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熱水列島・サンプル

 

プロローグ

 地球温暖化に関する科学的知見を収集・評価する目的で、一九八八年に世界気象機関(WHО)と国連環境計画(UNEP)が設立したIPCC(気候変動に関する政府間パネル)は第1作業部会第4次評価報告書(2007)で、この一〇〇年で世界の平均気温は〇・七四度上昇し、一〇〇年後には一・八〜四度上昇すると予測した。
  二酸化炭素などの温室効果ガスが大気中に増加すると、ガスの温室効果によって熱が閉じ込められ、気温が上昇する。これによって地球が温暖化し、気候変動が発生するのだ。
  地球温暖化は、従来、温室効果ガスの増加に応じて徐々に線型(リニア)で気温が上昇する(「緩慢な気候変動」タイプ)と考えられ、予測も一〇〇年後に気温が何度上昇するといったものだった。IPCCの予測もこれに準じたものである。
  だが、一九九〇年代に入って、グリーンランド氷床から採取したアイスコアの分析で、従来と異なる新しいタイプの気候変動が見つかった。これは一〇年単位の短い時間で気温が急変するもので、短期間に一〇度以上もジャンプして急激に上昇するという、これまでと異なるもの(「急激な気候変動」タイプ)だった。
  この気候激変型の「急激な気候変動」はグリーンランド地域に限られた現象ではなかった。日本海をはじめ、世界各地の堆積物の分析から、同様の気候激変現象が東アジアや北ヨーロッパなど、各地でも起きていた。
  この新たな「急激な気候変動」タイプは、短期間に急激に気温が上昇し、温暖化がピークを迎えると、今度はゆっくりと寒冷化しはじめ、末期になると次第にスピードを上げて寒冷化して終りを迎えるといったパターンをたどるらしい。その間、数一〇〇年から数一〇〇〇年の間隔だという。
  このタイプの気候変動は何回も繰り返し出現するらしく、この一〇万年の間に二〇回以上も起きていた。
  この発見以来、現在進んでいるとみられる地球温暖化が温室効果ガスの増加に応じてじわりじわりと進むリニアタイプ(線型)の「緩慢な気候変動」タイプなのか、それとも突然急激に激変するノンリニアタイプ(非線型)の「急激な気候変動」タイプなのか、議論が分かれていた。
  もし、現在進行中の地球温暖化が「急激な気候変動」タイプだとすれば、動植物のみならず、人間社会への影響も甚大で、地球環境および現代文明社会に対しても計り知れない被害をおよぼすおそれがあった。だが、いまだそのメカニズムが明らかでなく、「急激な気候変動」タイプと断定することはできなかった。

 

第一章

 1

「これりゃ一体なんだ?」
  突然、誰もいない研究室に九鬼陽一郎の突拍子もない素っ頓狂な声が響いた。彼は午前中からずっとディスプレーとにらめっこしていた。
  九鬼は海洋科学研究所の研究員になって二年目にもなるのに、彼にはいまだ新しい研究所にどことなく馴染めないところがあった。昼時になると、同僚の若い研究員たちが一団となって昼食に出掛けるが、彼にはこれが異様に思えて仕方がなかった。
  最初のころは誘いに乗って彼らと行動を共にすることもあった。だがどうしても彼らと好みやペースが合わず、彼の方から避けることが多くなると、同僚たちも次第に声を掛けなくなった。というより、同僚たちのほうが調子の合わない大きないかつい顔の彼を厄介払いしたというのが正しいかも知れない。それはそれで双方にとってハッピーな帰結であった。
  九鬼はいま地球上で進行している温暖化が急激な気候変動タイプにちがいないという思いが強かった。彼は暇を見つけては急激な気候変動の兆候を探していた。
  急激な気候変動の原因やメカニズムはまだ明らかでなかった。兆候さえ判然としなかった。それでも彼は兆候を探しつづけていた。
  急激な気候変動では突然気温が急上昇するのだ。植物や動物ばかりでなく、人の健康や社会に計り知れない影響をおよぼすにちがいない。彼はじっとしておられなかった。
  すでに急激な気候変動がすでにはじまっているのではないかという予感があった。大学の助手から海洋科学研究所に移って間もない彼には、まだ研究テーマを自分で選ぶことはできなかった。急激な気候変動がはじまるとすれば、北大西洋から北極海付近になんらかの兆候が現れるにちがいないと踏んでいたが、ここを対象とした研究調査を行なうことはいまの彼には考えられないことだった。このことが彼をことのほか苛立たせた。
  彼は北大西洋を日本近海に置き換え、密かに急激な気候変動の兆候やメカニズムを探っていた。
  同僚たちが昼食に出掛けた留守に、彼はひとり研究室に残り、ディスプレーと向かい合い、キーボードを叩く。
  彼は目を光らせ、いかつい大きな顔をもう一度ディスプレーに近づける。
  衛星から撮った画像が映し出されていた。高度七〇〇ないし八〇〇キロメートルの上空から地球探査衛星に搭載してある赤外マルチスペクトルスキャナーシステムやマイクロ波放射計などで観測した海面水温のデータを映像化してオンラインで送られてきたものだった。分解能も衛星を打ち上げるたびに高まり、最近では五〇センチメートル足らずの物体の識別が可能なものもある。
  だがマイクロ波放射計では使用する周波数が低いと解像力が落ちる。それに観測可能な海水温は海面の一ミリ以下のごく表面にすぎない。この衛星画像で表示されるごく表面の海水温は、もちろん、一般の観測で用いられている海面下一メートルの水温の値とは異なる。もっとも、海表面から数メートルまでの海水の垂直方向の温度分布は海域や気象条件などで変化するものの、特別の条件下でないかぎり、多くの場合、海表面と海面下一メートルの水温とはほぼ近い値を示す。
  衛星画像の画面では、高温域は周囲の海域と温度差が肉眼で識別できるように幾分濃淡を誇張して表現してあった。
  誰もいない研究室で、彼は嬉々としてディスプレーに見入った。
  何日もわたって、彼は南シナ海から日本近海までの海水温をチェックしていた。そしてとうとう見つけたと思った。
「おい、どうした?」
  不意に耳元から声がした。
  振り向くと、間近に一癖のあるグループリーダーの中西の太った丸い顔があった。熱中していたせいか、彼は近づいてきた中西に全然気付かなかった。大分前から彼の背後で身を屈め、ディスプレーを覗き込んでいたらしい。
「……これはなんですかね」
  九鬼は驚きを抑え、しらぱくれて周囲より幾分黒ずんで見えるディスプレーの一点を指さした。
「どこだ、そこは?」
「南シナ海」
「なにを探している?」
  九鬼は後頭部に中西の険しい視線を感じた。グループ会議でのやりとりをまだ根に思っているのか。

