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焦熱列島・サンプル

 

プロローグ

 前年の夏、暖水塊群が日本列島近海に押し寄せ、原子力発電所が集中立地している地点で暖水塊が熱水塊へ変貌し、首都圏や関西地方に大停電をもたらした。
  日本列島近海への暖水塊群の来襲は、グリーンランド氷床コアの分析によって発見された「急激な気候変動」のはじまりを思わせた。この種の気候変動の周期は数百年から数千年と短いもので、それは急激な温暖化にはじまり、気温がピークを迎えるとゆっくり寒冷化へ向い、最後は急激に寒冷化して終わるという。
  だが現在進行している地球温暖化が単純にそのようなパターンをたどるとは思えなかった。産業革命以来の大気中二酸化炭素濃度の上昇速度がかって地球が経験したことのない超猛スピードなのだ。この点が最大の問題だった。
  最近、北大西洋へ熱を運ぶメキシコ湾流が弱まり出し、寒冷化のはじまりかと思われる兆候が現れたが、人間社会はいまだに石油や石炭などの化石燃料に依存し続け、大気中へ大量の二酸化炭素を放出し続けている。二酸化炭素などの温室効果ガスの大気中濃度が増加すれば、さらに気温上昇がつづく。とすれば、従来の「急激な気候変動」のパターンとは別のものになってしまう。
  人類は大量の二酸化炭素を吐き続け、地球温暖化をさらに加速し、気温上昇のピークを更新し続けていく。地球温暖化の暴走し出していた。
  だが相変らず、誰もがこの新しい事態を認めようとしなかった。
  熱塩大循環(深層海流大循環)の変調によって、地球上における熱分布はいちじるしく不均衡化し出す。これを是正しようと、地球気候システムは激しい運動を余儀なくさることだろう。
  地球は振幅の激しい気候大変動期を迎えようとしていた。そのなかにあって、日本列島は地球のホットスポットとなり、ヒートアイランド化していく。

 

