プロローグ
二〇××年
現代文明(現代科学技術文明)には「地球人抹殺実行計画」(現代文明の吐き出す「毒唾」による人類絶滅プロジェクト)が仕組まれていた。仕掛人デカルトが現代文明の暴走を直ちに止めるよう、警告を発した(『デカルトはテロリスト』)。
「デカルトの警告」を受け、現代文明から新しい文明への文明転換の試みが一部ではじまったものの、殆ど省みられることはなかった。人びとは現代文明の暴走を放置したまま、ひたすら現代文明に溺れ、「毒」の盛られた「皿」まで食った。
現代文明はひたすら暴走をつづけ、「毒唾」を撒き散らし、地球環境を悪化させていった。
現代文明に溺れた者たちは現代文明の暴走によって生じた地球温暖化などの地球環境悪化を予見することはなかった。たとえ予見していたとしても本気で食い止めようとしなかった。
地球温暖化がはじまり加速しだしても、知らないふりをした。目先のことに囚われ、気付こうとしなかったのだ。責任ある人びとの多くも急激に進行する地球温暖化を見て見ぬふりをした。
地球温暖化は完全に暴走状態となった。
さまざまな対策が考えられ、実行に移されるようになっても、文明転換のような根本的な対策を避け、小手先の対策だけだった。現代文明のもとでの地球環境との共生を謳い文句にした小賢しい小手先の対策がかえって事態を悪くした。
もはやいかなる対策も手遅れだった。人類は次第に深みに嵌まっていった。
グリーンランドにおいて、地球温暖化の暴走を食い止めるべく、「寒冷化プロジェクト」が秘密裏に決行された。北大西洋へ大量の淡水を放出して地球規模の海洋大循環(熱塩大循環)を操作しようとしたのだ。
だが氷床の大崩落によって数メートルの海面の上昇をもたらしたものの、完全に失敗に終った。
数メートルの海面上昇によって、沿岸低地は水浸しになり、世界中のデルタ地帯に被害が広がった。
ナイル川、ガンジス川、揚子江、黄河、メコン川、イラワディ川、インダス川、ニジェール川、パラナ川、マグダレナ川、オリノコ川、アマゾン川、ミシシッピ川、ポー川などのデルタ地帯の一部が水没し、一夜にして海岸線が数キロも後退した。
それだけではなかった。そのとき崩れ落ちた大小の氷塊は未知の「殺人ウイルス」に汚染されていたのだ。
海流に流された汚染氷塊が世界の多くの都市を襲った。
現代文明都市東京も広い範囲が冠水し、被害が広がった(『襲い来る殺人氷塊』)。
水浸しから復旧すると、現代文明都市では二酸化炭素の大量放出がふたたびはじまった。大気中濃度はすでに四〇〇ppmを大幅に超え、地球温暖化はさらに暴走しつづけた。
海面上昇による海面の拡がりと海水温の上昇によって、海水の蒸発が一段と盛んになり、大量の水蒸気が上昇気流に乗って上空へ舞い上がる。
赤道付近で形成された巨大な温水塊が海流に乗って北上し、高緯度海域をそのまま通り抜け、北極海へ向う。
北極海の表面海水温が上昇し、グリーンランドの気温が急激に高まった。グリーンランド氷床の溶融速度が速まっていく。氷床の溶解と崩落が絶えることなくつづき、海面が上昇しつづける。
上昇気流に乗って上昇した大量の水蒸気が天空に包蔵され、「ノアの大洪水」の再来が懸念された。対策として天空に包蔵された大量の水蒸気を人工降雨によって取り除く試みがなされた。だが環境兵器開発を目論む軍の横やりで、失敗する。
この失敗と、グリーンランドや南極氷床の急速な溶解とが重なって、地球のバランスが崩れ、ポール・シフトが発生し、地球の自転軸(地軸)が回転し出す。
南極大陸から大量の氷床が海洋へ滑落した。
落下の衝撃で大波が発生し、津波のように世界各地を襲う。世界中の多くの沿岸都市は大波に押し潰され、一瞬にして壊滅した。
