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現代文明学研究:第7号(2005):410-420
知的障害児・者の「主体」援助の陥穽を問う
:ナラティブ・アプローチの批判的考察をもとに
西村愛


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はじめに

 社会福祉基礎構造改革のなかで、「利用者主体」という言葉が頻繁に聞かれるようになった。改革では、利用者が地域生活を送るうえで、サービスを自らで選択し、決定することの重要性を強調している。知的障害児・者の分野においても、それは例外ではない。いかにして、知的障害のある利用者の意思を引き出すのか、利用者の立場にたった支援とは何かが現場で議論されている。最近では、コミュニケーションとしての言葉を持たない自閉症児・者の意思を引き出すのに有効であるとして、ティーチプログラム[1]が注目を集めている。
 筆者は、このような潮流に対して、ある程度意義があると考える一方で、大切なことが議論しつくされないまま、「主体」や「自己決定」の尊重が声高に謳われていることに一種のもどかしさ、苛立ちをおぼえてしまう。「主体」や「自己決定」の尊重の重要性が強調されればされるほど、現実に生活している知的障害児・者が抱える問題が解決されるどころか、益々みえにくくなってしまうと考えるからである。
 知的障害とは、言うまでもなく知的能力に障害があることを意味する。この知的に能力が低いことは、他の障害とは異なり、二重の障害を背負っている。一つ目の障害とは、大脳などのある特定の部分がうまく機能しないことである。これは、他の障害にとっても、部位は異なるものの、同じ意味において障害をもっているといえる。二つ目は、その障害を補うために、自分は他者にどのように援助してほしいかという意思伝達が思考能力、判断能力、伝達能力の不十分さという障害特性ゆえの困難のためにうまくできないという障害である。その結果、他者からの過干渉や過保護から逃れることが難しくなる。つまり、他の障害と決定的に異なる点として、知的能力というまさに知的障害のある彼/彼女らにとって障害のある部分が、障害特性ゆえの困難のみならず、障害を補うはずである他者の援助までもが彼/彼女らの生活を困難にしてしまう恐れがある。しかし、このような二重の障害があるにもかかわらず、知的障害という障害特性を考慮にいれて「そもそも『主体』とは、どのようなことを意味するのか」「我々は『主体尊重』を掲げることによって、知的障害のある彼/彼女らに何を期待し、求めているのか」ということが昨今の議論において、筆者の知る限り触れられてこなかった。それどころか、後述するように、このような問いは今まで立ててこなかっただろうと思われる。社会福祉の分野において、援助者(以下、ワーカーと併記する)は常にクライエントと呼ばれる対象者の味方であると信じて疑いもしてこなかった。「主体」言説を吟味するということは、我々が「主体」ということをどのように捉え、その文脈に何を期待しているかということを意味する。その過程において、多かれ少なかれ、我々は自分たちが無意識のうちに(当たり前である)と思い込んでいる概念を知的障害児・者にも適用し、強要していることに気づくであろう。つまり、援助者は援助場面において、常に味方であるどころか、援助を妨害している張本人かもしれないという事実に直面する。
 本稿では、「自己の語り」に重きをおく「主体」援助のアプローチの一つであるナラティブ・アプローチについて考察していく。ナラティブ・アプローチは、抑圧されている人々が自らのことを語ることにより解放されるアプローチとして、近年心理や福祉の分野で注目されている。同じく「主体」援助のアプローチであるエンパワメント・アプローチやストレングス視点が、援助者がクライエントに働きかけることによるゴールとしての「主体」形成を目指すのに対して、ナラティブはクライエント自身が置かれている立場に気づくことから始まる。つまり、ナラティブ・アプローチは、ゴールとしての「主体」形成ではなく、アプローチそのものがクライエントに「主体」であるよう要請する。そのため、「主体」言説を検証するのに、最も適していると思われる。
 
本論文の構成として、まずナラティブ・アプローチが提唱する被抑圧者の「自己の語り」形成プロセスで求められている「主体」概念や「主体」援助に関わる援助者の役割を明らかにしていく。そして、ナラティブ・アプローチにおける「主体」言説に潜んでいる問題点を知的障害児・者を考慮にいれながら指摘する。そのうえで、「主体」言説が陥っている問題を解決する方途はあるのかということを摸索していきたい。

