現代文明学研究ホーム現代文明学研究とは規定書誌執筆者一覧

現代文明学研究:第2号(1999):107-119
自己言及的な教育−教師学習・行為・ルール−
濱西栄司



 ←印刷用のPDFファイルをダウンロードできます(頁番号付き)


 

【要旨】
 本論文の目的は、自己言及的な教育実践において、授業計画の力点の所在や学校段階に関わらず、それが条件(「宣言」)を満たすならば、原理的には、「行為(学習行為も含む)選択の自由」(=自己決定の前提)という重要な教育・学習課題を学習者に学ばせうることを示すことにある。既存の諸状況の一部は、「教育者」を学習者が学んでいる状況として解釈できる。そこでこの論文では、そのような「学び」を意図的・計画的に組織可能にする授業モデルがどのようなものか、そしてその授業実践にどのような意義があるのかを検討する。授業モデル(=「教師学習」教育)では、条件として「教育者」を対象に自由に「実験」・「観察」を行うことが許可される(=「宣言」)とする。次の意義が提示できる。「教育者」への「実験・観察」は、教育者にとって可能性でしかなく制限不可能なので、そのことは、原理的には、学習者に「行為選択の自由」を保証する。この結果から、「行為選択の自由」というものを、学習者の行為選択の自由を疎外せずに、学習者に学習させることが出来る場合があるということが、含意として明らかになった。

キーワード:自己言及、自己決定、行為、ルール、教育課程、総合学習、教師学習
 
 

1 はじめに:教育課程論における自己言及性
 

 本論文では、自己言及的な教育実践の一形態として、「教育者」を教育・学習課題とする授業を扱う。 「自己言及性」は、様々に議論されているテーマであるが、教育(諸)学においては、教育・学習や教職課程の自己言及性についての議論はあっても(例えば、前者は教育哲学の一部(1)、後者は松浦[1999]など)、既存の教育課程(教育内容計画)の自己言及的側面についての直接的な議論はまだないように思える。教育課程上に自己言及的な授業を構成する試みについてはなおさらである。
 よって、本論文は、まず従来の教育課程におけるその自己言及的な側面を整理し(2節)、その後で、それを参考にしつつ、新たに自己言及的教育実践モデル(「教師学習」教育)を積極的に構築する。そのモデルを検討することで、「教師学習」教育において、学習者は「行為選択の自由」(=自己決定の前提)について学ぶことができることが明らかになる(3節)。また実践レベルで生じる諸問題についての考察は、4節で行われる。
 

2 原型
 

2.1 状況の再解釈

 以下に挙げる諸状況は、「教育者・学習者は、「教師学習」教育において、具体的に何をするのか」という問いに対して、たしかにある意味では、解答になり得る。ただし、その場合、教育者(2)も学習者(3)も、「この教育実践が、「教育者」を教育・学習課題にしたものである」ということを確実に理解しているのでなくてはいけない。しかし以下の諸状況にそのような(教師―生徒間の)共通理解はない。具体的に言うと、これらは従来、周知の学習形態(相互教授法、助教法など)、あるいは、学校生活への適応を促す実践(教科書の記述、生活科など)、ミクロレベルでの「潜在的カリキュラム」の伝達・体得、職業学習の一環(体験学習、教職課程など)、その他(学校管理への生徒参加など)、として教育者はもちろん学習者にも捉えられてきたのである。ここでは、それらの諸状況に加えて、従来あまり言及されてこなかった状況(塾講師と教育者の関係、教育関連のTVなど)を併せ、それらを「学習者が「教育者」を学んでいる状況」として再解釈する。その際、それらを方法論的視座から四つ(「体験」・「参照」・「観察」・「実験」)に類型化しておく。繰り返し確認しておくが、これらが真の「教師学習」教育になるためには、「この教育・授業が「教育者」を教育・学習課題にしたものである」という共通理解が必要なのであるが、以下の諸状況は、まさにこの共通理解を欠いているのである。

(1)教育者の役割を「体験」する
 教育者の役割(特に教授活動)を「体験」している学習者としては、まず19世紀初めから中葉にかけて行われた学級教授法の一形態である「助教法」(=モニトリアル・システム monitorial system)における助教 monitor (Bell[1808]、海根[1967]:286-292、寺崎[1991]、児美川[1992]、中内[1998]:70-72他参照)や、あるいは一斉指導を補う役目をもつ「小先生」(cf.田宮[1987]:69-74)などがそうである。また「子供の相互指名を用いる授業」(田代[1990])における「指名したり、教えたりする側の子供」がそうであるし、また教授・学習形態としての相互学習法 interactive learning(吉本[1996]、小川[1967])や、協同学習 cooperation in classroom (cf. Johnson [1984=1998]) などにおいて理解度が比較的高く他の生徒に教える機会を持つ生徒。さらにクラスの代表として他の生徒に教えたり、注意したりする生徒(その様子は杉山[1996]:82)などもそのような例として挙げられる。大学生に限定されるが、例えば教育実習生や、塾講師・家庭教師をしている者などもそうである。
 もちろん教育者の役割は、教授活動に限定されない。例えば、会議や授業の準備、その他もろもろの雑用も含めてその全てが教育者の生活であり、教育者の役割である、と言える。したがって、「助教法」(特にJ・ランカスター の組織)において、学校管理に関する仕事をそれぞれ分担した一部の「助教」(伏見[1937]:1189, 「助教法」の項)や、(西ドイツにおける「生徒参加法制」の一環として)諸会議やカリキュラム構成の場に参加した生徒(秋池[1987])、なども教育者役割を「体験」していたと言える。まだ理論段階のものを挙げると、生涯学習社会への対応策としての「生涯学習人材バンク」の構築も一部の学習者に「教育者」を「体験」する機会を与える試みだと解釈できる(赤尾[1996]:123)。保育所・保育者養成機関・初等普通教育機関を兼ねたとされる「子守学校」(明治初期〜昭和19年)も限られた学習者に教育者的役割(保育者)を体験する機会を与えていたと解釈できる(長田[1993])。

