森岡正博全集第一巻 一四〜一八頁 kinokopress.com (一九八六年頃)
現代日本の哲学をつまらなくしている三つの症候群について
森岡正博
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現代この場所で私たちが直面している問題を、根本にかえって、深く考えるのが、哲学である。ところが、大学や書店で出会う「哲学」は、決してそのようなものではない。現代日本では、哲学は、非常につまらないものへと縮減しているのである。
哲学者に向かって、あなたの哲学は何ですかと決して質問してはならない、というジョークがあるが、この話が意味するものをここでもう一度考え直してみよう。
哲学的問題に自分の頭と自分のことばで取り組み、「哲学」する人、これが本来の哲学者である。哲学者は、自分の抱えている問題あるいは現実に直面し対決する。これに対して、過去の作品としての「哲学」あるいは哲学(学)者について研究する学者のことを、哲学学者と呼びたい。哲学学者は、文献に直面し対決する。
これと同じことが倫理学においても言えるだろう。つまり、倫理学者とは、倫理的問題に自分の頭と自分のことばで取り組み、「倫理学」する人のことであり、これに対して倫理学学者とは、過去の作品としての「倫理学」あるいは倫理学(学)者について研究する学者のことである。
ここで、問題をひとまず倫理学に限定して、話を進めよう。もちろん以下に述べることは、広い意味での哲学・思想すべてにあてはまる。
本来、倫理学は、倫理学学と結び付いて、次の四つの領域を形作るはずだと私は考える。
A.倫理学
a−1.普遍的(らしい)問題への対決(=通時性の探究)
「生とは何か、死とは何か」
「合理性とは何か」
「救いとは何か」など
a−2.現実が突きつける問題への対決(=共時性の探究)
「現代科学技術の問題」
「生命倫理の問題」
「政治倫理の問題」
「教育・いじめの問題」
「セックスと人間関係の問題」など
B.倫理学学
b−1.問題の思想史的追求
「西洋近代における合理性の問題」
「日本思想における超越の思想」
「他者問題の史的展開」
「生命論の思想史」など
b−2.特定個人の文献の研究
「カント研究」
「ヘーゲルにおける相互承認の研究」
「道元研究」など
これら四つの領域がバランスよく手を結んだときはじめて、理想的なシステムが出来上がる。次の図を見ていただきたい。
倫理学 倫理学学
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倫理学者として
倫理学学者として
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│┌──────┐
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「学」 ││ 普遍的問題 ├─────────┤ 思想史的問題 │ │
の追求 │└──────┘
└───────┘ │
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出張 ↓↑ 吸収
出張 ↓↑ 吸収
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│ 現実問題 │
│ 特定個人の研究 │
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*図は、PDF版をご覧ください。
四つの領域は、理想的には、このようなシステムとして関連しあっているはずである。
「普遍的問題」と「思想史的問題」の追求が、「学」としての倫理学(学)の基盤である。しかしそのような「学」の追求が 真に可能になるためには、どうしても、現実問題へ出張してそこでの問題に直面し、そこから何かを吸収することが必要であり、同時にまた、特定個人の文献に出張して彼の問題に直面し、そこから材料を吸収することも必要となる。
四つの領域がそれぞれ他を補いながらバランスを保っている姿を、一種の理想像と考えると、現在のアカデミズムの姿は、この理想像からの頽落形態としてとらえることができる。
アカデミズムの頽落は二段階を追って進む。第一段階は、倫理学と倫理学学の分離である。アカデミズムは、自らの仕事を倫理学学だけに限定する。第二段階は、思想史研究から特定個人の文献研究への縮減である。要するに、アカデミズムは、スケールの小さい方へ、研究が楽な方へと自らを誘導してゆく。
(1)倫理学と倫理学学の分離
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↓↑
│ ↓↑
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(2)思想史研究から特定個人研究への縮減
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↓↑