1.ナラティブ・アプローチにおける「主体」言説

(1)ナラティブ・アプローチとは

 従来のソーシャルワークでは、「成熟した」ワーカーと「未熟な」クライエントというような明らかな権力関係が存在していた。そのような関係において行われる援助では、ワーカーの一方的な指導や指示に陥るきらいがあり、クライエントの語りは重要視されてこなかった。クライエントは、一般的に規範とみなされている「ドミナント・ストーリー(優勢的な物語)」に合うように、自分の生き方を変えていくことが求められていた。しかし、「ドミナント・ストーリー」に違和感を持ちつつ、そのストーリーに合わせて生きていくことは、益々クライエントにとって生きにくさを感じるものとなってしまう。
 一方、ナラティブ・アプローチは、「現実」は人々の日常的なコミュニケーションのなかで不断に構成され、つくられていくという社会構成主義[2]の立場をとる。その特徴の1つは、ストーリーの多様性を求めていくという視点である。木原は、「知と権力とは再帰的な関係であり、権力を有する側の言説や声が結果的には支配的となり、真実とみなされるのに対して、権力を有さないものの言説は周辺に追いやられ、征服され、そして彼らの物語は語られないまま終わってしまう」[3]というHartmanの言葉を引用しながら、これまでの社会福祉の領域で援助する側の論点や物語が主軸となり、援助される側の語りは語られなかったことを指摘する。現実は、権力を有している側のストーリーだけで構成されているのではない。被抑圧者の物語もまた1つの現実を構成している。ナラティブでは、クライエントが抱えている問題は、クライエントが「ドミナント・ストーリー」に適応できないことではなく、クライエントの持っている固有の「オルタナティブ・ストーリー(代替的な物語)」と「ドミナント・ストーリー」との間に生じているズレ[4]と理解されている。「ドミナント・ストーリー」から脱し、「オルタナティブ・ストーリー」を構築するためには、クライエントは自らの物語を打ち立てなければならない。そのため、ナラティブ・アプローチでは、クライエント自身が自らの言葉を語る機会と場所が与えられるよう支援する。クライエントは、自らの思いを言葉にして語ることにより、「ドミナント・ストーリー」に代わる「オルタナティブ・ストーリー」をつくっていく。野口は「オルタナティブ・ストーリー」の重要な点として、「こうして新たに生まれてきたオルタナティブ・ストーリーもまた誰かに語らなければならない」と述べる。「それをたしかに聞き取るひとびとの存在がその新しい物語をより確かなものにする」[5]。また、「オルタナティブ・ストーリー」における自己とは、「個の内部から自然に湧き出て来るものというよりは、さまざまな他者による『あなたは…』の言説を取り入れつつ、言語実践の具体的場面のなかで変形され不断に構成しなおされる[6]。「自己の語り」といえども、他者の承認、言説と大きく関わりをもっている。しかしながら、ナラティブ・アプローチは、これまで聞き届けられなかった人々の声を聞くという点において、クライエントを「主体」としたアプローチとみることができる。それでは、ナラティブ・アプローチにおける援助者の「主体」援助とは、どのようなものなのであろうか。

(2)援助者の役割

 まず、ナラティブ・アプローチにおける援助者とクライエントの関係を明らかにしておく。ナラティブ・アプローチでは、援助者とクライエントとの権力関係を突破するために、対等なポジションに立つことが不可欠な前提であるとしている。援助者は、クライエントの語る物語を専門知によって判断するのではなく、「もっとよく知りたい」「教えてもらう」という無知の姿勢を示すことによって、「未だ語られることのなかった物語」があらわれてくる。とはいうものの、クライエント自身が自己の思いや考えを常に認識できているわけではない。そこで、援助者は、「彼(筆者注:クライエント)自身にもよく見えていないはずの『もうひとつの物語』を発見し、創造すること」[7]の援助を行うことになる。援助者は、クライエントと共に「オルタナティブ・ストーリー」の形成へと立ちあい、つくりあげていく。田垣は、「援助者に必要なのは、長期的な時間軸を設定し、クライエントのライフストーリーのなかに展開されるドミナント・ストーリーからオルタナティブ・ストーリーへの変化プロセスを見極めることである」と述べる。ワーカーの適切な見極めにより、クライエントは、自らの問題解決能力を認識していく[8]。つまり、クライエントが「ドミナント・ストーリー」から抜け出し、独自の「オルタナティブ・ストーリー」を形成するためには、まず援助者は専門知を捨て、クライエントの話に耳を傾ける。そして、クライエントに適切な場面で適切な助言することで、「オルタナティブ・ストーリー」獲得のために取り組んでいく。援助者がこのような姿勢を貫くことで援助者とクライエントは対等になるとするナラティブ・アプローチでは、あくまでもクライエントを「主体」であると捉えている。ここで、1つの疑問が浮上する。それは、いったいナラティブ・アプローチは「オルタナティブ・ストーリー」を構築するプロセスおよび到達点において、どのようなことを「主体」として捉え、クライエントに求めているのかということである。次節では、ナラティブ・アプローチにおける「主体」言説についてみていく。

