作成:森岡正博 |
資料
研究課題:臓器移植の法的事項に関する研究
――特に「小児臓器移植」に向けての法改正のあり方――
分担研究者:町野朔(上智大学法学部教授)
研究協力者:長井圓(神奈川大学法学部教授)
山本輝之(帝京大学法学部助教授)
臼木豊(小樽商科大学商学部助教授)
近藤和哉(富山大学経済学部助教授)
趙晟容(上智大学法学部助手)
研究要旨:小児への心臓移植手術は、小さな心臓の提供を必要とするため、提供者も小児に限定されることになるが、書面によって生前に臓器提供の意思を表示することを臓器摘出の要件としている現行法の下では、小児には有効な意思表示をする能力が欠如しているため、事実上不可能である。これを可能にするために法改正を行うとしたら、A.小児については親権者あるいは親権者であった者の承諾によって臓器を摘出しうるという特則を設ける、B.それが本人の意思に反していると認められないときには、遺族の承諾によって移植用臓器を摘出しうるというように現行法の原則を変更する、という二つの方向が考えられる。後者(B案)を選ぶときには、死亡した者が生存中に提供に関する反対意思を表示していた場合にそれが結果的に無視される事態にならないように配慮することが必要である。また、提供者が未成年者であるときに承諾を与える遺族としては、「親権者であった者」とすることが考えられる。
A 研究の目的
1.検討を要する点
1997(平成9)年7月16日に公布された「臓器の移植に関する法律」(以下、「臓器移植法」という)の附則2条1項は、「この法律による臓器の移植については、この法律の施行後三年を目途として、この法律の施行の状況を勘案し、その全般について検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるべきものとする」としている。本法が施行されたのは「公布の日から起算して三月を経過した日から」(附則1条)であるから、本年(平成12)年10月16日がその「目途」の日ということになる。
現在の臓器移植法には、検討を要する重大な点がかなり多く存在する。
a[包括的移植法の可能性] @現行法は、死体からの臓器の摘出・移植だけを規定し、生体からの臓器(腎臓、肝臓、肺など)の「生体移植」については規定していない。これを現在のように「社会通念」の範囲内で、医学的判断と当事者の意思に任せるという慣行はそのままでいいのか、例えば近時のドイツ法、韓国法のように、生体からの臓器提供についても要件と手続を法律で厳格に規定する必要はないのかが、問題である。
A 現行法はさらに、「心臓、肺、肝臓、腎臓、厚生省令で定める内臓[膵臓及び小腸とされている。規則1条]及び眼球」だけを法が規定する「臓器」としている(5条)。このようなカズイスティックなやりかたでいいのかも、問題である。臓器と組織とを区別せずに規定するのが、国際的には一般的であるといってよい。日本法も、臓器一般、さらには組織まで含めた立法にすべきではないかという問題である。
b[公平・公正な移植の実現] 以上のように包括的な臓器移植法にするならば、さらに考えなければならないことが生じる。
@ 第一は、公平・公正な移植が以上のような多様な臓器・組織についても可能となるためには、現行のネットワーク・システムで十分か、臓器・組織あっせん業務に関する新たな法整備が必要ではないか、である。
A 第二は、臓器売買禁止のあり方である。現在は法・省令の規定する「臓器」だけが対象とされているが、臓器一般、組織にまで対象を包括的に広げるとなると、全体について売買、さらには商業的利用を禁止することになるであろう。現行法は、摘出、保存、移送などの「通常必要と認められるもの」以外は「対価」であるとしてその授受を禁止している。臓器・組織の無制限の商品化は認めるべきではないと思われるが、これからも、すべての臓器・組織について現行法の態度を貫くべきか、あっせんの営利性をすべて否定すべきかは、あるいは今一度問題にされることになるのかも知れない。
c[脳死問題] 現行法における「脳死」の位置づけも再検討を必要としている。
現行法は、移植用臓器摘出のときだけに限って脳死を人の死であることを認めるような文言を用い、本人が脳死判定に承諾し「家族」がそれを拒まないときにだけ脳死判定をなしうるとしている(6条2項・3項)。さらに、心臓死体から眼球・腎臓を摘出するときには、当分の間遺族の承諾だけで足りるとしている(附則4条1項)。以上のことから、日本の臓器移植法は、脳死体からの臓器の摘出を可能にするために作られた「脳死・臓器移植法」であるということもできる。