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このようにして、アカデミズムはいまや、特定個人の文献研究にしか興味を示さなくなった。それどころか、この傾向はさらに徹底して若手研究者に受け継がれ、彼らはもはや特定個人の文献の特定の箇所にしか興味を示さない。たとえば、日本倫理学会の学会誌である『倫理学年報』や、日本哲学会の学会誌である『哲学』の投稿論文の目次を見ていただきたい。ここにみられるのは「誰々における何々問題について」の洪水である。これを、「−における」症候群と呼びたい。
考えてみれば、大学院期間とは、いかにして重箱の隅をつつくような論文を生産するかという技術を学び、またそのような論文を発表することがとりもなおさず「倫理学」である、と信じ込まされる期間である。研究室では「−における」論文の生産にはげみ、自宅に帰ってはじめて、自分が本当にやりたい思索に没頭するという「二重生活」を送っている同僚もいる。
しかしどう考えてもこれは健全な姿ではない。右に述べた四つの領域を包括して、便宜的に「倫理学」と呼んでおく。特定個人の文献研究は、倫理学の四つのシステムのなかに有機的に組み込まれてこそ意義がある。
だが、現実には、アカデミズムは特定個人の文献研究へと縮減する。考えてみれば、それにはそれなりの理由があるのだ。ひとつには、特定個人の思想におぼれることの、麻薬のような快感がある。テクストを読む快感とでも言おうか。つまり、自分の頭では考えず、カントやヘーゲルに考えてもらって、自分でそのように考えたかのような錯覚を持つ快感。たとえば、ヘーゲルのようにものを考える快感。道元のようにものを考える快感。そしてそれは、その快感が哲学であり倫理学であり学問であるという錯覚へと結び付く。そしてついには、その快感が「安心」へと変わるという事態に至る。つまり、ヘーゲルを読み、ヘーゲルのように考えることで安心する、という事態に。この境地に至った人は、「ヘーゲルを読んでいればいい」とか、「親鸞でいい」という言い方をする。このことを専門用語では「ヘーゲルあるいは親鸞に即する」と言う。
これが学問であろうか。しかし現実には、論文を書くときにまでそれが波及している。たとえば、「カントとともに次の問題を考えてみよう…」とか、「ヘーゲルを手がかりにして次の問題を考えてみよう…」と述べて、全編、カントやヘーゲルからの引用を切り貼りする。要するに自分の頭で問題を考えることを放棄し、カントやヘーゲルに考えてもらっている。うがったみかたをすれば、彼らは始めから、問題そのものについては責任回避ができるような形式で、論文を書いているのである。これを「手がかりにして」症候群と呼ぶことにする。
では、彼らに、「カントがその問題についてどう考えているかはよく分かった。ならば、あなた自身はその問題についてどう考えているのですか?」と問うてみよう。しかし私たちは彼らの論文の末尾に、「我々は以上のような根本問題に直面した。それについてはまた次の機会に論じることとし、ここで筆を置きたいと思う」という文字列を発見するに終わるのみである。次の機会はいつ訪れるのであろうか。ひょっとしてこれは、自分の頭で問題そのものに取り組むことを、永遠に先のばしするという宣言文ではないのだろうか。そして、いわゆる学者たちは、これを暗黙のうちに承認しているのではないだろうか。これを私たちは「次の機会に」症候群と呼びたい。
頽落したアカデミズムは、これら三つの症候群を推進する側にまわっていて、私たちにそれを暗黙のうちに強要する。たとえば、三つの症候群にのっとった論文ほど学会誌に載りやすい。そして、敏感な若手研究者たちは、アカデミズムが要求することを察知し、求められるとおりに振舞おうとする。その結果、学会誌は、三つの症候群の見本市と化す。
このような事態に憤慨してアカデミズム批判に走るのはたやすい。しかしその前にやるべきことがたくさんある。すなわち、学問研究とはなにかということを自らに問い、先ず自分自身、三つの症候群から脱却することを試みるべきであろう。何でもアカデミズムのせいにすることは、逆に、自分自身の落度には目をつむって事を済ますことになりかねない。アカデミズムには、ひとりで勝手に立ち直ってもらうことにしよう。そして、立ち直るアカデミズムを、私たちは優しく見守ることにしよう。
こうやって考えてみると、アカデミズムが持っているはずの積極的な意義もまた、明らかになる。つまりそれは、現実に押し流されたり文献に埋もれたりして目が見えなくなってしまうのを防ぐために、方法論的に、現実や文献から回路を遮断した場所を確保しておくことにある。
今、必要なのは、アカデミズムにこれ以上とらわれないこと。そして、特定個人の文献研究一本槍の泥沼からはいだして、むしろ現実が突きつけてくる問題に、倫理学者・哲学者として直面し、それと対決すること。そして、四つの領域のバランスを回復し、倫理学・哲学・思想一般に活気ある生命力をもたらすこと。
そのとき初めて、哲学は「つまらなさ」を脱却し、多くの心ある人々からの共感と支持を得ることができるであろう。