(3)ナラティブ・アプローチにおける「主体」言説がめざすもの

 ナラティブ・アプローチにおいて、クライエントが「ドミナント・ストーリー」から抜け出すために、自分の言葉で語り、自らの物語を作り出すことに主眼がおかれていることは繰り返し述べた。ここでは、どのようなことが「主体」としてのクライエントに求められているのか整理してみたい。
 野口は、「被抑圧者たちが自前の言語と物語を生み出す必要があること、つまり抑圧を生み出すのと同じ言語レベルで対抗しなければならない」[9]と述べる。木原も、当事者自身が、自らの言葉を語ることによって、無自覚である社会や、援助する側を覚醒させなければならない、[10]と説く。また、その物語は、他者に共感され、共有される必要があることは、既に述べたとおりである。つまり、抑圧されているクライエントが、自らを抑圧している「ドミナント・ストーリー」の存在に気づき、そこから出たいという思いから始まる。問題を認識したクライエントは、自前の言語‐それはドミナントな思考とは異なる‐で、しかも、他者にも理解されうるレベルで語ってこそ、「ドミナント・ストーリー」に打ち勝つことができ、無自覚な社会を気づかせることが可能になる。ここで、まず変化が求められるのは、抑圧している社会のほうではなく、「主体」であるクライエントであることに注目すべきである。抑圧されているクライエントの気づきがあってこそ、抑圧者への行動がおこされるのであり、それまで抑圧する側は無自覚のままいられることを意味している。このような被抑圧者側から一方的にアクションをおこすという図式は多くの問題を含んでいると思われる。次章では、ナラティブ・アプローチが陥っている「主体」言説の問題点について論じていく。

2.ナラティブ・アプローチの陥穽

(1)言葉にならない声にどう応えるか?

 ナラティブ・アプローチは、「自己の語り」を重視する。語りとは、既に言語化されたものであリ、ある程度まとまっていなければならない。そうでなければ、他者にも伝わらず、結局抑圧者を覚醒させることもできない。しかし、このような語りの概念は、本稿のはじめにでも述べたように、障害特性ゆえに、「自分の思いが言葉や文字にしてうまく伝えることができない」「言語としてのコミュニケーション能力が低い」知的障害児・者には、まったく不可能とまでは言えないが、当てはまりにくいと言えるだろう。同様の批判は、三原も木原に対して行っている。三原は、「ナラティブ・モデルが『言葉』を臨床場面において重視するのならば、『言葉』を語る能力の低い、あるいは能力のない重度知的障害者や自閉症者、あるいは痴呆性老人に対して、このモデルではどのような援助を行うのであろうか。つまり、ナラティブ・モデルが『言葉』を重視する限り、『言葉』の能力の低い重度知的障害者、自閉症者や痴呆性老人は直接、介入対象とはならない。これは、過去、伝統的なソーシャルワークが重度知的障害者に対して直接介入を怠ってきたという同じ過ちをナラティブ・モデルは犯そうとしているのである」[11]と言葉を過度に重視するナラティブ・モデルに対して批判を行っている。しかしそれに対して、木原は「『重度の知的障害者』や、『自閉症者』、『痴呆性老人』というコトバこそ、1つの言説であり、そこに『言葉を語る能力の低い』というドミナント・ストーリーが形成されている」と反論する。さらに木原は、「無言、沈黙というのもれっきとした1つのコミュニケーションである」と述べる[12]。確かに、木原の言うように、「重度の知的障害者」や「自閉症者」が必ずしも「言葉を語る能力が低い」ということに直結するわけではない。しかし、彼/彼女らの多くが、コミュニケーションとしての言葉をもたないことも事実として存在する。そのため、他者になかなか理解されがたい現実と木原が批判するような「ドミナント」な見方とは次元が異なるものであると言えよう。また、2つめの反論の非言語的なものもコミュニケーションであるという点については、新たな問題が生じる。無言や沈黙といった非言語的コミュニケーションを、誰が、どのような基準で判断し、その判断が妥当であると決定するのかという問題である。言葉をもたず、それゆえ非言語的な表現というコミュニケーションツールしかもたない人々にとって、それをどのように他者に受けとめられ、解読されるのかということは一種のリスクを背負うことになる。古井は知的障害者の作業所において、援助者が「トイレに行きますか」と何度も声かけをしたにもかかわらず、応答がなかった知的障害のある男性(筆者注:彼は一語文としての意思表示しかできず、発音も不明瞭である)に対して、援助者が嫌がる彼の襟首を引きずってトイレに連れて行った事例を紹介している。彼はトイレに入るのを嫌がり、2階に行こうとしたり、階下に下りようとして拒否の態度を示した。しかし、援助者は彼をトイレに行かせようとし、援助者の髪を引っぱるなどの抵抗をした彼と「ぶつかりあい」をしたという。このことについて、援助者は、「顔色を変えるからこちらの意思を伝えるのをやめることはごまかしてるんじゃないかと思うんです」「彼は不満がたまっていた、怒りを爆発させる必要があった」という意味づけを行っている[13]。この事例が示すように、コミュニケーションとしての言葉をもたない知的障害者の思いや表現がそのまま受けとめられることはほとんどない[14]。それどころか、この知的障害者の無言という拒否の態度は、援助者によって無視や援助者に対する反抗として解釈されている。その一方で、援助者は自身の行為について、「援助者としての意思を伝える必要があった」「彼の不満を爆発させるきっかけを作った」として正当化している。このような援助者の一方的な解釈は、「知的障害者のため」という善意からの援助を装いつつも、知的障害者の意思表明や自己決定等を封じこめるという権力の行使へと簡単に反転する。
 
