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現代文明学研究:第5号(2002):360-371
准看護婦問題の現在

村上友一


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奴隷たちはその鎖のなかですべてを失ってしまう。
そこから逃れたいという欲望までも。(J・J・ルソー)

 

1 准看護婦問題とは何か

 准看護婦制度は1951年に創設された[1]。当時、女子の高校進学率は37%であり、高卒を前提とする看護婦養成制度では看護職員の供給が追いつかず、高卒を前提としない中卒で取得できる看護婦資格が必要とされたからである。しかし、この制度には幾つかの問題点が早くから指摘されている[2]。たとえば、准看護婦も看護婦とほぼ同じ業務を行っているのに、給与や人事の面で差別されるという「准看護婦差別」の問題がある[3]

 52歳、准看護婦:若い看護婦は3、4年勤めて24〜25万円もらえるのに、[准看護婦は]34年働き続けても24万円。

 パート勤務の准看護婦:月の休みが看護婦8回、准看護婦6回では、どう考えても差別されている。定時の就業時間で帰れるのは看護婦で、准看護婦はすべて片づくまで帰れない。

 大学病院に勤務して20年の准看護婦:「[准看護婦は]婦長、主任のリーダーシップはとれません。[准看護婦と看護婦とでは]賃金に差はありますが、仕事の内容には何の区別もありません」と言われて就業した。実際、仕事の内容は何の区別もなく、それなりに充実していた[4]

 40歳代、看護婦、精神科病院勤務:看護婦の配置は准看護婦で占められ、看護婦は1〜2名の状態。(…)准看護婦集団に押し切られ、看護行為も、[准看護婦は]資格・給料の格差を理由にやろうとせず、逆に看護婦がやらされている状態[5]

 また、准看護婦養成所の多くが体質面で大きな問題を抱えている。たとえば、所属の学生たちに特定の医療機関での就労を強制する「就労義務」の問題や、奨学金の借用を強制し、それを鎖として卒業後も特定の医療機関での就労を強制する「お礼奉公」の問題などがある。

  就労義務

 24歳、准看護婦:准看護婦学校時代の状況は朝7時45分から11時45分までと、午後6時から夜7時半までが病院勤務。その間の午後1時から夕方までが学校。夜勤は午後7時半から翌日の午前11時45分前までで、こういうことが月に8、9回あった。

 准看学生の母親:朝の6時半から午後の学校へ行く時間までと、学校から帰った夕方から9時ないし11時まで働いています。夜勤もあります。しかも一人夜勤のときもあります。医師から注射もするように言われます[6]。やめたいと言うと、何百万円払えと言われます。

  お礼奉公

 21歳、准看学生(2年生):入学前は奨学金を必ずもらわなければならないという話ではなかった。しかし、入学したら必ずもらう決まりだと言われた。

 進学課程に在籍する准看護婦(1年生):奨学金だって、いらないのに無理やり「貸してやる」と言われた。もちろん、やめるときは全額返すことになっている。

 また、就労を前提した養成制度では、教育内容も不充分なものにならざるをえない。そこから「准看護婦の質」という問題が生じてくるのは当然である[7]

 旧厚生省では、「看護制度検討会」(1987年)、「少子・高齢社会看護問題検討会」(1994年)等において、これらの問題を検討してきた[8]。しかし、看護職員の不足という事情もあり、その問題性は認めつつも、思い切った結論を出すことはできずにいた。これに対して、1996年の「准看護婦問題検討調査会」(以下、「検討調査会」と略記)では、これらの問題について初めて実態調査がなされ、「21世紀初頭の早い段階を目途に、看護婦養成制度の統合に努めること」が提言された(報告書、68頁)。

 こうした経緯にも拘わらず、この問題を語ることの意義は、現在においても失われていないように思われる。もちろん、問題が依然として解決されていないということもある。しかし、いっそう深刻に思われるのは、検討調査会を機縁として問題が変質したように思われることである。1987年の看護制度検討会の時点では、問題は准看護婦および准看学生の惨状にあったはずである。しかし、検討調査会の中心的論点は、少子・高齢化社会における看護職員の確保であって、准看護婦および准看学生の待遇改善ではない。看護職員を確保するためには、職場環境を改善しておかねばならない。つまり、「准看護婦差別」のような問題は、あらかじめ解決しておかねばならないというわけである。そこから、看護婦養成制度の統合という解決策が浮上してくる。しかし、検討調査会以降の議論においては、この職場環境の改善という目的が、いつのまにか「看護の質」の向上という目的にすり替えられてしまっているように思われる。すなわち、「看護の質」を向上させる必要があり、そのためには准看護婦制度が廃止されるべきであるというわけである。この奇妙な問題のすり替えが、検討調査会以降の准看護婦問題をより複雑にしていると思われる。

 以下では、まず検討調査会以降の二つの動向を追跡することによって現状の把握に努めよう。その上で、看護婦養成制度の統合という検討調査会の基本方針を批判的に検討しつつ、問題の解決策を模索することにしよう。

2 検討調査会以後の動向(1)── 「就労義務」と「お礼奉公」

 検討調査会が「直ちに改善が必要な事項」とする准看護婦養成所の教育環境から始めよう(報告書、64-6頁)。准看護婦養成所の問題は他にもありうるが、直ちに改善が必要とされているのは、准看学生の「就労義務」や「お礼奉公」である。さすがに、この問題に対する各省庁の対応は迅速であった。1997年3月には、「保健婦助産婦看護婦学校養成所指定規則」に以下の一文が付加され、同年4月1日には施行された(平成九年文部省・厚生省令第1号)。