 数日前、研究グループの会議で、地球温暖化に関する将来計画について話しあっているとき、突然、九鬼が口を挿んだ。
「そろそろリニアタイプの研究からノンリニアタイプの『急激な気候変動』に中心を移していくべきじゃないんですか」
  会議は中西のペースで進んでいた。冒頭から中西はリーダーとして、来年以降も現在進めているリニアタイプの地球気候変動モデルの改良を継続することを前提として話を進めていた。
  中西のアクの強さを知っているグループの研究員は黙って頷くだけで、誰一人異論を挟もうとしなかった。異論があればグループから離れるほかないからだ。
  九鬼には一年間我慢したという思いが強かった。
  彼はこの研究所に移ったときからノンリニアタイプの気候変動モデルについて研究したかった。彼はもはや我慢することができなかった。
  一万年ほどまえから地球は温暖な間氷期に入っているが、その直前は新ドライアス期と呼ばれている寒冷な氷期で、これは一万一〇〇〇年前に終った。このような氷期と間氷期といった気候変動は一〇万年くらいの周期で起こっているが、これは地球軌道に関係して起こるらしい。
  これに対して、大気中に二酸化炭素などの温室効果ガスが増えることによっても地球が温暖化する。この種の地球温暖化には二酸化炭素などの温室効果ガスの増に応じ比例して気温が上昇していくタイプとそうでないタイプとがある。
  前者がいわばリニアタイプの「緩慢な気候変動」といい、従来、地球温暖化といえばこのタイプが考えられてきた。
  ところが、一九九〇年代に、グリーンランド氷床の氷(アイスコア)の分析から見つかった別のタイプの気候変動が見つかった。これが九鬼が目指しているノンリニアタイプの「急激な気候変動」だった。
「きみはいまの地球気候変動モデルにはもはや改良の余地がないとでも思っているいるのか」
  中西は新参者がなにを言うかといった目付きをして強く言う。
  九鬼は国立大学の助手から海洋科学研究所の研究員に転進してまだ二年目だったが、彼には新参者という意識がなかった。元来、おちょこちょいというか、前後を考えず見境なく行動するところがあった。代々医者をしている地方の旧家の長男として生まれた彼は小さいときから父の病院を継ぐように仕向けられていた。だが彼はなんとなく医者という職業が嫌いであった。最近は大量の医薬品が出回り、医者の仕事が病気で弱った人を助けるというより、ろくに効きもしない薬を大量に処方し、病人を食いものにしているように思えるのだ。
  それでも彼は父の方針に従い、医学部を受験し、一度は入学した。それも束の間、途中で地球環境問題に関心が移り、地球温暖化にこころを奪われ、勝手に理学部に移り、気象学を専攻してしまった。
  父は怒り、大衝突のすえに家を飛び出した。弟が後を継ぐようになって、ようやく父の怒りも幾分おさまったが、父は彼と和解することなく、三年前突然他界してしまった。
「とんでもない。まだまだ不十分なものであるのは分かっています。でもわれわれの力は限られている。限られて力でいかに効果的に研究を進めるか……」
「だから、いまの研究に集中しているのだ。ほかの研究をする余力がないのだ」
「現在、外部の研究機関とも共同で研究を進めていますが、そうするほどのことがあるのですか」
「必要だからそうしているだけだ」
「わたしは現在進めている地球気候変動モデルの研究を否定するものではありません。予測精度を高めることは必要なことです。でもわれわれが精度の追及をさらにつづけてやるべきかどうか、この辺で一度考えてみる必要があるのではないんですか」
「地球規模の気候変動を予測するにはいまのモデルでもまだまだちゃちなものだ。これからも改良しつづけなければならないのだ」
「たとえちゃちなモデルでも、大気中の二酸化炭素濃度が増えればそれに応じて地球が温暖化することを十分解明できました。これで十分じゃないんですか、当研究所としては。一〇〇年後の二一〇〇年末の平均気温が二度上昇するか、四度になるか、それともそれ以上になるか分かりませんが……。研究戦略的に考えて、一〇〇年先の精緻な予測のための研究はこの辺で十分余力のある他の研究機関に任せてもいいのではありませんか。われわれが問題とすべきは……」
「うちの研究所はなぁ……」
  中西はいきり立って早口でまくし立てた。こともあろうに自分よりも一〇歳も若いうえに、中途採用で入ってきてまだ一年しか経っていない新参者に当研究所の役割や研究戦略について講釈されたとあっては我慢ならないらしい。
「……とにかく、われわれ気候変動研究グループの役割は日本を含む東アジア地区の詳細な予測が可能な気候変動モデルを開発して、スポンサーが必要とする予測情報を提供することなのだ」
「でもどんな質の情報が必要なのか、必要性の高い情報とはどんな情報かが問題なのじゃありませんか」
  九鬼は殊更丁寧に言う。
「もちろん、そうだ。だからわれわれは予測の精度をあげて必要性の高い情報を提供しようとしているのだ」
「もう何年もまえから世界各地で温暖化によるとみられる異常気象が頻発していますよね。大雨、洪水、日照り、熱波、それに熱帯低気圧も強暴化し、超大型のハリケーンや暴風雨が世界各地を襲っているじゃないですか。日本を襲う台風の巨大化もそうです。海水温も異常に上昇しているじゃないですか。でも異常気象についての予測はまだ不十分です。いつどこでどんな異常気象が起こりそうだといったことがある程度精度よく予測できれば、世界中の誰もが飛びついてくるでしょう」
「あのなぁ、われわれは『気候』といった年単位の変動をテーマにしているのだ。一週間ほどの短期的な現象である『気象』を対象にしていない。うちの研究所には毎日のお天気を予報するような仕事は向いていないのだ」
  気候とは長期にわたる気象の平均状態で、一般に、三〇年間の平均値を気候値としている。これに対して、気象とは大気の状態や大気中の諸現象を指す。異常気象とは過去三〇年以上にわたって観測されなかった気温や降水量などがあった場合である。突発的な集中豪雨などを指していうこともある。あまりに異常気象がつづくので、最近では気候異変という表現もみられる。
「喩えて言ったまでです。すでにリニア(線形的)な気候変動の予測についてある程度の情報がある場合、長期にわたる計画や対策を考える立場の人々がリニアな気候変動についてさらに精度の高い予測情報を求めるか、それとも突然突発的に発生する急激なノンリニア(非線形的)な気候変動の予測情報のほうを求めるか、どちらでしょうか。両方ともできればなにも言うことはないのですが、それができなければ、未解明の状況にある後者に今後は研究の重心を移すべきだとわたしは考えているということです」
  九鬼は議論を終わりにしたかった。自惚れ屋で自信の塊のようなアクの強い中西が折れるはずはなかった。議論を続ければますますエスカレートするだけだった。
  産業革命以来、大気中の二酸化炭素濃度がすでに三六パーセントも増えてしまった。メタンなど、その他の温室効果のあるガスも軒並み増加し、地球温暖化が一段と進みつつあった。グリーンランド氷床の分析から「急激な気候変動」が明日にも起こりうることが明らかになっているのに、地球温暖化がどのようなスピードでどのようなパターンで進むのか、いまだに全く分からないのだ。
  中西がさらに改良を試みようとする予測モデルでは一〇〇年先とか二〇〇年先とかといった長期的な平均的気候変動を予測できても、一〇年とか二〇年とかの短い期間で急激に変動する気候を予測することはできなかった。
  九鬼は上目遣いで中西を窺った。中西の厳しい表情のなかに彼を見る憎々しげに光る目があった。彼は口の中で「バカを相手にしてもしょうがない」と呟くと、自分の口にかんぬきを下ろした。