脳死を他の死(心臓死)に対してこれほどまで相対化したことは、重大な倫理的問題を生じさせた。臓器移植が法的に許されるときには脳死が人の死となりえ、法の手続に従った脳死判定がなされたときだけ、いわゆる「法的脳死判定」がなされたときだけ脳死が存在するかのような現行法は、臓器移植の目的の存在によって脳死を人の死としてしまったのである。これは、法的レトリックに過ぎないとして済ましてしまうことのできないものであろう。医療の現場では、「法的脳死判定」でない「臨床的脳死判定」がなされたときには脳死が存在しないのか、移植の許されるとき、移植を目的としないときには脳死判定してはいけないのか、法的脳死判定の要件を満たさないときには脳死はないのか、などという疑問が噴出した。さらに、脳死体から臓器を摘出する医師は、自分たちは死体にメスを入れているのか、あるいは、本当は生きている人をこのようにして殺してしまうことが許されているに過ぎないのか、という倫理的ディレンマを感じざるを得ないだろう。
2. 小児臓器移植問題
以上の問題も、法の見直しについての重要な論点である。しかし、今年度の本報告は、現在問題とされている「小児臓器移植」実現のための法改正をなすべきか、なすべきだとしたらその内容としてはいかなるものが考えられるかを中心的に問題とする。これは、本人の生前の書面による意思表示がなければ臓器の摘出を許さないという現行法6条1項の態度に由来する問題である。
B 研究方法
現行法の成立過程を検証し、患者団体、移植医療関係者の意見を聴取のうえ、研究協力者間で意見を交換した。さらに、ドイツ、フランス、韓国での調査をふまえ、国民の意識の問題についても検討した。
C 問題の背景(研究T)
小児臓器移植問題の背景は以下のようである。
1. 旧中山案の修正
1994(平成6)年に国会に提出された臓器移植法の「旧中山案」では、見直しまでの時間は5年であった。しかし、臓器提供の意思が生前に書面によって表示されること、すなわち本人のopt-in (contract-in)を移植用臓器摘出の必須の要件とし、1996(平成8)年に衆議院の厚生委員会に提出された修正案は、これを3年とし、それが現在の法に受け継がれたのである。同時に、この修正案は、本人のopt-inを臓器摘出の要件とすることにより、腎臓、眼球については「角膜及び腎臓の移植に関する法律」(角腎法)(昭和54年法律63号。臓器移植法の成立により廃止された。同法附則3条)より厳しくなることを慮って、これらについては、暫くの間、角腎法の原則に基本的に従うという経過規定を置くことも提案している。
角腎法は、本人の臓器提供の意思表示がないときには、遺族が書面により承諾すれば(遺族のopt-in (contract-in)があれば)、腎臓、眼球を提供しうるとし、旧中山案も基本的にはそれに従っていた。その態度を変更して、諸外国の臓器移植法にも例のないような方法で「死者の自己決定」を重視した法を作るならば、臓器の提供が困難になるであろうことは当然予測されていたことであった。また、このような法の下では、小児の心臓移植手術は不可能となるであろうことについても、そうであった。すなわち、本人の承諾意思の表示を臓器提供の必須の要件とする以上、有効な意思表示をなしうる能力の欠如している小児が死後にドナーとなることは不可能である。しかし、移植に用いられる心臓は、移植を受ける小児に適合した小さなサイズでなければならず、例外的な場合もありうるとしても、提供者も小児に事実上限られることになる。上記の修正提案を受けた臓器移植法は、腎臓、眼球の摘出に関しては「当分の間」遺族の承諾だけで摘出しうるとし、これは、基本的に現行法に受け継がれているが(附則4条)、これは、前に述べたように、角腎法のときよりも摘出要件が厳しくなってはならないと考えたためであり、当然、心臓はこの経過措置の対象外であった。また、心臓死の下では移植可能な心臓を摘出することが不可能なのであるから、附則に心臓を追加したとしても問題の解決にはならない。
以上の事情からも、見直しを5年から3年に前倒しにした立案関係者は、移植用臓器摘出要件としての本人の「書面による承諾」の問題、心臓移植を中心とした小児臓器移植の問題を早期に再検討すべきであると考えていたことがわかる。
2. 新中山案から現行法へ
その後、「死体」に「脳死体を含む」とし、本人の書面による承諾を臓器摘出の要件とした新・中山案(平成9年)は、衆議院において、脳死を人の死としないで脳死体からの移植用臓器の摘出を認める、いわゆる違法阻却論に立脚する「金田案」を制して衆議院を通過したが、参議院において「関根案」により重大な修正を加えられた後、現在の姿における臓器移植法が成立した。それは、前述のように、移植用臓器の摘出のときに限って脳死を人の死とするかのような文言を採用し、本人が生前に脳死判定に承諾しかつ遺族もそれを拒まないときのみ脳死判定をなしうるとしたものであった。これによって、脳死問題は新たな局面を迎え、倫理的にはより深刻な検討課題となったのである。しかし、臓器の摘出について本人の書面による承諾を要件として臓器提供の可能性を大きく狭めてしまった以上、さらに脳死判定に本人の承諾を要件としたとしても、臓器移植の要件としては実質的には大きな意味を持つものではなかったともいえる。
