現代文明学研究ホーム現代文明学研究とは規定書誌執筆者一覧

現代文明学研究:第1号(1998):60-76
刑事司法システムは男性中心主義か
性犯罪裁判における「女性の眼」を問う
牧野雅子



 ←印刷用のPDFファイルをダウンロードできます(頁番号付き)

はじめに

 刑事司法システムは男性中心主義のシステムであるとして、フェミニズムは、そのシステムに内在する差別性を告発してきた。その根拠は、性犯罪における被害女性の扱われ方にあった(1)。性犯罪被害者は、捜査・公判段階で、プライバシーの侵害、供述を通じての事件の追体験等、二次被害を免れ得ない。それどころか、「性犯罪は女性が裁かれる」といわれるほど、被害者の落ち度や性経験が問われるといった女性被害者が不利に追い込まれるような仕組みが、刑事司法システムのそこかしこに存在している。フェミニズムは、性犯罪における女性被害者の法的地位の改善を目指して、運動を続けてきた。その中で法女性学という分野も誕生し、従来の刑事司法システムを「女性の眼」で見直す作業が行われている。
 「女性の眼」という言葉には、男性には見えないものが女性には見えているはずだという響きがある。女性の苦しみは女性にしか理解できない、若しくは女性であれば理解できるという思いこみや、「女性の眼」で見た問題点や解決策は、女性を苦しみから解放させるのだという、無邪気さが見え隠れする。この無邪気さは危険である。「女性被害者」に関する問題点は、「女性」故に生じるものだと短絡的に結論づけてしまいがちだからだ。「女性被害者」は、「女性」被害者であるとともに、女性「被害者」でもある。そして各々に固有の事情があり、感情を持っている。「女性の眼」は、この「女性」以外の部分をどう位置づけているのだろうか。
 近代の刑事司法システムは、前近代における犯罪者の人権無視のシステムへの反省を土台に、被疑者・被告人の権利保障を中心としたシステムとして誕生した。犯罪者は、法によって手厚い保護を受けられるようになったが、反面、被害者はそのシステムからは取り残されることとなった。刑事司法システムを支える、憲法、刑事訴訟法、刑法、少年法等は、被疑者・被告人の権利保障については詳細に規定しているものの、被害者の権利保障については、ほとんど規定はなく、被害者疎外のシステムといってもよい。
 本稿は、被害者論に依拠しながら、「女性の眼」が「女性」の部分に焦点を合わせるあまり、「女性被害者」の個性や感情を切り捨ててしまい、結果、女性「被害者」を疎外していく危険性があることを明らかにしていく。そこでは、性犯罪における「女性被害者」の迫害が、フェミニズムが主張するように刑事司法システムの男性中心主義によるものなのかどうかが、最終的に明らかにされるだろう。

1 「被害者疎外」の刑事司法システム

 まず最初に確認しておくべきことは、刑事司法システムは「被害者疎外」のシステムであるということだ。近年、被害者学をはじめとして、刑法学、刑事訴訟学、犯罪学等の分野で、被害者の地位についての研究が進められている。しかし、日本においては、1990年代に入ってようやく被害者の問題が取り上げられるようになったという認識の遅れもあり、法改正や政策の改善には未だ至っていない。また、法学以外の分野においての認知も充分ではなく、例えば「女性被害者」に関わる問題が「女性」故に生じるものなのか「被害者」故に生じるものなのかという判断さえなされていない状況にある(2)。

(1) 刑事司法手続きの現状
 
 刑事司法の目的は、「個人の基本的人権の保障」を全うしつつ、「実体真実の発見」をはかることである(3)。ここにおいて注目されるべき点は、「個人の基本的人権」という保障対象が、全ての個人ではなく、被疑者・被告人に限られているということだ。被害者は、刑事手続き上多くの義務を負うにもかかわらず、さしたる保護規定がないばかりか、主体たり得ず、忘れ去られ、疎外された存在なのである。刑事手続きに関する条項をみても、国の最高法規たる憲法はもとより、刑事訴訟法、刑法に至るまで、その主体は被疑者・被告人であり、被害者は被疑者・被告人の処罰において間接的に保護されても、法によって直接に保護されることはない。
 もう少し詳しく刑事司法システムにおける被害者の地位を見ておこう。刑事司法における最高法規はいうまでもなく憲法であり、第31から第40条まで、刑事手続きに関する条項が並んでいる。(第31条[法定の手続きの保障]、第32条[裁判を受ける権利]、第33条[逮捕の要件]、第34条[抑留・拘禁の要件、不法拘禁に対する保障]、第35条[住居の不可侵]、第36条[拷問及び残虐刑の禁止]、第37条[刑事被告人の権利]、第38条[自己に不利益な供述、自白の証拠能力]、第39条[遡及処罰の禁止・一事不再理]、40条[刑事補償])。これらはすべて、刑事被告人(及び被疑者)の人権保護を謳っているのだが、被害者保護について規定している条項はない。
 刑事手続きのうち、捜査、訴追、審判及び不服申し立てに関する手続きと、刑の執行の指揮など、その形式に関する事項を規定しているのが、刑事訴訟法である。構造として、公判での訴追の主導権を当事者(検察官、被告人)に認めるという、当事者主義をとっており、検察官の攻撃(主張・立証活動)と被告人の防禦(反論、反証活動)が、手続の中心となる。では、刑事手続きを規定する刑事訴訟法においては、被害者はどのような地位を与えられているのであろうか。
 まず第一に、捜査段階における取調の対象となる(第223条[第三者の任意出頭・取調・鑑定等の嘱託])。取調にあたっては、被疑者の取調に準じて行われるが(第198条[被疑者の出頭要求・取調])、被疑者には認められている「供述拒否権」が、被害者には認められていない。被害者の取調に関して取調官は、被害者にとって「自己に不利益な供述」を入手するものではないことから、「供述拒否権」の告知は必要ないとされているのだ。「自己に不利益な供述」とは、憲法第38条[自己に不利益な供述、自白の証拠能力]にいう、自分が有罪となることの根拠となる事実のことであり、被疑者にのみ該当する。第二に、被害者は捜査に協力する義務を負う(第226条[証人尋問の請求]、第227条[同前])。条文は、直接的には捜査に協力する義務を規定するものではないが、取調を拒んだ場合、検察官はその者の証人尋問を請求することが出来、出頭を拒めば、強制力を行使され、刑罰や過料に処せられる可能性があることから、結果として、捜査に協力する義務を負うこととなる。第三に、身体検査に関する義務を負い、それを拒んだ場合、強制力を行使され刑罰や過料に処せられる可能性がある(第137条[身体検査の拒否と過料等]、第138条[身体検査の拒否と刑罰]、第139条[身体検査の直接強制])。第四に、証人尋問に関する義務を負い、それを拒んだ場合、強制力を行使され、刑罰や過料に処せられる可能性がある。証人尋問に関する義務には、出頭義務(第150条[出頭義務違反と過料等]、第151条[出頭義務違反と刑罰]、第152条[再度の召喚・勾引])、宣誓義務(第154条[宣誓]、第160条[宣誓証言の拒絶と過料等]、第161条[宣誓証言の拒絶と刑罰])、証言義務(第160条[宣誓証言の拒絶と過料等]、第161条[宣誓証言の拒絶と刑罰])がある。また、宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときには、刑罰が科せられる(刑法第169条[偽証])。このうち証言義務については、被害者は、第291条2項の[冒頭手続]「黙秘権の告知」は準用されない。その理由は、取調における「供述拒否権」と同様、被害者には「自己に不利益な供述」は当てはまらないと考えられているからだ。第五に、住居氏名の開示義務が課せられる(第299条[同前と当事者の権利])。検察官、被告人または弁護人は、公判で尋問を請求する証人について、相手方に証人などの住居・氏名を知らせなければならないのである。
 刑事訴訟法における被害者の保護規定としては、被告人の保釈の制限・取消(第89条[必要的保釈]、第96条[保釈等の取消、保証金の没取])、被告人の退廷・退席(第304条の2[被告人の退廷]、第281条の2[被告人の退席])があるが、被害者保護の目的というよりも、被害者が被疑者及び被告人の報復を怖れて証言を拒むことを防止するために規定されていると考えるのが自然であろう。
 「供述拒否権」や「黙秘権」が被害者に認められないという規定は、被害者には何を聞いてもいい(もしくは何を言わせてもいい)との誤った認識を、司法関係者に植え付ける危険性があるといえるだろう。宣誓における規定では、被害者には被告人以上に厳しい義務が課されている。このように、刑事手続きにおいては、被害者はかなり厳しい条件下におかれることが多く、結果として、様々な精神的被害(二次被害)を被ることとなる。
 犯罪と刑罰について定めた法律が、刑法である。刑法の基本原則は、罪刑法定主義、行為原理、責任原理であるが、中心となるのは罪刑法定主義である。罪刑法定主義とは、形式的には犯罪と刑罰をあらかじめ法律で明文化しておくことをいう。つまり、その行為が犯罪であると規定した法律のないところには、犯罪は存在しない。
 刑法の機能としては、規制的機能、保護的機能、保障的機能があるといわれる。規制的機能とは、どの行為が犯罪であるかを明らかにすることによって、国民の行為を規制しようとする機能をいい、保護的機能とは、犯罪の処罰を通して該犯罪が侵害する保護法益を保護しようとする機能であり、保障的機能とは、何が犯罪であるのかを前もって示すことで国民に行動の自由を保障しようとする機能である(4)。刑法において被害者は、犯罪行為の客体としての地位を与えられ、行為主体の処罰を通じて一定の利益を保護されるという、受動的な立場にある。それ故刑法には、被害者の視点は入っておらず、例えば被害者の同意の有無が問われる場合、被疑者・被告人が被害者の同意の有無をどのように捉えていたかが問題となってしまうのだ。
 刑事司法システムは被害者を、あくまでも客体としての証人や参考人としてしか位置づけない。しかし、被害者は自らを、被害を被った主体として語る。この認識のずれが、様々な問題を生じさせ、被害者に苦痛を与える原因となる。