しかし、このような現状を打破するために、知的障害のある彼/彼女らに対して、我々に分かるような言語方法で意思表示ができるように支援していくことは、援助者側の「他者に一方的に解釈されたり、決められたりすることが嫌ならば、明確な自己表現すべきである」という価値観に基づいているものであり、援助者の価値観で知的障害者を「駆り立て」ることになる。また、この自己表現においても、援助者に理解されうる表現方法、援助者がもっている価値観と同様の表現をした時のみ意思表示したと見なされ、その他の表現、言葉は聞き届けられない可能性もある。
 
このことから、ナラティブ・アプローチが求めている「主体」とは、知的能力があることと密接な関係をもっていると言える。言語化された‐しかも、抑圧者側と同レベルの‐語りを「主体」に求めるナラティブ・アプローチは、「『主体』になりうる被抑圧者」と「『主体』にはなれない被抑圧者」という被抑圧者内部における線引きになる危険性がある。そもそも、ナラティブ・アプローチで重要視されている「主体」や「語り」や「対抗する」という概念そのものが、判断能力に特段の支障がない人々を前提にした概念と同義であるがゆえに、このような既存の概念に則って、知的障害者の「主体」援助をしていくことは困難があると思われる。

(2)援助者はクライエントと対等になりうるか?

 ナラティブ・アプローチでは、援助者はクライエントと対等な立場であるとするが、果たしてそれは可能であろうか。最大の疑問は、クライエントが「オルタナティブ・ストーリー」を形成していく際に、クライエントにはまだ見えていないにもかかわらず、援助者がクライエントの変化のプロセスを見極めたうえで、クライエントが演じることができると援助者が見なした物語を創造していくことが援助者の仕事であるという点である。果たして、クライエント自身が気づいていないものを援助者が発見し教えることで、できあがったストーリーは「オルタナティブ・ストーリー」であると言えるのだろうか。援助者が目の前にいるクライエントと対等な立場にたつということは、クライエントがもつ言語レベル、思考レベル、おかれている状況等を同じくするということである。しかし、実際はこのように援助者とクライエントが同じ状況に立つことはありえず、もはやそれは援助‐被援助の関係ではない。援助において、援助者はクライエントのおかれている状況を冷静かつ迅速に判断する能力が求められており、このことからしても援助者とクライエントが対等な関係を築くことは不可能であると言える。つまり、言語、思考、専門家としての知識すべてにおいて、優位にある援助者がクライエントの変化を見極めて行った助言は、既に援助者自身の「クライエントはこうあるべき」という規範が介在している可能性が高い。特に知的障害者の場合、それが一層顕著になる。
 以下では、援助者の価値観によって、一方的に知的障害者に対する援助が進められている例を提示する。なお、この事例は、2002年11月に宮城県の浅野史朗知事が出した『みやぎ知的障害者施設解体宣言』[15]について、仙台市内に住む知的障害のある子どもをもつ保護者に対して、筆者が独自に行なった聞き取り調査の一部である。事例のA君は、中度の知的障害があり、日常生活における会話はほぼ理解できるが、A君自身は2語文程度の言葉しか話せない。現在、母親と2人暮らしをしており、日中は知的障害者通所授産施設(以下では、通称である作業所を使用する)へ自力で通っている。

A君(32歳)は、宮城県のある知的障害者通所授産施設に通う青年である。A君の母親は昨年の夏に病気で倒れたことから、A君の自立に向けての準備をしなければならないと認識しはじめたと語る。そこで、母親は、A君に母親である自分はA君よりも長生きしないかもしれない可能性やそのためにはA君は親元から離れて暮らす練習が必要であることを伝えたと言う。A君は、グループホームについても理解しており、「分かった」と答えたそうである。そこで、A君の母親は作業所の職員にグループホームに向けての練習をさせる意向を伝えた。しかし、それからA君に対する職員の評価が厳しくなり、親との連絡のための連絡帳にも「今日は自分の意見をはっきり答えることができませんでした」「共同作業が苦手で時間がかかった」等の否定的な評価が並ぶようになった。同時期からA君は、作業所に行くのを嫌がるようになり、「休みたい」と言ったり、出かける用意が遅くなり、昼ごろに作業所に出かけるようになった。それに対して、作業所側では益々「やる気がない」と評価が低くなる一方であった。母親が連絡帳の評価や日々の指導について作業所の職員に尋ねると、「自立するためには、いろいろな条件があり、それをクリアーしてもらわないと困る」「A君にがんばってほしいから、敢えて厳しくしているのだ」という答えが返ってきた。