「特定の医療機関に勤務する又は勤務していることを入学又は入所の条件とするなど学生若しくは生徒又はこれになろうとする者が特定の医療機関に勤務しない又は勤務していないことを理由に不利益な取扱いをしないこと」。

 しかし、この迅速な対応にも拘わらず、養成機関から直ちに「就労義務」や「お礼奉公」が消えたわけではない。日本医療労働組合連合会(以下、「日本医労連」と略記)が1997年秋に実施した調査では、「就労義務」は1995年の調査結果に比べて1/3に減少したが、実際の就労率に変化はなく、違法業務への従事にも変化は見られなかったという[9]。確かに、形式的には「就労義務」を撤廃したとしても、それを実質において維持することは可能である。実際、この調査から更に5年が経過しているが、ある准看護婦の語るところでは、依然として「就労義務」は存在しており、ひどい場合には、「就労拒否から退学に追い込まれることさえある」そうである[10]

 ここに少なくとも二つの問題を見出すことができる。一つは言うまでもなく指定規則が形骸化していることであり、もう一つはこの准看学生が「就労義務」の違法性を知らなかった思われることである[11]。検討調査会では、高校教諭からのヒアリングによって、学生や進路指導教諭が准看護婦養成所の実態について無知であることを明らかにしていた(第四回議事要旨、78-9頁参照)。これを受けて、「進路指導用のパンフレットの作成や進路相談窓口の開設等の事業に取り組むとともに、生徒や進路指導担当者に対する効果ある進路指導説明を行う」とされていたが(報告書、66頁)、これが不充分だったわけである[12]。もちろん、こうした学生たちの無知は、それ自体としても問題ではある。しかし、それが指定規則の形骸化を成立させる温床であるがゆえに、いっそう問題であると言わねばならない。

 実際、指定規則が形骸化しているとすれば、平成九年文部省・厚生省令第1号は迅速なだけで、まったく無意味な対応であったといわねばならない。この点では「お礼奉公」に関しても事情は同じである。確かに、既述の医労連調査では、「お礼奉公」も一応は減少の傾向を見せている。しかし、それは学校が特定の医療機関への勤務を課さなくなったにすぎない。井上久によれば、「厚生省や社会的批判の中で、明確な義務づけはできにくくなったものの、多くの学校が特定病院・団体の系列であるため、病院を使って進学を規制し、働かせるという手法が表面化してきた」という[13]。「お礼奉公」を支えるこの構造は、同時に「就労義務」をも支えるものであると思われる。というのも、公立系の医療機関に就業する准看護婦は、准看護婦の就労人口の1割に満たず[14]、この「特定病院・団体」が准看護婦たちの主な雇用先だからである。雇用先が経営する学校に所属しているとき、たとえ「就労義務」の違法性を知っていたとしても、学校経営者の意向に反して医療機関への就労を拒否するのは容易ではないだろう。

 確かに、最近の准看学生は高卒者が中心であるから、彼女たちには准看護婦として就労せずに直ちに二年課程(進学コース)に進学し、看護婦資格を取得してから就労するという方法はある(中卒者の場合には、3年間の就労経験が進学のために必要となる)。しかし、そうした計画を立てて、学校経営者に反旗を翻すとすれば、それは無謀な賭けであると言わねばならない。二年課程は狭き門であり、准看護婦養成所から直ちに二年課程に進学できた人間は2000年度で37%にすぎない[15]。それを考えると、唯々諾々と就労しておいたほうが賢明、ということにもなってしまう。しかも、二年課程の多くもまた「特定病院・団体」の経営であり、「就労義務」や「お礼奉公」とは無縁の別天地というわけではない。

 実際、規則の改正にも拘わらず、「就労義務」や「お礼奉公」が維持される背景に、地域医療における看護職員の不足という事態があることは否めない[16]。また、旧厚生省がこうした事態を放置してきたために、地方都市においては必然的に准看護婦養成機関と雇用先との一体化という現象が生じてくる。ここに、「就労義務」や「お礼奉公」の維持される温床ができあがる。確かに、地域医療は維持されねばならないが、それが准看学生や准看護婦を犠牲にしてもよい理由になるわけではない。解決されねばならないのは「どちらか」ではなく「どちらも」である。地域医療を維持しつつ、「就労義務」や「お礼奉公」が撤廃されるのでなければならない。そのためには、養成所の指定規則を改正するだけではなく、改正された規則が適切に運用できるように、地域医療における看護職員の確保のための政策が採られなければならない。

3  検討調査会以後の動向(2)── 二つの検討会

 検討調査会の報告を受けて、1998年3月に旧厚生省は二つの検討会を設置した[17]。一つは「看護婦養成の資質の向上に関する検討会」であり、これは「地域医療の確保と看護の質の向上を図る観点から、まず、准看護婦養成の質的向上のための検討から行う」[18]ことを意図したものである。1999年6月にまとめられた報告では、カリキュラムの改正・増加と、専任教員の増員が提言され、この提言は平成十一年文部省・厚生省令第五号「保健婦助産婦看護婦学校養成所指定規則の一部を改正する省令」によって同年12月に法制化された。