(2) 被害者問題

 被害者が刑事司法システムから疎外されることによって生じる問題を、被害者問題と呼んでおこう。その具体例としては、被害届を受理して貰えない(5)、何度も呼出を受ける、被害者の事情も場所もかまわずしつこく事情聴取される、現場に連れて行かれる、犯人をすぐに捕まえてくれない、立件してくれない、事件の経過について教えて貰えない、事件に直接関係のないことを聴かれる、言いたくないことなのにしつこく聞かれる、犯人扱いされる(6)、公判では質問されない限り発言権がない(言いたいことが言えない)、言いたくないことも言わなければならない、プライバシーに関わることも言わなければならない、尋問を拒否できない、被害者に責任転嫁される、落ち度を問題にされる(7)等が指摘されている(8)。1993年実施の犯罪被害者等実態調査によると、警察の捜査に振り回されたと答えた被害者は、身体犯被害者では25.7%、遺族で31.1%、財産犯被害者で10.5%であり、それぞれについて、92.5%、93.1%、90.5%の被害者が、警察の捜査に振り回されることを被害の一部であると回答していることは、注目に値する(9)。
 次に被害者問題が起こる原因を考えてみよう。そもそも犯罪は、法によって定義されるものである(罪刑法定主義)。しかし、被害者は、決して法によっては定義され尽くせない。自分が被害者であると思うかどうかは、被害者自身の感情や認識、世間からのレイベリングによって決まる部分が大きい。被害者の感情という心理学的な問題や、社会からのレイベリングという社会学的な問題に関しては、法は積極的には関与しない。つまり、犯罪を法によって定義することで、法によっては規定され得ない被害者の感情や世間の目等が、刑事司法システムから抜け落ちるわけだ。また、被害者は、行為主体にはなり得ない。あくまでも客体としてしか、刑事司法システムには存在し得ない。被害者の声が裁判に反映されにくいのは、このためである。
 歴史的に見ると、前近代の犯罪者の人権無視の刑事司法への反省から、近代法は出発している。そこで第一に要請されたのが、犯罪者の人権保障であった。そして、被告人(及び被疑者)の権利保障を中心課題とした刑事司法システムが誕生したのである。そこにおいて被害者は、報復権を奪われただけでなく、被害者としての地位も与えられず、当事者の一人であるにもかかわらず、手続からは疎外されることとなった。 
  現在の刑事司法システムは、専門化が進むことで必然的に閉鎖的となり、官僚化が進行している。結果として、被害者を含む国民全体から、刑事司法が遠い存在となり、刑事司法の目的遂行が最優先されるため、客体でしかない被害者は、大きな犠牲を強いられるわけである。

(3) 現行法と被害者論との抵触概念

 被害者論とは、「被害者の刑事手続きにおける地位を強化しようとする議論」をいう(10)。被害者問題を解決すべく、疎外されている被害者を刑事司法に正当に位置づけようとする議論である。現行法は被告人・被疑者保護中心で、被害者疎外の性格を有しているので、被害者論を取り込もうとすると現行法の、「無罪の推定」原則及び法格言「疑わしきは被告人の利益に」の原則と抵触し、刑事司法システムのバランスの取り方が困難となる。
 公判ではまず、被告人がいかなる事実で裁判を受けるのかを、検察官の側から被告人に告知して防禦し得るようにし、検察官がその告知した事実(公訴事実)を基礎づける証明を一つ一つ行い、被告人による検討を経てもなお、被告人の有罪が合理的な疑いを容れない程度に立証されたと言えるときに初めて、被告人を有罪とし得る。これを「無罪の推定」原則という。つまり、冤罪防止のために検察官の主張が誤っているという前提から検討を加えていっても、なお検察官の主張には合理性があるといえる場合に初めて、被告人は有罪となり、双方の主張について判断つけがたい場合には、被告人の利益が優先されるのである(11)。
 挙証責任を負っているのは検察官であるから、検察官が自分の主張する事実(訴因)を証拠によって裏付けない限り、被告人は無罪とされる。ここに、証拠の証明力確保の必要性が生じてくる。刑事裁判は、証拠裁判主義(刑事訴訟法第317条[証拠裁判主義])、裁判官の自由心証主義(同法第318条[自由心証主義])をとっているので、検察官は証拠能力があり証拠価値の高い(証明力のある)証拠を収集する必要がでてくる。証明力確保のためには、徹底した捜査の必要性があることから、捜査機関は、被害者の犠牲を伴ってでも、証明力確保に努めようとする。
 平成8年に捜査機関により作成された被害者向けのパンフレット(滋賀県警察本部発行「犯罪の被害に遭われた方へ」)には、

  被害者の方には、刑事手続き上必要な様々なお願いをし、そのことでご負担をおかけ
 することもあります。被害者の方にとっては、早く忘れたい事件を蒸し返すようでつら
 いと思われるかもしれませんが、犯人を逮捕し、厳しく処罰する上で非常に重要なこと
 ばかりです。あなたのため、そして同じような被害に遭う人をなくすためにも、是非と
 もご協力をいただきたいと思います。

と述べられており、「犯人を逮捕し、厳しく処罰する」ことが捜査の目的であること、そのためには被害者には負担をかける虞があること、被害者は犯人の逮捕および厳しい処罰によって間接的に保護されるしかないことが明示され、いみじくも刑事司法が被害者疎外のシステムであることを、自ら認めるものであった。

2 刑法に見る問題点

 フェミニズム、とりわけ法女性学の分野にかかわる人たちは、刑事司法システムにはびこる男性中心主義の差別性を、強姦罪における男性によってなされた法解釈や、判例などの分析を通じて、問題点を具体的に指摘・批判してきた。そこには、「女性の眼」から見た問題点が現れ、それをもって刑事司法システムが男性中心主義に依っていると主張する。指摘はさまざまであるが、強姦罪の構成要件である「暴行・強迫」の問題といった刑法の規定そのものに関する問題点と、捜査・公判過程において生じる二次被害や女性被害者に不利に機能するシステムの問題といった刑事手続きに関する問題点とに大別することが出来よう。
 刑法に潜む問題点を整理する前に、性犯罪はどのように規定されているのかを、まず見ておく必要がある。刑法第177条は強姦罪を、以下のように規定する。