事例では、職員がもつ知的障害者が自立するための条件として「はっきり意見を述べる」「他人と協調して手早く行なう」ことがある。職員のもつこれらの基準で測られることによって、A君が作業所に通うことが辛くなり、拒否や遅刻という形で意思表示したことに対して、A君に対して「やる気がない」と否定的な評価をしている。先の事例やこの事例から分かるように、知的障害者と援助者との間には非対称の関係がある。しかし、繰り返し述べたように、知的障害という障害が「他人に自分の考えや怒り、悲しみの感情も含めた自己表現をすることが苦手」とする障害特性ゆえに、援助者の援助という名のもとの暴力や権力の行使に対して、理路整然と反論することができないため、このような行為が改められることはほとんどない。その結果、知的障害者は、援助者のもつ価値観に合わせるように「駆り立て」られるか、だまって援助者に従うことになる。
 マーゴリンは、クライエントが「本当の自分になり、本当に自分がしたいことをするためには、他人の定義や解釈や処方箋を受けいれなければならない」[16]という前提があるとソーシャルワークのあり方を批判的に述べている。つまり、マーゴリンの言を借りるならば、「ドミナント・ストーリー」から自由になるためには、援助者が提示する新たな定義や解釈を受け入れなければならないということになる。
 クライエント自身がつくりあげていくはずのストーリーに、他者がクライエントを見極めて、クライエントにそれを伝え、「オルタナティブ・ストーリー」に仕上げるよう要請していく。これを「ドミナント・ストーリー」以外に、どのようなストーリーと呼ぶことができるのであろうか。そもそも、「ドミナント・ストーリー」に染まっていない「オルタナティブ・ストーリー」を編みだすことは可能なのだろうか。

(3)無自覚な抑圧者と「客体化」されるクライエント

 ナラティブ・アプローチは、被抑圧者の自覚から始まることは先述した。それは、言い換えれば、クライエント自身から抑圧者への突きつけやうながしがない限り、抑圧者は無自覚でいられるということを意味する。しかも、抑圧者に理解されるように、同レベルの言語で対抗しなければならない。同レベルの言語か、理解できうる言語なのかという判断は抑圧者に委ねられる。常に変化が求められているのは、クライエントのほうであり、「『主体』でありたければ、既存の言説を基盤とした『主体』とみなされるための条件を満たさなければならない」ということになる。つまりそれは、「主体」を掲げつつも、常に抑圧する側が基準となっている点において、クライエントは「客体化」された存在であると言えるだろう。
 児島は、障害者が「責任は自分でとる、だから自己決定させよ」と自己決定を求めた結果、決められることイコール行為結果に責任がもてる人間であることの証明になり、「自己決定できなければ」「責任がとれなければ」という一種の「駆り立て」が生まれることになった[17]、と述べる。ナラティブ・アプローチも遅かれ早かれ同様の問題が噴出してくると思われる。「主体」として認めてほしいという当たり前の思いが、抑圧者側の「主体」言説に取り込まれ、クライエントは「既存の『主体』の条件を満たさなければならない」という思いに「駆り立て」られ、翻弄されていくであろう。しかし、抑圧者側が作り出した既存の枠組み内の語法は、自己責任を伴う自己決定概念に障害者が当惑したように、ドミナントな思考に満ちている。そのような状況の中で、新しい物語を生み出すことは、ほとんど不可能に近い。
 それでは、クライエントはただ援助者に「主体」とみなされるように努力するか、だまって無抵抗でいるしかないのであろうか。既存の枠組みから抜け出し、抑圧状態から解放される手立てはあるのだろうか。

3.言語と「主体」のアポリア

 前節で指摘した3つの問題の共通点は、援助者のもつ既存の価値観が常に介在しており、その価値観によってクライエントの決定や言語の解釈がなされているということであった。既存の価値観にとどまっているかぎり、被抑圧という状態が好転することはない。抑圧されている状態から解放されるためには、新たな言語を生み出さなければならない。それは、被抑圧者にとっての「主体」を獲得するための言語を手に入れることを意味する。このような言語と「主体」の問題については、フェミニズムが長い間思弁を深めてきた。男性中心的なものの見方、考え方から解き放たれ、「女として」の権利の獲得に努めてきたフェミニズムの思想は、同じく差別からの解放と権利獲得運動をしてきた障害者のそれと驚くほど酷似している。ここでは、フェミニズムが言語と「主体」について、どのような問いをたて、どのような解決法を見いだしてきたのかを検討することによって、本稿の解決の糸口としたい。