 もう一つは「准看護婦の移行教育に関する検討会」であり、その目的は「看護職員の資質向上」と「就業経験の長い准看護婦が希望している看護婦への道を広げる」ことにあった[19]。実際、二年課程(進学コース)の定員は余りに少なく、「看護婦になりたい」という准看護婦たちの希望を叶えるには、余りにも不充分であったといえる。この検討会では、就業を前提とした移行教育を考案すべく討議が交わされ、1999年4月の報告では以下の方針が得られている。(1)准看護婦としての就業経験が十年以上の希望者を対象とする。(2)実施は五年間の時限措置である。(3)理論学習は放送大学を活用し、技術学習は移行教育所を設置して行う。(4)この教育を受けることによって、看護婦国家試験の受験資格が与えられる[20]。審議では準備に必要される期間は「1年半」から「2年」と見積もられていたが[21]、依然として実施されていない。

 以上を概観しただけでも、直ちに二つの変化に気づく。第一に、看護婦養成制度の統合という検討調査会の基本方針が棚上げにされていること、第二に、もはや主要な論点は准看護婦問題の解決というよりは、むしろ「看護の質」の向上になっているように思われることである。実際、准看護婦養成制度の廃止が決定事項であるとすれば、准看護婦養成の質的向上を議論する必要はない。それにも拘わらず、こうした展開に至った原因の一つは、日本医師会が准看護婦の「安易な養成停止は地域医療の崩壊と混乱に繋がる」として、強く抵抗していることにある。日本医師会によれば、看護婦養成制度の統合は、あくまで「提言」に過ぎないのであって、「実施」は今後の課題として残されたままである[22]。かくて、医師会主体の准看護婦養成制度は存続し、依然として年間1万人を越える准看護婦が新たに就労している[23]。確かに、こうした状況のなかで、いつまでも存続か撤廃かという論争だけを続けるわけにもいかない。「看護の質」を向上させるためにも、この論争を回避して、とりあえず実務的な検討に入ろうというのが、旧厚生省の意図であった[24]

 しかし、看護婦養成制度の統合という検討調査会の基本方針がなぜ生じてきたかを考えるならば、これは奇妙な話であると思われる。検討調査会の設置は「少子・高齢社会看護問題検討会」報告書に端を発しており(第一回議事要旨、74頁参照)、旧厚生省の主眼は少子・高齢化社会における看護職員の確保にあった。そのためにも、「魅力ある看護職員の養成課程に変革していく必要」があったが(報告書、67頁)、准看護婦制度はその障害となるものであった。医師−看護婦差別や看護婦−准看護婦差別のゆえに、准看護婦は「プライドを持って仕事をすることが難しい資格制度」だったからである(同上、64頁)[25]。とりあえず、看護婦−准看護婦差別をなくそうにも、この時点で40万人が就労している准看護婦制度を直ちに廃止することはできない。そこで、将来における制度統一を見据えて、准看護婦養成制度の廃止を提言した。そうではなかったろうか。しかし、少子・高齢化社会における看護職員の確保という当初の目的に対して、准看護婦養成所の指定基準の改正が有効でないのは明らかである。いくら准看護婦養成所の教育水準を上げたとしても、「准看護婦差別」が依然として残っているのであれば、誰も自ら進んで准看護婦になろうとはしないであろう。

 なぜ、こんな奇妙な展開を見せたのか。その原因を日本医師会の抵抗にのみ帰することはできないと思われる。同時に、なぜ准看護婦問題から「看護の質」の問題へと論点が変わってしまったのか問わねばならない。おそらく、そのもう一つの理由は日本看護協会の戦略変更に求められると思われる。実際、検討調査会が看護婦養成制度の統合を提言したとき、元・日本看護協会会長の大森文子は次のような謝辞を述べていた。

「全国的にマスコミ各社が、看護職の質を上げるためのキャンペーンを、利用者サイドからの求めとして世論を喚起されたことに感謝する[26]

 確かに、看護婦たちの痛みは私たちの痛みではない。その意味で、准看護婦問題は看護婦たちの問題であって〈みんなの問題〉ではない(第1節で注記したように、「准看護婦差別」によって不利益を被りうるのは准看護婦だけではない)。これに対して、「看護の質」の向上は、看護婦たちだけの問題ではなく〈みんなの問題〉である。准看護婦制度の廃止を「看護の質」の向上にリンクさせることは、戦略的には有効であったといえる。「看護の質を向上させるためにも准看護婦制度は廃止されるべきである」。この言説が説得力をもつことによって、准看護婦問題は特定の諸個人の問題から社会全体の問題へと位相を変えてゆく。かくて、世論を後ろ盾として1996年の提言が実現することになる。

 しかし、これでよかったのだろうか。准看護婦問題は社会問題へと位相を変えてゆくことで、空中分解してしまったように思われる。それは、二つの検討会の主要な論点がもはや准看護婦問題の解決ではなく、「看護の質」の向上になっていることからも明らかである。しかし、この空中分解の咎は戦略を変更した日本看護協会ではなく、それに便乗した旧厚生省にあると思われる。この点を示すために、いま一度、1996年時点での旧厚生省の論理を確認しておく。