(2)他人の教育者論を「参照」する
 次に、学習者が「教育者」についての他人の研究・思想・価値観を「参照」し、学習している状況を挙げる。
  過去を振り返ると、J・コメニウスの『世界図絵』(17世紀に現れた世界初の絵入り教科書と言われている)には、「学校」(schola)という一章が含まれており(第97章)、教室内の授業風景の解説の中で「教師」について(簡単にではあるが)触れられてある(Comenius[1658]:107)。従って、それを読んだ多くの学習者たちは、その部分で、いわゆるコメニウス的教育者観を学んでいたと言える。日本においても戦前、尋常小学校の国語科・社会科教科書の中に、「学校」・「授業」・「教師」への言及は見られる(4)。
 現在においても、『小学校学習指導要領』(平成10年度版)の「生活科」の欄(pp.61-63)には、「学校の施設の様子および先生など学校生活を支えている人々・・・のことがわかり、楽しく安心して遊びや生活ができるようにする」ことが挙げられている(5)。また、「社会科」においても、「地域の開発、教育、文化、産業」などの分野で「地域の発展に尽くした先人」([第3学年及び第4学年]p.24)や、「教育、医学、農業などの分野で世界に貢献している・・・国際交流や国際協力の様子」([第6学年]p.30)などを理解することが「目的」の一つとして挙げられている(6)。また中学校における「職業体験学習」において、教育者に興味を持ってインタビューをする生徒も、「教育者」を教育者自身の語りに沿って理解していると言える(7)。
 『中学校学習指導要領』(平成10年度版)「社会科」の「歴史」(正式には「歴史的分野」)において、学問・教育などの発展が近代文化の形成の内実であるという歴史的事実の理解をうながしている(「「近代分化」については、学問、教育・・・の発展を扱い、その進歩が著しかったことや伝統的な分化の上に欧米文化を受容して形成されたものであることを、代表的な事例を取り上げて気付かせるようにし・・・」p.28)。『高等学校学習指導要領案』(平成11年度版)「社会科」の「日本史」において、「教育の普及」と19世紀の日本の近代化を絡ませている(「産業、学問・思想、教育における近代の萌芽・・・に着目して、幕藩体制動揺期の内外の情勢について理解させる」p.33)。
 また当然、大学の教育課程や教職課程においても、教育諸学(教育原論、教育心理学、教育社会学、教科教育学その他)の講義の中で、「教育者」についての言及がなされることはある。最後に、まだ理論段階だが、「教育学」教育を教育課程(高等学校、社会科「公民」)に導入するという提案(長尾[1994])も、大学以前の生徒に既存の教育学的教育者論を「参照」させ、「教育者」を学習させようとする試みとして解釈できる。

(3)「教育者」を「観察」する
 ここでは、学習者が「教育者」を「観察」している、と解釈可能な状況を挙げる。まず教育者との日常的な交わり全体がそうである。「学習者における教育者認知」の諸調査(cf.村瀬[1956]、龍野[1995]、NHK世論調査部[1984]他)や、子供へのインタビューの一部(cf.杉山[1996]:69-91)などは、普段の教育者とのふれあいの中で、学習者がどのように「教育者」を観察しているかを探るものとして読める。
 また特にミクロレベルの「潜在的カリキュラム」(hidden curriculum)についての諸研究(cf. Delamont[1976]、Keddy[1971])は、学習者が「教育者」を「観察」しているという解釈を根拠付ける。「潜在的カリキュラム」論においては、様々な「(社会的)規範・価値・信念」が、暗黙の了解として、教育者から学習者へ(「潜在的カリキュラム」として)伝達されているとされる。だが、暗黙の了解とは言え、「学校において表立っては語られることなく、・・・潜在的に教育者から生徒へ伝達されるところの規範、価値、信念の体系」(8)を体現しているのは、一人一人の教育者(ミクロレベル)なのであるから、学習者から「教育者」へのやや広い意味での「観察」が行われていると言える。
 そのほかにも、例えば、テレビなどのメディアを通して教育者の生活を学ぶことができる。具体的には(ある程度の計画性、継続性があるものとしての)教育者出演の教育特集番組や、「教育者」を題材にしたテレビドラマなどである。また教育実習先で、指導教官や他の先輩教育者の仕事ぶりを見る場合なども、「教育者」を「観察」していると言える。

