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天翔け地這う 第5巻  オセロ作戦パート3・サンプル

 

第一章

 1

「手遅れだったか……」
  黒装束を纏った異様な風貌のひとりの男が呟く。骨と皮だけの痩せた体なのに、背丈が飛び抜けて高い。鼻は細く尖り、目だけがいやに大きい。その大きな目で睨まれると、二つのゴルフボール大の眼球が野球ボールのような大きな目となり、分厚い鉄板をも射抜くような迫力があった。
  男のまわりには数人の黒いスーツの男たちが取り囲み、辺りに鋭い視線を向け、警戒している。
「議長、ご用ですか」
  彼の唇の動きを察知したのか、そのなかのひとりの男が近寄る。秘書のひとりだ。
「うん……」
  彼は前面に広がる森林に目を向けたままだ。森林といっても、巨木はない。疎らに生えている高木に立ち枯れがやたらに目立つ。地球温暖化による気候帯変動で生じた気温上昇に適応できないのか、それとも……。
  身を屈め、手の平で土を杓ると、鼻に持っていく。土の臭いのなかに、薬品のような刺激臭が混じっている。なんの匂いか。彼は記憶をたどる。
  確か、一度これに似た臭いを嗅いだことがあった。だが思い出せない。
「この臭いは……」
  近寄ってきた男の鼻先に土の手を突き出す。
「よく分かりませんが、有機塩素系の合成化学物質のように思えます。たとえば、合成化学物質Xか、それとも、ダイオキシン類か……」
  男は土に鼻を近付け何度も嗅ぐが、判然としないのか言葉を濁す。
  合成化学物質Xは環境ホルモン(内分泌撹乱合成化学物質)の一種で、「黒の集団」が開発したものであった。これに対して、ダイオキシン類は塩素を含む化学物質だ。ダイオキシン類とは、塩化ビニールなどの不完全燃焼(三〇〇度程度の低温燃焼)あるいは農薬や薬品類の合成するときに、意図しない副合成物として生成されるポリ塩化ジベンゾパラジオキシン、ポリ塩化ジベンゾフラン、ダイオキシン様塩化ビフェニルの総称である。これまでさまざまな毒性が指摘されてきているが、合成化学物質Xと同様に、これらにも環境ホルモン(内分泌撹乱合成化学物質)的作用がみられる。
  男の言葉を聞いているのか、それとも聞こえないのか、彼は前方へ目を向けたまま、手の平の土を払い落とす。
「日本地区本部が産業廃棄物処理業者と問題を起こしていたことがあったが、あれはすでに解決しているのか」
「はあ……、焼却炉爆発事件のことですか……」
「あのあと、関係していた男女ふたり連れの監視をつづけていたようだが、その後、あのふたりはどうなったのか」
「はい。早速、調べます」
  秘書はまだ前方へ目を向けている議長を残したまま踵を返えすと、身を翻し、議長のもとを離れた。