  暴行又は脅迫を用いて十三歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、二年以上の
 有期懲役に処する。十三歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。

 強姦罪における主体(加害者)は、通常男性であるが、女性も共犯たり得る。客体(被害者)にあっては、女性に限られる。つまり、強姦罪は、男性が女性を強いて姦淫するという形態を想定して、その行為を禁止しているのだ。女性による男性の姦淫については、強制わいせつ罪が適用されよう。構成要件としては、暴行・脅迫の必要性が挙げられる。その程度は、「相手方の抗拒を著しく困難ならしめる程度」(12)で足りるとされており、これが通説となっている。強姦罪の成立に関しては、13歳以上の被害者については加害者の被害者に対する暴行・脅迫を必要とし、13歳以下については暴行・脅迫を要しない。姦淫の行為としては、通説では、性器の没入をもって既遂とし、全部の没入、射精は要しないとされる。性犯罪の特色として、被害者の承諾の有無が問題となり、ここに、加害者の故意の存在が絡んでくる。当然、当事者間に同意のある性行為であれば、その性行為自体は犯罪を構成しない。ただし、被害者の承諾は、黙示の承諾でも良く、加害者側に被害者が承諾をしたとの誤信があった場合は、故意を欠くとされる。処罰としては、2年以上の有期懲役で、未遂であっても処罰されうる。また、親告罪であることから、訴追要件として告訴が必要である。

(1) 強姦罪の客体が女性に限られること

 強姦罪の客体は女性に限られている。この背景として、男性による女性所有の思想が指摘されている(13)。男性による女性に対する性交を、女性による男性に対する性交や同性同士の(広い意味での)性交よりも重く処罰することは、女性は男性の所有物であり、強姦という行為が、女性という男性の財産的価値を低下させるものとして、所有権を侵害する財産犯、男性の男性に対する犯罪と捉えられてきたというのである。ここでは女性という財産の価値は、処女であるか否かによって決定される。守られるべきは女性の性的自由・性的自己決定権ではなく、貞操である。この強姦罪の概念は、女性自身をも拘束し、貞操は命を張ってでも守るべきものと認識され、性のダブルスタンダードを固定化することとなる。代表的ラディカルフェミニズム論者であるドウォーキンは次のように述べている。

  女は男の所有物であり、姦通、強姦、或る種の近親相姦は、その所有物の価値を破壊
 することによって、もしくは、私的かつ独占的な性的使用権という合法的で根の深い個
 人の権利を侵害し、男の完全性を蹂躙することによって、女の正当な持ち主を傷つける
 のである。だから、規則に従うことで、男は、己に従属する女を性的に独占使用し、女
 の性的使用に関する男同士の争いを引き起こさずにすむ。個々の男の所有権は、明確に
 輪郭づけられている。何故なら、男たちの共同体そのものの内側では、様々な関係はす
 べて、女を所有物と規定する法律によって、厳密に指図されているからである。男たち
 は、自分自身の女に対する己の所有権が尊重されることを、強く求める。だからこそ、
 男は、無法状態よりも方の秩序を強く求めるのである(14)。

ドウォーキンの議論の核心は、強姦罪の存在自体が男性による女性所有を如実に示しているということである。法は、表面上は女性の性的自由・性的自己決定権を保証するかのように見せかけて、実は男性の財産権を保証しているのというのだ。
 強姦罪の規定が女性を保護しているものでないとすれば、女性が自己の性的自由・性的自己決定権を獲得するには、法の存在そのものを否定すれば良いのだろうか。法を否定した上で、強姦という性暴力を告発していけば、問題は解決するのだろうか。しかし、法の存在なしには、犯罪は成立しない。犯罪とは、それを禁止する法律の存在によって初めて成立するものなのだから。犯罪が不成立でもなお、被害者として告発し続けることは果たして可能だろうか。
 私たちは、相手が個人であるか組織であるかを問わず、紛争解決の最終手段として、法による裁きを求める。中でも、刑事司法は、個人の人権保障のみならず、刑罰の存在による犯罪防止、犯罪者の隔離・矯正、社会的正義の確認といった、治安維持の機能も果たしてきた。死刑廃止論争において、死刑の存在意義をアピールする人々の主張が、極刑への怖れが犯罪者に当該行為を止まらせるという刑罰の効果についてであることからも、刑罰法令の存在意義の大きさを見て取ることが出来る。多くのフェミニズム論者は、女性被害者を不利にする法の改善を求めているのであって、刑事司法システムからの離脱を呼びかけているわけではない。では、この問題、強姦罪に潜む男性による女性所有の問題を解決する方策はあるのだろうか。
 結論からいえば、この問題を克服するには、強姦罪の客体、つまり被害者を、男女共に認めること以外にないだろう。男女共に性交にまつわる性的自由を保証する法をつくること。そうすることで、女性が財産として捉えられているという思想から逃れ、法的には男女は同等の性的自由・性的自己決定権を持つという意味で、同列に立つことになる。そのかわりに今度は、女性被害者の妊娠の可能性をどう考えたらよいのか、妊娠の可能性の責任を加害者は負わなくてもいいのかが、問題となってくる。強姦の被害者は、被害もさることながら、「妊娠するかもしれない」といった不安、妊娠が発覚した後の出産か中絶かの決断の苦悩、中絶による精神的・肉体的・経済的打撃、出産及びその後の育児の困難を引き受けなければならない。強姦罪の客体が女性に限られているのは、妊娠の可能性を女性のみが有しているからである(15)。この、女性は妊娠の可能性があり男性はないという、生物学的に決定的な違いを、強姦罪の解釈にあたってどのように考えるかは、今までさほど議論はなされていない(16)。妊娠という生物学的な問題を、どのように法に盛り込むか。ここに、ポイントがある。
 男女共に強姦罪の客体と認め、性器の挿入という行為のみを犯罪行為として捉えるならば、妊娠やそれにまつわる女性の精神的肉体的苦痛は加害者の処罰の範囲からは除かれ、被害者個人が抱え込むべき問題となる。果たしてこれが、平等に両性の性的自由・性的自己決定権を保護した状態であるといえるだろうか。確かに、被害者ではない女性一般に関しては、平等が実現されたと映るかもしれない。しかし、被害者は多大な被害を被りながらも、妊娠にまつわる苦痛という「犯罪行為の結果」に対しては、処罰を求めることができないのである。相手を傷つける目的でなされた行為によって被害者が死亡すれば傷害致死罪になるように、結果的加重犯の概念が強姦罪にも盛り込まれていると考えるべきではないだろうか。女性一般の平等を実現するために女性被害者に苦痛を背負わせるのは、女性の中での不平等を作り出す結果となる。

(2) 構成要件に関する問題

 強姦罪はその構成要件として、暴行・脅迫を必要とするが、その程度を巡っては、多くの批判がなされている(17)。前述したように、暴行・脅迫の程度は、「相手方の抗拒を著しく困難ならしめるもの」とされている。暴行・脅迫の有無の問題は、被害者の当該性行為に対する同意の問題も絡んでおり、同意があったかなかったかを測る一種のバロメーターとして、暴行・脅迫が捉えられているふしがある。暴行・脅迫がなかったと判断されるならば、被害者はその行為に同意しており、暴行・脅迫が認められるならば、同意はなかったとされるのである。暴行・脅迫の程度の判断は外見上のものであり、被害者が恐怖の余り抵抗することさえ出来ない場合、被害者の内面はほとんど考慮されないことから、暴行・脅迫はないと判断されることが多い。
 ある有形力の行使が暴行・脅迫ではないとされた例として、次のような判例がある。

  およそ男性が、座っている女性を仰向けに寝かせ、性交を終えるについては、男性が
 女性の肩に手をかけて引き寄せ、押し倒し、衣服を引きはがすような行動に出て、覆い
 かぶさるような姿勢となる等のある程度の有形力の行使は、合意による性交の場合でも
 伴うものである(18)。

