プロローグ
大手門に近いホテルのフロントロータリーに一台のタクシーが入ってきた。
ライトグレイのスーツを着た細身の若い女が降りると、足早にエントランスへ近づく。苛立だった表情で回転ドアのをくぐりぬけ、ロビーに駆け込む。ロビーの端で談笑していたビジネスマンふうの数人の若い男たちが一斉に振り返り、ゆたかなヒップをつつむ短めのスカートからのぞいているすらりとのびたハイヒールの脚を見送る。
若い女は一瞬立ち止まると、自己主張している広い額に垂れ下がった髪を振り払う。短めにカットした髪の端が細い首を撫でた。
彼女は面長の顔をゆっくりまわし、ロビーに並べてある椅子やソファをひとつひとつ目で追った。紫藤洪平の姿はなかった。
紫藤がさきにきたとき、彼はかならずロビーの椅子で本を読んでいた。約束の時間がとっくに過ぎているのに、彼の姿がどこにもない。碧海晴子はタクシーでなんども確かめた腕時計にもう一度目をやった。約束の時間から三十分過ぎている。一分でも早くとおもい、タクシーを拾ったが、間に合わなかった。彼女は目を走らせ、電話室を探した。ロビーを横切った。左手で取った受話器を右手にもちかえると、彼女は左の人差し指で世界システム研究所の番号を超スピードで打つ。
「紫藤は席にいません」
何分前に出かけたのでしょうかと尋ねようとしたとき、受話器を叩き付ける大きな音とともに電話が切れた。「バーカ」と小声で言って受話器をもどすと、彼女はしばらくそのまま立ち尽くしていた。
紫藤の勤めている世界システム研究所はビジネス街のはずれにある二四階建ての新しいビルのなかにあった。皇居のお堀端に建つホテルまでは歩いても一〇数分の距離だ。約束の時間を三〇分以上過ぎているいのにロビーには彼の姿がない。約束の時間がすぎたので帰ってしまったのか。今日に限ってそんなはずはない。かすかに胸騒ぎを覚えた。
電話室をでると、彼女はふたたび紫藤の姿を探して広くないロビーを彷徨った。紫藤の青白い顔はどこにも見当たらなかった。方々から注がれる視線に疲れを感じ、彼女はロビーの隅に空いているグレーの布張りの大きなアームチェアを見つけて腰をおろす。そしてもう一度、彼女は大き過ぎないが小さくもない丸味を帯びた目でゆっくりまわりを見渡たいた。
太っているというより細い印象の体つきにくらべ、面長の顔はいくぶんふっくらとした感じがあって、はじめて会うひとにも親しみをおぼえさせる。そのせいか彼女の表情には、どことなく太い神経を感じさせるゆとりをおもわせる雰囲気があった。それに姐御肌というか、女番長タイプというか、それとも母性本能が強いのか、小さいときから彼女のまわりに仲間が自然と集まった。彼女は小学生のころから仲間の中心となって、女の子や弱いものをいじめる男の子に立ち向かい、徹底的に闘った。それは中学生になっても高校生になってもかわらなかった。大学に入ってからは勉強に身をいれるために意識して仲間の中心に祭り上げられることを避けてきたが、それでも母性本能が頭をもたげることがあった。華奢な感じの紫藤に対する感情にもそれに似たものがあったのかもしれない。
ハイヒールを脱いでしまいたかった。ハイヒールやスカートは講演やインタビューのときのお出かけ着だった。毎日の取材や通勤時にスニーカーやスラックスを常用している足には仕事用といってもハイヒールはきついし、脚をむき出すような感じの短いスカートでは落ち着かないのだ。彼女はもう一度ロビーをゆっくりみまわしながら、留守番電話に入っていた彼のメッセージを思い返した。
昨夜一一時過ぎに練馬のマンションにもどったとき、「きみに是非頼みたいことがある。明日、三時に、パレスサイドホテルのロビーで待っている」というメッセージをきいて、すぐ彼に電話をいれたが、留守だった。じかに彼の声を聞きたいという思いが、留守を告げるメッセージに裏切られたような気がして、返事のメッセージを入れそびれてしまった。頭のどこかで、明日の午前中に研究所に連絡すればいいと思っていたのかもしれない。
ふと強い視線を感じて顔をあげた。背光にせいでよく見えないが、ロビーの端で立ち話をしているビジネスマンふうの一団のなかのひとりが彼女を見つめているらしい。数人の背の高い男たちに挟まれていた小太りで背の高くない男が、顔をあげた彼女を目がけて小走りに近づいてくる。
