プロローグ
日本列島は依然として高温の海水域に取り囲まれ、地球上のホットスポットとなっていた。ホットスポット「ヒートアイランド日本列島」が熱エネルギー配分の不均衡により生じた現象であるとすれば、いずれ均衡(不均衡の是正)へ向って大撹乱が起こることが予測されるのだ。
地球表面の熱エネルギー分布不均衡状態を是正するために、気候システムはどのような手段を講ずるだろうか。長い時間かけて徐々に是正を図るのか。それともホットスポットを一気に解消しようとするのか。
地球温暖化とともに、異常気象がますます頻発するようになった。気象現象が以前に比べ、荒々しいものへと変貌した。ホットスポット「日本列島ヒートアイランド」の出現によって、さらに気候変動に激しさを加えようとしていた。
この夏、日本列島を襲った熱波は、まさに極限のような気象現象であった。つぎに襲う熱波はさらに高温になるにちがいない。
日本列島はヒートアイランド化を繰り返し、そのたびに日本列島ヒートアイランドに熱エネルギーが蓄熱され、そして熱エネルギーの激しい放射放散が繰り返されようとしていた。
熱波に襲われたヒートアイランド日本列島が台風のシーズンを迎えていた。
台風は高温の海水域で発達する。日本近海の高海水温域で、台風はさらに超大型化するのか。竜巻や突風はどうか。ゲリラ豪雨が頻発し、いたるところを襲うのか。
いずれにせよ、日本列島ヒートアイランドに集中集積した熱エネルギーを一刻も早く効率よく運搬し、地球の隅々まで分配する必要があるのだ。日本列島はいま、その日を迎えようとしていた。
ホットスポット「日本列島ヒートアイランド」をもたらした気候変動は、また地震列島日本列島に新たな問題を生み出していた。
地球表面での熱エネルギー配分の不均衡によって大気圏における大気大循環も大きく変わりつつあった。大気大循環の変動は地球の自転速度に影響をおよぼす。自転速度の変化はマントルの動きに影響を与え、巨大地震を誘発する恐れがあったのだ。
第一章
1
「どうした、怖い顔をして」
佐々木教授がにこやかな顔をして研究室に入ってきた。
「あ、先生……」
九鬼はいつものようにディスプレーを覗き、いかつい顔を顰めて地球探査衛星から送られてくる画像をチェックしていた。
九月に入り、日本列島に酷暑をもたらした熱波が急速に衰え出した。だが彼はつぎにヒートアイランド日本列島になにが起こるか心配だった。
熱エネルギーをしっかり貯め込んだ日本列島に周りの高温海域から湿った暖かい空気が大量に流れ込めばどうなるだろうか。
西太平洋赤道付近の海水温がまだまだ著しく高く、広い範囲に高水温の海域が広がっていた。世界各地に異常気象をもたらすラニーニャ現象がいまだに成長をつづけているのか。
この夏、熱帯域ですでに数個の熱帯低気圧が発生していた。いずれも日本列島上空に張りだした太平洋高気圧に阻まれ、その縁に沿って西へ向かった。そのまま西へ進み、中国大陸に上陸した。日本列島には影響をおよぼすことはなかった。
だが日本列島を覆っていた太平洋高気圧が衰えはじめ、東へ移動していた。いま熱帯低気圧が発生すれば、巨大に発達して日本列島めがけて北上するにちがいない。
日本列島周辺海域にはいまだに高温海水が広がっている。これでは日本列島に上陸するまで、台風は発達しつづけ、巨大化することだろう。
彼は熱帯低気圧発生の兆しがないか探した。
「九鬼くん……」
佐々木はまだディスプレーに目を向けている彼にふたたび声をかける。
「はい……」
佐々木はいつもなら彼の机まで寄ってきて、一緒にディスプレーを覗くのに、なぜか応接セットのところに立ったままだった。彼はしぶしぶ椅子から腰を上げ、教授の方に顔を向けた。
教授の横に三〇才前後の落ち着いた感じの、背丈は高くないがすらりとした感じの細身の女性が立っている。いままで一度も会ったことのない女性だった。
「……あ、どうも……」
彼は突然現れたショートヘアの女性に驚きの声を発した。教授のかげに隠れて机に座っている彼から見えなかったらしい。
近づくと、丸い顔の女性は笑みを浮かべた黒目がちの大きな目を向けたまま、ぴょこんと頭を幾分斜めに下げた。
「佐橋裕子さんだよ」
佐々木が紹介すると、彼女が名刺を差し出した。彼は机に自分の名刺を取りに戻り、ついでにこれまで見ていたディスプレーに目を走らせる。熱帯域に小さな白い雲が浮いている。
彼の脳裏で小さな白い積雲が見る間に厚い大きな雲となっていく。積乱雲か。気になってディスプレーに目を近づけようとしたとき、彼は佐々木と彼女の視線を感じて素早く身を翻した。
「九鬼陽一郎先生でしたか。まえにどこかでお見かけしたような気がしておりましたが……」
夕刊の記事や週刊誌で何度か彼の写真を見たようだという。あるいはテレビだったかもしれない。
そう言われて、彼は手に持ったままになっている彼女の名刺に目をやる。