D 小児臓器移植と法改正(研究U)
もし小児の心臓移植を実施しようとするなら、法律改正が必要である。
臓器移植法も、同法の施行規則(省令)も、臓器提供に関して有効な意思表示をなし、脳死判定に有効に承諾しうる年齢については何も述べてはいない。「ガイドライン」(平成9年の保健医療局長通知)は、「臓器提供に係る意思表示の有効性について、年齢等により画一的に判断することは難しいと考えるが、民法上の遺言可能年齢等を参考として、法の運用に当たっては、十五歳以上の者の意思表示を有効なものとして取り扱うこと」としている。ガイドラインは、脳死判定への承諾意思の有効性についても同じことが妥当すると考えているようである。
ガイドラインは厚生省の行政指導に過ぎず、法的な拘束力があるわけではない。「十五歳」が低過ぎるのではないかという議論も、逆に高過ぎるのではないかという議論もありうる。しかし、いずれにせよ、子どもが心臓のドナーとはなりえないこと、小児心臓移植が現行法のもとでは不可能であることは確たる事実である。子どもたちの心臓移植手術は、現在では「渡航移植」によらざるをえないことになる。このような事態を打開し、小児の心臓移植に道を開くことを考えるならば法改正が必要となるのであり、ガイドラインの変更で対応しうる問題ではない。
E 意思表示要件の緩和について(研究V)
本人の臓器提供意思の表示という法の要件を緩和することによって、小児臓器移植を実現すべきだという見解も考えられる。
1. 小児の意思表示についての特例
ひとつは、小児についても提供意思を表示していなければ臓器提供を認めるべきではない、小児についても臓器提供に関する自己決定権は保障されるべきだとしつつ、その意思表示は現行法の「書面による意思表示」である必要はないとするのである。具体的には、口頭によるものも含めて提供意思が何らかの形で表示されていれば十分だとすることになろう。
しかし、これによっても自然的な意味での意思表示もなしえない幼児は臓器提供の主体とはなりえないことになる。そのことを暫くおくとしても、何故小児についてだけこのような簡便な意思表示で十分としうるのかは、不明である。また、例えば小学生児の意思表示を有効なものとすべきだとも思われない。意思表示形式と意思表示能力に関して大人について適用されている厳格な要件を、小児については適用しないとすることは、その厳格な要件を正当なものとする前提に立つ以上、明らかに憲法14条の保障する法の下の平等に反するものだと思われる。
2. 意思表示要件の一般的な緩和
そこで、一般的に意思表示要件を緩和することにより、小児臓器移植を可能にする法改正も考えられる。それには、さらにふたつの方向がありうる。
a[書面性不要] そのうちのひとつは、6条1項の文言から「書面により」を削除することにより、広く、口頭、録音、録画等による提供意思の表示をも認めるようにする法改正である。
しかし、依然として有効な意思表示の存在は必要なのであるから、意思表示がなかったとき、口をきくことのできない幼児のときはもちろん、意思表示能力の欠如する子どもが提供意思を表示していたとしても、臓器の提供を認めることはできないことになる。
b[提供意思の推定] いまひとつは、本人の提供意思が現実に表示されていなくとも、臓器の摘出が本人の意思に合致していると推定されるときには、臓器の摘出を認めることができるとするものである。実際には、このような意思の推定は遺族が行うことになろうから、本人が意思表示をしていないときには遺族の承諾によって臓器を摘出しうるとすることと同じ結果になることが多い。しかし、本人の推定的承諾が認められれば足りるのであるから、遺族がいないときにも摘出が許容され、さらには、遺族ではなく、死者と親密な関係にある者の供述によって摘出されることもあることになる。
だが、「意思の推定」という考え方によるなら、自然的な意味での意思も存在しない幼児については、その推定をなしえないのではないかという疑問がある。
F 臓器提供者が年少者であるときの特則(研究W)
1. 法改正の二つの方向
以上のようなことから、現在では、小児の心臓移植を可能にするために、二つの法改正の方向が考えられる。
一つは、小児・年少者からの臓器の摘出を可能にするために、誰かが彼に代わって臓器提供を承諾する意思を表示することを認める特則を設けるという方法である(A案)。いま一つは、死者本人の臓器提供に承諾する意思表示がなければ許されないとする現行法の立場を修正することによって、子どもにも大人にも平等に移植医療を可能とする方向をとることである(B案)。
ここでは、まずA案の可能性を検討する。
2. 親権者(であった者)の承諾
