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震え火を噴く列島・サンプル

 

プロローグ

 グリーンランド氷床大滑落事件は全世界に一〇メートルもの海面上昇をもたらして一段落した。
  突然生じた一〇メートルもの海面急上昇は誰も予想しない出来事だった。日本はもとより、世界中でも、なんら備えはなかった。全く不意打ちの海面急上昇だった。被害は全世界におよんだ。各国とも海面急上昇によって領土を失った国々に対して援助するまえに、自国の被害に対する応急対策が先だった。
  海に面しているいないにかかわらず、すべての国々にさまざまな影響が広範囲にわたり生じた。国際社会にも全く思いがけない直接間接の影響が広がり、いつまでもつづいた。
  海面急上昇が一段落したところに、大地震が発生し、九鬼陽一郎の故郷を襲った。宮城県沖地震で大津波が発生し、仙台湾を襲う。グリーンランド氷床滑落によって一〇メートルも海面が急上昇しているところに生じた大津波はかっての小高い崖や台地を乗り越え、宮城県北部に広がる大崎平野の奥の奥まで押し寄せた。地震で傷んだ街並みに津波が追い撃ちをかけた。街はすっかり姿を消した。
  九鬼は急ぎ帰国するが、一人息子アキラの姿はなかった。
  海面急上昇によってすっかりやせ細った日本列島は身軽になったのか、身体を震わすように、絶え間なく激しく揺れ出した。