T建築事務所一級建築士佐橋祐子とあった。
「建築士ですか……、建築士というとビルの設計……」
彼は名刺から目を離し、彼女をしげしげと見る。含羞んでいるような光を帯びた大きな目はどこか亡妻亜耶子を思わせた。その瞬間、脳裏に上空いっぱいに発達した巨大な積乱雲が浮かんだ。
「いいえ、わたしは構造計算のほうを……」
「あのとき、この方に救われたのだよ」
教授が口を挟み、ぽつりと言った。
「え? あのとき……」
彼は教授の顔をじっと見る。
教授が高架橋で立ち往生した新幹線の列車のデッキから飛び降りて足を挫いたとき、彼女が病院へ連れていってくれたのだという。
「いいえ、それは違います。先生のお陰で、息子は命拾いしたのです。ヒロシの命の大恩人ですわ」
「そんなことはありませんよ」
「ヒロシは熱中症になりかけていたのです。あのとき、お水を分けていただけなかったら、どうなっていたことか……」
佐橋祐子は一瞬目を潤ませる。
彼は片手で名刺を弄くりながら、ソファで身体を幾分よじって互いに目を見てやり取りしているふたりをぼんやりと眺めていた。
「ところで、台風時の最大風速はどのくらいになるかな。これまでの二倍にはなるかな。台風は巨大化の傾向にあるが……」
彼の視線に気付いたのか、佐々木は慌てて身体の向きを戻しながら、突然薮から棒に言う。
「いま、新しい超高層ビルの構造計算を担当しているのですが、台風時の風速が最大でどの程度でになるのか、それがどのくらい持続するものか、お教えいただこうかと、お訪ねしたところでしたが……」
彼女は笑みを浮かべた目を教授に、そして九鬼に向けた。
日本では超高層ビルの建設が本格化してから日が浅い。消防法では「高さ三一メートルを超える建築物」を高層ビルといい、これに対して、建築基準法では「六〇メートル以上の建築物」を超高層ビルというが、一般に、超高層ビルといえば一〇〇メートル以上の建築物を指すことが多い。いまでは日本でも三〇〇メートルを超すものも建てられている。
「さあ、温暖化で台風が巨大化の傾向にあります。最高で二倍になることもあると思いますが、平均的にいって、従来の一・五倍ぐらいじゃないですか、最大風速は。持続時間はそのときの状況によりますね」
九鬼は素っ気無く応える。それにしても大学の研究室までなんでこんなことをわざわざ聞きに来たのか。
佐々木が困ったような顔をしている。九鬼はふと教授が彼女を紹介するために、わざわざ彼の研究室に連れてきたのかもしれないと思った。
「九鬼くん、一・五倍というと、これまでの最大級で秒速約七〇メートルだから、一〇〇メートルを超すものもあるということかね、今後は」
「瞬間ではなく、長時間その程度の風が吹きつづくということですか」
「そう、いま話している値は一〇分間の平均値のことだから、巨大台風ではその程度の風が連続して吹くということ……」
彼は佐橋祐子を見た。
「ホントですか。一〇〇メートルもの風が一〇分間もつづいたらどうなるかしら。瞬間風速ですと……」
彼女は心配そうな顔で呟く。
「瞬間風速では八五メートル強の記録がありますから、一二〇メートルを超えるかもしれません」
彼は事務的に応える。
「まあ……」
「九鬼くん、佐橋さんは超高層マンションの最上階の上に住んでいる」
「え? そんなところに……」
彼は目を大きくしてまじまじと彼女を見た。
最近の都市は上へ上へと延び、超高層ビルが林立するようになった。高層建築物の構造も剛構造から柔構造へと変わってきている。ことに日本では、地震対策もあって、超高層建築物では地震動とともに揺れて振動を吸収する柔構造が支配的だった。
柔構造の超高層マンションは地震には強いが、最上階はかなり揺れるのだ。それを防ぐ免震構造や制震構造が開発され、これらも取入れられるようになっている。
「実は、長周期地震動のデータを取ろうと思いまして……。住んでいるわけではないのですが、寝泊まりできる実験室かしら」
これまでの地震対策は通常の地震動に対して考えられたものに過ぎなかった。最近になって、地震発生時に通常の短い周期の地震動のほかに、長周期の地震動が生じることが指摘され、問題視されるようになっていたのだ。
地震発生時には通常の小刻みの振動のほかに、数秒から十数秒の長い周期で揺れる長周期地震動が発生する。この振動は周期が長い分遠くまで届く。たとえば東海地方の大地震によって、遠く離れた東京の超高層建築物を大きく揺らすということだ。遠方の地震で都会の超高層建築物が思わぬ地震被害を被ることになるのだ。
とくに問題なのは、このような長周期地震動が超高層建築物と共振する可能性があることだった。共振とは建物などがもつ固有振動と同じ振動が外部から加わると、極端に大きな振幅が生ずる現象だ。大きな振幅は当然破壊力も大きい。窓ガラスや外壁が壊れる。場合によっては構造本体に損傷が生じる。