第一章

 1

「あのう……、柏田さんじゃないですか」
  額の禿げ上がった大きな顔に向って、九鬼は声を掛けた。
「九鬼陽一郎ですよ。海洋研で一緒だった……」
  彼はもう一度声を掛ける。だが柏田の彼に向けられている目にも顔の表情にも変化がなかった。
  男は九鬼を一瞥すると、くるりと踵を回して背を向けた。
  駅構内の広い通路は乗降客でごった返していた。彼は目でしばらく後ろ姿を追った。だがすぐ、人込みのなかに紛れてしまった。
  人違いだったのかと思った。だがあの額の禿げ上がった大きな顔は確かに柏田のものだった。
  別れの挨拶のせずに研究所を去った九鬼にいまもって腹を立てており、全く無視してしまったのか。それとも彼のことを忘れてしまったというのか。
  九鬼は人の流れに身を任せ、プラットホームへの階段を上った。
  ホームへ出ると、まだ四月だというのに、真夏のようなむっとした蒸し暑い空気が顔面を襲う。
  電車が入ってきた。扉が開いた。乗降客が動く。
  一輌前の車輌に乗り込む乗客のなかに、柏田の後姿があった。
  九鬼は発車ベルに促され、電車に飛び乗る。扉が閉じた。
  ラッシュにはまだ間があるのに車内は混んでいた。彼は乗客の間をかき分け、身をよじるようにしてすり抜け、前の車輌へ移動する。
  目の前に柏田の横顔があった。彼は前へ回って、声を掛ける。
「あぁ……」
  急いで声を呑む。人違いだった。横顔が柏田そっくりだったが、真っ正面から見ると別人だった。
  先刻、駅通路の人込みのなかで声を掛けた柏田らしき人も別人だったのだろうか。彼は不安に襲われ、柏田の顔をもう一度思い浮かべる。
  輪郭のはっきりした癖のある大きな目と禿げ上がった額が、大きな顔を一層大きく感じさせ、いかにも尊大に見える大顔だ。以前勤めていた海洋科学研究所で何度も会い、記憶に刻印した顔だった。
  間違うはずがない。彼はもう一度通路で声をかけた男の横顔を思い浮かべる。記憶に刻印した顔だった。それなのに人違いとはどうしたことか。
  九鬼が海洋科学研究所を突然辞めてからそろそろ半年になる。いろいろな出来事がつづいた六ヵ月だった。たった六ヵ月に過ぎなかったが、彼には何年も前の遠い昔のことのような気がするのだ。
  九鬼は電力業界の社長会での発言の責任を取らされる恰好で海洋科学研究所を解雇されたが、その前に彼は辞表を叩き付け、その日のうちに職員住宅を出てしまった。
  それ以来、海洋科学研究所とも、柏田とも没交渉だった。柏田の顔の記憶が薄れてしまっても当然といえば当然だった。
  九鬼は一度郷里の帰ったが、亡妻亜耶子の兄で指導教官であった佐々木教授に呼び戻されて、四月から大学に戻っていた。
  大学に戻ってしばらくして、大停電の事故調査報告書が公表された。首都圏と近畿圏の広範囲にわたって発生した大停電事故にもかかわらず、原因の解明が不徹底で、責任の追及も曖昧だった。
  これでは有効な対策を講ずることもなく、暖水塊の来襲のたびに大停電事故を繰り返すことになるにちがいない。
  白々しい気持ちで報告書を机に放り出し、彼は二度と見る気がしなかった。
  彼には妻亜耶子を熱中症に追いやり、生命を奪った停電事故が原因も解明されず、うやむやに処理されてしまうことは許しがたいことであった。とはいっても、彼自身「急激な気候変動」の研究に夢中になり、身重の妻を残したまま米国の研究機関へ出向し、妻を死に追いやった自分を許すことはできなかった。
  彼は後悔し、自責の念に駆られて自分を責めつづけた。もはや、二度と気候変動の研究をすることはないとこころに誓っていた。