「なにを探している?」
  中西は目をディスプレーに釘付けにしたまま、同じ質問を繰り返した。
  九鬼は返事をせずに、マウスを動かし、ディスプレーの画像を隠すように移動する。
  しばらく中西は前屈みになって執拗にディスプレーを覗いていたが、やがて諦めたのか背筋を伸ばし、ディスプレーから目を離した。
「昼飯はまだか。飯を食いに行くか」
  中西は一方的に言い、返事も聞かず、黙って去っていく。ドアのところで振り返ると、「打ち合わせたいことがある。二時にきてくれ」と言った。
  九鬼はディスプレーに前の画像を再び映し出した。
  画面の中央に周囲よりも一段と濃く色付けされているスポットがある。注意しないと見過ごすほどの大きさのスポットだった。
  九鬼はしばらく画面を見つめていた。彼は一面広がる海洋の表層に周囲よりも水温が著しく高い暖水塊が消滅することなく北上しつづける様子を想像した。
  その瞬間、彼の全身に戦慄が走った。

 2

「このところ、海水温がいやに高い。なぜですかね」
  突然、電話してきた北原と名乗る男は妙に馴れ馴れしくいう。K電力の環境立地部の担当課長だといい、前に会ったことがあるらしいが、中西にはどうしてもその男の顔を思い出すことができなかった。あれこれ記憶をたどりながら、これまで会ったことがあるそれらしい男たちの顔を思い浮かべながら、彼は適当に受け応えをする。
「発電所付近の漁民が心配しているんですよ。海水温がこうも高くなると魚が逃げていくし、生け簀の養殖カレイもダメになるといってね。何度も痛い目に遇っているんで必死なんですよ。先生、原因は一体なんですかね。いつまで続きますかね。地球温暖化のせいですかね。こんな状態が続くといつ電力にとばっちりが飛んでこないともかぎりませんよ。なにしろ大量の温排水を発電所から放出していますからね」
「温暖化のせいだとはっきり言いきるまでにはまだ解明されていないことが多々あるのですが、多くの科学者は……」
  平年の平均気温を超える異常な日が毎年現れ、年々平均気温が書き換えられていく。温暖化の傾向が明らかなのに、中西は用心深く曖昧に答える。
  その年も七月に入るまえからめらめらと不吉に燃える太陽が一日中ギラギラと輝き、四〇度を超す日が連日つづいた。灼熱の太陽で焼かれた研究所のコンクリートやタイルは太陽が沈んでも冷えることなく、クーラーがフル回転していた。屋内の熱気が屋外に吐き出され、外気が五〇度を超えることも珍しくなかった。
  都市はエネルギーを大量に消費し、大量の排熱を放出する。都市は燃え上がり、夜になっても冷えることのない巨大なヒートアイランドと化した。
  水の消費量が急増した。雨が降らず、貯水池が干上がり、給水制限が日常的に実施された。熱中症や日射病で倒れ、病院へ担ぎ込まれるものが続出した。
「連中の言うことは確かなものですかね。漁民たちは理屈を言って聞かせても納得しないんですよ。それに困ったことが起こりましてね。実は……」
  北原という男は声をひそめた。
  発電所立地のとき予測した温排水よる昇温域が予測範囲を超えて広がる現象が最近頻繁に生じているというのだ。
  原子力発電所であれ火力発電所であれ、高温高圧蒸気でタービンを回転させて発電する汽力発電所では大量の冷却水を必要とする。周りを海に囲まれた日本では冷却水に海水を用いるので、汽力発電所は海水が取水しやすい臨海部に立地してきた。そのため、日本列島の海岸には太平洋側のみならず、日本海側にも大規模の発電所が立ち並び、これらの発電所から大量の温排水が海へ放出されていた。
  大量の温排水を放出すると、付近の海水温を上昇させ、棲息する魚介類や海域の生態系にダメージを与える。当然、漁業で生計を立てている漁民へも影響する。
  そこで発電所を立地し大量の温排水を放出するときには、その海域を漁獲場としている漁民たちと事前に話し合い、彼らが有している魚介類を獲る権利である漁業権を譲り受けるか、温排水を放出する権利を取得することになる。発電所側は通例、温排水によって海水温が一度上昇する範囲にわたる海域の漁業権を対象に、それを所有する漁民たちの団体である漁協(漁業協同組合)を交渉相手として漁業権消滅等の交渉を行う。漁業権を譲り渡すと、漁民たちはその範囲で漁獲する権利を喪失し、漁業できないことになる。