(1)少子・高齢化社会において看護職員を確保せねばならない。

そのためには、(2)看護職の職場環境を改善せねばならない。

そのためには、(3)看護婦養成制度を統合せねばならない。

 (2)を実現するのに(3)以外に方策がないのか明らかではない。「准看護婦差別」のような職場環境の問題を解決する手段は、看護婦養成制度の統合の他にもあるかもしれない。しかし、(1)を実現するのに(2)は必要不可欠であると思われる。職場環境が劣悪であると知っていて、誰が看護婦になろうとするだろうか[27]。それにも拘わらず、旧厚生省は日本医師会の反対によって(3)を放棄するとき、なぜか(2)も放棄してしまい、(1)の実現に寄与するとも思えない政策を採ることになる。検討調査会から「看護婦養成の資質の向上に関する検討会」への移行、それを踏まえた指定規則の改正は、このように理解することができるだろう。実際、(2)を放棄することは、「准看護婦差別」の問題を放置すること、その解決を放棄することに他ならない[28]。もちろん、同時に設置された「准看護婦の移行教育に関する検討会」は、その点を補うものとして理解することはできる。しかし、時限措置の移行教育は准看護婦の一部を救済しうるに過ぎないこと、また、それさえ現時点では空手形に過ぎないことが見過ごされてはならない。

4 「看護の質」の向上 ── 看護職の高学歴化のなかで

 「看護の質」を向上させようというキャンペーンは、准看護婦問題の解決を目的から手段へと格下げし、挙げ句の果てに手段としての身分さえも奪ってしまったといえる。しかも、影響はそれだけではない。このキャンペーンは「看護大学建設ラッシュ」[29]を生じさせ、看護婦養成制度の高学歴化を促すこととなった。こうした中で、雇用者側の学歴志向は強まり、准看護婦たちはいよいよ行き場をなくしている。看護婦のみの採用を予定している病院、および看護婦の優先的採用を予定としている病院は、2000年では80.2%にのぼる[30]。検討調査会でも、准看護婦養成所の「入学志願者の減少」と「生徒の就職困難」を予測していた(報告書、64頁)。実際、こうした予測の下にその対策を検討するのが、検討調査会の任務であったといえる。しかし、何ら有効な対策が講じられないまま、ただ事態だけが加速度的に進行したわけである。

 確かに、准看護婦問題は何ら解決してはいない。しかし、このような看護婦養成制度の高学歴化によって、少子・高齢化社会における看護職員の確保には一定の目処がついたとも考えられる(学歴偏重の歪んだ社会がこのまま続くとすれば)。しかし、この高学歴化によって看護職が「プライドを持って仕事をすること」が可能になったわけではない。おそらく、医療現場には、依然として医師−看護婦差別が残りつづけるだろう。また、准看護婦養成所が淘汰されると同時に、四年制看護大学が増えるとすれば、いまと同じような差別問題が違った位相において生じてくるのはほぼ確実である。そうなった場合、准看護婦、三年課程卒の看護婦、四年制大学卒の看護婦の三層構造において、業務に違いはないのに待遇における差別が存在するという、より複雑な事態が生じることになろう。

 こうした状況のなかで、一部の高学歴を有する看護職員は、「プライドを持って仕事をすること」ができるようになるかも知れない。しかし、医療システム全体として見るならば、そうした事態が好ましくないのは言うまでもない。実際、医療システムには、さまざまな資格職が混在しており、そのすべてが少子・高齢化社会においても人材を確保されねばならない。そのためには、看護職にかぎらず、さまざまな資格職のすべてが、「プライドを持って仕事をすること」ができる状況になければならない。高学歴化によって看護職の地位が向上したとして、そのことが意味するのは、その他の資格職の地位の相対的な低下に他ならない。高学歴化によって看護職の地位を向上させ、それによって看護職の人材確保に成功したとしても、その歪みは医療システムの何処かに生じてくるに違いない。さまざまな資格職のすべてが「プライドを持って仕事をすること」ができるために各々が持つべきプライドとは、学歴制度によって与えられるプライド(=「階級意識」)ではなく、業務を遂行するなかで自らによって勝ち取られたプライド(=「誇り」)でなければならない。階級意識は容易に差別意識に転化しうるからである。さまざまな資格職のすべてが「誇り」をもって働くことができるためには、学歴という縦割り制度に束縛されるのではなく、各々の資格職の自立性を高めていく必要がある。

 これらの点を考慮するならば、看護婦養成制度を統合するか否かという凝り固まった視点から准看護婦問題を論じるのではなく、いま生じている問題を相対化した上で、その対策を考えておく必要があると思われる[31]。この点に関する筆者の提案はきわめて簡潔である。実際、准看護婦差別を不当とする批判は、学歴偏重に対して能力主義の立場からなされた批判に他ならない。それゆえ、その解決策もまた能力主義に依拠して提示されねばならない。

与えられる業務は個々人の能力に応じて決定されねばならず、待遇は業務に応じて決定されねばならない。そして、個々人の能力は学歴によって測定されるのではなく、本人のもつ実際の力量によって測定されねばならない。

 この提案は些か素朴すぎると思われるかもしれない。しかし、さまざまな資格制度が混在する医療システムにおいては、制度改革によって問題を解決しようとするよりも、運用改善による問題解決のほうがより現実的であると思われる(もっとも、こうした非学歴的評価ないし経験値評価の実現には、キャリア・アップ・システムの制度化や、評価の公正を期すための監視システムなどの制度化は必要になるかもしれない)。しかも、「看護の質」の向上という観点からも、こうした経験値評価の導入は望ましいものであると思われる[32]