  だが彼は突然襲った四月の真夏のような暑さに戸惑い、今夏も停電事故に襲われるのではないかと急に心配になった。こんな気掛りがあって、人込みのなかでも知らず知らずのうちに柏田の姿を追い求めていたのだろうか。
  それにしてもなぜあのような大規模な停電事故となったのか、九鬼には未だに釈然としないところがあった。
  彼には電力が突然供給不足の事態に陥った原因は原子力発電所の冷却システムの機能不全に起因するものとしか思えなかった。冷却装置の心臓部である復水器系統が設計構造上想定外の急激な海水温上昇に対応できなかったのだ。いいかえれば、冷却水として用いる海水の水温が急上昇し、復水器の設計上の運転条件を超えたために、冷却機能が十分働かなかったということだ。
  だが問題はなぜ電力供給の不足分を超えて停電範囲が連鎖的に広がり、大規模化していったのかだった。彼にはこの点が理解できなかった。
  発端となった発電能力の低下から大規模な停電発生までの因果関係はどうだったのか。電力供給システムは過去の停電事故を通して改善されてきたはずだというが、果たして十分改善されたといえるのか。
  彼は柏田に会って、もう一度大停電事故の原因を確かめてみたかった。彼は何度か電話したが、柏田を掴まえることができなかった。かといって、今更海洋科学研究所まで出掛ける気はさらさらなかった。
  実際、海洋科学研究所から離れてしまったいま、大停電事故の原因はもうどうでもよいことだった。だがなぜか柏田のことが気になってしかたがなかった。人違いするはずがないのに、人違いだったことがショックだった。
  彼は吊り革に掴まり、頭上のクーラーの吹出口から吹きだす冷風を受けながら車窓に目を向け、ぼんやりと変わりゆく風景を追った。二度も柏田を見間違ったことが彼のこころに暗い陰を落とし、澱となって胸の底を果てしなくひろがっていく。
  彼は大停電のことは忘れてしまいたかった。一切合切忘れてしまおうかと思った。できればあの忌まわしい出来事をいますぐ忘却の彼方へ追いやってしまいたかった。
  だがそれはできなかった。大停電事故を忘れてしまうことは、必死に熱中症と闘い、ついに力尽き、生命を奪われた亜耶子をも忘れることのように思われるのだ。
  彼は亜耶子を思い浮かべた。彼女が残していったわが子アキラに微笑みかける老母良子の白い顔が浮かんだ。
  その瞬間、老母良子の声がはっきり聞こえた。
「このクーラーはあまり効かないね」
  母はいつも「こどもにはクーラーよりも自然の風のほうがいい」と言い、マンションのベランダのガラス戸を解放した。だがそのたびに「空気が臭う」と言い、ことあるごとにもうじき一歳を迎えるアキラに「おばあちゃんと一緒に田舎に帰ろうか」と話しかけていた。
  亜耶子の死後、一度は郷里に帰ったものの、指導教官で亜耶子の兄でもある佐々木教授に呼ばれて大学に戻ることになって、アキラを連れて東京に戻ったのだった。
  不意に、脳裡に奇妙な風景が浮かんだ。
「そうか……」
  彼は思わず声を上げた。
  周りの乗客が不審そうに振り返る。彼は奇妙な風景を思い浮かべながら、素知らぬ顔で車窓に目を向け、素早く変わる風景を追っているふりを装う。
  日本列島を取り巻く海が真っ赤に染まり、しばらくすると列島が炎を上げ始めた。白熱の炎のなかで列島が光を放ち、次第に小さくなっていく。やがて列島は姿を消し、一面に赤い海が広がった。
  赤い海は徐々に色あせていき、青い海に戻った。青い海に流氷が漂い出し、一面白い氷に覆われていく。
  電車が速度を緩めた。彼は身体を動かし、ドアのほうへ移動しはじめた。