  問題となっているのは、漁業権を消滅した範囲や許可を受けた範囲を超えて温排水による一度上昇範囲が広がっていることだった。北原は最近の海水温上昇傾向がこれを加速しているのではないかという。
「海水温上昇が一度上昇範囲を広げていると言うのですか。それは調べて見ないと分からないですね……」
  中西は気象庁が発表した暖水塊の観測データを思い出し、不吉な予感がした。
  二〇〇一年七月、海面に盛り上がる渦をともなった暖水塊が太平洋を西に進み、沖縄本島に接近したことがあった。本島周辺で二〇センチを超す異常潮位をもたらしたという。
  異常潮位とは台風の際の高潮や地震による津波とは異なり、原因の分からない潮位の変化現象をさすが、その渦は周囲よりも水温が高く、直径約四〇〇キロほどの範囲にわたってレンズ状に海面が盛り上がり、時計回りの渦流をともなっていた。二月から七月にかけて、渦は潮岬の南方約一一〇〇キロの地点から一ヵ月約一五〇キロの速度で西に移動し、沖縄本島の南東に到達したらしいが、渦内部には表面から水深八〇〇メートル付近まで水温が一度から三度高い海水が広がっていた。ことに水深三〇〇メートルから六〇〇メートル付近には深さ三〇〇メートル直径数十キロにわたる約三度高い巨大な暖水塊が存在していたのだ。
「この際、海洋科学研究所で海水温上昇のからくりを徹底的に解明してもらいたいと思っているんですよ。依頼研究を出しますからよろしく願います」
  海洋科学研究所は半官半民的性格の研究機関で、国からの研究費と電力会社を中心とする関係民間企業からの出資で運営されていた。本部機構は都心に置いているが、主力研究施設は都心から離れた郊外にあった。太平洋側と日本海側のそれぞれに臨海実験設備を有している。
  地球温暖化研究グループの中西らは大型実験施設やスーパーコンピュータなどのある主力研究所に所属していた。
「そうですか……、とにかく一度打ち合わせをさせていただいてから……」
  中西は打ち合わせの約束をして、かろうじて北原の執拗な電話を切ることができた。受話器を置いてからも、目の前に巨大な暖水塊がちらつき、しばらくなにも手が付かず、彼はただぼんやりと机に座り続けていた。
  不意に、九鬼陽一郎の好奇心に光る丸い目といかつい大きな顔が浮かんだ。
  中西はとりあえず部長に依頼研究の件を報告しておこうと思い、立ち上がった。
  廊下に出ると、開放されているドアの隙間から窓を背にしたスチール机の席で椅子に背を凭せ、手にした書類に目を通している桜木の姿が見えた。
  中西は足早に近づく。
「部長、一寸、よろしいですか。実は、K電力から依頼を出したいと言ってきたのですが、北原という男をご存知ですか。環境立地部の担当課長らしいですが……」
「え? 北原だって? 一体なにを言ってきたんだ」
  桜木は一瞬顔を曇らせ、手に持った書類を机に放り投げるように置いた。
  中西は部長の机のまえに近くの椅子を引き寄せると、電話でのやり取りの一部始終を告げた。
「なにをいまさら……、そんなことは……」
  桜木は唖然とした面持ちで、まじまじと中西の顔を見た。
「環境アセスメントのことですか」
  発電所を建設する場合、事前に環境への影響を予測し評価して必要な対策を講じることが定められている。これが環境アセスメントである。その一項目に発電所から放出される温排水の海域環境や海生生物への影響を予測し評価することが求められているが、これを実施するためには発電所から放出される温排水が前面海域でどのように広がっていくか、温排水の拡散範囲を前もって予測する必要があった。
「問題は……、漁業権消滅範囲だ」
  日本列島周辺の沿岸海域で漁業権のないところは殆どないし、漁業権のある海域には温排水を無断で海へ放出できない。発電所から温排水を放出するには漁業権を消滅させるか、漁業権者の了解を取るかほかないのだ。
  発電所立地に際して漁業権を消滅させる場合、温排水によって海水温が一度以上上昇する範囲を影響のおよぶ海域として、この範囲海域の漁業権者である漁民(漁業協同組合)に対して補償を支払い、漁業権を消滅させるのが通例であった。