A案の場合、小児に代わって臓器の提供に同意する人としては、その親権者が考えられることになる。これにも、a小児の生前に、その親権者が、彼のために書面によって死後の臓器提供の意思表示をすることを認める、b小児の死後に、その親権者であった者が、書面によって彼の臓器提供の意思表示を行うことを認める、cその両者とも認める、という法改正が考えられる。いずれも、現行法6条1項の後に特則として2項を加えるという形をとることになる。
[A−a案]
第6条A 当該者が死亡したときに十五歳に満たなかった場合において、その者の生存中にその親権者が当該者の臓器を提供する意思を書面により表示していた場合においても、前項と同様である。
[A−b案]
第6条A 医師は、死亡した者が十五歳に満たなかった場合において、その者の親権者であった者が当該者の臓器を提供する意思を書面により表示したときには、移植術に使用されるための臓器を死体から摘出することができる。
[A−c案]
第6条A 医師は、死亡した者が十五歳に満たなかった場合において、その者の生存中にその親権者が当該者の臓器を提供する意思を書面により表示していた場合、又はその者の親権者であった者が当該者の臓器を提供する意思を書面により表示した場合には、移植術に使用されるための臓器を死体から摘出することができる。
これは、現行法の枠組を大きく動かすことなく、年少者の死体から臓器摘出を可能にすることであり、法改正としては実現性が高いと考える向きもあろう。また、これまで厚生省と移植医療の人々は、本人のopt-inを要件とする厳格な現行法の態度を前提にしつつ、移植医療を推進するために意思表示カードの普及に努めてきた。以上のような特則を設ける法改正は、このような努力との整合性を維持する方策であるとも考えられるのである。
3. 親権者(であった者)の権利
しかし、このような法律は妥当でないように思われる。
a[自己決定権の代行] 本人が死後にその臓器を提供する意思を表示していないときには臓器の提供を認めないという現行法の基本原則に固執する以上、A−a案、あるいはA−c案前段のいう親権者の承諾はその子の意思そのものであり、子の意思決定の代行であるということにならざるをえない。しかし、年少者である子が現実にそのような意思決定をしていない以上、これは擬制に過ぎない。本来、自己決定権は本人に一身専属的に帰属するものだからである。
b[親権者の権利] 親権者に、その子の意思決定の代行としてではなく、子が生きているときに、その死後にその臓器を移植のために提供する意思表示を行う固有の権限を認めることも困難である。それは、民法(820条)の認める「子の監護及び教育」という親権者の権利・義務には含まれない。それでも以上のような法律を作るということになると、民法の基本原則を修正することを覚悟しなければならない。
c[親権者であった者と遺族] A−b案、あるいはA−c案後段のように、子の死後に親が臓器の提供に承諾することを認めることには、さらに困難が伴う。親権は子が存在する限り存在するが、子が死亡したときには存在しない。「親権者であった者」は親権者ではない。彼は、子の遺族としての権限を有するのみである。そうすると、子の死後にその親権者であった者が臓器の提供を承諾しうるとすることは、本人の明示の反対がない場合には遺族の承諾によって臓器を提供しるとする、旧中山案、後に述べるB案と似たものとなっている。しかし、未成年者一般ではなく、死亡した者が臓器提供意思能力のないとされる15歳未満であるときに限られていること、承諾する遺族も、親権者であった者に限られている点で、これと異なっている。
おそらくは、親権者であった者の承諾を死亡した年少者の意思決定の代行と考えているA−b案、あるいはA−c案後段は、後に述べるように(G2.c)、彼は遺族の中でも最も死亡した者に近しかった者であるからその固有の承諾権を尊重しなければならないと考えることにより、B案の中で適切に位置づけられるであろう。
d[実際性] 実際問題として、自分の子どもが生きているときに、その死後に臓器を提供するという文書を作る親が多いとは思われない。A−a案、A−c案前段は、非現実的であるといわざるをえない。
4. 便宜主義的法改正
以上のように、臓器提供者が年少者であるときについて特則を設けるという法改正は、理論的にも、実際的にも大きな問題を含むものである。それにもかかわらずこのような法改正を行うとするなら、それはかなり便宜的な法律を作るということである。提供意思を有効に表示しえない者としては、小児以外にも重篤な精神障害者などが存在する。これらの者についてはこのような特則を設けることなど考えていないところにも、小児移植だけを目的とした便宜主義的な性格が現れている。新たな法改正は安易な妥協に走らず、public acceptanceを得られるものであるべきであろう。
G 死者の自己決定権の意義(考察T)
1. 本人のopt-in (contract-in)から遺族のopt-in (contract-in)へ