 2
 
「九鬼先生ですね。先生は大停電事故の発生を予測していたそうですね」
  研究室に戻ると、細い黒縁のメガネをかけた若い小柄な男が待っていた。佐々木教授から聞いたという。
  彼はちらっと男の顔を見た。差し出された名刺にはM新聞科学部佐藤由紀夫とある。彼は口を噤んだまま、ふたたび小柄な男に視線を移す。若いと思ったが、よく見ると三〇を過ぎているのか。メガネの奥で小さな目が光っている。
「今年はどうですか」
  佐藤という記者は堪えきれないという面持ちで、口を閉ざしたまま黙っている彼に問いを重ねる。
「分かりません」
「でも先生は大停電の発生を予測なさったんでしょう?」
「暖水塊がやってくることを予想しただけです」
  彼は無愛想に答える。妻亜耶子を熱中症で奪われた彼には若い記者の問いが詰問のように響くのだ。
「予想だったのですか。ところで、先生はいまの地球温暖化が急激な気候変動をもたらすタイプだと指摘なされておりますが……」
「と思っております」
  返事がぶっきらぼうだ。それでも佐藤という記者の目が輝いている。
「急激な気候変動というのは……」
「急激な気候変動をともなう地球温暖化のことです。地球温暖化は大気中に二酸化炭素などの温室効果ガスの増加によって生ずるのですが、急激な気候変動タイプでは気温上昇が温室効果ガスの大気中濃度の増加に比例して徐々に進行せずに、温室効果ガスがある程度の濃度に達すると突発的に気温が上昇して急激に温暖化が進み、ピークに達するとゆっくり寒冷化していき、最終段階で急激に寒冷化して終わるパターンをたどることが分かっています」
  急激な気候変動のパターンはグリーンランド氷床から採取したアイスコア分析の結果から見つかったが、この種の急激な気候変動は過去一〇万年間に二〇数回も出現していたというのだ。
「なにもしなくても、気温上昇がピークに達すれば寒冷化し出すのですか」
「そのようですね」
「じゃ、いま騒いでいる地球温暖化もいずれ寒冷化しておさまるのですか」
「長い目で見れば、そういうことになるでしょう」
「長い?」
「数百年数千年です。地球にとってはほんの一瞬のような長さですが、われわれ人間には長い期間です。でもわれわれにとってさらに問題なのはその間の過程です。いま進行している地球温暖化がピークに達し、それからゆっくり寒冷化していく数百年数千年の間に出現するさまざまな異常気象や気候異変が大問題なのです。どん底に待っている寒冷化はどんなものか」
「数百年から数千年もの間、異常気象が頻発するというのですか」
「そうです。地球温暖化がおさまるまでに直面する気候の大変動に、果たして人間社会が耐えられるかどうか、このことがわれわれ人間にとって一番懸念されることなんですよ」
「本当ですか……」
  佐藤は半信半疑の面持ちでいる。
「われわれは極めて短時間に石炭や石油などの化石燃料を大量に使用して、大気中に大量の二酸化炭素を放出してしまった。そして超スピードで大気中の二酸化炭素濃度を増加させている。このままわれわれがいまの生活をつづければ、これからも二酸化炭素を倍加して放出しつづけ、大気中の二酸化炭素濃度を上げてきくことになるだろう」
  グリーンランドアイスコア分析で、氷期から間氷期へ移行するときには大気中の二酸化炭素が五〇パーセント、メタンが七五パーセント増加しているという。産業革命時に比べ、現在、メタンはとっくに倍増を超えてしまっているし、二酸化炭素は二〇〇六年に三六パーセントを超えて、いま限界ラインに接近しているのだ。
「では急激な気候変動がもうすぐはじまるのですか……」
  佐藤はまだ信じられないふうに言葉尻を濁す。
「いや、わたしはすでにはじまっていると思っています。これまで見られなかった現象が現れるようになったからだ。日本近海にこれまでにない規模の暖水塊群が来襲するようになった。これがなによりの証拠だと思う」