(4)「教育者」を「実験」する
 最後に、学習者が「教育者」を「実験」していると解釈可能な状況を提示する。「実験」は予想・検証という二段階からなり、例えば、授業中に「当然軽く答えてくれるだろう」と思って、質問する生徒(その様子は、杉山[1996]:204)、あるいは「交換日記」上で教育者に対して、「わからないだろう」と期待して難問・奇問をぶつけてくる小学生(本田[1996]:32-41)などは、「予想」も「検証」も学習者の手によってなされている場合である。「子どもの嘘」についての諸研究(cf. 亀山[1990])は、学習者の実験についての研究として読むことは可能である。
 また、予想は他人のものを、だが検証は自分で、という「実験」もある。その例としては、親から聞いた不満、すなわち「教科書のこの文はあまりいい文じゃない」という不満をそのまま実際に教育者に言ってみる小学生(その様子は杉山[1996]:143)。また塾講師から聞いた出題予想に沿って勉強してから、学校のテストを受けている生徒や、塾講師から「こう説明すれば、最初は無理だからやめておけと言っていた担任も、国立大を受けさせてくれる」というアドバイスを受けて、そのとおりにする受験生(その様子は渡辺[1994]:116)などが挙げられる。20世紀初頭のアメリカで盛んに行われた「自習法」の一つである「the Springfield plan」において、「実験室教師」から聞いた予習必要範囲を勉強してから、「一斉授業教師」の授業を受けている学習者(9)などもそうである。

2.2  「原型」と「教師学習」教育におけるパラダイムの相違

 以上、学習者が「教育者」を学んでいる状況として解釈可能な諸状況を4つに分類して示した。だが、これらの状況のほとんどは、学習者に「教育者」を学ばせるという明確な教育目的を達成するために意図・計画されたものではない。また、学習者が、上記の諸状況をそのように解釈していないということは事実であろう。なぜなら、学習者は、上記の諸状況をそのように解釈することの根拠を、教育者から提示されてはいないからである。
 上記の諸状況の中で、教育者にとって計画的な状況と言える「生活科」や教職課程などは、「教育者」を学ばせるというよりも、(教育者を除いた:注(5)、(6)参照)「学校」や、「教育」自体を学ばせる意味合いの方が強い。またそれらは、小学校低学年や一部の大学生用に構成されているにすぎず、学校段階を通して一般的に展開されうるような性格を原理的・構造的に有していない。
 また、上記の諸状況の中で、学習者が教師を試すことや見ることなどを計画的に行っている状況もあるかもしれない。だが、それらの行為・状況も、「教育者を学習するために」ということを学習者が明確に意識した結果、そうなったとは考え難い。むしろ、偶然的・遊戯的な要素が強い。
 本論文では、上記の諸状況を「教師学習」教育の「原型」として捉えるが、それらと並立するものとして、あるいはそれらに含まれるものとして、「教師学習」教育を位置付けるのではない。「教師学習」教育は、「教育者」を教育・学習課題として捉える新たなパラダイムへの教育者・学習者の共通理解を土台にして、その上に意図的・計画的に構成されなくてはいけない。従来のパラダイムと新たなパラダイムの違いを教育・学習課題の面から整理すると以下のようになる。   

従来のパラダイム:「教育者」を教育・学習課題から排除する。
新たなパラダイム:「教育者」も教育・学習課題に含める。

 「教師学習」教育は、新たなパラダイム上にのみ存在しうるものである。「教育者」を「教育内容」から排除する従来のパラダイムに沿えば、「教師学習」教育は、教育者側からすれば「相互学習法」や「生活科」の一部、「教職課程」などに、また学習者側からすれば教育者との偶然的・遊戯的な触れ合いなどに、必然的かつ理論的に分割、収納されてしまう。すなわち、「教師学習」教育は、それらの一つ一つ、あるいはそれらの寄せ集めに他ならない、という解釈がなされてしまう。
  だが、「教師学習」教育は、そのようなものではない。だから、「教師学習」教育が、今までにない新たなパラダイム、すなわち「「教育者」は教育・学習課題に含まれる」とみなすような新たなパラダイムを土台にしたものであることを、教育者・学習者へ向けて、まず強く主張する必要がある。それらの主張をすることなしに、すなわち、教育者・学習者の思考の枠組みを従来のパラダイムから新たなパラダイムにシフトさせないままに、「教師学習」教育の必要性だけを主張することは、ほとんど無意味であるといって良い。なぜなら、後述(次節)するように、「教師学習」教育が行われている状況は客観的に見て従来の状況と何ら変化がないからである(但し、これも後述することだが、教育者が行う「宣言」だけは、客観的に見ても「教師学習」教育独自のものである)。次節では、まずパラダイムシフトを明確に打ち出した形で、「教師学習」と「教師学習」教育の定義を示し、教育者から学習者へのはたらきかけ(=「宣言」:後述)の内容を示す。
 

3 定義と授業計画と意義
 

3.1 定義

 本論文においては、「教師学習」を次のように定義する。

「教師学習」とは、学習者が、「教育者」を学ぶことを第一目的にして行う学習行為である。

そして「教師学習」教育を次のように定義する。

「教師学習」教育とは、「教師学習」が第一目的なのだという共通理解のもとで、教育者からのはたらきかけと学習者からの学習行為によって成立する教育のことである。

 「教師学習」教育の定義にある「学習者からの学習行為」とは、言うまでもなく「教師学習」を指す。では、「教育者からのはたらきかけ」とは何を指すのか。これからそのことを説明する。本節では、まず原理レベルでの考察を行い、実践レベルで生じる諸問題についての考察は、4節で行う事にしたい。

