第一章
1
「なにやっているんだ……」
耀はしびれを切らし、声を掛ける。山城はかれこれ一時間も執務机のまえに座ったきり、全然動かないのだ。
彼は山城と一体同化しているものの、身体だけでの一体同化だった。まだ一体同化のレベルが低いのだ。比喩的にいえば、ただ相手の身体のなかにもぐり込んでいるような状態だった。
この男を完全に操作できる程度に一体同化のレベルアップするにはどうすればいいのか。彼は脳の神経回路に入り込んでこの男がなにを考えているのか知ろうとした。だが何度試みてもうまくいかず、とうとうさじを投げてしまったのだった。
「うるさい。邪魔するな」
山城は邪険に突き放す。
彼はせめて、山城が見ているものが見えればいいと思う。目を閉じ、じっとこころを落ち着け、山城の目になり切る。
一瞬、机の天板らしい平面が浮かんだ。そのうえに小さな紙片が何枚か並べてあるように見える。
「なんだ、あれは……」
彼は目を凝らす。紙片にうっすらと灰色の影が写っているように見える。だがなかなか焦点が定まらない。
さらに目を凝らす。だがなにが写っているのか判然としない。それでも次第に灰色の影が人物であるように見えてきた。紙片は誰かの写真らしい。
「この男が見ているのは誰の写真だろうか……」
男は写真をまえにして、一時間も考え込んでいる。一体、なにを考えているのか。彼はもう一度男の脳へ入り込む。
脳の側頭葉が盛んに活動している。記憶をつかさどる部位へアプローチしているのだ。男は古い記憶を呼び戻そうとしているらしい。
「ケン、なにを見ているんだ」
「…………」
男は返事をしない。
「なにを思い出そうとしているんだ」
「…………」
彼の声が耳に入らないのか、男は微動だにしない。彼は男を揺すってみようかと思った。だが彼はじっとその衝動を抑え、様子を窺う。
突然、ベルが鳴った。男は受話器に手を伸ばす。
「はい、承知しました」
男は椅子から勢いよく立ち上がった。そして大股で執務室を出ていく。
彼は振り落とされないように、男にしがみついた。
2
「ご用でしょうか」
地区代表がぎょろりと目を上げ、執務机のまえに立つ男を見上げた。三白眼が怪しく光る。
「騒がしかったようだが……」
しばらく、間を置いて、代表はことさら声を落とす。
「はあ、実は……」
山城はじっと代表の目を見た。目だけが異様に光っている。爆発する寸前の目だ。
「…………」
代表は口を閉じたままだ。
彼は黙って、咄嗟に一枚の写真を代表の目の前に突き出す。代表は目を走らせ、写真を一瞥しただけだった。だが不意の一瞬の行為は代表の気勢を殺いだ。目から異様な光が消えた。
「実は、車が一台盗まれたので、追跡して取り返してきたところです」
彼は写真を執務机の天板に置きながら、昨夜の出来事を思い浮かべるように、ことさらゆっくり、写真とは全然関係ないことをさらりと言う。
「うむ……」
興味なさそうに生返事し、代表は天板の写真に目を落とす。
彼は代表の目を覗く。もし昨日の出来事が代表の耳に入っているなら、多分、車で逃げ出したふたりを追跡して連れ戻すまでの最初の前半部分だけかもしれない。そのときは数人の部下が関与していたので、その間の情報は筒抜け状態だったのだ。
だがそのあとの夜の高速道路での捕物帳は彼一人だけのいわば自作自演の独壇場だった。たとえこれが洩れていても、直接見聞きした証人はいず、彼が強く否定すれば、すべては通ることだ。
彼は高を括り、じっと代表の目を見る。彼の強い視線を感じているのか、代表は目を机に落とし、写真を見ている振りをつづけている。
ここは我慢比べだ。早く口を開いたほうが負けなのだ。
彼は代表の唇を凝視する。代表が口を開くのを待った。ただ待った。下手に口を開けば、それだけ話の内容が薄まり、かえって言い訳がましく聞こえるだけだ。
代表が目を上げた。目は報告のつづきを促している。だが彼は素知らぬふりを装う。報告は済んでいるのだ。なにも付け加えることはない。そしてやおら机のうえの写真に手を延ばす。
代表は急いで掌で写真を押さえる。
「これは貰っておく」
「そうですか。その女性は一体誰ですか」
「きみには関係ない」
「…………」
「(ケン、その写真はママのか)」
突然、耀の声が響く。
「(お前は引っ込んでいろ。代表に聞こえるじゃないか)」
「(心配するな。ぼくの声は外にいる代表には聞こえないのだ)」
「(いいから、黙っていろ)」
彼は代表の目を覗く。
「なにか言ったか……」
代表はしきりに目を動かし、彼の周囲を窺う。
「その女性は一軒家にいたひとじゃないですか」
彼は代表の目を逃れるように身を翻し、よく通る声で言う。
「なぜ、この写真を……。あのとき、撮ったのか」
彼に目を据える。代表はじろじろ見ている。
「実は……」
代表がなぜこの女の情報を欲しがったのか、なんとしても聞き出すのだ。
「なんだ……」
「実は、こどもの手を引いて歩いているところを見かけたんです」
彼は鎌をかける。
「…………」
代表はじっと彼の顔を穴が開くほど見ていた。その間、彼はその鋭く突き刺さる錐のような視線に耐えていた。
「(慌てるな。ここは一端、引いたほうがいいぞ)」
「黙れ」
代表の目が一瞬、動いた。思わず、叫んだ声が代表にも聞こえたのか。彼は代表の目を盗み見する。