第二の法改正の方向は、本人の書面による承諾を要件とする現行法を修正して、本人が反対の意思を表示していないときには遺族の書面による承諾によって臓器の提供を受けうるとすることである。これは例えば以下のように現在の6条1項を変えることである。
[B案]
第6条@ 医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき、若しくは遺族がいないとき、又は死亡した者が当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が移植術に使用されるための臓器の摘出を書面により承諾したときには、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。
もともと旧中山案は、本人が生前の意思表示によって臓器摘出に反対していたのでないときには、遺族の承諾によって臓器の摘出が可能であるとしていた。それが1995年6月24日に衆議院厚生委員会に提出された修正提案以来、生前の本人の書面による承諾がなければ臓器を摘出しえないとすべきであるとされたことは既に触れた。子どもの心臓移植を事実上不可能とするこの修正案は、移植を待っている心臓病の子どもの家族を落胆させたのである。B案は、この点では旧中山案に戻るべきだとするものである。
もし「小児臓器移植」を可能にするための法改正がなされるべきだとするなら、それはB案の方向でなされるべきだと思われる。その理由については既に昨年度の報告書で「臓器移植の法的事項に関する研究−現行法の3年目の見直しに向けての提言−」として述べたところであるが、以下、これを補足するかたちで、若干検討する。
2. 死者の自己決定権の意味
最大の思想的問題は、死者の自己決定権との関係である。
a[日本人の国民性] 自分が承諾していないのに、死後に臓器を摘出されるのは嫌だという認識を持つ人はいるであろう。既に見たように、新・中山案は、そのような感情に配慮して、本人がイエスといっていなければ臓器の摘出を認めないことにした。それには、善意の贈り物を無駄にすることは許されない、その範囲では臓器移植を是認していいという考え方もあったものと思われる。諸外国では、本人の承諾がない場合に、遺族の意思に従うなどしてその臓器を摘出しても、死者本人の自己決定権の侵害であるとは考えられていないのに対して、日本の国会はそうなると考えたということだともいえる。これは日本人の国民性に合致した政策決定であり、諸外国と異なっているのは当然だという見解もある。
しかし、生前に積極的に臓器提供の意思を表示していない以上は死後にも臓器を提供しないという意思があったとみるべきなのが日本人であって、提供しないことを表明していない以上は死後の臓器提供は本人の意向に沿うものであるとみるべきなのが外国人である、というものではないと思われる。もし日本人はこのような人種で、法律もそれを前提にしなければならないというのなら、遺族の承諾を得て眼球・角膜を心臓死体から摘出することを認めていた角腎法が成立しえ、さらには、臓器移植法に取って代わられるまでの20年近くにもわたって国民の支持を獲得し続けられた理由を説明できない。さらに、このような前提に立ったときには、前述の経過規定(附則4条1項)も不当であって、廃止しなければならないということになろう。
b[人間像の問題] 問題は法がいかなる人間像を前提にするかである。日本の臓器移植法は、本人が生前に死後に自分の臓器を提供することを申し出ていない以上、彼はそれを提供せず墓の中に持っていくつもりなのだ、と考えていることになろう。そうであるからこそ、本人が何もいっていないのに臓器を摘出するのは彼(死者)の自己決定権に反するのだ、と考えるのである。しかし我々が、およそ人間は、見も知らない他人に対しても善意を示す資質を持っている存在であることを前提にするなら、次のようにいうことになろう。――たとえ死後に臓器を提供する意思を現実に表示していなくとも、我々はそのように行動する本性を有している存在である。もちろん、反対の意思を表示することによって、自分は自分の身体をそのようなものとは考えないとしていたときには、その意思は尊重されなければならない。しかしそのような反対の意思が表示されていない以上、臓器を摘出することは本人の自己決定に沿うものである。いいかえるならば、我々は、死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである。
多くの国が、本人の明示の承諾がなくても摘出できるとしているのは、このような人間観に立っているからであろう。これらの国が、死者の自己決定権を軽視していて、日本の現在の臓器移植法だけがこれを重視している、というのではないと思われる。
c[未成年者と遺族の権利]