「大停電をもたらした熱水塊のことですか」
  記者の目がふたたび光りだした。
「ええ……」
  彼は軽く頷く。不意に、大きな目をくりくりさせた亜耶子の元気な姿が浮かんだ。
「今年も大停電を起こすような熱水塊がやってくるのですか」
「…………」
「急激な気候変動のもとでは、あのようなことが毎年繰り返して起こるということですか」
「あれはほんの序の口だろう」
  彼は電車のなかで脳裏に浮かんだ奇妙な光景を思い浮かべた。
「え? じゃ、一体、どんなことが起こるというのですか……」
  佐藤は理解できないというように、じっと彼の目をのぞく。
「まあ、空前絶後の気候異変が世界中を襲うことだろう。一回や二回じゃない。これからの何年も継続する。各地で異常気象が頻発していることからも分かるように、すでに地球気候システムはすっかり撹乱されてしまっているからだ。この撹乱がおさまるには少なくとも数百年数千年を要する。いよいよ地球は気候大変動期に突入したと言っていいでしょう」
  彼は身体の奥からなにか得体のしれない力が突き上げてくるのを感じた。
  地球は太陽からエネルギーを受けているが、地表に降り注ぐ太陽エネルギーは均一ではない。赤道付近が一番強い。地球は球体であるうえ、地軸が幾分傾むいて自転しているからだ。
  地球は太陽エネルギーで生じた地表の熱分布の不均衡な状態を是正しようとする。このために地球は定常的な熱配分システムをいくつかつくりあげてきた。その最大級のひとつが熱塩大循環(深層海流大循環)だ。これは二〇〇〇年もかけて世界中の海洋を表層から深層への三次元を循環する大海流である。北大西洋から深層へ潜り、南極海の深層を抜けて北太平洋ヘ向い、そこで浮上して太平洋を戻り、赤道付近を抜けてインド洋を通り、大西洋へ向うとメキシコ湾流に合流して北上して潜る地点へ戻る。海洋の表層から深層への三次元ルートで、熱や塩類を地球規模で再分配しているのだ。
  この三次元大海流に最近に異変が生じているという。
「数百年数千年もつづくのですか。それで日本には……」
「でも、実際のところ、日本がいつどんな異常気象に襲われるのか、確実に予測することはまだできません。熱波や日照り、干ばつ、大暴風雨はもちろん、巨大な台風や竜巻も襲い来るでしょう。といっても、いつ熱波や大干ばつがやってくるのかまだはっきり言えません。今年かもしれない。来年も来るかもしれない。いや、毎年連続して超異常気象が何回も発生することになるかもしれない……」
「と言われても、それじゃ、何をしていいのか分かりませんね。いつ襲ってくるか分からないことに対しては誰も真剣になれないでしょうから」
「…………」
  彼にはまだ分からないことだらけてあった。地球温暖化といっても、地球全体が一様に温暖化するのではない。気候変動といっても、全世界の気候が一様に大変動するわけでもない。
  大まかに言えることは、地球の気候システムが撹乱し、地表の熱分布のバランスが狂いだしているらしいということだけだった。
  彼はいくつもの仮説を立て、生起する異常気象のシミュレーションを重ね、予測への道筋を考えていた。とにかく異常気象の種類別に発生時期や規模程度等を的確に予測できるようにしなければならない。
  天気予報のように、異常気象予報ができるようにすることだ。将来の数十年から数百年にわたる異常気象の種類程度別発生頻度予測のほかに、一ヵ月、三ヵ月、六ヵ月程度の詳細な予報ができるようにならなければならない。さもなければ、誰も対策を真剣に考えようとしないのだ。
  彼はいつ襲うかわからない超異常気象を来る来るといいつづける自分がまるで「狼少年」のような気がした。
  佐藤は口をつぐみ、考え込んだ九鬼をしばらく見守っていたが、軽く会釈して「また伺います」と言うと、立ち上がった。