  漁業権を消滅させる範囲は漁業権者にとっても発電所側にとっても補償額の大小にかかわる重要な要素であるほか、それ以上に、漁業を生業としている漁民にとって漁業権を消滅させることは死活問題でもあるのだ。
  漁業権を消滅させる範囲の確定は温排水の拡散予測に基づくが、実際問題として消滅範囲を決めることは簡単なことではない。漁業権者である漁民(漁協)側では安全を見込んでゆとりある範囲を望むが、これに対して、発電所側では漁業権消滅範囲が狭ければ狭いほど補償額も少なくて済むからだ。
  桜木の話では、温排水の拡散予測を依頼してきたときには、北原は予測の際のゆとりを認めず、できるだけ範囲を狭くすることを望んだという。
「そんなことができるのですか」
  予測を担当する側では、自然現象が相手だけに不慮の事態に備えてある程度安全サイドに立ってゆとりを取っておきたいのに、どこで誰が手を入れるのか最終段階では無視されてしまうことが多かった。これでは風や気温といった条件の変化によっては温排水による一度上昇範囲が漁業権の消滅範囲を超えて広がることが出てくる可能性が残るのだ。
  予測は予測モデルの精度とデータの正確さに依存する。
  特定海域における温排水の拡散範囲予測は海域の地形や海象条件のデータをもとに当該海域における拡散係数を導き出し、これに温排水の放出速度、放出水量や水温などの条件を予測モデルに与えてはじき出す。これにはコンピュータによる数値シミュレーションによる方法と縮尺模型による水理実験の方法を用いる。それぞれの方法で単独に予測することもできるが、予測精度を上げる目的で、細かいところの再現が難しい数値シミュレーションを補うために模型による水理実験を併用することが多い。
  いくら再現性の高い精度のいいモデルでも使用するデータが不正確でいい加減なものであれば予測結果もデタラメで、いい加減なものになる。ことに海域の拡散係数の決め方ひとつで温排水の拡散範囲が大きくもなれば小さくも出来る。観測のデータが変われば予測結果も変わる。
「消滅対象範囲から外れて補償金を手にできなかった漁民や漁協のやっかみもないことはないだろうが、なにしろ漁民にとって海は生業の場だから彼らが真剣になるのは当然だよ。それなのになんとか理屈を捏ねて拡散範囲を無理やり狭く抑えようとしてきたんだ、彼は。漁民たちに放水口が塞がれるような事態が生じなければいいんだが……」
「では、依頼はどうしますか。できたら断りたいところですがね……」
  海洋科学研究所で実施する研究は研究所自ら自主的に研究計画を立案して実施する自主研究のほかに、電力会社などスポンサーからの依頼を受けて実施する依頼研究、国等からの受託研究、外部に委託する委託研究、外部研究機関等との共同研究など、多岐に分かれている。
  研究員にとって問題となることは、研究種別の違いによって成果の取り扱いに違いがあることであった。自主研究の成果は内部の手続きを経ておおむね学会などにおいて発表できるが、依頼研究や受託研究は依頼元や受託元への報告のみで、許可がなければ対外発表はできない。研究者にとって研究結果の発表は単に業績に対する評価をうる機会を意味するばかりでなく、外部からの批判やコメントを通して研究をさらに展開する機会でもあるのだ。
  だが依頼研究には成果の対外発表を研究の実施前から保留するものが多かった。むしろ依頼報告書として纏められた研究成果は公表しないのが当然かのように扱われがちであった。特定地点にからむ事象の解明や事故原因の調査などははじめからマル秘扱いだった。不利な結果を隠したがるのは世の常としても、依頼担当者は研究や調査を実施していることさえ知られたくない傾向が強かった。問題があるから研究や調査を実施しているのではないかと住民や反対派に思われるというのだ。
「とんでもない。断ったら、あの奴、なにを言い出すか分からん」
  桜木は神経質に何度も瞬きを繰り返した。
「そうですか。一度、依頼の内容をよく聞いてみます」
「そうだな。依頼の範囲をできるかぎり限定するといい」
  中西は頷きながら、椅子から腰を上げた。

