネスの一九八二年のインタビュー「手段は質素に、目標は豊かに」である。ネスの思索のエッセンスが、口語体で簡潔に表現されている。次に、デュヴァルとセッションズの『ディープエコロジー』(一九八五年)から、ディープエコロジーの理念に関する部分を抄訳した。最後に、ワーウィック・フォックスの『トランスパーソナル・エコロジー』(一九九〇年)から、その中心部分を翻訳した。これらは、八〇年代ディープエコロジーの精髄であり、独特の精神性と宗教感覚を味わうことができる。
 

<参考文献>

フェリ・リュック (一九九二年)『エコロジーの新秩序』法政大学出版(翻訳
 一九九四年)
フォックス、ワーウィック (一九九?年)『トランスパーソナル・エコロジー』
 平凡社(翻訳 一九九四年)
メイシー、ジョアンナ (一九九四年)『世界は恋人、世界はわたし』筑摩書房
森岡正博 (一九九四年)『生命観を問いなおす』第四章「ディープエコロジー
 と生命主義」ちくま新書
 

Berry, Thomas (1988) The Dream of the Earth. San Francisco:Sierra Club Books.
Devall, Bill and Sessions, George (1985) Deep Ecology. Layton:Gibbs M. Smith.
Naess, Arne (1973) "The Shallow and the Deep, Long-Range Ecology Movement. A         Summary," Inquiry 16:95-100.
Naess, Arne (1983) "The Deep Ecological Movement: Some Philosophical Aspects,"         Philosophical Inquiry Vol.8 No.1-2:10-31.
Naess, Arne and Rothenberg, David (1989) Ecology, Community, and Lifestyle. Cambrige         University Press.
 
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