 3

「アキラを田舎で育ててもらおうかと……」
  九鬼の声に佐々木教授が机から顔を上げた。
「え? どうかしたの……」
  教授は窪んだ眼窩の奥の小さな目をしばたかせる。
「実は……」
  九鬼は一瞬躊躇いを覚える。佐々木は熱中症で生命を奪われた亜耶子の兄で、かっての指導教官だった。とはいえ、亜耶子はもういない。いつまでも甘えているわけにはいかない。
  彼は電車のなかで突然浮かんだ奇妙な風景を思い返した。
  急激な地球温暖化の進行のなかで、熱波に襲われた日本列島が炎上し、白熱化して燃え尽きてしまうのだ。
「……あの大停電は冷却水用の海水温が冷却システムの設計時に設定した運転条件を超えたことによってもたらされたものだったのです。ですから、たとえ停電を免れることができたとしても、もし気温が異常に急上昇して、家庭用クーラーなどの諸々の機器の設定運転条件を超えたらどうなるでしょうか……」
  九鬼はことさら冷静さを装う。
  このまえの大停電は発電所の復水器系統の設計上の運転条件を上回る海水温の上昇(熱水塊の出現)によって冷却システムに機能不全が生じ、これが原因となって電力の供給不足が発生したのだった。これと同様に、急激な気温上昇によって日常使用しているクーラーやパソコン、ATMなどの無数の家電製品や電子機器も誤作動や機能停止を起すにちがいないのだ。
  コンピュータやクーラーなどに組み込まれた半導体などの電子部品には適正に作動する温度範囲などの運転条件が設定されている。それらの条件を超えた場合には誤作動を起すか、安全装置や保護装置が働いて自動的に停止する仕組みになっているのだ。
  たとえば、多くの家庭用エアコンの運転条件は、一般に、湿度は八〇パーセント以下で、冷房モードでは外気二一℃から四三℃、屋内二一℃から三二℃程度の範囲だ。ドライモードでは同一一℃から四三℃、同一一℃から三二℃の範囲となっている。
  たとえ停電を免れても、運転条件を超える気温急上昇でさまざまな電子機器が突然停止するようなことになればどうなるか。交通信号が点滅を繰り返し、交通機関は止まり、ATMが誤作動を起す。クーラーが突然止まって家のなかは蒸し風呂となり、住民はパニックに陥るにちがいない。大都市システムマヒし、住民全体が大混乱に陥ってしまうことだろう。
「それでアキラちゃんを田舎へか」
「え、まあ……、母が……」
  九鬼はクーラーの効かないマンションの一室で突然熱中症に罹り、アキラの傍らで意識を失い倒れている老母を想像する。
「このところ、暑い日がつづいているからな」
  佐々木はのんびりとした声で応える。彼は佐々木がまだ事態の緊迫さに気付いていないらしいことに苛立ちを覚えた。
「熱中症で多くの犠牲者がでることでしょう」
「…………」
  佐々木はじっと九鬼の目を見た。それから教授はおもむろに自分が覗いていたディスプレーを彼の方に向けた。
  ディスプレーの中央に日本列島が写しだされていた。地球探査衛星から送られたデータの解析画像だった。
  佐々木は海洋科学研究所を辞めた九鬼を大学に呼び戻したものの、亜耶子を奪った大停電のことを思い出させてはならないと、海水温上昇や暖水塊のことなど地球温暖化と関連することについては一切口にせず、彼と話すこともなかった。九鬼も意識的に避けて、自分から話題にしようとはしなかった。
  暗黙の了解ごとのように、いつの間にか、妹であり妻であった亜耶子を奪った地球温暖化に触れることは、ふたりにとって禁句となっていたのだ。
  佐々木は九鬼のこころのなかを窺うように、ディスプレーをじっと覗く彼の目を見ている。
「先生、やはり、北極海の温暖化がかなり進んでいるのですね」
  ディスプレーから顔を上げ、彼は教授に目を向けた。
「そうらしい」
  九鬼がこだわりなくふたたび地球温暖化を口にし、十分な関心を示したことがまだ半信半疑なのか、佐々木の深く窪んでいる小さな目はまだ彼を窺っていた。
「もし親潮が衰えれば、どうなるんですか。日本列島の周りに出現している無数の暖水塊が列島を包囲するようなことになるのでしょうか」
  ベーリング海から千島列島沿いに南下して日本列島の東北部の東岸へ流れてくる寒流が親潮である。親潮は北極海やベーリング海から流れてくる冷たい栄養豊富な海流で、北上してくる暖流黒潮と銚子沖付近で出遇う。黒潮は暖かい海水を運んで北上してくるが、地球の回転の影響も加わり、南下する冷たい親潮に行く手を阻まれるような恰好で、銚子沖で流れを東北東から南東へ転じる。方向を転じて日本列島から離れた黒潮続流は北太平洋海流と名を変えて北米大陸西海岸を目指す。
「暖水塊群のせいか、日本列島周囲で海水温が上昇しているようだ」
  親潮の勢力が弱まり、黒潮が銚子沖よりさらに北上しているのか。それとも親潮の水温が上昇しているのか。
「日本海の水温も上昇して列島の周囲全体が暖水化するようなことになれば……」
「そうなれば、日本列島も熱せられてヒートアイランド化することになりかねない」
  佐々木はけしかけるように言う。
「日本列島全体がヒートアイランド化ですか」
  大都市の中心部で気温が周辺より高くなることがよくある。このような部分的な高温化現象をヒートアイランド現象というが、都市のなかでもエネルギーを大量消費する高層ビルが建ち並ぶ都心などに島状の高温地帯が形成されやすいのだ。
  地面がコンクリートやアスファルトで覆われた大都市の都心部では、日中の強烈な太陽光線に熱せられてコンクリートやアスファルトに大量のエネルギーが蓄熱され、輻射熱を放射する。これらは日没後にも放熱しつづけ、都市では夜になっても気温がさがることはない。
「東京などの大都市では二重のヒートアイランド現象によって、其処彼処に超高温地帯が出現することになるかもしれない」
「ヒートアイランドのなかにヒートアイランドができるのですか。そんなことになれば、日本はもちろん、東京などの大都市はどうなりますか」
  九鬼の脳裏を真っ赤になって炎上するヒートアイランド列島がよぎる。
  真夏には三五度を超す日はざらだ。四〇度を超える日も何日もある。急激な温暖化が進めば、気温がさらに数度から一〇度程度急上昇するのだ。
  クーラーの排熱や自動車からの高温の排気ガスが集中し、さらにヒートアイランド化を加速すれば、真夏の最高気温時には日陰でも外気が五〇度をはるかに超すことになるだろう。
「発電所ではなんらかの対策を講じるだろうから、暖水塊襲来でふたたび大停電が起こるとはかぎらない。だがたとえ大停電が起こらなくとも、電子機器類が機能不全や誤作動でダウンし、もろもろの家電や電子機器類がストップするおそれがあるとなれば都市機能がマヒすることになるかもしれない……」
「そうなるには、五〇度とか、想像を絶する気温でしょう。そんなことが日本中で起きますか」
「それは分からない」
「そんな気温になるなんて思えませんが、念のために、東京を脱出して、アキラを母の田舎で育てることにしたいと思っているんです」
「きみはどうするつもりなんだね……」
  佐々木はじっと九鬼の目を覗き込む。彼は教授の視線を避け、しばらく窓の外に目を向けたままでいた。
  ふと、彼は亜耶子を思い浮かべた。地球温暖化にこころを奪われ、ふたたび気候変動の研究をはじめるために、わが子を母に預けようとしている自分に対して、彼女ならなんと言うだろうかと思った。