臓器の摘出に承諾を与え、あるいは拒否する遺族の権利の性質については不明確なものがある。遺族が本人の生前の承諾があるときに摘出を拒まない、そして、本報告の提案のように本人の明示の拒絶のないときには摘出に承諾を与えることを認めるときには、彼(ら)は、本人が上記のような反対意思を持っていなかったことを確認し伝達する権限を行使しているものと見ることができる。この限りでは、遺族の同意を本人の意思の推定(忖度)と理解することは可能である。しかし、現行法2条1項が本人の提供意思の尊重を要請しているにもかかわらず、遺族は、本人が承諾しているときでも臓器の提供を拒絶することができる。本人が同意・拒絶の意思を表示していないときには、本報告の提案においても遺族は提供を拒絶することができることになる。この面では、遺族には、本人の権利に直接由来するものでない、固有の権利を持つということである。
わが国の臓器移植法は、諸外国のそれのように、例えば「1.配偶者、2.子、3.親、4.兄弟」のように、承諾権者の順位を定めることなく、承諾を与えるべき者を単に「遺族」とし、ガイドライン(第2第1項)は、原則として「配偶者、子、父母、孫、祖父母及び同居の親族」すべての者の承諾を得るべきものとしている。そして、「喪主又は祭祀主催者となるべき者」が遺族の総意を取りまとめるべきだとされている。しかし、上記のような遺族の権利の性質からするならば、少なくとも提供者が死亡した未成年者であるときには、このような集団的な権利の行使ではなく、未成年者と最も近い精神的関係にある親権者に許諾の権利を与えるのが適切ではないかとも思われる。韓国の臓器移植法が、16歳未満の者が死亡し提供者となるときには、その父母の承諾がなければ摘出を認めないとしているのは、このことを考慮したためである。本人の許否の意思表示がない場合には臓器の提供を認め、家族の権利を認めないフランス法も、死者が未成年者または意思能力のない成人である場合について、親権者等の文書による同意を要件としている。これは、未成年者等の権利を守るためであるとされているが、日本においても、未成年者の態度を体現し、親としての立場で決定する権限は親権者にのみ留保することが好ましいと考えられる。
第6条A 前項後段の場合において死亡した者が未成年者であるときには、移植術に使用されるための臓器の摘出を書面により承諾する遺族は、その者の親権者であった者とする。
注意すべきことは第1に、上記の規定は、[A−b案]とは異なり、親権者であった者に未成年者に代わって臓器提供の意思表示をすることを認めたものではなく、提供者が死者である未成年者であるときには、固有の権利によって提供に承諾しうる遺族の範囲を親権者に限定したものである、ということである。いいかえるなら、「未成年者に関する特則」ではなく、「遺族に関する特則」である。第2に、一律に未成年者を対象とし、15歳などの年齢によって未成年者を区分することはしないということである。これは、本人の意思決定能力の存否の問題ではないことによる。第3に、このような規定の下では、親権者であった者が存在しないときには、臓器の摘出は認められないということである。
この規定を設けなくとも実際にはこのような運用になると思われる、この規定によって親権の概念に混乱が生じる可能性も否定できない、未成年者の場合にだけこのようにする根拠はない、などを理由として、消極的な意見も主張された。
3. 本人の拒否権の尊重
a[拒絶意思の有効性] 本人が臓器を提供しない意思を表明していたときには、その意思は尊重されなければならない。廃止された角腎法3条3項は、この場合でも遺族が承諾すれば腎臓・眼球の摘出を可能とするものであったと解されるが、現在ではこのような考え方を支持する者はいない。
[B案]6条1項は、「死亡した者が当該意思がないことを表示している場合」には、遺族の承諾があっても臓器の摘出を認めないこととしているが、その場合の意思表明は書面によることを要しない趣旨である。これは、旧中山案も同様であった。
拒絶意思が表示されたときの意思能力は、低いもので足りる。フランスの臓器移植法は13歳以上の者に拒否登録を認めているが、かなりの年少者、例えば6歳位の子どもが拒絶意思を口頭で表明していた場合であっても、その意思は尊重されなければならないと思われる。この趣旨を明確にするために、2条を次のようにすることが考えられる。
(基本的理念)第2条@ 死亡した者が生存中に有していた自己の臓器の移植術に使用されるための提供に関する諾否の意思は、尊重されなければならない。未成年者が提供の意思がないことを表明していた場合にも、その意思は尊重されなければならない。
A 移植術に使用されるための臓器の提供は、任意にされたものでなければならない。
これに対しては、このような規定を設けなくても、遺族が本人の心情に配慮して摘出を認めないであろうから問題はない、逆に、これによって、乳幼児の意思などについても尊重しなければならなくなるのかというような問題が生じる、などとして、その新設を不要とする見解もあった。