大波につづき、海面が一〇メートル以上急上昇する。デルタ地帯に残っていた肥沃な農耕地は完全に海中に没し、沿岸域の何十億の人びとが土地を失い、家や財産が奪われた。
地球は完全に逆転し、かっての北半球を南半球にしたまま、公転をつづける(『地球逆転』)。
南極では氷床の溶融がつづき、依然として海面は上昇しつづく。沿岸都市は海中に取り残されたままだった。
急激な海の拡大と海面の上昇、それに地軸逆転とによって海流の方向や流量が変化したのか、地球上の熱バランスは完全に崩れ、地球の気候は極端から極端へと変動の振幅を広め、さらに大きく狂ってしまった。
強風が吹きすさび、砂塵を巻き上げるかと思えば、強烈な暴風雨が相次いで襲い、豪雨が表土を洗い流す。暴風雨が去れば、露になった岩肌だらけの地表を熱波が焼き尽くした。
温和な気候は地上から消え、地球は一層荒々しいものに変った。かっての北極を南極にかえたまま、地球は自転をつづけていたが、気流や海流ばがりではなく、地殻やマグマにも目に見えない変化が生じつつあった。
海面上昇は海岸線の長い日本に飛び抜けて大きな被害をおよぼした。都市や工場が密集している太平洋ベルト地帯は大波の激しい影響をまともに受けた。日本海側も被害を免れなかった。
沿岸都市や沿岸地域の多くは水没したままだった。復旧の見込みはなかった。
一命を取り止めた水没都市の避難民はどこへも行く当てもなく、急造のテント村の避難キャンプに収容され、避難生活がつづいていた。
だがテントでの生活をいつまでもつづけるわけにはいかなかった。
水没を免れた都市は、時を経るに従い、次第に落ち着きを取り戻しつつあったものの、つぎからつぎと押し寄せる避難民の対応に追われた。
そんななかで、現代文明からの文明転換を旗印に始まった「新しい文明村」運動がほそぼそとつづけられていた。
1
「喜久枝、立候補すべきよ」
北海道知事の任期満了が近づき、保守系の候補として佐東という男が取りだたされていた。M省の課長経験者だという。道州制となって国から種々の権限が移譲されたが、これを取り戻そうとするかのように、道州知事選挙への中央官庁の元官僚たちの立候補が多かった。
「こんなときになによ。そういうあなたこそ出ればいいじゃないの」
喜久枝は目を大きくして、清子を睨む。
二人は司法研修のときの同期生だった。気心の知れた仲で、二人とも最初から弁護士として、中海清子は東京、本田喜久枝は札幌をそてぞれの本拠地として活動をしてきた。住民側に立ち、環境訴訟で何回も共同して弁護を担当したこともある。
グリーンランド氷床大崩壊にともない、東京が水浸しになったのを機に、清子は喜久枝のところに転がり込んだ。東京が復旧すれば戻るつもりでいたが、それ以来、一〇年余、彼女は喜久枝の弁護士事務所に籍をおいたままだった。
清子には北海道で実現したい夢があった。
夢を追い求めて北海道を駆け巡っているとき、突然、大波が襲い、急激に海面が上昇した。
島国で海岸線の長い日本は、大津波のような大波の襲来と急激な海面上昇とによって甚大な被害を被った。東京、大阪、名古屋といった沿岸の大都市は壊滅した。京葉、京浜、名古屋から四日市、それに瀬戸内の太平洋に面した沿岸に連なる工場や発電所、石油タンクや原料タンクなど、工業ベルト地帯も大波をまともに受けた。もちろん、日本海側も、沿岸都市はもちろん、工場地帯や臨海発電所も水没した。
つづいて一〇〇日余におよぶ暗闇の世界があった。ふたたび太陽が顔を出したとき、地球が逆転していた。地球の自転軸である地軸が一八〇度回転してしまったのだ。
生きているのが不思議だった。日本全体が壊滅すると思った。