確かに、通常の合意による性交の場合でも、性交に至るまでのプロセスとして、同様の行為は認められるだろう。しかし、このとき被害女性は、夜間車で連れ去られ、「逃げたら殺してやる」と脅されており、恐怖心で一杯であった。そのような状況下での上記の行為は、「相手方の抗拒を著しく困難ならしめるもの」といえるのではないか。また、同事件において判決は、被害者の任意の承諾がなく和姦とはいえないとしながらも、無罪を言い渡している。つまり、和姦ではないが強姦でもないという姦淫行為が存在し、その行為は罰せられないということである。意に反した行為であれば、被害者にとっては強姦である。しかし、同意がないにもかかわらず、その行為が強姦であると認められないとすれば、女性被害者の言い分が反映されず、加害者の男性に有利なように裁判が構成されているといわざるを得ない。
 ここで、刑事司法システムが「被害者疎外」のシステムであったことを思い出してみよう。刑事手続きは被疑者・被告人の人権保護の観点により進行し、被害者は客体としての地位しか与えられず、被害者の同意を問題にするときでも被害者が同意したかではなく、被害者が同意したと加害者は認識したかどうかが問題となるのであった。
 被害者が恐怖の余り抵抗ができない、抵抗によってより被害が増すことへの怖れから抵抗できないことは、大いに考えられ得る。しかし、犯罪構成要件の行為として、ごく軽度な暴行で足りる(若しくは暴行・脅迫を要しない)ことになると、被害者の意思に反したかどうかという内面的事情のみが、犯罪の正否の基準となってしまう(19)。被害者の畏怖の程度や意志が反映されて、被害者の内心が主たる判断基準になると、被害者の供述だけで有罪性や悪性が示されることになる。その他の証拠を見るまでもなく、被告人の有罪が決定する。これは、被告人を極度に不利な立場に追いやるため、被疑者・被告人の人権保護の観点から見ると、採用は不可能といわざるを得ない。
 憲法第37条第2項には、「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。」と規定されており、被告人が証人の証言の証明力を確認する権利を保障している。しかし、被害者の内心に関する供述が被告人の有罪性や量刑を決定するとなると、供述がされただけで有罪が決定し、証人審問権の効力は無効になってしまうのだ。
 憲法第38条第3項は、「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。」と規定する。本人の自白さえあれば有罪にできるという制度であれば、自白を得ることだけが捜査機関の目的となり、あらゆる手段を用いて自白を得ようとするだろう。自白を得るために拷問、脅迫などが用いられれば、被疑者はそれから逃れるために虚偽の自白をするおそれもある。そこで憲法は、こうした被疑者・被告人の人権侵害や、強引な捜査を阻止するべく、被告人の自白を唯一の判断基準として採用することを否定している。この、被疑者・被告人の人権侵害や強引な捜査という問題が生じるのは、被告人の自白に関してだけではない。被害者の内心が主たる判断基準になると、捜査機関の目的は被害者から内心面の供述を得ることに集中する。内心面の供述は客観性が示されるような種類のものではなく、被害者以外の者がその是非を問うことはできないから(20)、たとえ虚偽の供述であっても、被害者の供述は、他の証拠に優越する絶対的な証拠として位置づけられることになるのだ。つまり、被害者の内心面が判決における主たる判断基準になると、被害者の供述は、それが真実の供述であるかどうかを判断されることなく、ほぼ無条件に採用され、被告人は有罪が決定するわけである。これは、被告人の人権を不当に侵害しているといわれても反論できないであろう。
 「推定無罪」の原則は、被告人が無罪であるとの前提から検討を加え、検察官が被告人の有罪が合理的な疑いを容れない程度に立証されたと言えるときに初めて有罪とされるというものであった。被害者の畏怖の程度や意志を主たる判断基準とすると、被害者の内心面での供述が提出された段階で、有罪は決定することになる。被告人は無罪であるとの前提は、内心面の供述がある限り無効になる。内心面を判断基準とする論理と、「推定無罪」の原則は対立するわけだ。現行法では、「推定無罪」の原則は揺るぎない原則となっていることから、強姦罪において被害者の意志や畏怖の程度の判断を中心に据えた裁判は、被疑者・被告人の人権保護の立場をとる刑事司法システムにはそぐわないといわざるを得ない。
 もう一つの原則、「疑わしきは被告人の利益に」の原則についても考えてみよう。被害者が精神的に抵抗ができない状態あったときの性交を、被害者は強姦ととらえ、被疑者・被告人は和姦ととらえたとする(もしくは、刑を逃れるためにそう主張したとする)。ここで問題となるのは、双方の行為の合意に関する認識であるが、内面的な認識が食い違った場合、被害者の供述の証明力を客観的に証明できない限り、「疑わしきは被告人の利益に」の原則に則らざるを得ない。性犯罪の女性被害者の主張にとって足かせになっているのは、この被疑者・被告人の保護中心主義なのである。

(3) 強姦の範囲を性交に限定している点

 現在の強姦罪における違法行為の範囲は、性交、つまり男性器の挿入の有無によって線引きされている。しかし、加害者の性的行為によって被害を受けたと感じるならば、被害者にとっては、紛れもない「被害」である。性器の挿入によって強姦か否かを区別するのは、男性器を挿入するという行為が、女性という男性の財産的価値を低下させるものとして、所有権を侵害する財産犯、男性の男性に対する犯罪と捉えられてきたことに起因しているのではないか。こうした理由により、強姦罪の行為の範囲を広げ、性的侵害行為として強姦罪を再構成しようとする主張がある(21)。
 たしかに、すべての性的自由・性的自己決定権を保護すべきとの主張は正論である。だからといって、前述したような性交の被害の重さ(妊娠の可能性)を無視することはできないのではないだろうか。中絶が合法化されれば、強姦罪における妊娠の問題が解決されると考える論者もいるが(22)、たとえ中絶が合法化され、強姦罪の被害者に関しては中絶費用を公費で賄うとしたところで、中絶に至るまで(おそらくはその後も)の精神的苦痛は癒されないだろう。その責任を加害者に問う必要はないといえるだろうか。

3 刑事手続きに見る問題点

 次に、刑事手続き上の問題点を整理してみよう。刑事手続きは、前述したように、被疑者・被告人に有利に働き、被害者は蚊帳の外に置かれていたのであった。「女性の眼」で刑事手続きを見直そうとする論者は、刑事司法システムにおいて「女性被害者」が不利な状態に置かれるという問題を、被害者が「女性」故に問題が起こるのだとして、システムが男性中心主義であることを批判してきた。果たしてそうであろうか。「女性被害者」の問題は、「女性」故ではなく「被害者」故に起こるのではないのか。