 確かに、もし教育がうまく機能したと仮定すれば、高学歴化によって「看護の質」も向上するかもしれない。しかし、教育期間の延長だけが「看護の質」を向上させる唯一のものではない。むしろ、一年の現場経験において与えられうる技能の向上を、一年の教育期間の延長によって担保することのほうが容易ではない、とさえ言えるのではなかろうか。もちろん、一年の現場経験のほうが一年の教育期間よりも価値があると一概に言うことはできない。その一年の過ごし方については、単位認定などに縛られた教育機関におけるよりも、医療機関におけるほうが自由度は大きい。教育機関では一定の進歩・向上が強制されるのに対して、医療機関での進歩・向上は本人の意欲次第だからである。経験値評価の導入が、職場内における学習意欲を喚起し、それによって「看護の質」も向上するという希望をもっても悪くはないだろう。

おわりに

 人間は教育期間を終えたときに成長を止めるのではなく、その後も成長し続けることができる。その人間の能力を評価するのに、現時点での能力によって評価するのではなく、教育期間終了時の能力を以て評価するのは適切ではない。本稿が提案した経験値評価は、その後の成長を評価する視点に他ならない。もし正当に評価されないのだとすれば、誰が成長しようという意欲をもつであろうか。また、看護婦養成制度を統合するか否かという制度的視点から准看護婦問題を考えるのではなく、より一般的な評価の問題として考えるべきだという本稿の提案は、さまざまな資格制度が混在する医療システムにおいて、こうした経験値評価をフレキシブルに機能させることを目的とした提案である。

 とはいえ、制度改革が一切不必要だと言っているわけではない。現実には制度が障害となって、准看護婦たちは行き場を失いつつある。ある30歳代前半の准看護婦は、職場を移ろうとしたが、次のような理由で採用を断られたそうである。「あなたは准看護婦だから安い給料しか払うことはできない。しかし、あなたのように経験豊かな人材を、こんな安い給料で雇うわけにはいかない」。実際、この奇妙な不採用理由の背後には、「准看護婦の給与は医療職(三)の1級しか上がらず、看護婦は2級から7級まで上がる」(第九回議事要旨、93頁)という制度がある。能力主義の評価が適切に機能するためにも、こうした制度的障害が取り除かれている必要がある。

 しかし、なぜこんな制度が放置されてきたのだろうか。その背景として、准看護婦を使い捨て労働力として認知する現行の医療システムの体質があるのは疑いない。この体質を改善しないかぎり、准看護婦たちは正当な評価を希望するどころか、医療システムに留まり続けることさえ危うい状態にあるといえる。上述の奇妙な不採用理由は、そんな准看護婦たちの危うい状態を物語っているように思われる。

 元・日本看護協会会長の大森文子は1996年の看護婦養成制度統合の提言に際して、准看護婦たちに次のように約束していた。「但し准看護婦資格でも看護業務は続けられる。自他ともに認める優秀な、患者サイドに立つ准看護婦がたくさん、おられることは現在でも、将来も当然であり、その人権は守られるのである」[33]。この約束を守ること以上に准看護婦たちにとって切実な問題があるだろうか。この約束を守るためにも、また、能力主義の評価を実現するためにも、まずは使い捨て労働力という准看護婦の認知が改められねばならない。

 



[1] 最近では、「看護師」や「准看護師」という用語が使用されるが、一昔前の文献では依然として「看護婦」や「准看護婦」という用語が使用されている。本稿では、煩瑣をさけるために従来の用語法に従っておく。

[2] 以下に紹介する三つの問題 ──「准看護婦差別」、「准看護婦養成所の教育環境」、「准看護婦の質」── は、1996年の「准看護婦問題検討調査会」報告書において同定されたものである(報告書、64頁)。この検討調査会の報告書および議事要旨は、日本看護協会編『2001年に准看護婦養成停止の実現を』(日本看護協会出版、1997年)に収録されている。当該箇所を同書の頁数によって指示する。この報告書や議事要旨は厚生労働省HPでも閲覧可能である(http://www1.mhlw.go.jp/shingi/kenkou.html#kangofu)。

[3] 以下、本節で引用する当事者たちの声は、日本看護協会「准看護婦問題ホットライン」に寄せられたものである(日本看護協会、編前掲書、39-51頁参照、[ ]内は引用者による補足である)。

[4] 准看護婦は「医師、歯科医師または看護婦の指示を受けて」医療行為に参加することになっている。それゆえに、制度上、准看護婦は責任ある地位につくことはできないが、こうした制限のない看護婦は責任ある地位につくことができる。しかし、実際の業務内容はしばしば同じであり、しかも看護婦のすべてが自分で判断できるほど有能なわけではない。しばしば「指示待ち看護婦」と揶揄されるように、看護婦のなかにも、医師の指示の下でしか医療行為に参加できない者たちがいる。そうした状況の中で、准看護婦の被差別意識は育まれてゆく。

[5] このように「准看護婦差別」の問題によって不利益を被るのは、准看護婦だけとはかぎらない。この差別構造の優位に立っているはずの看護婦でさえも、このように不利益を被る場合がある。

[6] 無資格の准看学生が注射するのは、言うまでなく違法行為である。無資格の医療行為は、准看護婦問題の文脈のなかでもしばしば言及される論点である。しかし、この問題は、看護助手(准看学生にかぎらない)、歯科助手、さらには歯科医による資格違反の医療行為など、より広い視点から論ずべき問題であろう。