 3

「依頼したいことは、海水温の昇温メカニズムについてなんですが……」
  カニの甲羅のような四角顔をした北原というK電力の課長はこう言い掛けて、促すようにもう一人の連れの若い男に目を向けた。北原と対照的に色白で夕顔のような細面の男は手元に用意していた資料のコピーを中西と九鬼の前に素早く差し出した。
  九鬼はテーブルに置かれた資料を引き寄せながら、向いのカニの甲羅と夕顔の二人を一瞥し、それから中西の横顔に目を走らせた。彼には中西がなぜ電力との打ち合わせに同席させたのか理解できずにいた。
  九鬼は中西に呼ばれてリーダー室に入っていくと、机の席は空っぽで、グループの打ち合わせや作業するときに使う長テーブルの椅子にスーツ姿の二人の男が所在なげに座っていた。北原ともう一人の若い男だった。
  一端、九鬼は二人と挨拶を交わすことなく室の外に出たが、戻ってみるとすでに中西は彼らの前の席にいて、隣に座れと目で合図した。
  彼は目の前の二人に目を向ける。はじめに口を切った北原と言う男は頭が切れそうだが、いかにも小狡そうな目付きをしている。若い男のほうはメガネの奥で目をすばしっこく動かしているが、融通は利かないようだ。だが言いつけを徹底して守るように見える。
「『海水温昇温メカニズムの解明』とありますが、どこの海域ですか。時期や範囲はどう考えておられるのですか」
  手に取った資料のコピーから目を上げると、中西は北原に不審そうな目を向け、コピーをテーブルに置いた。大体依頼題目からしておおまか過ぎるが、調査研究項目も抽象的で、対象海域、対象範囲、対象時期も特定されていないのだ。
「紙に書いたものは洩れると厄介ですからな。かといってこんなものをマル秘扱いするのもなんですからな」
  北原は先回りするように言う。
「……なにしろ、去年の夏は大分痛めつけられましてな。漁民たちが本社まで押し寄せてきて抗議しよった。社長や部長にはお小言を喰らうし、発電所の連中からは泣き付かれるやら、全く参りましたよ。そこでまえもって理論武装をしておこうというわけですな。いまから準備をしていることが敵に洩れたら一大事だし、発電所の連中も神経質になっているので隠密に行動することにしたというわけです」
  前置きを言って、北原は昨年の出来事を話しだした。概略つぎのようだった。
  昨年の夏、Т原子力発電所の近くの海域の生け簀で養殖中のヒラメが突然もがきだし、大量に浮きだした。三日も経たないうちに数万匹が全滅してしまった。調べてみると、有害なプランクトンも見つかったが、海水温も異常に高かったことが判明した。
  漁民たちははじめのうち、例年と違って異常に暑い日が何日も続いたために海水温までが異常に高くなったと思っていた。原子力発電所関係者はこのときとばかりは地球温暖化のせいにちがいないと言った。原子力発電所は地球温暖化の原因となる二酸化炭素を出さないから地球温暖化の防止に役立つのだと触れ回っていたからだ。
「……これで収まればなにも言うことはなかったんだが……、ところが漁民にせっつかれて行われた県の調査で、運悪く近くの原子力発電所から放出された温排水が漁業権消滅範囲を超えて拡がっているのが見つかった。いつもならありえないことなので、発表を控えてもらおうと県に働き掛けたが、データが洩れて大騒ぎになってしまった。一体あれはどこから漏れたのかな」
  北原はしばらく口を噤んでいたが、気を取り直して続ける。
「……外部に出せば情報が漏れる心配があるので内部でいろいろ検討してみたが、この際、海洋科学研究所に依頼してなぜ温排水が予測した拡散範囲を超えて拡がったのかを十分解明してもらうことになった。今年もこのようなことが起こるようなことになればその準備にもなるし……」
「それじゃ、Т原子力発電所海域ということですね」
  中西は北原がかすかに頷くのを見て、続ける。
「昨年の夏の異常な拡散ケースを対象とするのですね。そのときの拡散メカニズムと昇温メカニズムの解明ということで……」
  中西が九鬼を振り返った。彼は猜疑に満ちた目の北原ともう一人の井東という若い男をぼんやり眺めていた。
「とにかく情報が敵に漏れることがないようにお願いしたいのだ……、依頼研究では成果の報告が当方に限られるのでしたね。もちろんマル秘扱いでね」