彼女は気が気でなかった。生きているうちに、どうしても夢を実現しておきたかった。さいわい、北海道は比較的被害が少なかった。それでも沿岸低地や平野部は水浸しになり、札幌にも海水が押し寄せてきた。苫小牧などの埋め立てて造成した工業地帯が水没し、沿岸の工場や発電所が操業不能になった。
「落下傘候補に立ち向かうには地元出身者にかぎるのよ」
「政治家たちとグルになっている連中には勝ち目がないわよ。やるだけムダだわ。いまさら私たちが出しゃばることはないわ。大体、日本が立ち直れるかどうかの瀬戸際に立たされている時に知事選挙が実施されるとは思えない。代行を決めて、選挙は当分延期よ」
「代行? 誰が……」
「道議会か、それとも国が臨時措置法をつくってやるんじゃないの」
「北海道が食いものにされるわよ」
清子はもじゃもじゃ頭の右野を思い浮かべた。
「なにか企んでいるな」
受話器を戻しながら、右野は呟く。
「どうしたの」
中海はいつもの調子で椅子に座ったまま声をかける。別に返事を期待していたわけではない。
「新しい文明村」の本館事務所は休耕田が広がる山里の廃屋となった古い農家をリフォームしたものだった。縁側から突きだしてテラス風に造られたウッドデッキに、長方形の手作りの大きなテーブルと椅子が無造作に置いてある。
呼び掛けに応じて集まってきたかっての仲間と久しぶりに顔を合わせながら、彼女はなんとなく居心地が悪かった。自分だけが取り残されているように感じるのだ。
頭がすっかり薄くなって一層風采が上がらない小男の地之木好夫、面長の顔の尖った顎が一層伸びた感じの左山朗、もじゃもじゃの頭にごま塩の無精ヒゲを生やした角顔の右野順、それぞれ年輪を重ねた男たちは「新しい文明村」の一員として地域にもすっかり溶け込んでいた。
地之木と右野は「新しい文明村」の運営のかたわら、地元大学の講師をも引き受けていた。左山は奥さんを呼んで診療所を開き、地域の医療活動を一手に引き受け、すっかり地域の顔になっていた。
彼女は三人の男たちの顔を一人ひとり見回した。自分もいれて、かっての四人組の顔が揃っているのに、彼女はなにかが欠けているような気がして落ち着かなかった。
東京の下町で、四人が共同で借りていたボロビルの一室の溜り場兼事務所が妙に懐かしかった。
グリーンランド氷床大崩壊で、一帯が水浸しになった夜、ビルの事務所で地之木好夫と過した一夜が浮かんだ。一〇数年が過ぎているのに、なぜかあの夜が生々しく蘇ってきた。
彼女は地之木の視線を感じて目を伏せる。
水が退くのを待って、彼女は地之木とともに、仲間たちの「新しい文明村」へやって来たが、すでに避難民で溢れていた。彼女はあらたな「新しい文明村」を求めて、ひとり喜久枝のいる北海道へ向かったのだった。
スローペースであったが、彼女はもくもくと「新しい文明村」の実現を目指した。北海道をくまなく回っているうちに、夢がさらに大きくなり、北海道全道を「新しい文明村」へ変革することを思い立った。
だが地球逆転による突然の大波の来襲と海面の急上昇が、彼女にのんびりと大計画を進める時間がないことを気付かせた。
彼女は昔の仲間の助力を得て、すぐにも北海道の「新しい文明村」化計画を実行しようと、何年がぶりに地之木たちを訪ねたのだった。
東京に近い内陸部の高原にある「新しい文明村」には地球逆転による大波や海面急上昇の直接的影響はなにもなかった。だが沿岸部から逃れてきた避難民が未だに大勢住み着いていた。ここを定住地と決めたものも多かった。
「企みって?」
・・・・・・
(続く)
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