(1) 「新たな言語」を生み出すということ

 あらゆる文脈は、男性の書き手、男性の主人公、男性の読者という男性中心的に構成されている。そのため、何かを書こう、読もうとする人は、常に男性中心主義的な見方を強いられることになる。女性であろうとも、幼少期から培われてきた男性中心的なものの見方、考え方によって、自らの経験を解釈し表現しているとすれば、その人は男性的思考法によって考え、書き記していることになる。そのような女性が改めて「女として」読み、書くことは可能であろうか。ショシャーナ・フェルマンはこのような問題の困難さについて、次のように書いている。「『我々の内に埋め込まれている男性的精神を追い払う』ことが必要であることは私も認めているし、この主張を推奨したいとも思っている。しかし、そうは言っても、私たち自身、男性的な精神をすでに内包していて、社会に送り出されるときには、知らず知らずのうちに『男として読む』ように訓練されてしまっているのではあるまいか?テクストを支配しているのは男性主人公なので、その男性中心的な見方に自己を同一化するようにと、私たちは思い込まされて来たのである。こんな状態で、男性的精神を追い払えと言われても、一体どこからそれを追い出せと言うのだろうか?」[18]
 「女としての読み」を確立するということは、新たな言語を生み出すということである。しかも、それは既存の言語を使わずに、生み出さなければならない。しかし、そうはいっても「女としての読み」を生み出す思考自体が、既存の言語に依拠している。このような難問に対して、フェルマンは「新しい物語を書く決心をしたところで、言語の外側に立ってたやすくできるものではない」[19]と答える。その一方で、読みつつある彼女自身の中で機能している男性主義的な言語を振り返り、批判していくことが新たな可能性をひらくとフェルマンは言う。しかし、既に馴染みがあり、使用している言語、思考法を客観視することは、新たな「別の言語」を使って語ることになるのであろうか。この問いに対して、フェルマンは可能であると答える。「読むという行為は、テクスト内に自分が期待していなかったことを見出してしまうという危険をともなう行為であり、読者としてはその危険に抵抗せずにはいられないのである。自分自身のイデオロギーや先入観に固執するあまり読むことにたいして抵抗するということは、どんな場合でも起こり得る」[20]。無自覚に「男として」読んでいる読み手が、「自らに読むことを禁じているもの」をあえて明確にすること、これが「女としての読み」の始点となる。今、読みつつある私自身が必死に目を逸らしているものは何なのか、私は何を見、知ってしまうことに対して恐れ避けているのかということを前景化すること、これがフェルマンにとっての「女としての読み」ということになるだろう。それは、言い換えれば、自らが属している枠組みを外観し、使用している言語、語法について反省的に考察することを意味している。

(2)自明の概念を問い直す

 話をナラティブ・アプローチの言語と「主体」の問題に戻そう。「いったい自分たちはどのようなフレームワークにとらわれているのか」というフェルマンの反省的思考は、ナラティブ・アプローチが抱えている問題を解決するうえで大いに参考になる。既存の概念の中で思考し、言葉や文字にして表すことが当たり前と考えている我々にとって、枠組みからはみ出る言葉を読み取る方法を知らない。そもそも、既存の枠組みの外にいる者が存在することすら、知らない可能性もある。まずは、自らの属している枠組みを意識化し、どのような思考や語法にとらわれているかということに注意を向ける必要がある。ただし、フェルマンの内省的読みの対象者をナラティブ・アプローチのクライエントにそのまま当てはめることは危険である。なぜなら、フェルマンの主張は、被抑圧者自身が使用している言語に対して内省的に考察することであった。被抑圧者側のみが考察を行うことの危険性については前節で既に指摘したとおりである。筆者は、ナラティブ・アプローチにおいて、内省的読みをすべき対象者はワーカーとクライエントの両者であると考える。抑圧しているにもかかわらず、対等な立場を標榜している人々、つまりワーカーこそ自らの思考や言語を反省的に振り返る必要がある。そこで、ワーカーはクライエントのためと言いつつも、自分の価値観に従うように強制していることを自覚することになる。
 
さらに、クライエントを二者に分けて考える。前者は、自己決定や「主体」性の尊重を既存の枠組みの中で主張していることに気づいていないクライエントである。後者は、知的障害者や自閉症者のような表現や思考方法が往々にして我々と異なるため、理解されがたいクライエントである。互いに被抑圧状況におかれているものの、既存の思考法の枠組み内にいるか、外にいるかという区分において両者は大きな違いがある。フェルマンの内省的読みが適用できるのは、前者のほうである。自分たちが必死になって編み出したと思っている物語は、実は既存の枠組み内の思考にすぎない。そして、その枠組み内の思考を選び取ることは「枠組みの外にいる人と自分は異なっているのだ」という新たな排除を生みだしているという自覚をしていくことが、フェルマンのいう内省的読みであると考える。この反省的思考は、従来のソーシャルワークにおけるワーカーの権力性を批判しているナラティブ・アプローチの言説、思考法もまた批判している当のイデオロギーに固有の言葉づかいをしていることに気づくことができる。そのような気づきは、「既存の枠組みとは、どのようなものであり、我々は何を見落とし、見誤るように仕組まれているのか」「そのような枠組みから抜け出すためには、どうすればいいのか」という言語と「主体」が抱える問題の始点に立つことができる。