b[拒絶意思の確認] ドイツ法は、本人(死者)の臓器提供に関する書面による意思表示がないときには、摘出医師は、本人の最近親者に彼の意思を問い合わせるべきこととし、最近親者がそれを知らないときに初めて、彼の承諾によって臓器を摘出しうるとしている。フランス法も、医師に家族の証言を収集する義務を負わせている。わが国でも、本人の拒絶意思の存在が看過されてしまうことを回避するために、次のような規定を置くことが考えられる。
第6条B 第1項の場合において、死亡した者の臓器提供の許否に関する意思は、遺族に確認されなければならない。
これに対しては、以上の提案の趣旨は既に実際にコーディネイタによって実践されているところであり、あえて法に規定する必要はないのではないか、という意見もあった。
4. 意思表示カードの普及について
法律が本人のopt-inを移植用臓器摘出の絶対的要件としないとしたとしても、意思表示カード普及の努力は続けられなければならない。
上述のように、本人のopt-outがないときに臓器の摘出が許されるのは、それが本人の自己決定に反しないものであるからである。そして、意思表示カードによって臓器提供の意思が積極的に表示されているときには、それが死者の現実の意思にも沿うものであるという保障を与えるものとなり、当該移植に携わる人々にさらに勇気を与えるものとなる。また、意思表示カードを普及させ、反対の意思表示の機会を人々に提供することは、望ましいことである。
意思表示カードを普及させることは、臓器移植に関する人々の関心と理解を深めるものでもある。人々が意思表示カードを手にしてopt-in/opt-outを考えるときは、生と死、移植医療を自己のものとして深く考えるのである。意思表示カードを普及させてきた関係者は、さらに一層の努力を続けなければならないと思われる。
B案のようなものが諸外国の法律であるが、そこでも登録への呼びかけ、意思表示カード普及の努力が続けられているのは、以上のような事情があるからである。
H 日本における脳死・臓器移植問題(考察U)
「小児臓器移植」が不可能になっていることは、脳死・臓器移植について、さらには臓器移植一般について消極的な世論に基づいた臓器移植法の態度に基本的に由来している。3年間の研究を締めくくるに当たって、この問題を考察しておくことは必要であると思われる。
1. 医療不信について
世界に例を見ないほど厳格な、本人の書面による承諾がなければ死後にその臓器を摘出しえないとする日本の臓器移植法の背後には、脳死に対する懐疑的な世論、自己の身体を提供することに対する消極的な人々の存在、そして、脳死判定を行い、臓器を摘出し、臓器移植を実行する医師の権限行使に対する不信感があると思われる。これらの問題はさらに議論を必要とするであろう。特に医療不信は、脳死・臓器移植問題の「通奏低音」のように人々の心の中に流れているかのようである。
しかし、このような懸念があるからといって、現在の法律の要件を維持すべきであるということにはならない。脳死が人の死であるといえないのなら、むしろ心臓移植は行うべきではないのである。脳死判定の基準・手続に問題があるのなら、それは変えなければならない。医師が権限を濫用するというのなら、それを防ぐために適切な事前措置をとるべきである。医療不信があるならその原因を除く、あるいは何が不当な行為であるかを明らかにして、医師が不当な行為を行ったなら断固たる措置をとる、必要なら処罰もいとわない、とするのが筋道である。医師が、移植用臓器の摘出のために、ドナーの救命に十分な努力を尽くさなかったなら、そのことを非難すべきである。以上のことをせずに、なるべく臓器移植をさせないようにする、というのは筋違いであるように思われる。
2. 臓器移植に対する反感について
臓器移植全体についてのネガティヴな態度が、日本の臓器移植法の死者の自己決定権に関する規定の背後にあることもある。医療不信が第一の「通奏低音」だとすると、これは第二のそれだということもいえる。これも、さらに二つの問題に由来している。
a[臓器の法的性格] 第一にそれは、身体・臓器の法的性格に関する。例えば、次のような考え方が主張される。――およそ、個人の身体、臓器は公共のものではない、きわめて個人的な人格権の対象なのである。心臓も腎臓も、例えていえば、愛用していた眼鏡、万年筆、ステッキ、あるいは初恋の人の思い出と同じように棺の中に持っていくのがむしろ通常なのである。そのことを認めることと、人間の連帯性、博愛主義とは何の関係もない。自分の人格がしみ込んだものでも人に贈りたいという人が存在しうることは否定できないが、それは例外に過ぎない。――そしてこれは、本人の積極的な承諾がないときにも臓器提供を一般的に認めることは、臓器を物と同じに見ることである、公用徴収を認めることである、という臓器移植に対する漠然とした反発に至る。