「きみも紫藤を待っているの?」
血色のいい童顔の若い男がいかにも軽薄そうな微笑みをうかべ、 薮から棒に調子はずれの甲高い声でいう。
聞き覚えのある声をきいてはじめて、彼女はその男が国際関係論のゼミ仲間のひとりであることに気付いた。大学院を途中でやめて、たしか商社に入った男だ。
「ひさしぶりね、白井君も?」
彼女はふと、彼も紫藤に呼ばれたのではないかとおもった。
白井は数年前と同じように、あいかわらず明るい影の全くない丸い大きな顔をしている。もう一度、風船のようにまるまる太った大きな顔をしげしげと見た。ゴルフでもやるのか、白い顔に日焼けのあとがあるが、いつ見てもその顔には不安や陰りがまったくない。この男の頭のなかに一体なにが詰まっているのだろうか、まさかスポンジ状の脳でもあるまい、と彼女は考え込んでしまう。
「オレも紫藤を待っているんだ。でもどうして紫藤がオレに声をかける気になったのかな。それもきみと一緒というのは、ヤツ、一体、なにを企んでいるのか」
白井は調子がよく、おしゃべりで、話し出すときりがなかった。彼女は早く切り上げたかった。ロビーのなかを行き来する人々が醸し出すざわめきが耐え難かったし、中年男たちのまとわりつくような目も嫌だった。それよりもどこからくるのか分からないが、彼女は大分まえから自分をじっと探っているような視線を感じるのだ。一体、だれが、なぜか。
「仕事は大丈夫? まだ勤務時間じゃないの。約束の待ち合わせ時間に三〇分も遅れたので、彼もう帰ったとおもうわ。わたしも帰るわ」
白井の勤める二七階のノッポの商社ビルはすぐ目の前だったし、彼女の勤めている新聞社の横に長いビルもホテルから見える距離にある。これから帰っても、一仕事できる時間が十分あった。
「紫藤はまだだよ。オレは営業だから比較的自由なんだ。これでもオレ、成績がいいんだぜ。ひさしぶりだから、ラウンジでお茶でもどう? それともバーにする? ご馳走するよ。碧海女史はアルコールが強かったからなあ。紫藤はもういいよ。ひとを待たせても平気なやつだから、来たら、ヤツのほうで探すさ」
彼女は一瞬迷ったが、たまには白井の調子のいい話を聞くのもいいだろうと思い直し、腰をすえた。いまでは白井もいっぱしの商社マンのはずだ。いろいろな情報を持っているにちがいない。紫藤が白井を呼んだのも、そこに狙いがあったのだろうか。でもどんな狙いがあるのか。それになぜ白井に声をかける気になったのか。彼女には紫藤の意図を想像することができなかった。
白井は彼女を誘って、ロビーの右手にある奥行きのある広いラウンジに移った。コーヒーを注文すると、彼は「紫藤から連絡があったかチェックしてくる」といって席を立った。
彼女は白井の背を追いながら、ふと、紫藤に電話したときかすかに感じた胸騒ぎを思い出した。なぜあのとき、あんな胸騒ぎが突然襲ってきたのだろうか。あれはなにか紫藤の身にふりかかる危険の知らせだったのだろうか。
「なにも連絡がなかったよ。紫藤のヤツ、どこに雲隠れしたのか。どこにもいない」
「世界システム研究所にも帰っていないんでしょ?」
「一時間以上もまえに出たきりだというんだ。まさか、自動車事故にでも遭ったんじゃないんだろうな」
「いやよ、事故だなんて。でもどこに行ったのかしら」
白井が紫藤の勤務先である世界システム研究所の同僚に連絡を頼んできたというので、彼女はツイード張りの大きなアームチェアに深く腰をひき、脚を組んだ。彼女はようやくしばらく我慢して待ってみる気になった。
「ところできみは紫藤になんの用なの、原稿の依頼? それとも取材?」
「取材いって?」
「ノンフィクションのお晴さんのことだから知っているとおもうけど、彼、最近なにかを企んでいたらしいんだ。内緒でね。その目処がついたら、世界システム研究所を辞めて新しい仕事をやるらしいんだ」
白井はむかしを思い出したのか、急になれなれしい口調で言い出す。