いつの間にか、代表はいつもの無表情な顔に変わっていた。彼は潮時と感じ、一礼して、踵を返した。
3
「ミサ、ヨウから連絡があったかね」
未佐は日本ブースで椅子を壁際に引き寄せ、スクリーンを見ていた。振り向くと、後ろにハクリが立っている。彼女は久しぶりに会ったように、白髪に白い顎髭の顔をしばらく見つめる。昨日まで行動をともにしたのに、なぜかしばらく会っていない旧い知人に会ったような懐かしさが漂っていた。
「なにも言ってこないの。どうしたのかしら」
彼女は自分の鼻にかかった声に驚き、急いでスクリーンに目を向ける。スクリーンにはKキャンプの施設が映し出されている。
「ヨウはそこにはいないかもしれない」
ハクリは未佐の背後に立って、スクリーンに目を向ける。
「え?」
「あの男はすでに本部ビルに帰っているだろう」
「耀くんも一緒かしら」
「多分……」
ハクリは簡潔に言い、口を閉じたまま、未佐の背後に立っていたが、「で、あのふたりはどうかな」と言い、まえに出て、スクリーンを操作し出した。
スクリーンに見覚えのある湖畔が映し出された。木実子と別れたところだ。
「そろそろ戻ってきてもよさそうなものだが……」
ハクリは口の中でぼそぼそ呟きながら、湖の周囲を丹念に探していく。やはり、木実子たちや車は戻っていなかった。
「木実子さんたちは戻ってくるかしら」
「分からない。行くところがなければ戻ってくるにちがいないが……。あのふたりにどこか行く当てがあるのかね」
「もしかしたら、まえに住んでいたところに帰ったのかも……」
「ああ、産廃処理場が近くにあったところかね。でもあの付近には、『秋野』という表札の家は見当たらなかったが……」
ハクリもふたりが戻っていないか、産廃処理場の付近を探してみたという。というのも、ふたりが姿を消したと知ったとき、多分、体内の発信機を取り出すために外科医を訪れたにちがいないと思った。そして急いで付近の病院を見て回ったが、ふたりを見つけることができなかったのだ。
「どうしてそこだと思ったの……」
「簡単な切開手術でも、そのあとは誰でもしばらく身体を休めたいと思うだろうからね。それでミサとヨウが事故に遭った焼却炉のことを思い出し、その付近を当たってみたというわけだよ」
「そうだったの。でも変ね。分からないはずないと思うけど。一言言ってくれれば、わたしも一緒に行ったのに……」
彼女はしばらく居候していた白い塗装の戸建ての二階屋を思い浮かべる。こじんまりした煉瓦タイル張りの門柱があって、そこにはローマ字の表札が出ていたように思う。だが木実子が家を出て以来、空家になって表札も取ってしまったのだろうか。それとも、人手に渡ってしまったのか。
不意に、木実子と初めて会ったときのことが鮮明に浮かんだ。彼女が土田教授のもとで秘書のアルバイトをしていたときだった。確か、あのとき、教授は「亜木(あき)」というひとが研究室に訪ねてくると言っていたように思う。
「ハクリ、もしかしたら、表札の名字が『秋野』じゃなくて、別のものだったのかも知れないわ」
彼女は必死になって表札の記憶を呼び戻す。ローマ字で表記された表札は古びてしまい、多分「AKI」と浮き彫りされていたらしいアルファベット文字も判然としなかった。だが、頭のAとつぎのKだけは読み取れたように思う。それでなんの疑問も感じなかったのかも知れない。
「なんだって……」
「耀くんが生まれたので、名字を変えたのかも……」
「どうして……」
彼女は黙って、ハクリをしばらく見つめていた。多分、産まれた子が婚姻外の子であることを知られたくなかったのか、それとも母親に強いられて姓を変えて結婚したかのように装ったのか、そのどちらかだろう。だから、いい加減にこれまでの「亜木(あき)」に「の」を付けて「あきの」とし、「亜木」に代えて「秋野」としたのだろうと思った。だが、彼女は口を閉じたまま、開こうとしなかった。
「一度、あの付近を訪ねてみるわ。木実子さんがいるか確かめてくるわね。それとも、これから行ってみる?」
だがなぜか、彼女はスクリーンから離れる気がしなかった。別れるとき、直ぐ戻るからと告げたのに、木実子が姿を消したことが気になって仕方がなかった。
もし、ハクリが言うように、木実子たちが発信機を取り除くために湖畔を離れたのなら、それが済めば、ふたりは必ず湖畔に戻ってくるにちがいない。あたふたとふたりを探したりせずに、戻ってくるまで待っていたかった。
これから一緒に協力して「黒の集団」に立ち向かおうというのに、なんの断りもなく、木実子が単独行動に出たことが腑に落ちなかった。もしかしたら、ふたりには「黒の集団」に立ち向かう意思もなければ、「天の組織」と協働しようとも考えていないのかもしれない。
それよりも、木実子は彼女が断りもなくずけずけと身体のなかに入り込んでくることを嫌がり、逃げ出したのだろうか。
とにかく、木実子のこころのなかを読めないことが心もとなかった。彼女を次第に苛立たせていった。
「ミサ、ふたりに会ったら、よく話してみようね」
ハクリは彼女の苛立ちを静めるように言い、優しく肩を撫でた。
・・・・・・・・・・・・
(続く)
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