東海地震などの大地震発生時に生じる長周期地震動が遠く離れた都市の超高層建築物群の固有振動の周期と重なり、共振しないか心配されているのだ。
地震発生時の通常の短い振動に対しては、すでにいろいろな対策が開発され、最近の超高層建築物には取入れられてきている。だがこれらの制震構造や免震構造といった対策は長周期地震動には効かない。むしろ、これらの対策が長周期地震動の被害を増幅する場合もあるらしい。
困ったことに、長周期地震動ついては十分なデータがなかった。設計段階で対策を施すことも全然なかったのだ。
長周期地震動のような長い周期の振動は、実は、超高層建築物の固有振動数と一致しやすいのだ。だが超高層建築物を手掛けるようになってから日の浅い日本では、長周期地震動のデータも殆どなく、対策を考えるシミュレーションも不十分なものだった。
「データをとるため? まるで人体実験じゃないんですか」
彼は目を丸くした。
「そのとおりですわ」
彼女は屈託なく笑った。
人体実験でもデータがないんだからしょうがないと彼女は言う。長周期地震動のメカニズムはある程度シミュレーションで解明することは可能だ。これに対して、風の影響は見当がつかないというのだ。計器類で測定できないデータは人体実験でとるほかないのだと笑う。
確かに、柔構造の超高層ビルは、剛構造と違い、揺れやすい。ビルのような建造物に大風が吹けば、ビルの形状や配置によっては強烈なダウンウォッシュやダウンバーストのようなビル風や乱流を起すが、猛烈な強風ともなれば、ビル自体も揺れる。制震構造や免震構造でも最上階の揺れを小さく抑えることができても、全く揺れをなくすることはできない。
ビルに対する風の影響は殆ど身体に感じるか感じないかといった微妙なものだが、柔構造の超高層ビルにはこのようなデータは全然なかった。自動計測器で測っても、微妙な人体の感じ方まで観測することはできないのだ。
温暖化で台風が巨大化してきている。それに最近では竜巻も方々でたびたび発生する。強力な竜巻が襲ってきたら、柔構造の超高層ビルはどのように反応するのか。
「なるほど、そこまでして快適なマンションを追求しようというわけですか」
彼は半ば感心し、半ば呆れる。
こうしてでき上がった快適マンションに住む住人でさえ、停電でエレベーターが止まれば何十階もの階段を息を切らして上り下りすることになる。なにごとにも限度というものがあるのではないか。限度を超えてムリしても傍から見れば滑稽なだけだ。だが現代文明は限度を知らない。つねに限度を超えて発展してきたのだ。限度ができればそれがつぎの飛び越えるべき目標となる。だとすれば、限度を超えた社会にはこれまでとは別の原理が働くということか。
佐橋祐子はちらっと腕時計に目を走らせると、佐々木教授に顔を向ける。
「それじゃ、九鬼くん。今日はこのくらいで」
佐々木が口の中でもぐもぐと言い、腰を上げる。
「なにか分からないことがあったら、いつでもいらして下さい」
彼は礼を言う彼女にちっらと視線を走らせ、ふたりを見送った。
2
「あ、これは……」
九鬼は佐々木と佐橋祐子を送り出すと、急いで机に戻り、ディスプレーを覗く。熱帯域に浮かんでいた雲が渦を巻きだしていた。発生して間もない熱帯低気圧が台風へ変身したらしい。
日本列島周辺に焦点を合わせる。いつの間にか、日本海に長径二、三〇〇キロメートルもある黒い厚い雲が東西に広がり、ゆっくり東へ移動している。
「台風並の大暴風雨か……」
彼は不吉な予感がした。
日本列島周辺の海域の表面水温はまだ三〇度を超している。海面から大量の水蒸気が立ち上っているにちがいない。それに日本列島の上空にはまだヒートアイランド名残りの乾燥した大気が勢力を張っているだろう。
低気圧にともない、水蒸気を大量に含んだ厚い黒い積雲が日本列島に接近しつつあった。やがてゲリラ豪雨をもたらす巨大な積乱雲へと発達していくことだろう。
日本海側で集中豪雨を降らせた積乱雲は中央部の山岳地帯ですっかり水蒸気を吐きだしてエネルギーを使い果たすと、乾燥した大気となって関東平野に吹き込むのだ。フェーン現象で気温が上昇したところに、今度は南からたっぷり水蒸気を含んだ湿潤な空気塊が流れ込み、つぎつぎと積乱雲を急成長させるにちがいない。そして、太平洋側の広い範囲にも集中豪雨を降らすだろう。
電話のベルが鳴った。
「地球温暖化で地震が頻発するようになるそうですが、ホントですか」
M新聞の佐藤だった。
「海面上昇が進むとその可能性がある」
「いや、気候変動が巨大地震や大噴火の引金となるというんですが……」
「ああ、そういう説もあるようだが……」
「デタラメですか」
(続く)
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