3.2 必要な「教師からのはたらきかけ」(原理レベル)

 教育者がなすべきこと、つまり「教育者からのはたらきかけ」とは、授業計画(=学習指導案)である。それは「教師学習」教育の場合、原理的には下記の「宣言」だけを指す。

宣言
「学習者は、「教育者」を対象にいつでも(「宣言」を行っている教育者に対しても、他の教育者に対しても)無制限に「実験・観察」してよい。」

 原理的には、教育者が学習者に対して行うべきことは、上記の「宣言」だけである。理論上は、「宣言」を行った瞬間から、「教師学習」教育はその意義(後述)を発揮するはずである。なぜなら、「宣言」を行うことは、理論上は、今までよりは確実に多くの学習者を教育者実験・教育者観察(そこから「行為選択の自由」の理解へ進む)へと導くはずだからである。「宣言」を聞いた学習者の中に、教育者をこれから実験・観察していこうと考える者がいることは間違いない。教育者は、「宣言」を行い、その後は、別にごく普通の授業を行っていけば良い。教育者が、「教師学習」教育の実施に関して行うべきことは、「宣言」だけなのである。
 ところで、2節では様々な状況(=「原型」)を紹介した。そして、それらの状況が「教育者を学習者が学んでいる状況」として解釈できることを筆者は示した。だが、その解釈は、新たなパラダイムを自明のものとしている筆者という一個人の解釈にすぎなかった。
 ところが、「宣言」が行われた以降、パラダイムシフトは教育者・学習者一般に共通のものとなる可能性がある。「宣言」は、(「宣言」の内容は新たなパラダイムそのものとイコールなのではないが)パラダイムをシフトする主張になっているからである。「宣言」を行う教育者はもちろんのこと、「宣言」を聞いた学習者も、ともにパラダイムシフトを自明のものとなしうる。つまり、先ほどまでは筆者だけが新たなパラダイムを自明視していたにすぎなかったのだが、今や新たなパラダイムは教育者・学習者一般に共有される可能性が高くなるわけである。従って、その場合、例の「解釈」(「原型」諸状況を「教育者を学習者が学んでいる状況」として解釈すること)は、筆者一個人だけの解釈ではなくて、教育者・学習者一般の解釈になって来得るのである。
 教育者と学習者の間に生起する全ての状況から見れば、2節で紹介した「原型」諸状況はごく一部分に過ぎない。なぜその中から、「原型」諸状況を選択したかというと、それらは、従来のパラダイムに乗っかっている人から見ても、「教育者を学習者が学んでいる状況」として良く理解できるからである。
 パラダイムシフトしていない人をパラダイムシフトさせるためには、従来のパラダイムに乗っかっている人にも理解可能な形で提案するしかない。一種の掛け橋(従来のパラダイムと新たなパラダイムの間の)として「原型」諸状況は提示されたのである。だから、人々がパラダイムシフトを自明とするようになれば、人々は、掛け橋の部分だけではなく(つまり「原型」諸状況だけではなく)、それら以外の状況も「教育者を学習者が学んでいる状況」として解釈出来るようになる事が分かるだろう。まさに、教育者と学習者の間に生起する全ての状況がそのように解釈可能であることが、広く(教育者・学習者に)理解されるようになるだろう。
 原理的には、教育者と学習者の間に生起する全ての状況が、「教師学習」教育の現場であると言える。だから、「教師学習」教育の現場は、客観的には、従来の教育現場と何ら変化はないように見える。唯一、教育者から学習者への「宣言」が存在することだけが違う。つまり、「教師学習」教育について言えば、教育者からのはたらきかけは、原理的には「宣言」だけですむものなのである。もちろん、相互学習法・教職課程・生活科などを含めた日々の教育的営みも、教育者がなすものである。だから、それらはごく普通に実施される、ということを前提とした上で、「教師学習」教育に関しては、教育者は、それに加えて「宣言」をするだけで良いのである。「教師学習」教育に独自な、教育者から学習者へのはたらきかけと言えば、それは「宣言」しかない。それだけで、原理的には次に述べる重要な「教師学習」教育の意義を享受できるのである。

3.3 「教師学習」教育の意義

 先に言ってしまえば、「教師学習」教育の意義は、学習者の「行為選択の自由」(=自己決定の前提)についての理解を促進できることにある。
 さて、「宣言」では、あらゆる状況で、無制限に「教育者」を「実験・観察」することが学習者に保証された。なぜなら、それを保証せず、逆に制限したとしても、意味がないからである。例えば、「教育者が許可した時間と対象と場所においてのみ実験・観察してよい」という制限を加えたとしよう。その場合、

[1]制限を設定・維持するためには、制限を違反している生徒の行為を区別し指し示せないといけない。だが、
[2]ある行為が、「実験・観察」の一環なのかそうではないか、ということは学習者本人にしか判断できない。つまり、
[3]教育者は、無制限に「教育者」を「実験・観察」している学習者と、そうではない学習者を区別できない。従って、
[4]学習者が「教育者」を「実験・観察」することに、教育者は制限を設けることはできない。