「依頼元の希望であればそのように扱うことになっているのですが、研究成果はできれば公表されるのが望ましい」
「すべてマル秘扱いでということにしていただきますよ」
  北原は高圧的に言う。
「いいでしょう。では依頼の範囲は限定して明確にしておきましょう。はっきりしてないとあとで問題になるといけませんから」
「Т原子力発電所関連はすべてマル秘にしてほしい」
「いつまでマル秘扱いになるのですかね、永久ということではないでしょう」
「それは何時になるか分かりません。当方の判断で決めさせて頂きましょうかね」
「そうですか、でも二、三年もすればオープンにできるのじゃありませんか」
「その時にならないと……」
  北原はもういいだろうというような顔をした。
「ところで、お伺いしますが、Т原子力発電所関連というと……」
  九鬼が口を挟んだ。
「決まっているじゃないか。Т原子力発電所に関係している事柄は全部だよ」
「去年の分だけについてですね」
「いや、今年の予測も含める。なにしろ漁民たちは虎視眈々として様子を窺っているからな」
  北原は若い九鬼が相手だとぞんざいな口をきく。
「予測……、海水温の予測ですか」
  北原はもちろんだという顔をして、九鬼を一瞥する。彼には北原のこれまでの話をどこか遠いところの話かのように聞いていた。いや、彼の脳裏にはディスプレーに映った黒みがかった一点が鮮明に映し出されていたのだ。
「あのう、昨年の夏、その発電所の周辺海域に突然高温の海水が押し寄せてきたのでしょうか」
  北原は口を閉ざしたまま、九鬼にしばらくじっと目を据えていた。
「先程、拡散範囲に関してありえないことが起こったとおっしゃっておられましたが、それは突然高温域が出現したということですか」
  北原は黙って頷いた。
「となると、Т発電所周辺だけの海水温を予測することは意味がありません。もっと広い範囲にわたって海水温の変動を観測する必要があります。それに大体予測結果を伏せておくくらいなら最初から予測する必要はないんじゃないですか」
「事前に対応策を考えるのに役立つ」
  余計なことは言うなと言わんばかりに、高圧的に言い放つ。
「高海水温の予測結果が出たとすれば、一体どんな対応策を考えるのですか。海水温を冷やすために冷たい水を注ぐとでもいうのですか。それとも発電所を停めて温排水の放出を止めるのですか」
「そんなんことできるか。漁民たちや反対派の連中の対策に役立てるのだ」
「高海水温の予測結果を漁業者にも周知させて、生け簀から魚を他に移すとか、あるいは追いだすとか、漁業者に対策を取ってもらうほうがいいのではないんですか」
「そんなに物分りのいい連中じゃない。奴らは原子力発電所を停めろと押し掛けてくる。真夏の電力需要のピーク時に発電所を停め、一〇〇万、二〇〇万キロワットが落ちたらどうなると思うのか。需要に応じきれず、つぎつぎに発電所が停止し、大停電を引き起すことになるだろう。真夏に冷房が止まれば、どうなる。都会では熱中症患者が続出し、死者さえでるかもしれない」
  北原は九鬼を睨み、早口で言う。
「かといって、予測結果を伏せておけば、漁業者が発電所に押し寄せてくるのを防ぐことができるというのですか。一時の時間稼ぎができるかもしれないけれど、結局漁業者は同様の行動を取るのじゃないんですか。予測を伏せても結果がよくなるということは考えられないんじゃないんですか。大事になる前に関係者全員で対策を考えるほうがいいと思います」
  九鬼も負けずに北原の目を見返して言いながら、高温海水域の出現ということは急激な気候変動に関わることかもしれない、それを依頼研究でマル秘扱いにするとはどういう神経だ、断固阻止しなければならないと思った。
「いいかわるいか、それはこちらで判断する。とにかく、この依頼はマル秘扱いだ。中西先生、そう願いますよ。いいですね」
「分かりました。内部の手続きを経て担当者を決めてから、詳細についての打ち合わせに伺わせていただきます」
  北原の剣幕に恐れをなしたのか、上目で北原と若い男を代わる代わる見ながら、中西は俯き加減でぼそぼそと言った。
  そんな中西を横目で見ながら、九鬼はマル秘扱いの依頼研究に対抗して、なんとかノンリニアタイプの急激な気候変動モデルの開発を自主研究として立ち上げることができないものかとしきりに考えていた。