(1) 告訴に関する問題点

 強姦罪は親告罪であり、被害者の告訴がなければ公訴の提起は行われない(23)。したがって、告訴がない、若しくは告訴を取り下げた場合、強姦事件として捜査はなされても不起訴処分に終わってしまうのである。告訴に関しては、問題点が二点指摘されている。まず、告訴期間が6ヶ月と短いことである(24)。刑事訴訟法第235条では、「親告罪の告訴は、犯人を知った日から六箇月を経過したときは、これをすることができない。」として、全ての親告罪において告訴期間は6ヶ月であると定めている。強姦の被害者が被害のショックから立ち直れず、逡巡している間に、6ヶ月という告訴期間を過ぎる可能性は充分考えられる。結果、加害者が野放しにされ、再犯の虞を免れ得ないのだ。
 親告罪における告訴期間の設定は、時間の経過と共に証拠は散逸し、防禦上の不利益が生じることと、刑事司法権の発動を私人の意思にかからせて、被疑者の地位をいつまでも不安定な状態におくことは望ましくなく、被疑者の人権保障上問題があるという理由による。しかし、6ヶ月という短期間に限定しなければならないほど、被疑者の地位の安定を図るべきなのか否かという指摘がされており、現行の被疑者・被告人の人権保護を目的にした刑事司法のあり方が、現在問われている(25)。人権上の問題は公訴時効(刑事訴訟法第250条[公訴時効期間])の制度において解決可能であり、親告罪にのみ公訴時効期間を大きく下回る期間の経過をもって告訴権の消滅を認めるのは合理的ではないと思われる。
 段林和江は、「告訴期間の制限をなくしたとしても、実際には告訴がなければ捜査すら始まらないのであるから、刑事司法権の発動を不安定な状態にするという弊害がそれほど大きいものとは思えない。」(26)として、強姦罪における告訴期間の制限の廃止を主張するが、親告罪にあっては告訴は訴追要件であって、捜査は被害の届け出によって開始され告訴がなくとも捜査は進展するのだから、この主張は誤りである。
 強姦罪における告訴期間の設定に関する問題は、被害者が逡巡している間に告訴期間が経過する虞があるというものであった。この問題は、強姦罪(および強制わいせつ罪)に限定されるものだろうか。たしかに強姦被害者の事件によるショックは、他の事件の被害に比べて大きいかもしれない。しかし、強姦被害者のみを保護すべき理由はあるのだろうか。告訴期間の存在そのものが、疑問視されている現在にあって、強姦罪における告訴期間の問題は、「強姦罪における」告訴期間の制限にあるのではなく、刑事訴訟法上の告訴期間の制限そのものにあるというべきであろう。つまり、被疑者・被告人保護のシステムの性質に問題があるということである。
 告訴に関する第二の問題点は、被害申告をしたものの、告訴の取り下げを警察官や検察官から促されることがあるということである。公判での二次被害やプライバシーの侵害を理由に告訴の取り下げを促されたり、被害者の落ち度を問題として取り下げさせることもあるという(27)。ここでは、親告罪における告訴は、本来はプライバシーの侵害から被害者の人権を保護するために規定されているにもかかわらず、その目的を超えて、女性被害者を刑事手続きから疎外する方向に働くということが問題となっている。告訴そのものの作用というよりも、落ち度論や二次被害、プライバシーの侵害といった刑事手続きに潜む問題を、それらを作り出した当人である司法関係者が改善するどころか利用して、女性被害者に加害者を訴えさせない状況を作り出しているというわけである。
 刑事司法システムは被害者疎外のシステムである。公判において被告人側から被害者の落ち度や証拠不足を指摘される虞のある事件、司法関係者が公判維持が困難と考える事件については、捜査・起訴を見送る可能性が出てくる。何故ならば、検察官が積極的に被告人の有罪性を証明できない限り、被告人は無罪になる可能性が大きいからである。無罪となれば、憲法第40条に規定されているとおり、国に被告人に対する補償責任が生じる。その負担を解消する上でも、公判維持が不可能と思われる事件については、事前にふるい分けをすることとなるのである。このことは、強姦罪だけではなく、全ての事件において起こりうることである。

(2) 二次被害

 二次被害とは、捜査・公判、あるいはマスコミの取材や報道によって、被害者が更なる精神的被害を受けることをいう。強姦罪においては、この二次被害を非常に強く受けるといわれている。被害届を受理する警察官の多くは男性で、強姦の被害に遭った女性は、恐怖感や加害者の像が相手の男性警察官とだぶって、恐ろしくなることが多い。被害状況を思い出し、自分の口から語ることは、いわば被害をもう一度なぞることであり、思い出したくもない被害事実をもう一度顕わにさせる。事情聴取にあっては、録取された供述調書は警察官による読み聞かせ、あるいは被害者自身による閲覧が必要であるから、文面で被害を確認することにもなる。思い出したくもないことを何度も聞かれた上、文面で確認させられ、その文面が証拠として捜査員をはじめとして、司法関係者に読まれる訳である。また、検証や実況見分時には、事件の再現をさせられ、証拠写真を撮る必要が出てくる。身体に事件によってできた傷があれば、証拠として写真撮影を要求されるし、病院の診断書が必要なときもある。これらの被害者に課せられる行為は、被害者にとっては屈辱的なものと映ってもなんら不思議はない。そして、警察捜査段階のみならず、検察官からも同様の供述を要求され、公判においては、公開の法廷で被害を証言しなければならない場合もある。被害者は、司法関係者から自分がどう見られているのかを常に気にし、落ち度を指摘されれば自責の念がわき起こり、被害者としての当然の権利を主張できなくなることが容易に推測される。
 しかし、これらの二次被害の問題は、あらゆる事件について起こりうることであった。既に見たように、捜査機関は証拠の証明力の確保に全力を傾け、その際に被害者に負担がかかってもやむを得ないと考えている。その結果立ち現れてきたのが、二次被害の問題であった。性犯罪において被害者が二次被害を強く受けるといわれる理由として、被害者が「女性だから」なのか、被害が「性に関係するものだから」なのかが、まだ明確に論じられていないことも問題であろう(28)。

(3) 被害者の落ち度が問題とされる

 強姦罪においては、「被害女性が裁かれる」といわれるほど、被害者の落ち度が問題にされる(29)。例えば、若い女性が、ミニスカートにタンクトップを着て、一人で夜道を歩いていたとしよう。この女性が性犯罪の被害に遭った場合、まず言われるのが「女性被害者自身が挑発するような服装をしていた」、「夜間の一人歩きは、襲ってくれと言っているようなものだ」といった、いわば被害責任を被害者に転嫁させる言葉であり、「本当に嫌だったら、命を懸けてでも抵抗すべきだった。そこまで抵抗しなかったのは、自分もその行為に同意していたからではないのか」と、積極的な抵抗をしなかったことを責められもする。何故被害者が、その被害責任を負わなくてはいけないのか。落ち度を責められなければならないのか。夜道を挑発するような服装で歩いていたとしても、それは強姦して下さいという意味ではない。落ち度論は、加害者の強姦という行為が、まるで、被害者によって引き起こされた不可抗力であるかのように、責任転嫁がなされる。そして、落ち度論は日常生活のみならず、刑事司法にも蔓延しているように見受けられる。例えば、まだ記憶に新しい、平成7年9月に発生した沖縄の「駐軍米国軍人3名による小学生少女に対する強姦致傷等事件」において判決は、「被害者に格段落ち度はない」として、被害者の落ち度のなさを評価しているのだ(30)。
 落ち度論が被告人の有罪性や量刑に関係してくるのは、判決に被害者の事情を盛り込む際、これらが最も明白で客観的な指標となるからであろう。被告人の行為のみをとらえれば、量刑に差は生じにくい。事件の悪性に応じた判決を下すには、被告人の内心のみならず、被害者の事情が必要となってくる。強姦罪の構成要件のところで述べたように、
被害者疎外の刑事司法システムには、被害者の内面を取り上げるような被害者寄りの姿勢はないから、いきおい客観的に明示できる指標に頼らざるを得ない。被告人の悪性証明のために、被害者の落ち度の無さを強調しようとするわけである。
 検察官は挙証責任を負っているので、被疑者が犯罪を行ったこと及びその悪性を、積極的に証明せねばならない。悪性を証明するには、被害者に落ち度がないことを証明するのが一番なので、捜査・公判を通して、被害者に落ち度がないことを、徹底して証明していくこととなる。このとき被告人側は裁判において刑を逃れようとするために、被害者の落ち度を論点とした防禦が行われる。憲法第37条にあるように、「刑事被告人は、すべての証人に対して審問の機会を十分に与へられ」ており、落ち度論を理由として審問も保障されているのである。本来は被告人の悪性を強調するために利用されていた被害者の落ち度の有無という問題が、今度は逆に、被告人が刑から逃れ又は量刑の軽減のために利用されてしまう。被害者疎外のシステムにおけるこの論理の転換こそが、落ち度論の最大の問題であるといえる。被害者の落ち度が問題になるのは、性被害に限ったことではなく、特に交通事故の裁判(業務上過失致傷罪)においては、死亡した被害者に責任転嫁されることが多いという(31)。
 ここで、被害者の自責の念ということにも触れておこう。「防犯」という概念がある。犯罪被害を未然に防ぐことを目的としているのだが、それが各人に内面化されると、「これだけ防犯に努めていれば犯罪被害に遭うはずがない」という確信や、万一犯罪被害に遭った場合は、「私が被害にあったのは私に落ち度があったからだ」という自己非難に変わる虞がある。積極的な防犯意識が転換されて、自己を責める方向へ向いてしまうわけだ。福島瑞穂は、「チカンが出ます」という立て札は、女性に自衛を求めているのみで加害者(およびその可能性のある人)に対する視点がなく、結果的に被害の原因を女性の自己防衛力の欠落に求めてしまうとして改善を求めているが(32)、これは、性犯罪に限ったことではない。小学校や幼稚園を中心に行われる「交通安全教室」や「誘拐防止教室」、全国防犯運動などは全て、事件発生の要因を被害者側に摘み取らせるためにあると言って良い。重ねて述べるが、性犯罪に限ったことではないのだ。
 