 2

「代表、土田教授へ委託した調査の件ですが……」
  これは山城が代表の許可を得て進めていた案件だった。彼は執務机であらぬ方に目を向けたまま、微動だにしない代表の顔をじっと見る。いつもの脂ぎった精悍な顔と違い、艶もなく、どこか萎れた感じがする。
「うん……」
  しばらくして、代表は徐に目を上げる。記憶は正常なのだろうか。
「教授が国際会議に出席する折に、海外における環境ホルモン(内分泌撹乱合成化学物質)規制の動向を調べてもらうことにした件ですが……」
  彼はさらに説明を加える。これは環境行政担当者と昵懇な教授を通して、権力中枢へ接近するために打った布石だった。だがこの点は敢えて伏せておいた。伏せていても、以前の代表なら十分分かっているはずなのだ。
  代表の目を覗き、彼はじっと反応を伺う。代表は自分を捕らえ、亡き者にしようとした。だがこの記憶は消えてしまっているのか。
  彼がドアを開けて執務室に入っていった時、代表は彼の顔を見てもなんの反応も示さなかった。それで代表の承認のもとに進めていた土田教授の件を持ち出し、以前の記憶を確かめようとしたのだった。
  代表は彼に目を据え、目を凝らしてじっと彼を見ている。彼も負けじと代表の目を覗き込む。
  執務机越しに、二人の睨み合いがつづく。彼はふと、代表の目の奥にレースのカーテンような薄い幕が張り巡らされているのに気付いた。
「(おい、一体、あれはなんだろうか)」
  彼は一体同化している耀に話しかける。彼はさらに一歩執務机に近付き、代表の目の中をじっと覗く。
  目の中で、薄い幕が細かく揺れている。よく見ると、幕が揺れているのではなかった。眼球が微妙に痙攣しているらしい。
「(おい、あまり近づくな。アブナイ。あの男は狂っているぞ)」
  燿だ。
「(お前にも見えるのか)」
  彼は訝る。なにか変だ。頭のなかにヨウのほかになにか異物が侵入しているような感じがするのだ。
「(よく見えないが、異様さを感じるのだ。それにあの男の体にはダイナマイトが仕組まれているそうだ。いつ破裂するか分からんぞ)」
  微かに、体が揺れる。誰かが合図しているのか。
「(ヨウ、いまがチャンスだ。代表にもう少し接近するように言ってくれないか。代表と一体同化する。やつの脳を確かめてみよう)」
  低い声がした。山城のなかに潜入してきたハクリだった。ヨウと打ち合わせして、代表と一体同化するチャンスを狙っていたのだ。
「(分かった。ダイナマイトに気を付けて)」
「(よし、いまだ。行くぞ)」
  ハクリが山城から出て代表へ飛び移る。
「(ケン、もういい。代表から離れるんだ)」
「うるさい。近づけの、離れろと、一体どっちだ」
「(仲間のハクリが代表の脳の状態を調べに体内に入っていったんだ。しばらく、離れたところで様子を見ていたらいいということだ)」
「(うん……、分かった)」
  彼は身を引いて、執務机から後退する。代表は驚いて顔を上げる。彼は何事もなかったかように、さらに足を後ろに引く。
「それでどうしたんだ、その件は……」
  代表は大声を出す。
「その件ですか……」
「そうだ、その件だ」
  相変わらず、大きな声だ。彼はじっと代表を見る。ふと、代表は「その件」と言っているが、「その件」がなにか理解していないような気がする。
「実は、議長がすでに日本に……」
  彼は口からでまかせを言う。
「なんだと……」
「まだ確認が取れずにいるのですが、一応、お知らせしておいたほうがよいかと思いまして……」
  もちろん、そんな情報は入っていなかった。だが彼は用心深い議長のことだから、多分、隠密裏に運ぶにちがいないと思っていた。事前に訪日しておいて情報は後から流すような手は十分考えられるのだ。
  代表は急に椅子から立ち上がると、彼がそばにいることも忘れ、ぶつぶつ言いながら、執務机の周りを回りだした。彼は代表に気付かれないように後退し、後ろ手でノブを掴み、ドアを開けて室外へ抜け出た。