 すなわち、「宣言」が行われた次の瞬間から、学習者のあらゆる行為について、その行為が選択された理由を、教育者が把握することは不可能になるのである。だから、制限を設けても設けなくても原理的には同じ結果に落ち着くのである。このことは教育者にとって、不幸なことかもしれない。
 だが、学習者側にとっては意義あることである。「教育者」を対象にしていつでも「実験・観察」してよい、という「宣言」は、学習者に次のことを気づかせるからである。すなわち、自分の行為選択の理由(自分への理由)としていつでも「「教育者」を学ぶために」、という理由を使用できるということを気づかせるからである。そのようなことに学習者が気づくことは、学習者にとって非常に意義あることである。なぜなら、どんな行為を選択するにしても、「それに対する教育者のリアクションを観察するためだ」として、自分を納得させることが出来るからである。言いかえると、既存のルールをある意味で括弧に入れることが出来るようになるということである。今までは、既存のルールを、行為を選択するときの理由にするように徹底的に求められてきたのに、そうしなくてもよいと、教育者が言うわけだから。
 自分(学習者)には、意識的に、あるいは無意識下で、既に正しいと認めている・認めざるを得なくなっている・むりやり認めさせられているいろいろなルールがある。だが、「教師学習」教育によって、もしも「自分の行為に対する、教育者のリアクションを観察するためだ」という理由付けをいつでも想起できる(思いつくことが出来る)ようになれば、どうであろう。「自分の行為に対する、教育者のリアクションを観察するためだ」という理由付けは、既存のルールを括弧に入れることを可能にする。だから、「教育者のリアクションを観察するためだ」という理由付けの想起によって、学習者はどのようなルールにも縛られず、あらゆる時間・空間で(「教師学習」の時間中も、その他の時間も)とりあえずは自由に行為を選択可能になるのである。この事が「教師学習」教育の第一の意義である。もちろん、学習者がこのような理由付けを公言することは、実際には様々な問題を今まで以上に引き起こす危険性がある。この点については4節で更に詳しく述べる。
 ところで、「自己決定」は、様々な選択肢の中から、自分で行為を選択することだと考えられる。だが、「自己決定」を論じるときに見逃されがちなことは、他ならぬその選択肢の想起の時点で、すでにバイアスが掛かって来るということである。「様々な選択肢」というが、その「様々な」が本当は偏った「様々な」である可能性が高いのである。最初から偏った選択肢しかないところで、行為をその中から選択しようとすることは、「自己決定」のようで、実は「自己決定」とは言えないのではないだろうか。ある行為を自己決定的行為として認可するためには、可能な選択肢の範囲への制限が解かれなくてはいけない。少なくとも、行為者はあらゆる選択肢を想起可能な状況になくてはいけない。逆に言うと、制限を解く方法をマスターしたときはじめて、学習者は「自己決定能力」の基盤を持つことが出来たといえる。そのような基盤を獲得させることなくして、「自己決定せよ」と迫ることは、全くの無意味である。そして、学習者に「自己決定能力」の基盤を計画的に獲得させることが出来るのは、「教師学習」教育だけなのである。

3.4 原理レベルについてのまとめ

 この論文で検討してきた問題とは、自己言及的な教育実践(「教師学習」教育)に、どのような教育上の意義が存在しうるのかであった。この問いに解答するべく提案された「教師学習」教育とは、要約すると以下に述べるような性格をもつものである。

(1)「教師学習」の定義
・「教師学習」とは、学習者が、「教育者」を学ぶことを第一目的にして行う学習行為である。

(2)「教師学習」教育の定義
・「教師学習」教育とは、「教師学習」が第一目的なのだという共通理解のもとで、教師からのはたらきかけと学習者からの学習行為によって成立する教育のことである。

(3)「教師からのはたらきかけ」の内容(原理レベル)
・「教育者」を対象に、いつでも(宣言している教育者に対しても、他の教育者に対しても)無制限に「実験・観察」してよい、という宣言を行う。

(4)「教師学習」教育の意義
「行為選択の自由」(=自己決定の前提)への理解を促進できる。

3.5 意義からの含意

 ところで、教育課程とはなんだったのか、ここで振り返ってみよう。(顕在的な部分の)「教育課程とは、学校の教育目標を実現するために、文化的諸領域や人間の経験活動から選択した教育内容を、・・・組織・配列した教育内容計画であり(狭義)、その計画にもとづいて展開される活動をも意味する(広義)」(11)ここで言うところの学校教育目標とは、「子どもや教育者、父母、地域住民の願い・・・国家や社会の意図・・・人類の願い」を背景にした「個々の学校の教育活動挙げての達成目標」であり、言うまでもなくそれ(学校教育目標)は一つの規範・制度・価値として、広義のルールに含まれ得るものである。すなわち、教育課程とは本質的に「行為を制限する(広義の)ルール」の教育計画なのである。
 「教師学習」教育も、それがもしも教育者が学習者に単純に「既存のルールを括弧に入れて行為を自由に選択しなさい」(=自分のことは自分で決めなさい)ということを伝えるだけの教育であったなら、それは「(行為を制限する)ルール」の教育に過ぎない。しかも、この場合、教育者は口では「自由」に行為を選択せよと言いながら、「選択」という行為を要求しているのであるから、ダブルバインドである。学習者は「自由に行為を選択せよ」という命令に混乱するだけである。直接、「行為選択の自由」を教育しようとする限り、教育することと教育の内容が二つのレベルに分裂し、ダブルバインド状況を不可避的に作り出す。だから、全ては間接的に行われなくてはいけない。間接的な「教育者を教育・学習課題として考えるように!」という要求だけでいい。その結果、どうなるか。客観的には、状況にはなんら変わりなく、従って、「教師学習」教育の成果を評価することはできないが、理論的には、少なくとも以前よりは「既存のルールを括弧に入れることが出来る」学習者の数が増えるはずである。このような「行為選択の自由」(=自己決定の前提)について学ぶことが出来るという「教師学習」教育の意義から、直ちに次のことが言える。