(4) プライバシーの侵害

 捜査・公判及びメディアを通じて、被害者のプライバシーが侵害されるという問題が指摘されている。憲法第37条及び第82条は、裁判の公開原則を定めており、裁判所が裁判官の全員一致で裁判を公開しないで行うことを決定した場合を除いては、公開裁判が原則である。裁判においては、被害者の供述調書(参考人調書)が証拠として採用される場合と、証人出廷が要求される場合とがある。前者にあっては、氏名は読み上げられるものの、被害者の露出は少ない。後者にあっては、多くの傍聴人の前で証言しなければならない。被告人の退廷が認められる場合もあるが、これは被告人の前で被告人に不利な証言をすることをためらう証人に対する配慮として理解されるべきであろう。
 氏名だけであれ、証人出廷を要求されたときであれ、被害者を特定できる情報が公になるのだから、程度の差はあれ、被害者のプライバシーは侵害される。何故、被害者のプライバシーが侵害されるのか。それは偏に被告人の人権保護のためである。公開裁判の意義は、被告人が公正さを担保された裁判を受けることを保障することにある。その反面、被害者の人権は考慮されないのだ。
 被害者の過去の性経験を、捜査・公判にわたって話さなければならないということも、重大なプライバシーの侵害である。角田由紀子は、性経験の有無が問われるのは、処女性を最重視し貞操保護を目的とする男性中心主義の現れであると指摘する(33)。性経験の問題は、「性経験がある女性ならば被害に遭っても被害は大したことはない」という論理により、被害者の性経験の有無が、量刑を左右するという危険性がある(34)。性経験の有無は、当該事件には関係ない。にもかかわらず、それが加害者の量刑を決定する要因となるのはどうしてなのか。
 落ち度論にも通ずる論理であるが、「性経験のない女性の方が経験のある女性より、被害に遭ったときの被害は大きいはずだ」という心情が転じて、性経験のある女性の被害を軽視することになったと考えられるのではないだろうか。本来は被告人の悪性を強調するために利用されていた被害者の性経験の有無が、逆に、被告人が刑から逃れ又は量刑を軽減させるために利用されてしまう。この、被害者疎外のシステムにおける論理の転換こそが、問題なのである。
 性経験の有無を問うのは、処女性を最重視し貞操保護を目的とする男性中心主義の現れであり、性経験を問われることを怖れて被害女性は告訴をためらい、そのことによって被害はますます潜在化すると、フェミニズム論者は指摘する。ならば、性経験を一切問わずに、該当行為のみに焦点を当てた裁判を望めばいいのだろうか。
 性経験の有無や年齢にかかわらず、全ての女性は性的自由・性的自己決定権を侵害されてはならない。正論である。しかし、性経験のない人が被害にあった場合と性経験のある人が被害にあった場合を比較して、性経験のない人の方がより「可哀相」だという感情を、全ての人が持たないと断言できるだろうか。また、子どもは精神的にも肉体的にも未熟で発達段階にあるために、子ども期に受けた性的虐待のショックやその後の人格形成に対する影響は、成人が被害に遭うのに比べて、大きいといわれている(35)。それにもかかわらず、年齢やその後の生活への影響を考慮することなく、加害者の行為のみを捉えて処罰することは、果たして妥当だといえるであろうか。被害者やその家族の感情を無視しているとはいえないだろうか。
 性経験を不問に付すことを要求する論者は、性的自由・性的自己決定権という、全ての者が平等に有している「権利」の侵害行為を、処罰の対象とすることを求めている。そこには、被害者の年齢や落ち度、性経験の有無などは関与しない。問われるのはあくまでも、「権利」を侵害したか否かという事実だけである。一見合理的に思える主張であるが、被害者の感情に目を向けてみると、ことはそう単純ではない。
 「権利」は平等であり、その侵害に対する処罰も同等であるが、個々人の被害者の感情は一様ではないのだ。被害者のショックの程度、加害者に対する応報感情などは、十人十色である。反面、「権利」の侵害にのみ焦点を当てた裁判では、平等な「権利」に対する平等な処罰が下される。被害者はそれで満足するであろうか。自分がどれほどまでにショックを受けたかを証明することができず、被害者感情を裁判に反映させることができなくても、平等な「権利」だから処罰も一律でもいいと思えるだろうか。「権利」は平等であったとしても、処罰としては、被害者の受けた精神的苦しみを含めた処罰が必要なのではないか。ただし、構成要件の項でも述べたように、現行法では、被害者の供述を主要な判断基準とすることは不可能である。被害者の供述が、全ての証拠に優越することとなり、被告人の人権が脅かされるからである。現行法の論理に則りながらも被害者感情を取り込むには、感情を測定できるであろう客観的な理由を提出する他はないであろう。この客観的な理由となるのが、被害者の年齢や性経験の有無、被害者の落ち度のなさといった、論理の転換が起これば逆に被害者を苦しめる結果となりかねない、被害者側の事情なのである。

おわりに 

 以上、刑法及び刑事手続きに関する「女性被害者」の問題について検討を加えてきた。フェミニズムの主張を整理すると、強姦罪の背景には女性を男性の所有物とみなす思想が存在すること、刑法は女性被害者の言い分を取り上げる姿勢に欠けること、刑事手続きは女性被害者に常に不利に働くということに大別できるだろう。
 強姦罪の背景に関して指摘された、強姦罪の客体が女性に限られること、強姦の範囲を性交に限定している点という刑法上の問題は、フェミニズムの主張を取り入れることで、逆に、被害者の心情を害するおそれがあることが明らかとなった。強姦行為を女性に対する性交に限定しているのは、女性の妊娠可能性という問題をも含めて処罰に盛り込んでいるからであって、妊娠可能性の問題を強姦罪から排除してしまうと、強姦行為の結果責任を加害者は問われず、被害者の応報感情は満足されない。また刑事手続き上、被害者の落ち度や性経験が問われるのも、事件の悪性を示そうとする結果によるものであって、被疑者・被告人の人権保護の観点に立つ現行法の中で被害者感情を客観的に示そうとすれば、被害者の落ち度の無さや性経験の無さを持ち出すしかない。
 刑事司法システムが「被害者疎外」のシステムである故に現出する問題もあった。告訴に関わる問題、二次被害の問題、プライバシーの保護の問題、落ち度論は、性被害のみならず、現行の刑事手続き上避けられない問題であった。刑事手続きは、「女性」被害者のみならず、「被害者」全てに不利に働くのである。また、強姦罪の規定で、被害者の意志や畏怖の程度が不問に付される点については、被疑者・被告人の人権保護という観点に立っている刑事手続きにあっては、被害者の内心面の供述を主たる判断基準にすることは許されないから、内心を客観的に判断する基準として暴行・脅迫の有無を問うことによって、間接的に同意の有無を確認するものであった。刑法において被害者は、行為主体の処罰を通じて一定の利益を保護されるという、あくまでも受動的な立場にある。
 フェミニズムが「女性の眼」によって指摘する性犯罪裁判における問題点は、刑事司法システムが、男性中心主義の価値観に依っているのではなく、「被害者疎外」のシステムであること、及び、女性の「権利」一般を保障するよりも個々の被害者の広い意味での「被害」を個別に扱おうとする刑事司法の姿勢によって、現出してきたものであるといえるのではないだろうか。
 フェミニズムは、女性被害者の一律的な権利の保障を求めている。しかし、刑事手続き上の女性被害者の不利をなくすべく議論をすれば、そこからは被害者感情が抜け落ちていく。被害者の感情に沿うべく、落ち度の無さや性経験の無さを持ち出せば、今度はそれが逆転して、被告人が被害者の落ち度や性経験を問う結果となる。どちらに転んでも女性被害者が不利な立場に置かれるのは、刑事司法システムが「被害者疎外」のシステムだからにほかならないのである。