 4

「きょう、病院に行ってきたの」
「うん……」
「ねえ、聞いているの」
  陽一郎がテーブルに広げた夕刊から顔を上げると、亜耶子の突き出た感じのする大きな目が飛び込んできた。妻の目には不安の色に混じってどこか含羞みの色があった。
「うん、どうかしたのか」
  陽一郎にはまだ幾分上の空のところがあった。
「……三ヵ月目だそうよ」
「なにが……」
「…………」
  いつも明るく輝いている亜耶子の大きな目がなぜか不安げに忙しく動いている。
「あ、そうか、できたのか」
「そうよ、わたしたちの赤ちゃんが……」
  陽一郎は思わず妻の手を握りしめた。亜耶子の目がみるみる潤み、大粒の涙が溢れ落ちた。妻のほんのりと温かい手の感触を通して、彼は新しい生命の息吹が手を伝って胸の奥深くどこまでも果てしなく広がっていくように感じた。時間と空間が融合したような不思議な気分だった。
「それでいつ……」
「予定日は八月五日だそうよ」
「八月?」
  陽一郎は鸚鵡返しに言いながら、思わず手を引いた。
「どうかしたの」
「暑いときだな」
「ええ……」
  亜耶子は大きな目を一層大きくして、陽一郎をじっと見つめている。
  この数年、梅雨が短く、つづいて長い酷暑の夏が来るといったパターンが定着していた。八月の初めというと暑さの真っ盛りだ。そのとき、暖水塊も日本列島を襲うかもしれない。
「大丈夫かな」
  一瞬、亜耶子の顔が曇った。去年の夏、テニスの最中に突然意識を失い、熱中症で病院に担ぎ込まれたことが蘇ってきたらしい。
「気をつけるから、大丈夫よ」
  直ぐ気を取り直して明るく言う。
「田舎の実家で産むか。あっちのほうがここより幾分涼しいだろう」
「いやよ、お母さまにご面倒をお掛けするのは……」
  亜耶子の母は五歳のとき病死した。父が男手一つで兄と妹の二人の子どもを育てていたが、しばらくして三歳下の母の妹を後添えに迎えた。亜耶子は継母となった叔母とはしっくりいっていなかった。そのことを知っている陽一郎は先回りして自分の親のもとでの出産をすすめてみたものの、小さいときから自立を強いられた彼女には受け入れられることではなかった。
「……ここでいいわよ。二階の佐野さんの奥さまが紹介してくださった女の先生、とても感じがいい方なの。病院はそう遠くないし、あの先生のところで産みたいわ。それに陽ちゃんがそばにいるほうが心強いし……」
  三階建ての職員用住宅は研究所の隣の市にあった。街の中心から西に寄った住宅街の一番奥にぽつんと建っている。六軒あった一戸建ての職員用住宅を取り壊して一棟の集合住宅に立て替えたせいか、敷地は広く、ゆとりがあった。
  中央の階段を挟んで、東側に4LDK、西側に三LDKの間取りの三階建て六世帯用集合住宅で、九鬼たちは一階の西側三LDKに住んでいる。集合住宅とはいえ、比較的独立的な構造のところが亜耶子には気に入っていた。それにベランダのある南側には芝生が張られた広い庭があって、子供たちの遊び場になっている。
「一人で大丈夫かなぁ」
  陽一郎は自信がなかった。まだ目立った変化はないが、臨月近くなった妻をどう扱えばいいのか、はじめての子にどう接すればいいのか皆目見当がつかなかったし、研究に追われてそのために時間を裂くことができるかさえも分からなかった。それに彼にはまだ形になっていない漠然とした不安があった。日本近海に向かって北上する暖水塊が、彼のこころのなかで、なにかしら得体のしれない恐怖を醸し出していた。

・・・・・・

(続く)

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