[7] 診療所から大学病院まで医療機関の多様性に応じて、あるいは診療科目の違いに応じて、求められる「看護の質」も違ってくるであろう。そうした多様性を捨象して、「看護の質」を一般的に論じることはできない。「看護の質」はそれ自体として独立に考察されるべき論点だと思われる。それゆえに、本稿ではこの論点に殆ど言及していない。わずかに、看護婦と准看護婦とを問わず、日々の向上が適切に評価されるような職場環境であるべきだと提言するだけである。これは「准看護婦差別」の問題に対する解決策として提案されるが、必ずしもすべての准看護婦に優しい提案ではないかもしれない。そのような職場環境が実現したときに、そこにおいてさえ向上の努力を怠る者があるとすれば、そのような者に対する本稿の視線は決して暖かくはないであろう。残念ながら筆者は、准看護婦よりも平等を愛したいとねがう者である。なお、そのような職場環境の実現に何が必要なのか、書斎の民である筆者には分からない。見識ある方々に委ねる他ない。

[8] このような准看護婦問題をめぐる議論の歴史的経緯については、日本看護協会編、前掲書、146-7頁および13-5頁を参照

[9] 井上久「准看護婦養成をめぐる問題 ── 当事者たちは、いま」(『看護教育』、39/5、1998年、365-6頁)

[10] これが自主退学だとすれば、これを「就労義務」とする証拠は残らないかもしれない。しかし、就労を拒否することで退学に追い込まれるのであれば、「就労義務」が存在しているも同然である。2000年11月の日本医労連による調査「第6回看護婦110番」でも、「就労義務」や「お礼奉公」の実態が明らかとなっている。件数はかなり減少しているというが、このホットラインに寄せられた声は、前節に引用した1996年のものとほとんど同じである (http://www1k.mesh.ne.jp/iroren/seisaku/seisaku05.htm)。

[11] この学生が「就労義務」の違法性を知っていれば唯々諾々と退学しなかったであろう。少なくとも、この退学騒動について語ってくれた准看護婦はこのことを知らなかった。

[12] 似田貝香門によれば、「医療機関からの奨学金の透明化、法令業務違反の是正のために、養成所生徒向けにリーフレットが配布され、周知徹底と注意喚起が行われた」そうである(「不透明な意志決定過程に驚きと危惧 ──「検討会報告書」への対応に関する日本医師会と日本看護協会の「合意」」、『看護教育』、39/3、1998年、205頁)。このリーフレットには「就労義務」についての記載がなかったのか、リーフレットの配布が一時的なもので継続されなかったのか、あるいは配布されているが効果がなかったのか、それは明らかではない。

[13] 井上久、同上、365頁

[14] 看護問題研究会監修「平成12年 看護関係統計資料集」(日本看護協会出版会、2000年)によれば、1998年度の准看護婦の全就労者数418,011人に対して、国立医療施設、公立医療施設、公的医療施設(日赤など)に就労する准看護婦は、すべて総計しても39,274人にしかならない。

[15] 准看護婦養成所(および高等学校衛生看護科)の卒業生者数の減少が著しいせいか、こうした進路を採る学生は比率として増えている。しかし、当然のこととして准看護婦の絶対数は増える一方であり、その上、二年課程(進学コース)の定員は1997年から減少傾向にある。比率として増えているとはいえ、競争はむしろ厳しくなっていると思われる。

[16] 准看護婦の移行教育に関する検討会でも、以下のような訴えがなされている。「地域の定着性が低く、都会志向であり、質の良い看護婦確保ができないのも悩みの種である。民間病院等は、6割強が准看護婦という現実を理解してほしい」(第一回議事要旨、『看護教育』、39/6、1998年、447頁)。また、北海道新聞は、2002年3月28日の「北見医師会看護学校の成績改ざん問題」報道において、看護婦不足のゆえに、看護婦が卒業・就労と同時にいきなり婦長に任命されることさえあるという北海道・網走管内の現状を伝えている。

[17] この二つの検討会の報告書と議事要旨は『看護教育』(39/6-40/8、1998-1999年)に掲載されている。

[18] 報告書(『看護教育』、49/8、1999年、686頁、強調引用者)

[19] 報告書(『看護教育』、49/6、1999年、451頁、強調引用者)

[20] 報告書(『看護教育』、49/6、1999年、451-3頁)参照

[21] 第二回議事要旨(『看護教育』39/8、1998年、649頁)

[22] http://www.med.or.jp/nichikara/junkango.html

[23] 確かに、少子化に伴って准看護婦資格を取得する者は減りつつある。准看護婦養成所や高等学校衛生看護科の卒業者は、1990年には約3万9千人であったが、2000年には約約3万1千人に減少している。また、准看護婦養成所から進学課程に直接進む者の比率が増えていることもあり、准看護婦として就労する者は10年間で1万人以上減少している。しかし、それでも2000年度で約1万5千人の准看護婦が新たに就労している(前掲「統計資料集」参照)。

[24] この経緯については、移行教育検討会の第四回議事要旨における事務局説明を参照(『看護教育』、39/10、1998年、832頁)

[25] 検討調査会では看護婦−准看護婦差別にしか言及されておらず、医師−看護婦差別は取り沙汰されていない。しかし、似田貝香門の指摘するように、准看護婦差別はこの二つの差別の多重構造のなかで理解されねばならない(日本看護協会編、前掲書、32頁)。