晴子のことをゼミ仲間たちはスッポンのお晴と呼んでいた。彼女はいつも面長の優しい顔つきのうえにひとをひきつける明るい目をしているせいか、彼女が議論となると激しく食い付いて離さないようなまねをするとは誰にも想像できないらしい。徹底的に食い付かれてさんざんな被害をうけた仲間は虚偽表示もいいとこだとぼやき、あれはスッポンだと言い出した。そんな性格と能力がノンフィクションという仕事にむいていたせいか、新聞社の記者をしながら、ノンフィクションものをも手掛けていた。すでに二、三冊の単行本をものにし、ノンフィクション作家の仲間入りを果たしている。
晴子は白井のどこか幼さが残っている顔を見ながら、ふと、奇麗に整った分だけ余計に冷酷な感じのする紫藤の青白い顔を思い浮かべた。彼女にはあの冷たい時折紫色に光るまなざしを忘れることができなかった。そんなまなざしのせいか、彼女は卒業間近な日の一夜、彼と過ごしたことがあった。だがその一日だけで、なぜかふたたび深入りすることにためらいを感じた。
紫藤が自分の知らないところでなにかを企んでいたことを白井が知っていて、自分がなにも知らなかったことは彼女にとって不愉快なことであった。一体彼がなにを企んでいたというのか。これまで何回か会っているのに、彼はそんなことをおくびにも出さなかった。彼女はなにかしら紫藤に激しく裏切られたような気分だった。
「コンソーシアムをつくってプロジェクトを進めたいといっていたな」
「コンソーシアム?」
「プロジェクトの資金がかなりの額になるらしく、コンソーシアムを組織して、国際的に資金を集めようとしていた」
白井は尋ねもしないことをべらべらとしゃべり出した。紫藤は最近地球環境問題に関心をもち出していた。それもかなり危機感を募らせていたという。ことに地球温暖化に対しては早くなんとかしなければとおもっていた。その対策のためのプロジェクトを考えていたらしい。きょうの話も多分このことに関してのものにちがいない、と白井は言う。
一九九五年一二月に、各国の科学者で構成する「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)が「地球温暖化はすでに現われている」とする報告書をまとめた。一九九六年の一月早々、一九九五年の地球表面の平均気温が過去百数十年の観測記録のなかで最高だったことがわかった。英国気象局らと米航空宇宙局(NASA)の計算の速報値であるが、「化石燃料を燃やした結果、大気中の二酸化炭素濃度が増え、地球温暖化が進んでいる」という見方を裏付けると考えられるものであった。
英国気象局とイースト・アングリア大の報告によると、一九九五年の地球の平均気温は摂氏で約十四・八四度だった。これは記録のある一八五六年以来の最高で、これまでの最高記録である一九九○年を約○・○四度上回るものであるという。
彼女はふと、紫藤がアパートの自分の部屋でいつものようにキーボードを叩いているのではないかと思った。そんな彼女の思いを読み取ったかのように、白井はもう一度チェックしてみると立ち上がった。彼女はなんとなく紫藤のことが気になって立ち去りにくい思いがして、アームチェアの背に頭をもたれさせて、白井がもどるのを待った。
まだ夕食まで間がある時間のせいかロビーを行き来する客もまばらで、ラウンジも閑散としていた。白い小さなエプロンを着けた二人のウェートレスも手持ちぶたそうに壁際に立ち尽くし、客の様子を窺いながら気付かれないように正面を向いたまま小声で囁き合っている。
「まだ帰っていなかったよ。留守番電話にメッセージを入れてきた。ビールでも呑みながらもうすこし待ってみようか、もし時間が許すなら」
白井はそれでも連絡が取れなかったら紫藤のアパートを覗いてみるつもりだという。
彼女はふと、紫藤が今日もいつものように突然なんの前触れもなく姿を消したにすぎないのじゃないかしら、とおもった。それをこんな大騒ぎをしてしまい、わたしたちどうかしているのではないのかと、あとで紫藤にまた笑われることになるにちがいない。彼女はもう白井にまかせて帰ろうかと思い、立ちかけた。
「今日、是非、会いたいといっていたんだがなあ。ヤツ、一体、どうしたのかな、おれ、さっき変な話しを耳にしたんだ、まだ世界システム研究所のほうにもなんの連絡もないとすると、あの話は本当かもしれない」
白井は晴子の様子から気配を読み取ったかように、つぶやくようにいう。
「…………」
彼女はじっと白井の顔を覗き込んだ。