(1)「男性中心社会の価値観をそのまま反映した法体系は、サバイバーの味方とはいえない。むしろサバイバーに対して言説の暴力を加える場合が多く、彼女は何重にも傷を受ける可能性が高い。日本においても法体系の男性中心主義は、法的手段に訴えようとしたサバイバーたちを苦しめている。」大越愛子『フェミニズム入門』筑摩書房 1996 p195
(2)刑事司法システムにおける被害者の地位や扱われ方についての詳細は、宮澤浩一・田口守一・高橋則夫編『犯罪被害者の研究』成文堂 1996、『現代のエスプリ』336号 至文堂 1995、『法律のひろば』第50巻第3号 ぎょうせい 1997 等を参照。
(3)土本武司「捜査」渥美東洋編『刑事訴訟法』青林書院 1996 p49
(4)刑法の機能として、保護的機能と保障的機能の二者を挙げる論者もいる。浅田和茂「刑法の意義とその基本原則」浅田和茂・斉藤豊治・佐久間修・松宮孝明・山中敬一『刑法総論〔改訂版〕』青林書院 1997 p4
(5)「警察官が、盗難事件について狂言ではないかと疑い、頭から言い分を真面目に聞こうとしなかったのは、悔しい。絶対に許せない。」(事件不明。60代女性。)比嘉康光・宮崎英生「身体犯被害者の実態」宮澤浩一・田口守一・高橋則夫編『犯罪被害者の研究』成文堂 1996 p279
(6)1994年6月に発生した「松本サリン事件」で、被害者である河野義行氏が犯人扱いされたことは、その典型例である。
(7)落ち度については特に被害者が死亡している場合、被害者に責任転嫁される場合が多い。中でも、交通事故による業務上過失致死事件については、被害者側は不当に扱われていると強く感じている。
 佐藤光房『遺された親たち』T−W あすなろ社 1992−1996 は、交通事故(業務上過失致死事件)の被害者がいかに蔑ろにされているかを物語る。
(8)以上の具体例については、諸澤英道「犯罪被害者対策の現状と課題」『法律のひろば』第50巻第3号 ぎょうせい 1997、宮澤浩一・田口守一・高橋則夫編『犯罪被害者の研究』成文堂 1996、『現代のエスプリ』336号 至文堂 1995  を参照。
(9)辰野文理「2次的被害の認識」宮澤浩一・田口守一・高橋則夫編『犯罪被害者の研究』成文堂 1996 p67
(10)田口守一「被害者の地位」松尾浩也・鈴木茂嗣編『刑事訴訟法を学ぶ〔新版〕』有斐閣 1993 pp117−118
(11)「刑事事件において『犯罪の証明がある』とは『高度の蓋然性』が認められる場合をいい、それは、反対事実の存在の可能性を許さないほどの確実性を志向した上での『犯罪の証明は十分』であるという確信的な判断に基づくものでなければならない。」(最高昭48.12.13)『註解 受験六法』警察時報社 1995 p372
(12)最判昭和24.5.10 団藤重光・井上正仁・佐々木史朗・高橋則夫・関哲夫編『判例体系〔第二期版〕刑法』第一法規出版 p4475
(13)金城清子『法女性学−その構築と課題〔第2版〕』日本評論社 1996 pp271-272 及び『法女性学のすすめ〔第4版〕』有斐閣 1997 pp205-207
(14)ドウォーキン,アンドレア 寺沢みずほ訳『インターコース』青土社 1998 p273(Dworkin,Andrea Intercourse)
(15)中村勉は、強姦罪の客体が女性に限定されることの根拠を示しながらも、性転換手術の実現によって、客体の限定は意味を失う可能性があることを示唆している。中村勉『刑法各論要義T』北樹出版 1998 pp382−383
(16)議論の一部を紹介する。金城清子は、「男性の女性に対する強姦は、妊娠という重大な結果を引き起こすということは、人工妊娠中絶という手段の存在する今日、異なった取り扱いの根拠としては、疑わしいものとなってきている。」(金城清子『法女性学−その構築と課題〔第2版〕』日本評論社 1996 p271)と主張するが、私自身はこの主張に合意できない。たとえ中絶が合法化されたとしても、中絶は当事者にとって多大な精神的・肉体的ダメージを与えるものであり、「結果として」中絶させた責任を、加害者が問われないのはかえって男性中心主義的な考え方であると思う。その責任は、加害者にある。妊娠や中絶に伴う苦痛(妊娠事実のみならず、「妊娠するかもしれない」といった事前の不安も含まれよう)をも、強姦行為に含めて考えるべきではないか。
 また、強姦の結果としての妊娠中絶の責任については、井上達夫が「たとえば強姦された『母』が堕胎した場合、『父』がそれに対して(強姦に対する処罰とは独立に)処罰され、『母』は免責されるというような措置が支持可能か否か、真剣な考慮に値しよう。」(井上達夫「人間・生命・倫理」『生殖技術とジェンダー フェミニズムの主張3』勁草書房 1996 p24)と述べ、強姦行為における中絶の問題(おそらく、妊娠の可能性の問題をも含むだろう)を強姦罪と切り離した上で、強姦罪とは別に加害者に責任を負わせることが出来るかという問題提起を行っている。
(17)金城清子『法女性学−その構築と課題〔第2版〕』日本評論社 1996 p272、段林和江「強姦罪の問題点」渡辺和子編『女性・暴力・人権』学陽書房 1994 pp218-221、角田由紀子『性の法律学』有斐閣 1991 pp20-27、福島瑞穂「性は日本でどう裁かれてきたか」加藤秀一・坂本佳鶴恵・瀬地山角編『フェミニズム・コレクションU 性・身体・母性』勁草書房 1993 pp22-31、福島瑞穂『裁判の女性学』有斐閣 1997 pp242-260
(18)広島高判昭和53.11.20 団藤重光・井上正仁・佐々木史朗・高橋則夫・関哲夫編『判例体系〔第二期版〕刑法』第一法規出版  pp4481−4483、福島瑞穂「性は日本でどう裁かれてきたか」加藤秀一・坂本佳鶴恵・瀬地山角編『フェミニズム・コレクションU 性・身体・母性』勁草書房 1993 pp25-26には判決の概要がまとめられている。
(19)「程度を問わないとする説もあるが、ごく軽度な暴行で足りることになると、被害者の真意に反したかどうかという内面的事情のみが犯罪の正否の標準となりかねず、やはり妥当ではあるまい。ただし、暴行・脅迫が被害者の反抗を著しく困難ならしめる程度のものであるかどうかは、被害者の年齢、精神状態、行為の場所、時間等諸般の事情を考慮して、社会通念に従って客観的に判断されなければならないものであるから、具体的状況によっては、通常の場合より軽度の暴行・脅迫で足りる場合があることは当然である。」
亀山継夫「第177条〔強姦罪〕」大塚仁・河上和雄・佐藤文哉編『大コンメンタール刑法第7巻〔第174条〜第198条〕』青林書院 1991 p69
(20)「怖くて声も出ませんでした。」という被害者の供述に対して、「いや、それはおかしい。それほど怖くはなかったはずです。」と反論することに、何の意味があるだろうか。他人の感情を測ることはできないのである。
(21)金城清子『法女性学−その構築と課題〔第2版〕』日本評論社 1996 p272
同様の主張としては、加藤秀一が、「客観的に観察できる行動、たとえばペニスの挿入の有無によって強姦と痴漢行為とを区別するような考え方は、二次的なもの、場合によっては積極的に排除されるものになるだろう。挿入があろうがあるまいが、加害者=男性が射精しようがしまいが、被害者が相手の行為によって傷つけられたと感じるならば、それは紛れもなく性暴力なのである。性暴力を定義する権能そのものを、男根から奪わなければならない。」(加藤秀一「解説〈女〉という迷路」加藤秀一・坂本佳鶴恵・瀬地山角編『フェミニズム・コレクションU 性・身体・母性』勁草書房 1993 pp376−377)と述べ、強姦罪(性的侵害行為)の再構成を提唱している。
(22)金城清子『法女性学−その構築と課題〔第2版〕』日本評論社 1996 p271
(23)強姦罪は刑法のなかで、親告罪であると定められているから(刑法第180条[親告罪])、告訴にかかわる問題は、刑法上の問題でもある。しかし、ここに提起されているのは、刑事訴訟法上の告訴の問題(告訴期間)と刑事手続きの段階で司法関係者から告訴の取り下げを勧められるという問題なので、刑事手続き上の問題として分類した。
(24)段林和江「強姦罪の問題点」渡辺和子編『女性・暴力・人権』学陽書房 1994 pp224-225
(25)ア秀雄「第235条〔告訴期間〕」藤永孝治・河上和雄・中山善房編『大コンメンタール 刑事訴訟法 第三巻〔第189条〜第246条〕』青林書院 1996 pp681−683
(26)段林和江「強姦罪の問題点」渡辺和子編『女性・暴力・人権』学陽書房 1994 p225
(27)「被害者が折角告訴しても、その後に告訴を取消すことが多いという問題がある。(略)示談が成立しているケースもあるだろうが、ここでも被害者が告訴はしたけれども、告訴を維持する上で様々な犠牲が大きく、そのため取り消してしまうのではないかということがうかがえる。また、検察官が被害者に過失があると考えているケースの方が、告訴の取消が多いとの調査もある。検察官の判断が被害者への態度にも反映し、告訴の取消に影響を与えているのではないかと考える。」段林和江「強姦被害者の人権と刑事手続」『法学セミナー』430号 日本評論社 1990 p43
(28)福島瑞穂「性は日本でどう裁かれてきたか」加藤秀一・坂本佳鶴恵・瀬地山角編『フェミニズム・コレクションU 性・身体・母性』勁草書房 1993は、表題を「性」としながらも、該論文のテーマは「女性の性」である。福島の中にも、性犯罪の特殊性は、被害が「性に関係するものだから」なのか、被害者が「女性だから」なのか、峻別しかねているように見受けられる。
(29)福島瑞穂「性は日本でどう裁かれてきたか」加藤秀一・坂本佳鶴恵・瀬地山角編『フェミニズム・コレクションU 性・身体・母性』勁草書房 1993 pp27-31、福島瑞穂『裁判の女性学』有斐閣 1997 pp260-271、角田由紀子『性の法律学』有斐閣 1991 pp31-33
(30)「被害者は、学校から一旦帰宅した後、翌日の授業に必要なノートがないことに気付いたため自宅近くの文房具店に買いに行き、帰宅途中にいきなり被告人らに襲われたものであって、被害者に格段落ち度はないというべきである。それにもかかわらず、被害者は、前記のような辱めを受けたものであって、被害者が当時未だ12歳の小学6年生であることをも併せ考慮すると、被害者の被った精神的、肉体的打撃は極めて大きいといわなければならない。」 団藤重光・井上正仁・佐々木史朗・高橋則夫・関哲夫編『判例体系〔第二期版〕刑法』第一法規出版 p 4509の8
(31)「加害者側の被害者に対する『責任転嫁』ないし『責任逃れ』の言動が、多くのケースで見られ、被害者およびその家族を、特に精神的に苦しめている事実がある。その傾向は、加害者が刑事裁判にかけられた場合に顕著である。多くの加害者は、裁判において、刑を逃れようとして被害者の落ち度を問題にする。刑を逃れたい気持ちは、人間だれにでもあることで、単純に非難できないし、そもそも加害者には法律上、法廷での防禦権が認められているので、そのような言動を簡単に禁止することもできない。」 諸澤英道「犯罪被害者対策の現状と課題」『法律のひろば』第50巻第3号 ぎょうせい 1997 P9 
交通事故裁判については 佐藤光房『遺された親たち』T−W あすなろ社 1992−1996  を参照。
(32)福島瑞穂「性は日本でどう裁かれてきたか」加藤秀一・坂本佳鶴恵・瀬地山角編『フェミニズム・コレクションU 性・身体・母性』勁草書房 1993 pp15-16
(33)角田由紀子『性の法律学』有斐閣 1991 pp29-30
(34)「被害者は、年齢三十歳余にて、情交の有経験者たりしこと」を理由の一つとして、執行猶予を附すことを要求した上告例がある。福島瑞穂「性は日本でどう裁かれてきたか」加藤秀一・坂本佳鶴恵・瀬地山角編『フェミニズム・コレクションU 性・身体・母性』勁草書房 1993 p28
(35)小西聖子『犯罪被害者の心の傷』白水社 1996  参照。