含意 「行為選択の自由」というものを、学習者の行為選択の自由を疎外せずに、学習者に学習させることが出来る場合がある。

 このことは、既存のルールの教授にマイナスの影響を与えるものではないから、教育課程自体の質的拡大の可能性を意味している。教育課程に限らず、最広義の教育的営み(家庭教育、塾教育、いわゆる「生涯学習」の場における教育、先輩・先達からの指導、友人からの忠告、老人・障害者・病人への介護他)の質的拡大をも意味している。だが、このことについて述べるのは別の機会に譲りたい。
 

4 議論
 

4.1 「教師学習」の本質的な無制限性と「教育者のプライバシー」・「学習者のプライバシー」

 ここでは、まず「教師学習」教育に対して提示されうる実践的・現実的な問題点をあげる。そして、「注意事項」の付与によって、その問題点を上手く解決できることが示される。そして同時に、「行為を制限するルール」の学習機会を提供できることが示される。
 「教師学習」教育では、学習者の教育者実験・観察に制限を設けない(設けることが出来ない)ということが、「宣言」される。だが、制限を設けないということは、現実問題として、行き過ぎた「実験・観察」を招く恐れがある。
 例えば、いじめのふりや、宿題を忘れたふりをして教育者の反応を見るというように、「教育者」を実験する学習者が出てくるかもしれない。特にいじめの方は、ふりをしているうちに、本当のいじめになっている場合があるし、また、狼少年的な要素(フリのつもりが本当になる)も出てくる。宿題をわざと忘れることも教育の本分を曲げてしまう恐れがある。そして、それが演技だとばれた場合、教育者と学習者の人間関係にヒビを入れる可能性がある。
 また、例えば、ある学習者が、教育の場(授業・講義・その他)に全く参加しないで私語ばかりしているとする。教育者が注意したところ、学習者が「ああ、やはりあなたは注意しましたね。私の予想は当たりました。私はあなたを「実験」していたのです」と言ったとしたらどうだろう。想像ではあるが、「教師学習」を徹底させたなら、ありえない事態ではない。こうなると、その授業中の私語が、学習者の言うように「教育者のリアクションを観察して「教育者」を学ぶ」ということの一環として行われたものなのか、それとも本当は単なる後付の「いいわけ」にすぎないのか、ということは決定できない(3.3を参照)。
 もちろん、「学習者を個別によく理解し把握しておれば、教育者にその違いはわかるはずだ。事実がどちらなのか決定できるはずだ」という意見もあるだろう。だが、そんな時でさえも「そういうだろうと思って、わざと違いがわかるようにしたのだ」と学習者は言うかもしれない。学習者が教育者に見せる全ての態度は、理論上、学習者から「教育者」に向けての「実験」であり得るのである。そして同時に、それに対する教育者の反応の全てが、理論上、学習者によって「観察」されている可能性があるのである。「実験」から「観察」へ、そして次の「実験」へ、それらはどこまでも続いていくかもしれないのである。
 急いで付け足しておくが、教育者と普通に接する学習者がいる可能性を否定するわけでは、全くない。ここで問題にしているのは、学習者の行っていることが事実そうなのか、それともいいわけなのかを、学習者本人以外の人間は明確に区別できないということである。言いかえると、「実験」や「観察」による「教師学習」が、行われているのか、それともそうではないのか、ということを教育者は判断不可能である、ということなのである。
 また、全く制限を設けないで「教育者」を監視するような形になるならば、「教育者のプライバシー」が侵害されたり、「学習者のプライバシー」が侵害されたする恐れが多分にある(後者の場合、それは、「公務員としての守秘義務」に抵触する危険性がある)。例えば、教育者の悩みやプライバシー情報を入手したり、あるいは更に悪用する学習者がいるかもしれない。具体的に例示すると、教育者の電話番号を調べて、悪戯電話をしたり、「卒業を認めないとお前の家族に災難が降りかかるぞ」といった脅迫などを行う場合がある。学習者達の家庭の話(「どうも誰々の両親は離婚されるようだ」等々)とか、成績・人物評価の話とか、学習者達の問題行動についての情報が漏れたり、更に悪用される恐れもある。
 もちろん、これらの問題状況自体は、「教師学習」教育の存在以前から、なかったわけではない。問題は、「教師学習」教育がこれらの問題状況の発生を今まで以上に誘発するのではないか、という恐れなのである。