 3

「あの音、なにかしら」
  木実子は大きな食卓用テーブルで向かい合っている森野におびえた目を向ける。彼女は息を殺して、じっと聞き耳を立てる。
  ふたりは入院していた病院から退院して、一時的に、彼女の実家に身を寄せていたのだ。彼女には実家に帰るつもりはなかった。ここのリビングで灯油をかけられ、焼き殺されそうになったのだった。こんな現場を見たくなかったし、二度と戻りたいとは思わなかった。だが娘の帰りを待って、ひとり残っている母が気掛かりだった。
  玄関のほうで微かに金属性の音がする。
  テラスに面したガラス戸からレースのカーテン越しに差し込む光も急速に力を失い、リビングには夕闇が刻一刻広がり出していく。彼女は椅子から立ち上がり、灯をつけたかった。だが身体が硬直して動こうとしない。
  ノブが回る音がした。ドアが開いた。廊下を歩く足音が近づく。
  リビングのドアが押され、すき間から手がのぞく。つづいて、スイッチが鳴った。天井の照明器がまぶしい光を放つ。
「だーれ……」
「まあ、お母さんだったの……」
「こんな暗いところで……。灯をつけたらいいのに……」
  貴世は森野を一瞥する。
「お母さん、鍵掛けた」
「あ、まだかしら……」
「直ぐ、鍵掛けなくちゃ」
  木実子は玄関へ飛んで行く。
「助けて……、早く、誰が来て……」
  玄関のほうから、彼女の悲鳴がした。森野が飛び出す。貴世がつづく。
「お前は……、安井金平だな」
  森野が前に出る。
「近寄るな」
  大男が木実子を腕をねじ上げ、首にナイフの刃を付ける。
「早く、一一〇番して……」
  彼女は首筋のナイフに目を向け、叫ぶ。
「動くな。動いたら、この女を刺す」
  大男はにじり寄ろうとする森野と貴世を制す。
「…………」
「こんどこそ、こいつは死んでもらう。この女にはさんざんな目に遭わせられたから、この女をもさんざん苦しめてやらなければ……、お前たちも一緒だ」
  大男は強く木実子の腕をねじり、彼女を床に押し倒し、背中に足を乗せて押さえつける。そして素早く足元に置いてあるポリ容器のフタを取り、前へ倒す。
  ポリ容器の口から透明の液体がとくとくと流れ出した。石油臭が一面に漂う。
  灯油が廊下を広がっていく。灯油は木実子に迫る。床に俯せている木実子は顔を背けて必死に逃れようとするが、瞬く間に灯油は広がり、顔面を濡らす。森野と貴世の足元をも濡らしていった。
  必死に顔を背け、灯油から逃れようとする彼女を踏みつけ、大男はポケットからライターをとり出す。そしてその手を伸ばし、火を点ける。
  その瞬間、森野が大男めがけて飛び込む。大男は身をかわし、片手で飛んできた森野を床に払い落とす。森野は重い音を発して廊下に叩きつけられた。その拍子に、顔面を強か打って、伸びてしまう。
  大男は身を屈め、木実子の髪を灯油に浸し、ライターの炎を近づけていく。
「止めて……、お願い、止めて……」
  貴世が悲鳴を上げる。
  一瞬、大男は目を上げ、貴世を見た。木実子がもがく。大男は足に力を加え、彼女の動きを抑えかかる。
  つぎの瞬間、火の点いたライターが大男の手から離れて宙を飛んだ。大男は呆気にとられ、飛んでいくライターを目で追う。
  ライターは弧を描き、天井すれすれを飛んで廊下の奥へ飛んでいった。
  大男の足の力が緩んだ隙に、木実子が男の足を跳ねのけ、立ち上がる。その拍子に、大男がバランスを失い、尻餅をつく。
  大男は慌てて、立ち上がろうするが灯油に足を取られて転びそうになる。ふらつきながら体勢の建て直しをはかる。その瞬間、貴世が大男の背を強く押した。さらにバランスを崩して大きくふらつく。前のめりになったところを、木実子が足を払う。勢いよく、大男は前のめりに倒れ込み、廊下の床に顔面を打ち付ける。
  一瞬、大男は意識を失ったのか、そのまま伸びてしまう。
  だが直ぐ、大男は立ち上がろうともがき出す。そして一度立ち上がる。そこで木実子がもう一度逆から大男の足を払う。男は仰向けに倒れ、後頭部を強か打った。
「一一〇番ね……」
「あ、火が……。お母さん、消火器は……」
  消えたと見えたライターの火がくすぶっていたのか、廊下の奥で黒い煙が立上りはじめている。
「早く、森野さんを外へ出さないと……」
  彼女は廊下を塞ぐように伸びている大男を引きずり出す。ドアを腰で押し、玄関から庭へ引きずっていく。廊下が灯油で濡れているせいか、思ったよりも軽かった。つづいて、森野の腕を引いていく。森野の身体は滑るように軽々と引き出せた。
  ふたたび玄関に戻ると、廊下の奥へ走る。彼女は貴世の手から消火器を奪うと、燃え上がり出した火元へ噴射口を向ける。
  火が廊下の灯油に燃え移った。火が廊下一面に広がり、めらめらと大きな炎を立上らせた。炎は壁を這い、天井を焦がし、階段を上り、二階へ飛んでいく。
「もう、ムリだわ。お母さん、一一九番へ電話して……」
  だが貴世は思うように動けないのか、うろうろしている。
「お母さん、早く……」
「ああ……、動けない」
  腰を抜かしたのか、貴世は手を振るだけで、蹲くまってしまう。
  木実子は消火器を捨て、貴世を抱え、玄関へ向かう。
  火が追いかけてくる。灯油に濡れたスリッパに火がついた。彼女はスリッパを脱ぎ捨る。裸足で玄関の土間に下り、ノブを回す。抱えている貴世の身体でドアを押す。
  ドアが開いた拍子に、炎が大きくなった。外へ飛び出し、彼女は貴世とともども庭に倒れ込む。
  頭髪が焦げた臭いがする。灯油に濡れた足に火がついている。彼女は貴世から離れ、急いで上着を脱いで炎を叩く。
  火は消えたが、火傷を負ったのか、足の甲がひりひりする。彼女は貴世を探した。貴世は庭の片隅で蹲っていた。彼女は母を抱え起こし、隣家との堺にあるブロック塀に背を押し付け、玄関を振り返る。
  玄関横の明り取りガラスか妙に赤い。廊下の灯油が燃え上がっているのだろうか。やがて家中に火が回り、火を噴き出すことだろう。
  彼女は全身を震わしている貴世を抱きしめながら、家が炎に包まれ、燃え尽きていく様子を想像していた。そのときはじめて森野と大男の姿がどこにも見当たらないことに気付いた。
  サイレンが近づいてくる。点滅する赤色ランプが間近に見えた。
  数人の黒い人影が見えた。近づいてくる男たちに見つからないように、彼女は身体を小さくして息を潜めた。

 

 

・・・・・・・・・・・・

(続く)

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