(3)「立ちどまる」「立ち尽くす」ことの有用性

 前節では、既存の概念を外から批判していくのではなく、自らの語法、思考法を内省することが、既存の枠組みの外にいる者に意識を向けることができることを述べてきた。ここでは、その先をどのようにすればいいのかを知的障害児・者の援助という当初の問題意識に立ち返って考えてみたい。
 前項でも指摘したように、我々は自らの考えや思いを他者に伝える時、文字や言葉にして伝えることを当然のように考えている。そのような認識にあっては、我々に伝わるような手段を持たない知的障害児・者の援助は困難を極める。彼/彼女らは何をしたいのか、なぜパニック[21]になっているのか援助者には分からない。分からなさの前に援助者は必死になって解答を求める。これまでのソーシャルワークにおいて、解答のない援助、立ち尽くす援助は援助者の力量のなさゆえであるとされていた。援助者は、明確な援助方法を知っていなければならず、「分からない」ことは許されなかった。しかし、彼/彼女らの抱えている困難を解決するために、ある一定の解答を出すということは、皮肉にも思いや考えを言葉や文章にして書くことのできる我々の概念内の考え方であり、言葉をもたない彼/彼女らの立場にたった援助とは言いがたかった。そのような難題があるにもかかわらず、知的障害分野におけるソーシャルワークでは、それを不問にしたまま援助者主導のもとに援助が推し進められてきた。知的障害児・者の援助において、一定の解答を求めることは、実は知的障害のある人の為ではなく、援助者が自らの援助の正しさを確認し安心するためのものではないかと思われる。本稿でとりあげた2事例においても、知的障害者の多様性に目を向けずに、援助者自らの行為・規範の意味づけを優先させていることからもそれが明らかである。
 尾崎は、対人援助において「いかに援助すべきかの答えはつねに多様であり、そのためにどのように関われば良いかの答えが最初から明瞭であることはない。このような意味で、社会福祉は『ゆらぎ』に直面することから出発する実践である」[22]と言う。ただ、この「ゆらぎ」は援助者がクライエントから疑問や不満をぶつけられて、自らの実践にゆらぐ場面を想定している。つまり、クライエントが不平不満をぶつけることがなければ、援助者は自らの実践にゆらぐことがない。知的障害分野において、援助者は常にクライエントよりも優位な立場にあり、援助者は自らの実践にゆらぐことはほとんどなかった。ゆらぎのない援助は、「あなたの為ですよ」というパターナリズムを推し進めることによって、次第に権力装置を作動させていく。
 知的障害児・者の援助において、援助者が目を背けようとしているもの、知ろうとしていないものは何であろうか。それは、知的障害当事者の意思表明や自己決定を認めずに、援助者自身の考えを結果として押しつけてしまったという事実である。そして、それは決して過去のものではなく、今日ノーマライゼーションや自己決定を尊重した援助が展開されていると思われているにもかかわらず、結果としての押しつけは続いているということである。このような問題を打開するためには、まず「私は良き援助者どころか、知的障害のある当事者を『主体』として見なしていない」という事実を認識し自覚していくことが不可欠であると思われる。このように自らの差別性や暴力の行使を内省したところで、知的障害児・者と対等な関係になるわけでもなく、彼らの意思を引き出せるような簡単な支援方法が見つかるわけではない。しかし、このような援助者自らの自覚や反省を抜きに知的障害児・者の「主体」支援をしていくことは不可能である。知的障害児・者の「主体」支援において重要なことは、援助者は自らの権力性を自覚したうえで、援助の分からなさ、もどかしさを認識し、援助のあり方を問うていくことである。その問い続けていく過程のなかで、既存の概念の枠組みを取り壊すために、「そもそも『主体』支援とはどのようなことを意味するのか」という新たな難題に突き当たることになる。内田は、分からないものを分からないままおいておくことの重要性を説いている。我々の世界には根源的難問が存在し、正解がない問いが存在する。根源的難問とは、この世界にある限り、誰もそれに答えることができない問い、しかし、それに答えることができないという事実が、この世の中に何か「善きもの」を生成しているような問いのことである。そして、そのような根源的難問について、正解を無理に出すよりも、「ここに難問あり」と難問の下にアンダーラインを引くことが大切であるとする[23]
 
本稿で論じてきた「まだ生成していない言葉にどのように応えるか」「既存の枠組みを超えていくためにはどうすればいいか」というような言語と「主体」の問題も根源的難問の1つであると思われる。そこには正解がない。そもそも、正解というものがどのようなものであるのか分からない。しかし、分からないが、その「分からなさ」は見過ごしてはならない重要性を含んでいる。知的障害児・者のソーシャルワークにおいても同じことが言える。知的障害児・者のソーシャルワークで重要なことは、この「分からなさ」を前にして援助者は援助の分からなさ、もどかしさを認識することであると思われる。しかし、その難題は援助者自身がどれだけ既存の概念にとらわれているのかという自己認識から、枠組みの外へと目を向ける新たな可能性を秘めている。それは、既存の枠組みの外にいる人たちの言葉にならない声を聞き取ろうという姿勢につながる。