 4

「九鬼先生ですね」
  見知らぬひとりの男が研究室に訪ねてきた。
  九鬼は差し出した名刺を受け取りながら、男の顔を一瞥する。額が禿げ上がり、どことなくいささか横柄な感じがするのも柏田に似ている。まえにどこかで会ったような気もするが、心当たりがなかった。
  五月も半ば過ぎると、気温が急激に上りだした。日本列島に高気圧が何日も居座り、ギラギラした太陽が真夏のような強烈な光線を放つ。
  ことに太平洋側では毎日のように最高気温を更新し、連日真夏日となり、日中は三〇度を超す日がつづいた。古いビルの二階にある研究室は冷房があまり効かず、湿気が多く、蒸し暑い。
  男は手に持った小さなタオルで禿げ上がった広い額の汗を拭いた。
  そのとき、九鬼の脳裏に駅の雑踏での情景が蘇った。
「あの、駅で……」
「ええ、あのとき、声をかけられたものです。実は……」
  男は柏田の兄で、柏田本人とは連絡が取れず、探しているという。九鬼も弟を探しているらしいことに気付き、訪ねる気になったのだと言った。
「いつから連絡が取れないのですか」
「暮れから……、毎年、正月には兄弟が顔を合わせるのですが、弟は姿を見せなかった。それで……、勤め先の研究所へ電話したところ、長期出張だというのですがね。そんなことってあるんですかね」
「ご家族は……」
「あれはいまは独り身で……、研究所の独身寮にいるんですよ」
  九鬼は柏田が独身寮にいるとは知らなかった。かなり年下の綺麗な奥さんがいると聞いていたが、離婚したのか。
  柏田の兄は九鬼が弟についてなにも知らないことを知ると、なにか分かったら連絡して欲しいと言い残し、早々に引き揚げていった。
  九鬼も後を追うように、廊下に出た。
  柏田と見間違えた男の後ろ姿が見えなくなるまで見送りながら、彼はなぜか胸騒ぎを覚えてならなかった。
  海洋科学研究所では研究員の長期出張は珍しくはなかった。だが家族や兄弟に連絡がないとはどういうことか。誰かから研究所へ問い合わせがあれば、「電話があった」ぐらいの伝言は柏田へ届けられるだろう。たしかに返事がないのは変だ。
  九鬼は研究室に入ると、受け取ってテーブルのうえにそのまま置いた柏田の兄という男の名刺を手に取った。R大の工学部非常勤講師柏田康平とあった。
  彼は名刺をしばらく手に持ったまま、ニヒルな柏田の横顔を思い浮かべた。兄がいることも独りであることも知らなかった。
  彼は姿を消した柏田のことを気にしながらも、かといって兄だという柏田康平に協力して積極的に探す気にもなれなかった。海洋科学研究所とは断絶状態だったし、同室だった研究員らに問い合わせる気にもなれなかった。
  だが柏田の兄という男がわざわざ訪ねてきたことが、彼に郷里で父のあとを継いで医者となった三歳年下の弟を思い起させた。
  一度は佐々木教授にアキラを田舎で育てたいと言ったものの、彼は迷っていた。まだいつ母とアキラを送って郷里へ行くかも決めていなかった。
  佐々木に話して決心を固めようと思っていたのに、かえって亜耶子をひとり残したときのように、アキラと離ればなれになることに言い知れぬ不安を覚えていた。それに郷里で祖母に育てられるアキラのことを亜耶子がなんと思うか、急に気になっていたのだった。
  そんなとき、弟を探している柏田康平が訪ねてきたのだ。
  窓辺に佇み、彼は柏田を思い浮かべた。一体どこにいるのだろうか。
  突然、郷里に帰りたいと思った。しばらく顔をあわせていない弟進二郎に急に会いたいと思った。

 5

「すまん。オレもいずれこっちの大学へ移ろうかと考えている。それまでこちらでアキラを母上に預かってもらおうと思っているが、いいかな。圭子さんにもなにかと厄介をかけることになるが……」
  九鬼は久しぶりに会う弟に目を向け、しげしげに見た。
  開業医としての何年ものキャリアーがそうさせたのか、信二郎はゆったり落ち着いた態度で応接セットの大きな椅子にどかっと腰を下ろしている。弟の大きな顔は自信に満ち、身体もひとまわり大きくなって生き生きとしていた。
「なにを急に改まって……。うちにはまだ子がいないから、圭子もとてもよろこんでいるよ。アキラちゃんがいつ来るか、二人で毎日待っていたんだ」
  信二郎は親に背いて逃げ出した兄に代わって医者になり、父親の医院を継いで開業医となった。薬剤師の圭子と結婚し、同じ敷地に薬局を開き、夫婦で医院を切り盛りしていた。
「忙しいんだろ」
「ああ、なんとかやっているよ。ところで、母さんは『東京は人の住むところじゃない』と言っているけど、そんなに酷いところなの」
「慣れればそうでもないが、母さんの歳になるとどうかな」
「ここだって、前とは大分変わったろう。東京とそんなに変わりがないと思うけど、母さんにはマンション暮らしはムリかもね」
「うん、それに停電にもなれば水道までが止まる。大変なんでね」
「停電か、このまえは無事だったけど、今度はここも危ないと噂されている。なにしろ、海岸辺の原発でも制御棒脱落事故があったらしいし……」
  電力会社による原子力発電所のデータ改ざんや事故隠ぺいなどの不正が相次いで明らかになった。なかには点検中に原子炉が臨界状態となる事故さえあったという。
「…………」
  そのとき、突然、彼の脳裏にひとつの情景が浮かんだ。
  白い水蒸気を噴き上げ、爆発を繰り返す原子力発電所。事故で放射能洩れが起これば、停電どころの騒ぎではすまない。五、六〇キロの距離があるが、風向きではこの辺りまで放射能汚染が広がるだろう。
「最近漁民が騒ぎだしているとか……」
「え? なにか……」
「よく知らないけど、なんでも原発を止めろとか言っているらしい」
「あの海岸の……」
  彼の頭のなかに海岸に聳える巨大な原子力発電所群が浮かだ。漁民が騒いでいる原因はなんだろうか。事故による放射能洩れをおそれているのだろうか。放射能洩れなら漁民だけが騒いでいるのはおかしい。もしかしたら、温排水による海水温上昇がトラブルの原因ではないのか。漁業権消滅範囲を超えて昇温範囲が広がっているということではないのか。
  とすれば大停電の対策が未だに全然進んでいないということではないのか。暖水塊が来襲すれば、この夏も大停電がふたたび起こるのだろうか。
  お茶を持ってきた母良子が加わって、話題が近況や世間話になった。弟や母の話に相づちを打つものの、彼はなにも聞いていなかった。
  彼は母の話す声をぼんやりと聞き流しながら、一〇数年前、思いがけず、建設中の原子力発電所を目にしたときのことを思い浮かべた。
  家族で海水浴に出掛け、砂浜で貝拾いに夢中になっていたときのことだった。
  彼は打ち寄せる波を見ながら波打ち際を歩いて貝殻を探していると、突然視野のなかに異様な物体が飛び込んできた。遠く離れた対岸の岬の尖端からぬっと顔を出しているような姿で彼を見つめていた。無数の鉄パイプで組み立てられた足場に囲まれた建設中の原子力発電所だった。
  不意に原子力発電所の全容が浮かんだ。彼は目の前に現われた原子力発電所をしげしげと見た。なにかしら彼に訴えているように見える。暖水塊の急襲を受け、困っているのか、原子力発電所が喘ぐように揺れている。
  彼は椅子から立ち上がると、誘われるように家を出た。後ろで母の声がした。