「オレたちがここにくるよりもかなりまえに、紫藤らしい男が二人の外人に抱えられるようにしてどこかへ連れていかれたというんだ。オレはそんなはずがないと思っていたんだが……。いま思うと、あれが紫藤だったというのは本当かもしれない」
「ホント……。だれが言ってたの」
彼女は疑わしそうな目で白井を見る。そんな重要なことをなぜもっと早くいわないのか、このバカ、このほかにも紫藤のことでなにか隠していることがあるのではないのか、と彼女は目を光らせる。
「うん……」
「その人、紫藤さんのことを知っているひとなの」
「さっき、オレが話していた連中のなかにいたヤツだよ。藍澤という外資系の石油会社の人間だ。ヤツ、一緒の外人を知っているのかな。たしか、アンダーソンとかいうヤツともうひとりのなんとかというヤツが一緒と言っていた」
「ほんとうなの、なにかのまちがいじゃないの」
「本当だよ。デタラメいうわけないだろ」
「その人はいまどこ? 外資系のひとよ、もう帰ったかしら」
「もうすこし待って見ようか、紫藤のヤツ、のこのこやってくるかもしれん」
晴子の態度が急に変わったこと揶揄するように、白井は水をさすようにのんびりとした口調でいう。
「意地悪ね、ビール飲みに行きましょ」
「そうこなくちゃ」
白井は先にたって地下一階のレストランへの階段を降りて行く。
「藍澤さんていうかたをよく知っているの?」
彼女はテーブルにつくなり白井に尋ねる。
「よく知っているというほどではないけど。とくに背が高いほうではないが、ひといちばい目立つピーナッツのような細長い大きな額をもった奇妙な雰囲気のひとだね。一見実直そうでけど、なんでも役人上がりだそうで、とても横柄なところがあるいやなヤツだ」
「通産の出?」
「多分ね。民間人になってしまったのに、いまでもいろいろ偉そうに口を出すんで会社のなかでも嫌われているらしい」
「どうして紫藤さんだとわかったのかしら」
「さあ、なんでも彼は紫藤をずっとマークしているらしいんだ」
「なぜ?」
「さあね。もうひとりいるぜ、そんなヤツがね」
「え? まだいるの、紫藤さんはマークされるほど問題があったわけ?」
白井は一団のなかにいた背が高くてやせた男だという。ひょろひょろした体つきに陰気な骨張った感じのまるで骸骨に皮を被せたような顔を長い首のうえにのせているが、鋼鉄のような鍛えあげた肉体をもっているらしい。
「空手二段で、いまは防衛庁の役人をしている、黒木というひとだが、まえにうちにいたことがあるらしい。出向していたのか、まだ出向しているのかしらないけど」
「もうふたりほどいたようだけど……」
「そうだったけ。えーと、青林と橙池かな。重機メーカーの会社人間と通産省のエリート官僚だ」
「みなさんと偶然会ったわけ?」
「まあね。みんなで昼飯を食べたんだよ。情報交換と称してね」
「どんな関係の集まり? それとも商売? 紫藤さんも参加することがあるのね」
「紫藤も一度参加したことがあるかな。やつは二度目からこようとしなかったね。彼には退屈だったんだろうな。ただ飯食いの無駄話の集まりは。だれかが声をかけると集まるだけのものだから。声をかけるのが商社のOBだったり、大学の先輩だったりでまちまちだね。なにか目に見えない関係があるかもしれないけどね」
その日、ふたりは夜遅くまで待ったが、とうとう紫藤から連絡はなかった。翌日も紫藤は世界システム研究所に姿をみせなかった。
晴子と白井がアパートを訪ねたとき、ドアには鍵がかかっており、紫藤は帰っていなかった。彼女は紫藤がひょっこり帰ってくるような気がして、紫藤の部屋に入る気がしなかったが、白井はあくまで紫藤が失跡してしまったのだと言い張り、管理人に強引に頼み込んで無理やりドアの鍵を開けてもらった。
部屋は泥棒が入ったように乱雑に散らかっていた。そのうえ、白井がいくら探しても、紫藤がこれまで用意していたプロジェクトに関する大量の資料が一切見当たらなかった。
その翌日、東京都江東区若洲の東京湾の埠頭で頭部、両手先、両足先が切断された男の死体が浮いているのが見つかった。その死体の血液型は紫藤のものと同じであったが、それが彼の遺体であると断定することはできなかった。
・・・・・・・・・・・・
(続く)
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