たしかに、個人の身体、臓器は単なる財産権の対象ではない。それは売買を禁止された倫理的意味を持った人格権の対象と考えなければならない。しかし、そうだからといって、臓器移植を認めることは、臓器を物としてしまうことだ、ということではない。また、自分の死後に同胞のためにそれを用いることは一般的に予定されてはいない、ということでもない。むしろ、自分が苦労して手に入れ、心から愛してきた「ゴッホのひまわり」であるからこそ、死後には子孫に残したい、あるいはほかの人々の心に返したいと思うのが通例で、棺桶の中に入れて自分の死体と一緒に焼いてもらいたい、誰の目にも触れさせたくないと思うのは異例なのではないだろうか。遺言によってそれを美術館に寄贈するという行為は、臓器を通常の財産と見るのとは正反対の心情である。そして、日本人は、臓器に関してアメリカや韓国の人とは違う見方をしているとは思われない。
b[日本人の遺体観] 第二は、日本人の遺体観に関する。日本人は遺体を大切にする、だから日本人には臓器移植はなじまないのだ、という古くからの考えである。しかし、外国人が遺体を大切にしないわけではない。外国人は遺体を土葬にし、火葬にする日本人のやり方になじまないものを感じるという。しかし、その物理的存続よりも、愛する人の臓器が人の役に立つことを優先させることが遺体を大切にすることだと思うが故に、臓器移植により積極的である。問題は大切にする仕方であるということであろう。そして、この点においても、日本人が臓器について外国人とそれほど違う考え方をしているとも思われない。
3. 日本人の国民性
現在の臓器移植法は日本人の国民性に合致した法律であるから、その改正の試みなどは到底許されない、という人もいる。しかし、以上に見たようにそのようなことはない。我々は、脳死と臓器移植は生と死に関する重大な問題であるからこそ、冷静に考えなければならないのである。日本文化固有論、日本人の国民性の議論だけで、問題解決の途が閉ざされてはならない。
I 法改正案(結論)
昨年度の報告で提案したところも含めて、以上の研究と考察の結果、死者の生前の意思表明の尊重を明示した2条1項の修正案をも含めて、次のような臓器移植法改正法が妥当であるとの結論を得た。しかし、我々の研究会内部でもまだ十分に合意のみられていない部分もある。これらの諸点、また一致をみている点、すなわち、脳死概念と脳死判定とを分離すべきだとすること、本人の反対意思表示がないときに臓器の提供を認めるべきだとすることについても、なお、議論が続けられなければならない。
(基本的理念)第2条@ 死亡した者が生存中に有していた自己の臓器の移植術に使用されるための提供に関する諾否の意思は、尊重されなければならない。未成年者が提供の意思がないことを表明していた場合にも、その意思は尊重されなければならない。
A 移植術に使用されるための臓器の提供は、任意にされたものでなければならない。
(臓器の摘出)
第6条@ 医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき、若しくは遺族がいないとき、又は死亡した者が当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が移植術に使用されるための臓器の摘出を書面により承諾したときには、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。
A 前項後段の場合において死亡した者が未成年者であるときには、移植術に使用されるための臓器の摘出を書面により承諾する遺族は、その者の親権者であった者とする。
B 第一項の場合において、死亡した者の臓器提供の許否に関する意思は、遺族に確認されなければならない。
C 第一項にいう「脳死体」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至った状態(以下、本法において「脳死」という。)にある死体をいう。
D 臓器の摘出に係る脳死の判定は、これを的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師(当該判定がなされた場合に当該脳死体から臓器を摘出し、又は当該臓器を使用した移植術をおこなうこととなる医師を除く。)の一般に認められている医学的知見に基づき厚生省令で定めるところにより行う判断の一致によって、行われるものとする。
E<「第二項の判定」が「第四項の判定」となるほかは、現Dのまま>
F<「第二項の判定」が「第四項の判定」となるほかは、現Eのまま>
J 文献
1.アルビン・エーザー「ドイツの新臓器移植法」(上)・(下)『ジュリスト』1138号(1998年)87頁・1140号(同年)125頁。
2. ハンス=ルードヴィッヒ・シュライバー「人の死はいつなのか?−移植法の基点となる脳死、臨床死および同意をめぐって」『法律時報』71巻(1999年)11号72頁。