参考文献

浅田和茂・斉藤豊治・佐久間修・松宮孝明・山中敬一『刑法総論〔改訂版〕』青林書院  1997
渥美東洋編『刑事訴訟法』青林書院 1996 
江原由美子編『生殖技術とジェンダー フェミニズムの主張3』勁草書房 1996
大越愛子『フェミニズム入門』筑摩書房 1996
大塚仁・河上和雄・佐藤文哉編『大コンメンタール刑法 第7巻〔第174条〜第198 条〕』青林書院 1991
加藤秀一・坂本佳鶴恵・瀬地山角編『フェミニズム・コレクションU 性・身体・母性』 勁草書房 1993
河上和雄・國松孝次・香城敏麿・田宮裕編『講座 日本の警察 第一巻〔警察総論〕』 立花書房 1993
金城清子『法女性学−その構築と課題〔第2版〕』日本評論社 1996
金城清子『法女性学のすすめ〔第4版〕』有斐閣 1997
小西聖子『犯罪被害者の心の傷』白水社 1996
佐藤光房『遺された親たち』T−W あすなろ社 1992−1996
園田寿・井田良・加藤克佳『刑事法講義ノート〔第2版〕』慶応義塾大学出版会 1996
高田卓爾・鈴木茂嗣編『新・判例コンメンタール刑事訴訟法4』三省堂 1995
団藤重光・井上正仁・佐々木史朗・高橋則夫・関哲夫編『判例体系〔第二期版〕刑法』 第一法規出版 
角田由紀子『性の法律学』有斐閣 1991
ドウォーキン,アンドレア 寺沢みずほ訳『インターコース』青土社 1998 (Dworkin, Andrea  Intercourse ) 
中村勉『刑法各論要義T』北樹出版 1998
福島瑞穂『裁判の女性学』有斐閣 1997
藤永幸治・河上和雄・中山善房編『大コンメンタール 刑事訴訟法 第3巻〔第189条〜第246条〕』 青林書院 1996 
松尾浩也・鈴木茂嗣編『刑事訴訟法を学ぶ〔新版〕』有斐閣 1993
宮澤浩一・田口守一・高橋則夫編『犯罪被害者の研究』成文堂 1996
宮澤浩一・藤本哲也・加藤久雄編『犯罪学』青林書院 1995
山下泰子・戒能民江・神尾真智子・植野妙実子『法女性学への招待』有斐閣 1996
渡辺和子編『女性・暴力・人権』学陽書房 1994  

『現代のエスプリ』336号 至文堂 1995
『註解 受験六法』警察時報社 1995
『法学セミナー』430号 日本評論社 1990 
『法律のひろば』第50巻第3号 ぎょうせい 1997   

現代文明学研究に戻る