[26] 日本看護協会編、前掲書、37頁(強調引用者)

[27] 実際には、職場環境の問題を隠蔽することによって、こうした事態を回避することができる。これこそ、准看護婦養成制度がこれまで採ってきた方針に他ならない。多くの学生たちが何も知らぬままに、准看護婦養成所に入り、准看護婦になる。そして、劣悪な教育環境と職場環境に置かれることとなった。その卑劣さは言うまでもない。

[28] 旧厚生省だけなく日本看護協会もまた、准看護婦問題の解決を放棄したように見えるときがある。たとえば、移行教育の検討会において、看護資格の取得を容易にするために国家試験の二重化や実習の免除が提案されたが、これらの提案を斥けたのは日本看護協会に他ならない(『看護教育』、39/12、1998年、1065頁、40/1、1999年、40-1頁参照)。確かに、看護職員の多様性を考えれば、安易な制度的統一は適切ではない。しかし、この日本看護協会の頑なな対応は、この組織のそれまでの論調を考えるならば理解しがたいものである。

[29] 日本看護協会編、前掲書、37頁

[30] 2000年「病院における看護職員需給状況調査」による。この調査結果は「日本看護協会調査研究報告」(No. 61)として刊行されている。その概要は日本看護協会HPからPDFファイルでダウンロードできる (http://www.nurse.or.jp/)。

[31] 実際、看護婦養成制度(あるいは、看護婦制度)の統合が適切な解決策であるとは思われない。それによって、看護婦と准看護婦の差別問題は解消するかもしれないが、差別問題はこれに限定されるものではない。たとえば、看護職員の不足が解消されたいま、看護婦たちは福祉施設へも就労し始めている。そこでは、介護福祉士が看護婦と同じ業務をこなしながら、賃金などの待遇面で差別されるという事態が生じ始めているという。少子・高齢化社会において、看護婦だけでなく介護福祉士もまた一定数確保されねばならないのだから、この差別問題もまた解消されねばならないことになろう。こうした問題をすべて解決するために、いったい幾つの資格制度を統合すればすむであろうか。以下に述べるように、資格制度を統合するよりも、待遇を業務に相対化するほうが現実的な解決策であると思われる。

[32] この「経験値」とは何かと問われるならば、さしあたり「個々人の資質、業務を遂行するなかで蓄積された経験、学習(学校教育には限定されない)において得られた知識に基づく、その時点での業務遂行能力」と答えておく。確かに、その測定と評価は困難かもしれないが、その可能性等についての具体的議論は識者にお任せする他ない。

[33] 日本看護協会編、前掲書、37頁

 

付録:移行教育をめぐる最近の動向

 第3節の末尾で、移行教育はいまだ「空手形」にすぎないと述べた。実際、2001年にWeb上で情報収集した際には、旧厚生省・厚生労働省は1999年の検討会報告以後、その途中経過を少なくともWeb上では公開しておらず、その他の情報も1999年の移行教育検討会の報告が出された当時のものとおぼしきものが殆どであり、たまに日付が新しいと思えば労組系団体の集会報告である、という状況であった(これは筆者の情報収集能力の不足がもたらした結果なのだが、それは後に明らかとなることである)。それゆえに、移行教育はもはや「空手形」というよりも、「不渡り手形」になってしまったのでは、という疑いさえ抱いていた。しかしながら、本稿脱稿直後に「国会議事録検索システム」 (http://kokkai.ndl.go.jp/)で調べてみたところ、2002年3月20日の参議院・厚生労働委員会において、移行教育に関して「もう少し現場の人たちに展望というか希望が見えるようなお話いただきたい」という小池晃議員の発言に対して、坂口力厚生労働大臣が「いよいよ動き始めたようにいたします」と答弁をしていることが分かった。言葉の真意は不明だが、少なくとも、移行教育はまだ「不渡り手形」になってはいないようである。

 また、この脱稿直後の調査で新たに明らかとなったのは、放送大学が2001年4月から「疾病の成立と回復促進」、「人体の構造と機能促進」という二つの講義を開講していることである。この講義をめぐってWeb上では情報が錯綜しており、「単位認定されることが決まっているわけではないが、移行教育関連科目である」という意見もあれば、それは「風評」にすぎず、「継続教育のものである」という意見もある。そこで、放送大学に問い合わせたところ、以下のような回答を得た。(快く回答を下さった放送大学に、この場を借りて感謝申し上げる)

 質問1 放送大学は、移行教育に協力することになっていますが、これらの講義は移行教育の単位として認定されるのでしょうか、あるいは認定するつもりがあるのでしょうか。
 回答1 本学の放送授業科目、「疾病の成立と回復促進('01)」及び「人体の構造と機能('01)」は、平成11年4月の厚生省(現厚生労働省)の「准看護婦の看護婦への移行教育に関する検討会」報告書で、「移行教育は、理論学習と技術学習で構成して、理論学習は放送大学の活用を原則」とされ、厚生省から本学に対し協力要請があったことを踏まえて新たに制作し、共通科目に位置づけて平成13年度から開講しているところです。
    このように、この2科目は、主に移行教育への対応を念頭に制作したものですが、本学には従来より、医療や福祉などの職場で働く方が多く学ばれており、そうした方々のスキルアップにも十分資するものと考えております。
    なお、移行教育に関することは、厚生労働省の所管であり、それが実施に移された際に、本学で開設した2科目が移行教育の単位として認定されるか否かについては、厚生労働省の判断となることをご理解願います。
 質問2 「疾病の成立と回復促進」と「人体の構造と機能促進」はそれぞれ何時間なのでしょうか。移行教育検討会の報告書では、理論学習22単位(660時間)のうち124時間をテレビ学習として放送大学を活用することになっているようですが、放送大学として、その準備が完了しているのか、その現状も併せてご教示いただければ幸いです。
 回答2 この2科目(各2単位の授業)は、印刷教材による授業及び放送授業により行っており、それぞれ、印刷教材による授業45時間及び放送授業15時間の計60時間となっております。
    なお、移行教育への本学の対応としましては、回答1のとおり、昨年度(平成13年度)2科目を新たに開設いたしましたが、その他の科目につきましては、厚生労働省の動向を踏まえて検討することとしております。
 