4.2 「注意事項」の付与による解決

 つまり、宣言した時点で、(1)生徒の行為が「教師学習」のためのものなのかそうではないのかを区別できなくなり、(2)生徒の行為が評価不可能になり、(3)問題状況が今まで以上に発生する恐れが出てくる。
 しかしながら、次の注意事項を守れば、(1)それが区別できない点は同じであるが、(2)生徒の行為は評価可能となり、(3)問題状況が今まで以上に発生する恐れというものに根拠がなくなるのである(12)。
 
注意事項
 
 [1]教育者は学習者の行為に対して、それが「教育者」を学ぶためのものであるか否かにかかわらず、同様の対応をする。
 [2]学習者は行為選択の理由説明の要求に対して、事実であろうがなかろうが、「「教育者」を学ぶために」という理由以外を提示する。

[説明]
→[1]:例えば、過剰な観察が何か問題を起こした時に、教育者は「行き過ぎた観察である」という理由で注意するのではなくて(もちろん、それが教師を学習するための観察である可能性はあるが、それは無視して)、一般的なルールに沿って(例えば、プライバシー侵害などの理由で)学習者を処罰するようにするということである。
→[2]:例えば、学習者は、自分の行為を注意された時に、行為選択の理由として、「「実験・観察」だった」、「「教師学習」教育を応用した」、「「教育者」を学ぶためだった」などを挙げないようにし、何か別の理由(例えば、「眠かったので」、「忙しかったので」、「忘れていたので」などのごく一般的に耳にするような理由・言い訳)を客観的には提示するようにするということである。
 「注意事項」の付与は、客観的に判断できる行為のレベルで学習者が既存のルールから逸脱する場合に、「教師学習」教育における「宣言」が一切、言い訳にならないことを表明することに他ならない。つまり、理由のいかんに拘わらず、行為自体はルールによって評価されるということの主張でもある。そして、問題状況が今まで以上に発生する恐れというものに根拠がなくなる。

4.3 「行為を制限するルール」の学習へ

 学習者の行為が、行為選択の理由いかんに関わらず、既存のルールに沿って教育者から評価(妥当/非妥当)されるとしよう。すると、「教師学習」教育をきっかけにして、学習者は人間関係の基本的なルールを学ぶこともできるだろう。つまり、「教師学習」教育は、自分の行為に対していかなる時でも責任が付随するということを学習者に良く理解させることができるだろう。 
 もちろん、だからといって「行為選択の自由」という「教師学習」教育の第一の意義が、注意事項の付与によって被害を受けるということはない。確かに、注意事項が付与されるせいで、学習者が、行為選択の自由に自主的な制限を設ける可能性は否定できない。だが、その場合でも、「行為選択の自由」それ自体は原理的に保障され続けているのである。
 
 

【注】

(1)例えば「実存主義的教育学」における「現存在」は、明らかに自己言及的概念である。
(2)ここでは「既存の文化、社会(それらの「部分」としての既存の技術や知識)にすでに適応(習得)している人間一般」をさす。より具体的には保育士、教師、大学教員などを指すが、彼らがいつでも教育者であるとは必ずしも言えない。むしろ「玄人」という言葉が持つニュアンスを含む。
(3)ここでは「既存の文化、社会(それらの「部分」としての既存の技術や知識)に適応(習得)しようとしている、あるいは、適応していっている人間一般」をさす。より具体的には幼児、児童、生徒、学生、院生、あるいは生涯学習者などを指すが、彼らは同時に教育者(注(2)参照)でもありうる。むしろ「素人」という言葉が持つニュアンスを含んでいる。ただ、本稿においては便宜的に、議論の中心をいわゆる「学習者」すなわち、幼児・児童・生徒・学生においている。
(4)文部省[1934](pp.4-7)、 文部省[1984](pp.16-20)、 文部省[1948](pp.49-70)、文部省[1948](pp.139-149)などを参照。
(5)ある学校教員(千葉県)の話によると、「生活科」におけるその学習は、「学校探検や名刺交換のようにして、学校の中を周りながら施設のことを知ったり、教職員(事務員さんや栄養士さん、用務員さん等も含む)の名前や仕事の内容などを調べて」いくのであり、それは「それは学校に慣れ親しむためでも」あると言う(インターネット上の「掲示板」での発言http://www3.jp-net.ne.jp/bbs/mkgif.cgi)。別の学校の教頭(大阪府)も同様の趣旨の発言をしている。つまり、一般的な教員については、改めて学習しないということである。
(6)「社会科の3,4年では・・(中略)・・身近な地域から次第に市町村、県というように広げながら・・(中略)・・調べていきます。・・(中略)・・その中での「教育に貢献した人」というのは、あくまでも後世に名を残すような方のことです。つまりは、歴史ですね。5年生では日本国全体→世界に向けて・・(中略)・・しかし、教育公務員のことは特にあげられていません。6年生でも教育の分野で活躍した人と言っても・・(中略)・・身近な教育関係者は調べる対象にされたことはありません」(前述の「掲示板」での教員の発言)つまり、ここでも学校教員は取り上げられない。
(7)「中学校ではそれぞれのグループに分かれて、職業体験学習のようなことをしています。その時に「教師」に興味を持ったグループの生徒たちが、インタビューに来ていました」(前述の「掲示板」での教員の発言)。
(8)柴野[1985](p.101)より引用
(9)矢野[1995](p.54)は以下のように説明する。「生徒を能力別にグループに分けて、まず「実験室教師」のもとで予習を行い、その後、一斉授業教師のもとで予習の成果を発表、不十分だと再度「実験室教師」のところへ戻る」。「実験室教師」は、予習の指導において、「一斉授業教師」がどこを問題にするかということを予想する。「実験室教師」の予想が当たるか、当たらないのかを学習者は実際に、「一斉授業」を受けて検証する。その結果は、一斉授業教師と実験室教師の両方についての学習者の理解を助ける働きをするであろう。
(11)周囲の引用も全て天野[1999](pp.3-4)より引用
(12)ここでは、仮に、諸問題(教育者が学習者の行為選択を評価不可能になるという状況)の増加を、解決・解消すべきものとして捉えている。
 