おわりに

 以上、ナラティブ・アプローチに批判的考察を加えることによって、言語と「主体」の問題を考察してきた。本稿で繰り返し述べたように、言葉としてのコミュニケーション手段をもたない知的障害児・者が多く存在し、それゆえ援助者に誤解されたり、言いなりになっている現状も少なくない。にもかかわらず、「主体性」や自己決定の尊重など聞こえのよい言葉のみが先行し、掲げられていることに不安と不満があった。本稿の結論で出したような「援助者自身が権力性を自覚し、立ちどまる、立ち尽くすことの有用性」は、おそらくソーシャルワークでは受け容れられることは難しいであろう。援助者の援助は決して悪意からではなく善意から出た行為だからである。しかし、このような善意こそが知的障害児・者の意思表明や自己決定を封じる暴力へと転化する恐れがあり、そのことは知的障害のある彼/彼女らが抱えている援助者に「分かってもらえない苛立ち、もどかしさ」を益々募らせるだけにすぎない。また、言葉をもつ知的障害児・者にも対しても、既存の枠組み内で語るよう「駆り立て」ていく危険性もある。そうではなく、知的障害という障害特性を考慮して、「我々援助者は、何にとらわれており、何を見よう、知ろうとしていないのか」という否定的な問いを自らに課し、「まだ言葉になっていない思いは、既存の枠組みとは異なる次元においてどのように解釈すればいいのか」という問いを立て、終わりなき考究をしていくことが安易な答えを求めるよりも有用であると思われる。

 

[1] ティーチプログラムとは、自閉症及び関連領域のコミュニケーションに障害をもつ子どもの治療と教育として、E.ショプラーによって開発されたプログラムであり、コミュニケーション手段として、主に絵カードが使用されている。

[2] 木原活信「ソーシャルワーク実践への歴史研究の一視角‐『自分のなかに歴史をよむ』こととナラティブ的可能性をめぐって‐」『ソーシャルワーク研究』vol.29,4(2004):17

[3] 同上:16

[4] 野口裕二「構成主義アプローチ:ポストモダン・ソーシャルワークの可能性」『ソーシャルワーク研究』vol.21,No.3(1995):30

[5] 野口裕二(2002)『物語としてのケアーナラティブ・アプローチの世界へ』医学書院:82

[6] 野口(1995):29

[7] 野口(1995):30

[8] 田垣正晋「ソーシャルワークにおける中途障害者のストーリー構成の意義‐脊髄損傷者の事例から‐」『ソーシャルワーク研究』Vol.27,2(2001):40

[9] 野口(1995):29

[10] 木原(2004):18

[11] 三原博光・木原活信(2000)「観測、測定をめぐる論争‐行動主義理論と社会構成主義」加茂陽編『ソーシャルワークを学ぶ人のために』世界思想社:244-245

[12] 同上,250-251

[13] 古井克憲(2004)「重度の知的障害者に対する支援の内実を研究・調査する際の諸課題‐私のフィールドワークの経験から」『社会問題研究』第54巻第1号:29-32

[14] 古井の事例に登場したような強度行動障害をもつ知的障害者がその典型として挙げられる。彼/彼女らの多くは、コミュニケーションとしての言葉を持たず、自らの気持ちを自傷行為、他害行為、固執的なこだわりという形で表出する。しかし、他者に伝わらないことが多く、それゆえ、その行為は益々エスカレートしたものとして表現される。このような行為に対して、「なぜ、彼/彼女らはこのような行為をとるのか」という議論はあまりなされず、パニックであると解釈され、問題行動として位置づけられることのほうが多い。

[15] 『みやぎ知的障害者施設解体宣言』とは、2002年11月に宮城県の浅野史朗知事によって出された「県内にある知的障害者入所施設の入所者全員を2010年までに地域生活に移行させる」という入所施設の解体を目指した宣言である。同宣言では、「適切な支援措置さえあれば、重度の障害を持った人たちであっても、地域での生活を送ることができること、そして、それが知的障害者の生活を豊かなものにする」と脱施設の重要性を説いている。施設生活から地域生活へと段階的に移す意向を示す都道府県が多いなかで、具体的な期間を提示している同宣言は先駆的取り組みであるとして注目されている。

[16] レスリー・マーゴリン著/中河伸俊・上野加代子・足立佳美訳(2003)『ソーシャルワークの社会的構築;優しさの名のもとに』明石書店:280

[17]児島亜紀子(2002)「誰が『自己決定』するのか」古川孝順・岩崎晋也・稲沢公一・児島亜紀子『援助するということ』有斐閣:211-212

[18] S.フェルマン/下河辺美知子訳(1998)『女が読むとき女が書くとき‐自伝的新フェミニズム批評』勁草書房:8

[19] 同上,257

[20] 同上,9

[21] パニックという解釈もまた、既存の枠組み内における解釈であると言える。一般的にパニックは他者に伝えたいことが伝わらないゆえに、おこるものであり、知的障害者や自閉症本人にはきちんとした理由がある。

[22]尾崎新編(1999)『「ゆらぐ」ことのできる力‐ゆらぎと社会福祉実践』誠信書房:E

[23]内田樹(2002)『女は何を欲望するか?』径書房:35