 このように、これらの単位が移行教育の単位として認定されることは保証されていないのだが、既に少なからぬ准看護婦たちが、これらの講義を受講しはじめているようである (http://www.labor.or.jp/iroren/iko-kyoiku/no5.html)。移行教育が時限措置であることを考えれば、こうした見切り発進もやむを得ないというところであろうか。もっとも、たとえ移行教育を度外視したとしても、このように向学心をもった准看護婦たちが存在しており、実際にスキルアップに取り組んでいることは、それ自体として素晴らしいことだと言わねばならない。このような准看護婦たちが存在するからこそ、また、その限りで、准看護婦問題は「解決されねばならない問題」でありつづけるのだといえる。(ちなみに、資料請求は放送大学HP(http://www.u-air.ac.jp/hp/top/body0.html)からも行うことができる)

 また、移行教育の実施に際しては、技術学習のために移行教育所(仮称)が必要とされるが、その確保については各地の労組系団体等がそれぞれに取り組んでいる模様である。この点について情報を得たければ、各自で自分が居住する地域の関連団体に問い合わせるべきであろう。ちなみに、京都医労連・移行教育情報センターは自分たちの活動だけでなく、各地の活動の消息も幾分伝えている (http://www.labor.or.jp/iroren/ikokyoiku.html)。また、日本医労連は2002年2月に「移行教育の実現を求めて活動する団体・個人への情報センターとしての役割を果たす」べく、「移行教育中央情報センター」(略称)を設置しており、「情報発信のため、毎月ニュースを発行する」としている(http://www1k.mesh.ne.jp/iroren/seisaku/seisaku25.htm)。

(2002年6月9日)

 [付記]本稿執筆の機縁は、ある予備校において進学コースを受験する准看護婦や准看学生たちの受験指導を担当したことにはじまる。30名に満たない教室ではあったが、教壇に立つのが恥ずかしくなるような聡明な方から、端で見ていて不安になるような女の子まで、その多様性は准看護婦として一括りにするのを躊躇わせるものであった。この50年を顧みるならば、一方で高校進学率の著しい上昇があり、それと平行するように准看護婦養成所の入所倍率の著しい低下がある。もっとも、一般教育において教育水準が向上したことや、准看護婦養成所の入学者が中卒中心から高卒中心へと移行したことなどを考えれば、この現象から直ちに准看護婦の業務能力の低下を結論づけるのは軽率であろう。しかし、いずれにせよ、この50年に起こった社会変動は、「准看護婦」と呼ばれる人々のなかに多様性を育むに充分なものであったと思われる。「准看護婦は医療ミスが多い」などという一般論も聞かれるが、この多様性は見過ごされるべきではないだろう。

 実際、予備校生たちに話を聞いてみたが、准看護婦はおろか現役の准看学生でさえ、1997年に「就労義務」が禁止されていることを認識している者は誰もおらず、「移行教育」に至っては言葉さえ誰も知らない有り様であった。このような事態が、どこまで一般化できるものなのかは分からない。しかし、准看護婦問題をめぐる旧厚生省、日本医師会、日本看護協会のパワーゲームは、本人たちの与り知らぬところで展開されていたのではないかと思われる。

 実際に彼女たちによって語られた現状は、本稿に記載した以上に理不尽で深刻なものであったが、本稿の性質上、裏付けの取れないような話は割愛してある。もっとも、彼女たちから聞いたどんな話よりも、筆者にとって深刻に思われたのは、彼女たち自身の態度であった。彼女たちの多くが現状をほとんど認識しておらず、また知ろうともしていないように見えた。また、筆者が説明しても、怒ろうとしない者さえ何人もいた。彼女たちはそれほどに疲弊しきっていた。ルソーの言葉が想起される。「奴隷たちはその鎖のなかですべてを失ってしまう。そこから逃れたいという欲望までも」。鎖から逃れたいという欲望を失うこと、それは自らを奴隷と認めることに等しい。何よりもまず、彼女たち自身が、自由な人間として、この現状に対する怒りを、鎖を断ち切ろうという欲望をもたねばならないだろう。もしこの現状に立ち向かうべき主体があるとすれば、それは彼女たち自身をおいて他に居ないのだから。本稿がその一助となれば幸いである。

 末筆ながら、草稿を読んでご意見をいただいた、北海道大学の蔵田伸雄助教授、北海道教育大学旭川校の佐々木周助教授、学術振興会特別研究員の須長一幸氏に、この場を借りてお礼申し上げる。