  第一章

 1

「アキラを探しに行ってくる」
  九鬼は身支度を整えると、リュックを右肩にかけたままリビングに入り、テーブルに朝刊を広げてコーヒーをすすっている佐藤に近づく。
  彼はしばらく日本に滞在することにして、佐藤のマンションに寄宿していた。夜、ベッドに入ってもよちよち歩きのアキラが目に浮かび、なかなか寝つかれなかった。ベッドで輾転としながら、明け方になって漸く寝入ったのだった。朝、目を覚ましたとき、彼の頭には、アキラを探しに行くことしかなかった。
「どこへ……」
  佐藤は目の前に突っ立っている彼を見上げる。
「うむ……」
  彼には当てがなかった。だがじっとしておれないのだ。
「ここでしばらく連絡を待っているほうがいいと思うけど……」
  佐藤はリュックサックに両腕を通し、いまにも出掛けようとしている彼を引き止めるように言う。
  九鬼陽一郎は一人息子のアキラを弟夫婦のもとで一緒に暮らしている母親に預け、米国にある世界有数の大気圏に関する研究機関ACARで研究中だった。子のない弟夫婦がアキラを養子にして、代々つづく医者の家系を継がせたがっているのをいいことに、数年前、彼はよちよち歩きのアキラをひとり日本に残しても単身渡米したのだ。
  弟が医院を構えている故郷の街が大地震に襲われたことを知って、彼は胸騒ぎを覚え、急遽帰国したのだ。数年ぶりだった。アキラは小学校に入学しているはずだ。
  彼は大地震に見舞われた故郷をM新聞記者佐藤らと訪ねたものの、街は津波に襲われ跡形もなく、一人息子アキは行方不明だった。母親や弟夫婦の消息も一切分からず、一端、引き揚げてきたばかりだった。
「もう一度探してみる」
  彼は同じことを繰り返す。
「どこを……」
「…………」
  彼は応えることができず、佐藤の目をじっと見る。
  しばらくして、佐藤の目から引き止めようとする光が次第に薄らいでいった。
「一緒に出かけますか」
  佐藤がコーヒー碗を傾け、底に残ってるコーヒーを一気に飲み干すと、幾分丸くなった小柄な身体を揺すりながら立ち上がった。
「え? そうしてくれると嬉しいが……、でも、いいのかな……」
「津波に襲われることがないような平野の奥までなぜ津波が押し寄せたのか、そのメカニズムについての取材があるんだ。地元のТ大学に津波の専門家がいる。海面急上昇後はじめての津波なので、海面上昇による増幅効果がないか、これについて記事を書く予定があるんだ。アポイントを取ったら、直ぐ出かけるから……」
  佐藤は携帯電話を取りだすと、耳に当てた。  
  佐藤にはもう一つの思惑があった。九鬼をこのまま日本に留めておきたいと思っていたのだ。
  被災調査の帰りの車のなかで、九鬼が「地球の声なき声を聞いた」と言っていたことが彼には気になっていた。一度、このことについてゆっくり聞きたいと思っていた。それなのに、九鬼はアキラを探しに出かけるという。だが出かけるとなると、九鬼がいつ戻るか分からなかった。彼は急いで取材の用事をつくり、九鬼と連れ立って出かけることにしたのだった。
  それとは別に、彼には大それた計画があった。大袈裟に言えば、それは日本の未来というより、世界の未来にかかわるものであった。
  彼はこれまで日本列島を襲ったさまざまな気候異変や出来事を世界へ向けて発信していた。日本列島は、地球温暖化の果てに大撹乱に陥り荒れ狂う地球システムに翻弄され、壊滅的な被害を被り、破局を迎えようとしているのだ。これは日本列島にだけにかぎらない。海面急上昇で大打撃を受けた世界も、大気システム、海洋システム、地殻システムにおけるさらなる大異変の頻発に見舞われることになるのだ。このことを世界中へ発信して、世界もこのような事態に陥るのだということを警告しておきたかったのだ。
  さらに、破局寸前の日本にあって、新しい日本列島の未来を考えていた。彼は存続が危ぶまれ出した人間社会の行く末を探り、地球における人類存続のための新しい地球文明の枠組みをつくりだし、全世界へ向けて発信したいと思っているのだ。彼は焦熱地獄に見舞われ、狂風吹き荒ぶなか、首都圏を奪われ、海面急上昇で海岸をそぎ落とされ、やせ細った日本列島の姿が、全世界にまもなく訪れる未来の姿だと感じ取っていたからだった。いや未来ではなく、すでに現実の一部となっているのだ。それにもかかわらず、日本ばかりか、世界の反応は鈍く、動きも鈍い。
  日本を、世界を動かすには、このことを全世界の人びとに納得させるための明確な未来図がなければならない。世界の未来図を描くには、地球の未来図がなければならない。地球の未来図を描くためには、地球システムの未来予測が不可欠なのだ。これをできるのは九鬼陽一郎以外にいない。彼はそう思っているのだ。
  九鬼が「地球の声」を聞いたと言った。この意味を知ったとき、彼はあらゆる手段を講じて九鬼陽一郎を日本に留めておこうと決心したのだった。
「斉木か、これからまた東北の方へ取材に行く。なにか情報がないか」
  彼は携帯電話を左手で耳につけ、右手で新聞を畳む。
「九鬼先生も一緒か……」
  斉木は三人で一緒に宮城県沖地震の被災地調査に行ったときのことを思い出しているらしい。盛んに、九鬼の様子を尋ねる。九鬼の話をもう一度聞きたいともいう。
「ところで、あの付近に例の白頭式農園はないかな」
  白頭式農園は佐藤と斉木の大学時代の恩師「白頭大人」が考え出した自給自足をモットーとする農園のことだった。
「いくつかあるが、どうしてだ」
「それなら、地震や津波の被災者が食料や行場を求めて農園へ潜り込もうとするかもしれないな。大崎平野から近いところに農園があればそれも覗いてきたい。電話を入れておいてくれないかな」
「オレも行こうかな」
「おいおい、そんなに席を空けていいのか」
「うん、まあな……」
  突然、建物が揺れた。
「それじゃ……、あ……」
「地震か……、揺れていないか」
「震源は……、近いのかな……」
  彼は辺りを見回す。受話器の奥から白川に指示する斉木の声が響く。
「どうやら、南海トラフが動き出しているらしい……」
  南海トラフは駿河湾から四国沖に連なる。トラフ(舟状海盆)は、海溝のように、海洋プレートが沈み込むところである。南海トラフにはフィリピン海プレートが沈み込んでおり、東海地震、東南海地震、南海地震など、これまで何度もプレート型巨大地震が起きているところだった。
「あそこで大地震が起きたら、大津波が発生する。被災範囲は宮城県沖地震の比じゃないぞ」
「うん、今回は留守番するか。九鬼先生によろしくな。そのうち、『地球の声』を聞かせて欲しいと言っていたと伝えておいてくれ」
  斉木は言うだけ言うと、さっさと電話を切ってしまった。

・・・・・・・・・・・・

(続く)

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