【参考文献】

・赤尾勝巳, 1996, 「公共施設の利用」, 『学びのスタイル-生涯学習入門-』,  山本慶祐編著, 玉川大学出版部, pp.107-125
・秋池宏美, 1987, 「西ドイツの生徒参加法制に関する一考察」, 『東京大学教育学部』, No.27,
 pp.363-374
・天野正輝編, 1999,『総合学習のカリキュラム創造』, ミネルヴァ書房 
・Andrew, B., 1808, The Madras School or, Elements of Tuition, in British Educational Theory in the 19th Century, 6Volumes, 1993, Routledge/Thommes Press
・Comenius, J.A., 1658, Orbis Sensualium Pictus (コメニウス, 1988, 『世界図絵』,井ノ口淳三訳, ミネルヴァ書房)
・Delamont, S. , 1976, Interaction in the classroom, Methuen
・本田和子, 1996, 『交換日記』, 岩波書店
・Jackson, P. W., 1968, Life in Classroom, New York,Holt
・Johnson, D.W., Johnson, R.T. and E.J.Holubec, 1984, Circles of Learning:Cooperation in Classroom(ジョンソンほか, 1998, 『学習の輪-アメリカの協同学習入門-』, 杉江修治他訳, 二瓶社
・亀山佳明, 1990, 『子どもの嘘と秘密』, 筑摩書房
・Keddie, N., 1971, Classroom Knowledge, in Young, M.(ed.),Knowledge and Contril, Collier-Macmillian Ltd., pp.133-160
・城戸幡太郎他編, 1937,『新教育大事典第6巻』, 岩波書店
・小林盾, 1992, 「様相・行為・ルール」, 『ソシオロゴス』, No.16, ソシオロゴス編集委員会,
 pp.37-51
・児美川佳代子, 1992,「近代イギリス大衆学校における一斉授業の成立について」, 『東京大学教育学部紀要』, No.32, pp.44-52
・Kripke, S. A., 1982, Wittgenstein on Rules and Private Language, Harvard Univ. Press (クリプキ,
 1983, 黒崎宏訳, 『ウィトゲンシュタインのパラドックス』, 産業図書
・Luhmann, N., 1984, Soziale Systeme (ルーマン, 1993, 佐藤勉監訳,『社会システム理論』,恒星社厚生閣
・松浦良充, 1999, 「「教育学」は「教育」できるのか」, 『教育学研究』, No.66, pp.39-41
・村瀬隆二, 1956, 「生徒の教師に対する好意」, 『教師の社会的地位』, 有斐閣, pp.299-329
・文部省, 1934, 『尋常小学国語読本』, 大阪書籍
・文部省, 1940, 『尋常小学国語読本』, 大阪書房(『尋常科用小学国語読本』,1984, ノーベル書房として復刊)
・文部省, 1948, 『たろう』, 日本書籍
・文部省, 1948, 『日本のむかしと今』, 日本書籍
・長尾一三二, 1994, 『教師教育の課題』, 玉川大学出版部
・長田三男, 1993, 「子守学校の研究-児童数・学級編成・教員-」, 『早稲田大学教育学部 学術研究』, No.41, pp.17-25
・中内敏夫, 1998, 『教育思想史』, 岩波書店
・小川太郎, 1967, 『教育の陶冶の理論』, 明治図書出版
・柴野昌山, 1985, 「「かくれたカリキュラム」の理論と実証研究」, 『京都大学教育学部紀要』,No.32, pp.100-122
・杉山亮, 1996, 『子供のことを子供に聞く』, 岩波書店
・田宮輝夫, 1987, 『授業のこころと技術』, 桐書房
・田代裕一, 1990, 「子供の相互指名を用いる授業の研究」, 『教育研究紀要-近畿大学教育研究所』, No.17, pp.13-31
・瀧野揚三, 1995, 「中学生の教師認知に関する研究」, 『大阪教育大学紀要』, No.43,
 pp.203-211
・寺崎弘昭, 1991, 「近代学校の規律空間と子どもの権利条約」, 『教育学研究』, No.58,
  pp.61-70
・海根悟, 1967, 『世界教育史』, 新評論
・渡辺次男, 1994, 『合格の秘訣教えます!』, PHP研究所
・矢野裕俊, 1995, 「「自習」の文化と学校図書館」, 『人文研究-大阪市立大学文学部紀要』,
 No.47, pp.51-67
・吉本均, 1996, 『授業と集団の理論』, 明治図書出版
 

現代文明学研究に戻る