 6

「九鬼くんじゃないか」
  振り向くと、柏田が立っていた。
「…………」
  九鬼は声も出ず、呆然として柏田の禿げ上がった大きな額と不釣り合いな黒々とした無精ヒゲの覆われた髭面をじっと見た。
「久しぶりだね。どうしてこんなところに……」
  柏田は微笑んだ。
  九鬼はわれに返ると、柏田と同じことを繰り返した。そのことに気付いて、二人は互いに顔を見合わせ、笑った。
  退社時のラッシュには間があったが、駅頭には人が群がり、人込みができている。先を急ぐ行き交う人びとが列をなして流れていく。
  二人は人込みのなかでしばらく立ち話をつづけたが、九鬼は近くにコーヒーショップを見付け、柏田を誘う。
  駅構内にあるガラス張りのコーヒーショップにはスタンド風の高く細長いテーブルがあり、高い椅子に腰掛けてコーヒーを啜っている客の姿が丸写しになっている。
「いまどこに」
「すぐそこの原発で……」
  柏田は九鬼がまえに訪れたことのある原子力発電所で仕事をしてるといるらしい。
「それで……長いの」
「そう。あそこは温排水の放出に水中放流方式を採用しているんだが、最近、温排水による昇温範囲が漁業権を消滅した範囲より広がり出すことが多くてね。漁民とのトラブルも頻発するようになって……」
  水中放流方式を奨めたのが柏田だった。自分が奨めた方式のアフターケアとしての対応のために、発電所へ短期出向していると言う。
「トラブルの原因はやはり海水温の上昇じゃないんですか」
「そうとしか考えられないんだが、漁民は納得しない。そこで温排水の放出口をもう少し下げて見ようということになって工事をやっているんだが……」
  発電所の温排水をさらに二,三メートル下に放流するのだという。水深を下げることによって温排水と海水との混合を高め、昇温範囲を漁業権消滅範囲に留めようということらしい。だが問題は新たな放出口となる二、三メートル下の海水温がどれだけ低下しているかだった。
「うまくいけばいいですね」
「まあ、ムダだろうな」
  柏田は九鬼の心配を他所に相変らずニヒルな薄笑いを浮かべ、素っ気無く他人事のように言う。
  来襲する暖水塊は巨大な高温水塊だ。放出口を二,三メートル程度下げたところで水温低下はしれたもので、期待するほどの効果はないのだ。
「ところで、柏田さん。大停電の本当の原因はなんだったのですか」
  温排水の昇温範囲を問題にするより、原因対策を優先すべきではないのか。九鬼はそう言いたかった。
「原因か。事故報告書を見ていないのか」
「本当の原因は……」
「海水温の異常上昇が直接の原因だ」
「事故原因報告書では、海水温の異常上昇があり、これに対する運転要員の対応ミスや原子炉の自動停止によって供給不足が生じ、大規模な停電が発生したというようですけど、なぜ停電があれほど広い範囲に拡大したのか……」
  一年前、日本で発生した大停電は、まず関西を襲い、近畿圏一円に広がり、しばらくして関東に飛び火し、首都圏一円におよんだ。

(続く)

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